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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

文学と文学でないもの




ブコウスキーの小説を図書館で借りてきて読んでいる。あんまり興味のなかった作家だけど、読んでみると面白い。

ブコウスキーの小説は、僕はある種のコメディとして読んでいる。くっだらねえ人生送ってやがんなあ、と読者に言わせれば、ブコウスキーの勝ちである。しかし、大抵はくだらない人生しか送れないし、くだらないのが人生だ。

井原西鶴を読んでも感じたが、ブコウスキーにしても、そこに人間の生活が書いてある。人間の実態というものが書いてある。しかし、同時に、その実態を少し離れた所から見ている。自分の観点からすればこの「少し離れた所から見る」のが「作家の認識」だという事になる。

普通の小説というものを読んでいて嫌になるのは、結局、そこに「誰々が何をした」という以上の事が書いていないという所にある。こう言うと「全ての小説がそうじゃないか」と言われるだろう。事実として表面に現れている点ではそうだが、もう少し深く考えていくと違うように思う。

文学とは人生そのものではなく、人生に対する認識だ、と以前に書いた事がある。これを現代の作家に当てはめると、大抵が、生活に固着している為に、認識とならない。というか、そもそも人生に対する認識というのが何かわからないままに、人生の内部に作者も埋め込まれている。そこで、作者から見られた他者、人生、現実が描かれていくのだが、それはただ、意外な事件を目撃したような位相でしか書かれていない。だから読んでいると、どんな突飛な事実、どんでん返しがあってもつまらなくしか感じない。

誰しもが人生というものを知っているような気がする。だから、小説も誰でも書けるような気がする。そこから、事実の集積としての小説が沢山出てくる。しかし、そこにあるのは、「誰々が何をした」という以上のものではない。もちろん、誰しもがそうやって生きているが、誰しもがそうやって生きていると感じる事と、誰しもがそうやって生きているという事実は違うはずだ。

例えば、「人生はくだらないものだ」と作者が「思う」事と、人生を実際に生きて、そういう認識に達した、というのは違う事だ。「人生はくだらないものだ」というものが思考の水準で行われているのなら、「そう思おうが思うまいが勝手である」という以上の事は言えない。だが、「人生はくだらないものだ」という認識から、人生を描く事のできる作家の認識というのは、決してくだらなくはない。彼は現実を知って、現実を越えようとした。現実の内部において思考しているのではなく、現実を越えようとして「認識」している。少なくとも、そうしようとしている。

こういうのは感覚なのでわかりにくいだろうが、個人的には、そういう認識がなければ文学とは呼べないと思っている。「文学的」とか「文体」の問題など、色々な事が言われるが、作家というのは、現実にしがみつきながらもそれを越えようとする存在である。

が、文学とか小説とかいうものも一般化した以上、また、現実の我々が、認識よりも具体的な知識とか共感性を求めるわけだから、そうした領域に現実そのものと一致した小説も沢山出てくる。そうした作品は自分の中では「文学」とは呼ばない。そうした作品は、むしろ、文学が描くべき「対象」であるように思う。角田光代は朝井リョウは、作品よりも作者の方が豊富なものを持っているだろう。何故なら、彼らが意識できない部分、彼らが描く事ができない部分に真実があって、それも含めて描くのが本当の作家だからである。そういう点で、真の作家は平凡な人間を描いても非凡な作品となり、平凡な作家は非凡な人間を描いても平凡になる。そこでは作家の認識が違っている。認識とは太陽のようなもので、それが当たると、例え塵でも、キラキラと光って見える。そんな風に思う。

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