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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

物語はどこに成立するのか

 

 村上春樹の「職業としての小説家」を本屋で立ち読みしていたら、「小説家は物語を作る」みたいな話が出ていた。後、評論家は頭が良いから物語が理解できないのではないか、みたいな事も書いてあった。

 おそらく、ホメロスの「オデュッセイア」の時点から物語というのは、現実とは関係のない、空想的な、僕達を楽しませるものとして存在していたのではない、と僕は考えるようになっている。アリストテレスが、文学とは「共同体の運命を個人の生き方に託して描くもの」という風に言っていたという事は、未だに正しいように思う。古代ギリシャ人にとって、自分達が受けなければいけない運命の重荷を、物語の中の主人公が受け、主人公がそれに耐え、あるいは苦しんでいる様子に共感する事が「カタルシス」として、全体の融和を象徴した。

 ベートーヴェンの第九はよく知られているように、最後の所で合唱する場面がある。あれはベートーヴェンの思想そのものではないかと僕は思っている。あの場面においては、芸術の美しさよりも、力強い、人類全体の賛歌、それぞれが参加し、一体となれるような旋律を現している。音楽は哲学に語れない哲学を語る…ベートーヴェンは音楽によって、人類を、いわばカントの言う恒久的平和に導けると本気で信じられるような偉大な思想家だった、と言えるかもしれない。ベートーヴェンが好きだったのは、カント、シラー、ゲーテ、シェイクスピアなどであり、この面子を見ただけでも、ベートーヴェンの思想はなんとなく見えてくる。

 話は変わるが、作家の恩田陸が直木賞を取ったらしい。それで賞を取った作品のあらすじを見ると音楽の話で、音楽コンクールで天才的な少年少女が競う話のようである。

 恩田陸の作品は読んでいないので、勘で言ってしまうが、恩田陸のこの作品「蜜蜂と遠雷」に対して、ものすごい痛罵を投げつける人というのはほとんどいないだろうと思う。おそらく、この作品を読んだ人は「つまらない」という人もいるだろうが、多くの人は漠然たる肯定的感覚を持つに至るだろう。それは、音楽コンクールを何人かの人間が競うという基礎的な道筋に原因があるかもしれない。社会が整備してくれていた道筋を努力して昇る事、これは物語の作り方としては現在、一般的であり、こうした作品がやたら非難される事は考えにくい。なぜなら、誰しもが、社会に属し、その価値観を肯定する事で自らを保っているからだ。

 では、この社会とか国家と呼ばれるものはなんだろうか。古代ギリシャの共同体、ベートーヴェンが全体を一つにまとめあげた時の「全体」とはどう違うだろうか。恩田陸の作品を読んで、多くの人が共感し、面白く感じる事は充分にあるし、それを宮﨑駿やワンピースにずらしてもいい。そこに面白さ、楽しさの最大公約数は存在するかもしれない。しかし、そこにベートーヴェンやアリストテレスは存在しない。どうしてだろうか。

 今、この問題について考えていて、これは非常に難しい。しかしとにかく、今感じている事を書いておこう。

 まず、現代というのは過去に比べて、社会機構が膨大に膨れ上がった世界である。岩倉具視使節団がアメリカに行った時の紀行文「米欧回覧実記」を今読んでいるが、当時のアメリカの人口は四千万人足らずだったと書いてあった。今のアメリカの人口は三億人以上だから、とてつもない膨れ上がり方だ。こんな増え方をしたら、物の見方や価値観が変わるのは当然だという事になる。

 また同時に、世界経済のグローバル化も進み、世界的な分業は圧倒的に進んだ。世界は、流動化と相互依存性を強めた。その為に、トランプがどう頑張っても、一国の宰領でどうにかなるレベルを越えた。世界は経済、金、といった抽象的かつ、量的なもので繋がり、その為に皆が一蓮托生の立場に置かれる事になった。今の世の中の雰囲気を考えると、叩かれてしまうかもしれないが、結局、自分以外の国が沈没して自分だけが突出するという事はもう考えられない。回りが沈没すれば自分も一緒に沈没するし、他国で伸びる国があれば、回り回ってその国の恩恵は自国にも回ってくる。経済は非人格的な、抽象的なものとして世界を一つにつなげた。そこで、その連鎖に苦しんでいるのは、自国の人間だけではない。またその恩恵を受けているのも自国の人間だけではない。世界はおそらく、人間そのものが作り出した巨大なシステムをどう扱えばいいのか、その事に苦しんでいるように見える。

 話が大きくなってしまったが、恩田陸に戻る。例えば、音楽コンクールにおいて、何人かの人間が優勝する為に努力するという物語は完全に僕達のあり方に一致している。それは資格試験を頑張ったり、大学合格の為に受験勉強する物語と同じ傾向にある。そして僕達はそれを肯定する。どうしてかと言うと、僕達そのものが社会であるから、と言えるだろう。社会は一つの生命体のように自らを維持し、創出する。その時、僕達個人はその役割を担う。僕達はそれに積極的に参加し、例えば、不倫をした芸能人を徹底的に叩く。それはそれが正しいからというより、むしろ、社会、世論といった大きなものに僕達が参加している限り、個人としての無力、無能力から目を逸らす事ができるからだ。

 例えば、芸能人という存在は現在では、正に偶像であって、僕達には眩しい、非人格的な存在にまで高まってしまっている。僕が小説を書けばそれは「作家になるため」「デビューするため」と一般の人間には思われるし、その先にあるのは、「有名作家としての僕」であり、こうした姿は結局、芸能人、タレントと同等のものであるように思われる。だから、作家がタレントになったり、タレントが作家になったりする今の現象は当然と言える。そこでは作品は問題となっていない。「タレント的なポジション」で流動性が起こっているだけの事であり、目新しい事ではない。

 さて、この「タレント」「芸能人」は一体どこからあのような非人格的な力を得ているのだろうか。それは当然、それを見ている僕達からだ。僕達が彼らに視線を注ぎ、その一挙手一投足を見つめ、タレントらが僕達に「気にいるように」演技する事から、その力が発生する。そういう意味では、彼らは正に生きるフィクションだ、と極論できるだろう。僕はベッキー騒動をネットでずっと見ていて、ふと、ベッキーという存在そのものがある種のフィクションだったのではないかという感想を持った。ベッキーはベッキーを演じており、観客は演じられているベッキーがベッキーの全てだと思い込んだ。しかし、これは架空の現象だと、ベッキー本人も観客も気づかなかった。だが、彼女はやはり、「人間」ではなかった。ベッキーはベッキーという偶像だった。ベッキー騒動はこの、偶像と実像とのズレがもたらしたように思う。最近で言えば、アメリカのトランプなんかもそれに近い。ある程度時間はかかっても、トランプは自分の実像と向き合う事になるだろう。そしてその時は、アメリカという国家そのものが、幻像と実像の矛盾の為に破裂するのかもしれない。もちろん日本も他人事ではない。

 さて、現在ではこんな風にして、大衆は圧倒的な力を持っており、ここでの夢、希望は、大衆の羨望となる事だ。つまり、大衆は、自分達のアイドル、タレントを崇め奉る事によって、自分達の絶対的な力を世界に誇示している。これはネットが当たり前になった現代では普通の姿であり、先進国はみな似たり寄ったりではないかと思う。社会の階梯を昇り、人々の憧れの的になる事が僕達にとって、卑小な自分をすくい上げる方法だとすると、そのタレント性を保持しているのは、実は卑小な僕達の集団である。僕達が大きな集団となって巨大な力を発揮し、その力と同化し、偶像となる事が現代における生きる目的ーーあるいは成功ーーであるように見える。

 これまでをまとめると…

 ① 個人としては膨大な社会機構に対して無力であり、その事を僕達は無意識的に感じ続けている。

 ② 卑小な個人は巨大な集団となり、世論となると圧倒的な力になる。だから、卑小な個人はこの圧倒的な集団に自分を溶け込ませる事で、巨大な力の一部となり、万能感を得る。近頃、正論正論で人を叩いている人はこのグループに入るように思う。

 ③ ②の状態では個人は集団として力を得ているに過ぎず、個人として力を持っているわけではない。ただ集団に溶けているだけである。この状況から救われる方法は「タレント」になる事だけである。ここでは、個人として集団の視線を浴び、一人の人間でありながら、巨大な霊的力を得る事ができる。しかし、この「タレント」としての能力は大衆の気に入っている間だけ発現するものであるから、「タレント」は自分自身で自分を作っているというより、大衆に操られているという感覚を得るだろう。だから、「タレント」の巨大な力も実は②の状態から生み出されるもので、タレントは②に気に入られるよう、始終気を遣っていなくてはならない。


 これは言い換えれば、

 ①  無力な個人
 ②  世論、世間
 ③  タレント

 という事になる。現代を考えると、この三つの序列構造が重大となっているように思う。(ちなみに触れなかったが、こうした構造の中で家族構造も壊れていっているように見える。個人は世界と直結する事でその中間である家族を形成しづらくなっている)

                           ※

 さて、話をやっと文学に戻す。

 一番冒頭で書いておいた、村上春樹らしい「小説家は物語を作る」という考えは、一見すると小説家としての真っ当な覚悟を語っているように見えるし、読者の大半はそう読むだろう。しかし、果たしてそうだろうか。そしてそれは村上春樹のせいではない。むしろ、村上春樹が、自分が何によって動かされているのかを知り得ない為に、そう言ってしまっているという事に問題があると見る。

 村上春樹でもいいし、他の作家でもいいが、確かに小説家は物語を作る。それは大抵は「そういうものだから」と考えられているが、なぜ「そういうもの」なのだろう。村上春樹の作る物語は、読者によってあっという間に消費されてしまう。村上春樹が語っているのは、作家としての覚悟であるように見えるし、事実そうだろうが、作家としての覚悟も消費者によって、流れ去る商品形態の一つとして消費されていってしまう。物語を作る、面白い話を書く、作家になるという夢を叶える、それらはいずれも、我々の世界の中でのあり方から出てくる必然的な一つの態度(つまり世界肯定)であり、そうした態度そのものがこの社会そのものを成している。では、芸術家はこの、社会という名の大きな物語から外に出る事はできないのだろうか。何を書き、何を考えようと、それは大衆、世論に評価される限りにおいて意味を持ち、そうでなければ孤独に、端の方で(僕のように)ブツブツ言っているという事にほかならないのだろうか。

 恩田陸の作品が穏和で受け入れられるという事、ワンピースが売れるという事柄、それら全般において、クリエイターは確かに高い技術を誇っているし、また、どの方向に行こうとそれはクリエイターの自由だ。西尾維新のような何を書いてもいいという態度をとってもいいし、なんでも書けるという万能を誇ってもよい。エロもあればグロもあり、大人しい物語もあり、物語を壊す現代アート的なあり方もある。だが、現在の問題は何をしたところで、それが人々の視野の中でのみ価値を持つと、つまり、この社会の手のひらの上からは決して逃れられないという事にあるように思う。問題なのは、僕達は自分達が何に捉えられ、何から逃げられないかを意識する事すらできないほどに、このものに深く囚われ、とらわれる事によって安堵すると共に、いつも本当の自分自身に巡り会えないような感覚を抱かされ続ける。こうした事が現代において物語を作る上で、重大な社会問題であるように思う。
 
 近代小説のスタート地点であるセルバンテスであれば、こうした問題にどう立ち向かうだろうか。セルバンテスの「ドン・キホーテ」でドン・キホーテは、自分自身、騎士道物語を読みすぎて、自分が騎士だと勘違いしてしまった人物である。この人物は幻想にとらわれているのだが、現実に出て人と交流する事により、つまり、この幻想と現実との差異によって物語が生まれてきた。これは本格的な、哲学的な方法と言っても良い。

 現代社会は全てが空想化され、フィクション化された世界であると言っても良いだろう。僕達は各々がドン・キホーテである為に現実に出会う事はできない。ラスコーリニコフは現実と出会う為に殺人を成したが、それでも彼は現実に会う事ができなかった。ラスコーリニコフは相変わらず、自分の夢にとどまり続けた。そこでの真実はただ一つ、ラスコーリニコフにとっては全ては夢だったという現実だ。この現実に気づいた時、彼は敗北する。諦める。そして諦める事で彼は生きていく事を決意する。しかし、僕達はそもそも一体、何を諦めればいいのか。

 アリストテレスの芸術の定義や、ベートーヴェンの力強い人間賛歌は僕達にはもう持てなくなってしまっている。共同体の運命を描き出す事はいつしか、共同体に「受ける」事へと変貌し、人間の運命を描いてきた物語の機能はその根っこの部分を忘れて、単に読者を楽しませる形式的なものとなった。物語は、人工化した社会では、現実化し、それは例えば「音楽コンクールでの天才の競争」という形に現れるかもしれない。しかし、採点者がコントロールし、資本がコントロールし、視聴者が見えない形でコントロールしている天才とは存在するだろうか、というのが次の問いになる。

 現代社会は、その機構を膨大なものにし、人間一人一人をアトム(原子)化した。そこで僕らはばらばらとなったが、これはメディアや世論やSNSで一応の繋がりを持っているようにも見える。個人は世界と直結し、個人は世界に受け入れられて始めて人間であるような気持ちがする。だから、「売れないアーティストは意味がない」となるが、こういう価値観は、僕達が自主的に考えているというよりは、社会が自己を維持する上で必要な価値観であって、こうした価値観そのものが社会を成している。この大きな世界では芸術家は大衆に見世物を提供する人間であり、誰しもが無意識的にそう捉えている。では、ここではどんな抜け道もないのだろうか。

 …さて、ここまで問題を提起してきたが、これに対する処方箋とはどんなものだろう。僕のぼんやりした予想では、多分、世界に対して自分が無力であり、自分とは何者でもないという事を明白に意識する事から全ては始まるように思う。また、それを意識する事により、物語のキャラクターは世界を取り込む事が可能になるだろう。つまり、世界はすでにフィクション化されており、現実はどこにもないという事を意識した上で、それでも人がその空間を生き(直さ)なければならないという事が現代の物語となりうる。こういう試みはまだやられていないと思うので、個人的に色々試すつもりである。

 現代はこのように社会的自由が、自由として個人の魂の中に専制として染み込んでいる時代である。こうした世界において物語を作るとは人々の価値観の中に吸収される事しか意味しない。ここで、自らが自主的であろうとする、ソクラテスのように自由であろうとすると、世界から見放されるという悲劇が起こる。しかし、分かった上であえてそうするという悲劇はありうるだろう。世界を越えるものは何らかの形で悲劇を自らの中に内蔵している。その悲劇とは、自らが自らを乗り越えようとする為の悲劇で、不足ゆえの悲劇ではなく、過剰ゆえの悲劇だ。そしてこの悲劇が描かれ、これを共同体が瞠目して見る時、ようやく現代において優れた芸術作品が現れたと言えるのではないだろうか。少なくとも、自分はそんな風に考えている。

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 最近の日本文学とこれからの日本文学



 大塚英志が最近の文学というのは「健全化している」という指摘をしているそうだ。佐野波さんのアマゾンのレビューで知った。多分、それは正しいのだろうと思う。

 「文学の健全化」という事で真っ先に頭に思い浮かぶのは朝井リョウだ。朝井リョウは、本人もきっと好青年だろうし、リア充だろうし、小説も健全である、と見て良いだろう。こう言うと、持たざる者の嫉妬という事になるだろうが、もう少し深く考えていこう。

 そもそも文学は別に病的である必要性というのは、特にないはずである。しかし、別に健全でなくてはならないという事もない。ただ、時代によって傾向性は違うという事は言えると思う。

 小林秀雄が、バルザックは時代の流れに沿って書いているが、ヴァレリーはひとりぼっちで、時代を背にして書いている、そういう違いがある、と言っていた。きっとその通りだろうし、文学者が自分の内的世界を守る為に、世界から孤立しなければならない時期というのは確かに存在する。しかし、時代の流れと共に、いわば勢いに乗って社会性を含んだ形で優れた文学作品を生み出す事が可能な時期も存在する。色々な時期が存在するだろうが、僕は歴史に詳しくないのでそこまで頭は回らない。

 それで、自分が一人思いつくのは、バタイユなんかだ。バタイユの思想は狭隘なものだが、片方に共産主義があって、第一次大戦、第二次大戦という大きな歴史の変動がある中で、独自の思想を保つのは大変だったのだろうという気がする。哲学の歴史を見ると、カントからヘーゲルくらいまでは、非常に雄大な、大きな哲学を展開しているが、マルクス辺りから危機意識が出てきて、それ以降は狭く細くなっていくというように見える。文学、現代アート、音楽もそんな傾向にあると思う。

 さて、そういう見方を現在に当てはめるとどうなるだろうか。先にあげた、「健全な」朝井リョウなどは、今の時代をある意味では代表しているように見える。朝井リョウのインタビューを見ていたら、「文学のイメージ、作家のイメージを覆したい」というような事を言っていた。朝井リョウが言っているのは、「根暗で偏屈な文学」のイメージをより「健全、リア充」なものにしたいというほどの意味で、別に大した意味があるわけではない。

 朝井リョウの「何者」という小説もそういうもので、そもそも大卒は真面目に就職活動をやるという前提がなくては読めない作品だ。スタート地点から社会の規範を受け入れ、社会の庇護を受ける事を前提としながら、時たま自分のアイデンティティを疑って文学っぽくしてみせるというのは生ぬるいという以上の事が言えない。しかし、人はこの生ぬるさに長く浸ってきたのだった。戦後の日本の発展がこの生ぬるさに浸る事を許した。今や非正規労働が半分に迫る勢いで、もはやこの生ぬるさは過去のものとなりつつある。朝井リョウが「リア充」であり続ける事は可能だろうし、事実そうであろうが、彼が基盤としている社会のあり方は変質している。人は、古い夢を見るのが好きだ。だから、文学も強引に古い夢を捕まえようとする。しかし、古い夢に酔い続ける事はできない。社会は今、変革期、混乱期にある。

 そういう意味では「コンビニ人間」という作品は、文学の転換を意味する作品になるかもしれない。「コンビニ人間」は別に素晴らしい作品だとは思わないが、少なくともそこには作家の意地があった。三十過ぎてコンビニで働いて生きて何が悪いのだ、という意地があった。この意地は評価されるべきものだと僕は感じた。ここでは、少なくとも、朝井リョウや、青山七恵ら、「日常ふんわり描く系作家」が見てきた夢は廃棄されている。もうずっとコンビニでバイトして、コンビニ飯を食っているだけというのが今の社会、今の生活だと、はっきり視認されている。もちろん、「コンビニ人間」はそんなに素晴らしい作品ではないし、過去の傑作とは比べられない。しかし、少なくとも夢は捨てた。淡い夢を見るよりは、例え醜悪でも現実を見据えているが良いと僕は感じる。そういう意味では「君の名は」「シン・ゴジラ」はやはり未だに夢を見ている作品だと言えるだろう。

 もともと、「ぬるい日常をふんわり描く芥川賞作家」というのは、戦後の日本の発展が基盤にあった。戦後復興して、経済的にトップなり、それなりに社会が整った時に、作家らは難しい事を考える事を止めて、自分の実存を問う事もやめて、微細な日常の心理を追う事にした。その転換点はもしかしたら、よしもとばなな辺りにあるかもしれない。よしもとばなな作品に出てきたある情景というのを僕は記憶しているが、それは近所の定食屋か何かの、店の雰囲気が良いのを描いた場面だ。ある点から日本の文学作品はこのようにして、日常の中に拘泥するようになった。そこでは、彼氏、彼女、夫、妻、社会人、学生といった様々な立場の人が出てくるが、皆、こじんまりとした人物だ。そしてこれを作家が空想で破ろうとしても、なぜその空想が必要なのか、作家自体がはっきり認識していないために、ただ試みとして暴力やセックスを描いてみせるというのに留まった。また、日常描写に残虐描写を対置させようとしても大した意味はない。問題は、それをなぜ描くかという事を作家が認識していないかぎり、単なる遊戯にとどまるという事だ。

 例えば平野啓一郎の「決壊」という小説があって、これにはドストエフスキー風の人物が出て来る。しかし、これはあくまでもドストエフスキー「風」であって、ドストエフスキーのキャラクターとは本質的には似ていない。ではなぜ、似ていないか。

 ドストエフスキーにはラスコーリニコフがなぜ社会に出現するのか、優れた知性ある青年がなぜそのような思想に囚われ、殺人という行為に走るのか、はっきりと見えていた。ドストエフスキーにとって文学問題はそのまま社会問題だったし、漱石もそうだった。彼らは現実のあり方から、人間はどのようにして生きているか、生きようとするのかを洞察しつつ、書いた。あるいは彼らは、社会問題の解決を文学という方法で試みた、と言う事もできる。世界はこのようにある、では個人はどのようにして生きるべきか、という問いに、彼らはそれぞれの文学作品で答えた。漱石の場合は、封建社会が崩壊してきた時に、自由に生きたいと願う人間の悲劇がテーマになったし、ドストエフスキーの場合にもまた、限界を越えようとして犯罪を犯す人間が現れてきた。漱石にしろドストエフスキーにしろ、単に犯罪や恋愛が問題となっているのではない。彼らにとって犯罪行為や恋愛事件にはあらゆる世界の諸要素が詰まっているのである。今生きている個人には、世界全部が封入されている。そういう洞察があった。

 しかし、平野啓一郎にはそういう認識はおそらくないし、それを平野啓一郎に求めるのは過大な要求という事になるだろう。だから、平野啓一郎は形式的にドストエフスキーをなぞるにとどまる。この問題を村上春樹にずらしても同じ解答が得られる。村上春樹は平野啓一郎よりは本質的な作家だが、やはり漱石、ドストエフスキーとは比べられない。
 
 この問題をもう少しずらして考えてみよう。朝井リョウは「作家のイメージを覆す」というような事を言っているが、それは大塚英志の言う「文学の健全化」である。そしてこの文学の「健全化」は現在の消費社会に適したものと言えるだろう。つまり、作品というよりは「商品」に近いのであって、書いている本人は新しい事をしているつもり、エンタメを紡いでいるつもりなのだが、実際はこの社会の機構、あり方が作家に対して必然的に要請している形式という事である。これは例えば「一生懸命、受験勉強して社会を這い上がる物語」に代表される。こうした物語は作家が書いているというよりは、社会が自らに対して肯定的な物語を必要としている為に、作家がいわば「書かせられている」と見る事ができる。

 こうした事は様々な事に見られる。今の「文学志望者」は「新人賞」を取る事を目的としている。そして「新人賞」には選考委員がいる。選考委員と関係しているのは出版社で、出版社は社会と関係しており、最終的には力を握っているのは消費者である。

 出版社や選考委員が、エンタメ志向、難しい事は嫌だ、面白い事だけをくれ、という消費者の意向をはねつけて、自分達の基準で作品を選んでいるならまだ希望が持てるが、実際、そんな風には見えない。現状の「純文学」は、元の文学をオリジナルとするなら、それを何度も希釈したもののように見える。つまり、文学が社会に対して開かれ、社会と闘おうとするよりはむしろ、社会に順応しようとしており、社会内部では「文学っぽいもの」が規範として守られているか、あるいは「売れれば勝ち」というエンタメ志向であるかのどちらかで、大抵の作品はどちらかに寄っているように見える。これは安定した社会の中で人が作品を読み、味わうというよりは、それを消費するようになった結果なのだと思う。作家もどこか真剣に書いていない。まるで自分の作品に他人事のような態度で書いている。すぐにメタな位置に立ってキャラクターやストーリーをこねくり回したがる。そしてそれを創造性と誤解する。

 ここまでをまとめると、要するに、文学は社会と向き合い、それを描き出すというよりは、社会が自分にとって必要な文学作品を生み出し、社会の規範の強化に使われている、という事だ。なぜそのような作品が必要とされるかと言うと、簡単に言って「社会」とは現代人の宗教だからだろう。この宗教の正当性を証明する事が、多くのフィクションに課せられた課題でもある。しかし、過去の文学、芸術を調べれば、それだけが芸術の機能ではない。芸術は社会に巧みに従う振りをしつつ、社会を越える要素も持っていた。偉大な芸術家が、後から評価されるというのはそういう原因が考えられる。

                           ※

 ここまで、非常に雑に社会と文学の関係を考えてみたが、もう少しだけ言いたい事があるのでそれを最後に書いておこうと思う。

 今の作家というのは、僕の目からは、大抵、バルザック、フローベール、モーパッサン辺りの自然主義を基礎とした文体ではないかと思う。もちろん、今の作家には「バルザックなんか読んだ事もない」という人もいるだろうが、自分の言いたいのは根源な意味だ。

 バルザックの認識にはまず、きちんした形で成立した近代社会があった。西欧型の国民国家、近代社会において、それぞれの人間はそれぞれの場所を守りながら日常生活を生きている。すると、この日常生活を俯瞰で描く視点があるはずだ、という確信からバルザックの小説は始まっているように見える。個人は社会の部分を構成しており、自分の欲望や意志で生きていながら同時に社会的存在であるという、そういう視点があった。ゲーテの言葉で「それぞれの市民が家の前を綺麗にすれば街中が綺麗になる」というのがある。この言葉は西欧近代の理想を手短に言い表したように見える。この視点が崩れてきて現代がスタートするわけだが、現状、近代社会が完全に崩れたわけではない。様々な経済・政治制度はやはり近代的なものとしてある。しかし、例えば、政治においてネット、SNSが強烈な力を持つなど、きちんとした制度とは違うところで、近代的なものはほころびが出てきている。そういう時代では、作家もバルザック的な視点を変えなければならない。そういう風に見ている。

 しかしながら、現代の作家はそういう点はそれほど意識していないように見える。文体を見れば分かるが、大抵は普通の書き方、つまり一人の人間の言動は社会の中での本人の立ち位置、本人のあり方を示すと無条件的に前提されている。これを、文体だけひねくり回しても事は変わらない。

 僕が思うのは…そもそも、人間が変質しているという事だ。バルザック的近代において、人間は部分を構成するという意味において、全体に奉仕する存在だった。それぞれの人間は市民社会において、それぞれの分を守っていた。これは現代では、夫、妻、息子、娘、あるいは会社員であり、学生でありといった様々な立場として生きている事がそのままその個人として生きている全てだ、という事を意味している。

 しかし、現代においては、例えば、インターネットなどで、個人はそのまま世界に直結する存在となった。個人は世界中に、自分の意見を表明する事ができる。社会のほんの一部分でしかない人間が、世界中の情報を知り、それにしたがって自分のあり方を変容させる事ができるようになった。世界と私は直結し、それによって、私の自意識は部分ではなく、世界と同じくらいの大きさに膨れ上がった。

 ただ、同時にそれとは逆方向の運動も起こった。人口の増加という問題もあって、個人は、現実存在としては以前よりはるかに卑小なものとなってしまった。人口は増え、社会機構は大きくなり、かつてよりも個人の無力さ、卑小さはより強烈なものとなった。かつてのように、個人は社会の部分を成しているという自覚さえも持てないほどに、微小な原子となった。大きな社会、経済組織の中で、僕達は自分の意志とは違うものに毎日を左右されて生きている。そこでは僕達は社会の大きさに対して個人の小ささを否応なく見せつけられている。例えば、自分が仕事を一日サボったらそこでどんな害が出るか。社会は巨大な機構であるが為に、その一部分、歯車が一つ欠ける事も許されない。その無意識的圧力が僕達の背中に常にのしかかっている。

 つまり、僕達は歴史が進歩したおかげで、個人の自意識や情報は膨れ上がったものの、現実存在としては非常に卑小なものとなってしまった。そこでは日常生活は矮小化したが、同時に、個人の内面、意識は巨大に膨れ上がった。これは現代的な人間の姿であるように思う。さて、そのような人間がうごめいている社会を作家はどのように描けばいいか。

 また、そこでは倫理の問題も重要だ。かつてのような社会が平然として存在しているものではない事が分かった時、人はどのようにして生きればいいだろうか。漠然と、日常生活をそれなりに愉しめばいいという時代が終わって、人がどう生きるべきかという根源的問題が問われている。今の社会はそれに対する答えがほとんどない。その答えとして用意されているのは「金を稼ぐ事」「有名になる事」だったりするが、これは当然、大衆社会に迎合した発想であり、個人の自由や主体性は抜きにされている。個人は社会に服従する事が幸福であるとするなら、果たして幸福とはそんなに素晴らしいものだろうか。ここに至って、古代の倫理が帰ってこざるを得ない。ソクラテスの刑死、「ただ生きる」ではなく「よく生きる」という選択(「よく生きる」の為には死を選ぶ事もある)は現代の問題として戻ってこざるを得ない。価値観が崩壊している現代では、価値観は自分で作らなければならない。

 …さて、これまで現代の文学の問題点について書いてきた。ただ、これはあくまでもメモ書きみたいなものなので、この文章は問題点を提出するだけに留めようと思う。もともと、この手の文章は自分の思考整理の為に書いている。この手の文章が自分以外の人にも参考になれば、結構な事であると思っている。
 

 『ペルソナ5』ラストへのモヤモヤ感を記しておく(ネタバレあり)



 
 ※ 以下ではペルソナ5のネタバレを含みますので、これからプレイするつもりの人、プレイ中の人は読まない事をお勧めします



 ペルソナ5をクリアした。途中までは作品の心地よいリズムに乗せられ、非常に楽しい時間を過ごさせてもらった。とにかく楽しい良いゲームだった。

 …しかし、作品が最後の最後、シドウ攻略に入る辺りか「ムムッ」という感じになって、次に「うーん…」という感じになり、最後には「あー、そっちに行くか…」となってしまった。しかし、全体を取れば間違いなく楽しめる良作であるから、これからプレイする人には普通におすすめできる作品ではある。

 自分が「うーん」と考え込んでしまったのは、ラストのシナリオの構成の仕方だ。ペルソナのシナリオを少し紹介すると、日常生活の裏側に、人間の心理世界が広がっていて、その心理世界では人間の醜い欲望や悪意が具現化している。そしてこの、悪意や欲望を裏の世界で打ちのめすと、現実ではその人間は「改心」して、自分の罪を悔い改める、というものである。

 そして、人々を改心させて「世直し」するのは主人公含む高校生集団である。高校生集団である主人公達は「怪盗団」を名乗り、人の心を「頂戴」する。それによって世直しをしていくわけである。

 まず、ペルソナ5のシナリオの作り方の長所を上げておきたい。ペルソナ3の時点から言える事だが、ペルソナのシナリオでは、まず普通の日常生活がある。これは僕達にもおなじみの普通の現実である。しかし、その「裏」の世界では、人間は悪意や欲望を持っていて、それが現実に露出させると、本物の事件になったり、現実的に害をもたらしたりする。例えば、これを、平和な日常生活と、ネット上での無数の悪意ある書き込み、というように比喩的に考えてみると、ペルソナのシナリオの作り方が現実を写し取ったものだとわかるだろう。

 さて、ここで主人公達は裏の世界で暗躍することになる。裏の世界で、悪意ある人格を「改心」させる事により、次々に問題を解決していく。しかし、ペルソナ5では、それにプラスの点が加わる。これが物語に複雑さを増す事になる。

 まず、裏の世界でそのように暗躍しているのは主人公達だけではなく、同じ力を使って裏の世界での行動権利を用いて悪い事をしている真犯人がいる事が時間の経過と共に指し示されるという事である。(言い忘れたが、裏の世界で行動して相手を改心させられるのは主人公達の一派と、真犯人だけである。これらの人は「ペルソナ」という特殊な能力を用いている。これは彼らの内心にあるものが具現化したものと見る事ができる。ここでも現実と裏の世界の二面性は守られている)

 それともう一つは主人公達「怪盗団」が活躍するにつれて、ネットを中心として大衆の人気が上がっていく事である。この辺りの描写は非常に興味深い。怪盗団は人気が上がっていくように描かれてもいるが、同時に、単に大衆の「おもちゃ」になっているだけ、という現実の病根も的確に描いている。この辺りの描写は優れている。

 …と、ここまで書くと、僕としては非常に満足なシナリオの作り方であるように思われる。もちろん、ケチをつけようと思えばできる。例えば、主人公達は相手を改心させるわけだが、それは相手が自発的に、改心するわけではない。相手は、自分の影が裏の世界で断罪されると、否応なく、自分の罪を告白しなければならない、というようになる。しかし、人間の意志というものを考えると、果たして裏の世界で改心させられた人物は本当に改心したのか、という事が謎である。根底的に言えば、ここにペルソナ5の物語の弱さがある。もっと言えば、現実における「世直し」「正義」の欠点がある。ここにおいては、主人公達は相手を改心させているわけだが、それは敵方にしては強制的に改心させられるわけで、作品中でも指摘されているように、人の心を無理矢理改変させているわけである。もちろん、主人公達は「善」だから、主人公達のしている事は結果的に正しい。しかし、それは果たして本当に改心と呼べるのだろうか。

 誰かの手によって強制的に自分の意志を操られ、罪を告白した人間は、本当に自分の罪を否定したと言えるのだろうか。ここで、人間の意志と正義の問題が出てくる。つまり、正義は、それが仮に正義だとしても、相手に強制した途端に、何か嫌なものに変わってしまう。本当の正しさは相手を強制するのではなく、相手を導くもの、相手に自らをして悟らせるものでなくてはならない。これは非常に厄介な問題である。二十世紀にアメリカが世界に、自らの正義を持って介入していった時にも同様の問題が起こったと、僕は考えている。人はやはり、意識があり理性があるから、自ら成長し過ちを正さなくてはならない。そこでは自発性が重要である。とはいえ、もちろん、現実には悪党は存在するから、そんな悠長な事は言ってられない。しかしながら、悠長な事を言ってられず、相手を捻じ曲げる事は「改心」というよりはもっと別の何かなのではないか。それは果たして本当に良い事なのか。もっと言えば、そのように強制的に改心させられ、自らの意志と創意で行っていない罪の否定はいつか、揺り返しがくるのではないか。

 しかし、まあ、それに関してはそれほど問題とはしない。それはペルソナ5のシナリオの弱点ではあるが、これはまだそこまで気にならない。気になったのはラストである。

 ラストは結構込み入った話なので説明しにくいが、自分が違和感をもったのは「神様」が出て来るという事だ。これはペルソナ4の真エンドでも感じたが、それはあまりに大雑把すぎるのではないかと思う。また、「神様との闘い」というように話を広げすぎるのはシナリオの作りとしてはおすすめできない。何故かと言えば、主人公達が世界を改変する神を倒しさえすれば、物語の全ての問題は解決される、という風に全てが単純化されてしまうからだ。シナリオ構築としてはこれは楽な仕掛けだが、現実にはそんな神はいない。そんな風に妄想する個人がいるばかりである。

 現実を見渡して見よう。ネット上でよくいる人物のように「俺以外は全員馬鹿」みたいな顔をした人間は現実には存在する。こうした人物はそれこそまるで神のように世界を見渡すが、実際、こうした人物は世の中に沢山いる。こうした人物と同程度の知識、知性の持ち主はたくさんいるが、この人物は正にその事に我慢できない。この人物は自分の特別さを認証して欲しいのだが、それに見合うだけの努力もしていないから、必然的に自分を後ろの方に引っ込ませて、世界を軽蔑するという態度を取るに至る。しかしこんな個人は無数にいるわけだから、この態度の背後の苛立たしい感情は消えない。

 アメリカでトランプという大統領が生まれた。トランプの主張は単純、明快で、力強いアメリカを取り戻す、という感じだが、世界はそんなに単純にできていない。ここで重要な事は、トランプの言っている事、やろうとしている事は間違っていたとしても、トランプ一人を倒せば(物理的にだけではなく、選挙含め)問題は解決するというわけではないという事だ。トランプを選んだのはアメリカ国民である。そしてトランプを選んだアメリカ国民の中にある精神的病理は、現代人である僕達も共有している「何か」である。…もちろん、トランプが善だという人間もいるだろうし、それはそれでいい。どちらにせよ、重要なのは、世界はボタンを一つ押したり、たったひとりの敵を倒す事によって救われたり、破滅したりするものではないという事だ。人間は様々な多様性の元に生きていて、間違っていたり、正しかったりする。しかしその多様性から目を瞑れば、世界を救うのも滅ぼすのも、ほんのボタン一つという問題に還元されてしまう。

 ペルソナ5の主人公達はラストで、世界を破滅に導く神と戦いに行く。しかし、本質的に行って、アニメ・ゲームなどの優れた作品に見られるシナリオ設定に対する自分の根源的不満は、解消されていないままにそこにあった。(だからこそ自分はゲームクリエイターを目指さないのかもしれない) こうした作品では大抵、主人公達は急に特別な能力に開花するのだが、その理由はほとんど説明されない。大抵、それは偶然である。そして偶然発現した、一部能力の持ち主達が何をするかによって世界は救われたり、救われなかったりする。

 長々と書いてきたが、結局、主人公達の偶然的な特殊能力いかんによって世界が救われたり救われなかったりする、というよくあるシナリオの構造そのものに欠陥があるように思う。最も、それもペルソナ5の場合、途中までは合理的に進んできた。なぜなら、主人公達が改心させる人物は現実にいそうな悪人であり、また、裏の世界を使う自分たち以外の人間がいる事も示唆されていたからである。

 しかし、それはシナリオの最後まで来てインフレを起こした。急に大衆全体の望み(破滅したいというような)を叶えるという神が現れ、主人公達がそれを倒すか否かという大きな問題にすり替えられてしまう。もともと、シナリオの構造的に、シドウにあらゆる悪が都合よく集中する際にも、自分は密かに問題を感じていたが、その問題が更に多く膨れ上がり「神」の問題にまで昇華されてしまった。ここまで来ると、あまりに漠然としており大雑把な作品であるように思う。そこでは、全ての問題を断ち切る為に都合よく「悪ー神」のラインが作られたと考えざるを得ない。

 ペルソナ4でも、真エンドは必要ないのではないかと考えていたが、同じ事が5でも起こったと自分は見る。そういう意味では本当の、人間らしい敵は主人公達を裏切ったとある人物(一応ふせておこう)だったのではないかと思う。この人Xは、人間味のある理由によって主人公達に牙をむいており、実は主人公と似た存在だという事が記されている。したがって本当に魅力ある敵キャラはこの人物Xであり、シドウや悪神ではなかった、と僕は考える。

 ただ、ゲームをプレイした人なら気付くだろうが、人物Xを主人公が打倒する相手だとすると、Xは世界を救うには不足な相手である。Xが敵であって、Xを改心させれば終わりだとすると、ペルソナ5は元の作品に比べて壮大さには欠ける事になる。これは難しい問題だが、僕は壮大さが欠けても作品全体の構成の秩序を取るべきではないかと思う。RPGは主人公達が奮闘して世界を救うという伝統があるから、それに則ってペルソナも作られているが、その伝統には必ずしも従わなくては良いのではないか。あるいはXの意図が彼の憎悪を表現する為に世界を破壊する事であり、それを主人公達が食い止める、という物語でも良かった。急に抽象的な神が出てきて、それが実は全てを裏から操っていたとプレイヤーにいきなり宣告されても、そこには物語としての必然性が欠けているし、神の悪意の根っこにあるのもあまりに漠然としすぎている。僕としては神よりも人物Xを強調すべきだったと思う。

 しかし更に考えていくと、もっと根底的な問題はプロデューサーの橋野氏と僕の思想の違いではないかと思う。僕は仮に人類が真から滅亡を願えば、勝手に滅亡させるより他ないという気がしている。それは僕のニヒリズムではなく、結局、他人によって強引に改変させられたものは後に禍根を残してしまうからだ。人間は自分たちの意志によって滅亡しようとする。その過程で、自分達で滅亡が間違っいてる事に気付く、とならなければ本当に「改心」とはならない。一部の少数の者が裏で動いて、世界が変わるほど人間というのはやわではないし、仮にそうだとしたら、そんなコロコロ変わる世界にはあまり意味がないのではないか。だから、僕の人間に対する信頼は、悪を含んだ、自由と責任にある。自由と責任を失った自動機械がいつか完全なる善に変わっても、それは悪よりなお悪い。人間は自発的に生きるべきであると僕は考える。

 さて、ここまでざっくりとペルソナ5へのモヤモヤ感を書いたが、やはり、現代で物語を作る事の難しさを改めて考えさせられた。人間はどうしても善ー悪、正ー邪、の観念に捉えられてしまうからで、主人公を善の側におくと必然的に相手は悪である事が確認される。これはもちろん、安心して見られる作品としては必須な形式だが、現実を見渡すと誰しもが自分を善と感じ、自分の敵を悪と考える。だからこそ、人はこうした形式をエンターテイメントとして楽しむのだが、どうしてそれにメスを入れてはならないのか。もちろん、僕自身のこの二項対立にとらわれている。だから、この意味を自分なりに掘り下げなければならない。ペルソナ5は全体としては非常によくできた素晴らしい作品だが、ラストをやってモヤモヤしたので、この文章でこうして発散する事にした。ただこれからやる人には、非常な良作なので安心してお勧めできる。しかしやはりーー最終的には色々な問題は自分ひとりで徹底的の思考し、詰めていく必要性を感じさせた。
 

文学作品における「対話」について 3

 最後に言いたい事としては、こうして「対話」の側面として文学、というか小説作品を考えていくと、小説ー文学というもの自体が一つの思想であるように思えてくる。つまり、そこではそれぞれの生き生きした実在は、単一の真理では捉えられない、捉えられてはならない、という思想である。そしてこの思想は語られず、実行される必要がある。この思想は当然、語られた途端に一元的な真理に結晶してしまう類の真理だからである。

 作家からすると楽なのは、一元的な作品である。自分一人が夜郎自大であって、自分一人、自分の国、自分のグループのみが正しく、その他は愚か者か取るに足りない連中であるという単純な構造というのが、クリエイターにとっては楽な事である。そしてこういう単純な構造は実は受けが良い。なぜなら人は、そんな風に自分をみなしたいという無意識的欲求を持っていて、その欲求を刺激する作品は、大きくヒットしたりする。(今頭に思い浮かべているのは「シン・ゴジラ」だ)

 しかし、実はこれとは正反対の作品も同様に楽だったりする。「世界に一つだけの花」に代表される、表面的な多様性礼賛作品である。これもまた、クリエイターにとっては安易で楽であり、しかも受けが良かったりする。ここでは多様性が肯定されてはいるものの、実は表面的な論理を世界に対して一面的に行使し、その部分を、部分として認めているに過ぎない。皆同じで皆いい、あるいは皆違って皆いい、というその皆の顔つきはどうしてこうもふやけて、似通っているのだろう。多分、世界が終わる時、人は深刻な顔をしているのではなく、どこか幸福そうな、ふやけた微笑をしているのだろう。

 優れた小説ーー文学作品は、そのどちらをも排除し、世界を理性的に洞察しなければならない。そして真のクリエイターは自分が最も撃滅したい相手すらも自分と同じ地平線上において眺め、何故彼がそうであるのかを徹底的に理解しなければならない。ドストエフスキーは「未成年」のラストにおいて彼の作家技法を独特な言い方で語っている。それは「洞察し、間違える事」である。美しい、整備された形式が失われた今、混沌の現在に、混沌の方法を持ってドストエフスキーは入っていったのだった。

 文学作品は、個々のキャラクターが何であるかを解明する義務を負っているように思う。現在ではこの義務を遂行するのは難しい。ある時期から文学は現実と接着した健全な、穏やかな日常を描くものになり、危機や暴力を描くにしても、金持ちのお坊ちゃんが一時ぐれてみせるような、そんな甘さしか感じさせない。僕達は何かに柔らかく包み取られているのだが、それがなにかわからない。心の深層には絶えず無意識的なストレスが溜まり続けているが、その原因がどうしても特定できない。そこで、安易な子守唄が聞こえてくるが、それは僕達の表層のみを慰撫し、深層は無視する。なにかがズレているのだが、そのズレはどうしても感知できない。

 文学作品において人間とはそもそも生き生きした存在であらなければならないが、現に生きている僕達は生き生きしているとはとても言えない。小説という形式において、個々の人物は自己を言葉によって開示しなければならないし、その開示の仕方は相互依存形式ーー対話という形式が望ましい。そう考えても良いだろう。この時、人間を一義的に決定できないか、決定してはならないという態度が作家の態度となる。更にドストエフスキーにおいては、それはキャラクターの態度にすらなる。ドストエフスキーのキャラクターは(バフチンの言うように)他人の定義を打ち破ろうともがいている。彼は生きた存在であろうとするから、他人の、死に似た定義を我慢できない。例え間違っていても、彼らは自らを生きたいから他人の定義が我慢できない。また、他人の定義が正しければ、その「正しさ」にこそ、彼らは噛み付くのである。つまり、人間は論理ではないと彼らは身を持って証明しようとする。その為に何を失ってもかまわないのである。

 こうしてドストエフスキーのような作家の作品には独特のポリフォニー空間が現出する事となった。普通の作家においてキャラクターは静的な存在だとすれば、ドストエフスキーのキャラクターは動的だと言えるだろう。宮崎駿の作るキャラクターが、一々自分自身に反抗していたら、安心して見る事ができない。多分、宮崎駿作品とかワンピースのような大衆ヒット作品というのは、一様にしてキャラクターが自分の定義を覆さないからこそ安心して見られるという性質を持っているのだろう。彼らは作者が与えた定義の範囲内でドラマを作る。キャラクターそのものが自らの定義を食い破ろうとする劇はそこには決して作られ得ない。そしてそれが現れると、例えば、社会におけるある役割を安心して享受している「普通の人」はまるで不可解なものでも見るかのようにそれを見る。そこでは、自分を疑い、その本質を露わにさせる事は社会の根底を破壊する事につながると彼らは本能的に知っているに違いない。自分そのもののあり方を疑い、本質を露出させようとする事は、根本的に不可解な、社会の掟を破る何事かを含んでいる。しかし例えそうであっても人間は自由に生きたいのである。ここに劇がある。そこには人間の生き生きした姿がある。彼はそこで、客体的な視線を脅かす何かを始める。つまり、自己との対話であり、他人との対話である。彼は自分とは何かと考え、その本質を露出させていく。そこで、彼は自らの本質と世界の本質に対して、他者を通じて深く問いかけていく。この時同時に、それを見ている安定した視線も一度は脅かされざるを得ない。人々、というのは何かに対して目を瞑る事から可能なある恒常状態である。本質を求める事は、これに揺さぶりをかける事でもある。

 「対話」は、言葉によって他人との関係を決め、自分との関係を発露させる道具である。これによってキャラクターは自分が何かを読者に開示させていく。この「対話」は我々が通常行う「会話」とは全く違うものである。僕達はおそらく、そもそも自分の事を全然知らないのだ。だから、僕らの理性は僕らの深層に届かない。三島由紀夫の右翼的思想は三島の魂の深くまで洞察しきった故に出てきたものではなかった、と僕は考えている。そこでは、本格的な対話がまだ本質にまで至っていない。この対話を出現させ、その各々の存在を生き生きした姿として、ポリフォニー的空間を表すのが真の作家だと、言えるように思う。そしてそういう作家は現在ではいない。現在は人間そのものの捉え方がまだはっきりと決まっていないし、どの捉え方が正しいのか全くといっていいほどわかっていない。しかし遺伝子学や脳科学、経済的価値によって人間は計られると信じる人間も多い。僕はーー自分の立場からはーー文学にはもう少しは可能性はあるように思う。しかし、その為には今いる位置から膨大な努力が必要となるだろう。自分を知るという事はとかく難しい。漱石が、ドストエフスキーが描くべきものをはっきり定めたのは四十過ぎてからだった。しかも、彼らがそれにようやくたどりつく事ができたのは、おそらく非常に長い間に渡って自己との対話を繰り広げたからであろう。僕はそんな風に考える。そしてその対話は、やがて文学作品という形で花開いたのだった。彼らの作品は相互対話的であり、それぞれが互いを理解しようとする事が、彼らの世界理解の答えなのだった。つまり、答えよりも答えを求める態度の方が、文学という未完成なジャンルにはふさわしい。世界は未だ閉ざされておらず、そしてこれまで一度も、閉ざされた事はないのだ。ここに確定的答えを与えようとすると対話は止み、「演説」が始まる事になるだろう。

文学作品における「対話」について 2

 では、このドストエフスキー・シェイクスピア的原理(シェイクスピアも含めるが)は、タイトルの「対話」とはどういう関係にあるのだろうか。その場合、「対話」は関係性として規定される。また、ドストエフスキーが個人に与える「思想」の定義は、「対話」を成立させる為の諸元素として位置づけられるだろう。

 この場合、僕は、ドストエフスキー・シェイクスピア的原理を仏教的な『関係主義』として捉えたい。関係主義とは、個々の物事のあり方は、それ独自なものとして捉える事は不可能であり、それらは常に関係の側面としてしか捉えられない、として考えるものだ。これと反対なのは『存在論』『存在主義』で、ある真理や物事を単独で、その全てを捉えきれるというものだ。

 この『関係論』『存在論』を大雑把に二つに区切った時点で、先に述べていた、文学と学問との関連性に気付く事ができるだろう。つまり、文学は『関係論』であり、学問は『存在論』である。…もちろん、この分け方というのはとてつもなく大雑把かつアバウトなものなので、本格的に学問の問題を指摘しているわけではない。区分するのに便利だから使っているだけの話である。

 さて、学問ー存在論の系譜から考えていくと、世界は単一の真理で把握可能という事になる。それらは単一の存在の様相を取っており、ある視点を取れば、世界の様相は確実に捉えられる。物理法則には世界各地、宇宙のどこでも通用される事が要求される。この時、物理法則各々が相互の存在を持って葛藤しうるというのは奇妙な話だろう。そんな葛藤は解消され、科学は単一の真理を目指す。学問はこのように世界に大きな網の目を投げかけ、世界を一つに溶かそうとする。
  
 一方で文学はーーというか、ごく一部の特異な文学者はーーそうはしない。バフチンはドストエフスキーについて鋭い指摘をしていた。ドストエフスキーは「罪と罰」において、ラスコーリニコフの殺人正当化の思想を語らせる時も、決して単一のモノローグ的な観点から語らせなかった。それはポルフィーリィの口をついて出てくるのであり、したがって、元のニュアンス、原型をとどめていない形でラスコーリニコフの思想は現れてきた。これをもっと突き詰めていくと、そもそも人間には追い詰めるべき原型などないという事になる。人間は種々の関係の中でのみ自らを開示してく存在であり、だからこそ、肯定するにしろ、否定するにしろ『他者』が必要となる。より強烈に言えば、そもそも「自己」とは「他者」との関係の中で規定される動的な存在であるから、唯一絶対な自分を他者に開示したり、閉却したりという事自体がそもそも存在しないのである。

 この時、注意しておきたい事が一つある。それは自分との対話も、「他者との対話」の中の一つに繰り入れられるという事である。ドストエフスキーにしろ、シェイクスピアにしろ、キャラクターの自己との対話は完璧な水準に達している。そこでは、理性が自らを振り返って自らと応答しているようだ。ドストエフスキー、シェイクスピアの偉大さはこのように自己を完全に客体化した個人を作中に描き出している事にあると言ってもいいだろう。そしてこの時、やはりこの自己対話は非常に生き生きしたものである。彼は自分と語り、自分に問いかけ、その存在を自分に対しても開示しようとする。そしてその事により、その存在が読者である私達にも開かれるのだ。一つ、例をあげよう。

 (シェイクスピア「ジュリアス・シーザー」 ブルータスの妻ポーシャの言葉)

 「もう家にはいらなければ……情けない、意気地がなさすぎる、どうしてこうなのだろう、女の心は! ああ、ブルータス、運良く本望をお遂げになるように!」

 ブルータスの妻のポーシャはこのように語る。この時、妻ポーシャは自分の女としての意気地のなさを嘆いている。しかし、だからといって、彼女自身の女らしさを嘆く彼女の理性は、彼女を純粋に客体的に眺めている。普通の現実において、僕達はそれぞれの立場、例えば「男」や「女」やといったものにとらわれている場合が多いわけだが、この時、ポーシャもそれにとらわれてはいる。しかしながら、それに捉えられている自分を純粋に見つめる理性の目は、それには囚われてはいない。つまり、ポーシャは女であり、女ゆえの弱点を晒したわけだが、しかし、それを見つめる彼女の理性は女でも男でもなく、純粋に「人間的」と呼ぶ代物である。

 シェイクスピア作品に見られる人間造形の偉大さは僕はまずこの点に認められるのではないかと思う。そこでは悪人も善人も己が何者であるかという事を世界に開示される事が要求される。そしてそこでは、上記のように自己への痛烈な対話として示される場合もあるし、演説や他者との対話という形を取って示される事もある。しかしいずれにせよ、これらの人は男であり女であり、ローマ人であったりキリスト教徒であったりするのだが、どっちにしろ彼らは理性の偉大な目が差している限り、どこまでも「人間」なのである。彼らは理性によって自己をえぐり、世界に開示する点において、徹底的に平等であり、なおかつ自由なのだ。ここでポーシャは、女としての弱さをさらけ出しているからといってそれが女を非難するものでも肯定するものでもない事は見て取れるように思う。ポーシャはとにかく「そのような人間」なのである。そしてポーシャという、劇の中ではそれほど重大ではない人物もシェイクスピアの手によって、とにかく自分を開示する一人の偉大な人間として、我々には指し示されるのである。

 さて、このようにして、「自己との対話」も「文学内の対話」の一つとして重要な事が分かった。長くなったのでまとめていくと

 ① 文学作品におけるキャラクターは言葉によって自らを指し示す。そこでは「対話」が重要な位置を占める。
 ② 対話はそれぞれの生き生きした実在を示す。対話は関係的である。それは一元的な真理を行使しない。というより、一元的な真理は行使できないと考えるから、人は対話的に自らを示さなければならない
 ③ 対話は自己との対話も含む。
 
 という辺りになる。

 本当はここからもっと先の事を考えていかなくてはならないのだが、これ以上やるともっと長くなるので、この論はここらあたりで辞めておく事にしたい。(続く)

文学作品における「対話」について 1

 文学作品にとって「対話」というのは非常に重要な要素として存在する。そしてこう考える際、僕は「対話」と「会話」を一応区別しようかと思う。僕が「対話」という事で言いたいのは、文学作品内部の個々のキャラクターがそれぞれ自分の本質を言語表現するという意味での「対話」であり、それは具体的にはシェイクスピアとドストエフスキーの作品内部における「対話」を指す。だから僕が「対話」をイメージする際は、かなり狭い範囲の話になる。

 …とはいえ、そうしたイメージにだけ縛られる事なく、漠然と話を進めていこう。優れた批評家であるハワード・ホークス氏はミハイル・バフチンの議論を前提にしつつ、小説における「会話」とはどんなものかという優れた論考を書いている。こうした事は非常に参考になったので、最初に書いておこうと思う。

                          ※

 さて、文学作品で「対話」、あるいは「会話」はどんな意味を持つだろうか。人は普段、『普通に』会話する。しかし、我々の普段の会話というのは大抵、内容に乏しい。「昨日、〇〇行ってきたんだよね」「あ、あそこ、こないだ私も行ったよ」「えー、うそ? ××いたでしょ?」「いたいた、でさー」 みたいな感じで、活字で現しても、ほとんど意味内容が感じられないようなものである。もちろん、そうは言っても、それを話している僕達自身が空虚である訳ではない。僕らの普段の会話というのはほとんど、会話外の情報が多いように思う。相手の顔色や雰囲気、服装や身振り手振りによって僕達はなんとなく会話している。そこでは、言葉の意味概念で捉えられない情報で僕達は話している。さりげない日常会話の中でも「あ、あの人は私に好意を持っている」とか「あの人は私を嫌いらしい」とか、人は様々に日々感じるだろう。では、これを文学作品において活字に表すとどうなるのか、という事が問題になってくる。

 文学の面倒な問題というのはこの辺りにある。言葉の羅列によって、世界は抽象化される。僕達は過去の古い書物を読む事が可能だが、それは言葉が様々なものを抽象化する、その作用のおかげである。しかし、その作用は現実のあり方の非常に多くの部分を捨象してしまう。これら捨てられたものの中に、本当の僕達の生き生きした姿はあるのではないか。…もちろん、答えはそれで正しいのだが、しかし、言葉によってもう一度、生きた現実、生きた人間を取り戻す事に文学の本懐があると言っていいだろう。言葉は世界を抽象化し、やせ細ったものにするが、それを再び、世界以上の大きさに、豊かなものにする過程において文学の技術というものがある。そんな風に考える事ができるだろう。

 さて、この時、言葉はどのように人間を現していくだろうか。
 例えば、バフチンが教えてくれた事だが、全く同じ言葉でも、話者が違えば、全く違う意味を持つ事になる。例を出すと、
 
 A「昨日、マクドナルド行ってきたよ」
 B「昨日、マクドナルド行ってきたよ」
 
 という『会話』があれば、Bの言葉は嘲弄の意味を持つ事になる。これは当たり前の事だが、非常に重要な事に思える。AとBの言葉の意味内容自体は全く一緒だが、話者が違うという事で違う世界が開けてくる。例えば、これが言語学であるなら
 
 「昨日、マクドナルド行ってきたよ」

 という語は単一の意味として捉えられるはずだ。言語学における言葉の意味は、話者の変化を考慮に入れていない。それは単一にして全体的な意味作用であり、だからこそ『辞書』というものが成立する。言語学、科学のような学問はこうした一元的な体系によって世界を俯瞰視する。だからそこに体系的な真理が生まれるのだが、文学作品においては、そうした一元的な真理は行使されえない。何故なら、単一の真理を握っているものが仮にいても、それは登場人物の一人として作中に埋め込まれるやいなや、一つの関係の網の目に組み込まれた一元素となるからだ。

 もちろん、そうは言っても、小説の作者が、自らが正しいと考える思想を、自らが正しいと信じる登場人物にべらべら喋らせるというパターンは存在する。この時、おそらく、こうしたパターンを使う人物はそもそも小説というものが何故そんな形式を保っているのかというのを徹底的に思考していないのではないか、と思う。(もし徹底的に思考している者なら、単に僕とは違う考えの持ち主だという事になるが) もし、そういう事がしたいのであれば、別に小説という形式を使わず、単なる「演説」つまる所、「エッセイ」「批評」という形式で充分だろう。そしてこの場合は作者から読者に対して「作者→読者」という一本の線が引かれており、それを何かの理由で薄める為だけに小説という形式が採用されているにすぎない。しかし、小説の真の能力は作者の思考、哲学を主要な登場人物に語らせる事にあるのではない。そうではなく、小説の構造と機能は、そのような作者の思考や哲学すら相対化して作品の中に折りたためるという事にある。

 ミハイル・バフチンにしろ、ハワード・ホークス氏にしろ、彼らは小説というものを構造的に、関係性として捉えている。その際、問題となっているのはそれぞれのキャラクターの独立性である。しかしながら、もちろん、それぞれのキャラクターの独立性を成り立たせているのは作者である。では、それぞれのキャラクターを成り立たせている作者の個性とはどんなものだろうか、と考えるとこれが難しい。特に大作家においては圧倒的に難しい。なぜなら、普通に考えれば、作者と言えども、現実世界では無数の人間の中の個性の一つに過ぎないからである。シェイクスピアにしろ、ドストエフスキーにしろ、彼らは多くの人間の中の一人に過ぎないはずである。彼らは単に、一つの個性として現実の世界を生きていたはずなのに、何故、彼らの作品にかくも無限の個性が集積し、そこでそれぞれが自己を主張する事が可能になったのだろうか。ここに非常に難しい問題がある。

 僕の見方ではこの難しい問題に対して、多くの知識人はつまづいているように思う。例えば、ドストエフスキーに影響を受けたと称する作家が、自分のキャラクターに思想めいたものを語らせる。そこで「自分はドストエフスキーの影響を受けた」と信じるのだが、実際の所には似ても似つかない。では、何故、似ても似つかないのだろうか。

 これに関しては割に明瞭に答える事ができるように思う。既にバフチンの指摘している事だが、ドストエフスキーは思想というものを単に主人公に語らせているわけではない。ドストエフスキーにとって思想とは生きた人格であり、何よりも生きた人間そのものの事だった。これがシェイクスピアにおいては情念と理性というような項によって、人間が括られるがドストエフスキーにとっては「思想」というものが人間に対する定義として当てはまった。もちろん、これは現代社会を写したものである。

 例えば「罪と罰」をよく読んでみて欲しい。そこでは、ラスコーリニコフの情熱に浮かれた言葉に釣られて、つい作者も舞い上がって文章を書いていると思いがちだが、実際、背後にいるドストエフスキーは案外冷静、冷淡である。ラスコーリニコフにしろソーニャにしろ、ポルフィーリィにしろ、それらの人物は自分の存在と自分の主張を融合させて生きているものの、ドストエフスキーは安易にそれに与したりしない。つまり、ドストエフスキーは思想というものをキャラクターに語らせているのではなく、むしろ、思想というものが生きた存在として社会の中を通行している現代世界を客観的な位相から描いている。

 だから、ドストエフスキーはあくまでも思想を描写していると言える。この時、ドストエフスキーのキャラクターの誰彼の思想が浅はかであるとかないとか、そのような批判は微妙に的はずれな批判だ。なぜなら、現実世界においては浅はかな思想に捉えられてとんでもない事をしでかす人間だって存在するからである。問題は、僕達が(バフチンの言うように)、まるで一人の作家の作品について批評するかのように、ドストエフスキーの小説の中のキャラクターの一人について語る、という事にある。この時、僕達はドストエフスキーが思想を「描写」しているのではなく、むしろ、ドストエフスキーが思想を語っている、と無意識的に見てしまっている。だから、そこでドストエフスキーの作家としての位相が見逃される事になる。

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