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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

 お笑い芸人について



 「内村さまぁ~ず」という番組をずっと見ている。この番組は毎回、違うお笑い芸人がゲストとして登場する。で、番組をぼーと見ている内、なんとなく芸人がどんな風なコードを作っているのか、ぼんやりとイメージできる部分があった。

 「内村さまぁ~ず」という番組は、タイトルの通り、内村とさまぁ~ずの三人の力が大きい。三人共、ものすごく普通の、友達同士が喋っているような様子でやっているが、実際にはきちんと画面映えするとか、画面として持つようなものにする事ができている。

 そういう事は面白くない芸人が出てきた時に、如実に現れる。と言っても、面白くない芸人はそれはそれで構わないという所がある。狩野英孝、つぶやきシロー、出川、アンジャッシュ児島あたりは単体では辛いが、内村やさまぁ~ずが突っ込むと構図になる。その辺り、ふかわりょうなどもボケ役に徹すれば、十分芸人としてやっていけたはずだが、どこからか軌道をそれてしまったのかもしれない。

 天然キャラとかポンコツキャラというのは、本当にその人の資質としてあるように画面を見たら感じるが、結局、それが芸にならなければならない。芸になるとはフィクション化する事だ。例えば、本当に天然の人がいて、ところどころ、そういう要素を出す。するとそこに突っ込みが入るのだが、これに本気で切れていたら芸にもなんにもならない。そこで切れている演技をしつつ、切れられるような自分を容認しなければならない。ポンコツであると言われて怒る振りをしながら、そういう役割を演じなければならない。

 そう考えると、芸人は妙にかっこつけたり、高級に見せようとしたり、思い上がったりしたらピンチだという事になるだろう。これは天然とかポンコツでなくても、そうだと思う。笑いというのは低俗な所がある。お笑い芸人というのは人から馬鹿にされる所があるが、それと同時に物凄く人気が出る部分がある。つまりは浮ついた泡のような部分がある。これはお笑いを非難しているわけではない。ただ、お笑い芸人であれば、そういう、泡としての自分に誇りを持たなければならない。本来、誇りを持てないような事に対して誇りを持つというのが、芸人の哀しい部分であると共に、秘められた高貴な姿であるように思う。

 そういう意味では、その域に達しているのはやはりタモリ、さんま、くらいかなと思う。(たけしは映画監督になったので除外する)

 タモリで言うと、タモリは本来持っている力からすれば、もっと高級な事ができる。又吉直樹なんかより遥かに高い創造物も作れるだろう。その能力も資質もある。だが、タモリという人は、いいともに三十年以上出て、なんというか、「そういう人」に決めてしまった人に見える。「いいとも」を三十年やってもそれは泡のようなもので、なんでもないことだ、と一番知っていたのはタモリ本人だったように見える。でも、そういう泡でいいじゃないかと諦念込めて、そういう自分にしてしまった人がタモリに見える。タモリは「いいとも」の最終回でも、泣かなかったし、ふざけ通しだった。最後には少し真面目にスピーチした。それは感動的なもので、本来的には、タモリは一流の知識人になれたはずだ。でも、そういう部分を全部殺して「町のおじさん」を演じ続けるという事にタモリの美学があったように思える。

 だが、この笑いの美学は、僕のように生真面目に「美学」と言われた瞬間に消えてしまう哀しい泡のようなもので、また、そうなければならない。笑いは、真剣なものに僕らが出会った時に、それから目をそむける、優雅な動作に似ているーーと思う。真剣な、深刻な話が持ち上がった時に、ふと誰かが、空気を変える為にふざけた事を言う。回りの人間はそれに笑うか、怒りながら「ふざけた事を言うな」と思うのだが、実はふざけている人間が一番真剣である。その人間は全体の空気を察して、それを転換して、全体を良い方向へ持ってこうとしている。真剣にふざける事の美学は、その真剣さを相手に悟らせないようにするという技術にかかっている。

 そういう意味では微弱であるが、さまぁ~ずの大竹なんかにもそういう部分を感じる。大竹も、誰かが真面目な話をすると茶化そうとする姿勢がある。もちろん、大竹だって自分の中に色々真面目な部分はあるだろうが、それを隠す所に大竹の芸人としての秘密があるはずだ。

 あまり話を広げるつもりはないが、明石家さんまにももちろんそういう部分はある。さんまという人は、普段でもああなのだろうが、タモリとは違った意味で自分を決めてしまった人だ。お笑いを表面的にしか見ない人は(それは正しい見方だが)、明石家さんまやタモリを「そういう人」だと思うだろうが、彼らは人生のどこかで、「タモリ」「明石家さんま」という人物を自分で作って、それが自分なんだと決めてしまったように見える。そういう事は、行く所まで行ってしまっているので、人がどうこう言えるものではない。ただ、尊重するのみだ。

 …とお笑い芸人について薄く語ってみたが、最近の芸人は、ネタを振られた時だけネタをやって、番組にゲストとして呼ばれる事ぐらいしか考えていないように見える。お笑い芸人も詰まっている状態なので、なんとか奇抜なネタをやって一瞬だけでも大衆の興味を惹きつけようと努力している。こうした芸人から瞬間の連続は出てくるが、大きな芸人は出てこない気がする。

 もっとも、「お笑い」というのが、これまで(ジャニーズと共に)王者のような地位にあったのは、大衆の嗜好がそこにあったからだ。社会が変わり、大衆の方向性が変われば、色々変わってくる。「いいとも」終了、SMAP解散は安定した大衆文化が崩れた象徴と見ている。これからはもうお笑いの時代ではないのかもしれないが、それだからこそお笑いをやるのだという気概のある人がいれば、お笑いにもまだ未来は残されている事になるかもしれない。


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