FC2ブログ

物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

monogatary_comにて連載スタート

RIMG550ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬdししししししししししdd6


ソニー・ミュージック様からお誘い受けて、monogatary_comの方に「聖域追放」という作品を連載する事になりました。ニートの話です。よろしくお願いします。

https://monogatary.com/story_view/124

スポンサーサイト



「ドラマ」についての思惟 


 小林秀雄は「ハムレットとラスコーリニコフ」という文章で、「罪と罰」と「ハムレット」の両主人公は、内面と行為とが分離された存在だという事を指摘している。この指摘は僕にとっては極めて大きな示唆となった。

 一般に転がっている小説、物語、ドラマ、また大きく言えば、多くの人が生きている生き方そのものーーそれらに対して、僕はずっと疑問を感じてきた。簡単に言えば、それらが「つまらない」という感覚だ。現実で(ネットでもそうなのだろうけれど)そういう事を言えば「何を言っているんだ、みんな、真剣に生きている」と説教されるに決まっている。しかし、自分の感じている事はそういう事ではないーーと思うが、その声はどこにも届かない。自分の中の声として、自分の中に留まるだけだ。

 一般的なドラマ・小説というのは、結局、「誰かが何かをする」という話になっている。それは誰だって当たり前の事で、現実にみんな、そう生きている。しかし、果たしてそうだろうか。何故、誰かが何かをしなくてはいけないのか。例えば、夢を持って努力するという方法論から、挫折とか成功とかが生まれる。が、夢を持って努力する事自体馬鹿らしいとみなしたら、どうなのか。それは夢を諦めるという事ではない。夢を持つとか持たないとかいう事自体が、個人の主体的意志に過ぎないのだから、その意志を統御すれば、夢は消える。何故、夢を消してはならないのか。何故、夢を持たなければならないのか。

 こうした考え方は突き詰めると、「全ての人間が餓死する事を自分に許せば、あらゆる闘争は消える」という哲学者の極限的な言葉に収斂されていく。もちろん、そんな事を言えば身も蓋もないだろう。だが、身も蓋もない事を言わないというのは果たして大人の態度か。大人とは、自分の欲望に社会的衣装を身に付けた人の事なのだろうか。

 このような哲学的問いというのは、おそらく、子供らしい問いにすぎない。が、もし、僕がこの子供らしい問いを突き詰めれば、どうなるのだろう。あらゆる社会現象が自己から隔離されて、他人事となり、自分は悟りすました僧形のようになる。それでは、そこで全ての答えは終わるのか。

 プラトンは、そうした道を辿った。現実からスタートして、イデアの世界に到達する。現実は、私の外側にあり、世界に属するものだ。一方の「私」は一人、洞窟の外に出る。そこで真なるものを見る。そうして帰ってこない。

 物語・劇を作る際の動機において、現実そのものを否定すると、もはや動機とならない。牢獄に入れられてもそれを諦め、自己の死を、嘆く事なく受け入れればそれはドラマにならない。そうなると、社会・経済におけるあらゆる事柄はどうでもよくなる。これをどうでもよくないという視点はありうるか。常識的にはいくらでもあり得るが、この場合、常識そのものを否定しているから、もはやこんな人物に掛ける声というのは存在しない。ドラマは存在しない。劇は存在しない。

 だが、そんな人間もやはり、現実に生きねばならないとはどういう事なのだろう?
 
 ここにおいて再び、現実ーードラマが戻ってくる事になるが、還ってきたドラマは最初のドラマとは違う。そういうドラマというのは存在しうるか…と考えると、やはり「罪と罰」が頭に浮かぶ。僕がしつこく、「罪と罰」という作品にこだわるのは、そうした、ドラマを否定する精神をもう一度ドラマの中に叩き込むという事が唯一やられている作品だからだ。

 主人公のラスコーリニコフは、自分の外的行為と、内面との相違を常に感じている。この先駆は、小林秀雄の言葉では、シェイクスピアによってやられている。ハムレットは復讐を誓う。彼は復讐を天命と感じている。にも関わらず、天命である復讐という行為と、ハムレットという人物が一致しない。そこに微妙なズレが生じ、それが独白の際に見え隠れしている。

 ラスコーリニコフはハムレット以上に差異が激しい。自分の外的行為、欲望、欲求、それ自体を無意味と感じながらも、それをしなければいけないと信じている。自分が自分である事と、自分が、行為という局面においては自分にとって他人であるという事が常に感じられている。

 普通のドラマは、行為面、社会面において行動している個人像と、その人間自身の自己像が一致している。あるいは、それほど大きなブレはない。したがって、人間は、苦悩したり、苦しんだりするかもしれないが、それは自分が望む事が達成されないとかいう類の悩みである。もし、この自分が、自分がそもそも何も望む事ができないという事に苦しむとしたら、不思議な苦しみを持つ事になるが、僕が見たいのはそのタイプの苦しみとなる。

 ラスコーリニコフは殺人を天命と感じる。ハムレットは復讐を天命と感じる。その時、もう一人の自分が自分にささやきかけているのだが、自分にとってもう一人の自分は他人と感じられている。では、どうしてもう一人の他人は現れなければならないのだろうか。

 実際、ここに答えはない。「罪と罰」では象徴的な言い方が成されている「例え、どこにも行く所がなくてもどこかに行かなければならない」 この時、正しい理屈なんてものがなんだろう。

 通俗的な経済学が生産性、功利性、利益についていくら喧伝した所で、毎日ごはんと塩だけでいいのだと自分自身に決定したとしたらどうなるのだろう。そうしたら、馬鹿げた事になるのか。でも、どうして馬鹿げた事をしてはいけないのだろう? 他人から見て馬鹿に見えても、それは他人の視点から見ての事だ。自分から見た時、それが全てだ。

 だが、この人間も生きねばならない。どうして生きるのか? 
 
 ここに理屈はなく、人はただ生きる。あるいは親鸞のように、ただ黙って山から降りるのだろう。プラトンは最後まで下に降りなかったが、なんとなく、上に飽きた時、人は下に降りてくるのだろう。

 ラスコーリニコフが、改心する所を作者は理屈では描いていない。そこは理屈では描けなかった。…別の言い方をすれば、私と外界との間に無限のように広がっていた溝は、ある時、ふと、それが溝ではなかった事に気づく。そういう事なのだろう。

 人は現実の中で、一人の人間として生きる。一部のSF作家が鋭く見抜いていた事は、社会が完全なものとして現れるのであれば、もはやドラマは起こらないという事だ。現在に見られるドラマの多くは、人工的にコントロールされたドラマであり、例えば音楽を主題にすると、コンクールで優勝するとかしないとかが大きなテーマとなる。モーツァルトが借金まみれで死んだように、本質的に自己の音楽像と社会常識とが矛盾する際の葛藤を描く人間は(おそらく)いない。自分が自分と衝突する事なく、自分が社会と衝突する事なく、社会と自己とが融和されたコントロールされた場所での、先の見えたドラマのみがある。

 全てが自己意識に収斂され、哲学で言う独我論に極まれれば、世界に意味はなくなる。世界の中における私も消える。葛藤は消える。そこには安楽がある。だが、安楽それ自体に安楽できなかった時に、つまりは倦怠がーー自分という名の「完全」に飽きてしまった時、そこから人は不完全に向かって歩き出さなくてはならないのではないか。

 その時に、親鸞は山から降り、ブッダもめんどくさながりも、地上に降りてくる。自分だけが真理を理解したのだし、それを一々、世の中の誰彼に言いたくないというブッダの気持ちは現代からも共感できるものに感じるが、ブッダはハムレットと同様に、運命の啓示を見た。彼は自己の完全性から外に出た。(ブッダは最初、真理を教えるのを失敗して、つたなく否定されたが、その時に、内心に屈辱を感じたと想像すると、そこにはドラマがあるという事になる。ブッダが屈辱を感じられるのは、自己の完全を否定したからだった)

 人は通常、社会の中を生きる。社会の中を生きる自己と、自己から見た自己を一致させた人間は健常な人間だと言われる。何故ならば、人はとにかくも、その社会の有様を一応肯定するからだ。反社会運動も、たった一人でやれば狂人と呼ばれる。人は狂人を好かない。

 だが、もしあらゆる人間が、行為面、社会の中の自己が全ての自己であると信じ、世界と自分との間にズレがないのならば、世界からは苦悩が消え(伊藤計劃「ハーモニー」の世界となり)、完全な世界がもたらされる。しかし、その時、世界と呼ばれる社会現象はそれを否定する場所を失い、それ自体の論理が破綻する所によって破綻する所となる。思うに、世界の異変を察知できるのは、本当の意味での(見かけだけではない)アウトサイダーに限られているのではないか。

 通常のドラマにおいて、人間は自分を疑わない。劇は、どちらかと言えば無知から起こる。自分の欲望を否定できない弱さが、意志の強さだと誤解される所において、様々な事件が発生する。世の中にはそんな人間がいる。だが、常識を疑わない事と、自分の本能を疑わない事、どちらも疑わないという点においては一致している。そして疑いはドラマを消去してゆく。次第に諦念に落ち着いていく。

 だが、諦念に対して諦念を持つと、もうそのままそこにいる事はできない。ドラマが起こる。山から降り、人と交流し、世界の中の人となってゆく。自分と世界とのズレは、世界との否定とはならない。そうではなく、世界を否定した自分もまた世界の一部だという事が感じられている。

 ラスコーリニコフが最後に見た光景はそんなものだった。彼は、檻の向こうの茫洋とした、昔からの風景に、静かに自分が溶けていくのを感じた。自分もまた、世界の一つにすぎない事を知った。独我論は溶けた。独我論という論理ではないものによって溶けたが、それは独我論の言葉では描けない。おそらく、そこには哲学から宗教への転換がある。

 ……というような事を、「ドラマ」をテーマに考えた。しかし、「ドラマ」を考えるのは一人の人間の頭脳(意識)に過ぎないわけだから、この意識もまた世界の中の一事物にすぎない、という風にまた、ドラマを作る意識は、より大きな、歴史というドラマに吸収されていく。それをまた、未来の誰彼が、自分の意識下に収めようとする。そうした輪廻、連関というものがあるのだろう。そんな風に物語は連綿と続く。物語は、物語を否定する意志を媒介として存続していく。

「さまぁ~ず」についての感想




 Amazonのプライム会員になっている事もあって、「内村さまぁ~ず」という番組を見ている。吉本風の騒がしい笑いではないという所もあって、作業しながらゆるく見る分にはちょうどいい。

 「内村さまぁ~ず」という番組を見ていて、思ったのは芸人というものの立ち位置だ。「内村さまぁ~ず」は、内村光良と、「さまぁ~ず」の二人がゆるい笑いを届けるというバラエティ番組で、特にあれこれ書くような感じでもないが、結構話数見たので、芸人のポジションについて素人目線で考えてみる。

 「内村さまぁ~ず」では、三人の芸人はゆるい感じでやっているし、実際にゆるくやっている部分もあるだろうが、本当はそれだけではない。最近の芸というのは、一見、居酒屋で話している普通のトークであるように見せて、実は視聴者を意識した話芸になる事が求められている。自然さを装いつつ、技術を底の方に置いておくという所に主眼がある。

 だから、「さまぁ~ず」と言えば「ゆるい」というのも、そういう風に見せているという要素が多い。しかし、視聴者には「『さまぁ~ず』はゆるくやっててあの感じの笑いが好き」という風に思わせれば成功となる。本当は芸人は裏で努力しているとか、そういう所を見せたら、芸人である必要がない。「笑い」というフィクションの強度を保てない芸人、もっと高級な事、かっこいい事をしたい人は、自然、笑いから離れていく。

 笑いの一般論に戻ると、「内村さまぁ~ず」で、内村と同期の売れていない芸人が集まる回があった。見ていると、売れていない、売れなかった芸人というのは本当に面白くない。いや、面白くないだけなら別にいいのだが、そもそもカメラに自分が写っていて、カメラの向こうには大勢の人間が見ているという当たり前の意識すら持てていなかった。これはタレントとしては致命的な欠陥だと思う。

 その回で、売れなかったコンビの片割れがトークをしていたのだが、その話が「僕らのDVDが売れましてねー」という、本当の居酒屋、おじさん自慢トークであり、ただ自慢に始まり、自慢に終わっていた。それから、下ネタなども、テレビに写っている意識もなく露骨な表現を使っていて、全くカメラを配慮できていなかった。三村などはスケベなキャラを演じており、それは事実かもしれないし、そうではないかもしれない。三村もやりすぎる事はあるが、それでも、カメラに映る事を意識した下ネタであるから、生々しい感じは除外されている。これは、タレントとして、当たり前の事を意識しているかしていないかという差だと思う。

 一度、「さまぁ~ず×さまぁ~ず」の収録を見に行った事がある。知人がチケット二枚取れたというので一緒に行った。渋谷かどこかのスタジオだったと思う。

 収録に実際に立ち会って、印象に残った事があった。それは、収録現場での「さまぁ~ず」の振る舞いである。


 もちろん、「さまぁ~ず」はテレビで、僕らが見ているように二人でトークしていただけである。観覧席から二人までの距離はかなり近い。しかし、実際、観覧席から二人を見ていると、二人とこちらの間の距離を物凄く遠く感じた。

 何故、距離を遠く感じたのか。答えは簡単で、「さまぁ~ず」の二人は、実際には観覧者とスタッフの、数十人単位の前でトークしているだけなのだが、二人の頭の中にはカメラの向こうにいる無数の人の姿が見えていて、それに合わせて話したり、怒ったり、暴れたりしている。つまり、そこに実際にいるのはせいぜい数十人だが、「さまぁ~ず」はカメラの向こうの広大な人達を想定して演技をしていた。それは不思議な体験だった。だから、実際、かなり間近で「さまぁ~ず」の二人を見たのに、あんまり実在のタレントを見たという感じはしなかった。距離が近くなって、カメラが消えても、カメラを意識して振る舞う行為は、やはり、タレントとしての行為である。

 「さまぁ~ず」の二人の芸人としての力量がどんなものか。比較を明石家さんまに取るか、つぶやきシローに取るかで相対的に変化するだろうが、少なくとも二人がカメラの前でどう振る舞うかという事を心得ているプロフェッショナルだという事は確かだろう。そしてそれは、カメラの前に出る人間としての最低限の技術・訓練なのだろう。前述の、売れなかった芸人はカメラを意識せず、「芸人の先輩」としての内村光良とかさまぁ~ずばかりを意識していて、カメラと、カメラの奥の無数の人達を想定できていなかった。そうした芸人に比べれば、さまぁ~ずとか内村光良なんかはやはりプロなのだろうと思う。彼らがプロである事を前提とした上で、その芸について更に言うこともできそうだが、ここでは言わない。大体、そういう事を「内村さまぁ~ず」を見て思ったという、そういう話だ。

 伊藤計劃「ハーモニー」の中心的思想について



 伊藤計劃「ハーモニー」のラストは、人間が進化の帰結として、意識を消失するという風になっている。引用すると、次のようになっている。

 「社会的存在として完全に純化し適応した人間が最小単位となったとき、社会学と経済学は完全な純粋理論と現実の一致をみた」

 個人の意識は消失し、人間は純粋な社会システムと完全に一致する事となった。こうした事は小説上の絵空事と思う人もいるかもしれないが、これは極めて現実的な問題であると思う。嫌な事を言うなら、そもそも社会システムと自己を一致させ、その事に何も疑わない人は、この問題の所在そのものを認めないだろう。何故なら、彼は既に「ハーモニー」を達成しているからだ。

 伊藤計劃が「ハーモニー」に籠めた思想は、様々なものとつながって見える。例えば、哲学者のシオランだ。シオランは、進化論者と対話した時、学者に対して「人間の苦悩は理論の中にどう位置づけられるのか?」と質問した。すると、相手は「苦悩は理論の中では単なる偶発的なものにすぎない」と言った。シオランは怒り、それ以上の対談を拒否した。

 以上の話はツイッターのbotで見たので、事実かどうかはっきりわからないが、非常に興味ある話だ。これは因果系列の問題として考えられる。

 例えば、先日、サッカー日本代表はオーストラリア代表に勝利した。するとすぐに「何故日本代表はオーストラリアに勝利できたのか?」といった類の記事が現れる。「勝った」という結果から原因を探るゲームが始まる。

 このゲームは行き過ぎると、人間の苦悩や意識を消失させる因果的理論が目の前に現れる事になる。オーストラリアに日本が何故勝てたのか? という問いはやがて、その原因を遅かれ早かれ発見する。すると、「原因→結果」という方向性の中で、選手や監督の迷い、不安、苦悩、努力などは消えてしまう。ある地点aが次の地点bを引き起こすのであり、その方向が必然的なものならば、その必然性の中で、その時々に現れた迷いや苦悩や自由は消失する。(苦悩は深く自由とつながっている)

 因果系列を「a→b→c→d→…」と考えていくと、それは必然的なものであり、動かす事のできないものとなる。こうなると、理論としては完璧だが、自由は全くなくなるという事になる。

 社会学の創始者はデュルケームだろうが、デュルケームは「自殺論」を書いている。デュルケームは「自殺」は社会的単位として分析できる事を発見した。しかし、自殺が「純粋に」社会的な所産であるならば、社会的対策を適切に施せば、自殺は完全に防げる事になる。その際、社会の関係の上で自殺に「追い立てられた」人間が、どのような内的意識、苦悩を抱えていたかという問題は取り残される。

 僕はデュルケームが間違っているなどと主張するつもりはない。デュルケームは適切に問題を扱っていると考える。しかし、デュルケーム的なものをある一方に拡張すると、人間の中から、意識や苦悩の問題を取り除く事になり、「ハーモニー」が達成される。それとは逆に、個に焦点を当てすぎると、どんな集団自殺が起ころうと、「個人の踏ん張りが足りなかったからだ」という事になる。こういう見方もまだ根強い。鬱病の人間に、「根性が足りない」と言い続けるようなものだ。しかし、実際の所、鬱病が純粋に社会的所産であるならば、彼の病は社会から生み出される必然的事象となり、したがって、彼は自分の病と戦わなくて良い事になってしまう。そうなると、彼は救われるのだろうか。

 今までを簡単に総括すると、確かに、人間は理論的な所産だと言える部分がある事がわかる。しかし、同時に、人間は意識や苦悩を通じて自由であろうとする存在だとも言える。

 伊藤計劃は「ハーモニー」でこの問題をどのように取り扱ったか。答えから言うと、彼はこの問題を完全な形では解決できなかった。しかし、そもそも完全な形での解決が必要なのかどうかという問いの方が、この場合、答え以上に重大と感じる。

 そもそも、伊藤計劃が小説という媒体にこだわったのは何故なのか。彼の小説では、大問題は常に小問題と結びついている。三人の少女の小さな物語が、大きな、世界という物語に対して抵抗しようとしている。ほんの些細な感情というものを、大きな問題と対比させつつ、物語を進行させている。

 伊藤計劃がもし、小さな物語に、固執していなければ、彼は社会学者になればよかったはずだ。その素質もあっただろう。だが、小説というジャンルにこだわるのは彼にとって、彼自身の小さな肉体が絶えず、世界の中で一つの存在であるという以上に重要だとという確信があったからだ。そんな風に考える事もできるだろう。

 大きな問題からすれば、個人のエモーションの部分はくだらないものにも見えるだろう。ある政治家がテレビで「俺達は日本の為に頑張っているのに、今の若者ときたら…」と愚痴っているのを見た事がある。高坂正堯を勉強していて痛感したが、政治とか社会とか経済とかの大きい問題とばかり組み合っていると、小さな、個人レベルの物語は馬鹿馬鹿しいものに見えてきてしまう。自国の領土を増やすとか、外交で得をするとか、そういう大きなゲームにずっと携わっていると、個人レベルの事は馬鹿馬鹿しい事に見えてくるだろう。

 これは、作家が、デビューしていくらか立つと、政治的な講演とか言説を成して、真面目に小説を書くのが阿呆らしくなってくるのと同様の現象に見える。「日本のために」という大きい物語にはまりこんでいると、誰と誰が好きだとか嫌いだとか、そんな小さな話は馬鹿げたものに見えるだろう。僕は小説家というのは、「小さな説」になんとしてでも、頑強にしがみつく存在だと思っている。しかし、大雑把な物語にばかり関わっていると「いろんな事は工学的に処理できる」だとか「社会理論が世界を救う」という話になってくる。僕は、人間の希望は決して社会理論によっては救われない場所にあると感じている。

 「ハーモニー」に戻ろう。「ハーモニー」では三人の少女という小さな物語は、世界全体の「ハーモニクス」という、大きな物語と直結したものとして語られている。このあたりは最近のセカイ系のアニメ・ゲームなどと共通するもので、その影響にあると言ってもよいが、それ以上に、伊藤計劃にはそれを描く事が必要だという根拠があった。

 その根拠はつまり、大きな物語だけでは小説にならないからである。あるいは、小さな物語を欠いた、最後のエピローグだけでは、物語にならないからである。もっと言えば、そもそも現実とはそういうものではないという事になる。もし我々が苦悩を消し、意識を消し、自由を消す事によって、大きな存在と一致し、そこで幸福になったとしたら、それは何のための幸福かという問題が出てくる。言い換えれば、自由と幸福の二元対立が問題となる。

 自己を捨てる事によって幸福になれるとして、それは果たして幸福なのかどうか。例え不幸になっても自由である方が良いのではないかというのは、古来から続いてきた、人間にとって本質的な問題に思える。

 繰り返すが、「ハーモニー」という作品ではそれは解決されていない。むしろ、非解決に終わっているとさえ言えるだろう。女主人公はこう言う。

 「たぶん、そうなのだろう。
  異議は、ない。      」

 女主人公はこんな風に述懐する。彼女は世界が「ハーモニー」になる事には異議はない。少なくとも、意識の表面上ではそう言う。しかし、どう考えても、異議がないはずはない。その証拠に

 「この弾丸は、わたしが撃ったもの。
  他の誰の意志でもない、わたしが撃ったもの。
  わたしが。
  わたしが。

  わたし。」

 という風に、主人公は「わたし」に固執している。これは、理論的な面においては同意せざるを得ないが、彼女のエモーションとしては同意できないという事だと思う。それが、文体レベルで現れている。文体レベルにおける表現と、作者の思想、作者の現実認識が見事に一致している稀有な例を、ここに見たい。

 また、同様な繰り返しはエピローグにもある。

 「いま人類は、とても幸福だ。

  とても。


  とても。」

 これは主人公の述懐ではないが、どうしてこんなに「とても」を繰り返すのだろうか。ここでは、理論的な側面、論理的には完全に終わった書物の中で、感情レベルで(文体レベルで)、まだ終わっていないという事を示している。そう考える。「とても」を繰り返す意味は、論理的には存在しないし、余計だ。しかし、本来的にはそこで終わってはならないという祈りがそこには籠められている。

 こうして考えていくと「ハーモニー」という作品のそもそもの思想は何だろうか。一人称におけるナイーブな視点というのは「虐殺器官」から変わっていない。そこから、ラストに向かって順番に歩いていくわけだが、最後には自分を消失するという結果が現れてくる。自分の消失は即ち、一人称の消失であり、語る主体の消失である。消失させるのは、社会システムである。

 一人称が消えていくという小説的な方法は逆に言えば、それを消失させるシステムそのものが肥大化すると、これは消えてしまうのだという事を示しているように思える。時間的に言えば、過去から未来まで順番に論理で折り畳んでいくと、そこに意識の自由、苦悩という「現在」はなくなる。

 ベルグソンは時間の空間化を批判したが、ベルグソンの時間は意識の時間だった。渡辺慧が言っていた事だが、時間というものを

    未来ーーーーーーーーーーーーーーーー過去

 と置くと、「現在」はこの線のどこにも取れる事になり、「今ここ」という我々の実感は消失してしまう。歴史の本を最初から最後まで時系列に沿って眺めても、何故今生きている「私」が十三世紀の人間ではなく、三十四世紀の人間ではなく、「今ここの人間なのだろうか?」という問いに答える事はできない。

 今生きている私が私にとってのっぴきならない事態であるとは、論理では語れない事態であるが、この私がいなければ、論理そのものを語る事はできない。世界と、私との継ぎ目に、「私」は存在する。一人称で語るという事は、「私」と世界を繋ぐ役目を負っている。だが、世界が肥大化して、「私」が消えた時、その時、一体、何が残るだろうか。

 先日、電通の社員が過労を苦にして自殺したが、一人の社員の魂を踏みつけにしたとしても守らなければならない契約とか義務とかいうものはあるのだろうか。こうした体育会系のシステムにおいて個人は、それではない事を要請される。彼らには、伊藤計劃の提出した問題は見えないだろう。何故なら、その問題は彼らにおいて既に解決済みだからだ。つまり、「ハーモニー」は達成されている。あるのはシステムに適合できない、不適合者だけだ。

 伊藤計劃は独特の一人称によって、システムを内部から、疑問に曝した思想家だったと言えるだろう。システムは人間の頭には、大きな物語、必然な因果系列として移る。過去から未来まで、順番に論理を繋いでいけば「今」の自由は消失される。しかし、伊藤計劃の一人称では、その「今」から世界について語るという方法論が徹底されている。それ故、一人称は作品の最後ではその不可能性に衝突し、消えてしまうが、その衝突の余韻を読者である我々は、作者の思想として読む事ができる。つまり、一人称が消え去った場所に、本当に豊かなものがあると考えられる。何故なら、その箇所は一人称では書けないが、伊藤計劃は書けない事を意識して書いているからだ。

 伊藤計劃の「ハーモニー」においては、そうした思想が現れていると見ている。世界をシステムに一元化した時、全ては救われるが、救われた世界は果たして良き世界なのだろうか? …が、この問いは、作品そのものからはみだしてしまう。はみだしてもなお、語ろうとして語り得ない事を明らかに感じて書いている所に伊藤計劃の非凡さが認められる。そういう風に「ハーモニー」という作品を考えている。伊藤計劃が示した問題は現在でもビビッドな事柄だと思う。これについては、考えついで、書き継いでいく必要があるだろう。

 

該当の記事は見つかりませんでした。