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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

芸術は世界から独立した存在としてあるのか

 

 
 小説家になろうのエッセイランキングを見ていると、小説を書く理由というのに、「小説を書くのが楽しいから。そういう物語を作るのが好きだから」という事がちらほら見えた。こういう意見というのは割によく見かけるし、妥当な意見のように見える。

 それでこういう意見の裏には、「プロの小説家になれないけど…」という但し書きもあるようだ。だが、過去を振り返ればプロの小説家になれるかどうかというのはさほど重要な問題ではない。カフカはアマチュアだったし、ゴッホは死ぬまでに一枚しか絵が売れなかった狂人だった。そういう事は(少なくとも芸術上では)大した問題ではない。

 それで最初の問題に戻ると、「小説を書くのが楽しいから。そういう物語を作りたいから」という事が問題になるが、これは本当にそうなのだろうか。これは別にこう言う人を非難したいわけではない。どっちかと言えば自分自身、そんな風に考えていた過去があって、色々勉強していく内に、そういう自分に疑問が出てきたという事がある。

 まず、疑問なのは、「物語」というものが現実と遊離した存在としてあるのかどうか、という事だ。最近、政治や経済の本などを読んでいるが、一般的には、『芸術は政治・経済とは分離された独立な存在』と考えた方が都合は良い。その方が芸術家が色々、考えたり学んだりする必要がなくなるからだ。

 大きく言えば、村上春樹なんかも、『文学』というのを現実と切り離して考えていると思う。ねじまき鳥クロニクル辺りまでの村上春樹は、現実との連続性を感じさせたが、最近の作品は現実と遊離した『物語』となってしまっている。では、この『物語』は果たして、本当に現実と遊離した、『文学』という大きな城の中にある確固としたものなのだろうか。僕はそうは思わない。…というか、色々勉強している内にそうは思わないし、そう思ってはならないという結論に達しつつある。

 抽象論ばかり言っていても良くないだろうから、具体例を上げる。例えば、古代の悲劇では、人間の意志、欲望よりも自然が与える運命が先立っているように見える。人間がどうありたいかという事よりも、自然な人間が世界に翻弄される様が描かれる。これが近代に至ると、人間の意志、欲望が重要となってくる。つまり、近代においては人間は意志するのだが、それが成就しない事が基本的な劇の構成となる。これに比べて古代は、神が与えた運命に翻弄される人間が問題となる。

 今、更に問題を追求する為にドストエフスキーという項を入れてみよう。ドストエフスキーは全く独特な筋の構成を発明した。「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフは、彼が意志する事によって、殺人を犯す。そこでは、彼は自分の望んでいる事をした。しかし、その望みが、まさに抵抗なく行われたという事が彼の苦しみである。おそらく、ドストエフスキーが表した非常に重大な哲学とは、現代においては、人の意志、欲望それ自体が、その人自身の存在のあり方に根付いていないという事にある。ラスコーリニコフの殺人の意志は彼自身にも嘘と気づかれているような何かだった。つまり、現代においては個人の内面、意志、欲望自体が客体化され、社会の規範に組み入れられている。そこでは、意志が成就されない近代性が問題なのではない。そうではなく、意志がその通り成就されたのに、何かが違うのだという感覚が問題となっている。おそらく、これは未だに現代の問題だろう。

 これを近代のシェイクスピアとくらべてみよう。「ロミオとジュリエット」では、ロミオとジュリエットの恋愛が問題となる。二人を引き裂くのは社会規範である。二人を結合させようとするのは、二人の意志・恋愛である。つまり、ここでは個人の内面的意志と社会規範が葛藤している。個人は社会に敗北するのだが、しかし、敗北してもなお自分を失わない事に我々は感動できる。そういう意味では夏目漱石の「それから」も近代的作品と言えるだろう。
 
 一方、ドストエフスキーの作品では、そもそもキャラクターが自分が何を望んでいるのか、理解できない。「白痴」の三角関係を考えてもそうだ。ヒロインのナスターシャは、相手を我が物にできない事に悩んでいるのではない。彼女はそもそも、自分の意志、欲望が何なのか捉えきれない事に悩んでいる。この事を僕は、現代社会特有の問題と考える。我々が望んでいる事は、精神が物質化し、情報として流通している現代においては、不分明となってしまう。僕達が「夢を叶える為努力する」というのは、大抵、世界の方で、かなり早い段階に我々に刷り込んだ幻想にすぎないのではないか。僕達が意志し、欲望を持つ、その内面それ自体が、世界によって外部化し、自身のものと感じられない。そこに現代の問題がある。

 言い換えると、現代では、個人の内面そのものが外部化した、と言える。自分の内面、意志そのものから自分が疎外されている、と人は感じる。テクノロジーによって情報が流通するようになり、個人はネットを通じて自由に発言できるようになった。それは個々の主体性の発露に見えるが、実際的には、それぞれの主体が世界に汚染される為のインフラが整ったと見る事もできる。

 事実、毎日、似たような情報を見ている僕らは次第に「そんな風に」考えるようになってきている。人が話す事を話し、誰かが話題にしている事を話題にする。古代における専制政治は人間の魂まで支配する事はなかったが、現代はそれは可能になった。何故それが可能になったかと言うと、まさに僕達がそれを「望んでいる」と感じているから、という事になる。

 さて、ようやく、問題を最初に戻そう。『小説を書くのは「小説を書くのが楽しいから。そういう物語を作りたいから」』。だが、本当にそれは本人が『望んでいる』事なのだろうか。優れた編集者の鳥嶋和彦が、「漫画家が『描きたいもの』と『描けるもの』とは違う」という事を言っていた。実はここで言っている事は鳥嶋和彦の発言がヒントになっている。鳥嶋の言っていたのは、作家が「描きたい」と思っているものは大抵、作家がそれまでに見たもの、聞いたもので、「描きたい」と思い込んでいるものに過ぎず、作家が「描けるもの」はそれとは別だという事だった。

 …ここまで、文章を連ねてきて、一体、お前は何を言いたいのか。まとめると、そもそも、「書きたい物語」の、「物語」は現実と独立したものとして成立しているのかどうかという事。現実に目をつぶり「空想の世界で解放される」にしても、そこでは現実で得た僕達の価値観や世界観が如実に現れてしまっている。そもそも「純粋に面白い物語」というのは存在せず、あるのは現実認識の果てにある物語ぐらいではないか。例えば「純粋に面白い物語」とはなんだろうか。古代ギリシャの悲劇が優れているのは誰でも認めるだろうが、今、それを僕が書くとしたら何故それを書くのだろうか。純粋に面白い物語というものが時代を通じて不変ならば、古代の方法論を今に持ってきてもおかしくなさそうだが、そうはならないだろう。話が外れるが、僕は市川海老蔵が歌舞伎の本質を理解しているとも、高嶋ちさ子がバイオリンの本質を理解しているとも全然思わない。本質は変化しており、それを捉えるのが芸術家の仕事だと思うが、本質が変化しないと考える時、その人は過去の形式にしがみつく。彼らにとっては形式が本質であるから、流動する時間の中で、時間と共に流れ去っていく。

 芸術における本質とは、時間を通じて再発見され続けるべきものだと思う。そしてその再発見は、必ず、現実との関係性として規定される。芸術は時間の中で永遠不動の姿をしているのではない。それが永遠不動の姿をしているように見えるのは実は、同時代の現実との極度の緊張関係を保っているが為であると僕は考える。ベートーヴェンの音楽には、自らの個性を突き詰めたものはいつか必ずや人類の為になるであろうという、美しい近代の均衡が現れている。ゲーテ、バルザック、ヘーゲルらもこれらと似たような位置にいる。そこでは西洋近代の美しい均衡関係があるが、それを現代の僕らがそのまま模倣する事はできない。現代はゲーテの時代に比べて拙劣な時代かも知れないが、それでも現代から逃げ出すわけにはいかない。

 僕らが「書きたいもの」「楽しい物語」と思っているものはおそらく、どこかから紛れ込んできたある種の幻想だと思う。しかし、この幻想を全て捨ててしまえば、僕らは何も描く事ができなくなるだろう。問題は、僕達自身がドストエフスキーの作る登場人物のように、そもそも何を望んでいるのか、はっきりと認識できない事にある。

 例えば、『金が欲しいから仕事をしている』というのは非常に正直な意見に聞こえるが、彼が本当に望んでいるのはそれだろうか。人間が自分の内部の声を聞き取れないか、聞き取るつもりがない時、容易く他者の言葉、他者の物語が入り込んでくる。夏目漱石が「自己本位」という言葉によって自らを奮い立たせた時、彼は西洋近代の模倣者である事を捨てたのだった。では、僕らは一体、何の模倣者なのだろうか。…現代の問題は、僕らがそもそもなんの模倣者であるのかわからない事にあり、しかも「自己本位」と言ってみてもそれが虚ろに響く所にある。平野啓一郎がドストエフスキーの影響を受けたというと、平野啓一郎とドストエフスキーとはとても比べられないと感じるが、では現在、ドストエフスキーの影響を受けるとはどんな意味を持っているか。これを考えるだけでも、頭が痛くなる。

 …長々と書いたが、自分の言いたい事は、芸術は常に現実との関連性においてあり、その関連性を突き止めるのはそんなに簡単ではないという事だ。芸術を形式と見ると、こうした問題は全て消去され、代々歌舞伎をやっているとか、子供の頃からバイオリンをしていたからバイオリニストになったとかいう話になる。現代において歌舞伎をやるとはどのような事か、現代においてバイオリンを弾くのはどのような事か。それを表現者として表現するとはどんな事であり、そもそもその創始者はどのような精神でやっていたのか。

 偉大なものは、形式にあるのではなく、内面にあると僕は考える。そこでは、内面が自由だからこそ形式は無限に広がっていくのだが、最初に形式に飛びつく人間は逆に内面を不自由に規定されるから、後々困るだろう。流行った作品を真似て売れっ子になった人間は、それをやり続けられるだろうか。人間は利益の為に運動しているわけではないし、そうなろうとしてもそれはそもそも続かない。だから「自分が楽しいから小説を書いている」というのは正しいと言えば正しいがその「楽しい」というのは一体どういう意味だろうか。夏目漱石のように「自己本位」を発見できなければ、本当に心の底から「楽しい」とは言えないのではないか。そういう意味でーーつまりーー人生においては自分を発見する事は難しいと思う。芸術というのもつまりは自己発見の道程なのだろう。

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夏目漱石から百年経った現在

 


 夏目漱石、シェイクスピア、ドストエフスキーの三人は自分にとって文学の模範となっている。もうひとつ加えるとソポクレスの「アンティゴネー」なのだが、ソポクレスは古いので、ちょっと除外する。

 今、漱石にまた興味を持って調べているが、漱石には色々な可能性が含まれている。詳しく研究済みではあるが、漱石にとって問題だったのは、近代化しようと奮闘する日本と西欧の葛藤だった。漱石の偉大さはイギリスでの気の狂ったような勉学からスタートしている。漱石は「そもそも文学とは何か?」という問いから自分の文学を始めなければならなかった。あの頃、漱石、鴎外は持たざる者だった。なんと言おうと、彼らはそもそも近代文学とは何かという事がわかっていなかった。だからこそ、彼らはそれを理解する過程と、文学作品を創造する過程を自分の中で重ね合わせなければならなかった。そこに彼らの労苦と偉大さがある。

 現代は、そういう時代ではない。現代は多数の翻訳された海外小説があり、文学賞があり、小説、文学作品というものは皆、大抵わかっている。少なくともわかっていると思われている。現代の辛さは、明治の辛さとは違い、もう色々なものができあがってしまった事にある。既にできあがったものを再び壊して新たなものを作る痛みや苦しみがある。できあがったものの中で何かをするのが容易いが、これを拒否すると人は路頭に迷う。そしてこの路頭に迷う、その具合というのは漱石が得た、五里霧中の感覚とよく似ている。しかし、明治の日本と今の日本では状況だけは真逆であるように思える。

 人は、努力して夢が達成されるか否かが問題だ、と言う。僕はそんな風に思わなかった。そもそも、夢がなんであるのかはっきりしない事が、一番の問題だ。コンクールや試験に邁進できる人、努力の方向性が確定している事に疑いを抱かない人を僕は羨む。高坂正堯は現代の一番の問題は「知的混迷」だと語っていた。まさに、その通りだと思う。現代は目標が消失した時代だと言えるだろう。漱石には西欧と日本との間に挟まれて、「自己本位」という苦しい哲学で自らを確立した。では、現代、僕らにはどんな哲学が、どんな方向性が残されているだろう。

 漱石の「自己本位」は現代に当てはめて考える事はできるだろう。しかし、そこでは「自己」の意味は異なっている。現代は、文学者が皆、東京大学卒という事はない。知識は偏在し、一般化し、誰でも情報を得られるようになった。知識や情報は一部の人間のものであった時代は終わり、万人がそれを持つ時代になった。しかし同時に、それは「万人が望む情報や知識」にもなっている。デモクラシーの理念は基本的には正しいに違いない。しかし、多くの人が望む事、多くの人がやりたい事、好きな事が本当に多くの人の為になるかどうかはわからない。それは例えば、子供が甘いものを食べすぎて虫歯になる事、と例えられるだろう。甘いものを食べるのは快い事だが、それをずっとしていると後から自分への、快以上の害となって返ってくる。だから、多数派の専制という現代の(アメリカ等を含む)制度が多数派にとって本当に良いかどうかはわからない。

 では、そういう時代において「自己」とはなんだろうか。自らに立脚するとはどんな意味を持つのだろうか。僕はもう漱石のように国民国家を基盤に考える事はできない。単一化した世界、共同幻想としての世界、多数派の専制をひたすらに感じる。社会機構が肥大化した為に、それを構成する個人に対する心理的圧力は、過去の誰にも想像できないものとなってしまった。そうした時代にもう一度、自己本位に立ち返って文学について考えるとはどういう事だろうか。
 
 …というような事を今、考えているが、これに関してはもう誰一人答えを握っていないような気がする。ここから先は勝手にやらなくてはならないのだろうと思っている。ただ、もう一度、僕らにも明治の自意識とプラグマティズムが必要な時が来るかもしれない。幻想にすがりつくのではなく、現実を見て、腹をくくって自分を見つめなければならない日がもうすぐ来るのかもしれない。そんな気もする。

 ガラパゴス化を肯定的に捉える


 ここ最近、ガラパゴス化という言葉が使われている。これは、日本が独自の仕様や様式を生み出して規格化する為に、世界との間に差異ができてしまう事を指している。一般的には「ガラパゴス化」という言葉はネガティブに捉えられているようだ。

 しかし、「ガラパゴス化」するのはそんなに悪い事だろうか、と自分などは前から感じていた。ガラパゴス化というのは、色々な意味にも捉えられてしまうが、それ独自の様式を生み出している事は、世界との間に差異があるから、もしそこで生まれたものが優れたものならば外の世界に輸出する事もできるだろう。独自の進化形態を遂げて差異があるからこそ、世界を先駆けるものになる可能性もあるわけで、世界といつも足並みを揃えていたら、いつも二番手、三番手に甘んじるという事になる。

 もちろん、ガラパゴス化が、ただ単に、世界的なレベルから劣っている、というパターンもあるだろう。ガラパゴス化と呼ばれる現象はただ世界との差異を示すだけの言葉で、質についてはあまり考えられていない。例えば、日本サッカーが独自の進化を遂げていたとして、ワールドカップでボロ負けに負けるチームであれば、それは進化とは言えず退化という事になってしまう。

 自分などはオタクなので、日本のアニメ・ゲームというのはそれなりに面白いものとして発展してきたと感じている。最近クールジャパンなどと言い出して、そうなってくるともう薄ら寒い感じになってきてしまうが、日本のサブカルチャーの分野が自分達の愉しさで勝手に進んでいくのは、悪い事ではないと思っている。逆に、ゲームなんかでは、明らかに海外展開を視野に入れて作られていて結局何がしたいのかよくわからないゲームなんかもあって、そういうのはプレイしていて楽しくない。海外展開もできる重厚長大なゲーム、最近流行りのオープンワールドを取り入れる…なんていういかにも会議で提案されそうなコンセプトが盛り合わされただけのゲームというのはあまりおもしろいと感じない。

 例えば自分が面白いと思うのはダンガンロンパやペルソナ3~ペルソナ5だったりするのだが、こういう作品は海外展開を視野に入れているというわけではないだろう。こういう作品は日本独自のガラパゴス的なものとみなして構わないように思うし、それでも質が高いので、海外に持ち出しても何の問題もない。

 一方、メタルギアソリッドや攻殻機動隊なんかはいかにも海外の、アメリカなどが好きそうなゲーム・アニメだったりする。しかしこうした作品は製作者や監督の個性や興味のあり方と合致しているので、別に無理して海外受けするものにしているわけではないと思う。こうした作品の方が確かにダンガンロンパやペルソナより受け入れられやすいかもしれないが、それはまあそれだけの事で、別に海外のユーザーが正しい嗜好をしているとも思わないので、ただそういうものではないかと思う。もちろん、日本のユーザーが正しい嗜好をしているとも特に限ってはいないが。

 さて、ここまで考えてくると、「日本独自の」とか、「海外では」とかいった場合の、「日本」「海外」という言葉の意味自体を考えなければならないのだが、これは非常に大変な事なのでここで考える事はできない。ただ、自分がこんな事を書いたのは、最近、Steamで海外で人気のゲームをいくつかやってもさほど感心しなかったという経験がある。最近は洋ゲーの方が和ゲーよりも質が高いと言われているが、思ったよりそうでもないというか、海外で人気のあるスカイリムとか、GTAなんかもそれほど良いとは思わなかった。(気に入ったのは「ボーダーランズ」) そしてこれは日本人の僕の嗜好かというと、そうでもないと自分は思っている。

 実際、自分はアメリカ文学のケルアックやサリンジャーが好きで、その解放的な様を、日本近代文学よりも好んでいる部分もある。ガラパゴス化はそんなに悪い事ではない、と自分が書いたのは、別に海外で褒め称えられているものがそこまでずば抜けて素晴らしいものでもないという自分なりの経験があったからだ。大体そういうところで、クリエイターは海外の事よりも面白いものを作る事に専念した方がいいように思う。それを海外に持っていくのは会社、企業、プロデューサーの仕事であって、良いものを作れば必ず誰かが外に伝えてくれるだろうと信頼してもいいのではないかと思う。楽天的に考えると、そう言えると思う。

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