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物と精神

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今週のサイコパスについて(十七話)

 僕は毎週、サイコパスという虚淵玄氏原作のアニメを楽しく拝見している。ところで、今週、そのアニメ内で、かなり重大な転回が起こった。ここの所は大切な事なので、メモ風に書いておきたいと思う。

 元々、このアニメ作品は、オーウェルやディック、あるいはマトリックスのような作品を下地にした、わりとオーソドックスな、ディストピアものとして、はじまった。この設定自体は非常にありふれたもので、それは作者自身もその事を意識して、そうしているという様子もありありと感じられる。
 ところで、問題としたいのはその事ではなく、その先にある。・・・ので、簡単におさらいをしてみよう。
 この「サイコパス」の世界では、「シビュラ」というコンピューターによる管理システムによって、社会に適合する人間と、そうでない人間を分別するようなシステムになっている。・・・そして、適合しない人間は早い段階で、排除され、そうでない人間は、このシステムの中で安寧に生きる事ができる。・・・ところが、この適合しない人間を排除する側の、「公安」の主人公達のチームは、一人の特異な犯罪者を追う内に、システムそのものーーーこの排除と適合のシステムそのものに対する疑義を次第に持ち始めるようになった。・・・そして、その疑義は、今週の放送回によって、非常にはっきりとした形で具現化した。・・・つまるところ、その管理システムというものも、結局は、少数の専制的な連中が築いたーーーいわば、オールドな独裁制であり、そして、結局は、それにシステムという皮を被せたものに過ぎなかった、というものだ。
 以上は、僕の勝手なあらすじ説明だが、この説明ではよく分からないという人は、本編を見てもらいたい。さて、問題はここからになる。・・・虚淵氏が、こうした問題を設定し、暴露してみた過程には、かなり重要な問題がある、という事だ。
 ・・・ここからは、あくまでも、僕の勝手な推論である。そして、おそらくは虚淵氏の意図以上の意味を誇張して語る事になる。・・そして、誇張された所は、虚淵氏ではなく、おそらくは、僕の恣意的な意見である。・・・しかしまあ、語る意味のある事だと思うので、とりあえず、書いてみる。

 ・・・こうした、システムというものの問題設定、この虚構が真実であるような社会体制というものを何故、虚淵氏が描こうとしたのか(たとえ、それが商業的な意義にもとづいていたにせよ、作者の本質性があらわれていれば、それは一つの自立した芸術作品として扱えるはずだ。)。ーーーそれに対する、僕の答えというのは、非常にシンプルなものだ。つまり、現代に住んでいる我々が、正にそういった状態にいるのではないか?・・・という問題意識を、虚淵氏が抱いているからではないのか、という事にある。・・これを自覚している人は少ないが、我々は無意識の状態においては甘受している。(自分の無意識を生涯に渡ってだましつづけようとする豪胆な自意識「的」人間もいるが。)だからこそ、この作品が我々に与える衝撃は大きい。・・・結局の所、人は、自分が所有していないものに、感激する事はできない。目の見えない人に、絵画が見えないように。・・・だが、目が見えないよりも、もっと悲惨な事は、心の目が曇っている事である。・・・だが、こんな言い方がセンチメンタルに聞こえる人もあろう。・・・という事はつまり、それこそが、心の目が開いていないという事を証明するのではないのか。
 ・・・話を続けよう。・・・だから、問題は、現代に生きる我々にとってのシビュラシステムとは何か?・・・という、やや通俗的な問題設定になってくる。・・・しかし、それには当然、疑問はあるだろう。・・・多くの人は、常に、フィクションを軽蔑し、現実を重要視するものだ。・・・だが、現実と何か、という問題がここでは起こってくる。しかし、それも後回しにしよう。
 ・・・我々の現実を振り返れば、敗戦という、もう僕達の世代では想像だにできないような巨大な事態からスタートを切り、そこかからは一貫して、平和と秩序のシステムを作り上げてきた。・・・僕達は生まれれば、家族という秩序の中に、そして成長していくにつれ、学校、社会という秩序のシステムの階段を昇る、という神話が信じられてきた。・・・だが、今や、その神話は崩壊しつつある。
 シビュラシステムによって、管理された社会というのは、我々が自分の責任を自分の外側に預けた話だと言える。今週の17話で、その事に鴻上が触れる場面が有る。

 「(人々は)危険がそこに確かに存在するが故に、逆に存在しないものとして扱わないと正気が保てなかった。」

 この言葉はもちろん、象徴的な言葉である。・・・が、しかし、人の盲目というのは、やはり大したものである。こうして事実を裏返しにしてみせた言葉を出したところで、人は、やはり、その言葉自体を「存在しないもの」として、扱うからだ。


                              ※

 僕達がこれまで信じてきたところ、また、今も信じ続けようとしているものについて、考えてみよう。・・・僕達の社会はまだ、シビュラシステムには、支配されていない。現実はフィクションとは違う。だが、果たしてそうだろうか?・・・というのが、最初の問題になる。
 すでに言ったように、盲目にとって光とは意味を為さない。だが、はじめから見えないのではなくて、見ようとしないから見えないのだが、人はすでに、この「見ようとしない」無意識すら、見ようとはしていない。・・・こうして、全ては漠然たる不安へと変化していく。我々に敵はいないのだが、背後からは常に不安を感じている。・・・全ては、鴻上の言うとおりなのだ。
 例を一つあげるとしよう。それは、例えば、オウムサリン事件のような、巨大な事件で片がつく。・・この特異な事件というのは、誰もが直視することを心の中で拒否するほどに、巨大なものだ。・・・この事件は、とあるカルト教団(と、とりあえず呼ぶ)が、東京の地下鉄などで、一斉に毒ガスを撒くという、極端に異常な事件である。そして、何よりも、異常なのは、それが現実に起こったという点にある。・・・すでに、想像力の明敏な、芸術家などは、平和を装った社会の裏側の腐臭を鋭敏に嗅ぎ出し、それを表現に定着していた。・・ところで、現実に起こった事というのは、それを裏付けるどころか、それより遥かに巨大な現実であり、事件だった。・・・もし、こんな事件を、例えば、僕が、実際の事件の前に、小説作品として世に問うていたら、僕は、確実に「こんな事は荒唐無稽だ」と笑われていたに違いない。・・・だが、それは起こった。それは現実に起こったのであり、嘘ではない。・・・しかし、これほどの特異な事件であれば、その衝撃は容易に消化できない。だから、この事件からは、誰もが目を背けた。だから、このように巨大な事件は、いまだ、フィクションの次元に漂っているともいえる。・・・我々が見るには、あまりに、光も闇もまた強すぎるのである。
 我々はこうして、あらゆるものから目を背けて生きている。「そうでなければ、正気が保てないからだ。」他の理由はない。・・・そして、このような事を、アニメという、サブカルチャーの中の登場人物が吐かなければならない事に、現代の僕達の状況というものがある。そして、それ以上は、おそらく言うべき事ではないだろう。真実は吐かれた。で、あるとするなら、あとは受け取る側の問題である。受け取る側が拒否し、蹴飛ばした所で、真実というものは、その性質によって、軽蔑する人間の背中にぺったりとくっついているものなのだから、そうした行為は全て無駄であろう。

 
                              ※
 
 さて、問題をもう少し進めようか。・・・僕がこのノートを書き起こしたのは、以上のような事を言いたいがためではない。問題は、今週の回によって、明らかになったある点について・・・である。それはまだ、はっきりとはしていないが・・・。つまるところ、それは、我々を防護し、我々の盾となり、また我々を支える全てであるはずのシステムが、一部の、奇矯な連中の、独裁的な支配だったという事が暴かれたという事だ。・・・この点は、まだはっきりとはしていないので、間違えるかもしれないが、とりあえず話を進めてみよう。
 システムそのものの、正体が、我々にとっての善ではなく、実は悪なのではないか?・・・という問題設定というのは、象徴的というよりは、暗示的だと、僕は感じる。つまり、それは今の我々ではなく、これからの我々の予測図のように、僕には見える。
 現代の日本ーーー今の状況はどうだろうか?。・・・安寧は崩れ、神話は崩壊しようとしている。我々の安定した人生プランなるものは、刻々に変化し、未来に明るい兆しはない。・・だが、元はといえば、人々の言う未来の明るい兆しとは、安定と、レールの上を乗った人生ではなかったのか。・・・だとするなら、それほど、暗い未来はないだろう、と僕などは思うが。全てが決定済みの人生ほどつまらないものはないからだ。最初から、未来が光で満たされていれば、我々が自力で光をともす機会は永遠にこないではないか?・・・おそらく、突き進む人間というのは、いつも、この薄明のぼんやりした現実を、真っ暗闇に変えてから、火をともすのであろう。
 余計な事を言った。・・・そして、今や、このシステムの崩壊の兆しが我々に危機感を抱かせている。と、ここで、我々の世界に一つの転回が起こり始めている。・・・つまり、罪人探しである。なんのことはない、かつての魔女狩りと全く同じ現象である。人々は崩壊が始まると共に、その責任を転嫁する為の誰かを今、必死に探し始めているのである。・・・それは、ちょうど、幻視を見る精神病患者のように、目の前の空に敵を描き出す。やがては、祭壇ができ、この無名の魔女は火あぶりにされるのだろう。 
 さて、ここで僕が何を言いたいか。・・・システムそのものが悪であるという問題設定は、ここにある。悪というのは常に背後にあるのかもしれない。我々は、それを、常に前に考えるのだが。
 我々のシステムは、もはや、変質してきている。システムの批判が、新たなシステムへと、構造へと変化する。・・・かつては、恒常的、安定的だったシステムは、それが崩壊をはじめるやいなや、攻撃的なシステムへと変化する。・・・このシステムは、我々に厳命する。「この船は沈みかけている。犯人は〇〇である。〇〇を殺せ」と。
 さて、ここで、善と悪は入れ替わる。・・・このサイコパスという作品では、システムに対する反抗が描かれているというよりは、システムの転覆すら描かれている。これは僕達にとって何を意味するか?・・・などと、問うまでもないだろう。作品世界が何を示していようと、それが現実よりも速いスピードで流れているなら、我々は何かを感じざるをえない。現実とは何か?フィクションとは何か?・・・いまさら、言うまでもないだろう。問題はひとえに我々にかかっている。システムの厳命は個人の内部までは侵食はできまい。もし、そう望むなら。だが、もし逆を望むのであれば、人は糾弾する悪魔へと、システムそのものへと変貌する。そして、それは衰亡の成れの果てである。
 この作品がどういう結末を示すのか、それはまだ僕にもわからないが、ここまででも、我々が感じざるをえないものはすでに、放映されたはずだ。後は、目をつむるのも、目を開けるのも、僕達の勝手である。問題ははじめ、向こう側にあったが、作品が終わり、我々がフィクションから戻ってきた時、すでに問題は我々の胸の中に宿っている。・・・・・・・・・・とはいえ、まだ、この作品は終わっていないが。・・・・とりあえずのところ、僕は、言いたい事は言った。

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