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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

角田光代と夏目漱石を比較して、文学を考える

 本をぶん投げたくなる気持ちを抑えて角田光代の小説を読んでいた。角田光代とか、平野啓一郎とか、中村文則、綿矢りさなどは、僕と同じような環境で生まれ育ったはずであり、上に下に世代間ギャップがあるとしても大した差はないはずである。にも関わらず、彼らの作品を読むと、僕はいつも孤独を感じてきた。まるで違う他人が全く僕には関係のない事を目標に生きているような気がして、自分とはまるで違うのだという感じを常に味わった。

 こんな事を言うと、権威主義だと言われるかも知れないが(不思議に、権威主義と相手を批判する人間は大抵その人が権威主義である)、僕にはソフォクレスとかセルバンテスの方がまだ同感できる。もちろん、翻訳とか時代とか、環境の違いはあるが、それにも関わらず、そこにある種の親しみを覚える。それは自分の中で謎としてあったのだが、これから先も謎として有り続けるだろう。中原中也の詩に、世間は遠くの方であらくれていた、といった詩行があったが、そんな気持ちがする。みんながはしゃいでる飲み会で一人でポツンと酒を飲んでいる感じ。あるいは表面的にはみんなと楽しく飲んでいるが、心はどこか別にあるという感じ。

 自分の話をするなら、高校二年生の時に、くじで当たってしまい、卒業式に出た事があった。卒業式は三年生のものなので、二年生は出なくていいのだが、何かの関係で二人出なくてはならない。僕は慎重に、極めて慎重にくじを選び、当たりたくない一心でくじを引いたら、見事当たってしまい、みんなに大笑いされた。それで、クラスメイトの女子と一緒に卒業式に出席した。

 やる気のない学生だったので、卒業式の間、隠れて文庫本を読んでいた。村上春樹の「ハードボイルド・ワンダーランド」だったと記憶している。前の方では式が進行している。僕は隠れて本を読んでいる。しばらくすると、隣の女子に怒られた。女子は真面目なタイプの学生ではなかったけれど、さすがに僕の行動を見咎めたのだろう。僕はやむなく本を閉じた。

 自分の人生はそのようなものだと自分でもよくわかる。色々な事が、壇上で行われている。が、僕はいつも隠れて文庫本を読んでいる。馬鹿馬鹿しい限りである。馬鹿馬鹿しい人生である。しかし、人生そんなものだろう、という気もする。

 話を戻すならば、角田光代の小説というのは、つまらないと思う。しかし、角田光代のファンがいるというのは納得できる。おそろくは、二十代から四十代くらいの女性が主ではないか。現代に生きる中流の女性の姿がそこにはきちんと映し出されている、と言いたい所だが、多分、作者は映し出しているつもりはない。作者は、そういう女性を描いているのでもないし、自覚的にそういう生き方に価値があると見ているわけではない。作者はおそらく主人公と同様に、現にそのように生き、それを描き、それに共感する人々がいるのだが、そこでは生を自覚したり、意識的に捉え直す視点がない。だが、そんなものなくてもいいではないか、別にただ生きているだけで構わないだろう、とすらも作者は抗議しないだろう。何故なら、生きているだけでいいではないか、小難しい話はどうでもいいではないか、という考えも突き詰めれば思想になるが、こうした問題を断固として突き詰めないのが、角田光代とか朝井リョウらの根っこにある思想だからだ。

 こうした事は、小説というものが一般化した状態として置き直せるだろう。夏目漱石の「三四郎」を読み返して、角田光代との大きな違いを感じた。角田光代も漱石と比べられたくはないだろうが、試しに比べてみる。

 「三四郎」という小説が、(漱石的には)未熟だとしても優れているのは、それが「象徴」になっているからだ、と考える。それぞれのキャラクター、三四郎とか美禰子とか、広田先生、野々宮などは、ただそう生きているだけではなく、西欧文明が日本に流入し、近代的な自我が現れ、自己主張が激しくなったから現れてきた人々だと理解できる。特に、美禰子という女性像はこれまでの日本にはなかったわけで、とりわけ漱石にとっては重要な存在だった。今の僕達にとっては漱石も鴎外も古典だが、江戸時代の社会秩序からすると、人間が主体的な存在として現れるという事は、新しいものだった。今や、恋愛はあまりにも当たり前、陳腐なものとなったが、当時の知識人・北村透谷にとっては人生を賭けた大事業だった。

 漱石のキャラクター設定の背後には常に文明論・社会論・歴史論があったし、そういうものを想定せざるを得なかった。そういうものを考えないとそもそも小説が成り立たなかったし、近代的自我が発育した社会でなければ、近代小説は作れない。それで当時の日本は非常に苦しんだが、その苦しみに、当時の日本の偉大さ・立派さがあった。しかし、今、小説というものを構成するにあたって漱石の苦しみは必要ない。一般化され、既知のものとなった。

 角田光代が小説を書くにあたって何があればいいか。自分の人生と、最近の日本の作家、後は小説を構成する技術があれば十分だろう。難しい事は考えなくても、小説は作れるし、共感する人は現れる。つまり、日本はかつてのように苦しまずとも済むような、成熟した社会となった。文学というものに、社会集団の運命が投げ込まれる苦しい期間は終わった。文学はただ、雑然と分化したそれぞれの人生を描くものとなった。だから、無数の小説があるという事は、この社会に無数の人がいて、無数の生き方があるという事と大して変わらない。それぞれに違う生はあるだろう。だから、小説がある、というように小説は書かれる。そこに共感する人々は、自分に似た人を小説内に見つける。象徴はない。社会は、僕らを生かす巨大なドーム状のものとなっていて、このドームは壊れないという前提がある。温かく柔らかく堅固な場所にいるのが前提の元、小説が作られる事が可能となった。その始まりは「よしもとばなな」ではないかと思う。このドームの中で、人は仕事に悩んだり恋愛したり旅に出たり、色々してみるのだ。それを僕らは生と呼んでいる。

 角田光代の小説では、小説内の人物はそのまま、僕達自身である。朝井リョウ「何者」の就活生はそのまま、今の就活生を写しているとも言える。しかし、なんとみすぼらしい人達であろう、なんとこじんまりとした人物であろうと言うと、それはそのまま僕達自身への批判となってしまう。我々はなんとこじんまりと生きているのだろう。

 ただ、このこじんまりさに開き直って、これが人生だというのであれば、それは立派な小説になりうる。生活の細々とした、つまらない事に全てを掛ける人生は、決して細々としたものではない。そこには自覚がある。人生はつまらないものだと信じて、そう生きる事と、ただ考えずに生きるのでは意味が違ってくる。この意味の違いを現在では認識するのが難しい。何故なら、僕達には比較する対象がないからだ。角田光代的世界観と比較するものがどこにもないから、実生活に根付いた小説は自然とそういう方向に走り、幻想的な小説もそこから色々なものを夢見るに留まる。そしてその全ては、僕達の共同認識を受けて、始めて意味を持つ。つまり、なんだかんだ言っても、我々大衆が認めるものにこそ価値があるという巨大な価値観があって、その中に我々の生はある。みすぼらしくても、みすぼらしいとも思う事すらできない我々の人生がある。

 ここに露悪的な中村文則を持ってきても、変わらない。中村文則はきっと、友人の結婚式でも楽しく酒を飲めるタイプの人であろう。就職活動と新人作家になる事を天秤にかけられる人であろう。ラスコーリニコフはドストエフスキーの分身だったが、中村文則の持ち出す悪人は、常識人の想像する悪人にすぎない。確かに、悪人は社会から弾かれている。我々は奇形を眺めるように犯罪者を眺める。自分が犯罪者になりうるとは考えない。悪についても、犯罪についても、考えない。お客さんの立場で弄びはするが。

 全てが揃った社会において、矮小化された我々の生、常識の範囲内において、芸術は作られるものになった。角田光代のように過不足のない作家を社会は生む事となった。そこに共感する読者も多数生む事となった。それは、近所の定食屋の雰囲気が良い事に満足できる世界であり、よく考えれば大した事であるが、それと比較する世界がないために僕らはそこに閉じ込められている。

 この世界にどうして誰も穴を開けないかと僕は訝しく思っていたが、そこに「神聖かまってちゃん」という野蛮人が現れ、小さな穴を開けて去った。今、僕はその穴から外部の世界を見ている。

 これは私事だ。話を戻す。漱石にとっては、人間を認識するにあたって、近代的な文学観と、当時現れていた近代的な人間が一致していた。彼はロンドンに行って、外部の目を持って、人間を見る目を得た。今、我々は自分を見る目を持たない。我々はただ自分を生きている。自分への懐疑、社会への懐疑は、すぐに社会への懐疑を社会に擁護してもらいたい、賛成してもらおうという姿勢に転じる。自分を疑う事はただ自分を疑うという姿勢に転じ、それが文学的であると信じる人へのアピールに変わる。我々にとってあらゆるものは、全て自分の手を逃れ去っている。今が悪い時代なのではない。おそらく、良い時代すぎるのだろう。しかし、葛藤も抵抗もない世界では、優れた文学は生まれにくいに違いない。

 確かに、小説というものは個人の人生を描くものだ。そういう意味では紫式部と角田光代、「こころ」と「異世界はスマートフォンとともに」も大した違いはない。あるのはただキャラクター設定、ストーリー構成、文体云々という事で話がつけば簡単だ。この簡単さが可能になったのが今の社会であり、僕が与したくないのはこの社会のそうした価値観であるから、人がそういう説教をしてきた所でこちらとしては御免こうむる。

 現状の文学においては、社会が文学を許容している。人々が、文学なるものを、自分達のために利用するかしないか、決める権利がある。文学者と呼ばれる人間の中には「文学は〇〇の役に立つ」と平気な顔で言っている人もいるが、それこそが、文学が完全に社会に敗北したという証左だろう。文学者の言うべき事は、文学が世界の役に立つのではなく、世界はどうやって文学の役に立つのか、という問いである。シェイクスピアは世界のあらゆる物事を自分の文学空間に叩き込んだ。その時、シェイクスピアは我々の常識に大して傲慢であったのか。我々の日常に大して虚無的であったのか。「ドン・キホーテ」や「源氏物語」のような長々した作品を倦まずに作り上げている作者は、現実世界に対して偉そうな態度を取ったのか。我々はそれに腹を立てるのか。もし、腹を立てるのであれば、どんな根拠からか。少しは世の中に役に立つ文学を作れと号令するのか。もっと、役立てるような、金を生むような作品を作れと命令するのか。これまでそうやって命令されてでてきた作品は、どんなにみすぼらしかったろう。そして、今、我々が無意識的に「自己のために」役立てようとする芸術作品がどうしてこうも貧しいのだろう。

 漱石においては、新たに現れた人間、社会を理解し、統御する過程として文学が必須の形式だった。我々は既知の世界にいるから、そこで、自分に親しみを持てる者、安堵できるものを探そうとする。小説というのは一般化したので、直木賞と芥川賞の違いはほぼない。「純粋な言葉を追う」と言いつつただ現実から逃亡する、あるいは逃亡する事を許されている場所にいる事を自覚しないという事に、そう言う作家の社会的立場がある。筋斗雲に乗ってどこまでも飛んでいけると信じている、仏の手に乗った孫悟空に似ている。

 常識的に考えるならば、世界の中に芸術があって、それを楽しんだり、嫌ったり、評価したりしなかったりというのが普通である。では、何故これが普通なのか。我々が生きている事が常に先行されているからだ。我々の生があって、その退屈を埋めるために、エンタメや芸術がある。

 文学もまたそれをなぞるから、生そのものに対して懐疑したりはしない。文学者になりたい人はできあがった文学という様式を疑わない。僕はだから、本当の文学者というのは全然文学者ではない、と思う。彼は極めて野性的な何者かであって、彼の表現がたまたま文学という様式を取ったにすぎない。だからこそ、そうした作品はそれとはほとんど無縁に見える人にも影響を与えられる。文学という様式にはまりこむのが愉しい人にとっては、世界をどう捉えるかは問題ではない。先に世界に捉えられた自分がいて(これは意識されない)、彼が「文学」を作れば十分である。

 漱石にとっては、世界はまだ生まれたばかりだった。それが彼の文学を生んだわけだが、むしろ、彼の文学がそういう世界を生んだ、と言った方が適当だろう。夏目漱石という存在が生まれるには、社会自体が変革するという苦痛が必要だった。断絶とか、相対的な変化が認識する「目」を与える。現在の社会では断絶はない。だから、物事を認識するのに必要な差異が生まれず、ただ我々はドームの内部にいて、互いに慰め合っているにすぎない。

 慰め合ったり、暇を埋める為の様々なものが開発されている内に、このドームは次第に衰亡してきた、というのが現在の状況であるように思われる。しかし、例えば、今、「作家」になりたければ、抑圧されていた自分を表現するよりも既にある新人賞に合わせていく方が良い。また、人々の価値観に適合していく事が個人にとっての成功には近い。

 現在、それらを越える文学はあるのか、という風に考えてみると、あるにはあるだろうか、そういうものは、仲間内の雰囲気なるものとは別なものになるという風に思う。困った事には、「仲間内」の雰囲気は、極めて巨大なものになっている。僕もそうだが、書く前から、もう人々の顔が見える。これを言ったら叩かれるだろうとか、これを言ったら評価されるだろうとか。問題はそのような自分自身の中にある人々をも同時に越えられるかという事にある。そして、その場所は自分という孤独に決まっている。自分の中の孤独を感じていない人に、芸術は作れないだろう。角田光代はおそらく、孤独ではないだろう。少なくとも、彼女の作品の孤独は孤独を知らない人の孤独であるように見える。では、孤独であるとはどんな感じか。それは、「自分は孤独だ」と言って他者が「そうだそうだ、自分も孤独だ」などと決して言えないような孤独である。つまり、語り得ないものとしての孤独である。

 その孤独が、自由を生むわけだが、そこからまた言葉は、社会に帰ってくるだろう。自由であろうとする事は、世界を捨て去る事を意味する。しかし、完全に世界を捨てる事はできないから、また魂は世界に還らなければならない。

 先に言っておいた世界に対する認識、文学を通じた社会認識ーーなどは、自由であろうとした魂に副産物的に生じた世界の映像であろう。世界と切り離された存在のみが世界を認識する。彼は見たものを報告するために、また世界に帰る。たとえ、聞く人が一人もいなくても彼は世界に帰る。いずれにしろ、自分が見たものは誰かに語らなければならないから。アルチュール・ランボーの詩のように、それは現象界に言葉として残るだろう。ただ、カントの「物自体」は永遠に物象化はできない。それを見た人は見た映像をただ魂の内にしまい込む。彼が見たものの意味、その価値について詮議できる者は、きっとこの地球には誰もいないだろう。あるいは、そういう人間がもしいたとしたら、彼はまた自分の内に語り得ない言葉が生まれるのを感じるだろう。詩人は詩人に相通じる。しかし、魂は、流通する言語でしか語れない。流通を見た人々は亜流の流派を様々に生み出す。が、いつの時代でも、詩人の魂は時代の上を飛翔している。

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