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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

流行り廃りについて (「ニコニコ動画」・「小説家になろう」)




自分もオタクの一派なので、ニコニコ動画をわりと前から見ている。しかし、最近のニコニコはひどいなあと感じている。

最近のニコニコで特にひどいと思うのが、人気生主の座談会で、横山緑などの生主が集まって、北朝鮮の問題なんかについて話している。

この座談会みたいなものを見ると、成れの果てというか、何かの終わりを感じる。最初、内輪で盛り上がっていたものが公式化されて、一般化されると、魔法が解けるような、そんな感じがある。

テレビに出てくるタレントは最近は批判されているが、そうはいっても、彼らには話芸があったり、見た目が非常な美人だとか何らかの武器を持って出てくる。もちろん、すぐに消える、手持ちの武器がほとんどないタレントもいるが、タレントは競争社会なので、大衆の視線にある程度耐えられる人が残る傾向がある。

翻って生主の座談会を見ると、特に話芸があるわけでもなく、時事問題に精通しているわけでもなく、なにが魅力なのか正直よくわからない人がだらだら喋っていて、内輪のノリに入っている人しか見られない構成になっている。僕が押している神聖かまってちゃんなんかも、音楽をやっていなければ、彼らのうちの一人にすぎなかったと思う。

内輪のノリ、ニコニコ動画のノリの中に入っている人はある程度、こうした流れについていくだろうが、いきなり外部から入ってきた人からは一体何が面白いのか、何が良いのか、よくわからないと思う。こうなっていくと、多分、一つのブームの終焉という事が考えられる。

ニコニコから話を移すと、「小説家になろう」では異世界小説が流行ってる。書く人も多いし、読む人も多い。何より、書籍化されるのもそうした作品が多いので、運営も力を入れているのだろう。

異世界小説が流行るというのはもちろん悪い事ではない。収益が見込めるから流行るわけだし、利益が必要な団体がその方向に行くのはやむをえない。

だけど、ここでもニコニコ動画で起こったのと同じ事が起こるのではないかと思う。異世界小説が流行り、その流れが一旦できると、「小説家になろう」=「異世界小説」という定式がなんとなくできあがる。「異世界小説」を読みたい人、そういう傾向のライトノベルを読みたい人は「なろう」に入っていくが、それに興味がない人はそこから離れていく。

書く方も、アニメ化が見込める、プロになれる、書籍化できるかもしれないという事で、その方向に特化していく。こうしてある方向への流れができると、それはどんどん加速していく。読む方も書く方も、傾向性が出てくる。

しかし、その傾向はいつまでも続くものではないから、ある時、異世界小説ブームにも終わりが来る。似たような作品が飽和し、読者の方でも飽きてくる。そうなってくると、異世界小説ブームは終わる。ブームだけが終われば別にいいが、「小説家になろう」=「異世界小説」という定式がなんとなく、ネットを見ている人の頭にあると、「小説家になろう」というサイト自体が力を失っていく。そういう可能性は十分あると思う。

今、ニコニコ動画で起こっているのはそういう事な気がする。ブームは活気付けるが、それが去れば、その場所を廃墟にしてしまう。栄枯盛衰という点で考えるとやむをえないのだろう。

ユーチューバーなども同じ事が起こっているのだろう。この場合、サイトの上昇・下降とそこで扱っているコンテンツ・流れとが一致するかどうかというのが重要な気がする。

何が言いたいかというと、流行りだからといってその流れに全面的に乗っかる事ばかりしていると、流れが去った時、手元に何も残らない状況になるという事だ。もちろん、流行りに乗った方が「おいしい」のだから乗らない手はない。しかし、賢い運営者であれば、流行りに乗りつつも、次の一手を考えておくべきだと思う。異世界小説の流れに乗りつつも、常に次の展開、このブームが去った時、このサイトはどうあるべきなのかと考えておく必要があると思う。また、ブームに乗りすぎると、そのブームと一緒に流れ去ってしまうから、バランスを見ながら抑制する事も必要かと思う。持続的に、長くやっていくコツというのは、あんまり勝ちすぎず、また、あんまり負けすぎないという事にあるように思う。(このあたりは阿佐田哲也の「麻雀放浪記」から学んだ)

…とまあ、感想を書いてみたが、これはブームとは無縁の人間の独り言である。自分の言っている事が誰かの参考になれば幸いだ。

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三世の書

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バルザックからドストエフスキーへ


 


 小林秀雄の言葉を信じると、バルザックが発見したのは、「どのような個人も、社会における一存在だ」という事になる。例え、富豪であろうと貧乏人であろうと、社会において生息し、自分の生き方をしている一人の個人である(にすぎない)というのがバルザックの洞察だった。

 一方、バルザックの終わったところから始めたドストエフスキーはどんな発見をしたか。僕の定義では次のようになる。

 「どれほど巨大な自意識を持った個人であろうと、社会の中の一存在として生きざるを得ない」

 ここで重要な所は「生きざるを得ない」という、やむをえない、というポイントにある。人間は自己意識を持っており、ほっとくと膨らんでいく。究極的に膨らんだ自意識としては、パスカルという一個人を思い浮かべたい。

 「宇宙は物理的に私を包んでいるが、考える事によって私は宇宙を包む」

 この時、パスカルは(「罪と罰」の主人公)ラスコーリニコフによく似ている。考える事が「仕事」だったラスコーリニコフは、殺人という行為を犯し、他者の媒介を経て、社会へと解消されていく。

 例え、どのように反社会的行為であっても、それは行為であるという理由によって社会的行為の一つである。例え、愚かな殺人という市民社会に反する行為であっても、反するという意味において、社会的行為だ。屋根裏部屋で夢想にふけっているラスコーリニコフにはどのような劇も起こりようがなかった。彼は怪物のように、思考と夢想を膨らませていただけだ。

 夢想が凡庸な行為となる時、ドラマがおこる。他者との関係、社会との関係がある。仮に殺人というものが、犯罪であっても、やはりそれは行為であり、社会の中に起こるある事柄である。犯罪者が反社会を唱え、死刑になるまで世界に抵抗し続けたとしても、彼は抵抗という形式を通して、社会的な存在だ。

 社会は彼の首を刎ねる。その時、社会は刎ねられた首が自分の一部である事を感じざるを得ない。一方で、屋根裏部屋で寝転んでいるラスコーリニコフは、どんな存在でもない。彼は社会的存在ではない。反社会的存在でもない。彼はなにものでもない。だから、ラスコーリニコフが犯罪者という「なにものか」になるためには殺人という愚かしい行為が必要だった。ドストエフスキーはその事を見抜いていた。

 ドストエフスキーは、ラスコーリニコフという人物が作品内で解き放たれた時、どのような運命をたどるのか、よく見えていた。見えすぎるほどに見えていた。この場合、「見える」という意味はかなり難しい。というのも、ラスコーリニコフという人間の内面ですら十分複雑であるのに、その複雑な内容がどのような運命をたどるのかという事への洞察は、ラスコーリニコフを客観化する必要があるからだ。

 社会は個人を生む。どうあがいても、ラスコーリニコフの思想は社会が産んだ産物だ。ラスコーリニコフは当時のロシアが生んだ怪しい思想にかぶれている。ラスコーリニコフという個人は社会が生み、したがって、社会の方から彼を捉えれば、彼は容易に見える。このような観点がなければ、歴史学、社会学は成立不可能に見える。

 しかし、同時に個人もまた社会を見る。社会を洞察し、社会を意識する。ラスコーリニコフは屋根裏部屋でどんな事を考えていたのか。彼もまた、自身の思考の中に社会を、地球を、宇宙全体を丸め込んでいたに違いない。

 だが、そのように巨大な自意識を持つ人間もまた、人間社会において一人の人間として生きなければならない。それは意識にとっては諦めである。意識は社会全体を飲み込む事が可能だ。だが、それを飲み込んだ個人もまた、社会の中の一員として生きざるを得ない。
 
 社会の中の一員として生きるという事は凡庸な人にとってもっとも容易い事であるが、パスカル的人物にとってはもっとも受け入れがたいものだ。極言すれば、それは、凡人にとって極めて簡単に突破できる壁であり、天才にとってどうあがいても突破できない壁となる。凡人にとって簡単な事が天才には不可能なものとなる。

 ラスコーリニコフは、世界全体を十分に意識している。しかし、この人物は殺人を犯す。彼は殺人をどうして成そうと思ったのか。作品の構成からすれば、彼は自分の限界を知りたかったのだ。彼の意識は怪物的に彼を飲み込んでしまった。彼は自分を神のように思いなした。その時、彼の意識はそれに耐えられなかった。どうやら、自分は神ではない。その事を知る為に、彼は人を殺した、そうも言える。

 ニーチェの晩年の「この人を見よ」は狂気の発作が現れているが、この時、ニーチェは殺人を犯す前のラスコーリニコフに似ている。神を排除した以上、自分が神となるしかなかった悲劇がそこに現れている。だが、ニーチェは狂気に陥った己を見る事はできなかった。彼は自分を神と定義した為に、神に擬した自分自身を見る事ができなかった。悲劇はニーチェの外側に起こった。ドストエフスキーにおいて、作品構成として現れた悲劇は、ニーチェにおいては現実のものとして起こった。

 ラスコーリニコフは自分の限界を知る為に殺人を犯した。カントの鳩という哲学話がある。鳩が空中を飛翔している。真空のように抵抗がないところであれば、もっとうまく飛べると鳩は考える。鳩は大気圏を突き破って、真空の中に出るが、そこは抵抗がない為に飛ぶ事ができない。
 
 ラスコーリニコフはこの鳩に似ている。意識において万能であった己は社会においては一存在であるにすぎない。その事を、彼は知っていた。つまり、鳩は、真空に出れば死ぬ事を知っていた。それでも鳩は、真空に出なければならなかった。何故だろう。
 
 何故だろう、というこの問いには多分、誰も答える事ができない。実際、ドストエフスキーもこの問いに答えていない。原理的には、ラスコーリニコフの論理的知性は二つの、非論理的な要素によって支えられている。一つは、彼が殺人を犯す理由。もちろん、この理由には色々な意味付け、理由付けが成されているが、その根本は、謎であるし、謎であるのが答えだと僕は思っている。もう一つは、ラスコーリニコフが最後に改心する理由。最後に考えを改める場面を作者は、自然と偶然にまかせている。あらゆる必然と論理が破れる時にはじめて、自然が、偶然が彼を救う(破滅させる)という事は作者はよく知っていた。この「知っていた」というのは論理的に知っていたわけではない。ただ、作者はそう知っていたのだ。そうとしか言えないような形で知っていた。

 人間は有限な存在であるが、最初から自己の有限性を意識した人間はつまらない人間に違いない。最初から、うまく社会に適合しそこそこうまくやっていく人間はさして魅力がない。だが、ニーチェのような人物は魅力的かもしれないが、彼はほうっておくと、自分の思考のロケットに乗って宇宙の果てまで出ていってしまう。それは正しいのか? …そのような姿を外から捉えるのはやはり、凡人である我々の居場所からだ。ニーチェの悲劇がくっきりと見えるのは、みんながニーチェではないからだ。その差異に劇は起こる。

 ニーチェは自分自身を悲劇の主人公としたが、ドストエフスキーは自身をラスコーリニコフとはしなかった。彼自身がラスコーリニコフであった時期はあるだろうが、時間と粘り強さによって彼はラスコーリニコフを描く存在となった。論理と内的意識はその限界を示された。しかし、論理の限界を知る事ができるのは、それが無限だという誇大妄想を持ったものに限られる。理性の絶対的確信を持ち、走っていく事だけがその限界を知らせてくれる。巨大な望みを持った人間だけが、それによって突っ走る人間だけが、限界線を知る事ができる。

 最初から諦めている人間には諦めは訪れない。彼には欲求不満だけが訪れる。なんとなく、先があるような気がするが、自分はやる気がないからやらないという、不完全燃焼がある。こうした人物は利口ぶるが、彼は愚かになれないから、利口であるにすぎない。
  
 一方、望みを持ち、自意識を無限に膨らませていく人間は、それだけではただ、現実との差異に絶望するほかない。本当は、そうではない。現実が彼の意識についてこれないのではない。彼の意識と現実との間に常に差がある事が彼の運命であり、彼の望みですらある。彼はある点から自分自身を諦める。その諦めとは、願いが無限への願いだからこそ有限だという真理だ。この点に気付くと、彼は生きていく事ができる。この事を知らないと、彼はいつまでも夢の中で階段を無限上昇していく事になる。
 
 論理の両端には論理ではないものが控えている。論理を「こんなもの」と考える人間はその限界に触れる事ができない。社会において生きる事を安易に受取り、そこにたやすく迎合する人間は社会の限界にも自分の限界にも触れる事はない。自分の限界を知ろうとして、社会の外に出ようとして挫折した人間ーーそんな人間がいれば、彼には、社会において生きるという言葉の意味がわかるだろう。ロビンソン・クルーソーは一人で孤島に行っても、やはり近代人でありイギリス人だった。彼には社会において生きるという意味はわからなかったかもしれない。それは、彼が孤島においても一つの社会であったからだ。

 社会の内に生きるという意味を知る事ができるのは、そこから一度出た人間に限られる。だが、そんな事は不可能だ。孤島に百年いたって不可能だ。だが、その不可能を知る事が結果としては、彼を生かす事になる。自分の限界を知る事が他者との関係の内にしか生きられないという事を教える。そういう物語をドストエフスキーは「罪と罰」という作品で作ったのだと思う。最近のリアリズム小説では、スタート地点からうまく社会に適合している為に、その生に何の意味があるのかわからない。ただ生きているだけだ。一方で、ライトノベルは現実から離反して夢想するが、夢想は欲望の代替にとどまり、「理想」にまで到達しない。どっちでもない道を行く事ができるか。そう考えた時に、ドストエフスキーは未だに…興味ある素材であるように思える。

 神聖かまってちゃん 新アルバム「幼さを入院させて」 レビュー



  
  村の僕らはアコーディオンをただジャンジャカならして可愛くおどるのさ
  流れ星が美しさに
  願い事を叶えましょ      
                           「僕はぬいぐるみ」 (「幼さを入院させて」より)


 神聖かまってちゃんというバンドは最初、いじめられた経験、抗うつ薬、底辺の叫び、鬱病、といった極めて現代的な、底辺の個人をそのまま曲に載せるという事で出てきた。他のアーティストが現実を見ないようにして、綺麗でおしゃれな歌を歌っている時に、あえて自分の傷口に手を突っ込んで、血と肉塊を世の中に晒してみせた。そんな存在だった。

 だが、そんな神聖かまってちゃんにはもう一つの側面があって、それはバンド名の中の「神聖」という言葉にあらわれていた。神聖かまってちゃんファンはきっと、神聖かまってちゃんに現実の辛さ、苦しさへの抵抗を聞き取る一方で、神聖なものへのあこがれ、現実とは逆の、全てが救われるような美しく、ホーリーなものへの上昇も感じ取っていた。つまり、神聖かまってちゃんは辛い現実を満身に負い、抵抗したり、時に押しつぶされたり、といった経験から逃げ出さず、なおかつその実感はそのまま、現実とは違う神聖なものへの憧れへとつながっていた。

 そういう意味では、天国に入る事ができるのは現実の悲惨さから逃げ出さなかった者に限られる、と言う事ができるかもしれない。

 本アルバムでは、過去の、現実からの傷を洗い流し、いよいよ神聖さへと上昇していく神聖かまってちゃんの姿が見られる。このアルバムはの子にとって「聖地」であって、現実から上昇した人間が長い苦行の後にようやく辿り着いた領域に見える。

 最初にあげた歌詞はそんな空間の体現だ。

 「村の僕らはアコーディオンをただジャンジャカならして可愛くおどるのさ」

 これはただ、そういう風景を描いたものではなく、の子と仲間が、聖地にて「可愛く」踊る姿と言って良いだろう。現実の悲惨から始めた詩人はここでようやく、休息地に辿り着いたようだ。

 だから、ここがゴール地点だと言っても良いが、まだまだ天邪鬼たるの子には、走っていってもらいたい。(生きていってもらいたい) どこから見ても短距離ランナーだったの子には、長距離ランナーになって欲しい。その為の道筋は彼自ら用意している。

  1人じゃにゃいよと
  旅立ちの声が聞こえる
  声が聞こえる
  世界に捨てられたような
  鳴き声が聞こえる
  声が聞こえる
  駅の向こうから
  旅立ちの声が

                            「ねこねこレスキュー隊」


 「駅の向こう」から聞こえる声はまだの子を呼んでいる。そのはずだ。「聖地」はまだ、の子にとって通過点のはずだ。駅の向こうからは声がする。丘の向こうには何かがある。旅はまだ続く。まだまだ神聖かまってちゃんは歩いていかなければならない。聖地を越えて、山の向こうへと旅しなければならない。そうする事がきっとーー選ばれた者の宿命なんだと思う。

物語の嘘くささと時間に関する中途半端な論考


物語の嘘くささと時間に関する中途半端な論考



読むにしても書くにしても、「物語」というのはどうも嘘くさいと以前から感じていた。自分自身の書くものに対してそう感じてきたので、書いては消す、書いては消す、という期間が過去に結構あった。

物語というのに嘘くささを感じるのは、映画を見る時もそうで、物語が導入される前の細かい描写、細かな生活感とかキャラクターの感情がうまく表出されていると愉しく見られるのだが、物語が導入されはじめると急にその人工的な手つきが気になって、見えなくなってしまう。こういう気持ちは個人的なもので、一般性はないのかもしれないが、続けて考えてみよう。

最近だと東浩紀の「クォンタム・ファミリーズ」という小説がそうだった。「クォンタム・ファミリーズ」は決して低次元の作品ではないが、途中から作者が物語を導入しはじめたなという、その手つきが見えてくると読む気がなくなって読むのをやめてしまった。作者が登場人物を自分が作った物語の中に放り込む時、どうしても登場人物は硬化してしまうという現象があるのではないかと思う。それは、人間は本来、自由であり自分の内面があるのに、それを作者が自分の決めた路線に強引に押し込めようとする時に起こる仕方ない現象であるように見える。

別に東浩紀を批判したいつもりでもないので、話を進める。

物語の嘘くささを現実の問題として捉えていく事にする。人間の存在を考えてみると、人間は完全に自由なわけではないが、完全に不自由なわけでもない。未来が確定的に決まっているわけでもないが、同時に、全く決まっていないというわけでもない。

何故そんな風に見るかと言うと、例えば、僕という存在を例にとって考えてみよう。僕がこの先、小説家になる未来はあるかもしれない。なれない未来も当然あるが、小説を書いたり書かなかったり、そこで成功したり失敗したりという未来は予想される。だが、僕が歩いて月に到達する未来は考えられないし、数学者になる未来もまず考えられない。現時点の僕の存在が未来に対してある程度、可能性を絞っている。今の存在が未来の存在を予知している。しかし、それは完全な予知ではない。

人間には資質とか方向性というものがある。これは身体的な問題も含まれる。人間というのは、自我意識に目覚めた時には既にある程度の方向性が決まっている。仮にこの社会が全く自由なもので、自分の努力次第で何にでもなれる存在だとしても、自分の存在自体、最初からある程度決定されている。その決定からまた次の決定がぼんやり予期できる。つまり、人間の生涯は白紙に自分を描いていくものではない。全くの白紙に自己を思い描く事はできない。だが、全く決められた経路を辿るわけでもない。自分の資質とか運命とかを感じながら、それと終始葛藤していくのが人の人生であると思う。

問題は、ここから起こる。こうした、葛藤した個人を客体的に見ると、その人間はある経路を通っているように見える。未来の観点に立つと、過去の人間はみんな、それを望んでそう意思して生きたような気がしてくる。アンネ・フランクが少女のまま死んだのは彼女の確定的な運命だった気がする。が、彼女が生存している立場に立つと、彼女はどれほど生きたかったかわからない。生きられる可能性だってあった。現実にはそうならなかった。この時、アンネの内面に立つ事と、結果としてアンネが死ぬ事は、フィクション作品の中ではどのように整合が取れるのだろうか?

作家が物語を作り、その経路にキャラクターを従わせる時、作家は未来の観点に立っている。彼は確定的な過去というものを知っている。だから、アンネ・フランクの人生を題材にして描く場合、彼女の死に焦点を絞って描く事ができる。しかし、アンネ・フランク自身は自分の死に焦点を当てて生きる事はできない。彼女は別に自殺したわけではないし、彼女の死は彼女の外側にあった。そこでは、彼女の内面は意識として様々に展開されるものの、死はその外側にある。

「アンネの日記」を読む人は、そこに若いままに死んだかわいそうな彼女の姿を見る。だが、日記を書いているアンネにはその姿は見えていない。彼女は生きたかったはずだ。彼女の内面は広がっていき、自分の意識について意識している。それをノートに書き付ける。が、読者はそれを彼女が死んだという事実の場所から覗く。

物語の嘘くささというものを僕が感じるのは、登場人物は本来、ある程度の自由を持っているにも関わらず、作者が登場人物を強引に自分の作った物語の中に引き込むからだと思う。実際、物語性があるにも関わらず、物語の嘘くささを感じない小説というのは存在する。



物語というのは、起こった出来事の連続性でもあるし、時間というのが順序よく継起していくという事でもある。物語の渦中にいる人間というのは結末を知らないのに、作者は結末を知っている。

作者は未来の場所に立っている。一方、登場人物、主人公は過去のある一点に立っている。作者は主人公に対して絶対有利な立場に立っている。この時、作者は自分を、世界を創る創造主であるように感じられる。

これに関しては見方を変える事もできる。仮に神がこの世界を、我々を作ったのだとしても、そこに我々に全く自由がないとは限らない。というのは、我々がある資質、存在、肉体を与えられたという事実は、全て神の創意によるとしても、そこからどのように発展していくかは神にも決められない。例えば、僕が文学的資質を与えられたとしよう。その僕がいきなり数学者になる事を決意したとしたら妙である。神が与えた文学的資質なるものに、僕の決意は反する事になる。そして神がそのような転向を意図して与えたとしても、それは最初に神が与えた資質に反するからやはり奇妙である。それにそんな事ばかり神がしているのであれば、神はわざわざ僕を創る必要はなかった。神には自分の意志と命令のままに動くロボットがあればいいのであって、僕という独立した意識を持つ存在を創る必要はなかっただろう。

作者は登場人物をどのようにも作る事ができる。どんな突飛な設定も付け足す事ができる。だが、一度与えられた設定は登場人物においては、自分のものとする。登場人物はもちろん、単なる記号であるから、自分の内面とか意識とかは持たない。それでも登場人物は自分に与えられたものを守ろうとする。単純な設定ーー例えば、光に弱い主人公がいると、主人公が平然と太陽の下に出てくる事は許されない。作者が好き勝手にそういう描写をする事はできるが、それは作者が最初に与えた設定自体に反する。そうなると、そこには不自然さが出てくる。

主人公が光に弱いという設定そのものは単純なものだが、これが人間の性格ーー内面とかいうものになると、一気に複雑なものになる。だから、物語を作る上では単純な設定にしておいた方が、作りやすい。登場人物がそれぞれ自分の自由を感じつつ動いてこられたら、作者の脳内の処理能力が追いつかなくなる。

もう一度、スタート地点に戻って考える。作者は作品を作り、登場人物を動かして物語を作る。その際、登場人物は何らかの存在を与えられる。登場人物はその存在に規定されて動く。もし登場人物が存在として規定されないと、登場人物は登場人物ではない。登場人物は物語という時間軸内で他者と関わり、それによって自己を決定していく。

通常の物語は決定されていた自己が運動しある地点に到達するものだが、ドストエフスキー「罪と場」ではそもそも未決定にとどまっている主人公が他者との関わり(殺人という行為を媒介とし)によって自己を決定していくのが物語そのものと言える。つまり、ラスコーリニコフにとっては未決定な自己を決定していくのが物語であり、普通の物語がスタートする地点に到達するのが「罪と罰」なのだ。だがこの場合でも、ドストエフスキーはラスコーリニコフという青年にある設定を与えている。それは「未決定」という決定である。ラスコーリニコフは自ら未決定な存在であるが、やむなく、それを社会の中で意味あるものとして決定していくはめになる。未決定を決定するという難しい技をドストエフスキーは長い苦難の末に手に入れたと見る事ができる。

さて、やたら長々と書いてしまって、自分でも混乱してきたので、結論を書いてこの文章を終わらせる事にする。




物語というものを作る際に発生する嘘くささというのは一体どこから来ているか。それは作者が全能の顔をして登場人物を統御しだす手つきが視聴者にも見えてしまうからだ。これへの対処法として、自分は時間を二つに割って考えるという手法を取りたい。時間を二つ……この場合、それは二つの線で表される。一つは過去から未来へ向かう線であり、もうひとつは未来から過去へ向かう線だ。

登場人物は通常、自分達の物語の結末を知らない。作者だけが結末を知っており、作者は登場人物を動かして結末に持っていく。これは時間継起を過去から現在、現在から未来へと考えていく通常の時間観と適合する。こうした見方を一部変更する。

登場人物は、自分の資質や方向性について自覚的なものとする。登場人物、特に主人公は己が何かという事を知ろうとし、知ろうと務める。その事から、未来は、おぼろげな予測として感じられる。未来は予知されるのではなく、自分の資質や方向性から予測されるようなものとして感じられる。

一方で、同時に、主人公は未来に逆らう事も可能である。自分の存在から考えられる未来可能性にわざと反する事もできる。僕の例で言えば、あえて数学者になろうとする道もありうる。あえて、月まで徒歩で歩こうとする道もある。だが、それは自分自身の資質から来る予測性と反する。最後にはきっと、自分の予測の範囲にとどまる運命を甘受するだろう。僕の物語の作り方としてはそういうものを考えている。

人間は意識を持っている。そこで自分についての洞察も出てくるが、自分というものから離反するという事もある。離反しようとする意識もまた、一つの運命であるという視点というのは、主人公に持つ事ができない視点である。作者はこれを持つ。一方で、主人公や登場人物は自分を生きようとする。普通の人物であれば、固定的な性格、性別、社会的存在を演じる。だが、これに反しようとする事もまた人間のする事だ。これらを統一的に見る視野が作家には要求される。

過去は現在を通じ、未来へと通っていく。今の僕は将来を予知ではない。が、ぼんやりと予測する事はできる。

現在から見れば、過去の人物がどのような経路を通り、どんな運命を辿ったか、明確にわかる。歴史小説を書く上ではこれは極めて有利だ。歴史の中の人物は自由ではない。運命は確定した。未来から過去を描く視点は、過去からすれば、彼らの未来を予知できるのと同じ事だ。しかしながら、過去の人々の内側に目を向けると、彼らもまた我々と同時に自由であった。その自由性と、彼らの運命の確定性はどこで調和させられる事ができるか。それを自分は……人間が自分の資質や方向性についてある程度知っているという事、人間が自分の未来についてある程度予測できるという事、それと、そのような人物が現にそのように生きたという事実性を未来から描くーーつまり、人間を未来から過去に向かう視点と、過去から未来に向かう内的視点の同時性によって確保したいと思っている。

整理する。人間はただ自由なだけの存在ではない。人間は遺伝子・環境・身体・資質など、様々な要因によって最初から規定されている。幼少期は自分の意志が通じる場面はほとんどない。その期間を通じて自分は形成される。

形成された自己から、自分の未来についておぼろげに考える事もできる。決められた自己から未来の自分を決めていく。過去は未来を拘束する。だが、未来もまた自分を主張する事はできる。過去の因果から、未来は自由になろうとする。人は意志を持って自分を変えようとする。この葛藤そのもの、つまり、過去と未来が現在という場で戦うという現象そのものが物語を織りなすと考えたい。その場合、通常の意味での物語は、登場人物によって意識的に取り込まれるという手法を取る。つまり、普通の意味での物語を登場人物は知っている。

僕らはテンプレ的な物語をテンプレとして見る。それはそれ以前の沢山の物語を知っているからだ。テンプレの物語が成立するのは、登場人物達が自分をテンプレだとは知らないからだ。だが、自分をテンプレだと知った主人公のたどる物語はテンプレではない物語となるだろう。表面的な形式ではテンプレだとしても、それを知った主人公がそれを越えようとする時、そこにはテンプレではないものが現れるはずだ。

ややこしい話になってしまったが、イメージしているのはそれほど難しいものではない。

年を取ると、僕らには過去が見えてくる。誰がどんな運命を辿ったのか、わかってくる。若い頃には未来が見えている。未来は可能性に見える。

若い頃の自分の思い描いた夢をそのまま実現したとしても、そのままハッピーな事ではない。なぜなら、夢は何らかの形で具現化されてしまったからだ。思い描いていた自分が実際に具現化されると、具現化されたという事実だけによっても、イメージとは違うものとなる。具現化された現実は現実として定在している。大富豪になる事を夢見て努力し、その通りになって年を取って自分が大富豪である事を感じる。満足もあるだろうが、得たものを感じるのが若い頃と変わらない自分の意識であると感じる時、自分が追っていたものはなんだったのかと思わざるを得ない。

老境の地点から若者を眺める。あるいは現在から歴史的過去を眺める。過去は一筋の物語を持っている。一方、その地点から未来を眺めれば世界は可能性に満ちている。色々な道が予測される。

人間は意識ある存在であるから自分の中に色々なものを持っている。これを明晰に書きつくしたいと思うとプルーストのように、起きてぼんやりしている間だけで多量の原稿用紙を使わなければならない。一方で、そのような無限性を持っている自分というのも未来のある一点から見ると一つの運命を辿ったように見える。

物語ーー小説というものをどういう風に考えるかというと、この二つの要素、二つの場所から挟み取るようにして、人間をすくいあげるという事になる。個人は自由であるが、その自由には傾向性がある。個人はその傾向性に反する事も許されるが、最後には自分というものを社会の中で位置付けしていく事になる。具体的に言うと、社会に抗して自由であろうとする人間(他者との関係の中でも自由であろうとする人間)が、次第に自分自身を一つの物語として決定していく物語という事になる。何故、自由は最終的に不自由な方向へ決定されていくのか。それは人間には「死」があって強引に、その人物を規定するからとも言えるし、その事には理由はない、ただ、人間は無限の自由には耐えられないからだ、とも言える。(永遠に続くように思われたプルーストの小説も最後にはオーソドックスなポイントに収斂された。プルースト自身の死と共鳴するように、主人公は自己を一つの点に位置づけた)

人間の自由は未来への広がりとしてあり、それを意識に対する絶えざる記述(モダニズム的な)とする場合、その記述は構成を取る事が難しくなる。近代から現代への文学の変化は、自己を定式化する事より、自己の内面領域を広げる方向に進んだが、例えその方向が正しくても、そうして広がった内面を持った個人はやはり、社会の中での定在としての自己を生きる事に変わりははない。そこに物語が生まれる機縁がありそうだ。

過去は既に在る。未来はまだない。だから可能性に見えるが、未来もまた過去に変わるだろう。人間は自分自身を生き、どのような事にも反抗できる。反抗の意志は無限だが、現実的な反抗は必ず結末を持つ。反抗、自由への意志は最後には、意志か諦念かという二択に行き着くように思う。

ソポクレスや漱石、シェイクスピアらの作品に見られる運命と自由の弁証法は現代に視点を移し替えると、自我意識が他者との関係により、一つの定在に置き換わる形に見える。

作家は確かに登場人物よりも多くの事を知っている。だが、登場人物もまた自分自身の運命を知っている。登場人物を簡単に統御しようとすると、登場人物自体の存在から反駁を受ける。反駁を目にすると、物語は不自然になる。ここで何らかの形で、自由と不自由を作家内部で、整合を取らなければならない。

整合の取り方としては、個人の内面を無視する事なく、なおかつそれを客体的に取る、言ってみれば四次元的な視点を得るという事になる。単に過去から未来へと時間の糸が伸びているのではなく、未来は自由への反抗、予感として登場人物(主人公)には感じられている。だからこそ、その物語は、単に作者が弄り回したものには見えない。少なくとも、そうなる事が希望されている。

今までは時間を例に取って言っていたが、これは言い換えれば、物語が成立する根拠を登場人物(主人公)が握っているという事でもある。彼は自分が何故そうするのか知っている。あるいは、何故、そうしたがらないかを知っている。しかし、知識や感性は物語ではない。物語を知っている事は物語ではない。だが、何も知らない登場人物を、作者の作った簡単なレール上を走らせるのは簡単な物語であるにすぎない。主人公はある意味で作者を圧倒する存在でなければならない。そのような主人公をうまく統御し、この猛獣をうまく飼いならす事が可能になってくると、読者の目からも納得できる作品構造ーー物語性ーーが現れてくる。

…とやたら、ごちゃごちゃ書いてしまったが、思ったよりわけのわからない文章になってしまった。疲れたので、このあたりでこの文章はやめる事にする。本当に、疲れた。

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