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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

自分の文学理論を整理する

 

 今まで自分なりに文学理論を作ってきたのだが、ここで整理する。自分のために言葉にして整理しておくという感じが強いのでわかりにくい話になるだろうが、参考になる人もいるだろうと思ってアップロードする。

 自分の文学理論として、最初にあるのは「自己意識」だった。自己意識の問題が常に自分にとっては決定的な問題としてあって、そこから神聖かまってちゃんにつながり、小林秀雄につながり、ドストエフスキーにつながった。自分で自分を意識すると、ごく普通に自分を生きられなくなるというのがスタート地点にある。また、孤独である事は意識を介して宇宙と繋がり、人々の中にいると意識を制限しなければならないため孤立を感じるという矛盾した感情があった。ここも重要となる。

 僕は自己意識というものは、「無時間的なもの」と考えている。「無時間的」とは比喩で厳密な意味ではない。意識は様々なものを自分の中に取り込む。様々なものを批評する。自己意識は世界を空間的に閲覧し、絶えずそれに話しかけ、それと応答し、自己だけで充足する。自己意識は「外部」を認めない。何故なら外部は、存在するやいなや自己意識が自分の内に取り込む素材となるからだ。様々なものに対して、自己意識は王のように振る舞い、全てを従属させるが、この自己意識は果たしてそんなに絶対的な存在なのかというのが次の問題となる。

 過程をすっ飛ばすと、個人的な文学的課題は、無時間的な自己意識を再び、時間の中に戻してやるという事にある。例えば、「永遠」という言葉は、いかにも自己意識にふさわしい言葉であり、「無時間的」と言って良い。不老不死を目指すというのも、自己意識の無時間性に対して肉体を従わせようとする人間の習性だと理解する。意識は、二十歳の自分と七十歳の自分との間に同一性を発見する。五十年の年月に、変化の奥にある同一性を発見しようとする。この同一性を延長すると、永遠、真理が現れる。

 しかし、こうした自己意識というものは本当に、外部を持たないかというそうではない。永遠に自己同一かというとそうではない。ただ、自己意識には外部が見えない。視野の限界が見えないように見えない。懐中電灯を闇の中で振り回し、懐中電灯に対して「明かりの照っていない所はあるか?」と質問したら、懐中電灯は自分の光の当たった部分だけを見て「闇はない」と判断する。懐中電灯は動く度に目の先を光で照らしているのだが、光の外側はいつまでも見えない。だから、自己意識もまた自分が見たものを世界だと信じる。外部はあるのに、彼の内部には存在しない。

 こういう厄介な自己意識は、自我ができた子供時代から死ぬ時まで続く。これからは逃れようがない。

 小説というものを書く際、自己意識というものはいずれにせよ重要な問題だ。最初に言葉ありき、という事で自己意識の探照灯を光の照らすままに描いていくのが自分にとって最初に出てきた問題だった。だが、次第にそれだけでは限界を感じるようになってくる。

 「罪と罰」という作品で、ラスコーリニコフはドストエフスキーとは異なった存在だ。この時、ドストエフスキーは、懐中電灯であるラスコーリニコフの外側の闇も十分に知っていて、闇も光も同時に描くという方法をよくわかっていた。ドストエフスキーの作品に論評する際、ミハイル・バフチンが指摘するように僕らは登場人物の一人に肩入れしたりするが、それは僕らが探照灯の一つに化している事を証明する。作家はもう一歩先を言っていた。彼は光を生み出しているものがその外部にあると知っていた。

 作品内において、ラスコーリニコフという人物は自分の自由を保持しているように見える。理性によって全てを統御しようと試みている。近代以降、人間の意志というものが社会的自由と共に極めて大きな問題となって現れ、ラスコーリニコフもまた自分の強烈な意志を試そうとする。だが、そのような意志を用意したもの、またその意志が行為となり、社会に反響して帰ってくる過程、それは意志ではない。人間は確かに意志を持つ。人生を振り返れば、自分の意志で道を決めた気がする。だけど、その意志を発生させたのは歴史であり、自然であるはずだ。人間の理性は自己と他を区別し、「私」というものを強烈に意識する。だが、その意識された私もまた自然の一部である…という真理は語る事はできない。その真理は「私」に取り込まれるとすぐに「私の言葉、私の真理」になって、私を包み込む真理ではなくなってしまうからだ。ここに面倒な問題が起こる。

 簡単に言えば、哲学で言う独我論は信仰を持たなければ越えられないと感じている。信仰は哲学ではない。お前は信仰を持つつもりか?と言われれば、僕は信仰を持とうと思っている。それはどんな宗教でもないが、単に一つの懐中電灯にすぎない僕が、その外側を(見れないにせよ)存在すると信じる信仰だ。この信仰は論理的には確証されえないか、確証されたとしてもすぐに自己の光として内に取り込まれてしまう。だからいつまでも「信仰」にとどまり続けると思う。

 整理しよう。最初に自己意識がある。それは僕にもあるし、あなたにもあるだろう。自己意識は様々なものを見、聞き、それに反応を示す。自分の個性、自我を主張しようとする。自意識はまた、自分を世界の中心と考える。地球の裏側で何万人死んでもそれほど気にならず、自分の歯が痛んだらそちらの方が気になるというのは、意識が自己を世界の中心と考えるからだ。

 こうした自己意識の作用を和らげるのは社会習俗だろう。社会的な慣習に従属していく事によって、自己の絶対的主張はなくなるし、自我は適度に抑えられる。だが、本来的に自己というものを徹底的に主張しようとするとどうなるだろうか。自己は自己を越えて外部に反響する。自意識は外側に形を取って現れ、ブーメランのように帰ってくる。

 「カラマーゾフの兄弟」のイワンはそんな存在だった。彼の内心の対話は、スメルジャコフを通じて、殺人という行為に現実化する。彼は現実となった自らの内心を見て、自分が本当に何を望んでいたのかを後から知ったのだった。イワンという強烈な自己意識もまた、己一人で生きていく事はできない。確かに、他者は無力かもしれない。作中、イワンほど強烈な自己意識を持つ人物は一人もいないかもしれない。だがそれでも、彼の中だけで物語は終わらない(始まらない)から、「カラマーゾフの兄弟」は書かれた。そんな風にも考えられる。

 僕にとって小説というのは自分から逃れ去る為の手段だ。それと共に、自分を捉える為の手段だ。どうしてお前は自分の事ばかりそんなに気にかかるのかと言う人がいれば、僕にとって他者とは、「僕の目から見えた他者」である。だから、どうしても自己意識を問題とせざるを得ない。

 自己意識とか私とかいうものにも限界を示せる、自分が懐中電灯だという事がわかってその外部が見れないにしても、なんとかしてその外部が(例えば「物自体」として)ある事を示せるのだと、僕は哲学から学んだ。オーソドックスな学習ではないだろうが、とにかくそう理解した。

 だから、小説を書くという事は僕にとって自己を客観化する過程である。最初に自己意識があるが、これを歴史的に生成された過程だと思考するのも、その一つの方法だ。伊藤計劃は「ハーモニー」で意識の消滅を語った。ジュリアン・ジェインズは三千年前に意識が発生したと説いた。どちらも、「永遠」「真理」≒「自己意識」という定式の外側を見ようとする行為だった、と解する。僕もまた自分の限界を見てみたい。何故そうしたいかと聞かれれば困るのだが、多分、より自由になりたいのだと思う。自己意識という、逃れられない自分の悪夢を、あるいは愛したり憎んだりしながら、その外側に出ていきたいのだと思う。そういう欲望が自分の中にある。だから、その欲望から自分の文学が生まれるだろうと思っている。自分の中では理論的にはそんな風になっている。

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 「キッズ・リターン」のラストを考える

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 「マーちゃん、俺達もう終わっちゃったのかなあ?」
 「バカヤロー、まだ始まっちゃいねえよ」

                        (北野武「キッズ・リターン」より)

 「キッズ・リターン」という映画を最初に見た時、(ああ、この映画は一度見ればもう見なくて良い映画だなあ)と感じた。主人公は二人。落ちこぼれ高校生のマサルとシンジ。親友だったシンジとマサルは、学業をまともにやるつもりがなく、それぞれの夢を追い始める。シンジはボクシングの道を進み、マサルはヤクザの道を進む。だがどちらも道を進み続ける事できずに挫折し、後に再会する。人生に失敗した若者二人は、昔のように自転車を二人で乗りながら、学校の校庭を走り回る。その時に発したセリフが上記の引用となる。

 北野武の映像云々の事を置いておくと、ストーリーとかテーマなどは割合陳腐なものだ。他の監督でも取れるような映画だと言っても良いだろう。先に「ソナチネ」という傑作を見ていたから、なおさらその感が強かった。「これならば北野武でなくても撮れるな」 そういう印象で映画を見ていった。一度見れば十分な映画だと、そう感じていた。

 そのままの印象で映画が終わっていたら、僕はこの文章を書かなかっただろう。「一度見れば十分だ」と思っていた矢先に、有名なラストシーンが現れた。

 「俺達もう終わっちゃったのかなあ?」
 「バカヤロー、まだ始まっちゃいねえよ」

 このラストが現れた為に、ラストにたどり着く為だけに、それまでの映像を見返す事になった。僕の印象は破れた。ラストシーンが、それまでの映像に対する僕の印象を打ち破った。

                     ※

 先に、一般的な話をする。

 まず、社会における挫折という問題がある。実際の所、この問題を北野武はそれなりに陳腐にしか描けていない。というのも、「挫折」という問題においてはわかりやすい理解は、「成功」と「挫折」の二択だ。それは「一部の才能ある人(が努力すれば)成功するけれど、他の大半は挫折する」というものであり、これが普通にある見解と言って良いと思う。

 こういう普通の見解自体に僕は批判的なので、「キッズ・リターン」という映画がその見解からはみ出していない事に不満を覚えた。「一度見たら十分だ」と最初思ったのも、そういう理由がある。この見解の何に不満なのかはここで言うと長くなるので飛ばす。

 さて、シンジはボクシングに挫折し、マサルは極道に挫折する。二人は昔のように、高校生の時のように自転車に二人乗りして校庭を走り回る。彼らはもう終わった存在である。社会的にはチャンスがない。絶望しかない。だが、この絶望の中で「まだ始まっちゃいない」という、強がりにも聞こえるし、希望とも聞こえる言葉が発せられる。

 このラストは印象的だが、普通の「希望ある映画」ではこんな風な描き方は決してしない。普通の「希望ある映画」では、夢が叶ったり、いつまでも自分の幻想が続いたりする。「けいおん」のラストではあずにゃんが「先輩、卒業しないでください」と言う。これは僕ら(僕も入れてもらおう)アニオタの願いを代弁しているかのようだ。声優にいつまでも十七歳の少女であって欲しい、結婚しないで欲しいと願うかのようだ。だが、現実には幻想は続かない。

 本来的には、「キッズ・リターン」のラストはラストの絵にならないだろう。なにせ、シンジとマサルは二人共、失敗してどうしようもない状態にある。この二人が失敗を重ねながら成功していく様を描くのが、普通の映画だ。辛苦を重ねて、成功するのが僕らの幻想であるし、それはきっと叶いっこない現実だけど、叶って欲しい現実でもある。素敵な仲間はバラバラにならずいつまでも一緒でいてほしいし、映画内で失敗が一つ二つあっても、成功の為の足がかりだと信じられるからこそ、その「先」を見る事ができる。これが普通の人が映画を見る場合の精神的態度に思える。それは丁度、自分の子供にプロ野球選手になって欲しいと願う親に似ている。きっと無理だろうけど、でもなってくれたら、という夢。現実は厳しいかもしれないけれど、せめてフィクションでは夢を見させて欲しい、という欲望がある。

 「キッズ・リターン」はそういう終わり方はしていない。現実には敗北した。良い事は一つもない。希望はこれっぽっちもない。何もない。しかし、だからこそ、上記のセリフが輝く。この場合、輝くのは単に言葉のみである。物質的に、社会的に、客観的には完全に終わっている。いい所は一つもない。しかしだからこそ、単なる言葉が…つまり、ただの空っぽの精神が光る。精神は現実に敗北してやっと光る。キリスト教の根っこにある精神などはそれであると思う。現実に差別され、石を投げられる。徹底的に打ちのめされるからこそ、内心の精神は怪しく光りだす。自分達の現実が地獄であるからこそ、天国に行けると信じられる。ここには倒錯があるが、これは人間の強みとも弱みとも言える。

 劇というのは何だろうか。ソポクレスの「アンティゴネー」という作品は傑作だと思うが、女主人公は王の決めた掟に反しても、自分の意志に従って行動する。彼女は予定通り、王に幽閉され、最後は自死する。

 現代の劇はまるで逆となっている。人が意志を持って行動するのは、世の中に認められ、成功する為だ。だから、現実に沿ったそんな劇が多数輩出される。ほとんどがそんな劇だと言って良い。見かけがそうでない場合も、観客や同業者の顔色を窺っている作品は全てそういう作品だと言って良い。

 人間の意志とか精神は、現実に逆行しても、尚も存続し続ける、自分が死ぬ時まで走り続ける、という所に怖ろしい部分がある。精神は絶えず現実に敗北する。だから、最初から敗北した人は勝利したように見える。そんな大人を沢山見かける。最初から戦わずに屈した人はそれなりにうまくやる。彼らは戦わないから、勝利する。しかし、戦う事を決めた人間は必ず敗北する。

 戦う事を決めた人間も、社会的に成功して、勝利する場合もあると人は言うかもしれない。ここに最初に言わなかった「キッズ・リターン」全体への不満もあるのだが、結局の所、社会的に成功しようがどうなろうが、精神は必ず現実に敗北する。何故そう思うかはこれまた長くなるので、書かない。

 精神は現実に負け、地に塗れるが、それでも不屈であるという所に痛ましい美しさがある。ここにドラマが成立する。人間は現実に敗北するが、それでも敗北を笑い飛ばす事ができる。強がる事ができる。強がりはただの強がりだと人は見るかもしれない。しかし、強がる事もせず、現実に屈した人の笑顔をどう見ればいいか。彼らは負けた事がない。何故なら、最初に己に負けたからだ。

 「キッズ・リターン」の二人は絶望の状態にある。にも関わらず、二人は笑う。二人の笑いは虚しいかもしれない。だが、この笑いがなければ、人間はいつも環境とか現実に従属する存在となってしまう。二人の笑いを虚しいと笑い飛ばすのは大人の態度だ。だが、大人のその態度を子供が笑い飛ばしては何故いけないのか、という転調で映画は終わる。

 「キッズ・リターン」という映画は、最後の場面で昇華されたように思う。ラストがなければ、本当に「一回見れば十分」の映画だっただろう。ラストの場面が感動的なのは、僕らが希望とか幻想とかいう形で持っているものを廃棄しても尚も、まだその底に何かがあるからだった。多くの人は「キッズ・リターン」を見た、感動したといっても現実に帰ると、やはり希望とか幻想を手に持つだろう。だが、「本当に」それを捨てなければ芸術は始まらないというのは一体どんな言葉で語ればいいのかと自分はいつも思案している。多分、それはこんな風に中途半端な言葉でしか語る事ができないのだろう。僕は一度、あのヘンリー・ダーガーに対してさえ、人生を「うまくやった」(結果として有名になったから)と評している言説に出会った事がある。このように、平俗化の運動はいつでもどこにでもある。そうした運動は絶えず、現実の過酷さから目を逸らすか、現実の過酷さに屈するかのどちらかだ。敗北した精神は外観上、勝利した微笑みを見せ、勝利した精神は外見的には敗北の姿を見る。どちらが良い人生かと言う事はできない。ただここは、大きな分岐点ではあると思う。「キッズ・リターン」はこの分岐点で独特の曲がり方をしたのだった。

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