FC2ブログ

物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

ブコウスキーと西村賢太の違い


 ブコウスキーの本を図書館で借りて読んでいた。と言っても、もう返してしまったので、手元にテキストがない。なので、うろ覚えの印象だけで、ブコウスキーと西村賢太を比べようと思う。どちらも、無頼派作家という事では、外面的には似ている。

 さて、ブコウスキーという作家はどんな作家か。酒と女を愛して、その生活を赤裸々に描き出した作家と言えばわかりやすい。一見、そう見えるし、そういう外見から、終日飲んだくれていれば作家になれると妄想する人間も現れてくるが、ブコウスキーはそれとは違い、本物の作家と呼ぶ事ができる。では、ブコウスキーはどうして本物だと言えるのか。

 一見すると、西村賢太もブコウスキーに似ていると言えない事もない。ある程度年を取ってからデビューした事、底辺でのくすぶっている暮らしを私小説的に題材にしている事が似ている。しかし、それはあくまでも外面的な事にすぎない。僕は、ブコウスキーには「文学」を感じるが、西村賢太には「文学」を感じない、という印象から話を進めていく。

 そもそも、私小説とは何かという話から入る事にする。歴史的に私小説を考える事もできるが、こっちで考えた定義で話を進める。

 私小説というのは単に、「私」について書く事ではない。以前に、小説というのは「個人の生きている姿を描く事が社会的な意味を持つ」と定義してみたが、この場合、「私」について描く事が、社会的な意味を持っていなければならない。ただ「私」の垂れ流し、「私」の生きている様について話すのではなく、それが、他人にも意味を持つように語らなければならない、という事だ。

 だから、そこでは、経験よりも、経験を加工し、編集する作家の技術が必要となってくる。本物の作家というのはみんな、隠れた技術を持っているが、読者には、「作家というのは好き勝手にやっていていいなあ」と思わせておく、という事も頻繁にある。こういう場合、この手の読者は作家と作家の実生活をたやすく混同するが、そこに見えない技術を盛り込み、そこで語られているものに意味を見出していくのが作家の技術となる。

 この点からブコウスキーの作品を見るとどうか。確かに、作品には女と酒の事ばかり書いてある。(言い忘れたがブコウスキーは「詩人と女たち」、西村賢太は「苦役列車」をテキストに選ぶ) そして、実際に、ブコウスキーはそんな生活をしただろう。しかし、「詩人と女たち」という作品は、確かに作家が精魂傾けて書いた作品だと言える。それは最後の終わり方だけ見てもそうだが、その他の部分もそうだ。

 女と酒は、有名作家になったオジさんの主人公に次々に流れ込んでくる。主人公は詩人としては、女に溺れ、酒に溺れ、だらしない生活を送る。しかし、「詩人と女たち」を注意深く読むと、そこにある種の倫理性と諦念が流れている事に気づくだろう。それは、ブコウスキーならびに主人公が、人生というものを深く諦めているからこそ、そうしたものに生きざるを得ない、という感性である。つまり、ウマル・ハイヤーム的に、この世がろくでないものだとわかった暁には、酒でも飲んでいるしかないという感覚である。しかし、この世がろくでないものだと罵る事は政治性を帯びる為に、ブコウスキーはその言語を注意深く、作品から取り除いている。

 うろ覚えだが、こんなセリフがあったはずだ。
 「三杯目(の酒)を飲んだらどうなるんですか?」
  主人公はそれに答えて言う。
 「大差ないね。三杯目を飲んだら、四杯目に行く」

 他にも、いくつか主人公の諦念を示す文章があった。「恋は一度だけした」というような言葉もあったはずだ。つまり、女を抱くという行為には、もはや恋も愛もないし、詩人はいつかの日に何故か、恋とか愛とかを諦めたらしい。相手の女も自分を愛していないと知っていて、それでもかまわないと詩人は決めてかかっている。この手の諦念というのは、そう簡単に取り扱えるものではない。

 こうした諦念として、似ているタイプとして思い浮かんだのは、カート・ヴォネガットだ。ヴォネガットの人間への諦めっぷりは、戦争経験から来ているとわかるが、ブコウスキーの場合はどこから来たのか、調べていないのでわからない。ただ、こうした人間の諦念は、突き抜けると、滑稽さや笑いへと変わる。ブコウスキーは、有名作家になったのに女に罵られている滑稽な自分の分身を平気で描いている。どうしてそんな姿を描くのか、という所に作家の哲学があるが、ブコウスキーの場合、そんな哲学は真面目には語らない。ただ、人間そんなもんだという詩人の嘆息が聞こえてくるような気がする。

 さて、そうした存在がブコウスキーだとすると、西村賢太はどうなのだろう。西村賢太は、朝吹真理子と芥川賞W受賞した。朝吹真理子はいい所のお嬢さんで、西村賢太は底辺を這った中年作家で、出自は全く逆だが、それにも関わらず、作品は大して変わらないという印象を僕は抱いている。それは、西村賢太の作品が、「文学とはこういうものだろう」と頭で考えられて作られた優等生的なものにしか見えないからだ。つまり、どっちも優等生的に見える。

 谷内修三という人が、ブログで指摘しているが、西村賢太の小説は言葉でできている。作品の書き出しに「曩時」なんて誰も知らないような言葉を何故使うのだろうか。そうした疑問は文体全体に及んでいて、そこに生きた人間の姿がなく、言葉だけがある、と言うと、今の文学の世界では褒め言葉とも捉えられかねないが、褒めているわけではない。

 西村賢太がああした文体で描くのに何か必然性があるのか。作家としての、倫理、思想、哲学と関係があるのか。ブコウスキーの文体はブコウスキーの魂のパターンと一致しているし、一致させるのが作家の技術だろうが、西村賢太が「曩時」という言葉を使う時に、西村賢太の魂のフォルムが感じられない。言葉だけが宙に浮いて、文体が無理に屈折して、「文学」ではなく「文学的なもの」を作っているように見える。

 これは又吉直樹も共通だし、平野啓一郎の処女作もそうだが、意図的にそういう文体にしている事と、何故、そういう文体にしなければならないのかという事が、作者の精神によって抑えられていない為に、なんとなく「文学っぽい」作品を作る事にその努力の全てがある。平野啓一郎は、最初の難解な文体を離れて、途中から、通俗的な方向にシフトしたが、自分の文体に必然性がないからそれを捨てるのも簡単だし、人の望むような物語性の方に移行するのは当然の事に思える。

 中上健次ならば、底辺の人間を、土着的な自然に包み込んで描く事ができただろう。中上健次にはそういう「目」があった。中上健次は大きな作家ではないだろうが、少なくとも、人間を見る作家の目が、そのまま文体として表出している作家だった、とは言えると思う。

 しかし、西村賢太の小説が、朝吹真理子の小説と大差ないというのはどういう事なのだろうか。そこに、作家の個性的な努力、世界を見る目を磨こうという努力よりも、文学的なものを作ろうという努力しか感じられないというのはどういう事なのだろう。

 現代社会では、それぞれの人間が、底辺であろうと金持ちであろうと、何であろうと、似たようなステージに吸い込まれてしまうという問題がある。それは、テレビに、貧乏を売りにするタレントと、金持ちを売りにするタレントが同じように出てくる現象に似ている。どっちも個性らしきものを振り回すが、テレビに映って出てくると、同じに見える。

 西村賢太が底辺を生きたという事、朝吹真理子の育ちがいい事、それはただそれだけの事だ。問題はそれにどんな意味を与えるのか、それが何であるのかと自覚的に認識する事にある。

 ブコウスキーは、自分の生活を、酒と女に捧げる事に「決めた」が、その場合、その背後にあるものは見せないように決めた気がする。また、自分の情けない姿を晒す事に「決めた」ようにも見える。そして作家がそう決めた事は、ある種の倫理だが、その倫理は作品の背後にあり、表面には出てこない。だから、「詩人と女たち」を読んでも、ただの酔いどれスケベ親爺しか出てこない。

 西村賢太にブコウスキーのような倫理性は感じられない。だから、ただそれだけなのだと思ってしまう。そして、それは文学でも私小説でもない、という風に思う。自分というのは、どのような存在でもありうるが、実際の自分はそのような存在となってしまった、そのようにしか生きられなかった、という事に、その人の魂のパターンが生まれる機縁がある。

 人間は運命に翻弄される生き物であるが、運命に翻弄される事に自覚的に決めた人と、ただ運命に翻弄され、成功したり失敗したりした人とは、違う存在だ。そういう微妙な違いが、境遇の似ている二人の詩人を分割しているように思われる。

スポンサーサイト



該当の記事は見つかりませんでした。