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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

 「アマチュア」から「プロ」へ。「子供の世界」と「大人の世界」

 
 元ソニーの丸山茂雄が、「最初はアマチュアが一生懸命やって、それを後からプロが引き継ぎくとうまくいく。そういうノウハウにある時から気づいた」という事を言っていて、なるほどなあと思った。こういう事は色々当てはまるように思う。

 丸山茂雄の言っている事を自分なりに解釈すると、最初、アマチュアというのは、言ってみれば既存のものにはない新しい発想をしたり、プロの馴れた感じではなく、新鮮で真面目で、一生懸命にやる。だが、アマチュアというのは最初はそんな風に個人的なレベルで優れているわけだが、これを集団的なノウハウに結びつける事ができない。だから、後からプロが入って、アマチュアの考えた事とかアイデアとか、そういうものをプロの、つまり既存の生産体制や方法論と合致させる。こうすると割り合いうまくいく、というような事である。

 高坂正堯の書物を読んでいると、イギリスの産業革命の技術的なアイデアは主にアマチュアから出てきたそうだ。しかし、大きな目で見ると、イギリスはその個人的な技術を、より大規模な生産様式なんかと結びつけるのは苦手だった。イギリスからアメリカへと覇権国家が移行していったのは、そういう事が原因でもあると思う。アメリカというのは、システマティックな方法論が得意な国だ。もちろんこういう見方はかなり大雑把な見方ではある。

 「アマチュア→プロ」という方法論は読み替えると、「天才→凡庸」というものにも言い換える事ができる。個性的、天才的なひらめきがあったとしても、それはいずれは、凡庸な集団的なものへと移し替えられなければならない。確か、アインシュタインの相対性理論はアマチュアの時に考えだしたものだったろうし、カフカもアマチュアだった。別にアマチュアにこだわるわけではないが、要は個人→社会へと、アイデア、思想、技術というのは変わっていくというものだ。
 
 こういう風に考えていくと、今の日本は「プロ重視」で「アマチュア軽視」なのではないかと思う。よく「プロは凄い」とか「プロになりたい」とか言う人がいるが、自分はどうしてアマチュアにしかできない事をやらないのか?と思っていた。自分などはブログで好き勝手言っているが、こんないい加減な事を言うのも多分、プロではできないんじゃないかと思う。まあ、自分が優れたアマチュアは言い難いものの。

 自分は「アマチュア」というものを「個人」として読み替える事もできると思っている。ゲームなんかの話で言うと、「逆転裁判」とか「ダンガンロンパ」とかいうゲームは、元ごく少数の、社内でもほんの小さなグループとか個人の着想が元になっていたらしい。「逆転裁判」も「ダンガンロンパ」も今や大きなコンテンツだが、どちらもたしかに、尖った部分があって、それは集団的なアイデアとしては出てきにくいように思う。具体例を示したほうがいいと思うので、言うと、例えば「ドラゴンズドグマ」のようなゲームは僕にはいかにも、『最新のRPGで海外展開も視野に入れた作品』を集団的プロジェクトで作り出したもののように感じた。ドラゴンズドグマは面白くないわけではないが、凡庸もいい所ではないかと思う。バイオの新作なんかもそうだが、あの辺りはいかにも、「そこそこな優等生がマーケットを加味して作った」感じがする。

 会社で働いている人には分かるだろうが、例えば、上司が部下のアイデアを潰すのは簡単な事だ。部下が何か持ち出した時に「それ、失敗したらどうすんの?」とか「成功する当てはあるの?」と冷たく言えば、大抵の部下は反対できない。そして、いかにも成功しそうな、会議で皆が押すようなものとは大抵「ドラゴンズドグマ」的な、凡庸なものに終始する。それは考えてみれば当たり前の事で、既にあるものからズレているものに投資するのは賭けであるし、そうなると、会議で皆で賛成するのはどこか見覚えのあるものに限られるという事になる。

 ソニーの大賀元社長は、「経営者というのは鼻が効かなくてはならない」と言っていたらしい。(うろ覚え) 高坂正堯の本を読んでいると、同様の事を吉田茂も言っていたそうだ。経営者が「勘」とか「鼻」で物事を決めていると言うと、滅茶苦茶な話に聞こえるかもしれないが、最終的に経験と論理と感性を備えた人間の「勘」に頼るほかないという事があると思う。そして、僕の見方では「勘」とは論理の否定ではなく、凝縮された論理の事である。しかし、人はその計算数値を一瞬にして「そういうもの」として捉えるので、それは「勘」として表出される。後は、「勘」のある人間を「信頼する」かどうかという事が重要になってくる。

 大体、色々な事はそんな風になっているように思う。今これを読んでいる十代の人間がいるのかどうかわからないが、仮に読んでいる人がいるとすると、その人(学生)にとって社会というのは膨大な、重大な機構に見えている事と思う。子供の頃から僕らは「大人の世界は色々大変なんだよ」みたいな台詞を聞かせられて、それで大抵は自分が大人になった時、自分の都合の為に同じ台詞を吐くようになっていたりするが、色々分解して考えると、いわゆる「大人の世界」というのも、そう物凄く難解でもないし、優れた人物が沢山いるわけでもない。また、悪い人間が沢山いるわけでもない。そういう事がわかってくる。要は「大人の世界」というのも、そんなに恐るべき世界ではないという事がだんだんと見えてくる。

 それで「大人の世界」というものがそういうものだとわかってきたところで、多分、もう一度子供の感性が必要とされる。「大人の論理」に押しつぶされず、それを理解した上で、良いものは良い、面白いものは面白い、面白くないものは面白くない、とはっきり言う人物が必要とされる。そういう意味では大人の世界を知った子供が、次の時代を切り開くような人物になるのではないかと思う。「大人の世界は苦しいんだよ、大変なんだよ」と『大人』が苦り切った表情をしている時、そこには確実に自己欺瞞があるというのが自分のささやかな社会経験が教えてくれる答えの一つだった。…そんな風に考えると、元ソニーの丸山茂雄などは子供っぽい、キラキラした顔をしている。

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芸術至上主義の限界・高坂正堯に政治を学ぶ 

 
 

 今、高坂正堯の政治学の本を読みふけっている。高坂正堯は文章がうまいし、話の持って行き方も非常にスムーズで読んでいて愉しい。また、広範な知識を自由に使う様子は、ドラッカーにも似ている。「ああ、日本にもこういう政治学者がいたのか」というのが正直な感想だ。

 高坂正堯は政治学なので、当然これは、経済、歴史、政治、社会といったマクロな視点からの認識だ。僕はもっぱら、芸術、文学、実存主義的哲学というミクロな視点しか考えてこなかったので、その反省もあって、高坂正堯らからマクロな視点を学んでいる。

 政治学、社会学、歴史学、経済学などはおそらく、十八世紀とか十九世紀とか、その辺りから急速に伸びた学問なんいじゃないかと思う。どうしてこういう学問がでてきたかというと、人間の数が増えて、文明が進歩して、宗教から「社会」へと、世界の統合点が変化した事が大きいと思う。

 僕の見方では、かつて人間は自然という巨大な敵と戦っていたが、それに征服して勝利し始めると、逆にそれに勝利した人間機構それ自体が自然に取って代わって巨大な問題となった。一次大戦、二次大戦は、人間が起こした事柄であるのに、まるで僕達の無力を象徴しているような事柄でもあるし、例えば、リーマン・ショックで会社が潰れるなんて事も、まるで知らない人間、知らない社会が起こした事が回り回って自分の生き方に影響を与えてしまうという不思議な事柄だ。人間は自然を征服したが、その結果として、征服した人間機構それ自体が新たな自然となって僕らの目の前に現れた。もちろん、人間機構は僕らにとって恩恵でもあるが、恩恵も含めて、僕ら個人のあり方ではびくともしない巨大な機械のようなものに見える。

 僕などは文学人間なので、二十代前半は太宰治なんかがとても好きだった。もちろん、今でも好きだが、太宰治のようなタイプは芥川と似ていて、芸術至上主義的な作家であるように思う。芥川はもっとはっきりしていて、彼の哲学は「人生は一行のボードレールに如かず」という事になる。中原中也なんかも同タイプと言える。

 今でも議論があるだろうが、太平洋戦争が起こった時、日本の優れた文学者は一様にそれをきちんと認識する事ができなかったーーと僕は考えている。小林秀雄、高村光太郎、三好達治といった優れた文学者の面々は戦争を賛美・肯定したが、別に僕は戦争を賛美するのが間違っていたと思っているわけではない。彼らは文学者だから、ミクロな観点からは優れた認識を持っていたが、それが人類大の視点になると、彼らの認識が通用しない。そこで彼らは間違えたのだと思うし、これに対し、マクロな視点を持ち得ずに太平洋戦争に反対しても、多分事柄は変わらない。

 しかし、マクロな視点を持ちたくないという気分は文学者の気分としては当然なものでもある。マクロな視点というのは、冷酷な所がある。それは統計学的な所があり、少数の人間を犠牲にして多数を救わねばならないという、冷酷さが必要とされる。しかし、仮に自分がその少数の側にいるとすると問題はどうなるだろうか。自分は死ぬとも皆が生きればそれでいいと納得できるだろうか。この「納得」の問題はそんなに簡単に吹っ切れないし、吹っ切ったというのは嘘になるだろう。しかし、政治は必要であるし、時には冷酷な判断は必要だ。でも、自分一人が死ねば、世界が助かるとして、その世界とは自分にとって何なのだ?という疑問はこれまでもあったし、これからも有り続けるだろう。

 そういう問題はあるものの、自分は今までのようにーーつまり、小林秀雄や芥川の視点だけでなくーー芸術至上主義ではもはや限界があると感じて、政治や歴史についても考え始めている。この観点がなければ、おそらく文学・芸術というミクロな視点そのものにもやがて限界が現れるだろう。そして多分、歴史、政治というマクロな視点から、文学というミクロな視点に帰ってくる時、以前よりもよく人間というものが見えてくるだろう。社会、政治、経済といった観点は人間機構が増大化している現在、重要な要素を持つ。

 しかし同時に、それがすべてではないと見る視点を文学や実存哲学は与えてくれるように思う。仮に政治や経済がすべてなら、そこに人間の主体性はなくなって消えてしまう。個と社会との絶望的な乖離をどのようにしてつなぎ合わせるか。これはこれまでの懸案だったし、これからも問題となる。視点を変えれば、今高揚している過激なナショナリズムはこの問題に対して無理矢理、解答を与えようとしているものとして見る事もできる。僕は彼らの答えは間違っていると思うが、それでも彼らは、根源的に失われた人間性というものを、おそらくは誤った方法によって「何か」につなごうとしているのだろう。そうしたものを理解するためにも、マクロな視点はこれから必要になると思う。

個人の中にある「暗さ」が未来の「明るさ」である事

 

 アメリカでトランプが大統領になった。見ていると、漫画が現実になったな、という気がする。民主主義、デモクラシーは大衆の専制に陥る可能性があるとトクヴィルは指摘してたが、その専制はやがて、全体の意向を吸い上げる一人の政治家に託される。そのようにして独裁政権というものが生まれるのかもしれない。そんな事も考える。

 経済学の本に、デモクラシーの社会では、大衆が自分達の重荷になる事を嫌うので増税しにくく、その為、政府は国債を連発するはめになると書いてあって、なるほどと思った。当然、そこでの赤字は巡り巡って国民に害を成すから、結局の所、問題を先送りにしているだけとも言える。ただそれでも、一部の「選良」が社会を支配するよりはマシなのだろうと思う。結局、経済や社会は国民の為にあるわけだし、国民が自分達の誤った選択によって害を被ったとしても、そこから学ぶ可能性がある。中国やソ連のような社会主義は結局、社会の後進性と結びついた、先進的な見せかけの、後進的な政治制度だったように思う。つまり、スターリンはロシアの皇帝、毛沢東は中国の皇帝と考えたほうがわかりやすい。また、ソ連と中国で社会主義が奇妙な発展の仕方をしたのは、大衆全体に知識が導入されていなかった事も関係あると自分は思っている。

 日本が明治維新以降、急速に発展できたのは、日本には私塾なんかがあって、知識の導入に違和感とか抵抗がなかったという事が主要因として考えられる、という話を聞いた事がある。自分はそれはある程度正しいように思う。しかし、この場合、知識というものがただあっても駄目で、それは一体どんな方向へと導かれるのかという事がわかっていなければならない。

 日本は戦争で負けて、焼け野原になった後に急速に発展した。発展の要因は要するに、「何にもないから一から作るしかない」という事で、簡単に言うとハングリー精神があったという事だろう。アメリカという国も元は、南米に比べると金銀財宝も、人もあんまりいないなんにもない北米の植民地で、移民者達が手ずから色々なものを生産しなければならないという事情があったらしい。大きく言えば、そうした自主性と、歴史が欠けているがゆえの自由さがアメリカ発展の根底にあったのではないか。すると、アメリカも日本ももはや、「なんにもない立場」ではなくなったのだし、これからどうして生きていくのか、真剣に考えなければならない。

 日本に関して言えば、日本という国が世界的に独自の存在として自分自身を表明したのは日露戦争ではなかったかと思っている。日露戦争において日本は、アジア人種でも、欧米と対等にやれる事を示した。日露戦争という事象はそういう意味では重要だが、そこからアジア支配に乗り出し、日本を拡大しようとしすぎたのはやり過ぎだったと考える。
 
 歴史的事象としては日露戦争が日本の隆盛の頂点ではないかと思うが、それに対応する文化的なものとしては、夏目漱石の諸作品をあげたい。漱石の諸作品は、日本が西欧と互角にやれるような形での近代文学がありうる事を示したという点で、日露戦争に匹敵するような重要な文化的事象だった。自分は文学者なので漱石を大きく取り上げすぎているかもしれないが、そんな風に日露戦争と夏目漱石の二つの事象を、明治維新以降の、伝統と近代性に挟まれた日本という特殊な国の見事な成果だと見たい。

 日本の歴史的経過を見ると、その後、太平洋戦争に負けている。この敗戦は必然的な事象だったと思うが、敗戦を契機に日本は再び立ち上がってくる。しかし、その立ち上がりが一段落した今、日本はどこへ行けばいいのかわからなくなっている。アメリカも同じで、マーシャル・プランの頃の太っ腹で、親分肌のアメリカはどこに行ったのかという感じがする。アメリカという国はよく考えると変な国で、日本とアメリカが二十世紀に深い関係になったのは、日本もアメリカもどこか異邦人という要素を持っているからではないかと自分はふと考えた。ヨーロッパの伝統もなく、かといって後進国というわけでもない。世界の中で微妙な立ち位置を持っている異邦人的な立場に日本もアメリカもいて、それが両者、極端に憎しみ合ったり、極端に仲良くなったりした原因ではないかと思う。

 アメリカがトランプを大統領にしたという事は、アメリカがこれから過激主義に行く可能性がある、という事だろう。これは日本でも十分起こりうる事で、あるいはもう既に起こり始めているとも言える。人間が過激主義を欲するのは、内部に溜まったエネルギーがはけ口を求めるからで、このエネルギーそのものは善にも悪にもなる可能性を秘めている。そしてこのエネルギーが、自己の発展に使われればいいが、安易な使い方は他者の排除だ。排外主義は、自分を高める為に他人を貶めようとする。もちろん、世界経済は一体化している為に、他人を鞭打つ事は結局自分を鞭打つ事になる。それぞれが、自分の事だけを考え、自分達以外の世界が滅びても構わないと考え行動するなら、まさにそれによって世界は崩壊するだろう。「虐殺器官」のような世界が起こらないとも限らない。

 だが、過激主義を生むエネルギーは同時に、人間を創造的な行為に導くかもしれない。これはホッファーが指摘していた事だが、自らを有用だと感じている人間が社会的に無為の状態に置かれた時、その人間が次の時代の思想、哲学、芸術を生み出す可能性がある。自分が思いつく所としては、失敗した政治家である所の孔子、フィレンツェから追放されたダンテ、政治家として大成できなかったマキャベリあたりだ。これら三人が歴史に与えた影響は途方もない。しかし、彼らは失意の人、失敗した人間だった。孔子が仮に、彼の望む場所で思うままに、政治的な力を振るえていたら、これほどまでに孔子が歴史に影響を与えたかどうか疑わしい。もしそうなったら、多分「論語」自体生まれなかっただろう。

 では翻って現代日本はどうだろうか。僕の見方では、鬱積したエネルギーが、どういう方向へ行くのか迷っているように見える。現代の社会システムというのは様々な場所で形式化していて、既にある程度成功したという前提がある為に、その前提を崩す事ができない。また、「有能な人」というのも、新たな創案、工夫をする人よりも「仕事ができる人」という意味合いが強い。「仕事ができる」というのは仕事の内容について考えださなくてもいいという事を意味するだろうし、仕事そのものを生産するという意味も含まないのだろう。小林秀雄は「天才は努力を発明する」と言ったが、僕達は努力を発明しない。僕らが議論するのは「才能か努力か」という漠然とした話だけであって、努力そのものの生み出すという事はしない。既存のものがすで決まっていて、既存のシステムの内部にいる人は自分に似た人を欲する。こうして社会そのものが硬直的になっていくが、世界は社会の硬直性とは関係なく運動していくので、世界の変化に社会はついていけなくなる。その時でも人間の精神的習慣というのは驚くべきものだから、やはり硬直したシステムややり方をそんな簡単に変えられない。ビジネス的に言うと、過去の成功体験が現在の足を引っ張るという事になる。

 こんな風に考えていくと、現在には絶望しかないように思えてくる。実際問題、僕なども未来に明るい展望は持てていない。自分の生活の閉じこもり具合は、社会全体の閉じこもりを形容しているようにも思える。別に愚痴りたいわけではないが、「社会がどうなろうと自分次第だ!」というのは明らかに嘘だ。反体制であるところのロック音楽だって、反体制を許す体制がなければ機能しない。試しに、北朝鮮で反体制をやってみれば、すぐに処刑されて終わりだ。そう考えると、反体制というのも、微妙に体制的なものを含んでいる。

 …とはいえ、全ての事は自分一人では全くどうにもならないかというかと、そうでもない。事実、先にあげたマキャベリ、孔子、ダンテはそれぞれに文化的な作品、思想を残した。彼らの思想は彼らの苦悩、叫喚であると共に、未来への希望でもあったわけだ。すると、人間にとって苦悩し、苦痛を持ち、それを客観的に認識するという事が人間にとっての未来となるのだろう。それに比べると、トランプに代表されるような単純な楽天性というのは、退廃を意味しているように見える。この文章は、太宰治がかつて語った言葉を繰り返す事で終わりたい。太宰は、おそらく太宰についてイメージを持っている人達が考えている以上に、独特な思想を持った作家だった。彼は「右大臣実朝」に次のように書いた。
  
 「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチはマダ滅亡セヌ」

 ソニー凋落と日本凋落を重ね合わせて考える



 元ソニーの丸山茂雄のインタビューが面白くて、ここ最近読んでいた。日経にほかのソニーOBの話も載っていて、それをざっと読んでいくと、盛田昭夫、井深大以来ソニーにどんな変化が起きたのか、ぼんやりと見えてくる。自分なんかはあまりにのめりこんで読んでいたので、自分も元ソニーの役員の一人であるかのような錯覚を覚えた。

 丸山茂雄のインタビューは面白くて、特にプレイステーションがどうやってできたのかの話が面白い。プレイステーションは、丸山茂雄という才能あるプロデューサーと、変人技術者の久夛良木健のコンビから生まれたという事がよくわかる。そしてこのへんてこな(褒め言葉)コンビを背後で支えたのは、大賀社長だ。大賀社長の、へんてこコンビを好き勝手にやらせていたという度量の広さがあったからこそ、ソニーはプレイステーションを作れたのだろう。そして大賀社長は、盛田昭夫や井深大の薫陶を受けている。そこにはスタート地点からの「ソニーイズム」があったわけだ。

 それからソニーは凋落していく。これには理由や戦犯も考える事もできるが、僕は読んでいて、別にソニーだけの問題だとは思わなかった。好奇心、創造力の枯渇は日本全体の問題であり、ソニーが出井伸之の時に数字にばかり目をつけて、生き生きした創造力を消失させたというのは、日本全体の暗喩であると考えたほうがわかりやすい。

 自分の友人などを見てもそうだし、ネットの意見を見てもそうだが、今や人は企業に待遇や給料の問題しか求めていないように見える。また、企業が人を採用する時もそんな見方になっていると思う。人間という存在が、生き生きした存在である事をやめて、数量化できる存在に限定される事によって僕達は、自分達の創造性を失う。ソニーで言えば、自分達の面白いと思った事、愉しいと感じる事を現実のものとしていく大きなエネルギーが過去にはあった。そして、それは元は、戦争の敗北から来ていた、と僕は思う。僕は盛田昭夫らの根源的なエネルギーは戦争に敗北した時に味わった屈辱ではなかったかと考える。戦後の日本はその屈辱をポジティブな方向へのエネルギーへ変えてきた。もちろん他にも色々な理由はあるだろうが、おおまかに見るとそうではないかと思う。しかし今や日本も大きな国となった。経済的にも成功した。すると、皆が保守的になり、自分達の待遇や会社の保全、あるいは株式の数字ばかり目にして、新しい事をやろうとする気概は失せていく。

 この事をもう少し掘り下げて考えてみよう。人が自分の好奇心や創造力を、「仕事」と結びつける事ができている時、その人はその存在そのものを社会的な事柄と結び合わせる事ができている。その人の嗜好やその人の性格、その人の生きざまそのものが、文系理系を問わず、社会的な事柄と結びつける事のできるような場合、そうしたものは非常に強い。なにせ、人間のあり方そのものを外的な、社会的な物と結託する事ができるからだ。

 しかし、誰しもが感じるように、そうした事を達成するのは難しい。自分のしている仕事に自分の有様を投入できる、そんな幸福な時代は過ぎ去った。今の僕達はそんな事をイメージする事すらできない。だからこそ、僕達は待遇や給与の事しか考えられず、経営者のトップは、自分の名誉や地位や、経理上の黒字の事しか考えられない。

 もっと単純に考えてみよう。そもそも、「ソニー」「任天堂」「電通」などの看板だけ見て入った優等生というのは、ある程度の待遇や、良い生活保障を受けるために会社に入ってくる。というか、もともと、その為に頑張って受験勉強をしていた、という事だろう。すると、この人達に、リスクを負ってでも新しい事をやる気概があるかというと、そんなものがあるわけではない。しかし、僕はそうした人達を非難したいわけではない。それは彼らの責任というよりは、時代の流れというものが大きいからだ。

 こうした流れは日本社会全体に見る事ができる。夢を叶える、という都合の良い言葉は単に、努力して自分を社会的に押し上げる事として捉えられている。そこでは、自分の興味、関心、嗜好、そうした人間のあり方は忘れられている。小説が好きで、その分野で何かを成し遂げたいという理由よりも先に「作家になって印税で楽に生きたい」みたいな欲望が先に来る。この事は社会の色々な事に当てはまるだろう。おおまかに言うと、今の日本の活力がないのは、そうした問題が大きいと思う。しかし、考えようによっては今の日本に活力がないのはかつてが良い時代であったからであって、それほど悲観する事でもないのかもしれない。日本は戦後は概ねうまくやってきた。そしてもその「概ね」がうまくいかなくなった今、僕らは新しい倫理、技術、組織について考えなければならないが、結局、既存のものの中で幸福になる事を願うほうが可能性があるように見える為に、同じループにはまっていく。

 と、まあ、丸山茂雄らソニーOBのインタビューを見ていて、そんな風な事をイメージした。新しいものが生まれる時は、どこでも「ワクワク感」があるものだが、今はそれはなくなっている。今の時代に、「好奇心が大事だ」と言われれば多分笑われてしまうだろうが、「何かをする」というのは、持たざる者が窮余の一策で考えだした、という風情がある。僕は同世代の「神聖かまってちゃん」というバンドを高く評価しているが、彼なども、明らかに、持たざる者である事を逆手に取った創造力だ。今の日本は不況続きなので、そろそろもう自分達はそんなに世界のトップでもないと腹を括って何かをしてもいいのではないか、と思っている。ソニー凋落についてネットで見ていて、おおまかにそんな印象を持った。…後は全くの余談だが、ジャンプの鬼編集者として知られた鳥嶋和彦のインタビューも非常に面白かった。丸山茂雄、鳥嶋和彦のインタビューは、ヒット作を出したいと思っている人には読む事をおすすめしたい。必ず得る所があると思う。


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