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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

「走れメロス」のラストを考える

  


 太宰治の「走れメロス」のラストは次のようになっている。


「万歳、王様万歳。」
 ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
 勇者は、ひどく赤面した。


 走れメロスは、主人公のメロスが親友の為に走る、よくできた友情物語であり、太宰治の作品としては非常な成功作となっている。

 一応、説明しておくと、暴君の王様がいて、これは人間不信の為、多くの人を殺している。メロスは王に反逆し、人を疑うのは恥ずかしい事だと反論する。暴君の王はメロスを処刑する事にするが、メロスは妹の結婚式があるので三日の猶予が欲しいと言う。三日経ったら帰ってくる、帰ってこなければ親友のセリヌンティウスを処刑にしていいと取引を持ちかける。王は人間を信じていないので、メロスがそのまま逃げると考える。メロスは三日の猶予の間に妹の結婚式に出て、そこからなんとか帰ってくる。メロスは一度、友への裏切りを考えるが、乗り越え、必死の思いで刑場に戻ってくる。帰ってきたメロスは、友を信じて待っていたセリヌンティウスと抱き合い、友情と信頼の真実を見た暴君は改心する。最後には「万歳、王様万歳」。

 さて、走れメロスを通読した人は、「万歳、王様万歳」の後の「ひとりの少女が緋のマントを~」以下は明らかな蛇足だという事を苦もなく納得するだろう。この話は構成的には「万歳、王様万歳」で終わっている。メロス、セリヌンティウス、王の三者の関係はここで綺麗に閉じている。懐疑は信仰によって乗り越えられ、話はうまくまとまっている。

 それでは、何故、太宰は「ひとりの少女が~」のラストを付け足したのだろうか。明らかな余計物をどうして太宰はつけたのだろうか。これは作家的問題としては非常に重要な事と僕は捉える。

 元々、太宰の作品というのは独特なオチがついている。このオチは、太宰と他の作家を分ける指標にもなるので、かなり重大だと思う。例えば、「乞食学生」という作品では、作家と貧乏学生とのやり取りが書かれるが、これは夢オチで終わる。「トカトントン」では、ラストには作家の側からの説教が出てきて、作品をぶち壊してしまう。しかし、このぶち壊し、作品そのものを壊していく、という意識がなければ、太宰らしくないとも言える。「人間失格」のラストでも、主人公は「神様みたいないい子でした」という言葉で相対化される。それまで主人公が積み上げた『負』の概念は最後にはひっくり返される。

 このひっくり返し、ぶち壊しというものが何故、存在するのか。僕は自分が拙い小説家ーーアマチュアのーーなので、太宰が何故、感覚的にそう書いたのか、書かざるを得なかったのかはうっすらわかると思う。だが、これを論理的に言葉に説明するのはかなり難しい。

 簡単に言うと、完璧な作品、綺麗に整序された、構成的に完全にまとまった作品があるとして、それは人は褒めるだろうし、作者も満足するだろうが、しかし、そこには何かが「欠けている」という感覚というものが発生してしまう。始めがあり、真ん中があり、終りがある。そのような綺麗な起承転結だけでは収まりきらない何かがある、そのはみ出した感覚というものが、太宰のような作家には常にあって、それがあのように独特なオチをつけなければ気が済まないのだと思う。

 「走れメロス」のラストは少女が羞恥心から、マントを差し出す事になっている。少女の羞恥心、はにかみというのは、現実生活では非常に些細な、小さな感情である。

 「万歳、王様万歳」という声は、人々の結論であり、幸福な最後であり、終焉である。この声が響いた時、生活はいわば「ホサナ」(神を祝福する声)に包まれる事になる。懐疑は終わり、友情が勝利した。我々は幸福である。が、そこには何か、小さな感情が欠けている。少女の含羞というのは生活の中では些細な事で、本来、実生活では「万歳、王様万歳」の声にかき消されてしまうものだ。が、この声を忘れては何か大切なものが欠けてしまう。友情と信頼の物語、それ自体は素晴らしい。メロスが内心に葛藤するものを抱えていた時、彼は、少女と同じように、自分の内面という、大きな世界から比べると些細なものを手にしていた。だが、それが「万歳」の答えで終末に辿り着く時、個人の内面というごく小さなものは、世界という大きなものに一致してしまう。人間の内面は、それが成就する事によって、それとは別のものになってしまう。その時、もう一度、些細な心理的葛藤というのは戻ってこなければならない。単に、友情と信頼の物語だけではない。人間の些細な感情は「万歳」の声にかき消されるものであってはならない。それだけでは、何かが欠けてしまう。

 僕が最も好きな太宰の作品に「鷗(かもめ)」という短編がある。これは戦争という大きな現実、制度的な変化の中で、作家が果たして自分の自意識を保持すべきかどうか、悩む話だ。


 「私は、やはり病人なのであろうか。私は、間違っているのであろうか。私は、小説というものを、思いちがいしているのかも知れない。よいしょ、と小さい声で言ってみて、路のまんなかの水たまりを飛び越す。水たまりには秋の青空が写って、白い雲がゆるやかに流れている。水たまり、きれいだなあと思う。ほっと重荷がおりて笑いたくなり、この小さい水たまりの在るうちは、私の芸術も拠よりどころが在る。この水たまりを忘れずに置こう。」


 もちろん、このように「水たまりを忘れずに置く」というのはあまりに些細な感情、つまらない自意識に過ぎない。何故、そんな事が言えてしまうか。太宰が痛感していたのは、戦争という大きな現実であり、同胞が自分の命をかけて戦っているという現実だ。同じ仲間が命を懸けて戦っているのに、自分は「文学」などというくだらないもの、「水たまりを忘れずに置く」という小さな感情を大事にしている。それは果たして正しい事なのか。ここに太宰の苦悩があった。

 戦争のような巨大な出来事が個人に訪れると、人間の小さな内面性、含羞などはもはや問題とならなくなってしまう。確かに、それは小さくくだらない事に違いない。だが、この小ささを失ってしまえば、全てを失ってしまうのではないか。芸術の真の闘いはここにあるのではないかと思う。芸術を功利的に、社会的にのみ測定する人々は、彼らが何を踏み潰したのかは見えないに違いない。

 太宰治という作家は常に、こうした小さな感情を大事にした人だった。「太宰治は暗い」と紋切り型に言う人は太宰の真の姿を見ていないと思う。太宰治は気質的に暗かったのではない。彼は暗い事に自覚的であったので、言い換えれば、それは思想としての暗さで、「右大臣実朝」の言葉にはっきりと現れている。

 「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」

 「走れメロス」のラストが何故ああなっているのか。このようにして、太宰には常に、「小さいものを大切にする感覚」というのがあった。世界は、理想によっても、破滅によっても終わらない。終わった所に始まりがあり、始まった所に終りがある。太宰の作では最も暗い「人間失格」は、主人公が「神様みたいないい子」と評価される事で終わっている。このようにして最も暗いものは、別の視点を通すと明るいのだ、という複雑な光学が太宰にはあった。そこで太宰は作品を重層化していたとも言える。

 「走れメロス」のラストにも太宰の特色は現れている。太宰は物語を、最初から最後まで整序されたものとして作るのを好まない。「万歳、王様万歳」で終わってはならないと感じている精神があって、それがああした蛇足を生む。世界は単純に成り立っていない。世界は、ある種の破滅とか、幸福とかに一元化できるものではないが、それを一元化しないと、物語に終端はない。したがって、物語に終端をつけながらも持続していくものを示す事ができるか、というのが問題となる。

 夏目漱石の「道草」「門」はどちらも同じような終わり方をしている。どちらも、問題は解決するのだがそれと同時に、決して問題は解決し切るものではない事が示されている。太宰と漱石ではだいぶ違うが、これは人生に対する態度の類似から来た相似と考えたい。

 作品には構成があり、物語が必要とされ、必要な形式を持って整えられる。作品の完璧性のみを考えるなら、蛇足はいらない。が、作品の外にも続いていく世界が太宰には常に感じられていた。「乞食学生」が夢オチに終わるのは、作者が生み出した貧乏学生の像に対して、作者自身がどこかで嘘くさいものを感じていたからこそあんな終わりになったと僕は見ている。あるいは、貧乏学生と作家との交流がうまく行き過ぎたもの、理想的すぎるものになったからこそ、オチはその逆のものが必要とされた。太宰は常に、物語を描きつつも、それを相対化する視点を付け加える事を忘れなかった。そうした太宰の特性が「走れメロス」の最後をあのようなものにしたのだと思う。作品は終わるが、終わらない何かがある。ではそれを作品に取り込めるかーーこの懐疑が、あのような蛇足を生んだ。僕はそう考える。

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小林秀雄がベルグソン論を中断した理由




 小林秀雄には『感想』というベルグソン論があるが、小林はこれを中断し、出版する事も拒んだ。小林秀雄はどうしてベルグソン論を中断したのか。その理由について考える事にしたい。

 小林秀雄自身の言葉を最初に引くと、『失敗しました。無学をのりきれなかった』とあるが、小林秀雄を知っている人は、小林秀雄が『無学』とは夢にも思わないだろう。僕は小林秀雄は嘘を言っているわけではないし、正直に自分自身について語っていると思う。

 実際、小林のベルグソン論に目を通すと、そこに『失敗』のようなものはほとんど見えない。文章のクオリティは非常に高く、色々な側面から論じる事ができる質の高い文章だ。質の高いものだからこそ、小林が出版を禁じた後でも、他の批評家らによって連綿と論じられてきたのだろう。

 さて、ここまでは前置きなので、以下から自分の考えを書いていく事にする。

 小林秀雄が何故、ベルグソン論を途中でやめたのか。答えは単純で、僕は、小林秀雄はあくまでも文学者であって、哲学者でなかったためだと結論する。逆に、ベルグソンという人はいかに文学に理解があり、文学者的素養があっても、やはり哲学者だった。その齟齬がベルグソン論を破綻させたのだと僕は見る。

 小林秀雄のベルグソン論を読むと、どこを取っても金太郎飴のように同じ表情が浮かんでいる。小林秀雄が学者的にベルグソンを論じていない事は明らかだ。彼はベルグソンについて論じようとしているよりは、むしろ、ベルグソンについて語り、彼と一致しようとしているように見える。小林のベルグソン論は通常の論ではない。作者の見解を記すというより、作者とベルグソンが一致する部位を綴っていくように見える。

 小林秀雄という人は、源実朝や西行を論じていて、それはうまくいっている。だが、同じようにはベルグソンを論じる事はできなかった。小林秀雄の評論に通暁している人なら、小林秀雄の方法論はよく知っているはずだ。小林秀雄は西行にも実朝に、一つの『詩魂』を見る。小林秀雄は、ランボーを見ても、実朝を見ても、西行を見ても、最終的にはそれを自分の魂の側面と一致させて論じる。つまる所、小林秀雄文学の最終的な論拠は「小林秀雄」という生きた一人の人間である。「小林秀雄」というのっぴきならない存在が、他者の中に自己自身の姿を見つけ出す時、小林秀雄の批評は成立する。だから、中世の詩人でも近代の詩人でも、同じように小林秀雄には作用する。むしろ、それらの差異を純粋な『詩魂』に統一するのが小林秀雄の特異な批評と言った方がいいのだろう。

 さて、この場合、小林秀雄の取っている方法は極めてオーソドックスなものに思える。オーソドックスというのは、文学者としてオーソドックスという意味だ。小林秀雄は、小林秀雄というフィジカルな、自分という存在に最終的な根拠を求める。逆に、これから離れて何かを論じる事は小林秀雄にはできなかったし、それをすると、おそらく何かが欠けている印象を持った事だろう。

 一方で、哲学者は文学者とは違う。哲学自体、非常に広範なものなので、簡単に一括できないが、僕の方で一括すると、哲学者は『概念』を提出する。「物自体」「絶対精神」「持続」「意志」などなど…。哲学者は、自分の生み出した概念で世界を括ろうとする傾向性を持つ。それらの方法を、読者である僕達が妥当であると感じたり、感動したりと言った事で、哲学者の権威は作られていく。

 この時、哲学者は基本的には、自分という存在を根拠にしない。例え、『自分』という存在を概念として提出する哲学者がいたとしても、それは哲学者固有の、つまり一回限りの人生を送っている、生きた哲学者の像ではない。ここにはややこしいので丁寧に説明する。

 例えば、僕が哲学者であって、『私』こそが、世界を統一する概念だという哲学書を書いたとする。その時、そこで使われる『私』というのは「ヤマダヒフミ」の事ではない。では、その『私』とは何か。それは今、これを読んでいる『あなた』が自分のことを『私』と考える事が可能であるような『私』である。つまり、一般化された『私』こそが世界を統一する概念であり、「ヤマダヒフミ」が死んでしまえば消えてしまう『私』ではない。

 小林秀雄はベルグソンについて語る時よく、「直観から分析に至る道はあるが、分析から直観に至る道はない」と言う。これは確かな事だが、ベルグソンの語る「直観」はベルグソン自身の直観ではない。あくまでも哲学概念としての「直観」のはずだ。(ベルグソンについては詳しくないので小林秀雄の方からしか僕は見ていないが) 一方、小林秀雄がそう言う時はいつでも、「小林秀雄」という人物が感じられている。そうでなければ、小林秀雄の文章は成り立たないようになっている。

 小林秀雄は客観的に見えるような評論から、「Xへの手紙」というような告白文に連続して移っていく事ができた人物だ。「Xへの手紙」はもう少しずらせば、すぐに小説になる。このように、小林秀雄には常に、告白する自己自身がはっきりと感じられており、その為に、僕達は小林秀雄の批評を読むと、論じられている対象を見ているというよりは、小林秀雄の輪舞を目撃しているような気分を味わうのだ。

 一方で、ベルグソンはあくまでも哲学者だ。だから、彼の提出する概念は、もちろん彼の個性を帯びているが、彼そのものではない。彼の概念は、彼にとって外物として作用する。外物として現れた概念が世界全体を覆うのであって、ベルグソンという自我が世界を覆うわけではない。

 しかし、小林秀雄はベルグソンを論じる時でも、やはり文学者と同じように論じてしまう。そこに齟齬が発生する。小林秀雄は、ベルグソンの哲学を小林秀雄という個性に帰着させようとするが、その方法論はうまくいかない。簡単に言えば片方は哲学であり、片方は文学だからだ。

 小林秀雄のランボー論は、ランボーという無類の魂に、こちらもまた無類の魂という事で、静かに入り込んでいく。小林秀雄はランボーを宿命のように感じた。宿命のように感じた、とはどういう意味だろうか。それは他者が他者ではなく、もはや己自身として感じられるという意味だろう。小林秀雄はドストエフスキーについて論じるにも、作品全体というよりは、むしろラスコーリニコフやイワンという一個の人物に共感し、一致していく。ラスコーリニコフの孤独な姿は己自身、いや、現代人みんなの姿である。アルチュール・ランボーの姿もまたそうだ。この評論に僕らは共感する事ができる。そこでは、生きた一人の人間に焦点が合わさっているが、そこからは決して出ない。

 ここを小林秀雄の限界と見るのは簡単だ。だが、本当は話はそんなに簡単ではない。ただーーここで、この場所に小林秀雄が頑強にとどまり続けたからこそ、小林はベルグソン論を途中で放棄したのだ、と考えたい。哲学者が概念を提出し、それによって個的な存在は一般化され、その為に、哲学は芸術よりも科学に一歩近づく。が、それにより失われるものもあるかもしれない。小林秀雄が頑強に自分の元にとどまり続けたのは、小林秀雄が徹頭徹尾、文学者であったからだ。僕はそのように考える。だからこそ、小林秀雄はベルグソン論を失敗した。結論としては簡単だが、小林秀雄は文学者であり、ベルグソンは哲学者だった。ベルグソンを実朝や西行と同じように扱おうとしても無理があるという事を小林秀雄は身を持って実感したのだと思う。小林秀雄が『無学』であったり、理解が足りなかったのではなく、そういう方法論の相違が問題となったと思う。

神聖かまってちゃん 『自分らしく』

 





 神聖かまってちゃんの楽曲に『自分らしく』という曲がある。僕が一番好きな曲だ。

 「自分らしく」という言葉はもはや、陳腐で手垢のついたものとなってしまった。誰しも、もう何が自分なのかはっきりと見えてはいない。その中でも「自分らしく」という言葉は未だに、あるタイプの符牒として通用するように見える。

 「自分らしく」生きたい。人はそう願いながら、知らず知らず他人の価値観を紛れ込ませている。ユーチューバーが、ニベアクリームを大量に風呂に入れて、浸かる様子を動画にアップする事。こうした事を「したい事をして稼ぐ」「やりたい事をやっている」などとは僕は思わない。ユーチューバーはきっと、カメラのない所ではそんな事はしないだろう。僕らの目がカメラと、動画を見る画面と一致し、その事に気づかない。「自分らしく」生きようとして、他人らしく生きる事に終始する。金を得たいと思う事は、僕達の根っこに兆した欲求であるような気がするが、金で得られるものは市場に出回っているものに限られる。そこでは非常に多様な選択肢があるが、その選択肢は全て他人の用意したものだという事実は変わらない。僕らは他人の生産物で自分を活気づける事ができると信じている。その傾向から、「自分らしく」とは、最初に紛れ込ませた「他人」に対して見て見ぬふりをするという態度に収斂していく。

 神聖かまってちゃん「自分らしく」という曲は、具体的に何が「自分らしく」なのか、はっきりとは明示されていない。むしろ、そこで示されているのは『自分らしく生きたい』『素直に歌いたい』という事が、曲として示される事こそが、「自分らしく生きる事だ」という二重の構造だ。「ロックンロールは鳴り止まないっ」という曲でも同じ構造が見えるが、ここでは歌われる内容と、歌う方法論とが一致している。

 例えば、浜崎あゆみや西野カナが、楽曲で歌っているような恋愛を実際にしているとは思わない。もちろん、実際とフィクションが一致しなければならないなんて事はないが、彼らは「絵空事」を歌っている。「絵空事」の恋愛が大衆の心を掴み、現実を如実に描いたものはむしろ不人気だ。何故そんな構造があるかは興味深いが、ここでは触れない。浜崎あゆみや西野カナの歌う恋愛は、彼らの事実としての存在から遊離して歌われている。言い換えれば、彼らは「お仕事」として歌を歌っている。彼らはプロフェッショナルなので、もちろんそれでも十分評価できるが、諸手を挙げて褒めるわけにはいかないと感じる。

 「自分らしく」生きたい、と神聖かまってちゃん・ボーカルの『の子』が歌う時、それはのっぴきならない一つの生を語っている。「自分らしく」生きたい、「素直に歌いたい」との子が現に歌う時、彼の背後に強力に感じられているのは、そもそも僕達がどうあがいても『自分らしく生きる事はできない』『素直に歌う事ができない』という事実だ。僕らを強引に、強力に押さえ込む世界の論理が、僕達を世界の底に沈めて離さない。が、この拘束が強ければ強いほど、これに対する反作用も強烈な力を持つ。一番自由な人間は、誰よりも強力な拘束を感じている。世界の重荷を背負っている人間だけが、それと闘う事によって自由となれる。

 『自分らしく生きたい』『素直に歌いたい』と歌う事は、むしろ、それとは逆の事を想起させる。「自分らしく」という楽曲の外側では、の子は全然、「自分らしく」ない。生活の論理の中で、人は全く自分らしくもなく、素直でもない。見せかけの素直さを装った所で無駄だ。だが、それに抵抗する歌が響く時、ようやく僕らは「自分らしく」なる。自分がこれっぽっちも自分らしく生きていないと痛切に感じ、それへの抵抗が表現となる時、ようやく「自分らしさ」がほんの一瞬だけ、具現化する。山頂の光に似たそれは、周辺を黒い雲で覆われている。

 「自分らしく」生きるという事は現在ではもう不可能なのかもしれない。現実意識、生活の論理は僕達を渦巻いている。宗教は世俗のものとなり、世界は平坦化した。この時、「自分らしく生きる」と言いつつ、皆に気に入られる価値観に静かに自分を滑り込ませていくというのは容易だ。僕らは失ったものの大きさに気づかない。気づく事ができない世界の中にいる。が、そうした世界だからこそ、響く歌もあるだろう。「自分らしく」という手垢に塗れた言葉は、の子の、あらっぽくも見える楽曲によって蘇生した。「自分らしく生きる」とは「自分らしく生きる事を追求する事」にほかならない。それが現になんであるかよりも、その意志の客体化の方が遥かに重要だ。神聖かまってちゃん「自分らしく」とはそんな曲に思える。個人的には、一番好きな楽曲だ。

批評の先について  

 
 
 
 もうそろそろ批評はやめようかと思っている。批評という形で言いたい事を言うのができなくなってきている。その代わり小説の方が軌道に乗ってきたと感じているのでそちらに移行していこうと思っている。

 「言いたい事を言う」「自分の中にあるものを表現する」という事は簡単なようで難しい事だと常々感じている。僕は批評の最後に「自分はこう考える」「こう思う」という言葉をよく使う。それはある人には独断と見えただろうが、違う意味も入っている。結局の所、現状、自分はこんな風に考えるしかできない、という意味も入っている。己の独断と、それを相対化する目と、両方入っているつもりだが、僕のブログを読んでいる人には独断としか見えないのかもしれない。

 批評は結局は、告白であり、自分の思考、思想の吐露である。それはなんだってそうだ、と言う事もできるが、しかし、単に思想表白では物足りなくなってくる所に別の表現が生まれる。

 ミハイル・バフチンの理論を辿っていくと、「小説」というのはそういうものではないかと思う。小説は作者の声が屈折している。声は、プリズムに当たった光のように分散し、屈折して、一つの世界を作り出す。作者の声は絶対的な声ではなく、作品それ自体が作者の声である。では、作者はどうしてそんな面倒な事をしなければならないのか。

 これに関しては非常に難しい問題と感じている。作者の世界に対する言明が素直に価値があると信じられ、それに大きな意味があれば、小説という面倒な問題は作る必要がなくなる。

 色々な見方があるが、僕はヘーゲルの言う『外化』が妥当だと思っている。ある種の言明、告白、説教といったものは、作者から読者への一本の線である。そこでは読者は作者の意見に従うか従わないか、少なくとも、それを吟味する事が求められる。しかし、『作品』は作者と読者の中間に浮かんでいる。『作品』は説教ではなく、あくまでもそれ自体を目的として存在している。

 小林秀雄は真の作家というのは、自己廃棄をした事があるーーそんな風な事を言っていたが、その理由もここで明確となる。作品は作者を殺しもする。作品は作者を押し上げる道具というより、むしろ、作者から独立して運動する何かである。だとすると、作者はどうしてそんなものを作らねばならないのか。『作品』という世界が生まれるには作者が一度死ぬ必要がある。自己の廃棄の経験が、作品という独立世界を要請する。自らに屍を感じた人間が、作品という生を再び生む。

 そのようにして、作品は、それを作った作者を越えていく。作品は単なる道具であり、作者である『私』がのし上がるための素材に過ぎない。こうした考えを持っているのであれば、その人はやがて、作品を作るのをやめるだろう。彼に必要なのは「作品」ではなく、「私」であるからだ。が、「私」が終わった後に「作品」はある。

 こういう考えはおそらく、芸術至上主義と取られる事だろうと思う。本当はそんなふうなものではないと思っているが、ここで説明するスペースはない。これからは、批評はあまりやらなくなるのかもしれない。「私」(ヤマダヒフミ)が何かを言い、それを「読者」(これを読んでいる人)がどう受け取るのか、その形式とやり取りそのものが作品内に形として入ってこなければならない。小説というジャンルは充分そういう度量があるし、そういうものを活用していきたい。そんな風に思っている。
 
 …ちなみに、この文章自体も当然、批評的な文章である。この文章もやはり、『ヤマダヒフミ』という別になくてもいいはずの作者名が入っている。こうした名前を越えていく事がこれからの課題となるだろう。

 思想家として見る伊藤計劃


 伊藤計劃という作家を一人の思想家として見ると、どんな風に見えるだろうか。僕は彼を「十五分の映画プレビューの世界」を規定した人間として考えたい。

 「十五分の映画プレビュー」とは、『虐殺器官』で象徴的に用いられる語彙だ。主人公の殺し屋シェパードは友人と一緒に映画の十五分プレビュー(そこだけ無料だ)を繰り返し見る。二人はドミノ・ピザを注文し、ピザを食べながら映像を見る。それは穏やかな消費社会のひとときであり、先進国である日本でもーーつまり、我々が普通に享受している毎日の事だ。

 僕は青山七恵という作家を批判する文章を書いたのだが(削除済み)、よしもとばなな以降の『伝統』を彼女は引き継いでいる。ぼんやりした日常の肯定、彼氏がいて、恋をして、美味しいものを食べれば幸せになる世界。しかし、その世界の外側はどうなっているのかとは考えない。考えない所に、僕達の幸福があると言っても良い。

 世界に対する全き肯定。水の中に溶けた水のように、日常を生きていく事。深淵は回避され、悲劇はよそに置いてある。あるいは仮に悲劇があるとしても、それはスクリーンの中でだけ起きれば済む話だ。青山七恵とは逆に、深刻な物語を作る作家もまた、深刻さそのものに対してはどこかよそよそしい。彼は題材として悲劇をよそから取り寄せているだけであり、彼が本当に身を入れて描きたいものではない。我々は正常な人間であり、幸福であろうと願い、市民社会において成功しようと望んでいる。その過程に悲劇や深淵が使えるならば使えるだけの話であり、消費社会においては人間の深刻さもまた、傍観者である僕達によって消費される。物語は、フィクションは、僕達を愉しませるためにあればそれでいい。そして僕達は密かに、自分を正常と思いなし、自分だけは幸福でありたいと望んでいる。

 もちろん、それは悪い事ではない。しかし、この論理を伝って、密かに世界の外側に害毒を流してはいないか。自分達の幸福のために、外部の人間が不幸になったって知った事ではないという顔をしていないか。青山七恵の世界には外部はない。知った事ではない、という顔もない。が、その世界では巧妙に外部は排除されている。僕達の食卓に出てくるもののために、どこかの誰かが犠牲になっていたとしても、そんなニュースは知りたくはない。僕達はただ生きたいのだ。「虐殺器官」において、虐殺を引き起こしてきたジョン・ポールは次のように語る。

 「人々は見たいものしか見ない。世界がどういう悲惨に覆われているか、気にもしない。見れば自分が無力感に襲われるだけだし、あるいは本当に無力な人間が、自分は無力だと居直って怠惰の言い訳をするだけだ。だが、それでもそこはわたしが育った世界だ。スターバックスに行き、アマゾンで買い物をし、見たいものだけを見て暮らす。わたしはそんな堕落した世界を愛しているし、そこに生きる人々を大切に思う」

 ジョン・ポールが虐殺を引き起こす理由は以下の様なものだ。

  自分たちの貧しさが、自分たちの悲惨さが、ぼくらの自由によってもたらされていることに気がつきそうな国を見つけ出す。
  そして、そこに虐殺の文法を描く。
  国内で内戦がはじまれば、怒りを外に向けている余裕はなくなる。国内で虐殺がはじまれば、外の人々を殺している余裕は消し飛ぶ。外へ漏れそうだった怒りを、その内側に閉じこめる。

 ジョン・ポールが守ろうとしている世界は僕達の世界だ。スターバックス・ドミノピザ・アマゾンが支配する世界。僕らの領域では名前は入れ替わり、セブン-イレブンかもしれないし、ユニクロであり、深夜アニメの再放送かもしれない。この世界を巡って、争いが行われている。世界の外側を認識する事は辛い事で、これから目を背ける方が遥かに楽だ。また、この世界が今のように(長い不景気で)凋落しかかっている時、責任を誰か別の人間に押し付ける方が楽だ。アマゾンとスターバックスの世界が崩落してきた時、内部に間違った人間がいると信じて、その人達に責任を押し付ける。同時に、この世界を維持するために、外側の人間がいかに犠牲になっても気にかけない。

 消費社会が許した市民的な、微温的な世界。家族との団欒、恋人との仲睦まじさ、友人との祝杯。それぞれに互いの事を気遣う、温かい、正常な人間関係。自分達は幸福であるという実感。が、その背後には果たして何があるのか。もちろん、こう考えて、自ら私財を投げ打って、ボランティア活動に勤しんでも、問題は多分、解決しない。(トルストイは実際そうした) 問題は僕達の無知にある。この無知は意図されたものである時、悪意となる。僕達は自分が何であるか、とは問わない。ただ、僕達は幸福であろうとする。

 「虐殺器官」の主人公も、「ハーモニー」の主人公も、どちらも独特な一人称で語られる。これらの主人公は大きなシステムの分水嶺に位置していて、システムの欺瞞を感じつつも、そこから抜け出る事はできない。多分、ここから抜け出て、人は生きる事はできない。先進国が駄目なら後進国へ、とはならない。後進国が富み、先進国が貧しくなっても、問題の所在が入れ替わるだけで、問題そのものは解決しない。

 システムの境界すれすれに位置しつつ、そこでの葛藤を演じるというのは、「ライ麦畑につかまえて」を想起させる。「ライ麦」のホールデン・コールフィールドもまた、富裕なアメリカ社会の境界に位置している。彼はそこから出ようとするが、出られない事を知っている。彼は境界を行ったり来たりして、最後には元に返ってくる。

 伊藤計劃はこれらの問題を解決しはしなかった。多分、この問題を個人レベル、つまり小説というレベルで解決する事は不可能だろう。しかし、既存の社会、生活の中に位置しつつ、そこから抜け出ようともがく事によって現れる悲劇は、文学の根底と関わった構造であるように思われる。「源氏物語」は宮廷生活の華やかであるが、怠惰で堕落した世界を描いていた。「源氏物語」にとって、登場人物達に用意された出口は『出家』する事しかない。紫式部は当時の生活を肯定しつつ、それがもたらす問題を認識し、その外部に人間が歩いて行く様を描いたように思われる。

 「虐殺器官」の主人公は、自らが虐殺を引き起こす側に方向転換する。「ハーモニー」はもはや、言葉が途切れた後の世界が示される。それでも、伊藤計劃は、システムが整備された世界の先にもまだ、言葉は存在するのだ、という風に描いていた。(Amazonで250円で売っている伊藤計劃論にその解釈は書いておいた)

 伊藤計劃はこれらの問題を解決しはしなかったし、解決する事は実質的に不可能だった。それでも、問題を認識する事としない事では天と地ほどの差がある。村上春樹が全盛期だった時、彼は七十、八十年代の社会風俗に浸りながらも、そこに疑いを抱く主人公を造形してみせた。それはそれで意味があるものだった。村上春樹は時代が自分から離れていくに従って、物語形式の中に孤立するようになった。現代の世界のあり方は変容している。それはスターバックス的、ドミノ・ピザ的であり、それ自体極めて充足した体系である。ここでは、いわゆる「セカイ系」のように、個人と世界とが一対一対応で葛藤する事が妥当なものとして現れてくる。伊藤計劃は「虐殺器官」「ハーモニー」のいずれも、主人公をシステムの中枢に位置するエリートとして設定している。これは、主人公にシステムの内情を語らせ、なおかつ境界を行ったり来たりすることが可能であるための作者の配慮であったように思う。

 思想家として伊藤計劃を見る場合、彼は大きな問題を解決したわけではない。だが、少なくとも、「ドミノ・ピザの普遍性」「映画の十五分プレビューの世界」の外と内とを往復する物語を造形したと言える。この認識は口で言うほど簡単なことではない。なぜなら、似たような事をやろうとしてもすぐに僕達の心の中の、「消費者として物語を消費する」という態度に吸い込まれてしまうからだ。優れた頭脳を持つ哲学者も面白い物語を作る物語作者も、いずれも、大衆の歓心を買う事によって自分を高めようとする存在に転化してしまう。この時、彼は自分が創造しているような気がするが、実は大衆の認知が彼を作り出している。問題はそれらの構造そのものを相対化する事だ。伊藤計劃は、境界線で物語を作った。彼の思想としての意義は、まず、境界をはっきりさせた事に求められる。次に彼はこれを越えようとしたが、言葉は境界を越えた所で途切れた。(「ハーモニー」のラスト) 

 途切れた言葉は歌となり、無人の境をさまよった。彼の言葉は、この空虚な世界にも響いている。伊藤計劃は何よりも、世界の接線を判定しそれを作品内に取り込む事に成功した。「虐殺器官」「ハーモニー」の主人公はいずれも境界を越えようとするがうまくいかない。僕らはこの思想をどう受け取ればいいか。まずは、この世界の有り様をそのように認識する事が可能になったという事を知るべきだと思う。青山七恵、中村文則らの現代的な作家が、自家薬籠中のものとしていた世界内の物語それ自体を相対化する事に、真の物語は存在する。その認知を伊藤計劃という作家は与えてくれた。矮小な僕にとっては、伊藤計劃はそのような物事を教えてくれた存在だった。それが僕にとっての『思想家としての伊藤計劃』の意味になる。

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