FC2ブログ

物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

本ブログを見ている少数の読者へ


 ブログのコメント欄を承認制にしました。何度言っても同じ人物が長文の批判コメントを送ってくるのでやむなく変えました。

 場合によってはこの先、コメント欄全面廃止も考えられますが、そんな事はあまりやりたくありません。

 ブログは一対一の通信ではなく他にも見ている人がいるので、配慮してほしかったのですが、駄目でした。

 とりあえず、ブログはいつもどおり続けていこうとは思っています。様子見をしながらやっていこうと思っています。またこのような事がある場合はその時に考えたいと思っています。こんな事は書かずに淡々と更新していきたかったのですが、ここで仕切り直しにしたほうが良さそうだと思ってこの文章書きました。




 本ブログを見ている少数の読者へ

 これからもよろしくお願いします。また相手の存在を配慮した言説をお願いします。僕は自分の考えた事、思った事を発信していますが、それを他人に押し付ける気はありません。それぞれがそれぞれに受け取って自由に、捨てるなり拾うなりして活用していってもらえばよいかと思います。よろしくお願いします。

スポンサーサイト



コメントを承認制にします

もうやめて欲しいと言っているのに何度も同一人物がコメントをしてきたため、コメントを承認制にします。ご了承ください。普通にコメント貰えれば承認する予定です。

批評から創造に至る道

 

 批評とはどういうものだろうか。考えてみよう。

 最近の批評家でよくあるパターンは、批評家のみが知っている特権的な情報をこれみよがしに見せる、というものだ。つまり、「この作品のこの箇所は××という隠された意味がある、それを知っているのは私(批評家)だけ…」というものだ。こうした方式は果たして批評だろうか。

 例えば、作者がたまたま思いついて、「キャラクターXのTシャツには『26』と書いてある」とする。すると批評家は目ざとくこれを見つけて「26」には深遠な意味があって「1926年の〇〇事件を指しているのだ」なんて言う。こんな事は批評だろうか。

 実際に小説を書く立場の人間として言わせてもらえば、作者というのはそんな細かい事は深く考えていない。それにそんな事を深く考えていたとしても、どうだっていいと思う。ほんの一瞬しか現れないTシャツの数字の意味を読み取らなければ作品の意味がわからなくなるのであれば、作品の構成自体がおかしい。作品というのは読者に開かれているべきだと思うし、批評家が特権的な情報を握る場所ではないと思う。

 例えば、シェイクスピアの作品というのは、読者に全面的に開かれている。それはもう一片の隠す所もない。それぞれのキャラクターは自分の真実を最後の最後まで言わなければ気が済まない。僕はシェイクスピアの作品を更に解釈するフロイトのようなやり方が理解できない。シェイクスピアの作品はもう解釈のしようがないくらい明白なもの、つまり真実そのものとしてそこにある。これを更に(裏に回って)解釈する事に僕は反対する。シェイクスピアは世界を白日の下にさらしている。真実を作品という形式で現している。何故またその背後に秘密を探らなくてはならないのか。

 フロイトはまあいいにしても、批評というものが、批評家の特権的地位を表すものではない、という意見は一考の余地があると思う。次に僕の考える批評の定義について言ってみる。

 批評というものが発動する前提は、「作品全体の印象」であると思う。作品全体の印象、作品が読者に与える印象、感覚、これがまず基礎となる。
 
 (印象批評は大雑把であやふやだ、という反論があるのは知っているが反応していると長くなるので先に行く)

 例えば、僕達は映画を見て、本を読んで、ゲームをして、「面白かった」「面白くなった」と言う。そうすると相手は「たしかに、面白かった」とか「いや、面白くなかった」なんて言う。

 この時、僕達が「面白い」「面白くない」という言葉で、つたわっていると信じているものは何だろうか。よく話し合えば、この二人は作品の全く違う要素に面白さ/面白くなさを見ているのかもしれないし、作品を違う角度で見て面白いとか面白くないとか言っているのかもしれない。

 僕らは作品を読んだ後「面白い」「つまらない」ぐらいの簡単な言葉で済ませる。しかし、本当はどう面白かったのか、何が面白かったのか、何がつまらないと思ったのか。友達に話を聞いてみれば分かるが、これを論理的に、誰にも納得できるように話せる人はあまりいない。

 しかし、僕達が論理的に、自分の感じたものを言葉で表せないからといって、僕達が何も感じていないというわけではない。つまり、感覚は確かにあるが、言葉がついてこない。何が良かったのか、もやもやしているがうまくいえないのである。

 こうした時に批評家が必要になる。批評家がこうした人の前に現れ、僕らが作品から受けた無意識的な印象を論理的に、明晰に言葉にする。僕達はそれを読んで、ようやく自分の中に何があったのかを理解する。

 批評というものは、そのように印象から論理を構成する。しかし、この世のあり方の必然性に縛られるので、そこで構成された論理はまた独特のものなってしまう。最も優れた批評は、もはや、作品とは違う形で定立された別の作品に他ならない。小林秀雄はこうした批評を積極的にやった。それはもはや一個の作品と呼ぶべきものだ。

 批評というものは見方を変えていけば、創造そのものの事を意味している。ドストエフスキー「白痴」はセルバンテス「ドン・キホーテ」を批評したものだと言えるが、「白痴」を「ドン・キホーテ」に対する批評とは誰も言わない。だけどそんな見方もできると思う。太宰治には「女の決闘」という作品があって、これは同名の短編小説が先にあって、それに逐一太宰が注釈を入れる事で一つの小説にする、という独特な作品だ。太宰もまた小林秀雄と同じで、批評の延長が創造という事をよく知っていた。

 何故、批評が創造になるのか。Tシャツの姿に『26』があるのを目ざとく見つけるのはどうして創造に至らないのか。その違いは何なのか。

 定式だけ言うと、ある作品が作られる時、作者の方で、情念とか感性、思想、魂とかいった…つまりは不定形のものがあり、それを形式に写し出す事によって作品というものが生まれる。物語という構造は、作者の情念が、物語という形式を通じて語らなければ語りきれない場合にのみ、大きな意味を持つ。それ以外の場合は単に形式的な意味しか持たない。

 さて、こうして作品は僕らの目の前に形を表す。作者は自分の中にあるもやもやした塊を、私達の前に、論理的な、形式ある作品として表現した。我々はそれを見て、今度は自分の中に、もやもやしたものを感じる。おそらく、それは作者の情念、魂の写像形式なのだろう。これをもう一度、表す事ができるだろうか。「面白かった」…では表せられない。「面白かった!」と叫んでもダメだ。そこから、批評が生まれる。自分の中にあるものを、今度は形式を用いて表さなければならない。ここからまた、形式との格闘が生まれる。批評の努力はここにある。そしてこの努力は、作家やクリエイターが行った事を、逆側から昇っていくものだ。

 ここに批評の道があると考えたい。

 批評はそんな風にして現れる、と僕は思う。そして批評は、批評家がどれほど普遍的な批評を目指しても、それが優れた批評であるほど個性的にならざるを得ないという事情がある。というのも、優れた作品は様々な方向に価値を放射しているので、それを批評家はそれぞれの立場で受け取る。ただ唯一の批評、というのは存在しない。批評の多様性、批評の分化した価値が、一つに合成される中に作品の真の価値があると言って良い。しかしどんな良い批評でも、作品の価値のある側面を照らし出すにすぎない。そしてそれこそが、批評している当の作品の価値の高さを示している。

 傑作と呼ばれる作品は、様々な角度から照明を受ける事を許す。様々な党派性を越えて、様々な党派性を許す事に傑作の意味はある。優れた批評はまた、その中かから一つの党派を選び取るように見えるが、そこからまた多様性の中に入りこんでいく。僕達は小林秀雄の批評を、単一の、唯一の絶対無二の理解だとは考えない。それらは作品の読みに対して、多様な可能性を保持する。一つの単一の読みではなく、読み、つまり批評は価値の中心に行くにつれて、いわば『無限の言語』とも言うべきものに近づいていく。

 我々は『無限の言語』を自分の中に包含する事ができる。しかしそれを他者に語る事はできる。その時、我々は単一の、固まった形式で語らざるを得ない。

 だが、そこで語られたものが本当に豊かなものなら、そこからまた、他者の語りが生まれる事だろう。優れた批評はこのように、単一の解釈を許すものではない。そこでは答えがない事が答えであるようなーー無限に続いていく事を許す『テキスト群』だ。この豊かさに飲まれたものはここで死ぬかもしれないが、同時にこの奔流の中で生きもするのである。これに反して、批評家が唯一の絶対的な答えを握っている、そう証する答えは、自分一人の優位性を示すにすぎない。そのテキストは孤立しており、自分の知的優位を誇るだけにすぎない。彼の批評は歴史のさざなみで消えていくだろう。本当の批評は答えがない。そしてそれゆえに豊かなものだ。僕はそう考えたい。

 レフンの描く現代の狂気 (Nicolas Winding Refn movie review 〈jp language〉)



 今、レフンの映画を見ている。「ドライブ」→「ブロンソン」→「オンリー・ゴッド」→「プッシャー」→「ブリーダー」まで見た。

 レフンの映画を見ていると、彼がテーマとしているのは狂気だという事が分かる。どの作品にも一貫して、狂気を客観的に描くという立場が貫かれている。

 僕はレフンの描く「狂気」は非常に現代的だし、的確な描き方をしていると思う。というのも、現代の人間は、因果関係のない狂気、因果関係のない暴力、そういうものが潜在的にあって、それをレフンは正確に描いている。

 例えば、ドライブの主人公は根無し草である。「ドライブ」の主人公はどこからかやってきて、ふらりと当該の街に辿り着く。彼は昼間は修理工場で働いていて、夜には強盗の逃走ドライバーを務める。強盗犯の手伝いをするのは当然命をかける危険な行為だが、何故そんな事をするのか、レフンは描いていない。

 ライアン・ゴズリング演じる主人公は序盤で人妻を好きになる。人妻ヒロインを守るために命をかけて、敵対する相手を何人も殺していくのだが、その殺意、暴力性も極めて突発的で、何の因果関係もない。

 普通の物語の作り方では、作者が、「動機」を用意する。例えば、主人公が過去に虐待を受けていた、何らかの因縁が過去にあった、女を取られた、親友に裏切られた…など。しかし、「ドライブ」の主人公は全ての事を突発的に行う。彼は地に足をつけた生活をしていない。ふらりと街にやってきて、ふらりと女を好きになり、女のために命をかけ、残虐な行為も平気でする。全てが瞬間的、偶発的であり、ほんの偶発的な感情を主人公は絶対化して生きている。彼はその生き方を反省しない。彼は街にやってきて、修理工場では真面目に働く好青年なのだが、どこか感情が欠落している。この、好青年であると共にサイコであり、地に足をつけていない青年というのをレフンは的確に描いている。

 レフンの他作品「ブリーダー」では、DV男が妻に暴力を振るうのだが、これもまた因果関係が示されない。DV男は妻に子供ができた事に急に腹を立て、(自分の人生が台無しにされた)と憤る。だが、どうして人生が台無しになるのかは描かれない。

 こうした事は描かれないのではなく、意図して描いていないのだと僕は思う。こうした狂気は現代社会の根底に存在している。

 僕達は現代に生きていて、無意識の内に過大なストレスを抱え込んでいる。これは何故なのか。社会学の本を読んでもなかなかわからない。

 一つには、個人があまりに分化し、社会の中で小さな存在になってしまったという事が考えられる。個人の卑小さ、無力さはシステムの中では圧倒的になってしまった。システムを維持するために個人は、自分を捧げなければならないが、システムは個人を取り替え可能とする。「シフト」によって切り売りされた僕達の人生の時間はどこへ行くのか。

 また、社会やシステムが巨大になった事によって、僕達の道徳観念が強まったという事もあると思う。かつてコカインは合法だったが、今はそうではなくなった。最近はタバコが問題視されている。人間が増えて、それぞれに自分の役割を守る度合いが増えると共に、個人を道徳観念で抑えつけなければならない。タバコの受動喫煙がその内、法律で禁止されるかもしれないが、それはタバコが「悪い」というより、むしろ僕達の集団性が膨れ上がった事により、集団維持のためには個人が、自分を制限する度合いが大きくなったという事ではないかと思う。

 社会やシステムが巨大化し、それに伴い個人は分節化し、卑小なものになった。僕達は市民社会を成立させるためにルールを守って生きている。だがそのルールを守らなければならないという無意識の圧力こそが、ある時、急激な暴力性に転化する。そこにもはや個人的因果は必要ない。突発的に銃を取り出したり、ナイフを取り出したりするので十分だ。

 レフンはそんな現代の狂気を描いている。久しぶりに、作家性の強い、良い映画監督に出会って非常に満足だった。もしレフンの映画を見たい人がいれば「ドライブ」がお勧めだ。「オンリー・ゴッド」も名作だと思うけれど、人を選ぶ作品だと思う。

中上健次「枯木灘」をふと読む


 


 中上健次の「枯木灘」をパラパラ見ていた。青山七恵を論評した後だからか、文章が圧倒的に良い。青山七恵と比べるのも滅茶かもしれないが。

 中上健次と大江健三郎については、ブログの方でもどうして言及しないのかという意見が二つくらい来ていて、僕の信頼する人もこの二人については悪くは言わない。なので良いのだろうとは分かっていたものの、これまでは避けていた。今回は中上健次「枯木灘」について短く取り上げる。

 まず、最も素晴らしいと思う所を引用する。
 
 ・主人公秋幸が土方の仕事をする

 「秋幸は土方をやりながら、自分が考えることも知ることもない、見ることもない口をきくことも音楽を聴くこともないものになるのがわかった。いま、つるはしにすぎなかった。土の肉の中に硬いつるはしはくい込み、ひき起こし、またくい込む。なにもかもが愛しかった。秋幸は秋幸ではなく、空、空にある日、日を受けた山々、点在する家々、光を受けた葉、土、石、それら秋幸の周りにある風景のひとつひとつの愛しさが自分なのだった。」

 「秋幸はそれらのひとつひとつだった。土方をやっている秋幸には日に染まった風景は音楽に似ていた。さっきまで意味ありげになみあみだぶつともなむみょうほうれんげきょうとも聴こえていた蝉の声さえ、いま山の呼吸する音だった。」

 中上健次は土方の経験をしていた事もあるし、また本人が紀州の、おそらくはどうしようもない(悪い意味ではない)民衆的な、極めて土着的な所で生活していた。中上健次は読書して知性を身に着けたわけだが、その知性のある所、つまり知識人的な位相から、土着的な民衆の生活を描いている。しかし、中上健次自身、自分も民衆の一人であり、自然と一体となって暮らしているのだという実感がある。ここには土着的、民衆的な人々の生への中上の「愛」があると言っても良いだろう。

 引用した箇所では、僕は、極めて日本人的な精神が現れていると思う。あるいは東洋的な精神と言ってもいい。自然と一体になり、そこに自分が含まれるという独特な高揚感。こうしたアジア的なものを描く事ができている。もちろん、こういう事は今の作家がやればわざとらしい、いかにも「こういうのが文学なんでしょ?」という物欲しそうな作品になってしまうのだが、中上健次はそれを自然にできている。ここに中上健次の良さがあると思う。

 この作品の主人公、秋幸は小説の主人公だが、それは自然の中の一事物のように作家には認識されている。人は「紀州サーガ」の中で、日々を生き、肉体労働をし、あるいは殺し殺され、男と女はまぐわい、とにかくそのようにして動物的なーーあるいは民衆的、人間的なーー生を営んでいく。人間を見つめる視点において、中上健次は一歩引いた場所から見ているがそこでは、性行為のような事も肉体労働と同じ位相で描かれている。露骨な描写なので引用を避けるが、秋幸の肉体労働と似ているようなものとして扱われている。性行にしろ、労働にしろ、殺人にしろ、中上はそれらをそれ自体で意味があるものとしては見ていない。中上健次はそれを自然の中に埋め込み、人間の生死それ自体も、自然の大いなる変転の一部でしかないように描いている。中上健次を評価するとすれば、この認識の場所を評価するしかないように思う。

 こうした視点は、影響を受けたフォークナーとか、ガルシア・マルケスあたりと共通する事なのだろう。僕は彼らとは縁遠いと感じているし、二十一世紀になった今になって彼らの方法はそのままは使えないと思っている。現在においては民衆的なものは消え、プロレタリアートはいつの間にかブルジョアになり、大衆はいつの間にか知識人となった。こうした社会において「路地」は消失せざるを得ない。

 こうした変化に中上健次が耐えられなかったのは確かなのだろう。しかし、たしかに中上健次が人間を見つめる視点は存在したし、自然と人間とを一つのものとして見つめる視点は僕の中のーーいわば、日本人的感性を蘇らせる。これは重要な事に思える。

 中上健次の手法は彼自身の体験と、また、中上が描いている世界がかろうじて日本にも残存したという社会状況から生き生きとした形式を持つに至った。この中上健次の方法が今になってどういう意味を持つか、それはまた別に再考しなければならないだろう。しかし、僕にとっては「枯木灘」一つでも中上の良さを感じる事ができて、良い経験だった。

                  
                          付 

 中上健次と青山七恵を強引に比べると、青山七恵は例えば「恋愛」において、それだけで意味があると素直に信じている。女の子が駅員の背中を見て「恋をしていた」と書いて、ただそれだけが全てだというのはあっぱれな話であるが、このあっぱれが成り立つのが現代の僕達の社会だ。中上健次は性行為の描写をしても、性行為や殺人それ自体を描く事に意味があるとは信じていない。それらをより俯瞰的に、自然の中に埋め込むように見ている。この透徹とした認識が中上健次の良さだと思う。「恋愛」や「おばあさん」といった事柄を概念としてしか見ておらず、実際のリアルな生活は全く描けないのが青山七恵である。「ひとり日和」のラストで「約束どおり、わたしはあの既婚者と競馬に行く。」という文章があるが、人間を、あるいは男を「既婚者」というレッテルでしか見ないのが青山七恵であり(その事に違和感も持たない)、また現代の僕らの陥穽でもある。中上健次はこんな場所では物事は見ていない。中上は「自然」の位相で人間を見つめている。

レフンの「オンリー・ゴッド」「ドライブ」を見ました

 レフンの「ドライブ」「オンリー・ゴッド」を見ました。「ドライブ」を見て非常に素晴らしいと感じて、恐る恐る「オンリー・ゴッド」も見ましたが、良かったです。

 「オンリー・ゴッド」は賛否両論だったので駄作見る覚悟でしたが、画面の構図が常に計算されていて、一時間半飽きる事なく見る事ができました。思わずスクショ取りながら見ましたが、併記する画像を見れば感じがわかるのではないでしょうか。

 「オンリー・ゴッド」では常に奥行きがある構図が求められています。僕自身も外で写真を取る時は奥行きのある、重層的な空間が好きで、そういう写真を取りたいなと望んでいましたが、「オンリー・ゴッド」はそういうこちらの欲望を満たすものでした。

 見ている最中、小津安二郎やマーク・ロスコの抽象画を思い出した。「アートっぽい」人というのは沢山いるのですが、レフンはきちんとした「アート」の感覚を持った人だと思います。良かったですね。でも見るのなら「ドライブ」の方がお勧めです。


SnapCrab_オンリー・ゴッド(字幕版)をAmazonビデオ-プライム・ビデオで - Google Chrome_2017-4-10_8-5-12_No-00

SnapCrab_オンリー・ゴッド(字幕版)をAmazonビデオ-プライム・ビデオで - Google Chrome_2017-4-10_8-58-25_No-00

SnapCrab_オンリー・ゴッド(字幕版)をAmazonビデオ-プライム・ビデオで - Google Chrome_2017-4-10_8-2-22_No-00

SnapCrab_オンリー・ゴッド(字幕版)をAmazonビデオ-プライム・ビデオで - Google Chrome_2017-4-10_8-1-7_No-00

SnapCrab_オンリー・ゴッド(字幕版)をAmazonビデオ-プライム・ビデオで - Google Chrome_2017-4-10_7-44-33_No-00



 小津安二郎との比較


SnapCrab_『東京物語』 17 - ニコニコ動画GINZA - Google Chrome_2017-4-10_8-26-48_No-00
SnapCrab_『東京物語』 17 - ニコニコ動画GINZA - Google Chrome_2017-4-10_8-27-41_No-00


流れで考える日本文学の未来

 


 「お前は日本の現代文学を批判しているが、大江健三郎や中上健次、阿部和重らは優れた現代文学じゃないのか?」というようなコメントをブログの方で貰った。確かに、僕は日本文学の重鎮である大江や中上についてはほとんど言及していない。

 僕は大江健三郎や中上健次についてはあまり知らない。著書は一応、家にあるのだが、あまり読めていない。阿部和重についてはそれほど素晴らしい作家だとは感じていない。

 僕の理解では、時代はーーあるいは時代を象徴する文学の有様というのは、大江健三郎・中上健次から、村上春樹・村上龍に写ったと見ている。村上春樹・村上龍・高橋源一郎以降、空爆とした虚無の文学空間が現れている、という一般的な認識を持っている。

 これについて、時代順に雑に考えていく事にする。

 まず、戦争経験をした文学者達がいた。そこから始める。戦争という重たい、実存的な経験を、表に出したり裏に隠したりする事に、当時の優れた文学というものがあって、島尾敏雄・小島信夫・田村隆一といった人達がそこにあたる。僕は島尾敏雄と田村隆一くらいしかちゃんと読んでいないが、そこでは戦争という重たい経験が常に底の方に沈んでいる。そこではいつでも、人間の生や死という巨大な問題が、軽い話をするにしても底の方に沈んでいた。彼らはいつもその経験から物事を見ていたと言う事ができる。

 そこから時代が映って、中上健次・大江健三郎が文学の主流を担うようになった。そこでは戦争経験が核となっていないが、文学としての重たさは確かに存在した。(それがどのような重さか、僕は読み込んでいないのではっきり言えない) しかし、中上健次・大江健三郎は時代が変化するに連れて、自分の居場所を失ったのではないかと思う。中上健次においては彼が描いてきた「路地」の消失、大江健三郎については知的な、インテリ的な場所への逃避というように、彼らが主題としてきた事は、時代が変化するにつれて消え去ってしまった。

 次に現れたのが、村上春樹・村上龍・高橋源一郎らである。彼らの出現は同時期の、坂本龍一、忌野清志郎・糸井重里らと同じ現れ方をしたと見た方が見やすい。

 ここからは僕の射程に入ってくる。なので詳しく話していく。村上春樹・村上龍のした事を総括すると、アメリカ文学(文化)の日本への導入という事になるだろう。日本にアメリカ的な消費文化が流入すると同時に、それを日本に輸入したのが、現在から見た両村上の役割だったのではないかと思う。

 これに関しては村上春樹については非常にはっきりとしている。バーで友達とビールを飲んで、女を口説いてホテルに行き、家ではパスタを茹でて本を読む…こうした生活スタイルは過去の日本からは考えられなかったし、仮にあるにしても単に空想的なものに留まっていた。が、戦後に発展した日本社会では、こういう生活も「ありうるもの」として存在する事になった。村上春樹の描き出しているものは、それを可能とした社会に依拠している。ここに村上春樹の小説が単なる空想にならない原因があるし、社会が変化すると村上春樹が基盤としていたものが消え去るという原因も同時にある。

 村上龍にしても、形は違えど村上春樹と同じような雰囲気を共有していた。僕は村上龍の核を初期の作品よりも「テニスボーイの憂鬱」や「走れ! タカハシ」といったポップな作品に見たい。そこでは、軽薄化した、大衆社会の中に生きる個人が描かれているが、しかし同時に、「それだけでは足りない」という焦慮も感じられるる

 「テニスボーイの憂鬱」では主人公はステーキ屋の経営者で金があり、バブルの日本を代表する存在となっている。暇な時は愛人とホテルに行き、しょっちゅう仲間とテニスをする。それだけならただそれだけの事なのだが、そこでは彼ら金持ちは遊びを「強要」されている。遊ぶ事、生を楽しむ事は社会が個人に押し付ける「強要」で、本当はそんなに華やかで愉しいだけのものではないという事が、微かに作品の背後に現れている。この寂寥感というのは村上春樹・高橋源一郎にも共有されている。僕は、この寂寥感がなければ彼らの作品にはほとんど大した価値はないだろう、と思っている。もしこの寂寥感がなければただ現状肯定のだらだらした文学があるだけで、現実に対する否定と乗り越えの契機がない。

 高橋源一郎の場合は「さようなら、ギャングたち」に寂寥感が刻印されている。作品自体はポップな乗りで、記号的な操作といういわば、いかにもポストモダンな文学なのだが、その背後に寂寥感がある。社会の潮流の中で人々は遊び、楽しみ、生きていく事に満足していたが、同時にそこには物質的な事が全てになった事に対する違和感や寂しさがある。記号的な遊びの中で、微かに世界に対する違和感と寂しさがある。こうした違和感や寂しさがなければ、文学というのは単に、社会肯定のイデオロギーを持って大多数に受けいられる安易な媒体(あるいは意味もわからず芸術を気取るスノッブな遊び)でしかないだろう。

 村上春樹についてはもう書いたので省略するが、要するに、村上春樹・村上龍・高橋源一郎らにはこうした現実に対する違和感のようなものがかろうじて存在した。また、彼らは「ポストモダン文学」らしく、軽いものと重いものをあえて取り違えるという事をした。糸井重里もそうだが、彼らは自身、重たい教養とか知識とかを持っているものの、「あえて」軽いものを全面的に前に出すという事をした。ここでは「あえて」という言葉が重要になる。「重いもの」が重大な時代は過ぎ去り、軽いものが全てとなった、今はそういう時代だから自分達は軽いものを主題とする。が、重いものを知らないわけではない。知ってはいるが、「あえて」そうするのだ、という転倒的な価値観があった。この辺りは、タモリなども共有している。

 ここまで、僕の理解の範囲の及ぶ所だし、共感もできる。が、それから下の世代からは僕にはとうとうわからないものとなった。具体的には「よしもとばなな」以降と言っても良い。そこでは重いものを知っているものの「あえて」という、「あえて」の感覚すら消失した。そこでは本当に「軽いもの」が全てとなり、それが全てとなると、もはや対比する条件そのものが消失するので、文学全体が圧倒的に軽薄化した。が、この軽薄化はどういう意味を持っているのか、僕らは理解できない。なぜなら僕らは、軽薄化したものを対比する「重いもの」を全く知らないし、そんなものは知らなくていいといアナウンスが満ち満ちているからだ。

 こうして文学という場所は、単に、日常の細かな事を追いかけるものになった。就職活動をして、彼氏がいて彼女がいて、あらかじめ鎖のついた人間的葛藤に終始し、それなりの文章で全体を修飾すればそれが文学だという事になった。この傾向をライトノベル、異世界小説、YouTuberという現象にまで拡大していっても大して問題は変わらないように思う。僕達は自分達に嫌なもの、深刻なものがあるとそれを「異常」「不健全」の領域に放り込んで、後は自分達の愉しみに終始する事になった。僕達はもはや、自分達の幻想で満足するようなった。文学というものはこの幻想に違和感を呈し、真実を露出させる事が可能な媒体であるが、それよりもむしろ、幻想を強化する方向に走り出した。

 中村文則が文学的、実存的なものを前に出していても、それは結局、物語として我々が消費されるために、一時的に現れるだけの話であり、事情は以前と全く変わらない。穏やかな日常をちょっと疑ってみせるという文学的行為も、「そういうのが文学だよね」というファッションの中に吸収される事を最初から「アテ」にしているために、読むに足りるというほどでもない。文学者・芸術家という人達もみんな性格は良いであろうし、色々なルールを守るだろうし、彼らの作品も規範を乱すような顔をしても実は僕達の境界線の内部にきっちり収まっている。僕達の世界では、もはや芸能人の生死すら消費される情報媒体となってしまった。

 「軽いもの」が全てとなった社会ではどんな「重いもの」もその受け取り方自体が軽いものとなってしまう。「ハイデガー」「ニーチェ」のようないかにも重たいものでも「ニーチェを読んで年収アップ!」みたいなノウハウ本になりかねない。(そんな本があるかは知らないが) こうして世界は単一化されたが、その事について疑問を持つ事をイメージする事すら不可能なほど、僕らは同質の空間に溶けてしまった。

 その虚偽の極地とも言えるのが、青山七恵だったりする。青山七恵の、実質的には内容がゼロで、少女漫画的感性しか持っていない(少女漫画の中には一流の芸術もあるがここでは類型的に使う)作家が、色々な手管を施し、書いているものをリアリズム・文学の水準に微妙に合わせていく。実際の現実を描かず、微妙にズレた、作家にとって極めて好都合で矮小化された問題しか提出できない空間が作品の中でできていく。しかし、現実だって青山七恵の小説を模倣している。だから我々はルールを破る異常者が出ると、徹底的にその人間を排撃し、自分達の「外」に放り出す。青山七恵の小説は極めて矮小化された現実を模倣するよう描いているが、現実の方でも、そうした矮小なフィクションを模倣するように現れていく。単純な善悪感で構成された「シンゴジラ」がここまで受けるという事は、僕達そのものが随分単純化している事を意味していると思う。

 こうして文学というものは、現実に対する否定も違和も失い、単にファッションとして否定や違和を時折挿入してみせるというものに成り果てた。結局、文学というものも多くの人に消費されるものであり、「商品」の一部であるから、一時的といえども、人々が望む作品を紡ごうとするのは当然の事だ。

 しかし、純文学という奇妙なジャンルでは、大衆におもねっているものの、萌えアニメのような思い切りをつける事もなく妙な「芸術的」という冠を着せたがる。ここに文芸誌の苦しみがあるのだろうが、部数が減っても芸術的な高さを守ろうという気概もなく、少年ジャンプのように大衆向けに徹する思い切りもない。どちらも行けずまごまごとして、「純文学」の看板を掲げつつ、出てくる作品はエンタメ作品であり、何の洞察も必要としない作品だというのが今の「純文学」の実情なのだろう。

 こうした軽い状態、軽い空間、文学者達が皆、健全化した状態が今の文学空間であると思う。この状態を、またひっくり返す事はほとんど不可能に近いだろうし、今の文壇にはそれは不可能だろうと思う。高橋源一郎の最近の対談やエッセイを見ても、村上春樹の新作にしろ、彼らの感性はもはや色褪せている。それは彼らが年を取ったからというより、彼らの方法論がある時代に限定的だった事から来ている。彼らは「あえて」軽いものを前に出したが、もう軽いものしかない状況では、白色に白色を塗り重ねるようなもので、何故彼らがそんなポップな姿勢を見せようとしているのか、もはや今の僕達には理解できない。糸井重里や高橋源一郎がどう自己規定していようと、下の世代である僕らにとっては普通のインテリ、普通の知識人でしかない。つまり、彼らの話している事は僕らのビビッドな現実に響いてこない。

 こうした文学の下降の代わりに上昇してきたのが、アニメ・ゲーム・漫画・バンドミュージックなどのサブカルチャー文化だと僕は理解している。今はサブカルチャーについて論じている余地はないので、この文章はここで終わる。現在、僕らはこのような空白の現象の只中にいる。そしてこの空白の現象に対し、あるいは芸人の又吉直樹を入れ、あるいは過去には若い女の子二人ーー綿矢りさと金原ひとみを持ち上げる事により、なんとかテコ入れしようとしてきたが、実際、こうした事は一時しのぎにすぎない。こうした一時しのぎはいつまでも続くものではないと僕は思う。まずは現在自分達が陥っている状況を見極める事が先決だと思うが、作家らの言葉は「〇〇という作家の影響で~」「文学はもう一度蘇る」のようなよくわからない言葉であり、現実に対する認識も文学に関する深い掘り下げもあまり見られない。

 僕は狭義の意味での文学の先行きは暗いと思う。が、当然、メルヴィルのように、陽の当たらない作家がどこからか出てくるかもしれない。それはまた、インターネットあたりから出てくるかもしれない。そんな風に思う。(すでにThe Red Diptychという優れた批評が出現している)

該当の記事は見つかりませんでした。