FC2ブログ

物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

 「君の名は。」 感想


 今になって、映画「君の名は。」を最後まできちんと見た。その感想を書こうと思う。

 …さて、今、「感想を書こうと思う」と書いたけれど、実を言うと、感想を言いたい気持ちというのはそれほど湧いてこない。というのは、「君の名は。」という作品は、通俗的な作品で、既視感の連続であり、別に言いたい事もないし、言うべき事もないと感じる。

 今の十代は知らないと思うが、「世界の中心で、愛をさけぶ」という小説が流行った事があった。映画化され、ドラマ化もされ、本はよく売れた。しかし、今、「セカチュー」の事を言う人はほとんど見ない。あれだけヒットした作品は今は忘れられているようだ。

 調べると、「セカチュー」は十五年も前の作品だ。「君の名は。」はそれから十五年も経っている。なのに、何も変わっていない、という印象を受ける。主人公が持っているものが携帯からスマートフォンに変わっただけで、根底の部分は何も変わっていない。商業的な世界はいつも、「新しい」「これまでになかった!」「今まで一番泣ける!」とか、そういう言葉を常に発するが、実際には何も変わっていないと感じる。「恋空」なんて小説もあった。「セカチュー」があり、「恋空」があり、「君の名は。」がある。でも、だからどうだというのだろう。

 嫌厭ばかり吐き出しても仕方ないので、まともに作品を考えていく事にしよう。

 まず、褒めるべきは確かに映像が綺麗だという事だ。自分もああした自然風景の場面は好きなので、ああいうものをあのようなグラフィックで見れたという事は個人的には好きなポイントだ。また、作品全体の雰囲気も嫌いではない。生ぬるい作風なのだが、自分は生ぬるい人間なので、ああしたものは好きである。しかし、これはあくまでも個人的好悪の部分だ。もしAmazonで星をつけるとすると、本来的には星三つだが、自分の好みもくわえて星四つにしたと思う。

 それはさておき、もっと根本的な部分について考えていく事にする。「君の名は。」はいわゆる恋愛ものである。それで、恋愛を基礎にシナリオを作る場合、制作者の観点からは、単純な方法が見えてくる。

 まず、お互いに好き同士のAとBを作る。これは男女関係だ。で、このA、Bはお互い好き同士なのだが、何かの理由で、一緒になれない。つまり、AとBの間に障害があって、この障害を乗り越えて、AとBは一緒になる。その道筋が物語の構造となる。

 この障害は人間である事もあるが、「君の名は。」の場合、過去に隕石が落ちて、人が死んでしまうという所にポイントがある。また、田舎⇔都会という差異も、障害を生み出す起因となっている。

 「君の名は。」という作品では、いくつかの設定がこしらえられている。主人公の男と女が、定期的に体が入れ替わってしまう事。女は三年前の世界にいて、男は三年後の世界にいる。その三年を繋ぐのは伝統的な「紐」で、男は隕石の落下で死んでしまう女を救う為に、三年前に戻って奔走する。

 自分で書いていてもよくわからないプロットだが、こうしたプロットは適当に見ていっても何の問題もない。というのは、こうした大掛かりな仕掛けは結局、男と女の「好き!」という気持ちを盛り上げるために作られた設定にすぎないからだ。だから、至る所、都合の良い場面が出てくるが、視聴者は主人公達の「好き!」を素直に信頼する限りで、そうした場面をスキップする事ができる。あるいは、そうした場面が気にならない。

 僕はそもそもこうした「純愛」そのものが信じられないので、素直に見る事ができない。「それはお前が濁っているからだ!」という人もいるだろうが、ここには個人的なだけではない、色々な問題がある。これに関しては今は触れない。

 さて、「君の名は。」という作品を通して見た時、まず、僕達は、そこにある色々な場面を素直に信じなければ普通に見られない。頑張って走っているヒロインが途中でこけて「う、うう…」となる場面だとか、お互いの手が触れあいそうになって、人混みに巻き込まれて、ついに手が触れ合えない場面だとか。

 最近読んだ小説に、主人公の彼女が「ねえ、海に行きたいな」みたいな事を言う場面があったが、僕としては「勝手に行けば」なんて思ってしまう。もちろん、「君の名は。」とかこうした小説では、こういうセリフや場面は、普通に見なければ、鑑賞する事ができない。

 青山七恵の「ひとり日和」でも、主人公が失恋して髪を切る場面があったが、「君の名は。」でも似たような場面があった。何が言いたいかと言うと、これらの作品は極めて類型的な場面が頻出するという事だ。キャラクターもそうで、「君の名は。」でサブキャラクターに位置づけられている田舎のカップルは、正にサブキャラクターたる事を運命づけられていて、その領域を一ミリもはみださない。また、主人公達が自分を疑う事もなく、自分について(属性としての自己以上に)考える事もほとんどない。制作者は世界を類型的に見ており、その視点は作品に投入され、それが多くの人に受け入れられるという事は、僕達が世界を類型的に見ているか、少なくとも、それを望んでいるという事を意味する。

 「君の名は。」が大ヒットした事が何を証明したかというと、「何も変わっていない」事だと思う。「セカチュー」にあった通俗的恋愛観念は二千十年代の現在も見事に通用し、かつての十代は二十代に、二十代は三十代になったとしても、何も変わらなかった。世界は驚くほど変わっていない。相変わらず、作品世界内部では、「就活」「受験」「恋愛」といった所与の概念が幅を利かせており、これに対してまるで疑わず、それらを基礎としてプロットを作るのが普通であるし、それによって大きな利益を得る事が未だに可能である事が証明された。

 「君の名は。」という極めてクオリティの高い映像作品、物語をうまく二時間の尺に収める技術、それらの高いレベルが到達する先は、最終的には「○○君(さん)、好き!」という感情だ。似たような構成をこれもヒット作である「アバター」という映画で見た事がある。「アバター」の向かう先は「自然は大切」というこれもどこかで見た事のある概念だ。

 「シン・ゴジラ」も構成的には同じで、問題が起こった時の内閣の動きや、ビルの倒壊する場面などが緻密に描かれているが、その先にあるゴジラをやっつける観念は単純なものとなっている。また、これらの作品ではどれも、善悪が綺麗に別れている事も特徴的と言っても良いかもしれない。(「君の名は。」では、悪人はいないので、「意地悪」VS「いい人」という構成になっている)

 こうして考えていくと、現在のヒット作の主流は「極めて高い細部の技術」を「僕らが一般的に持っている通俗的正義感、恋愛観、社会感情」に収束させていく事にあると思う。僕は世間まるごとを含め、ヒット作のあり方そのものに疑問を持っているので、こうしたものを積極的に評価しない。もっと言えば、これらの作品に「心の底から感動した」という感動のあり方に疑問を持っている。遠藤周作の「沈黙」という作品は丁度「君の名は。」と同じように「泣ける作品」だが、その涙は果たしてどんなものか。僕としてはその涙そのものに疑問を持っているし、そういう涙を素直に信じられるという感性そのものに疑問を感じている。

 …もっとも、次のように考える方が妥当かもしれない。つまり、「君の名は。」をカップルで見に行って「良かったね、また見ようよ」と、素直に言える人間であったら、僕はこのように苦しんだり考えたりする必要はなかっただろう、という事だ。多分、そちらの方が真実だろう。しかし、これらの事はそう簡単には決定できない。人生において、何も疑わないという事がどんな悲劇・喜劇を招くのか、また、果たして幸福な人生が「良い」人生なのか、というのはそれほど簡単には決定できない。ただ、はっきりしているのは「君の名は。」に心から涙できる人は僕よりも幸福な人間だという事だ。しかし、その幸福を計る基準が、この世界のどこかにあっても良いのではないかと自分は考える。

スポンサーサイト



 『声優志望』について

 

 声優志望、声優になりたいけどどうすればいいのか、といった言葉を最近はよく見る。その際の反応のパターンは大体、二つに別れる。一つは「現実を見ろ! 食えるのはほんの一部だ!」というもの、もう一つは「頑張って! 夢を諦めないで!」というもの。だが、個人的にはどちらにも不満を持っている。

 個人的に不満を感じるのは何故かと言えば、声優というのは広い意味で役者であって、そこで実際に芝居、演技に対するノウハウとか、どのように芝居をすればいいかという具体的な意見がほとんど見当たらない点にある。いろいろな数字を上げて、「食える役者はこれぐらいしかいないんだぞ!」と言っても、では、「食える役者」とは何で食っていけているのか、どのようなノウハウを持っているのか、プロとして長年やれる人の芝居は、他の人の芝居とはどう違うのか、という具体的な問題にはまず踏み込まない。

 もっとも、声優のような業界では、使われる側なので、色々難しいだろうとは思う。いわゆる「枕営業」のような事があっても、そう驚かない。しかしそんな「営業」で首の皮を繋いでいっても、すぐにプツンと切れてしまうだろう。問題は、流動していく社会の中で、自分自身に自信を持てるスキルを持てるかという事にある。そしてそのスキルは(できれば)人間的なものであるべきだろう。単なる知識の寄せ集めとか、何か機械的な運動を人並み以上にやれるという事ではなく、その人の個性と表現が一致したスキルが望ましい。

 自分の記憶では、初期の声優は元々、役者の側から流れてきた人達だったはずだ。彼らは役者としては食えないから、声優に流れてきたのかもしれない。「声優になりたい!」という夢は結構な事かもしれないが、世の中が求めるものと、自分が社会に提供できる能力との調整点というものを広い意味で考えたほうが良いように思う。例えば、芝居が好きで、演じる事に自信があるというのであれば、声優だけが仕事ではないはずだ。そこから舞台役者に行ったり、テレビドラマに役者として出たり、色々な可能性が考えられる。自分で脚本を書いて演じるという可能性もある。問題は「プロの声優になる」事ではなく、広い意味で何かを演じる事で、人々に価値を提供するという事にある。では、そのような能力を自分は持っているかと自問するのが、役者ー声優を目指すという点ではもっともオーソドックスではないか。

 「プロの声優になる!」と考えるとかなり門戸は狭くなるし、色々煩雑な問題は起こってくるだろうが、どうしても芝居が好きである、何かを演じる事によって社会的価値を生み出したい、というのであれば、例えアニメ業界が斜陽になり、声優が「オワコン」になっても生きる道はあるように思う。「何かを演じる事によって人々に価値を提供する」という事柄はそれこそ、能や狂言の時代から今まで連続的にある。声優を目指すというのであれば、そういう観点に立って自分が何ができるのか、どんな芝居ができるのか、そう考えてみても良いと思う。

 もっとも、このような考え方は時代遅れなものなのだろうとは自分でもよく分かっている。現在は数量化されたモデルの中でゼロサムゲームをするのが基本になってきている。何かを生み出すよりは、何かを取り合う事が主流となっている。

 そういう中でも、「声優になりたい!」というのであれば、自分の核となる芝居そのものがどのような社会的価値があるのか、そもそも、演じるとはどういう事か、人はどんな演技に心を惹かれるのか、そうした事を普通の観点から考え直すのもそう悪くないのではないかと思う。

狩野尚信の絵から芸術について考える

 


 国立博物館の常設展をざっと見てきた。体調が悪かったので、ろくに見られなかったが、印象に残ったのが、狩野尚信の「瀟湘八景図屏風」と酒井道一の「夏草雨図屏風」の二つだった。
 (酒井道一の作品は酒井抱一の模写らしい。ややこしい事に、酒井道一は酒井抱一と血縁関係はない)

 話を狩野尚信に限ると、この人は狩野探幽の弟だそうだ。個人的な話だが、小学生の時、どこかの城に家族で行った時、狩野探幽の鷹の屏風絵を見ていたく気に入った。帰りがけにお土産用の小さな屏風を小遣い全部使って買った。確か三千円だったと思うが、この小さな屏風は今も部屋に飾ってある。小学生の頃の自分と今の自分、やっている事が何も変わっていないというのには自分でも奇異な感じを受ける。あの頃から何も変わっていない。

 話を戻すと、狩野尚信の屏風絵は墨汁で書かれた山水画で、したがって、黒白のコントラストだけで全てが表されている。おまけに、尚信の屏風絵は余白をたくさん取ってあり、描かれている部分は屏風の大きさに比べると、少ない。それも、いかにもサッと、筆で描いたというように描かれている。つまる所、余白を存分に使い、なおかつ余計なゴテゴテとした装飾はない、簡素で清潔で美しい、というスタイルの山水画だ。
 
 しかし、その絵を見て、つくづく、達人というのは凄いものだと感心した。絵の中に、小さく三角のようなものが描かれているのだが、よく見ると「おそらく、これは傘を差している人間なのだろう」と予測できる。本当に何気なく、墨でサッと描いているだけなのだが、ただ墨の濃淡、線の太い細いだけで、そこに一つの世界を具現化できる。日本人というのは、抽象的な思考や哲学は苦手な部類だろうが、ほんの僅かな線を太くした細くしたり、年がら年中土をいじくってその色がどうであるとか光沢がどうのとか、そういう事に関してはかなり発達した感覚を持っているのではないかと思う。
 これに関しては特色であって、良い悪いの話ではない。また、今のオタク文化、Pixivなんかでそれぞれに絵を描いて見せ合うというのも大きく言うとそういう日本人の特色の延長にあるのではないかと思っている。

 それでただの感想で終わっても面白くないので、ここから芸術論に持っていこうと思う。狩野尚信の簡素でありながらも、達人的な絵が何故素晴らしいのか。それはもちろん、狩野尚信の努力と修練、その達成によるものだが、最近読んだ中谷宇吉郎のエッセイを見ると、そこに、読者の方の認知機能も大きく関わっている事が分かる。中谷宇吉郎の「南画を描く話」から引用する。

 「或る日新聞の写真を見て、一つの発見をした。それは知った人の顔が沢山並んで小さく写っている写真であったが、それが皆ちゃんと誰れ彼れの顔に見える。一人の顔が小豆粒大に写っている写真である。よく気をつけて見ると、顔の形をなすものは大部分が黒くて、その一部に白い斑点があるだけのものである。中間の墨色のような所はほとんどないし、白い斑点の形もほとんどどの顔でも同じような恰好である。それでいて皆の顔にそれぞれの特徴が出ていて、表情までも分るのであるから、これは大したことだと感心した。」

 「要するに人間というものは誰でも、すべての物について、単にいくつかの要素を抽象した像だけを頭の中にもっているものらしい。それでそういう像を頭の中に再現してやれば、それで満足するのではないかと思ってみた。そうすると、観者を共同製作者とするための一つの技術は、観者の頭の中にある沢山の線の中の一本をぴんと鳴らしてやればそれで良いので、後は共鳴現象に似た作用で、観者が初めからもっている像が再現され、それが立派な絵に見えるものらしい。」

 重要だと思うので、長々と引用した。要するにここで言われている事は、例えば僕が、狩野尚信がサッと描いた小さな三角形を、「傘を持った人」と認識する、視聴者の側の作用も重要だという話だ。狩野尚信が達人なのは間違いないが、それは見ている側にある、いわば、「形態認識作用」を刺激するのに十分な描き方を知っており、実践できるという事と大きく関係がある。

 この「形態認識作用」が脳科学的にどこに位置されているのか全く知らないが、確かに存在すると言える。例えば、壁の染みが人の顔の形に見える、という時、僕らはその人が「幻を見ている」とは言わない。しかしながら、それは単に「壁の染み」でしかないから、厳密に考えれば幻みたいなものである。しかし、それは幻ではなく、言ってみれば現実から抽象された像だ。この抽象された像は物そのものではない。それとは違うものを取り出す作用を人間は進化する上で手に入れたのだろう、と推測できる。

 さて、この形態認識作用があるからこそ、新聞の顔写真は荒い画像でできているにも関わらず、その人が誰か分かるようになっている。この現実からの認識作用を逆に転用する事ができるようになると、その人は達人と呼ばれるようになる。そんな風に考える事もできるのではないか。つまり、狩野尚信は僕らが、現実をそれぞれの認識作用によって見ているという事を、絵の技法として知り抜いており、それを刺激するようなタッチで描けば、そこにゆうに、山や鳥や傘を差す人が、単なる○だった△だったり・だったりしても、きちんと具現化する事ができる。しかもそれは、単なる○や△なのに、「どうしてこんな見事に描けるのだろう」と感心してしまうようなレベルに到達してしまう。しかしそのような高いレベルも実は、視聴者の認識作用が深く関わっている。

 更にこの続きを考えると、認識作用自体にも高低のレベルがあるようにも見える。芸術の鑑賞眼のある人とない人では同じ絵に対する見方が全く違う。その場合、天才の絵も、見ている方のレベルに合わせて霞んで見えたり、美しく映ったりする。

 こうした時、形態の認識作用というのはどうなっているのか。例えば、新聞の粗い写真を見て、それが人の顔だというのは誰でも分かる。「これは花だ」「これは鳥だ」というのは誰でも持っている形態認識だろう。しかし、「その花は美しいか」「この鳥は美しいか」というと、より一歩踏み込んだ認識になる。この辺りから問題が現れてくる。だから、本源的に言えば、「ゴッホの絵は美しくもなんともない」と言っている人と「ゴッホの絵は美しい」と心から言う人では、そもそも違う絵を見ている、と考える方が至当に思える。彼らはそれぞれの認識力に見合った対象を見ているのであって、そもそも違う対象を見ている。そうくくった方がわかりやすいかもしれない。

 この問題を更に延長して考えよう。例えば、「芸術における想像力」という言葉がある。優れた芸術家は「現実とは違う想像力」を有している。しかし、そうではないのではないか。狩野尚信のように優れた芸術家が見ている現実は、我々よりも一段深い現実なのであって、現実離れしたものではない。現実離れだと言えば、そもそも、壁の染みが顔に見えるというのが現実ではないと言っても良さそうだが、普段、僕らもそのように「現実」を構成している。

 この時、構成されている現実をより深く認識し、それを形に表すのが芸術家の仕事ではないか。とすると、芸術家は、空想的な存在というより、むしろ、一般の人より「現実的」な人物と言っても良いのではないか。認識が深まるという意味において、芸術家はより、現実的だ。

 文学に話を振ると、小林秀雄は、同じ自然主義作家のゾラよりもフローベールの方が優れていると断じていた。ゾラにおいて感じない、現実のリアルな空気感はフローベールの小説により感じる事ができる。しかし、ゾラもフローベールも、言葉という抽象的なものを用いているではないか。そこから、「よりリアルである」という評価はどうして出てくるのか。それはつまりーー現実と呼ばれているものがそもそも抽象的なものだからだ。

 例えば、シェイクスピアのセリフというのは全く日常的ではないし、大げさで、わざとらしい。だが、シェイクスピアの作品を空想的とは我々は呼ばない。シェイクスピアの作品にあらわれているセリフは、狩野尚信が僅かなタッチで再現している事実と同じように、事実をある角度から非常に極端な形で抽象して、取り出したものと言える。人の心理を描くというが、そもそも心理とは何かという事柄それ自体が「描く」という方法論と溶け合っている。つまり、心理があってそれを描くのではない。そもそもいかに描くかというのが、その人の心理そのものなのだ。

 このように考えていくと、芸術家というのは、事実をいかに深く認識するか、という一点にかかるように思われる。芸術家は現実と離れて空想を生み出す、我々が愉しめる空想を生み出すのではなく、そもそも、我々が現実を空想的に構成しているという事実からスタートし、より詳細で、確かで、深い現実を空想という形で生み出す。そう言った方が至当に思われる。

 だからこそ、「芸術なんて所詮、絵空事だ」という時代を通じた批判を越えて、芸術は存在し続けてきた。「芸術なんて所詮、絵空事だ」というのであれば、「我々のしている事は全て絵空事だ」と言い切ったほうが良い。そこまで言い切った時、ようやく絵空事である芸術は力を発揮する事になる。逆に、現実と空想を分けて、現実的なものに固着する行為はしばしば、空想を追いかけ、現実を見失うという結果に終わる。何故そうなのかと言えば、そもそも我々が現実と呼んでいるもの自体が空想的ものだからだ。
 
 と、すると芸術はその空想を通じて現実を構成するものだ、と言えるだろう。もっとも、今の時代のように、フィクションが膨大に膨れ上がり、一般化した時代で、そうしたもの自体を現実として捉える芸術がどのような形になるのか、誰にも分かっていない。そうした事はおそらく、それぞれのジャンルの芸術家がこれから具体的に、少しずつ作り上げていく事になるのだろう。

 クリエイターが戦うべきもの



 古典物理学では、観察者がどうであれ、体系は観測には左右されない絶対的なものとしてある。だが、量子論においては、観察者が客観的な事実に対して影響を及ぼす。ここにおいて、主観と客観とが整然と分離できるという古典科学の前提が崩れた。

 今の世の中を見ると、古典科学よりも量子科学に近似しているように思う。つまり、観測者の方が客観的事実よりも強大な力を持っており、客観的事実(それが何であれ)は観測に左右される。

 将棋指しがイケメンであるかどうかという事は、将棋の実力とはまるで関係がない。俳優の個人生活がどうであろうと、役者としての能力が高ければそれでいい。そんな見方もあるだろう。しかし、そんな見方を貫く事は不可能になりつつある。オーディエンス、聴衆、観客らの方が、演者よりも強大な権力を持っている。実質的に、メディアという舞台に載る演者は、観客の傀儡であると言った方が良いだろう。

 例えば、ユーチューバーのような存在が、自分を映像化して、世界にばらまく事は、害のない事であるように見えるが、これは極めて慎重にやらなければ非常な危険を伴うと思う。ニコニコ生放送なんかもそうだが、「自分のプライベートを垂れ流して金を貰える」というのであれば、手段としては楽そうに見えるが、よく考えるとかなり危険な行為ではないか。

 というのも、観ている方は映像として現れている個人を、個人そのものとして見る。例えば、僕が立派な善人としてのイメージを散布して、観客から金、拍手を受け取っているとすると、イメージは逆に僕自身を規定する。僕が、、自販機の下の小銭を拾っている所を観客の一人が発見すると、それだけで「幻滅」され「叩かれる」原因となるかもしれない。自分を映像化して世界に発信する事は逆に、行為そのものが自分をきつく縛る。この相互関係を承知しながらやるのであれば、それほど問題は起こらないだろうが、何も考えずにやるのは危険であると思う。

 クリエイティブ関係に関しても、同様の事は言える。ここで、簡単な二分法を使おう。例えば、お笑い芸人には観客を「笑わせる」芸人と、観客から「笑われる」人間と、二つのタイプがあると考える。前者は能動的であり、後者は受動的である。言うまでもなく、前者の方が芸人としてはレベルが高いのだが、一見すると、後者だってムーブにのって売れっ子になったりするから、ぱっと見には後者の方が価値があるように見えたりする。しかし、彼はただ観客に笑われているだけなのだ。自分の芸を売っているというよりは、自分を売っているにすぎないのだ。

 自らが努力して作り上げたものを社会に売り渡す行為と、自らそのものを売り渡す行為の二つを観客は区別しない。会社も社会も区別しない。儲かればいい、面白ければいい。これが淡白な世の理論だ。しかしこの理論に安易に乗っかると、後々クリエイターは後悔するように思う。

 広い意味でのクリエイターというのは、世の中のこうした見方と争闘しなければならないように思う。今、僕達の経っている地平において、価値は、世の中が作り上げるものなのか、それとも自分が生み出すものなのか、区別はできない。藤井四段のムーブメントはその大方を、本人ではなく、メディアや観客によって作られている。もし僕が藤井四段その人ならば、僕は一体どういう風に精神の平衡を保てばいいか。メディアに対して「塩対応」して、わざと人嫌いする発言をして、意図的に嫌われ者になろうとするかもしれない。いずれにしろ、このような状況で、当人が将棋に専念できないとしても、誰もそれには注意を払わない。気にかけない。だが、こうした事で嘆いても仕方がない。世の中から全く無視されているという事、世の中から過大に見られている事、そのどちらにも舞い上がらずに自分のすべき事をするにはどうするか。観客が自分の価値を作り上げるのではなく、いかに自分が価値を作り、それを観客に提供するか。今のクリエイターは後者の道を取る為に、複雑な経路を取らなければならないように思う。こうした戦いはまだ、始まったばかりのように思われる。

象徴としての文学 




 今の文学に足りないのは何か、と考えてふと、「象徴」「比喩」という言葉が頭に浮かんだ。今回はその事を書こうと思う。

 ドラッカーの著作を読んでいると、ドラッカーが神話を巧みに引用する所に出会う。ドラッカーは多面的な人なので、色々な所から色々な情報を引っ張り出してくるが「神話」のレパートリーも持っている。ドラッカーは自分の見たもの、聞いたものに対して神話を当てはめて、巧みに説明する。この場合、ドラッカーは神話を比喩として用いていると考えられる。逆に言えば、神話の方でも、人間の中にある様々な側面を象徴していたり、比喩として機能していなければ、ドラッカーの方でうまく引用できないだろう。ここでは、個別的な生が、象徴としての物語と対応関係にある事がわかる。

 物語とか小説、ライトノベルなどと言うと、すぐに、現実を離れた想像力をどうやって獲得するかという問題になりがちだが、実際、優れた物語、優れた文学作品というのは必ず、現実と対応関係になっている。それはむしろ、現実を深くえぐり出す事によって、一般的には現実離れしていると思われる描写になる。シェイクスピアのセリフの不自然さをトルストイは非難していたが、それにも関わらず、シェイクスピアのセリフの真実性は明らかだ。同様に、ドストエフスキーが「俺は写実派だ」と言った事にも相応の意味がある。フローベールとドストエフスキーと、どちらが写実派なのか。この場合、そもそも僕達が見ていると思っているもの、現実と考えているものが果たして本当に現実なのだろうかという認識論的問いが問題となってくる。

 優れた作品は必ず、現実とのある関係を持っている。神話が人間というものの象徴として成立していると考えると、現在の文学は現実とはどのような関係を持っているだろうか。

 ここらで厄介になってくるのは、ある時期から、小説というジャンルは極めて安易で、簡単なものになったという事だ。つまり、作家が現に見たり聞いたり体験したりした事を、言葉という透明な媒体によって指し示してやりさえすれば「小説」になるという小説観が一般化し、それによって、「小説を書いて一発逆転狙おう!」なんて人が出てきた。しかし、読者の方でもそう読んでいる節があるから、そんな人が現に「一発逆転」したりする事も可能だったりする。ここに面倒な問題が出てくる。

 小説というのは「小さな説」と書く。小さな説とは、それぞれの個別的生を描くという事で、個別的な生ならば誰でも体験している。誰でもささやかな社会経験、友情経験、恋愛経験を持っている。持っていないという場合でも、自分の身の回りの事なら少しは知っている。文芸誌に載っている小説なんかをパラパラ見ていると、彼らが知っているのは自分の身の回りと、毎月発行される文芸誌だけではないかという気がする。彼らにとって小説とはそのような、極めて狭い圏内においてうまく機能するものなのかもしれない。

 自然主義文学というものが現れて、現実を描く方法論というものが、単純な言語の指示性と同化し、それによって小説というものは極めて簡単なものになった。また、一見するとこれに反するように現れる、「文体」の問題も単に「書き方」の相違でしかないものになった。又吉直樹の文体は、何をも象徴していない。それは「文学っぽいからそうしている」という文体で、現実に接続していない。そして現実に接続するとすれば、僕らはまた単純な言語の指示性に還っていってしまう。

 もっと根底的に考えてみよう。そもそも文学とは一体何なのか。

 神話は現実を象徴するものだと最初に想定してみた。うろ覚えだが、ヘーゲルが「文学は共同体の運命を象徴するもの」と言っていたと思う。これを神話に当てはめると、神話は古代の共同体の運命を象徴していた、と言う事ができるだろう。

 この定義を現代の文学に当てはめると、どんな風に見えてくるだろうか。小説とは「小さな説」だから、それぞれの個別的生を描き出す。しかし、その生が共同体(我々)にとって意味のあるものでなければならない。我々、観衆がカタルシスを感じるようなものでなくてはならない。ここで何が起こっているか、起こらなければならないかと言うと、それぞれの個別的な生、小さな一人の人間の生き方、考え方、行為、人間関係といったものが、社会全体にとって意味あるものとして開示されなければならないという事である。

 しかし、これは「小説」が共同体に「受ける」事とは違うもののはずだ。「永遠の〇」がエンタメとしてはよくできていても、あの作品を優れた文学作品とは言えないし、「永遠の〇」のファンでも「優れた文学!」と言うにはためらわれるだろう。だとすると、ここでは何が起こっているのか。再度言うが、優れた物語は我々の運命を象徴していなければならない。それは我々の感覚、時代の方向性に都合の良いものであるだけではなく、それらを含んだ、つまり我々の存在を含んで流動していく物語でなければならない、という事だ。

 角度を変えよう。吉本隆明は「優れた文学は、万人に『これは自分にしかわからない』と感じさせる」と言っていた。万人、つまり多くの人々に「これは自分にしかわからない」と感じさせるというのは、一見矛盾のようにも見える。多くの人々が同時に「自分にしかわからない」と感じるとすれば、多くの人々は皆、それぞれ他人とは違う「自分しかわからないもの」を持っているという点において、共通の存在なのだろうか。つまり、我々はそのような、「孤独の共同体」なのだろうか。

 混乱してきたので。整理する。まず、文学とは

 ① 現実の象徴、比喩である
 ② 現実は共同体である つまり、我々の事である
 ③ 文学は共同体の運命を象徴する 運命の変遷が物語である (時間軸の導入)
 ④ 文学は個別的な生を描くものであるから、それぞれの人間が共感できるものでなければならない。また、それは単に僕達に心地良いものであるだけでなく、僕達の存在そのものの運命を示していなければならない
 ⑤ 誰にも、他人と分かち合えない自分だけの感覚・思考があり、文学はそれを刺激する

 …とざっくりまとめてみたが、異論もあるだろうと思う。しかしそのまま考えてみよう。

 文学作品は小さな説であり、個別的な生を描くが、全体にとって意味のあるものでなければならない…。例えば、ここにおいて、「源氏物語」とは当時の宮廷生活の華美と退廃の行く末を描いたという意味で、十分優れた文学と言えると思う。吉本隆明は「源氏物語」は母系制の崩壊を示唆していると言っていたが、そういう意味でも十分「象徴」たり得ている。光源氏の生涯は単なる一個人の生涯ではなく、当時の共同体の運命を象徴するからこそ優れた文学だったと言える。

 また、夏目漱石の「それから」はよく言われるように、明治の知識人の運命を描いている。自分自身の運命を決定して生きる事が可能になったが、それは同時に旧社会の秩序からの追放を意味した、という点で悲劇として成立している。現在において、不倫小説を書いても、それは単なる不倫としてしか扱われない。その不倫が意味のあるものだと作者が考えるなら、作者はそれだけの(漱石並みの)視点を用意しなければならない。これは当然、極めて難しい事だ。

 二作品だけ挙げたが、これを現代の作品に持ってくるとどうだろう。例えば、村上春樹の「海辺のカフカ」は作品の幻想性が幻想性としてしか機能しておらず、それ故、想像力は根を失って、空中をさまよっている。つまり、「海辺のカフカ」は何の象徴でもない。最近の村上春樹はますますその傾向が出てきたが、それでも「作家は~」「文学は~」と川上未映子なんかと語っていられる限り、いい身分だとは言えるだろう。

 ちなみに、川上未映子の「乳と卵」はパラパラ読んだが、あれこそ正に「芥川賞専用芥川賞小説」(シャア専用みたいなもの)の名にふさわしい。芥川賞選考委員がいかにも好みそうな題材、文体、構成で書かれた作品で、ああいう作品に「女性特有の感性」があるなんていうのは間違いだと思う。芥川賞選考委員のオジサマ・オバサマがいかにも好みそうな構成で書かれており、非常によくできた「芥川賞小説」であり、それ以外のなにものでもないという意味において、逆に大したものだと思う。

 ちなみに、「乳と卵」のラストは女同士が卵をぶつけて喧嘩するシーンがクライマックスなのだが、これは「卵」ーー「卵子」ーー「初潮」ーー「豊胸」ーーと言った、女性特有のテーマを「象徴」する場面となっている。もちろん、ここでの「象徴」は自分の言う「象徴」とは何の関わりもない。

 さて、ここまで長々と書いてきたが、そもそも文学とは何かという問いに対して、簡単に概要を書いておこうと思う。

 つまりーーー

 ・自然主義文学の導入によって、個別のリアルな生を描く事が純文学となった。これを逆側に舵を切って幻想性に救いを求めても、幻想は現実から根を失ったものとして遊離し、一方の、「純文学」はただ現実の細部を描くだけで、現実そのものが何かと問う力を持っていない。文学は現実に固着するか、現実から遊離するか、そのいずれかで、現実そのものを対象化し、乗り越えようとする力を失った。

 ・これらの状況を外側から補強するのが、「売れる」「売れない」の問題であって、作品の価値を昨品外で支えようとする努力である。作品そのものは凡庸だとしても、それには様々なイメージ、宣伝、徒党などがまとわりついて、それによって出版社は生存しようとしている。現今の政治家がそうであるように、大衆に自分の思考・哲学を訴えかけ、問うのではなく、むしろ大衆の漠然たる興味・嗜好に自分を合わせようとするのが最近の傾向に思える。民主主義と言えば聞こえはいいが、大衆の追従者である所の政治家と並ぶように、文学なるものも同様の傾向性を持っている。

 ・優れた文学作品は共同体の運命を象徴するのであって、共同体に受け入れられる為に頭を下げる存在ではない。優れた作品は人々が認めざるをえないものであって、認めてもらう為に、皆の前で卑屈になるものではない。しかし、今ではもっとも卑屈なものこそがもっとも高い価値があるかのようにみなされたりする。(最近、よく言われるタレントの「塩対応」「神対応」なんていう言葉も、そうした傾向性の一つかもしれない)

 ・文学作品は個人の人生を描く。その際、全体に対する部分としての人生を描くだけではない。単なる「誰々の話」では済まない、全体的なものが個人の命運に託されていなければならない。その場合、全体的なものを個的なものに照応させる作家的手腕が必要となってくる。一人の人生の意味が社会全体に意味のあるものでなければならないが、それは社会そのものを作品の中に、象徴として取り込むものではなければならない。

 ・象徴される運命は、物語という時間軸を取って現れる。物語というのは、我々観衆が愉しむためにある形式ではなく、むしろ、我々自身の未来であり、過去である。傍観者に未来も過去もないとすれば、我々に物語はない。しかし、我々もいずれ、どこかに出ていかなくてはならないだろう。

       
 ーーー以上のようにまとめてみた。今のところ、文学というのは自分にとって上記のようなものとしてある。もちろん、自分の言った事にも間違いはあるだろうし、反論もあるだろう。ただ、とりあえず自分はそのように総合的に考えている。この文章はここで終わる事にしよう。
 

                         あとがき

 この文章を書き終えた後に気づいた事が少しある。最後に付け足す事にする。

 概ね、文学というものはここ二百年くらいの間、バルザックやフローベールを基本とするリアリズム文学というものを解体したり、改変したりしてやってきたのではないかと思う。それがマジック・リアリズムのようなものであっても、リアリズムの解体・変化的な流れとして出てきているので、過去に比べて「進歩」したとは考えない。

 例えば、言葉は「記号」であるというのは最近の考え方であって、言葉はかつては「呪文」であり、「歌」であり、「言霊」だった。そうした事は、過去の人が真実を見ていなかったというよりは、過去に籠められていた言葉への生命力が喪失して「記号」が生まれたという見方もできる。

 文学においてはリアリズムが普通になっているし、自分の身の回りの生活を描く事からスタートして、想像力を飛翔させれば、幻想小説になったり異世界小説になったりする気がする。しかし、その根底にある認識は大して変わっていないように感じる。

 文学はかつては神話だったという事を考えると、リアリズムを基礎として、世界を言語によって指示できる、描く事ができるという考え方もそろそろ変えなくてはならないのではないかと思う。ある方法論、構造というものが歴史を通じて唯一普遍のもの、絶対に正しいものであるという考えは、19世紀に浸透して、世界に広がったように見受けられる。そこには当然、物理科学の成功があって、それをその他の領域に広げるという事情があった。

 しかし、科学における正当性は、我々の感覚機能における同一性に依拠しているのではないかと思う。言い換えると、科学が取り扱う物事は「単純」だ。僕という人間を質量・体積で計る時、内面性については一切考えない。そうしたものを抜きにする事によって整然たる秩序や将来予測が成り立つのではないかと思う。これに対して、人間の内面とか、歴史とかいった複雑なものに単純に理論を当てはめていく事は、危険であり、有害な事でもある。それらは科学における取扱物とは違う。精神の科学化を計ったフロイトは失敗した、と自分は考えている。それらは科学的に取扱うには未だに、あまりに複雑なものに思われる。(人工知能によってこの手の事は解決するという発想もあるようだが、あまり信用していない)

 文学というものを考えていくと、今も普通の生活を描く事に主眼が置かれている。そうではない場合は又吉直樹のように『こういうのが文学だよね』という暗黙の了解に頼っていく事になる。しかし、『こういうのが文学だよね』という本質ー定理そのものを改変しなくてはいけない、というのが現代に起こっている状況ではないか。

 マルクスやヘーゲル、あるいはニーチェの哲学は最終的には彼らの辿り着いた真理に到達する事を要請されている。彼らは自分自身か、自分が考えた真理が山の頂上にある事を確信している。この確信は近代の確信であり、近代の奢りだったかもしれない。今、イブン=ハルドゥーンという社会学者の本を読んでいるが、イブン=ハルドゥーンは歴史を栄枯盛衰と見ている。歴史を、最終的な解答を出すための道具とみなしているのではなく、人は、成功すればその事に奢り、廃滅していく「しかたない」生き物なのだ。昔の人間は、人間というものの中に、絶対的な真理に向上していく姿ではなく、むしろ、失敗したり、挫折したり、時には良い事もする人間をある諦念で見つめていた。そんな風にも見える。

 ドラッカーなども、絶えず、真理を更新する事を考えている。ある正しさに向かって、一つずつ階段を昇っていく方法論を絶対化してしまうと、周りの環境が変わっても、一度頂点に到達するとそこから変化していく術が残っていない。何が文学なのか、と考えると、今の社会状況を考慮に入れずにいられない。文学という本質があってそこに閉じこもる事に意味があるのではなく、むしろ、時代を通じて本質は常に更新され、発見され続けなければならない。「本質とは変えてはならないもののことであります」とソニー創業者の盛田昭夫が語っていたが、本質とは変えてはならないだけではなく、維持・更新する必要もあるのだろう。

 …長くなったが、この文章を書き終えて、そういう事も考えた。自分のしている事は極めて孤立していて、よほどのバカなのではないかとつくづく思っているが、その代わり、自分の考えている事は出来る限り、自分以外の人にもわかるように論理的に文章にしていきたいと思っている。それでは長いあとがきを終える。

 『面白い』を客観的に定める方法  (中谷宇吉郎を手がかりに)  


 
 『面白い』という事について少し書いたが、それでは言い足りない部分があるので続きを書く事にする。これに関しては、科学者・中谷宇吉郎が批評家・小林秀雄について書いた文章『小林秀雄と美』を下敷きにする。中谷宇吉郎の言っている事は僕が漠然と感じていた事を理系らしく極めて明快に言ってくれているので、この文章を紹介するだけでも十分だと思っている。この文章は「小林秀雄全集 別巻2 批評への道」に所収されている。

 さて、まず中谷宇吉郎は「美の客観的基準を定める事は可能か」という問いから始める。今の場合、「美」を「面白さ」と読み替えてもらえればいい。中谷はこんな風に始める。

 「今日のような民主主義の世の中になると、藝術の世界でも、大衆性ということを、重視しなければならない。その点では、小林秀雄のようなことを言うのは甚だよろしくない。しかし藝術と民主主義の調和は、なかなかむずかしい」

 この後、フランス革命の際に一番喜んだのはセーヌの道端で絵を売っていた画家だったという話が出てくる。「自由」「平等」を基調とするフランス革命の後は、「俺の絵だってルーベンスと同じ値段で売れるんだ!」というわけである。もちろん、現実はそうは行かなかった。

 さて、ここから中谷は二つの基準を、芸術と科学を比較しながら提出する。科学者らしく、極めて明快な方法を二つ、中谷は教えてくれる。

 まず、無条件に大衆の評価を信じる事は間違いであるが、かといって大衆を完全に無視する事はできない、という事である。ベストセラー作品が一番価値ある作品とは言えないが、そうかといって、誰も認めない作品を優れた作品と言う事はできない。それが優れた作品であると考える為には、最初は少数者であろうと、その作品を高く評価する人間が必要になっている。

 還元すれば、これは「質」と「量」の組み合わせの問題である。中谷は科学の観測の話題を出す。

 科学は一般に正確と思われているが、実はそうではない。「観測」というものには必ず誤差がつきまとう。誤差というのは必ず出てくるので、科学においては最初に、「これくらいならまあいい」という範囲を決めておく。その範囲ならば誤差が出ても、「正確である」「妥当である」という事にする。つまり、科学の観測というのも、完全な値を用いているのではなく、トータルで考えて妥当と思われている線で進んでいくという事だ。

 例をあげると、地球というのは円形で表されるが、実際には表面は山脈で凸凹している。しかしこの凸凹は地球というトータルの大きさから比べれば極めて小さな凸凹なので、この凸凹は気にせず、円を描いて「地球だ」という事にしておけばいい。大体、そのような、場面に合わせたアバウトさで僕らは問題を処理する。

 さて、中谷は観測の問題ついて更に細かく考えていく。観測には誤差があると言ったが、その場合、測定値は観測者によってそれぞれ違う。つまり、それぞれに誤差を持っている。ではそれをどう調節するかと言うと、各測定値の平均点を取る。つまり、民主主義的な方針を取る。こうして誤差の範囲を狭めにかかる。

 これを僕らは通常、次のように言い換えている。「あの作品が面白いと言っているが、それはお前の主観だろう」 こういう事を訳知り顔で言う人間がいるが、そう言う人間はもちろん、「客観的基準」が何かは知らない。中谷の考えを用いれば、そもそも科学においてすら完全な正確性は存在しない。それで、ある程度、妥当なラインを考えていく。したがって、「それがお前の主観」であるというのはそもそも否定にはならない。誰しもの主観を統合して客観を作るからだ。

 しかし、この民主主義的やり方とは違う方法論がもうひとつある。こちらも、民主主義的なやり方と同じくらい重要だ。こちらの方は君主制と言えばいいかもしれない。小林秀雄は、君主制の君主に該当する。

 というのは、科学において「重みをつけた平均」という平均の取り方がある。これは信用度のある測定値ならば、その分だけ、そこに重みを持たせるという事だ。中谷はこれを「特定の人に二票なり、三票なりを与えて、投票させるようなもの」と説明している。この「特定の人」というのは、何らかの理由で、普通の人より信頼のおける人となっている。

 さて、ここで、民主主義的だけではない方法論が出てきた。つまり、評価の基準に重みをつけるというものだ。これを極端にすると、小林秀雄のように美に打ち込んでいる人の評価に関しては普通の百倍の価値を認めてやる。普通の人百人分の評価価値が、小林秀雄のように心底、芸術に打ち込んでいる人には与えられる。一方、普通の平均人は小林秀雄の百分の一の評価能力しか持たない。

 こうなると、当然、不平が出てくる。「どうして小林秀雄にそんな権利が与えられるのか!」と。これは平等論に傾き、最後にはセーヌ川の絵描きに行き着く。

 中谷はここでもうまい比喩を用いている。例えば、雪舟の絵と、風呂場のペンキ絵(凡庸な富士山の絵)、どちらがいいかと問うと、一般的にはペンキ絵の方に軍配が上がるだろうと言っている。民主主義で言えば、ペンキ絵が勝つわけである。だが、ここに重みというものを考えてみよう。つまり……

 「雪舟にもペンキ画にも、どっちにも実はあまり興味はないが、どっちかといわれれば、まあペンキ画の方という一票と、もし家屋敷があったら、それを売ってもこの絵を買いたいという人の一票とには、違った重みをつける方がむしろ自然である。」

 これはわかりやすい比喩だ。この時、「家屋敷を売っても買いたい絵」というのはおそらく、富士山の凡庸な絵ではなく、雪舟の絵の方であろう。そしてそんな事を言い出しかねないのは、小林秀雄のように、芸術に打ち込んだ人間に決まってくる。

 ここまで来て、「美」あるいは作品の「面白さ」を決める基準がはっきりしてくる。簡単にしていくと

 ① そもそも、芸術においても科学においても完全に客観的な評価というのは無理だ。だから、その次の妥当なラインを探す事が求められる。

 ② 妥当を探す一つの方法は、多くの測定を用いて、その平均を取るものだ。これを作品評価に当てはめると、時代と人の波、様々な異なる文化をくぐってもなお評価されたきた作品というものには、ある程度の妥当性が認められるだろう。

 ③ また、もう一方の方法は、小林秀雄のように作品評価に自分の全身全霊を傾けて打ち込む人の評価を信頼するという事だ。
 中谷はこれを「けっきょく小林秀雄のような男の言うことを聞いているのが、一番の早道ということになってしまう」と、極めて的確に現している。小林秀雄は信頼できる測定装置であるが、完全な装置ではないという微妙なニュアンスを一文でうまく言い表している。


 さて、ここまで考えてくると、中谷宇吉郎は極めて穏当かつ常識的な事を言っているのが分かるように思う。熱狂するわけでも、軽蔑するわけでもなく、科学的な考え方で芸術の価値基準というものを、僕らの普通の感覚と合致するようにわかりやすく説明してくれている。

 ここまで説明すれば、僕が付け加える事はもう何もない。自分の言わんとしていた事を明快に説明してくれてありがたというばかりである。ただし、こういう考え方が「普通」とは思われない時代もあって、現在もそんな時代かもしれない。というのも、文芸評論家が、批評家の先輩であり、批判するにせよ丁重に扱うべき小林秀雄を「ドーダの人」という雑駁な論理で否定(批判でもない)してみせたり、ベストセラー作家が「『罪と罰』を読まない」という本を出したりする。信頼できる測定装置、「重みをつけた平均」の方はバカにされて、どんな事を言おうが売れればいいという時代だ。量で質を足蹴にできると信じている時代だ。

 こうした時代にあっても、中谷宇吉郎の言っている事は妥当であると思う。しかし、中谷も注意しているが、難しいのはここからだったりする。つまり、誰が信頼できる測定装置なのか、それを探るにも、また別の測定装置が必要なのである。芸術が科学よりも面倒なのはここいら辺りにあるのだろう。科学であれば、僕らが皆、持っている感覚器官に訴えかけるわけだが、芸術を感受する器官は僕らが「重さ」「軽さ」、「運動」等を計る器官より、精妙でわかりにくいものとなっている。中谷はそれを意識していてこう書いている。
 
 「こういうことをいっても、実は言葉の遊戯に過ぎないので、そういうウェイトをつけるとなったら、抽象的なものしかない。美を求める精神力の全精神力対する割合というようなものしか考えられない。」

 つまる所、芸術、作品の客観的評価というのは難しく、それぞれが価値評価を磨いていくか、それとも、小林秀雄のような達人の言う事を一応、信頼していくというのが妥当な線となってくる。「美」「面白さ」の客観的評価というのは中谷宇吉郎の言っている事に尽きていると思う。つまり、全体の多様な評価の平均を重んじるか、小林秀雄のような達人の言う事を疑いつつも、尊重して聞いていくか。どっちにせよ、この二つの価値基準、質と量を駆使してこれからもやっていく他ないように思う。ベストセラー作家が一時、平均点を高めても、「時」という要素が加算されると彼らの点数はどんどん減っていく。作品は評価というものと闘わなければならないのであって、作品は評価に屈従するものではない。また、評価者の方でも、自分の評価基準を磨いていくのが、妥当な努力という事になるだろう。

該当の記事は見つかりませんでした。