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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

「ドラマ」についての思惟 


 小林秀雄は「ハムレットとラスコーリニコフ」という文章で、「罪と罰」と「ハムレット」の両主人公は、内面と行為とが分離された存在だという事を指摘している。この指摘は僕にとっては極めて大きな示唆となった。

 一般に転がっている小説、物語、ドラマ、また大きく言えば、多くの人が生きている生き方そのものーーそれらに対して、僕はずっと疑問を感じてきた。簡単に言えば、それらが「つまらない」という感覚だ。現実で(ネットでもそうなのだろうけれど)そういう事を言えば「何を言っているんだ、みんな、真剣に生きている」と説教されるに決まっている。しかし、自分の感じている事はそういう事ではないーーと思うが、その声はどこにも届かない。自分の中の声として、自分の中に留まるだけだ。

 一般的なドラマ・小説というのは、結局、「誰かが何かをする」という話になっている。それは誰だって当たり前の事で、現実にみんな、そう生きている。しかし、果たしてそうだろうか。何故、誰かが何かをしなくてはいけないのか。例えば、夢を持って努力するという方法論から、挫折とか成功とかが生まれる。が、夢を持って努力する事自体馬鹿らしいとみなしたら、どうなのか。それは夢を諦めるという事ではない。夢を持つとか持たないとかいう事自体が、個人の主体的意志に過ぎないのだから、その意志を統御すれば、夢は消える。何故、夢を消してはならないのか。何故、夢を持たなければならないのか。

 こうした考え方は突き詰めると、「全ての人間が餓死する事を自分に許せば、あらゆる闘争は消える」という哲学者の極限的な言葉に収斂されていく。もちろん、そんな事を言えば身も蓋もないだろう。だが、身も蓋もない事を言わないというのは果たして大人の態度か。大人とは、自分の欲望に社会的衣装を身に付けた人の事なのだろうか。

 このような哲学的問いというのは、おそらく、子供らしい問いにすぎない。が、もし、僕がこの子供らしい問いを突き詰めれば、どうなるのだろう。あらゆる社会現象が自己から隔離されて、他人事となり、自分は悟りすました僧形のようになる。それでは、そこで全ての答えは終わるのか。

 プラトンは、そうした道を辿った。現実からスタートして、イデアの世界に到達する。現実は、私の外側にあり、世界に属するものだ。一方の「私」は一人、洞窟の外に出る。そこで真なるものを見る。そうして帰ってこない。

 物語・劇を作る際の動機において、現実そのものを否定すると、もはや動機とならない。牢獄に入れられてもそれを諦め、自己の死を、嘆く事なく受け入れればそれはドラマにならない。そうなると、社会・経済におけるあらゆる事柄はどうでもよくなる。これをどうでもよくないという視点はありうるか。常識的にはいくらでもあり得るが、この場合、常識そのものを否定しているから、もはやこんな人物に掛ける声というのは存在しない。ドラマは存在しない。劇は存在しない。

 だが、そんな人間もやはり、現実に生きねばならないとはどういう事なのだろう?
 
 ここにおいて再び、現実ーードラマが戻ってくる事になるが、還ってきたドラマは最初のドラマとは違う。そういうドラマというのは存在しうるか…と考えると、やはり「罪と罰」が頭に浮かぶ。僕がしつこく、「罪と罰」という作品にこだわるのは、そうした、ドラマを否定する精神をもう一度ドラマの中に叩き込むという事が唯一やられている作品だからだ。

 主人公のラスコーリニコフは、自分の外的行為と、内面との相違を常に感じている。この先駆は、小林秀雄の言葉では、シェイクスピアによってやられている。ハムレットは復讐を誓う。彼は復讐を天命と感じている。にも関わらず、天命である復讐という行為と、ハムレットという人物が一致しない。そこに微妙なズレが生じ、それが独白の際に見え隠れしている。

 ラスコーリニコフはハムレット以上に差異が激しい。自分の外的行為、欲望、欲求、それ自体を無意味と感じながらも、それをしなければいけないと信じている。自分が自分である事と、自分が、行為という局面においては自分にとって他人であるという事が常に感じられている。

 普通のドラマは、行為面、社会面において行動している個人像と、その人間自身の自己像が一致している。あるいは、それほど大きなブレはない。したがって、人間は、苦悩したり、苦しんだりするかもしれないが、それは自分が望む事が達成されないとかいう類の悩みである。もし、この自分が、自分がそもそも何も望む事ができないという事に苦しむとしたら、不思議な苦しみを持つ事になるが、僕が見たいのはそのタイプの苦しみとなる。

 ラスコーリニコフは殺人を天命と感じる。ハムレットは復讐を天命と感じる。その時、もう一人の自分が自分にささやきかけているのだが、自分にとってもう一人の自分は他人と感じられている。では、どうしてもう一人の他人は現れなければならないのだろうか。

 実際、ここに答えはない。「罪と罰」では象徴的な言い方が成されている「例え、どこにも行く所がなくてもどこかに行かなければならない」 この時、正しい理屈なんてものがなんだろう。

 通俗的な経済学が生産性、功利性、利益についていくら喧伝した所で、毎日ごはんと塩だけでいいのだと自分自身に決定したとしたらどうなるのだろう。そうしたら、馬鹿げた事になるのか。でも、どうして馬鹿げた事をしてはいけないのだろう? 他人から見て馬鹿に見えても、それは他人の視点から見ての事だ。自分から見た時、それが全てだ。

 だが、この人間も生きねばならない。どうして生きるのか? 
 
 ここに理屈はなく、人はただ生きる。あるいは親鸞のように、ただ黙って山から降りるのだろう。プラトンは最後まで下に降りなかったが、なんとなく、上に飽きた時、人は下に降りてくるのだろう。

 ラスコーリニコフが、改心する所を作者は理屈では描いていない。そこは理屈では描けなかった。…別の言い方をすれば、私と外界との間に無限のように広がっていた溝は、ある時、ふと、それが溝ではなかった事に気づく。そういう事なのだろう。

 人は現実の中で、一人の人間として生きる。一部のSF作家が鋭く見抜いていた事は、社会が完全なものとして現れるのであれば、もはやドラマは起こらないという事だ。現在に見られるドラマの多くは、人工的にコントロールされたドラマであり、例えば音楽を主題にすると、コンクールで優勝するとかしないとかが大きなテーマとなる。モーツァルトが借金まみれで死んだように、本質的に自己の音楽像と社会常識とが矛盾する際の葛藤を描く人間は(おそらく)いない。自分が自分と衝突する事なく、自分が社会と衝突する事なく、社会と自己とが融和されたコントロールされた場所での、先の見えたドラマのみがある。

 全てが自己意識に収斂され、哲学で言う独我論に極まれれば、世界に意味はなくなる。世界の中における私も消える。葛藤は消える。そこには安楽がある。だが、安楽それ自体に安楽できなかった時に、つまりは倦怠がーー自分という名の「完全」に飽きてしまった時、そこから人は不完全に向かって歩き出さなくてはならないのではないか。

 その時に、親鸞は山から降り、ブッダもめんどくさながりも、地上に降りてくる。自分だけが真理を理解したのだし、それを一々、世の中の誰彼に言いたくないというブッダの気持ちは現代からも共感できるものに感じるが、ブッダはハムレットと同様に、運命の啓示を見た。彼は自己の完全性から外に出た。(ブッダは最初、真理を教えるのを失敗して、つたなく否定されたが、その時に、内心に屈辱を感じたと想像すると、そこにはドラマがあるという事になる。ブッダが屈辱を感じられるのは、自己の完全を否定したからだった)

 人は通常、社会の中を生きる。社会の中を生きる自己と、自己から見た自己を一致させた人間は健常な人間だと言われる。何故ならば、人はとにかくも、その社会の有様を一応肯定するからだ。反社会運動も、たった一人でやれば狂人と呼ばれる。人は狂人を好かない。

 だが、もしあらゆる人間が、行為面、社会の中の自己が全ての自己であると信じ、世界と自分との間にズレがないのならば、世界からは苦悩が消え(伊藤計劃「ハーモニー」の世界となり)、完全な世界がもたらされる。しかし、その時、世界と呼ばれる社会現象はそれを否定する場所を失い、それ自体の論理が破綻する所によって破綻する所となる。思うに、世界の異変を察知できるのは、本当の意味での(見かけだけではない)アウトサイダーに限られているのではないか。

 通常のドラマにおいて、人間は自分を疑わない。劇は、どちらかと言えば無知から起こる。自分の欲望を否定できない弱さが、意志の強さだと誤解される所において、様々な事件が発生する。世の中にはそんな人間がいる。だが、常識を疑わない事と、自分の本能を疑わない事、どちらも疑わないという点においては一致している。そして疑いはドラマを消去してゆく。次第に諦念に落ち着いていく。

 だが、諦念に対して諦念を持つと、もうそのままそこにいる事はできない。ドラマが起こる。山から降り、人と交流し、世界の中の人となってゆく。自分と世界とのズレは、世界との否定とはならない。そうではなく、世界を否定した自分もまた世界の一部だという事が感じられている。

 ラスコーリニコフが最後に見た光景はそんなものだった。彼は、檻の向こうの茫洋とした、昔からの風景に、静かに自分が溶けていくのを感じた。自分もまた、世界の一つにすぎない事を知った。独我論は溶けた。独我論という論理ではないものによって溶けたが、それは独我論の言葉では描けない。おそらく、そこには哲学から宗教への転換がある。

 ……というような事を、「ドラマ」をテーマに考えた。しかし、「ドラマ」を考えるのは一人の人間の頭脳(意識)に過ぎないわけだから、この意識もまた世界の中の一事物にすぎない、という風にまた、ドラマを作る意識は、より大きな、歴史というドラマに吸収されていく。それをまた、未来の誰彼が、自分の意識下に収めようとする。そうした輪廻、連関というものがあるのだろう。そんな風に物語は連綿と続く。物語は、物語を否定する意志を媒介として存続していく。

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