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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

 折口信夫と柳田国男


 折口信夫と柳田国男を読み返している。と言っても、二人の本をまともに読める教養はないので、関心のある所、わかる範囲で読んでいる。

 柳田国男と折口信夫の二人は、基本的に立派な学者という事になっている。それは事実だろうが、読んでいてふと、それだけではないのではないかと思った。二人のやっている事はむしろ、ニーチェのような存在に近いのではないかという気がする。穏健かつがっしりとした柳田国男のような存在も実は、かなり思想性が強く、その主張の為に古代日本がクローズアップされたというように見える。

 柳田の書いているのを読んでふと、昔の日本はそんなに素晴らしいものだったろうか、と疑問を抱いた。もちろん、柳田も単純に昔を神聖化しているわけではない。それにただ年を取って、懐古に耽っているのでもない。柳田国男は当時の日本に近代西洋が入り込むのをよく知っていたし、西洋近代というのも知り抜いていた。だが、柳田は知り抜いており、将来の日本がますます西洋化すると分かっていたからこそあえて、昔の日本というものを意図的に理想化して取り上げたように見える。つまり、過去を一つの定在として、現在への異議、主張とする。それによって来たるべき未来を(見えない形で)指し示す。そのようなスタイルは、穏健な学者というよりは、ニーチェとかマックス・ウェーバーに近いスタイルではないかと思う。

 だから、以前は昔の日本を知る為に柳田国男や折口信夫を読んでいたのがそれはある意味で危険ではないか。折口には常に異郷、ないし、まれびとの概念があった。しかし、異郷は観察者がこちら側にいる上で異郷であるし、まれびとも、外から来る上でまれびとである。折口にとって古代日本は、現在から見たまれびとだった。古代日本は、今とは違う一つの場所だった。だからこそ、そこには沢山の意味があった。折口ももちろん、同時代の文学などは知り抜いていた。だが、それと同時に古代に目を向けていた。

 今から考えると、古代日本を探り出せる最後の機会に、二人の天才学者は洞察を深くしたように見える。今、僕が田舎に行って民俗調査をしても、得られる事は限られている。古い日本が消失していく過程で、その過程に自覚的であるからこそ、二人の天才ーーナショナリストは生まれたのではないか。だとすると、彼らは「日本」が消滅していくからこそ、「日本」を発見したという事になる。僕には二人の姿は悲劇的なものを背負っているように見える。それゆえに魅力も感じる。

 今はナショナリズムが流行ってきているので、日本礼賛の声も聞こえる。僕は日本生まれの日本人だが、かねがね、日本という国を遠いものに感じてきた。日本文化、日本思想、そういうものが身近に感じられないと感じてきた。例えば、モンテーニュのエセーを読んでいて、現代に通じるヒューマニズムが見られたのだが、僕にとってはモンテーニュやパスカルを読む方が荻生徂徠を読むよりわかりやすい。

 過去の日本との間に大きな隔たりがあって、むしろ、近代西洋とか近代ロシア文学なんかの方が、隔たりが少ない。日本古典の間にはいくつものフィルターがあって、それを破らなければ到達できないし、どっちにしろ、古い日本を僕らは西洋近代の目で見ている。自分の居場所に自覚的になるほど、日本人であるのに日本は遠い国だという気持ちになる。

 古い日本、古代日本はどのようなものだったのだろうか。柳田国男は江戸時代を退廃し、爛熟した時代とみなしていたが、これはつまり、江戸時代は「新しすぎる」という事になるのだろうと思う。より良いものは江戸時代以前にある。しかし、僕らにとって江戸時代は「古き良き日本」であるように思える。このようなズレはどこまで行くのだろうか。

 三大投資家でジム・ロジャーズという人がいるが、彼が「自分は古い黄金時代なんてなかったと思っている」と言っていて感心した。非常に微妙な所だが、僕もそうだと思っている。

 あるいはもっと違う事を言った方がいいのかもしれない。古代ギリシャを理想化したり、古代日本を理想化して、歌い上げる事ができるのは、他者の時代ーーつまり、古代ギリシャや古代日本とは違う時代に立たなければならないという事だ。古代ギリシャの只中にいて、それ自体を自覚的に歌い上げる事はできない。いつでも、ある時代に生きて、その中から時代を見ると、混乱した時代に見えるはずだ。いつも、その時代はとらえどころのない、不完全な時代にも思える。そこから過去を懐古したり、未来を憧憬したりする。しかし、その未来も過去も、そこに行けばそこはやはり混乱した現在であるにすぎない。

 この矛盾した考えをどうすればいいか。柳田や折口の言っている事は嘘ではない。真実である。だが、それはよその時代から眺められ、そこに入り込んだ時に始めて見えてくる時代性である。だから、僕らは「古代から学べ」と言えても、「古代に戻れ」とは言えない。ゲーテは談話の中で将来のドイツが今より良くなる事を希望していたが、第二次大戦の後、有名な歴史学者は「ゲーテ時代に帰れ」と言った。しかし、時代は帰る事ができない。ゲーテ時代が素晴らしい時代だというのは、それが失われて始めて気づくものなのだろう。僕らは過去を賛美する事も貶す事もできる。しかし、現在を廃棄する事はできない。

 結論から言うと、折口信夫や柳田国男の残した著作はどうやって未来に役立てればいいか、なかなかわかっていないように思う。過去の制度、文化をそのまま尊んで残しても、周辺事情が変わっている為に、そのまま通用しない。形だけが無残に残り、国が金を出して、本人達も何故それをしているのかわからず、「日本の伝統だから」という事でなんとなくやっているという事になりかねない。伝統文化も当時は、当時の現在に合わせてできたものだった。時代が変われば形が変わるのはやむを得ないと思う。

 大きく言うと、過去の形式だとか、個人の知恵だというのは抽象化して現在に生かしていくしかないのではないかと思っている。古人のした形よりも、古人が何故それをしたのか、そこには現代の人間が忘れている知恵があるのではないか、というように。言葉というのも、古い言葉に詩性を感じる事もある。だが、その言葉をそのまま使うのは難しい。それがどのように使われていたのかを洞察しつつ、現在にない倫理や習俗の良い部分を自分のものとして進んでいくしかないのではないか。現在は全ての物のスピードが早いために、今この瞬間に閉じこもりがちになる。「今」だけが全てになる。絶えずアップデートされるソフトウェアのように、絶えず「今」が上書きされていく。

 そうした時代でも「過去」を洞察する事で、また「時間」が生まれるのではないか。その際、「時間」と呼ぶものはおそらく、個人の可能性を広げるのではなく、可能性の臨界点を示すものになると思う。モダニズムはじめとして、近現代の思想は個の自立と自由を大きく誇張した為に、全てがそれぞれの離散した自己意識に収斂される事になった。自己意識が己の限界を感じる所に、過去の人からの恩恵、未来において子孫ないし他者がすべき事、そういうものが見えてくるように思う。そういう観点からも柳田国男や折口信夫から学ぶ事ができるだろう。

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自己満足の芸術




 柳田国男の「病める俳人への手紙」に次のような一節がある。

 「俳諧を復興しようとするならば、先ず作者を楽しましめ、次にはこれを傍観する我々に、楽しい同情を抱かしめるようにしなければなりません。現在の俳句界などは修羅道です。どこにも世に疲れた者の憩い場はありません。それというのが点取り式の競争が、少し形をかえてなお続いているからだと思います。」

 柳田国男の言っているのは俳句についてだが、大体、これは現在の色々な事にも当てはまると思う。今回はこのラインから考えてみる事にする。

                        ※

 「お前のやっている事は自己満足だ」というセリフは、現在では非難的な言葉として考えられている。こういう言葉を投げつけられて「ありがとうございます」と言う人はまずいない。

 僕は芸術の根本は自己満足であると思っている。それが普通だと思っている。むしろ、「自己満足はよくない」という意見が普通にあるというのが一体どのような情勢から出てきたのか、興味がある。

 柳田国男に話を戻すと、柳田は俳句の即興性と、その場限りの愉しみを強く主張している。こういう事は歴史的にはよくある事なのだと思うが、プラトンの対話篇なども実際は、普通の賑やかな談笑という面がかなりあると思う。それが文字に書き起こされ、みんなで真面目に研究しだす事によって微妙に取り逃すものが出てくる。もちろん、研究しないと見えないものもあるが、行き過ぎると、当時の感情が忘れ去られる。俳句は硬く、形を守る事が主眼になり、主観的な愉しみ、ごく自然な愉しみといったものがなくなる。

 芸術というものの根本に自己満足がある、というのは単純な説だが、普通の意見だと思っている。というのも、誰しもがそんな所から始めるしかないからだ。アーティストがスタートを切る時期というのは非常に重要だ。最初、アーティストはとても人に見せられないレベルのものしか作れない。人に見せられない、下手くそな作品しかできないが、自分には静かな喜びを与える。この、自分にしかわからない静かな喜び、原初的な喜びを育て、やがてはその喜びを他人に分かち与えられるようになるのが本物のアーティストだと思っている。どれだけ売れていようが、そうしたものが感じられないアーティストは僕は良いとは思わない。

 しかし、その最初の喜びそのものが稀有なものか、あるいはあったとしてもすぐに消えてしまう類のものではないかと思う。純文学の作家を見ているとデビュー作から、三作目くらいまで、作者の感性が出た少し良い作品を書いていても、その後、すぐにお話を作るようになる。そういうのをよく見てきた。お話と今ここで言うのは、事実をうまくつなぎ合わせて、物語性のある作品を作るというようなものだ。具体的に言うと綿矢りさなんかが思い浮かぶ。確かに、技巧は増したのかもしれないが、同時に、自分の物の見方、感性は失われた。あるいはそもそも、彼らにはそんなものは必要なかったのかもしれない。

 アーティストは最初、下手くそな作品を作るといったが、これがうまい事もありうる。しかし、どんな天才であろうと苦労も苦悩もなく、オリジナルなものを作り上げる事はできない。すでにある規範をうまくなぞれた時、人はそれだけでその人を評価する。一方で、自分の内的な喜びを大事にして、下手くそな作品を密かにこしらえているアーティストは世間からは無の期間である。

 この無の期間に、密かに自分の方法論、物の見方、作品の作り方、そういうものを育てていくという事がアーティストにとっては大切なのではないかと思う。他人本意でやると、他人が嫌だと言った時にこちらも嫌になってしまう。突き詰めるべきは、自己の道を進む事は必ず他者の道に通じるだろうという信念だろう。そういう意味では、人間は例えひとりぼっちで無人島にいても社会的存在である事をやめられない、という哲学の言葉が思い起こされてくる。

 ラスコーリニコフの孤独もまた、どれだけ自分の孤独に籠ろうと、常に(架空のものを含めて)他者が侵入してくるという念入りなものだった。人間は極限の孤独の中にいても、自分の中に共同体を飼っている。自分の中の共同幻想に話しかけられるようになれば、他人にも話しかけられるようになるだろう。最初の、アーティストの静かな自分だけの喜びはいずれ、他者の世界へと開かれていくだろう。そう楽天的に信じても良いのではないかと思う。

 私は風だ。

 この一文を読んで、あなたはどう思うだろうか。人間というのは不思議なものだが、人間はこうした文章を暗喩として受け取る。人間の世界には直喩とか暗喩とかいう区分けがある。

 だが、そんな区分けは無意味だ。人間の世界にとっては意味があるのかもしれないが、少なくとも、私からすれば無意味だ。もう一度言おう。

 私は風だ。

 これは比喩ではない。私は風だ。

                           ※

 風が吹いていた。人はそう言う。私は確かにそのように吹いている。

 無論、「風」というのは言葉にすぎない。名詞に分類されるらしい。しかし、これは風だという「風」の本体をどうやって取り出す事ができるのか? 私はただ吹く。それはただ動詞として存在すれば十分な代物だ。私は名詞ではない。

 より正確には、私は動詞ですらない。風と風でないものをどうやって区分けするのか。「大気」と呼ばれるものをまず明確に科学的に定義して、その変化を「風」と呼ぶか。ではまず「大気」を明確に説明せねばならない。しかし、その前に、「酸素」とか「二酸化炭素」を明確に定義しなければならない。化学式を正確に定義したければ、まず、その定義と君達が呼んでいるものを定義しなければならない。いつまでも君達は定義しなければならない。君達はそんな事ばかり、二千年もやっている。

 私はただ吹いていた。それだけだ。

                          ※

 風は爽やかだ。そんな言葉もただ人間の方で勝手に決めた事柄に過ぎない。人間の好きでそう言っているだけだ。

 私が常時、三百度の熱風を吹き荒らす存在だったとすれば、人間は私を「爽やか」とは決して呼ばなかっただろう。私は「爽やか」であるわけではない。ただ、そのように感じる人間がいたにすぎない。

 私は吹いていた。世界中のあらゆる場所を。人間達の目からは、私は世界中のあらゆる所に吹いているように見えるだろうが、事実は逆だ。私は、私が吹いているあらゆる場所に人間が現れるのをこの目で見た。人間には知る事のできない私の目で見た。(今言っている事は人間の特性に合わせた表現であるにすぎない)

 しかし、そうして現れた人間もこれまで私が見てきた様々な生命のほんの一つにすぎない。私は、人類がこの先滅亡するのを怖れて自殺した青年を知っている。一体何をそれほど怖れるのか。自分達だけが滅びる事のない特別な存在だと思っているのだろうか? 私は滑稽にも感じたが、憐れにも感じた。

 青年の葬儀の際、風はいつもより強く吹いた。それは私からの手向けであったと思って構わない。もちろん、それが手向けだと感じた人間は一人もいなかったのだが。

                           ※

 私は吹いていた。ただ、吹いていた。ただただ吹いていた。

 人が殺され、死体が切断される時、少女が強姦されている時、少年が首を吊っている時。

 科学者が野原でインスピレーションを感じた時。ピアニストが山の中で霊感に打たれ、美しい曲の最初のフレーズをひらめいた時。

 人々が労働し、眠り、性交し、愚痴り、罵り、勝手な事を各々にやっている間、私は吹いていた。風として世界中を運動していた。

 私は風として吹いていた。過去にも未来にも吹いていた。人類はこの先、まだ見ぬ場所に私がいる事に気づくだろう。まだ人類が探索する事のできないミクロの領域、マクロの領域、様々な場所で私が吹いているのを発見するだろう。私はそこでも吹いている。風として運動している。

 今ーーこの今もそうだ。スコットランドの草原で少年がはしゃぎまわっている。少年は強い風に吹かれるのが楽しくて仕方がないようだ。少年は風に吹かれて、吹かれるままに走ったり、転んだりしている。親は近くに見当たらない。一人で遊んでいるらしい。

 私はしばらく、少年と一緒に遊んでやった。少年の思うままにーーそして時に、少年に逆らってーー突風を吹かせてやった。少年はキャッキャッと遊んでいた。転げ回り、服を草まみれにした。

 空は広大だった。空と私は兄弟のようなものだった。

 私はそうやって一時間も遊んでいた。少年は遊び飽き、自分の家に帰り始めた。私は少年をそっと見守った。

 おそらく、少年はこの先、風の事なんかなんとも思わなくなるだろう。十年もすれば、人類の機構に巻き込まれ、ただ自分の目的を達する事だけ考えるようになるだろう。目的の外で、私がどのように吹いていようがいまいが、そんな事は関係ないものとして考えるだろう。きっとそうなるだろう。

 私はその事を知っていた。そうした事は知っていてもどうなるものでもない。私はただ、吹いていた。

 少年は家に辿り着いた。陽が傾き始めていた。空はまだ明るいのだが。不思議に透明な色をした空。私はそこにも自分を充満させていた。

 家の中には風はない。私は締め出されたというわけだ。小さな、ほんの小さな風しか起こらない。

 ある時から人間は囲いを作る事に腐心しだした。囲いを作り、その中を彼らの王国とした。私は締め出された。もちろん、だからといってどうというものでもない。私はその外を、ただただ吹いていた。

 私は過去からずっと、吹いてきた。神の命令で、吹き続けてきた。…いや、神が命令する最中にも私は吹いていたから、神よりも古い過去から吹いていたのかもしれない。

 私は吹いていた。風として運動していた。

 今、草原を渡る一つの風がある。私はそれが自分自身である事を感じていた。

 草原には人間が一人もいない。それでも休む事なく私は吹いていた。私が吹くと、草花は様々な反応を見せた。それぞれに右に曲がったり左に曲がったり、花びらを閉じたりした。私はそれらの変化を楽しんでいた。

 私は吹いた。ただ、それだけだった。私は吹いている自分を感じていた。西から東へ、あるいは東から西へ。様々に吹いていた。

 どこまでも吹いている自分がいた。私は自分をはっきりと身の内に感じていた。そしてそのように吹いている自分もやっぱりーー吹いているのだった。

 西から東へ。あるいは、東から西へ。

 ぴゅうぴゅう、と。

 「ハサミ男」 感想



 殊能将之の「ハサミ男」を読んだ。ネタバレ回避しつつ感想を書くつもりだが、ネタバレがないとも限らないので、嫌な人はブラウザバック推奨する。

 「ハサミ男」というのはミステリに該当する。ミステリはまず読まないので、「読むのが楽だなあ」と思いつつ、すらすら読んでいった。「わかりやすく書け!」「面白く書いてくれ!」というたびたび聞こえる声というのは、こうした作品を中心に読んでいる人達の声だったのだなと感じた。また、自分が読んでいる本はわかりにくい本が中心だったという事もわかった。これに関してはどうこう言うつもりはない。ただ、そうか、なるほど、と感じただけだ。

 さて、「ハサミ男」という作品は最後に大きなどんでん返しが待っている作品だ。あらすじを紹介すると、「ハサミ男」という名で呼ばれる猟奇殺人犯がいて、すでに二人の美少女を殺している。警察も行方をつかむ事ができない。「ハサミ男」は三人目の美少女を標的にして、準備を整えるのだが、美少女をつけねらっている際に、すでに死体になっているのを発見してしまう。しかも、その死体はハサミ男の犯行を真似られていた。

 つまり、三人目の殺人は模倣殺人なのだが、ターゲットの死体を、本物のハサミ男が目撃してしまう。そこで、本物のハサミ男は自分の犯行を模倣した真犯人を捜索する事にする。それと共に、警察内部でのハサミ男の捜索も内側から描かれていく。果たして、三人目の美少女を殺したのは誰なのか? ……というのがあらすじだ。

 僕は「ハサミ男」を最後まで読了した。まるでテレビドラマを見るようにスラスラ読めた。テレビを見ている感じで活字を読むという経験はあまりなかったので、非常に楽に分厚い本を読めた。活字嫌い、活字離れといっても、活字如何によって難易度が違うので、そう簡単に決められないと思う。楽に読める活字もあれば、奮闘して読まなければならない活字もある。活字も色々ある。

 「ハサミ男」というのは最後に大きなどんでん返しがある。そこで主に二つ、読者の意想外の秘密が明かされる事になる。だが、秘密というのは、読者に見えないように作品内部に隠しておかなければならない。そうでなければ、どんでん返しの意味がない。

 率直に言うと、どんでん返しのくる終盤部分までは愉しく読めた。特に面白く感じたのは、「ハサミ男」という殺人鬼の像が、マスコミを通じて独り歩きし、その独り歩きが逆に、ハサミ男本人にフィードバックするような部分である。マスコミは猟奇殺人犯の真実に迫ろうとイメージを作るのだが、それは実際の犯人とはまるで違う単なるイメージにすぎない。犯人の方ではマスコミの作るイメージを知り、巧みに利用しもする。つまり、対象の真実を僕達が探り出そうとしているように見えて実は、僕らは各々勝手なイメージを作っているにすぎない。気づけば、イメージを与えられた方も、イメージに合うように自分を作り上げる。こうして現実は虚構によって書き換えられる。

 実際はここまで抽象的に書いているわけではないが、そういったメッセージを受け取り、その部分は「なるほど」と愉しく読めた。またハサミ男と警察双方で、真犯人(模倣犯)を追いかけていく姿も、臨場感があって愉しく読めた。だが、最後のどんでん返しまで来た「うーん」となり、ダウンな気持ちになってしまった。

 元々、自分はどんでん返しというのには重要な価値を感じていない。「ネタバレ良くないよ」という声がこれだけ多いのは、話の筋を中心に見ている人が多いだからだろう。そして、そうした読者に適合する姿勢として、どんでん返しもまたある。つまり、読者が騙されるといっても、それは騙されたい読者が沢山いるから成り立つ。僕としては別に騙されたくないし、相手の裏をつこうとも思っていない。自分が作品に隠されたメッセージ・表徴を読み取れなくても、気にしない。

 僕はシェイクスピアが大好きだが、シェイクスピアの作品には秘められたものがないように見える。ゲーテの言うように、登場人物はもちろん、石であろうと草木であろうと、真実を吐露する事を要請されている。全ては明らかであって、読者に隠すべきものなど何もない。逆に、シェイクスピアの作品は全てがあまりにも明らか、あまりにも真実であるからこそ、僕らの凡眼には眩しすぎて、逆に謎があるように感じてしまう。先日、「モナリザ」の模造絵を見て、素晴らしい絵だと感じたが、「モナリザ」に陰謀や秘密の必要は全く感じなかった。作品の背後ばかり見ようとする人は作品全体を見落とす。「モナリザ」の絵の美しさという当たり前のものが見えなくなって、代わりに背後の陰謀と秘密を探る。

 …と言うと、大げさな話になるので、話を戻す。「ハサミ男」はよくできた作品である。最後によくできた叙述トリックが披露される。それは非常によくできているので、読者はだまされる。「俺はだまされなかった!」という人もいるだろうが、それは別に読者の優位を意味するものではない。僕は普通にだまされたが、だまされて気持ち良いとは感じなかった。「ああ、そういう風に来るんだ」と思った。正直言うと、こちらの信頼を裏切られたと感じた。逆に考えると、ミステリファンというのは、みんな、あのような戦闘態勢に立って本を読むのだろうか。(多分読むのだろうけれど) 一つの本に対して常にだまされまい、真実を見抜こうという姿勢で読むのだろうか。僕としては多少の粗があっても、全体として作者が作品に与えた方向性や思想、そしてそれらが醸し出す個々の部分が良ければそれで満足する。細部の設定は完璧だが凡庸な作品というのは興味がわかない。

 「ハサミ男」のラストは意外な結末である。意外な人が真犯人だ。だが、真犯人の犯行動機はかなり平凡なもので、まるで「名探偵コナン」を見ている気持ちになった。もちろん、動機が平凡でも構わないわけだが、この動機はどんでん返しの為に、最後までとっておく必要がある。犯人は急に明らかになるので、その心理的過程は深く描く事はできない。

 僕には、真犯人があの人だったというのは確かに意外だったが、それと引き換えに、真犯人の内実や心理を描く描写はかなりお粗末なものに見えた。作者が真犯人の内面を描く力がないのであれば、別になんとも思わない。だが、作者にはそれを描く力が十分にある。にも関わらず、最後に真犯人が平凡な動機で人殺しをしたという事実は、それが、最後の最後まで謎としてとっておくための代償のように見えた。つまり、どんでん返しの為に、真犯人の内面や人間性はこそぎ落とされ、読者を欺くためだけに出てきた役者のように感じた。

 言い換えると、作者は真犯人を物象化して扱った。人を殺したり、殺されたり、といった時に現れてくる人間の内面の問題は、読者の思考を上回る為に、省略された。代わりに、単純化された事実が現れた。それは、物事を事実の連なりとして読む読者の為に構成されたものだったと思う。

 確かに、殺人事件を扱う作品というのは、殺人を単なる事実として扱う。毎度毎度、人が殺され、毎度毎度、刑事は犯人を探る。その時、殺された人の内面、殺す側の内面の葛藤を深く描いていたら尺が足りない。

 色々な物事が記号化し、単純化されている。僕らは作品の筋を追う。意外な結末を知りたがる。巧みなストーリー構成を期待する。しかし、その時、登場人物はストーリーを構成する為のただの駒に見えてくる。ブラック企業の社長には社員が駒に見えるのかもしれないが、同様に、ストーリーだけを追うのであれば、登場人物はその為の道具として現れてしまう。
 
 「ハサミ男」の作者は決してそんな単純な作家ではない。きちんとした力量のある作家だ。ハサミ男が幻視で見る架空の医師と、ハサミ男自身が会話する部分がある。あの部分はストーリーの流れを阻害するかもしれないが、文学的には価値があると思う。また、被害者が清純な女子高生に見えてそうでなかったという部分もきちんと描けばもっと意味のあったものになっただろう。

 しかし、最終的に「ハサミ男」という作品はどんでん返しに収斂される事になった。僕はそこから急速に読む気力を失ってしまった。ああ、そっちに行ってしまうかという気分だった。

 作者はキャラクターの内面や動機といった問題をラストに省略し、ストーリーの転調に水準を合わせた。その為に、事実の連鎖としては意外なものとなったが、水面下の人間は単純化された。真犯人は知能の高さとは裏腹に、異様に凡庸な存在になってしまった。そこには取ってつけられたような葛藤しかなかった。僕はそれを残念に感じた。

 …とここまで書いたが、こういうのは今までミステリを読まなかった人の読み方かもしれない。ただ、常に作品から隠された意味を発見しようとして、普通に作品が見れなくなってきているというのもどうだろうと思っている。作者もそれに合わせて作品を作らざるを得ないのだろうけれど。

 例えば、本を読むという事では、ほんの人間のリアリティを感じるだけでも十分おもしろいと思う。本ではないが「龍が如く」というゲームはキャラクターが魅力的だ。冴島とか秋山とか、魅力あるキャラクターが出てくる。しかしこの作品もまた、読者を驚かす為に沢山の労力を支払っている。その労力は良い支払いだったとは思わない。むしろ、キャラクターの方がストーリーの為に損をしている印象すらある。

 ひらたく言えば、作品の価値はストーリーにあるとは一元的には言えない。だが、それを望む読者は沢山いる。沢山いるからこそ、それは一つのジャンルになる。そうした作品が多くできる。読者はどんどん高度になる。複雑で高度な内容を求める。作品は次第に複雑化していき、高度になるが、本当にそれが過去より良くなったかどうかはわからない。ただ、誰もがなんとなくそれを追い求める事になってしまっているという事実だけがある。

 どんでん返しには確かに意味がある。それに最初に出会うと、大きな驚きを感じる。面白いと思う。だが、そういう見方をする読者はその本をいつか読み返すだろうか。どんでん返しに代表される瞬間の驚き、一回限りのサプライズにエネルギーを集中させている作品は繰り返し読むに値するだろうか。

 「ハサミ男」は確かに面白い作品だ。僕も面白い作品だと思うし、良い作品だと思う。娯楽として優れていると思う。しかし、「ハサミ男」を再び読み返したいと思わない。一度経験したからもういいやと思ってしまう。そして、作品それ自体もそのように書かれている。では、この作品を良いという基準はどんな基準なのだろうか。少なくとも、過去の古典と同じ水準にはおけない。

 もちろん、こんな見方は僕固有の勝手な見方である。しかし、作品の途中までは十分面白く感じていたので、最後でそういくのかというのは残念に感じた。ただ、あちらの方が正当なのかもしれない。よくわからない。少なくとも、僕は読み返したいとは思わないだろう。

 …という事で、「ハサミ男」の感想を終わる事にする。すらすら読める面白い作品だったが、同時に、色々な事に疑問を持った。読者の方でも非常に賢くなっているために、作者はそれを越えるのが大変になっている。だけどその賢さとはそもそもなんだろうと根源的に考えてみても良いように感じた。もっとも、そんな事言っていると、ミステリの世界では生き残っていけないのかもしれないけれど。

 文体と認識


 レフンという映画監督を僕は気に入っている。それで、レフンの作品というのは、一人称なのか三人称なのかわからないように描かれている場面というのがある。見ている方としては、映し出されている映像は事実なのか、それとも主人公が見ている幻想なのか、わからないようになっている。

 作品に言及すると、「ドライブ」のラスト、あるいは「ネオンデーモン」の終盤部分などはそうだ。視聴者は見ている映像が事実なのか幻想なのか、わからないままに放り出される。でも、それが気持ち悪いわけではない。(「ネオンデーモン」は内容だけ見ればグロい) それは監督の哲学であると、僕には素直に信じられるし、見ている方として違和感を抱くわけではない。

 むしろ、僕が違和感を抱くのは一般的なーー一般的に流通しやすいーー作品の方だ。例えば、「小説家になろう」のランキング上位の作品を見ていると、一人称的視点と三人称的視点を混同している作品に出会う。それは例えば、次のような文章となる。

   外の光が見えた。出口はもうすぐのようだ。息をあえがせながら歩く。
   このトンネルは百年前にファミリア王国によって作られた。その時、この場所にトンネルを作るのは無理だろうと女王は言った。

 これは僕の作文で、実際の作品にあるわけではない。が、こんな文章は頻出する。
 この文章の一行目では、作者は主人公の内面に入って、トンネル内部から外を見ている。だが、次の文章では、トンネルを外部から、神の視点から客観的に説明している。

 こうした混同が平気で行われるのは何故なのか。これは結構、難しい問題だし、場合によっては、「どうしてそれがいけないのか?」と問い詰められるだろう。実際、こうした作品も人気を博していたりするし、人気・面白さという観点からは否定できない。

 では、この混同とは何か。僕は、こうした作者は「客観的な現実」というものを素朴に信じているのではないかと思う。主人公の内側に入り込んで見る外の世界と、神の視点から見る現実世界に違いがあるとは考えていない。つまり、現実とは意識に映じた現実だという認識はなく、現実とはあくまでも客観的な現実だという考えに立っている。では、この考えはどのようなものだろうか。

 音楽家の坂本龍一と哲学者の大森荘蔵が対談した本に興味深い事実が載っている。それを例に考えてみよう。

 坂本が言うには、例えば、今、僕の場所からして左前と右前にスピーカーを置いて、同じ音を同時に流す。(短めの音) 図にすると次のよう感じ。

 スピーカー1    スピーカー2
            

 
         僕


 これでスピーカーから音を流すと、音は当然、斜め左右から聞こえるはずだが、同じ音が同時に発せられると、まるで正面から聞こえるように聞こえるらしい。つまり、スピーカーは二つではなく、一つ、正面にあるように感じられる。(スピーカーの存在を隠しておく事にしよう)

 さて、この実験の際、被験者が「前方から音が発せられた」と言うと、人は「本当は音源は二つ、斜めに配置されていた」と言う。それは、人が「客観的な事実」を知っているからだ。だが、スピーカーの存在を隠されていると、僕には目の前から音が出たようにしか聞こえない。これを「錯誤」と普通は言うが、どうしてこれが錯誤かと言うと、客観的には二つあるという事を知っているからだ。しかし、実は僕達だって、もっと大きな錯誤を犯しているとも限らない。僕達にとっての世界はより大きな意味での誤謬であって、例えば、この世界は誰かが見ている夢で、二秒後には破裂するシャボン玉のようなものかもしれない。そして、そのシャボン玉について知っている第三者がいるとすれば、僕達は錯誤して世界を見ている、と彼は言うだろう。

 こういう事について「そんな事はありえない!」という人は、自分が何故そう言っているのかについて考えてみて欲しい。その「ありえない!」という論理の外側自体に、別の論理があるという可能性を僕は言っているのだから、こうした事は簡単に否定できないはずだ。

 さて、以上のような事を考えていくと、スピーカーの音を聞いた私は、錯誤していたのだろうか。もちろん、誤っていたのだが、それは、誤っていたという事を知っている第三者がいる限りの話である。もし第三者がいなければ、「正面から音が発された」というのが「真実」という事になるだろう。

 こうして考えていくと、僕らの現実は相対的なもの、こちら側の主観が大きく作用したものだという事になる。これに関してはカントがはっきりと言明した。

 さて、話を戻すと、僕が一般的な作品について、抱いている疑問は次のような事になる。つまり、そこでは語られるべき事実は何ら疑われていない。世界は、客観的なものとしてあり、それをどの観点から描いても結構で、面白い物語を読みたい!という人は、物語を構成する事実について疑わない。作者もまた疑わない。主人公の内面から月を見た時、見えた月と、「客観的な世界」に浮かんでいる月は全く同じものとして扱われている。だからこそ、視点を内に外に移動させて、なんら不都合なく、「事実」の集積を語り、一編の物語を生む事ができる。

 認識されている事実が事実であるという思考は省かれ、事実は単に事実だ、という単純な立場に作家は立つ。これは一般的にはわかりやすいはずだ。なぜなら、僕らは皆、そんな風に現実を考えているからだ。

 現代の作家における文体の欠如というのは、作者が自分の認識に対して自意識を持っていない事の証明だと言えるかもしれない。その先に向かうのは、客観的事実の集積としての物語だ。事実は事実だ、という観点から、硬い事実を連続的に組み合わせていけば、即、僕らにわかりやすい物語となる。

 ちなみに、僕は朝吹真理子や黒田夏子に「文体」があるとは思っていない。文体とは作者の認識の現れだと考えると、彼らの文体は認識としての文体ではなく、形骸化した文学というフィルターを通して世界を見たいという屈折した欲望だと思う。つまり、そこには本当に、世界を違う目玉で見たセザンヌやゴッホと、世界をセザンヌやゴッホのような視点で見たいと思っている画家くらいの差がある。そういう風に考える。

 話を最初に戻すと、レフンの映画では途中から一人称的視点を取っている。これはレフンの認識であるのか。僕は映像を見る限り、そう言って差し支えないと思う。つまり、世界とは、主体が見た限りでの真実であると考えると、例えそれが幻想であろうと、夢であろうと、見たものは見たのだ、と言う事ができる。

 そして、主体が見た真実とは、カメラが見た真実なのかもしれない。カメラは客体的だと僕らが信じる所に、事実の連鎖としての物語が成り立つ。

 物語作者は、文体に気を払わない。物語作者は「事実」を積み重ねて、それを一つの筋にする事に気を使う。最近では「ネタバレはよくない」という声が多い。それは逆に言えば、作品の筋のみを着目して見ている人が多いという事の現れでもあるだろう。

 こうした領域では、作者の認識には注意を払われていない。作者が提出した事実を事実として信じ込み、それが物語として綺麗に構築されている事が望まれている。その構築が可能なのは、その一つ一つのブロックーー事実ーーが堅固なものだからだ。この堅固さを保証するのは、僕らが生きていて、現実世界を疑わないという共同体の習性に依拠する。僕らは客観的世界を信じる。それを信じる事は、フィクションの中では、その組み換えにより理想的な組み合わせができる事の希望へと繋がっていく。

 よくこんな声を聞く。もっと面白い話を読ませてくれ。もっとわかりやすい話にしてくれ。そうでなければプロ失格。物書き失格だ。

 僕が思うのは、例えば、セザンヌの絵やゴッホの絵は、単にわかりやすいものでないという事だ。また、それは面白くもないかもしれない。面白いもの、わかりやすいもの、それが望まれる事、あるいは、黒田夏子や朝吹真理子のように、故意に文体をひねくり回す事、ダリやマグリットのように、細部にまで認識が行き届かず、画家の着想で全体の絵を仕上げてしまうという事。そのどちらでもない道に、認識のーーつまりは、本当の芸術の道があるのではないかと思う。
 
 日本画の一流の人の絵、そこに出てくる虫とか、植物とかを見ると、実に彼らはよく自然を観察していたのだと感心する。彼らは僕らが見ていない自然を見ているが、それは同時に、画家の客観的な自然探求であったはずだ。認識というものが、作者の立ち位置を示し、作者の見た主観的真実を表すと同時に、それが僕達視聴者にも、「客観的」だと信じざるを得ない、そういう領域というのは確かに存在するように思う。

 モーツァルトの楽曲が、彼の聴いた真実を表したと考える時、僕らはモーツァルトという主観を客観的に聴く事になる。かつて確かにそのように、世界を聴いた個人はいた。それを知る時、僕らはイミテーションでもなく、僕らにおもねる面白おかしいものを作る人でもなく、それ自体、主観であると共に客観であるような存在に出会えるはずだ。

 自分独自の視点、と言うと、すぐに思い浮かぶのが「他人とは違う視点」という事で、わざと差異化を計ろうとする事だ。芸術家と呼ばれる為に、わざとそのような場所に立とうとしたり、奇妙な物の見方を「個性」と取り違える芸術家(らしき人物)もいる。それとは反対に、「わかりやすさ・面白さ」をと言う事で、僕らの視点から一歩もはみださない事を前提とした上でそれなりに高度な作品を作る人もいる。『君の名は』はそんな作品で、僕らがあの作品を受け入れたのは、そもそもあの作品が僕らの認識を最初に受け入れていたからだ。

 こうした二つの極を越えて、自分独自の認識が、客観性を帯びる事ができるような芸術作品は現在ありうるだろうか。作者の認識が文体として現れ、技法として現れる事は可能だろうか。文体が文体を目的とし、技法が技法を目的とするのではなく、文学(絵画等)を通じてのみ世界を見られないが、そこにのみ真実があるとはっきり言明できる芸術家は現れるだろうか。

 …とここまで、書いて、この先の事については、おそらくそれぞれの手に委ねられる事になるだろう。再三言うべき事は、一般的な解がないからといって、その人の解がないという事ではない、という事だ。また、その人にとっての解が僕にとっての解だとも限っていない。しかし、それは極めて興味深い解かもしれない。

 ニーチェとパスカルは似通った魂の持ち主だと思うが、それぞれの辿った道も答えも違った。全く同じ魂が違う時代、違う環境に生まれたとしたら、それらーー魂ーーは自らを証明する為に、違う形式を持つだろう。それは時に、画家の色彩に現れたり、哲学者の観念の相違となって現れるだろう。

 作者の主体的認識が作品に現れる時、それは、作者の姿を雄弁に語るものではなければならない。が、作者は自分を語る必要は少しもない。作者が世界を見つめるその目それ自体が、裏側から作者が何者であるかを証す。それは画家が自然風景を描いていながら、風景が逆に画家の目を特定するようなものだ。一視聴者としては、芸術家の自分語りなど聞きたくない。みたいのは彼の表現だ。その客体的表現こそが彼を最も雄弁に語るだろう。

 しかし、現在では既に書いたように、様々な誘惑が溢れている。現在の芸術家は、かつての画家が王や貴族につかえたように、大衆につかえなければならない運命を持っている。いくら芸術家が自分の特殊な個性を主張しても、この社会的趨勢は極めて強い。例えば「きゃりーぱみゅぱみゅ」がいくら自分をアーティストだと言っても、大衆が彼女をそのような視点で見て、扱っていない限り(そしてその視点内で運動している限り)、彼女は結局の所、アイドル、タレントでしかない。本当の芸術家はどこか取り扱いにくい印象を常に持っている。それは彼が世界に反抗しようとしているから、というより、彼が自分自身であろうとする事が必然的に世界と衝突する運命を持っているからだ。

 多くの人に面白く、わかりやすい物語を提供するアーティストは、世界の物の見方について、多くの人と物語を共有する。物語もまた一つの認識形式と考えると、物語それ自体を共有する。それは僕達の殻を破らない。むしろ、僕達の殻を肯定する。支持してくれる。

 二十世紀には、宗教から離れ、岡本太郎の言うように、芸術家は個性的な存在、自由な存在となったようだ。その行き着く先が、個性的という「良い」性格から、単に、偏執的な変わり者になったとすると、どこに問題があったのか。芸術家が芸術にのめりこむ以前に、芸術家らしい姿を構築する為に多大な努力を支払わなければならないというのはどういう事だろう。

 認識がその人の文体を表すとすると、どんな個性的な文体も「芸術らしいよね」という僕らの一般的認識に吸い込まれる、とすると、もうどんな反抗も無意味だろうか。どんな反抗も最初からシステム内部に巧妙に位置づけられているとすると、反抗する事自体が従順である事を意味してしまうのではないか。

 (年配の人が最近の若者は反抗しとらん、みたいな事を言う。そういうネットニュースを見たが、最近の若者にとっての問題はそもそも反抗する事自体が全く反抗にならない事ではないかという気がする。デモ活動もメディアに取り上げられ、すぐにシステムに吸収される。反抗自体が不可能なのが今の時代ではないか)

 …長々と書いたが、今回の愚痴はこれで切り上げようと思う。別に、現代に一流の芸術がなくても困る事はないのだろうが、個人的には困るので、こういう文章を書いてみた。現代において、認識という事が、決められた認識パターンを守るという事を意味して、なおかつ、過去の整然とした形式を破壊・解体するというのも、二十世紀に色々な芸術家によって徹底的にやられた以上、僕らの世代は何をしていいのか、さっぱりわからない。結局の所、というかやはり、この分からなさを解明する所から始める他ないのだろう。

新作短編

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 「ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド」に感動した話



 一時期、友人が口を開けば「ゼルダの最新作が面白い」と言っていて、(はあ、そんなに面白いなら一度プレイしてみたいな)と思っていた。
 
 この度、友人の協力もあって、「ブレスオブザ・ワイルド」をプレイする事ができた。今、丁度やっている。

 元々、自分はゼルダはスーパーファミコン版と64版をやっていて、「大体ゼルダっていうのはこういうのだよな」という感触は掴んでいた。それはゼルダファンが感じていたのと同じものだと思う。ゼルダというのは人気作であり、いつもクオリティの高い作品を出してきていたし、プロデューサーの宮本茂も、優秀なゲームクリエイターという認識を持っていた。

 さて、そういう過去の流れから、今回の最新作「ブレスオブザ・ワイルド」を見てみると、「こっちの予想を遥かに裏切ってくれた!」という感じだ。もちろん、これはいい意味での話だ。

 では、未プレイの人に「ブレスオブザ・ワイルド」の魅力をどうやって伝えられるか。既プレイの人には「凄いよね」で通じてしまうが、未プレイの人には言葉で伝えにくい。というのも、今作の凄さは言葉に表しにくい凄さだからだ。

                          ※

 思いついた所から始めよう。僕が「ブレスオブザ・ワイルド」(以下、「今作」と呼ぶ)で一番感動したのは、本筋のメインストーリーとは全く違う所にある。

 今作はオープンワールド形式のゲームである。オープンワールドとは今までのように、マップに制限がかかっていて、決められた筋道をたどるのではない、広大なマップを自分の思うままにプレイできるゲームの事だ。自分でどこに行きたいのか、自分で決める事ができるし、自分の冒険したいように冒険できる。とはいえ、本筋のメインストーリーが存在しないわけではなく、各所に存在する。今作のゼルダの場合は、プレイヤーがいきなりラスボスの所に突っ込む事も可能だが、基本的には各所のメインストーリー攻略を頭の片隅に入れながら、各地を自分なりに旅していくというプレイスタイルとなっている。

 オープンワールドとして有名なゲームは、以前にプレイした事があった。「スカイリム」「フォールアウト3」の二作で、「フォールアウト」の方はすぐにやめてしまった。「スカイリム」はある程度やったが、単調で、これもやめてしまった。

 「スカイリム」というゲームはゼルダと同じように、行きたい所に行ける。例えば、「あの山に登りたい」と思えば本当に登る事ができる。だが、「スカイリム」は全体的に雑な作りで主人公の挙動も自然さに欠けていたし、「あの山に登りたい」から「登る」といっても、それはあくまでも「ゲーム」としての山を登るという感じだった。山の質感も自然ではなく、主人公をコントローラーで動かしているという感じが拭えなかった。

 この話を聞くと、ゲームをあまり知らない人からは「ゲームだからそんなものだろう」と思うかもしれない。実際、僕もゲームにそこまでのリアルさ、自然さ、質感のようなものを期待していなかった。

 今作のゼルダに一番驚かされたのは、その「質感」である。つまり、「スカイリム」が果たせなかったものが見事に、しかもゲーマーの予想を遥かに上回る形で実現されたと言って良いと思う。

 僕が一番ゼルダで感動したのは、深夜に一人で山を登っていた時の事だ。深夜、一人、誰もいない高山を登っていく。周囲の空気は冷えていて、空は濃い藍色、星がキラキラ光っている。山頂に辿り着いた時、見知らぬ花があったので、静かに摘んで、ポケットに入れた。

 深夜に一人で山とか丘に登り、珍しい草花を見つけて、思わず嬉しくなって摘んで帰る。その時に、もしリアルにそれをしたら感じるであろう、寂しいような、悲しいような、でも嬉しいような不思議な感触を僕は家にいながら、ゲームをしていて感じる事ができた。天地に自分一人しかいないような、自分と星空だけがあるような不思議な感触。そういうものをゲームというフィクションの経験から、十分に感じられた。これは「スカイリム」には決して無理な体験であると思う。

 同様の経験について、Amazonのレビューで書いている人もいた。サラリーマンの人が、通勤途中、山を見て「あの山、登れそう」と思った時、思わず涙が出てきたと言っていたが、気持はよくわかる。今作のゼルダをやった後、外に出ると、目が、ゲームを通して現実を見るようになっている。ゲームを通して現実を見るとは、危険な考えだと一部の人間は思うだろうが、僕ーー僕らがおそらく感じているのはそれとは全く逆の経験である。ゼルダというゲーム作品の中には風がある。空を見上げると雲が動いていて、月を隠す。木に登ってりんごを取る事もできるし、どんな崖も登る事ができる。

 現実に僕達は生きていて、いつも制約を感じている。あるいは、僕らは現実に対して十分、自分達の論理を被せてきたと言ってもいいかもしれない。例えば、土地がある。すると、それは誰の土地なのかという事がすぐに問題になる。海があればそれはどの国の領土か、どうしたら法律違反になるのか、そんな事ばかりが問題になる。

 ゼルダの海も土地も、全て実際に冒険して確かめる事ができる。そこには現実からは失われた「質感」のようなものがある。現実において建物があり、そこを人が使っているとすると「そこは入ってはいけない場所」である。それ以上の事は僕らは考えない。僕達が触れられる世界は世界の中のほんの一部で、それ以上の事は見なくてもいいし、触る事はできない、考える必要もない。僕らは自分達の制約の中で暮らしていて、その事にも馴れていて、それが当たり前となっている。

 「ブレスオブザ・ワイルド」をプレイした後、外に散歩に出かけると、不思議な気持ちに襲われる。それは、「この世界は全てちゃんと存在している」という感じである。これは不思議な感触だ。木に登ってりんごを取り、高所からパラグライダーで降りる事もできる。それら全てに質感があり、重量感があり、どこかの集落のモンスターもそこに生きているという事が感じられる。世界はそういうものとして質感のあるものとしてあって、プレイヤーは自分の意志で、それらのいちいちに、自分の目で見て、自分の手で触れて……つまり、「冒険する」事が可能なのだ。

 目の前の猪を弓で射る為に草むらに潜んでいる。そこから空を見上げると雲が風で動いている。猪を追うために走り出すと、足元の草むらから虫が飛び立っていく。その懐かしくも、自然な感じというのはおそらく、このような形での、このようなゲーム以外では表せなかっただろう。その感触というのだけでも唯一無二なものに感じた。

 こうした経験は、僕達の子供の頃に根がある。大人から見ると何でもない木の棒を気に入って振り回していた過去。何でもない草むらを秘密基地にして遊んでいた昔。その時、僕らが感じていたものはなんだったか、とは大人は問わない。大人はすぐに忘れる。「汚いからやめなさい」「危ないからやめなさい」「人の邪魔になるからやめなさい」 こうした倫理を一つ一つ受け入れて、僕らは大人になる。大人になると功利性が問題になる。数量が問題になる。

 数を問題にするのは簡単なので、すぐに話題になる。が、質は語るのが難しい。今作のゼルダの素晴らしさは、例えば、雨が降っていて岩肌が濡れているツルツルした感じ、その「質」がはっきり感じられるという事にある。これはどんな数にも還元できない。足元から虫が飛んでくるのを捕まえる事はできる。それをクスリにする事もできる。そうなると、それは功利的なものでもある。が、素晴らしいのは、そうした事よりも、ゼルダの世界が全て、それ自体としての質感を備えていて、ただその世界があるという事を愉しく感じられるという事にある。なんでも、目的と原因に分解し、あらゆる事を自分(達)の幸福のための道具と考える人は世界を道具と見ている。世界を素材と見ている。世界は目的のための道具ではない。世界はそれ自体として味わい、感じ、確かめるものだ。そこに意味はない。なぜなら、それ自体が意味だから。

 …と、哲学的な事を書いたが、言いたいのは「今作のゼルダは凄いよ!」という事だ。「ブレスオブザ・ワイルド」をプレイした後、外に出ると、風景が今までと違って見えると思う。ゼルダの世界を通して現実が見えるようになる。いわば、それまで、失われていた風が、ゲームというフィクションを通した事によって再び現実に流れ出すようになる。そんな経験をする事ができるだろう。

 これだけの経験をさせてくれた任天堂スタッフには拍手を贈りたい。さて、僕はハイラルの大地にまた戻る事にしよう。まだ未探索の場所は沢山ある。この世界をもっと愉しみたい。

 フィクション化する現実について


 今から考えると、ゴーゴリ・バルザック・フローベールといった作家らのリアリズムというのは正当に機能していた。が、それを現在に持ち込むと色々な問題が起こる。しかしそれにも関わらず、今の作家はその問題を見ない。そこに現在の文学の問題がある。そういう風に考えて、リアリズムという観点から文学について考えていく事にする。

 「リアリズム文学」というのをネットで調べると「現実性を重視し、写実的な手法によった文学の総称」と書いてある。「リアリズム」とは何かと考えていくだけでも一苦労なので、とりあえず、この定義を基礎に置いて考えていく事にしよう。

 さて、まずゴーゴリの「外套」という作品を例として考える事にする。ゴーゴリ「外套」とはどんな作品か。
 
 「外套」という作品では、貧しい役人が出てくる。この役人は自分の外套を新調する事もままならないほどの窮乏を極めた生活を送っている。思えば、バルザックの小説も、おそらくフランスの社会に実際にいたであろう人間の悲劇とや苦しみとかをリアリズムの路線で描いていた。

 「外套」の貧しい役人は最後には幽霊となるので、リアリズムの路線は越えている…かもしれないが、まあ、今はこの点については目を瞑る事にする。どっちにしろ、今から論じる事に大きな影響は与えないだろう。

 ミハイル・バフチンはドストエフスキーを論じる上で色々な宝を僕達に残していってくれた。僕はバフチンを利用して考えていく事にする。ここにゴーゴリという一人の作家がいて、これがアカーキエウィッチという貧しい役人を描くとする。貧乏役人はロシアの社会に現実に存在するであろう人物であり、それをゴーゴリは作家の視点から描いていく。
 
 ゴーゴリという作家にとって、そしてそれを読む者にとって重要なのは、このような人物を克明に描くのに意味があるという事だ。この貧しい役人は社会の片隅にいて、なお人間悲劇を遂行している。このような人物が生まれなければならないというのが社会の悲劇であり、それを作品を通じて共同体が共有する事に意味がある。貧乏役人に涙を注ぐという事自体に、その社会そのものの問題点を明らかにする意味が存した。

 さて、ここにリアリズムの基本的な路線が発生しているわけだが、現在において、同じような事をしても問題が起こる。何故かと言うと、貧しい役人アカーキエウィッチという人物が仮にいるとして、その人物は、作者の方を容易に振り向く事ができるからだ。アカーキエウィッチという人物は現在では、ただ社会に当てはめられた人物ではなく、誰が自分をそこに当てはめようとしているか、よく知っている存在である。つまり、我々の時代においてはバルザックとかフローベール、ゴーゴリのように、単純に、観察する側ーー観察される側という二項の関係が成立しない。我々、一般の人間はいつの間にか、プロレタリアートからブルジョアジーになった。我々がブルジョアになったというのは金銭だけの問題ではない。それ以上に重要なのは意識と知性のあり方だ。

 この問題を一般化してみよう。そもそも、リアリズム文学が成立するのに、どのような社会事情が必要だったのか。まず、最初に、何はともあれ生活している人がいる。パリでもペテルブルグでもトーキョーでも、そこで生活している人がいる。生活し、苦しみ、あるいは恋愛をし、暴力を受け、暴力を振るい、何かをして生きている個人がいる。作家がこれとは違う場所にいる。作家は高所に立って、これらの人物を描く。この時、作家→人という風に視点は動くのであって、描かれる人物は自分を誰かが描いているとは考えない。人は社会の中を己として生きる。それを作家が別の視点を持ち出して描く。

 これは現在でも、全く同じように見える。が、違うと僕は考える。というのは、今では人は既に、「作家的視点」、いわば、傍観者的視点を身に着けているからだ。ここには当然、テクノロジーや社会環境の充実も大いに意味のある事柄として現れてくる。つまる所、かつては僕らはフィクションの内部に描かれる存在だったが、今や僕達は、大衆としての生活を失い、それと共に、描く立場の視点を手に入れた。つまり、僕達はフィクションに描かれる立場からフィクションを描く立場になった。

 また、それと似たような事、あるいは同じ事だが、僕達は自分達の存在そのものをフィクションと化してすらいる。これに関してはどこを見渡してもそうなっている。
 
 例をあげるならば、最近流行りのユーチューバーなどはもちろんそうだ。彼らが、自分自身を映像の中に収めているような気がしていても、実際には、彼らは映像の中でしか存在できない架空のものへと少しずつ変貌してきている、という事が肝要に思われる。

 また、「君の名は。」とも関連するが、恋愛というのもそうだ。例えば、付き合っている女が急に「海に行きたいね」とか「今度会うのは秋だね」とか、そんな事ばっかり言っていたら、僕としては心底うんざりするが、この女はリアリズムとフィクションの境界線に浮かんでいる。というのも、こうした女(たまたま女を例にしたが男も同じ)は自分の言動をどこかで見た、フィクションに合わせて行っている。ここでは既にパロディ的な要素が出ているが、これが我々の現実となった今、それをなぞる作家が自分を「リアリスト」だと考えても不思議ではない。

 以前に批判した青山七恵という作家がいるが、この作家はその代表と言える。「ひとり日和」という作品で、七十過ぎのおばあさんが出てくるが、これは「年を取っても身ぎれいにして恋も忘れない素敵なおばあさん」というイメージで描かれていて、それ以上のものではない。つまり、ここでは化粧品のCMレベルの理想のおばあさん像が作品に投入されているだが、こうしたおばあさんも現実にいるであると考えられる以上、青山七恵が自分をリアリストと名乗る可能性が生まれてくる。

 つまる所、我々の生活はもはや、我々が知識を持ち、我々が我々自身をフィクションの中に投げ込んだ事によって、それ自体「リアル」なものとは言えなくなった。確かに、ドラマのような恋愛をする人間は現実にいるだろう。それも、沢山いるかもしれない。だが、そのような人物を描くという事はバルザック的、ゴーゴリ的リアリズムを意味するのかというと、違う、と僕は考える。現実の人間をリアルに描くという文学の方法論は一貫して変わらない。(幻想性はこれに対する処方箋にならないと僕は考えている) だが、現実そのものが変容している以上、方法論が同じでもその意味は変わったはずだ。だから、それはかつての妥当性を失っている。そのように自分は考える。

 僕達の世代はもう、生まれた時からフィクションに囲まれて生活している。様々な価値観、物語、方法論、ノウハウといった事柄が溢れていて、それに沿って生きる事が普通になっている。受験勉強を頑張って良い大学に入り、「一発逆転」の人生を送るという物語は、社会が個人に用意した物語だ。社会は、社会に適合しようとする個人を、社会にとって都合が良いという理由で支持する。受験を頑張って一発逆転する若者は現にいるだろう。だとすると、その個人を描くのはリアリズムなのか、という事が今僕が問いたい問題だ。
 
 こうして考えていくと、フィクション化した現実を描くという事はそもそもなんだろうか。今の作家が放っておくと、軒並み、エンタメ、物語志向に流れていくのと関連があるように思える。また、青山七恵のようなリアリズム路線の「純文学作家」が実質的に、ライトノベルや異世界小説とさほど差がないという原因もここにあるように見える。現実そのものがフィクション化しているのであれば、それを描く事はリアリズムであると共にファンタジーとなる。一方で、ファンタジーによって、現実における鬱積した感情を爆発させたいというのはまた新しいファンタジーを作る事になるが、これは現実において「理想的な恋愛」をフィクションになぞってやろうとするのと大差ない。

 問題を整理するならば、今言われている「リア充」VS「非リア充(オタク)」というのは、実は同じものに統一可能だという事になる。つまり、「リア充」は現実そのものをフィクション化しようとし、「非リア充」はそれをフィクションの世界で行おうとする。つまり、どちらもフィクションの世界で生きている事に変わりはない。

 ここまで来ると、世界全体がフィクションで覆われているという話になってしまう。答えとしては僕はーーイエス、まさしくそうだと感じている。ネットを通じて、人々の意見、価値観、物語があらゆる現実に浸透した結果、僕らは改変された現実こそが現実の全てだと視認するようになった。

 しかし、そうなるとそもそも描くべき現実は今存在するのか。一体、何を描くべきなのか? という事が疑問となる。
 
 例えば、モダニズム、あるいは印象派から抽象画、象徴派、ポストモダンといった現代の芸術思潮はもっぱら、孤立し、独自な存在となった芸術家その人からあらゆる芸術的要素を吸い出し、それを画布に塗りつける(表現する)ものとなった。そこからダリのような変種も生まれてきたが、芸術家がそもそも独創的な変人、変奇な人物というのは歴史を通じた普遍的概念ではなく、現代に特有の思想だと思う。神が消えた今、芸術家は孤立し、自分の内面を重視する事になった。そこからあらゆる芸術的要素が吸い出され、芸術作品として結晶する事になったが、同時に、それは芸術家それ自体を痩せ細らせた。ポロックの絵画、マーク・ロスコの絵画はどちらも一流のものだが、そこには僕らの袋小路があるように見えてならない。片方は自殺に近い事故死、もう片方は本当に自殺している。

 外界が描くべき価値を失った今、芸術家はそもそも何を描けばいいのかというのは本質的に、現代の真摯なアーティストに強いる苦しい問題に見える。この問題を無視して、芸術家っぽい、アーティストっぽい人になる道はいくらでもあるが、根本的には僕らはどうすればいいか分かっていない。

 こう考えていく、絶望しかないようにも見える。実際、ここ最近の流行りのアーティストや作家だけが、フィクションの全てだとしたら、僕にも希望の持ちようがないわけだが、過去に目を向けると、ドストエフスキーとかバルザック、セルバンテスのような存在が見つかる以上、この問題を安易に妥協するわけにはいかない。これらの優れた作家は、ただ世に都合の良い嘘をついた作家ではなかった。にも関わらず、それらの作家の作品が残っているという事実は僕達が、僕達にとって都合の良い夢だけを望んでいるわけではないという事を証明する。いや、そうとでも信じなければやっていけないだろう。

 この文章では現実とフィクションの問題について書いたが、この実践的解決は、現に小説を書く事によって証明しようと考えている。これに対する答えはこのようなエッセイで書かず(書くかもしれないけど)、基本的にはただ黙って小説を書く事によって実践するつもりである。

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