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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

『面白い』という事について

 
 

 『小説家になろう』に「書籍化作家に聞いてみた。面白いものを書くための15の質問+1」というエッセイがあって、色々な「プロ作家」がどうやって面白いものを書くかという問いについて答えている。これを題材に、「面白い」という事について自分の意見を言ってみる事にする。

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 こうした事柄ーーつまり、「どうやったらプロのように面白いものを書けるのか?」という問いに対して、まず疑問なのは「プロ」と「アマチュア」を整然と区別するという事にある。正直、十把一からげに見えるライトノベルの世界で「プロ」と「アマチュア」の区別はさほどつかないのではないか。「涼宮ハルヒの消失」くらいの作品であれば他作品との差も見えてくるだろうが、「プロ」の作品と「アマチュア」の作品の区別を決定的なものを前提として、「ではどうすればいいものを書けるか、プロに聞いてみよう」という趣旨自体が僕には曖昧なものに見える。

 こうした「プロ」は「アマチュア」とは違う、みたいな意見は確かにわかりやすいし、「おおっ、さすがプロ」みたいな声も聞かれるが、僕は眉唾ものだと感じている。「プロ」と「アマチュア」の差はそもそも何に由来するのか。本当に作品内容の差なのか、それとも単に金銭を出版社から振り込まれているか否かという差なのかという、差異そのものがあやふやに見える。

 もちろん、こういう意見はこれまで無数にあったしこれからもあるだろう。では何故こうした意見はあるのか。それは僕達が単に「プロ」になりたいからなのだろう。つまり、「プロの書く水準のものを書きたい」という欲望と「プロの作家になって印税生活を送りたい」という願望が知らずに一緒になっている。仮に「プロの水準」があるとして、その「水準」に到達すればそのまま「プロ」になれるかは未知であると思う。それが既知だというには、作品を吟味する編集者や読者が極めて正確な批評水準を持っていなければならないが、この水準はぶれている。「プロのレベル」の書き手になる事と、「実際にプロの作家になる」というのは別であると思う。実際、(名前はあげないが)、〈よくこんなのでプロを名乗っているなあ〉という人も結構いる。しかしそうした人達も現に「プロ」という理由で正当化されてしまうだろう。

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 しかし、問題は他にもある。仮に「プロ」と「アマチュア」の差がそのように整然たる、はっきりした区別であり、「プロになったら勝ち組!」という単純な発想が正しいとしても、今、インタビューに答えているプロ作家は十年後には何人くらい残っているだろうか。仮に一年だけ「プロ」になって最初の一冊だけ出して後はお蔵入り、出版社から見捨てられて読者もつかないライトノベル作家がいるとしたら、その人は「プロ」として「アマチュア」に何か教えるものを持っているのだろうか。持っているのかもしれないが、それだとしたらその人は何故、プロとして成功しなかったのだろう。

 これらの問題は全て、同一の根源を持っている。つまり、僕達「アマチュア」は「プロ」になりたがっているのだから、その為のノウハウを「プロ」に聞いてみよう、という事だ。しかしその「プロ」もいつ「プロ」でなくなるかわからない。三年後には消えているかもしれない。というか、そもそも「プロ」の書くものが「面白い」かどうかもわからない。いや、そもそも「面白い」というものはどういう事なのだろうか。

 上記のエッセイの但し書きにはこうある。

 「面白いものを書いている人と、評価されていない人との違いは何なのか。」

 この短い文章だけで、面白さ=評価という定式ができている事がわかる。これらを簡略化すると

 「プロ=金もらっている=評価されている=面白い」

 だが、そもそもこの式自体が成り立つのかどうか。「小説家になろう」で評価されている作品がAmazonレビューでボロカスに言われている事はよくある。この時点で既に、Amazonレビュアーとなろうレビュアーの間で、評価軸が別れている事が明白だ。もっと具体的に言えば、「なろう作家」はいわゆる、それを好む人達に向かって書いている事によって評価を得ている。つまり、それ専用のグループに向けての「面白さ」であって、普遍的な「面白さ」とは言えないと思う。

 では普遍的な「面白さ」とは何か。日本人に受けているものが海外に受けるとは限らないし、その逆もある。ある文化圏、ある時代圏で有効だったものが別の時代、地域に来ると拒まれるという事はよくある。だとしたら、どのレベルからが「面白い」と言えるのか。
 
 僕の書いたものを僕の友人一人が絶賛したとしても、それは「面白い作品」とは通常言わない。では、この絶賛者の数をどれぐらい増やしたら「面白い作品」に到達するのか。…もちろん、こんな事をどこかで決定する事はできない。人によって数はマチマチだろうし、絶賛している人間だって、後で駄作だったと気がつくかもしれない。

 しかし、歴史に古典というものがあって、それが時間・文化を越え続けてきている以上、「面白さ」というものがあると想定するのは許されるだろう。ただこの場合でも「面白さ」というのは何かというのはそれだけでも大問題になってしまう。それに、「面白い」からすぐに評価されるかもよくわからない。

 さて、ここまでネチネチと難癖をつけてきたのだが、そもそもの問題は「プロ」と「アマチュア」を過剰に区別化し、「金もらっているプロ」VS「金もらっていないアマチュア」を「プロレベルの作品」VS「アマチュアレベルの作品」という風に一緒くたにしている事にある。純文学にも編集者とのコネでデビューした人物がいるが、そうした人物が本当に高い水準にあるのかは作品を吟味しなければわからない。金をもらっているプロだからといって、作品も高い水準にあるかどうかはわからない。

 だが、繰り返し繰り返し、純文学であろうとライトノベルであろうと哲学であろうと、この問題が提出されるのは、「プロ」にとっては自分達を高位につけ、「アマチュアとは違う」という差別化を計った方が優越感も持てるし色々都合が良いという事があるのだろう。また「アマチュア」からすれば、「いかにしてプロになって印税生活ができるか」という夢への道筋が見えるためだろうと思う。つまり、自分とは違う「プロ」に話を聞いてノウハウを聞いてそれを実行すれば「プロ」になれるという明確な道筋を持つ事ができるためだ。果たして、そうしたノウハウが本当に目標達成のための道筋として正しいかどうかはわかっていない。また、仮に達成したとしてもすぐにまたアマチュアに戻るかもしれない。読者はすぐに自分の作品など忘れていくかもしれない。そういう事は考えられていない。

 ここまで書いた事を総計すれば、そもそも「面白い」という事自体がそれほど簡単ではないという問題がある。また、プロとアマチュアは本当にそんなに画然たる差があるかという疑問がある。

 今の世の中を見渡すと、「評価」というのは簡単に思われている節がある。AKBのランキングに始まり、ポイント、視聴者数、コメント数、売上、いいね!の数…という風に、結局の所、数的評価が主勢となっている。僕は評価というのはそもそも難しい事だと思っている。

 「文芸評論家」という職業が(今は機能していないが)そもそも何故あるかと言うと、「文芸」は評価する事自体がそれほど簡単ではないから、あるいは「良い」と感じても何が良いのか、簡単には言えないからだ、と思う。他人を褒めるのは難しい。それは、本質的に自分が良いと思うという感性を磨く事でもある。視聴者は自分の感性を磨こうとは考えない。自分の好みのままに従って他人に評価を下す。そこで、これらの人に気に入られるようなものが高評価という事になるが、評価軸自体を成長させる事、それを促す事も「プロ」の仕事ではないかと思う。

 「プロ」と「アマチュア」の違いは、金をもらっているかどうかの差が、いつの間にか作品内容の差に還元されている事に問題がある。あるいはこれらの問題は全てフラットであって、プロとアマチュアは整然と違うと考えても良い。どっちにしろ今の世の中では「売れてる」「売れてない」が問題になってくる。この時、「売れる」ものがいいという評価はどこから出てくるか。多くの人の評価を受ける事が無条件に良いと判断する作家視点は、多くの人が好むものを作るためのノウハウに収斂されていく。それ自体は決してつまらないものではない。だが、それはあくまでエンタメ的な「面白さ」であって、普遍的な「面白さ」ではないと思う。

 過去には人気作家だったが今では全く読まれていなかったり、生前売れてなかったメルヴィルの「白鯨」が今は簡単に書店で手に入る。こうした事態一つでも「面白い」という事自体に様々な基準・水準が入り乱れているのが分かる。だからこそ、それぞれがそれぞれの水準を吟味したり、問題にしたり、話し合ったりする事が意味のあるものになる。これを多勢の評価に一元化する事は何を意味するのか。政治家が大衆におもねるタイプになり、作家・芸術家が大衆におもねるタイプになり、タレントが大衆におもねるタイプになり、何の芯もなく、自分というもののかけらもないものになっていく。こういう傾向性が正しいとすれば、それは何を基準に正しいというのか。それを判断するもうひとつの基準はもう存在しない。僕達はただそんな社会にいて、そういう存在だから、そう思っているに過ぎない。
 
 このような時代にあってプロになろうと目指すのはどういう事だろう。もちろん、それ自体、間違っている事でも正しい事でもない。しかし、最終的にはプロかどうかというよりは、世の中を信頼するかどうかという一点にかかってくるように思われる。評価者は瞬間的には間違った判断を下すかもしれないが、最終的には彼らは、良いものを良いと言うであろう。その時、瞬間風速的に面白いものは消え去るかもしれないが、真に面白いものは残るだろう。僕達にとって本当に「面白い」という言葉が価値を持つのは、そんな時のように思われる。数学者ガロアが死の前に、自分の理論がやがて認証される事に何の疑いも持たなかったように、僕らも価値を生み出す事ができれば、信念を持つ事も許されるだろう。

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