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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

 対話としての芸術



 自分のブログもやや読者数が増えて、議論のような事もする事が増えた。

 「それぞれが意見交換して切磋琢磨すればいい作品が生まれるに違いない」という意見というのは一般的にある。が、これは事、芸術には当てはまらない。それぞれの意見が交わされ、それぞれ皆が一致したものがいい作品だというのは、おそらく「最終的には」正しい。傑作というものは確かに、時間の層、多様な人々の層をくぐって現れきたものだからであり、この判定にはそれなりの重みがある。

 だが、人は通常、自分が何を本当に良いと感じているか、なかなか自分でも気づいていない。それで「二年前には大ハマリしていたけど、今は全くなんとも思わない」という作品もでてくる。それぞれの価値観が交差して、最も多数の票を得たのが最もいい作品とは限らない。ここに芸術の難しさがあるし、面白さもある。今は大多数の人に見捨てられているが、いずれ俺の作品は世に認められるだろう、という自負が生まれる機縁がここにある。もちろん、大抵はこの自負は単なる自負にとどまるが、これが真実である場合もある。

 これがスポーツであれば、こういう自負は(ほとんど)許されていない。スポーツの世界では、(ほぼ)結果が全てで、最も良い結果を出している選手こそが最も素晴らしい選手だと言っても、概ね間違いではない。最も得点を取り、アシストもして、チームを勝利に導いているバルセロナのメッシこそが世界最高の選手だと言っても、それほど反論は起こらない。しかし、日本で最も売れているアーティストはAKBだから、AKBこそが日本最高のアーティストだと言うと、きっと反論が起こるだろう。とはいえ、完全に無名のアーティストを世界最高と言うにはそれなりの根拠が必要になる。この微妙なすれ違いの中に、数字で計れないあるものがある。

 芸術批評家というものが何故存在できるのか、単に批評したり鑑賞したりするだけで、どうしていっぱしの顔をしていられるか。それはなぜかというと、この微妙な構造があるためだと思う。つまり、僕達は「何が良いか」という価値観そのものがあやふやな世界ーー文学・芸術ーーにいるのであって、このあやふやな場所では指標が必要となる。ここで自分の価値観を磨いたものが、自分以外の人に価値観を伝達する事が一つの仕事となる。芸術批評家はこの場所に立脚する事で、始めて自分の場所を持つ事ができる。…もちろん、今の批評家が村上春樹を無理矢理褒めて、ようやく出版社から仕事を貰えるという状況であるというような外的な事は、別の話ではあるが。

 最初の話に戻ると、議論や批評がそれぞれに成されるのは良い事だというのは、たしかに本当の事だろう。が、考えの浅い人間千人の話は参考程度にしかならないと思う。逆に、考えの深い人間は自分の中で無限の(深い)討論を重ねている。優れた文学作品においては、作者自身の自己との無限の問答が、ほんのちょっとした会話の中にも折り重ねて入れられている。ある優れた作家が、一つの思想を背負って、一つの作品を作る。すると読者である僕達には、その作品は作者の単一の思想を表すものに見える。これは正しい見方だ。が、偉大な作家であれば、単一の思想を作るために彼の中に無限の他者を飼って、他者との葛藤・問答・対決をしつこく続けてきたはずだ。本当に豊かな作品の内部には作者の内部での、無限の他者との会話が投入されている。僕達は優れた作品を見たり聞いたりする時、見えない他者の存在を感じる。多分、作品の「豊かさ」とはこのような、作品の中に投入された無限の自己対話なのだろう。

 そして、鑑賞者としての僕達はそれをまた、一つの作品として見る。ここに新たな対話が始まる。つまり、作者にとって作品とは対話の終点であるが、鑑賞者にとって作品とは対話の始まりである。良い芸術作品を見るにはまず、良い鑑賞者でなければならない。鑑賞者はまず、目の前の作品と真摯に向かい合う。彼は作品と自分を突き合わせて、語り合いを始める。こうして時間の中で無限の対話は行われていく。おそらく、芸術の歴史とはこのような作者→作品→鑑賞者→作者→作品……という対話の連続なのだろう。こうした連続する対話が芸術の歴史を作っている。

 つまり、作品は鑑賞者に開かれており、鑑賞者は創作家になる機縁を持ち、創作家はやがて作品を生み出す。その中で絶えず、外部の他者を「対話」という形で自分の中に折り込む葛藤が続いていく。芸術というものはそうした長い対話であるように思える。過去に照明を当てられるのは現在の特権だ。おそらく未来というのは過去との無限の対話によって形作られていくのだろう。

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「ありがとう」とみなさまに語る詩

  
 

ぼくの
ことばを
ぼくは
磨いた

世界は
終わった
ひとひらの



人間達がいつも
怒鳴ったり騒いだり
でも、時には愛が
生まれたり潰えたり


そんな中で一切れの
スイカを食べる
スイカ、SUICA、西瓜
いろいろな表記法があるけれど
あの甘い味は一つ
塩をかける人もいるけどさ


人間達よ
どうしてそんなに騒いでる?


ぼくも一杯
やらせてくれよ


色々な人が
色々な事を言う
「君はセンチメンタリストだ」とか
「君は現実主義者」だとか
「君は現実を忘れている」とか
「君は現実にしがみつきすぎている」とか


それら色々の言葉がそれぞれの光彩を放って
ネットの宙〈そら〉を駆けている


それはなんとなく真空に掛る
エーテルの橋に似ている


(エーテル? それってアインシュタインによって否定されたんじゃなかったけ?)

 
…無論、エーテルは存在する
僕の心の中に


                         謝辞

 この詩を書くために、僕は三十一年と五ヶ月の命を神から貰い受けました。神に感謝いたします。

 僕が言葉を発するために、日本国の公共教育機関が少なからず役に立った事を僕はここに吐露します。ありがとう、日本の公共教育機関。ただ、もう少し優しくしてもいいんじゃないかと思った事もあったけれど。

 僕が詩を発表するために、毎日膨大な情報が流れるネット空間が必要された。ネット空間よありがとう。たくさんの「デマ」と「YouTuber」と「ホモネタ」と「アニメMAD」と「異世界に行く小説」と「時事ニュース」と、それへの「正論」が膨大に流れるインターネットという二十一世紀のインフラよ。ありがとう。おかげで僕の詩も情報の「塵」になれた。

 最後に、この詩を読んでくれた読者よ、ありがとう。もしあなたがいなければ、この詩は単なる独語に留まっただろう。僕は元来、独語が好きなのだが、たまには他人を必要とする事もある。ありがとう。

 最後に、世界よ、ありがとう。存在していくれて。

 そして存在しない世界を、世界の破滅を夢想し、それを実現する事さえ可能にしてくれる世界の『有様』、それ自体にありがとう。この世はなんだって起こる。大量虐殺も、僧侶の自己犠牲も、イエスの刑死も、なんでもありうる。そんな世界よ、ありがとう。ライプニッツ的な意味ではなく、ありがとう。

 とにかく、なんだかありがとう。それではまた、みなさま。さようなら、しばしの間。

主人公の内面を客体化して、小説作品を自立させる (伊藤計劃・ドストエフスキー)

 


伊藤計劃「虐殺器官」における一人称の語り口は、ドストエフスキー「未成年」の一人称に似ていると思う。一人称の使い方は僕にとっても重大な小説技法なので、分析してみよう。まず、二つの作品の冒頭を並べる。

                         ※

 『わたしは自分を抑えきれなくなって、人生の舞台にのりだした当時のこの記録を書くことにした。しかし、こんなことはしないですむことなのである。ただ一つはっきり言えるのは、たとい百歳まで生きのびることがあっても、もうこれきり二度と自伝を書くようなことはあるまいということである。実際、はた目にみっともないほど自分にほれこんでいなければ、恥ずかしくて自分のことなど書けるものではない』 (ドストエフスキー「未成年」)


 『ぼくの母親を殺したのはぼくのことばだ。

 たっぷりの銃とたっぷりの弾丸で、ぼくはたくさんの人間を殺してきたけれど、ぼくの母親を殺したのは他ならぬぼく自身で、銃も弾丸もいらなかった。はい、ということばとぼくの名前。そのふたつがそろったとき、ぼくの母親は死んだ。
 これまでぼくはたくさんの人間を殺してきた。おもに銃と弾丸で。
 刃物で殺したこともあるが、正直言ってあまり好きなやり方じゃない。』 (伊藤計劃「虐殺器官」)

                         ※

 どちらも抑制のきいた、響きの良い語り口を採用している。どちらも読んだ事のない読者に紹介しておくと、両小説とも、未熟さの目立つ青年が主人公となっている。この「未熟さ」を作者は意図的に、前もって計画している。

 ドストエフスキーの方から行こう。ドストエフスキーのこの小説は「未成年」というタイトルにその思想が集約されている。だが、「未成年」の語り口は全体的に生真面目で、真剣で、冷静、理知的な文章である。

 一般的な論点に移るが、例えば、あなた自身が未熟な人物だとしよう。すると、あなたは自分が未熟である事を意識できない。あなたは、自分の精神的定位を基準に世界を見つめている。あなたがもし、自分が未熟だと気づく事ができるのであれば、あなたは十分に成熟していると言える。

 例えば、子供の世界というのはそれ自体でひとつの世界を成している。子供の世界は「未熟だ」というのはあくまでも大人から見られた子供の世界の話だ。子供の世界は、子供の世界として百%、十全に機能している。人間は自分が未熟である事を意識しえないし、意識しえた時、その人は過去の未熟さから脱した時だと言えるだろう。

 「未成年」の主人公はタイトルどおり、「未成年」である。主人公は妙に生真面目で、冷静で、理知的な語り方をする。しかし、そんな語り方しかできないという事が、主人公が未成年である事の証なのだ。彼は未熟であるが、自分の未熟を絶対に認めようとせず、大人と対等に張り合おうとする。自分はいつも冷静で理知的で、威厳に満ちているという姿勢を示そうとする。その姿勢は語り口にも現れている。しかしだからこそ、この人物はまだ未熟さの残っている人物だ。つまり、ある個人の未熟さ、未成年たる所以は、語りの内容としては表されない。

 ある個人が未熟であるとするなら、それは「語り口」として、「語られず示されるものだ」というのが作家ドストエフスキーの洞察だった。だから、ドストエフスキーは最初から最後まで主人公の心理をしっかり抑えて、洞察しつつ、書いているのである。つまり、主人公は一重に自分を語っているだけだが、作者は主人公の内面と、それを抑える作者の内面と、二つの内面を同時に持っている。

 同じ事は「虐殺器官」にも言える。虐殺器官のナイーブな語り口は、主人公の未熟さを示している。主人公は三十才なのだが、まだ成熟できていない。彼は殺し屋として恐ろしく有能なのだが、精神は未熟なままに留まっている。それは彼が消費サイクルに飲み込まれており、システムの一部となっていて、人殺しの仕事も単に「仕事」として任務を遂行するだけなので、いつも本当の自分に出会えないからだ。責任と苦痛を除外された個人は、人として成熟する事ができない。だから、恐ろしく有能な殺し屋もどこか青臭い語り方をせざるを得ない。ここに作家伊藤計劃の洞察がある。

 つまり、伊藤計劃にしろ、ドストエフスキーにしろ、彼らは語りの外部に位置しながら、何故主人公がそんな語りをしなければならないのか、よく理解していた。ここに作家としての根底的な技術がある、と僕は見たい。

 「小説というのは誰でも書ける」という話がある。それは確かに、一見そう見えるし、そんなレベルの小説がベストセラーになる事もある。しかし、根底的に作家である事、その技術を身につける事は他の分野のエキスパートになるのと同様、非常な難しさを伴う。それは、文体を弄ったり、物語を妙に長たらしくしたり、知識をつけて云々…という事ではなく、小説というものがそのような形で表される事に、作家がきちんとした根拠を持つ事、そこに作家の技術がある。この場合、ドストエフスキーと伊藤計劃は主人公の語りの意味を理解している。これを普通の小説とくらべてみよう。

 『階段を駆け降りホームに着いた途端、京都の十二月らしい風が頬に冷たい爪を立てながら、吹き去った。マフラーを風に巻きつけ、ホームを端まで歩いた。端に着くとちょうど、熱気で曇った車内の窓にへばり付く乗客の固まった視線を一瞬だけ覗かせる満員の新快速が、風を起こしながら通りすぎた。』

                              (シリン・ネザマフィ 「拍動」)

 手元にあった文芸誌から適当に選んでみた。こういうのを「うまい文章」というのかもしれない。確かに、芥川賞候補になって芥川賞ぐらいは取りそうな文章だ。

 冒頭の部分から、読者は主人公の内面に同化される事を求められる。しかし、読んでいても主人公と作者の感性、情念、心理が分離しているとは感じない。「ホームを端まで歩いた」という文章は主人公が歩くのを、作者が客観的位相で見ているというよりは単に作者=主人公が「ホームを端まで歩いた」としか読めない。

 「レンコンのはさみ揚げを注文してから、しばらくどうでもいい話が続いた。山本先生が知っていた文学部屈指の美人助手が半年前婚約した話だとか、そのゼミに所属していた男子学生のがっかり具合が学校中の話題になっている話など」…

 こうした描写が続くわけだが、こういう文章の時、「どうでもいい話」と思っているのは、主人公であると共に、作者であるようにしか見えない。最近の作家の大半はこういう書き方をしているように思う。そこでは、どんな主人公を設定しようが、結局、作者が自分自身を相対化する力が弱いために、作者と主人公が同一化されていってしまう。もちろん、主人公は作者の「一部」ではある。だが、作者と主人公が全面的に同一化する必要はない。主人公の語りが作者の主観の垂れ流しにしかなっていない作品というのはよく見かける。そしてそれは、表面上は「未成年」や「虐殺器官」と同じように見える。しかし、根底的な部分でそれは違っている。

 こうした事は当然、作品の主題、内容にも影響していく。伊藤計劃やドストエフスキーの作品では、作品全体を統御する視点がある。それらの作品では、ある個人がある社会条件で、どのような推移をたどるのかという作家的洞察がある。彼らは物語をうまく作ったわけではない。むしろ、ある内面を持った個人がある社会で生きようとした時、どんな物語が現れてくるのを推察し、それを見つけ出したと言った方が良いだろう。伊藤計劃の場合は未来の社会において、責任と苦痛が除外された個人が再び自分自身であろうとする悲劇をテーマとし、ドストエフスキーにおいては当時のロシア社会でこのような、観念的な青年が出てくる事を理解していた。

 一方、シリン・ネザマフィ的、その他の「日常描く純文学系作家」は洞察しない。彼らは日常に埋没する。シリン・ネザマフィの「拍動」をめくると、そこに日本に済む外国人の文化的軋轢のようなものが扱われている。シリン・ネザマフィというのは日本名ではないから、作者自身そんな体験があったのかもしれない。しかし、ここでどんな体験があり、どんなテーマを問題としようと、そこで現れているのは作家個人の問題でしかない。作家個人の問題でしかないというのは、作家が自分自身を相対的に、客体的に扱う事ができていないから、作家個人の問題にとどまるというほどの意味だ。

 作家が自分に起こった事を活字にする事でたやすく普遍性を得られるというのは間違いだと考える。自分が人殺しをしたから、人殺しの話が書けるというのは、小説は事実を書くという割り切り方をしているから出てくる考え方だ。ただ、実際の所、読者もそんな見方をしている。

 例を二つあげる。最近、二つの小説が売れた。一つは又吉直樹の「火花」。もうひとつは最近話題になっている「夫の〇〇○が入らない」。(〇〇○は調べてもらおう) 一つ目は作者自身が芸人であり、作品も芸人の話というのが圧倒的に大きい。ここでどんな事が起こっているかと言うと、作品の自立性のなさを、作者(芸人)の身体性が補っているという事だ。芸人としての又吉直樹はテレビで見て知っている。その像を作品に写し出して読むために、作品は作品単体以上の価値があるように思われる。「あの」又吉直樹が「こんな」作品を書いたか、という評価につながっていく。

 二つ目の作品はタイトルの時点ではっきりしているが、タイトルと事実の奇異さで受けているという事だろう。しかし、「事実の奇異さ」「タイトルの奇異さ」で受けているのはそもそも問題だ。この小説の読者は作品をノンフィクションとして読むだろうし、彼らはそれが事実でないと知ったら、落胆するだろう。夏目漱石研究者は夏目漱石の経歴に必死に不倫の事実を読み取ろうとするが、それは話が逆だ。夏目漱石の小説の偉大さが見えているから、作者もそういう経験があったにちがないと感じ、そういう過去を探し求める。だが、些細な事実ではなく、偉大な作品を目の前に置いて、その真価を僕達は見出すべきだ。今の状況ではなんのために文学があるのかわからない。こんな状況では、吉本とジャニーズにかわりばんこに芥川賞をあげればさぞ文学界は盛り上がる事だろう。(最近、文學界はタレントに文章を書かせたりしているので、案外、絵空事ではないかもしれない)

 話を元に戻そう。伊藤計劃とドストエフスキーの作品が、作者が語りを統御している立体的な作品とみなすと、シリン・ネザマフィはじめとした作家の作品は平板な作品と言える。作品に倫理的指向性が感じられないのは彼らが倫理的な人間ではないから、ではない。そうではなく、平板な作品を書く作家は自分の内面を対象化できていない。これを話の最初に戻すと、彼らは本当に未熟であるから、未熟な個人を描く事ができない、と言う事ができるだろう。

 伊藤計劃、ドストエフスキーの作品には平板な作品にはない「意味」がある。それは作者の世界洞察から出てくるものだ。作者は世界を洞察しつつ、ありうべき物語を書いている。ありうべき主人公の内面を書いているが、それは描くべき価値のある内面だと作家が信じているから描いているのだ。一方で普通の作家は自分の内面を価値があると無条件に信じている。いや、彼らはそれを信じると感じる事すらできないほど自分の内面と溶け合っている。それがために、彼らの作品がどんな広大な野心なものに満ちているものであり、どんな政治的テーマ取ってこようと、作品は平板で卑小なものにとどまる。

 最近起こった大きな地震やテロをテーマにしているから、作家は世界に「コミット」しているなどというのはあまりに馬鹿げた話だ。作家は世界に直接言及する必要はない。が、作家は世界を「踏まえる」必要がある。この世界はどんなものかという認識の上に主人公が屹立する。そうして始めて、意味のある作品が生まれる。

 「作品」は自分と他者とを統合できる手段であるが、ここに立体的な指向性がない場合、単に作者の主観の垂れ流しを我々は聞かされるはめになる。この場合、作者と読者の立場が近ければ共感もできるだろう。作者が特異な感性、経験の持ち主ならそれを面白がれるだろう。だが、それは「普遍性」ではない。普遍性とはおそらく、自分を越える事で、他人をも越える何かだろう。この時、小説は立体的な立場を持つ事になる。主人公は作者が価値あると、理性的に判断する事によって現れてくる。すると、読者はこの理性的判断を最後には認めなければならない。では、何故、認めなければならないか。それは作家の理性的判断が、つまる所、個人や世界のあり方を踏まえた偉大な洞察だからだ。

 小説家というのは単に、自分の経験や主観を垂れ流して、世の中に是非を問うものではない。他人と自分との間の立場、価値観の断絶を感じて、それを物語という形式によって越えていく事ができる存在である。だからこそ、主人公は作者とは違う内面を持って、自主独立しなければならない。言い換えれば、作者が、自分に希望を抱いている間は、自分の主観を世界に訴えかけ続ける事ができる。作者が世界に直接呼びかけてももう無駄だと悟る時、彼の中でもう一人の主人公が立ち上がる。おそらく、この主人公は、作者と世界の断絶を正に「生きる」のである。その例としてはカフカを出せば十分だろう。カフカは世界と私の断絶において、「私」の正当性を直接訴えなかった。また同時に、世界に完全に服従する事を潔く認めたわけでもなかった。そのどちらにも行けないという辛い思いを、カフカの主人公は正に「生きた」のだ。だから、彼の作品では主人公は生きているか、少なくとも生きようとしている。ここに作家としての像が見えてくる。

 多くの読者が面白がっている観点、作家が自分を飾り立てるために作品があると考えている場所、そうした場所からは傑作は生まれてこないだろう。傑作とはおそらくーー作者自身が一度死んだ所から生まれてくるに違いない。作者の屍の後に、主人公は自立してあるきだす。ここに世界と作家の断絶が埋まる事になる。だがこういう作品を生む前にまず作家はこの断絶を身をもって体験しなければならない。そのためには作家はまず人生を生きなければならない。そして人生の辛さを思い切り身に刻まなければならない。

源氏物語に見る文学の原型

 


 最近、気になって源氏物語について調べていた。源氏物語、ダンテの神曲、オデュッセイアなどはおそらく傑作なのだろうが、叙事的で自分には苦手な作品だ。ただ、折口信夫の批評を読んでなるほどと思った所もあるので、そうしたものを基準に、文学の原型について考えていこうと思う。前の村上春樹論では村上春樹を批判したが、批判した以上、村上春樹が文学というものにどこまで肉薄し、どこで落伍していったかについても示さなければいけない。源氏物語を例にとって考えてみよう。


 まず、源氏物語というのは単純に当時の恋愛、「色好み」、絢爛豪華な平安の恋愛について描いた作品ではない。もしそうであったなら、そうした作品が世界文学となる事はなかっただろう。文学というのは単に現実に埋没したものではない。そもそも、単なる、平安の恋愛ー絢爛豪華ー日本らしいーという漠然とした、通俗的な物の見方しか現れていないならば、そんなものは傑作として現代に蘇る事はありえない。アーサー・ウェイリーのような優れた詩的感覚を持った人間が鋭敏に反応する何かが、源氏物語はあったはずだ。そうでなければそれは傑作とは呼べないだろう。


 では、どんな所が源氏物語の傑作たる所以なのだろう。僕は源氏物語を通読していない(というかほとんど読んでいない)ので、折口信夫を例に考えていく。折口信夫は源氏物語のテーマを次のように書いている。

 『自分の犯した罪の爲に、何としても贖ひ了せることの出來ぬ犯しの爲に、世間第一の人間が、死ぬるまで苦しみ拔き、又、それだけの酬いを受けて行く宿命、――此が本格的な小説の「テーマ」として用ゐられると言ふことは當然ではないか。』

 折口信夫は源氏物語に仏教の倫理ーー『因果応報』の原則が貫かれている事を見る。源氏は若い頃の奔放な恋愛をするのだが、それは彼が年を取ってから、自分の愛人が若い男に取られるという、因果応報の形を取って現れてくる。その事に源氏は苦しむ。


 科学史家の伊東俊太郎が源氏物語について書いた文章でも、似たような記述が見える。浮舟という女性キャラクターは、様々な男に翻弄された後、その事に嫌気が差し、最終的には出家する。伊東俊太郎はここに、日本型の女性の自立を見ている。この場合は因果応報というわけではないが、仏教的倫理が常に、現実の社会風俗(つまり平安の貴族的駆け引き・恋愛)の背後に閃いているという事は同型である。


 浮舟が『女性の自立』だというのは賛否あるだろう。僕はそういう見方もできるが、紫式部はもう少し柄の大きい作家だったではないかという気がしてくる。浮舟が出家し『色好み』から解放されるという過程は、源氏が『色好み』の中で苦しむという過程と裏表を成していると言える。僕はここに、仏教的な倫理によって当時の社会風俗を批判的に描いている一人の優れた作家というのを見たい。ダンテの神曲と比べると、ダンテはキリスト教的倫理によって当時の社会風俗を批判的に描いている。「ダンテーー男性的ーーキリスト教的」、であり、「紫式部ーー女性的(作者が女性というより表現など含めて)ーー仏教的」という違いはあるが、これらは似たような構造ではないか。もっともこうした事を僕はまともに読まずに想像で語っているので、あくまでも文学を考えるツールとして源氏物語を利用しているという事は強調しておく。

 これまで書いた所を整理していくと、源氏物語には二つの要素が互いに絡まりあってできている、という事になる。つまり、当時の貴族的恋愛、社会風俗を描くという現実的要素と、それらに意味づけを行い、それが何であるかという結論部となる仏教的倫理と、である。これはわかりやすく言えば、現実の生は過程的であり、倫理は結論的である。紫式部は仏教的倫理を使って当時の現実を俯瞰的に描いてみせた。この場合、当時の現実、恋愛的要素を如実に描く術が欠けていても、また、それらを意味づける思想の深さが欠けていても、どちらか一方でも欠けていれば源氏物語は世界文学とはならなかったに違いない。源氏物語はその二つをうまく融合している。だから、構成としてはよくできているし、世界的なレベルにある文学と言える事になるのだろう。

 ここまで大雑把に源氏物語を見てきたのだが、これまでの分析はあまりに図式的すぎると感じる人もいるだろう。僕自身もそう感じているので、もう少し、創作の内部に入り込んだ分析を行ってみよう。ここでも折口信夫を使う。折口信夫は重要な事を書いている。

 『源氏物語を書くのに、作者は何を書こうとしたかと言うと、源氏が一生に行った事にあるのではない。源氏の生活の中から、作者が好みのままに選択して、こう言う生活をした人に書こうという風に、或偏向を持った目的に源氏が生きて行っているように書かれたと思うのは、どうかと思う』

 『源氏自身が其生活に、我々の考えるような目的を常に持ってしている訣ではない。唯人間として生きている。ところが源氏という人間の特殊な性格と運命が、源氏の生活を特殊なものにして行っている。併、たとえば実在の人物として考え、後から其生活を見ると、自ら一つのまとまりがついていて、此方向へ進もうとして居たことが考えずには居られぬ。そこに人生の筋道が通っているのである。唯作者が勝手にぷろっとを持って作った型ではなく、源氏の生活の中に備っている進路に沿って書いているのだと言える。』

 少々長いが、文学、創作というものを考える上で物凄く重要なポイントなので引用した。折口信夫はここで重大な事を言っている。まず、次のような語句が見られる。

 「源氏物語を書くのに、作者は何を書こうとしたかと言うと、源氏が一生に行った事にあるのではない」
 
 現代においては、小説、アニメ、ゲーム、あるいはその他の企業の商品作りや宣伝、そうした様々なものはみな、このように見られている事だろうと思う。つまり、あらかじめ、作り手の側が細部まで計算し、頭で考えて、「源氏の一生」を描こうとした、というような事だ。相も変わらず陰謀論がはびこるのは、実はこうした僕らの思考の根強い習性にもとづいている。つまり、作り手や発信者の側が、あらかじめ色々な事を計算し、その通りにできるという先入観がそうした思考を生む。確かに人間は理性の力、頭脳の力があるので、そうした事が可能に見える。現代の産業社会は、頭脳により先々まで計算できる事、我々が計画に従う、精密な計画を立てられるという能力の上に築かれた。だが、それが人間の全てではない。

 話を文学に戻す。ここで折口は非常に微妙な物の言い方をしている。ネットでの議論やらコメントやらを散々見て、つくづく人はそういう見方をするものだなと感じるがーー人は二択で考える事が好きだ。ここで言えば、作者紫式部は源氏物語を「計画通りに書いた」か、「全く無作為に書いた」か、の二択。しかし、折口はここを微妙な言い抜け方をしている。つまり、源氏の生涯はあらかじめ、作者の手によって確定的に決められたものではない。だが、かといって全て無作為に書かれたものではない。これは現実の人間と同じ事だ。人は一見、自由に生きているように見えるが、人生を俯瞰すると統一的な方向が見えてくる。真の作家は全てを計算して描かない。そうすると、細部が頭脳によって圧迫されてギスギスして、力のないものになってしまうから。かといって、全くの無作為であれば、「作品」という統一性を持つ事が不可能になる。したがって、作品としての構成、統一性を考えながらも、その時のキャラクターの自由(我々の生の自由と同じ)を作家は尊重しなければならない。そこに作家の生みの苦しみがある。

 事実、つまらない作品というのはたいてい、キャラクターが生き生きとしていない。キャラクターが図式的であるが、構成は統一されている。ジブリのアニメ作品は構成、ストーリーは予め整然としているが、キャラクターの性格や意志は固定的だ。宮﨑駿のジブリアニメはキャラクターは「生き生きしていない」というほどではないものの、作者によって頑強に決められた枠に当てはめられている。ここに子供も安心して見られる作品の枠組みができあがると共に、目のこえた視聴者には足りない部分があると思える要素が出て来る。

 『たとえば実在の人物として考え、後から其生活を見ると、自ら一つのまとまりがついていて、此方向へ進もうとして居たことが考えずには居られぬ。そこに人生の筋道が通っているのである。』

 この折口の言い回しは重要だ。作者は源氏の一生を最初から計算づくで書こうとしたのではない。むしろ、作者は源氏という人物がどういう人生を辿っていくか、その推移を見守ろうとした、という方が正しいように思われる。とはいえ、作家の中には、最初からある程度の方向性は見えていたに違いない。つまり、最初に、作家に見えているのは方向性であり、結論ではない。そしてこの方向性とは、人が人生という過程で学ばなければならないもの(仏教の因果応報)である。仏教的倫理は、人生を生きる上で、それに対して当てはめる「枠」ではない。むしろ、人生を生きる過程で現れる結論部である。人は結論から人生を始めるのではなく、生きて迷い、誤ちを犯し、そして何が正しいかを後から知るのである。この順序を逆に僕達は考えてしまう。だから、現代の人間は様々な事を、過去の人間よりも遥かにたくさん知りながら、源氏物語のような優れた作品を産む事ができない。

 折口に寄れば、源氏物語成立後、源氏物語を淫らなものを書いた良くない作品というレッテルを貼った時期もあったそうだ。こうした倫理的な観点から、つまり結論から逆算して過程を黙殺するというのは、現代でも普通に行われている。だが、文学というものの力はそうしたものではない。また、文学というものがそういうものではないというのは、人生もそういうものではない、という事でもある。

 源氏物語は過程から結論に至るまでの全体を取った作品である。物語はそこでは、現実の社会風俗からスタートし、それがどうなるか、どうならなければならないのか、人はどのように生き、どのような場所に至るのか、という道筋となっている。この場合、物語の入り口に立っているのは当時の貴族的恋愛、つまり当時の社会的現実であり、作品の最後に立っているのは仏教的な倫理である。そしてそのどちらも、現実に根付いた事実と倫理である。源氏物語に物語的要素があるといっても、それはあくまでも、現実の描写であり、現実を乗り越えようとする過程で現れる倫理に分解されると考えて良さそうだ。

 これを批判した村上春樹とくらべてみよう。村上春樹は、物語を過程的にとらえているという点では正しい物の見方をしている。村上春樹は結論を作品に当てはめているわけではない。ただ、村上春樹は物語を形式的にとらえている。紫式部においては、現実と理想との矛盾がそのまま物語になったが、村上春樹はあくまでも「文学」という枠組みの中で物語を作っている。村上春樹の作品の端々に出てくる「文学ってこういうものでしょう」「こういうのが文学だよね」という態度は、彼の作品を作る根底的な姿勢からにじみ出てきてしまう。しかし、これは当然村上だけの問題ではない。現代の僕達ーー世界的に見てもーーは、文学というものを「そんな風なもの」として見る事に慣れている。小説を書いて新人賞を取りたい、デビューしたいなんていうのはその代表例であり、先に人生があるのではなく、先に文学がある。文学の形式があって、それによって自分の人生に箔がつくと思っている。

 だが、源氏の人生は、正に人生の現実から出てくる。人間が現に生きている現実を見つめるところ、そしてそれを越えようとする所から物語性が出て来る。僕達はこれを転倒して、結論から過程を逆算して、「世界的な作品」と見て取ってしまう。しかし、紫式部が描こうとした所はそういうものではない。そして紫式部は正に、自分が何を書くべきかを、書いていく事によって知ったのだ。作家にとっての技術は、自分にとって未知なものを現出する事にある。

 …だが、こんな風に言えば、自分の「無意識」に寄りかかってる村上春樹も同意するに違いない。村上春樹に関しては、彼が未知だと思っている自分の「内部」が、現実と断ち切れている事に問題がある。村上が「物語の力」を語る事と文学を「形」としてしか見れていない事は同じ意味を持っている。生と文学、現実と理想はつながっているが、僕らは知らずにそれをどこか途中で断ち切ってしまう。ダンテにしろ紫式部にしろ、おそらく彼らは自身の苦悩や苦痛を経て、この道筋を現に生き、またそれを言葉に現したのだろう。だから、彼らの作品を辿る事は彼らの辿った道を辿る事だと思う。この道筋に物語というものの方向性はあるのであり、この順序を逆にする事で小利口な作家や評論家で現れてくる。人生は誤ちと苦悩に満ちており、それ故、人は成長する事ができる。だかこそ、生には意味がある。そういう人生こそが本当に文学の主題になるのではないか。源氏物語について思考する内、自分はそんな答えが出るように感じた。

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