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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

 物語とは何か  〈伊藤計劃のエッセイから考える〉





 作家の伊藤計劃は「人という物語」という注目すべきエッセイを書いている(webで読める)。

 このエッセイを簡略すると、要するに、「私」というのは一つのフィクションであるという事だ。「私」はフィクションだというのは、仏教哲学の時点から言われているので、真理としては目新しいわけではないが、伊藤計劃は脳科学の見地から言っている。

 脳は外界から沢山の情報を受取る。同時に、内からも情報を沢山受取る。それらの情報が編集、処理されて、「私」というフィクションが成立する。これは外界に関しても同じであり、僕らが「現実」と認識しているのは、そもそも脳の編集後の世界であり、編集前の、ありのままの現実とは何か、それはわからない。(このあたりはカントとも一致する)

 「私」というものは当たり前のものとして通常は扱われている。「私の物を取らないでください」「私に触れないでください」 これは普通の言葉だ。同様に、僕らは「私」というものを素直に信じている。Amazonのアカウントから銀行口座、私有財産制まで、様々な事は「私」を独立した存在とみなす事から生まれている。

 伊藤計劃の主張では、「私」というフィクションであるから、だからこそ、それは一つの物語であるという事だ。「物語」もまた、編集された時間的系列であろう。そもそも、仏教哲学の言うように、変化していくものの中に同一性を発見する事はできない。しかし、それを強引に行う事、それが人間の特権だ。「永遠」という概念はそこから出てくる。「永遠」は時間の先にあるのではない。むしろ、人の脳髄の中にある。変化していく時間というものの中で、変化する自分を無理矢理「私」と規定していく、同一性発見という傾向の象徴として「永遠」は存在する。

 「私」はフィクションである。物語である。それは、脳が様々な情報を加工・編集した後の時間系列、一つの実体である。ここから、ある道筋が見える。

 それは、絵画でいう印象派から抽象画、ゴッホからピカソ、ピカソからポロックへ至る道だ。ここで何が起こっているか。絵画には不案内なのであくまでも哲学として言うが、そこでは、テーマというものが次第に解体していく様子が見て取れる。ここで言えば、脳が処理した情報を、その構成因子に帰していく事、そうした系列が見られるように思う。

 我々はただ物を見るのではない。ありのままの物を見るのではない。目と脳によって編集されたものを見ている。「ただ見る」というのはありえない。常に、我々は意識下で加工された世界を見ている。

 近代にはバランスの取れた、大芸術家が現れた。彼らは主体的な表現とテーマがうまく調和していた。ベートーヴェンにおいて、彼の哲学と主体的な表現は一致する。均衡点は存在した。ベートーヴェンには理想があった。彼の理想は同時代のゲーテ、ヘーゲル、シラー、そうした人々と共通する点があったはずだ。

 その後、現代音楽は解体する方向に辿った。文学、音楽、絵画。いずれも、近代の均衡を失い、微分化していく様子が見て取れる。それは、近代において作り上げられていた、加工・編集後の整然とした姿を保てなくなった時、そこにあったそれぞれの要素が要素としてバラバラに砕け散った。僕はそういう風に見る。

 物語とは時間系列におけるフィクションである。嘘である。この嘘が、異なった社会・現実に晒され、嘘である事を保てなくなった時、それらの構成因子だけが世に晒された。文学からは物語が剥奪され、絵画はテーマを失い、音楽ではジョン・ケージのような人物が現れるに至った。芸術は解体したが、それは芸術家が誠実だった故に現れたやむを得ない現象と言えただろう。かつてのような均衡あるフィクションは作れなくなっていた。フィクションーー「嘘」を作るにも色々なものが必要になってくる。歴史という編集され、加工された情報、その上澄みを使って「芸術」が作られる。が、地盤が揺らいでしまえば、芸術家は個々の小さな存在に還らざるを得ない。

 だが、その一方で、物語の氾濫という現象もある。それはどういう事だろうか。

 これは雑感レベルの話だが、芸術に深入りしない人、つまり「大衆」は絶えず物語を必要としている。物語性がある作品が受けるのは何故なのか。伊藤計劃流に言えば、我々そのものが物語だからという事になる。だが、普通の人は、そんな小難しい事は考えない。

 ベストセラー作家、また、そうした作品を欲する人は、物語を嘘とは考えない。それを、所与のものとして見ようとする傾向にある。伊藤の言葉で言うと、脳が外界を処理した結果ではなく、本当に、外界(並びに「私」)はそうである、と考える。これに対して深く疑わず、編集され加工された情報が、我々の要求に一致する事が求められる。ところで、その要求もおそらく、彼が思っているものとは違う所から生まれている別の物語である。

 物語は愛される。真人間になったヤンキーだとか、名門大学に受かった底辺ギャルだとか。あるいは、自分自身を物語のヒロイン、ヒーローと思い込む傾向は、社会によって強められてもいる。恋愛小説では、恋愛は一つのフィクションであり、また、現実ににおいても恋愛はフィクションである事が望まれている。それは、我々が望むものこそが我々の現実であって欲しいという欲望だ。

 しかし、もう一度思い起こそう。物語とは、単に所与のものではない。ここに、大作家と通俗作家の、大きな違いがある。僕はそう見る。

 大作家は、現実が物語ではない事を知っている。現実は無数の混乱した事実がある。くだらない事がある。過ちがある。愚かさがある。断罪されない犯罪者がいる。物語に収まらない混沌が世界にある事を知っている。

 が、それは一つの物語に「織られなければ」ならない。世界は物語ではないからこそ、それを物語に織り込み、我々が理解できる形式にしなければいけない。世界を一つの物語に織り込む事。それは、世界は混沌であり、物語ではない事を痛感したからこそ、それを成そうとする、そういう技であるべきだろう。いわゆる大作家と呼ばれる人はそういう人でなければならない。

 大作家は現実を経験している。現実はあるいは無慈悲かもしれない。現実には、理不尽な事は無数に起こる。しかし、現実が理不尽であるから、ただ理不尽さを主張するのは、それだけの事だ。彼は現実を模写しているだけだ。大作家は嘘をつく。その嘘は、現実を知り抜いた上に出てくる嘘であって、現実から逃げる為の嘘ではない。

 通俗作家は反対の道をたどる。あるいは、見かけ上だけは一致する。彼は文学を物語と決めてかかり、うまくそれを作る。それは物語を求める人々に受け入れられる。しかし、人々も作家も、物語を成り立たせている現実については考えない。この嘘は、現実の果てに現れた嘘ではない。むしろ、現実を遠ざけた末に現れる嘘だ。

 例えば、角田光代とか吉本ばななの作品に漂っている「あったかい」雰囲気は、現実の一部を彼らが切り取りうるような場所に立っているからこそ出てくる「あったかさ」「優しさ」であり、現実の苦痛を経験した上に、優しく「ならざるを得なかった」というのとはわけが違う。

 彼らの作品、また彼らのようなタイプの作品は、日本社会がそれなりに成熟しているからこそ可能なフィクションであるように思われる。彼らの「あったかさ」「他人思い」は、世界の混沌に接したもののそれではない。最初から秩序化された世界で生まれ育ってきた人間が持てるような「優しさ」だ。その優しさは、ある箇所では残酷な仕打ちを取るだろう。つまり、秩序化された世界の外部に対しては、それらをたやすく排除するのが可能だろう。

 このエッセイの元になった伊藤計劃という作家は、「優しさ」の外側について考えた人間だった。このような社会の中で「優しく」なるのは簡単だ。残酷になるのも、露悪的になるのも、狂人的な見かけを取るのも簡単だ。だが、世界の外部を意思するのは難しい。我々の認識そのものが、我々の世界とぴったり一致している為に。

 先に、大作家は、物語ではない現実からスタートし、そこから物語によって世界を認識可能な形にする存在だと言った。その時、当然、世界を認識する形には作者自身の思想が明確に覗く事になる。混沌とした世界の再編成が、作者の主観によって行われる。

 しかし、今言ったように(以前「フィクション化する現実」で言ったように)、この社会それ自体が既に編成済みの物語である。これが、現代において一番面倒な問題である。角田光代らがリアリズム=物語の傾向を簡単に取れるのは、現実そのものが、人工化され、物語化されているから、作者の認識がなくても、簡単に物語に移す事ができてしまうからだ。

 だから、現在における大作家ーーその傾向性、素質というものは、現実それ自体の混沌を探す事から始めなけれはならない。かつての偉大な文学はおそらく、混沌とした現実を認識によって把握できるものにする所から生まれてきていた。現在では、整頓された現実からスタートし、それらを破る物語について指向しなければならない。

 伊藤計劃という作家はその作品において、世界と、その外部の境界線について絶えず思考していた。角田光代のキャラクターらが、怒ったり泣いたり笑ったりしている世界の外側が彼の問題であった。多くの作家が世界を所与のものとしてみなし、我々が世界を所与のものとしてみなしている時に、それらをフィクションによって揺さぶる事を彼は考えていた。

 では、どうして、現在そんな物語が必要なのか? どうして、この世界のあり方に、角田光代的に安住してはならないのか?と問う時、一体、どんな答えが出るだろう。

 それについて、僕はなんとも答えられない。ただ、人は「今」を打ち破り「次」に行こうとする傾向があるから、としか言えない。

 元々、「私」というもの自体が一つのフィクションだと僕(伊藤計劃)は言った。すると、その「私」が更に、フィクションを、物語を織る。それは、大きく言えば進化というものの傾向性とも言えるだろう。目は、世界を編集するカメラである。耳は、世界を編集するマイクである。だとすれば、「私」は世界をまるごと編集し、別の宇宙に仕立てる為の機械である。

 この時、角田光代や朝井リョウらの作品は、そうした要求に応えるフィクションなのか。そうではない、と僕は思う。それらは「次」を志向するフィクションではない。少なくとも、偉大な文学とはまるで違ったものである。偉大なものは、暗いかもしれない。冷たいかもしれない。角田光代やよしもとばななのようにあったかくも優しくもなく、小難しいかもしれない。が、それは、世界の構成因子をまるごと作品に(編集して)表そうとするからこそ、そのような形式を取らざるを得ないものなのだ。世界の一部を切り取って、その外部について沈黙するものではないからだ。だから、偉大な作品は、僕らにとっては難解なものとして、冷たいものとして現れたりするが、それは僕らが普段、自分の暗い部分について考えたがらないのに似ている。僕らは自分の死について想起しない。しかし、死もまた人生の一部だとすると、それを編集する機械(芸術家)はそれから逃れてはいけない。

 そこで大芸術家は世界のあらゆるものを自己の作品に投入しようとする。そこに、気持ち良いもの、面白いものだけを求める人々との齟齬が生まれる。しかし、それだけを求める人も、それだけの存在ではない。だからこそ、偉大な作品は歴史を通じて生き残っていく。

 物語とは、そのように、現実を編集したフィクションである。この場合、全てがフィクション化した世界において、何を現実とするかと認識する事自体が今、問題となっているように見える。かつての、バルザック的リアリズムもまた、時代において改訂されるべきだと思う。

 そういう時代において、伊藤計劃という作家は、ディストピア的世界観を使って、世界の境界について描いて見せた。彼の作品は紛れもなく一つの物語だった。現実から逃げるのではなく、現実を直視しようとする物語だった。今、僕らはその物語を読む事ができる。そして物語を通じて、僕らは現実を再び見るべきなのだろう。あるがままの現実……あるいは、あるがままの現実は存在しないというあるがままの現実を見なければならないのだろう。おそらく、「新しい物語」はそこから生まれてくるだろう。


〈全体を見ると矛盾している所がありますが、自分の感覚が大事なのでそのままにしておきます〉

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