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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

 芸術作品の量が増加し、質が低下する現代について 



 猪木武徳の「経済学に何ができるか」という本に、アレクシス・ド・トクヴィルの思想を紹介する、次のような記述がある。

 「ところがデモクラシーのもとでは、生産者は互いに交流し他人の仕事に関心を持つことは少なくなった。社会的なつながりが崩れ、多くの人は、最小のコストで最大限の金を稼ぐことしか求めなくなる。ものを作る人を抑制するものは消費者の意向だけになったのだ。他方、自分の力以上の欲望を持つ消費者が無数におり、これらの人々はできの悪いもので我慢することはあっても、欲しいものを諦めることはないとトクヴィルは述べる。」

 「しかし、貴族制の時代に比べ、芸術愛好家の多くは比較的貧しくなる一方、ほどほどに経済的な余裕があり人真似から美術品を好む人の数は増加する。したがって芸術に関心を持つ人は数としては増大するが、往時の『大金持ちで趣味のよい消費者』は稀な存在になる。そのような状況では美術品の数は増えるが、個々の作品の質は低下するトクヴィルは予想したのである。」

 
 トクヴィルの洞察は、丁度現代の状況を正確に指しているように思える。こうした事に関して、自分の考えを述べていこうと思う。

 ここ最近、流行った映画に「シン・ゴジラ」と「君の名は」の二つがある。この二つは久々の映画のヒット作という事で随分宣伝され、もてはやされた。僕個人はこれらの作品の質は本質的なレベルでは低いと見ている。もちろん、表面的なレベルにおいては、非常に高い。

 僕が不思議なのは、どうしてこの程度の作品で人が満足するのか、という事だった。これくらいの作品でどうして多くの人はああも満足できてしまうのだろうか。また、それと関連する事だが、自分の関係する「文学」の領域では毎年、似たような作品が輩出される。多くの新人作家、作家志望、プロの作家、と呼ばれる人が、どうしても似たような基盤で書いているように見えて仕方なかった。

 そこで、考えを変えてみると、そもそも、現代社会、デモクラシーと消費資本主義が基礎となった社会には、芸術作品を規定するものが「大衆の意向」にしかない、という事がわかる。「売れれば勝ち」「どうやったら作家になれるか」「どうやったらランキングに乗るか」「どうやったら稼げるか」という事が問われ、芸術とはそもそも何かという事はあまり話題にならないのは、芸術が社会から独立して存在しているものではなく、芸術が社会に従属しているものと考えればわかりやすい。そこで、この社会において最も強大な権力を握っているのは、消費者という事になるだろう。

 素人もプロも含めて、クリエイターと呼ばれる人達は、無意識的にも意識的にも、消費者の意向に沿うような作品を生み出す。ジャーナリズムも同様で、消費者が望む情報を提供するようになる。クリエイターは消費者から喝采を受け取り、金銭をもらい、自分の生活を良いものにする事を望む。一方、消費者は自分達を楽しませるもの、面白いもの、わかりやすいもの、あるいは自分達を肯定してくれるもの、を好む。そこでは、一種の互恵関係が築かれる事になる。

 さて、この関係は今の所全く問題ない、よい関係のようにも見える。しかし、もう少し考えてみよう。

 アダム・スミスは、社会ー経済的な人間を二つに分割した。一つは「弱い人」であり、もう一つは「賢い人」である。「弱い人」は「世間一般の評判を重視する、うぬぼれや野心を持った人間」であり、「賢い人」は「自分の中にいる『偏りのない観察者』にしたがって、公正で醒めた判断と行動ができる人間」だ。この場合、現在に満ちているのは「弱い人」であり、「賢い人」ではないという事になるだろう。(アダム・スミスは「弱い人」にもある役割を認めているのだが)
 
 芸術という領域において面倒な事の一つは、『評価』というものが難しいという事にある。死後に評価された芸術家というのはザラにいるし、随分長い間歴史に埋もれていた芸術家もいる。彼らの作品は同時代に正当に評価されなかったが、後になって人はその価値に気づいた。そう考えると、歴史に本当に埋もれてしまった芸術家も沢山いるだろう。

 芸術という分野では、『売れているから良い』という事には直ちにはならない。『価値』というのは発見するのが難しい。それは、発見する側にも、ある力量を要求するからだ。しかし、現在の消費者意識は、自分が価値を発見する側だとは考えない。彼らは主体的に価値を発見しようと努力は(ほとんど)しない。彼らは常に消費者であり、受動的に、自分の人生において娯楽となってくれる享楽物をただ待ち望んでいる。

 そしてこの事は社会体制とぴったり一致したスタイルである。多くの人に受け入れられる作品がもっと大きな経済的利得を得る事ができる。当然、芸術家、クリエイター、アーティストと呼ばれる人はそうした領域に殺到していく。こうして多数の、プロ、アマチュアのアーティストが生まれるが、それはそもそも消費者の限界に合わされたものであるから、それ以上の高い質は望めないし、仮にそんな質があるとしても、それはこの社会ではそもそも求められていないものだという事がわかる。

 そういうわけで、僕は、現在において、優れたクリエイターであろうとすれば、どうしても世界から孤立しなければならないと考える。

 これを文学の話に戻してみよう。自分は最近の文学というのは、そもそも古典との繋がりがないのではないかという気がしている。羽田圭介とか綿矢りさとか、そうした人達でもいいのだが、彼らが古典文学や、あるいはその他の文学以外の領域と繋がっているという感じが感じられない。これもトクヴィルが指摘している事だが、デモクラシーの社会においては人は「現在に閉じこもる」。文学という領域において、例えば、芥川賞や直木賞を取りたければ、別にドストエフスキーやゲーテやソポクレスやアリストテレスや小林秀雄を読む必要はない。そうした賞を取りたければ、それこそ綿矢りさや金原ひとみや、せいぜい遡っても村上春樹や村上龍で十分だという事になる。そしてそれで特に不足はない。何故ならそもそもの目標が、文学という大きな目標ではなく、単に自分の作家デビュー、賞の獲得、またはベストセラーという事になるから、古典を特に読む必要はない。また、文学以外の世界を学ぶ必要もない。効率性、合理性という事を念頭に置くのであれば、そうした面倒臭い事を読んだり考えたりする必要はない。また、仮にそれらを読むにしても、彼らはそれを「自分達の世界とは別のもの」という態度で読む。古典を古典というカテゴリーに入れ、それらを商売に使ったり、引用してみせたりもするかもしれないが、それらが本質的に何であるか、とは考えない。考える必要がないから考えない。

 これを消費者の立場で見ても、同じ事だ。彼らは自分を楽しませる作品を望む。自分が面白いと思える作品を望む。そして彼らは面白くなければ「作品が悪い」と考え、それらを拒否する。こうして世界はある閉じたループに陥っていく。この世界は多くの消費者とそれに資する者との間の互恵関係で閉じていく。こうした世界ではベストセラー作品は非常に高く評価される。僕は「君の名は」や「シン・ゴジラ」が高く評価されているという事実は、それらの作品の価値を語っているのではなく、消費者が自分の価値観こそが世界にとって正当なものであるという、権力の誇示だと理解している。消費者側の価値観が世界の価値観とぴったり一致するという事実を示すには、大ヒット作がメディア含めて称揚される必要がある。この称揚により、人々の価値観は勝利を得て、それに合わせたクリエイターが勝者となる。

 この話から、もっと大きな政治の問題なんかに伸ばしていくのも可能なのだが、それはこの文章の趣旨ではないのでやめておこう。この文の結論としては平凡だがーーいずれの時代においても、優れた芸術家、思想家は、世界と孤立した系を持たざるを得ないという事だ。僕は、未来とは孤立の中に存在すると考えている。孤立、引きこもり、異端者、反抗者、そうした存在がない社会は純粋に空間的な世界であり、全てが一つの論理の中に溶けていくような場所だ。この開けた場所では時間というものが存在する事ができない。時間というものはおそらく、異質なものを包括していく所にある。全てが自分達の価値観に準拠した作品では、同質的なものの連続となり、次第に我々は倦怠していくだろう。自分が幸福になりたい、と人が望む時、その幸福の基準については自問しない。伊藤計劃「ハーモニー」のラストにあるように、全ての人が同質の論理、感情、意識の中に溶けていく事はきっとさぞ快い事だろう。そこには時間は存在せず、あるのは全き空間性だけだ。その時、世界は終わるのであろう。時間とは異質なものと接続にある。そこで人は、自分の価値観の外部にあるものを不快な感情と共に認めなければならない。本当に優れた作品というのは、我々の感覚にとって心地よいだけではなく、不快な、醜いものを含んでいる。何故なら、それらは我々の欲望の具現化ではなく、我々の「存在」の具現化だからである。




 ※ この文章の趣旨とは矛盾するようですが、伊藤計劃に関する論はネット上のものは削除してアマゾンのパブリッシャーで有料で売ろうかと思っています。ネット上で無料で公開していてもあまり広がりも感じないので、そっちを試してみたいという感じです。

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 ドストエフスキーの「心に染み入る言葉」・「他者性」について



 ミハイル・バフチンドストエフスキー作品内の「心に染み入る言葉」というタイプの言語を次のように規定している。

 「確かに、ムイシュキンは、ドストエフスキーの構想通り、初めから『心に染み入る言葉』の持ち主、つまり他者の内的対話の中に積極的に、自信を持って入り込み、その他者が自分本来の言葉を自覚するを手伝ってやることのできる言葉の持ち主である」

 ここでは「白痴」の中のムイシュキンについてしか述べられていないが、以下の文章では「心に染み入る言葉」という定義を僕なりに自由に展開し、論じていく事にしたい。したがって、バフチンの意図とは外れた話にもなるだろうが、バフチンの言葉をきっかけとして考えていく。

                          ※

 「心に染み入る言葉」のバフチンの定義とは上記にあげたようなものだ。この事を言い換えると、他者の無意識的応答それ自体に対して語る言語…と考えられる。これは例えばアリョーシャが兄イワンに対して言う
 
 「父さんを殺したのはあなたじゃない」

 という一語だ。この言葉はイワンの中の内的葛藤『それ自体』に向かって述べられているのであり、イワンその人に対して述べられているのではない。アリョーシャはイワンの奥のもう一人のイワンに話しかけているのであり、表面的なイワンに話しているのではない。(これは以前にも指摘した覚えがある) だから、アリョーシャは『表面的なイワン』にその後、拒絶されたとしても平気でいられる。「本当の兄さん」は「表面的な兄さん」とは違うという事をアリョーシャはよく知っているから。

 ここで、自分が注意しておきたい事がある。『心に染み入る言葉』を発する権利がある人間とは誰か、という事である。自分のイメージでは、それを発せられるのは『聖職者』である。例えば、それは悪霊のチホン、カラマーゾフのアリョーシャ、また、聖職者ではないが聖人気質のムイシュキン、などである。ここに付け加えるなら、罪と罰のポルフィーリィを上げてもいいかもしれない。ポルフィーリィは聖職者、聖人ではないが、人生の普通のコースを外れた、独身で将来のない人物として描かれていた。

 こうした事を上げて僕が何を言いたいかというと、人生において真実の言語を発する権利を持つ者は、世俗の論理にまみれていない人間だ、という事だ。世界というのは世俗の論理、世俗の人々で溢れている。ドストエフスキーその人も世俗の論理、世俗の意識を持っていた。しかし、世俗の論理、世俗の体系の中を泳いでいる人ににはその奥にある真実を語る事ができない。世俗の内部の、その奥の「真実」を語る権利があるのは、世俗の論理から外れた「聖職者」である。(ここで、「聖職者」という言葉を自分は非常に広い概念として象徴的に捉えている)

 話を拡大する。アメリカに、エリック・ホッファーという優れた哲学者がいた。ホッファーという人はアメリカ内部を放浪者としてうろつきつつ、日雇い労働をしつつ動きまわり、その過程で図書館で本を読んで自分の哲学を作り上げた哲学者だ。ホッファーの自伝を読むと、彼の生活というのがよくわかるし、彼の、誰とでもうまくやっていける、という感じの人柄の良さも感じられる。
 
 それで、ホッファーが好きな本の中にドストエフスキーの「白痴」がある。ホッファーは「白痴」を毎年読む事にしていたそうだが、僕にはどうしてホッファーの好きな本が「カラマーゾフ」や「罪と罰」ではないのかという事に密かに疑問を感じていた。それである時ふと気づいたのだが、自分の思ったのは、エリック・ホッファーという人はどこかしらムイシュキンに似ている、という事だ。

 ホッファーはアメリカを旅した人で、人柄も良く、聡明である。彼は哲学者であるから、彼が出会う世俗の人々の奥に隠された真実もその時々に見ぬく事ができてしまう。しかしそれ故に、彼はーー世俗の人間とはほんの少しばかりズレている。それを感じたのは、ホッファーが、彼を愛してくれる美しい女性と出会った時のエピソードだ。

 ホッファーはある機会でその女性と出会う。女性は女子大生で、ホッファーの事を愛しているし、ホッファーも女性を愛している。しかし、二人は結婚したり、結びつく事はなく、ホッファーの方で、女性の側からの拘束を嫌って逃げ出してしまう。ホッファーはその後も独身のはずだ。
 
 僕はホッファーの恋愛についてどうこう言うつもりではない。ただ、僕はホッファーの姿になんとなく、ホッファー自身が一番好きだった「白痴」の主人公、ムイシュキンの姿を見てしまうのだ。ムイシュキンもまた、地に足をつける事ができず、「生活」という泥土の中に身を委ねられない人物だった。ムイシュキンはナスターシャとアグラーヤの間でどっちつかずの態度を取り、現実的な人間存在として相手を愛する事ができない。彼は、博愛精神でナスターシャを愛するのだが、それは現実とはかけ離れたものだからたとえ結婚してもうまくいかなかっただろう。一方、現実的な恋をするアグラーヤに対しては拒絶してしまう。

 ムイシュキンにしろ、ホッファーにしろ、彼らは世俗の論理に身が染まらないからこそ、世俗の論理の奥にある人間存在について的確な言葉を吐く事ができる。ホッファーは「哲学者」であり、ムイシュキンは「聖人」である。これをもっと拡大してみると、「哲学者」と呼ばれる存在は、世界の中に身を浸していないからこそ、世界とは何かという問いに答えを出せる人々だと定義できるだろう。哲学者は独身が多い、というのは歴史的事実だ。

 「心に染み入る言葉」について戻ると、そのような言葉によって相手の深層に触れる事ができるのは、人間が表層の中に位置づけられていないからこそだと言える。チホンやムイシュキンらは、聖人として、人間の奥にある言語に触れられる。しかし、それは彼らが、世俗としての存在を疎外された故…と考える事もできる。

     
                           ※

 話を戻す。もう一度、アリョーシャの言葉に戻ろう。アリョーシャは、自分が父を(間接的に)殺したのではないか、と葛藤しているイワンに対して

 「あなたが殺したんじゃありません」

 と言った。この言葉はアリョーシャのイワンに対する「心に染み入る言葉」だ。これとほぼおなじ言葉はその後に、悪魔的存在スメルジャコフによってイワンに繰り返される。スメルジャコフもまたイワンに対して

 「あなたが殺したんじゃありません」

 と言った。ここに僕は恐ろしいほどのドストエフスキーの技工を見たいと想う。

 「あなたが殺したんじゃありません」という単一の言葉はアリョーシャとスメルジャコフという違った主体によって、イワンという同一人物に向けられている。この同じ言葉は、アリョーシャとスメルジャコフでは、『全く違う意味』の言語として用いられている。
 アリョーシャの場合、『兄さんは本当に殺していないのだ、仮に兄さんが心のもっとも深い部分で父さんが死ぬ事を密かに望んでいたとしても、「それでも」兄さんは自分と葛藤しており、父さんを本気で殺したいと願ったわけではなかった」というほどの意味で使われている。
 一方、スメルジャコフの場合はこれとは真逆だ。スメルジャコフの言葉は「確かに、あなたは直接には手を下しませんでしたが、あなたは私に殺しの命令をくだされました。あなたはフョードルを直接殺しはしませんでしたが、あなたは私に指示をしました。ですから、殺したのはあなたですよ」というほど意味になる。

 ここでは全く同一の言葉が違う主体によって語られる事により、全く違う意味が付与されているという事態が起こっている。もちろんこの構造は単に技巧的なものとして作られたわけではない。この構造はドストエフスキーが、イワンという人物を解読し、その内面を露わにさせる為に必要とした技工である。この時、アリョーシャはイワンの善良な側面を強調し、スメルジャコフは悪魔的な部分を強調する。どちらの言葉もイワンの中にあったものだ。

 ここで二人はそれぞれ、「心に染み入る言葉」を使っている、と言う事ができる。アリョーシャもスメルジャコフもイワンの言葉など聞いていない。彼らは共に、イワンの奥にある言葉を聞き取っているのであり、その「聞き取り方」にアリョーシャとスメルジャコフの、天使と悪魔との差異が現れてくる。そして天使と悪魔、両方ともがイワンの内面にあったのであり、それはたった一つの言葉「あなたが殺したんじゃありません」という台詞をどんな風に解釈するのかという違いによって、恐ろしく明白に晒されている。

 ここから更に突き進むと、イワンが後に戦う事になる、イワン自身の幻影ーー「悪魔」のイメージとなる。イワンが戦うはめになる悪魔は紳士のみなりをしていて、冷静な口調で話す。それはイワンの中の内なる言語が外化したもので、イワン自身に反抗し、別の存在のようにイワンに語り出す。この時にはもはや「心に染み入る言葉」はどこにも見出されない。イワンは悪魔が彼の心に侵入しようとしてくることに、反抗しようとするのだが、反抗しようとする動作事態が逆に相手の存在を、実在のものとして認める事になる、という厄介な構造を生んでしまう。

 イワンが恐れていたのは、自分の中で隠し通していた言語が明るみに出される事だ。それは、「他者」を通じてなされなければならない。ドストエフスキーに特徴的な事の一つは、小説内において、「純然なる他者」など一人もいない、という事だ。誰しもが相手の顔に、自分自身の相貌を読み取る。しかしそれにも関わらず、ドストエフスキーの小説には、他の小説家と違って圧倒的な「他者性」がある。登場人物はそれぞれ、自分とは真逆の、全く異質な人物を目撃し、それと抗争する事になる。これは、例えば、イワンのような人物にとっては、最大の「他者」とはまさに、彼自身が自分に隠し通そうとしていた、彼自身の姿そのものの事なのだ。つまり、ドストエフスキーの登場人物にとっての「他者」、「他者性」とは、彼自身の内部に秘められ、自分の中にあるにも関わらず、自分にはどうしても発見できない言語そのものの事だ。これは彼以外の人物によって、生きた存在として具現化され、象徴化されなければならない。そして登場人物本人は、隠れた言語である他者と抗争し、あるいは融和することによって自己を成長・完成させてゆく事になるのだ。

 ここまで引っ張ってきて、ようやく僕にも「他者」というものが何であるのか理解できてきた。それは彼が隠し通そうとしていた言語であり、生きた実体として彼の目の前に立ち現れる事だ。普通は他者というのは、ただんに自分とは違う人物の事だろうが、仮に自分と全く同じ趣向の持ち主であるならばそれは「同一者」と呼ばれるにふさわしく、また、単に自分とは逆の立場の持ち主ならばそれは「敵」と呼ぶにふさわしい。ドストエフスキーの登場人物、特に重要なキャラクターに関してはそう言う事はできない。イワンにとって悪魔が敵なのは、悪魔が彼と逆の立場だからではない。そうではなく、それはまさにイワン自身だからこそ、彼はそれに戦いを挑まなければならない。そしてイワンはこの戦いの滑稽さも、悪魔が実は自分の分身に過ぎない事も知っている。知っていて、それを演じるという事に現代の滑稽さがある。この時、彼にとっての他者は己自身に過ぎない。それでも彼には他者が必要なのである。全てが馬鹿らしく、全てが自己の意識内で完結したラスコーリニコフ、イワンのようなキャラクターにもやはり他者は必要なのだ。彼らは自分自身が何であるかを確かめる為に、他者達がひしめく世間に出て行く。その時、世間、世界とは彼らの自己意識の反映であり、この時、この人物は世界と格闘する事によって自己への認識を深め、それによりまた、世界へと帰ってくのである。

 このようにして考えてくると、「心に染み入る言葉」…例えば、チホンのスタヴローギンへの言葉などもまだまだ発展して考える必要がありそうだ。ドストエフスキーの極度に発達した技巧は、「カラマーゾフ」のイワンの悪魔との対話、またここでは扱わなかったが、裁判での殺人事件の解釈の方法などにおいて現れた。ドストエフスキーの技巧は、「心に染み入る言葉」から更に突き進み、自分の隠れていた心そのものが幻覚として現れるという情景となった。そうでなければ、表し得ないほどイワンの内面は複雑だったわけだが、この複雑さは、他者の極限としての同一者ーーつまり、幻覚としての悪魔という個人として現れる他なかった。このような表現法はドストエフスキーから影響を受けただろう数多の作家も、真似する事はとても不可能だと思う。ドストエフスキーの構造の深さはまだまだ探す余地がありそうだが、この論考はここで終わる事とする。

電通の新入社員が過労を苦にして自殺した件を想う

 


 電通の新入社員が過労を苦にして自殺したというニュースを見た。大変痛ましい事件だ。
 
 電通ーー並びに広告業界の問題については別の人が丁寧な記事を書いている。自分は電通の事も広告の事も知らないのだが、ニュース記事から得られる情報だけで、この事を自分なりに考えようと思う。

 まず、過労を苦にして自殺する人というのは、大抵生真面目なタイプの人間だと思う。他人から頼まれたら断れない、何かあったら自分の責任だと過大に思い悩む、上司や会社の中の一員という意識が強く、義務感が強い。

 記事によれば、なくなった高橋さんは、『「お母さんを楽にしてあげたい」と猛勉強して東京大に入り、電通に入社した。』とある。「お母さんを楽にしてあげたい」云々は、心理的な事柄なので今は情報として重視しない。ただ、東大の文学部に入った事は規定的事実だろう。

 努力して勉強し東大の文学部に入り、そこから電通に入ったという事は間違いなくエリートコースだ。しかし、そのコースで、自分自身が厳しく追い詰められた時、そこから「脱線する」という道を彼女は選びとる事ができなかったのだろう、と自分は思う。

 また、彼女が死んだ場所というのは「電通の女子寮」だったらしい。女子寮に住み、会社と寮との往復ばかりだったとすれば、そこ以外に居場所がないという圧迫感も強かったのだろう。

 現代において組織が個人を純粋な「手段」とみなそうとする時、大抵組織は個人の居場所を奪う事から始める。奪われるのは心理的な場所で、組織に属していると次第に、「そこにしか自分の居場所はない」という感覚に陥っていく。そこから、仕事をやめる、脱落、仕事を放り出す、という行為に走るのは簡単なように見えて実は難しい。精神はある習慣性を持っているので、この習慣性を利用し、人間を組織に所属させれば、ある程度組織は人間を自由に使う事ができるようになる。多分、たいていのブラック会社、独裁企業ではこのように、人間を組織に属させる事に注力しているはずだ。その為には、本来は必要のない仕事も個人に過大に負わせる。「お前がいないと駄目なのだ」という脅迫感を与えていく。

 ましてや、この人物は東大に入った後電通に入っている。自分のような落ちこぼれが思うのはーーこうした、システムの階梯を順当に上がっていった人物は、そこから脱落する術を知らない、という事だ。この人物の周囲を毒すつもりは毛頭ないが、こういう時、大抵、周りの友人、親、彼氏などは助けにならないと思う。何故なら、友人、親、彼氏と呼ばれる人は大抵(もちろん例外もあるが)、彼ら自身も社会的な存在として自分を規定しており、彼らに話をしてみてもきっと「死んじゃあだめよ」とは言ってくれるかもしれないが「思い切って会社を逃げ出してしまえ」とは言えない。東大を出て、電通に入ったのに辞めるのはもったいない、と大抵はくる。彼らもまたそうした社会的存在として自分を規定しているから、社会的な死というものを恐れる。それで、「死んだらよくない」とは言えても、「社会的に死んでも人として生きている方がマシ」とまでは言えない。そこまで思い切りがつかない。

 状況として振り返ると、東大卒、電通入社、体育会的な長い労働時間、女子寮住みで帰る場所も会社の手の中…と考えていくと、この人物が追い込まれた時に、どこにもいく場所がなくなってしまう。僕の考えでは…彼女は寮から飛び降りるのではなく、泣き叫ぶべきであったのだと思う。自分は組織の中で無造作に押しつぶされようとしている。馬鹿げた広告やら何やらの為に、自分のただ一つの命は死んでいってしまうのだと…そう泣き叫ぶべきであった。自分にばかり責任を背負い込むのではなく、その責任を押し付ける人々を強く憎むべきですらあった。

 こういう時に、世論というのは、「電通が悪かった」「広告産業が悪い」という一般的な論調で切り抜けようとする。しかし、東大卒で電通に入るというのが誰しもが羨むコースであると我々が想定しているという事は、「それから外れたコースには大して価値がない」という裏面の答えも常に用意されている。だから、こういう時に世間の人間に相談したところで「会社やめちまえよ」という答えは聞かれない。「もう少し頑張ってみれば」「無理は良くないよ」「死なないで」とは言うが、別に具体的なコースは示してはくれない。この閉塞した状況の中で行くべき場所がないとすれば後は自殺しかないという事になってしまう。

 自殺した彼女は、僕の考えではーーもっと落ちこぼれるべきであった。人としての生の方が、社会としての生よりも大きいのだという事をもっと信じるべきだった。生きていればいくらでもやり直しはできるのだと、高貴な死より卑俗な生の方が良いのだと考えるべきだった。社会という運転機械が個人を歯車のように扱い、歯車に対しては石ころの程度の価値を認めないにせよ(そんな人々があふれた組織の中でも)、自分の魂は自分一人しか持っていないのであり、これは大切なものだとーーそう怒鳴るべきであった。

 しかし、彼女はそうする事ができなかった。おそらく彼女はーーどんな人か知らないがーー、生真面目であり、社会の義務を信じ、組織の中の自分を信じて、世界を信頼していた。世界のあり方を信頼していたからこそ、その歯車が壊れた時、彼女には逃げ出す場所がなかったのだろう。そんな風に自分は考える。

 僕の考えでは、死んだエリートよりも、生きているホームレスの方がまだ良い。もちろん、人は「生きているエリート」の方を選びたいだろう。しかし、そうした考えでは、自分の生死が、社会的地位と秤にかけられた時、どちらを取ればいいのか判別がつかなくなる。現代社会は人間が生きている像を、マスメディア、ネットを通じて作り上げようとしている。するとこの像から外れた人間はまるで生きている価値がないかのように扱われてしまう。

 人間はどこででも生きる事ができ、それは死んでいるよりはマシなのだーーと僕は思う。それはあるいは、僕が単に落ちこぼれた底辺の人間だからかもしれない。しかし、人間が生きているイメージというものが仮構され、そのイメージが社会により、会社により、周囲の人物によって強要された時、イメージと自分が外れてしまえばその人間はもう生きていく事ができなくなってしまう。この一件を僕達はきっと「電通が悪い」「会社の配慮が足りなかった」という風に片付けてしまう事だろう。ただ僕個人はそういう事でーー自分の内部ではーー終わらせたくないと勝手に思っている。こうした事はシステムのあり方と、個人の存在の矛盾としてこれからも続いていく事だろう。この時、システムと完全に同化した人間は生涯に渡って、自分の存在にも他人の存在にも気が付かない事だろう。

 おそらく彼女は死ぬべきではなかったし、死ぬ必要もなかった。そうなる前に彼女は、上司に髪を振り乱して抗議すべきだった。会社で泣き叫び、自分は単にシステムの中の駒ではない、自分は単なる機械の一要素ではなく、生きた人間なのだと証明すべきだった。人間というのがただ単に「成果」や「利益」を上げる為の道具ではなく、生きた固有の存在だと示すべきだった。その為には夜中に一人で逃げても良かった。何もかも捨てて、恥ずべき姿で逃げても良かった。おそらくは彼女はあまりに生真面目で、世界に対して抗議できず、怒る事ができず、恥ずかしい姿を晒す事ができなかったのだろう。こうした事は繰り返してはならないがーー必ず、こうした事は繰り返されるだろう。自分が思うのはこうした時、人は「生きなければならない」という事である。そして人は生きる事を選択するのであれば、まだ恥を晒している方がマシである。社会が、世界がどうなろうと知った事か、という気構えがあれば彼女は死なずに済んだかもしれない。この事件は非常に残念な事だ。世間は「電通は良くない」という一般的な台詞でこの事を片付けるだろうが、本当に問題になっているのは、それ以上の事だ。人間というのはシステムの中の駒に過ぎない産物ではない。人はシステムの内部で「幸福」になる事を目指すが故に、この幸福を奪われる事を怖れて、システムの言いなりになる。もちろん、我々は社会にある程度つくさなくてはならないが、個人の魂まで吸い上げる社会や会社組織などに、自分を奉仕する必要はない。その会社の株式がどれほど高かろうとーー我々は人間としての生を生きなければならない。自分はそんな風に思う。この件ーー電通の新入社員が過労で自殺したという件に関しての感想はこれで終わりとしたい。しかし類似の事はこの先も続くだろう。そしてそれはきっと僕達自身の(被害者として、加害者として)問題でもあるのだろう。

 流れる物語としての「私」の物語



「私…とは円環する物語、まとまりのついた、言葉の羅列であろう、と思う。私は過去と現在、あるいは未来を行き来する、一つの言葉としての時空体ーーそんな言葉があるとしてーーだ。

 人間は言葉というものを発明して、それによって「他者」を創造した。その時、同時に「自己」も創造した。厳密に考えれば、「私」も「あなた」も言葉によって区別され、定義されているにすぎない。

 バタイユは「エロティシズム」とは、それぞれの孤立した存在が、連続体へと還元する方法だと考えた。しかし、私はこの考え方に異を唱える。これらはあまりにヘーゲル的な考え方であり、私はそもそも、孤立ーー連続というのが単に言葉による概念の差異に過ぎない、と考える。確かにエロスによって人は連続的な過程に還元されるかもしれない。性行為において私達はある恍惚を感じるかもしれない。宗教家の祈りの中に、世界と一致する美しい瞬間があるかもしれない。

 しかし、そんな事がなくても、私達は既に「私達」であると同時に「私」「あなた」でもあるような何かなのだ。「私達」は鏡を見て、鏡に映った私を「自分」と考える。しかし、自分ととなりに映った化粧水の瓶を分けるものは一体なんだろうか? それは「言葉」であり、私は本来、繋がっているとも、繋がっていないとも言えない何かなのだ。私達はどこにも帰る必要がないし、どこにも行く必要もない。私達はどこにでもいるとも言えるし、この世にある定点としてあるわけでもない。それらは言葉ーーしかし、この「言葉」も単に、私達にとってはやはり「コトバ」に過ぎないのである。私は今、語りえない事を語ろうとしているのだろうか?

                          ※

 最初、私は自分の事を「物語」「言葉」だと言った。それは実際、そうなのだ。とはいえ、別に私は「肉体」という機械から開放されたわけではない。私は原初の人間が最初の一語を発した段階から既に開放されていたのだ。

 私の中には無数の過去、対話、データベースがある。私の中には、アリストテレスの「詩学」における芸術の定義があり、ドストエフスキーの人間分析があり、シェイクスピアの情念と理性の分裂がある。マルクスがヘーゲルから受けた影響は私の一部を形作っており、ブッダが菩提樹の下で悟った事柄も、アインシュタインがヒュームから受け継いだ理論も私の言葉の、物語の一部を成している。

 カントがヒュームから受け継いだもの、ウィトゲンシュタインがショーペンハウアーから受け継いだもの、あるいはスティーブ・ジョブズが大学生の時に「書道」の授業を受けた事が彼の製作に役に立った事…これらは全て大きな知性の川を流れていく物語の中の破片である。そして私もまた、物語のほんの一部に過ぎない。

 この物語は言語として過去から現在、未来へととうとうと流れていく。語られた言葉、印刷された言葉、プログラムの言葉、内面で発話された言葉、決して語られる事のなかった言葉、『あなたに触れる』という見えない言葉…これらはとうとうとして河の如く、流れていく。

 ただ、流れていく。何もかも大きな雄大な、流れとして。

 そこで私は生きている。私はこのようにして生きている。私は言葉として生きているのだ。その事を……今思う。

 この人生の終わりに。

 それでは、みなさん。さようなら、また会う日まで。私は現実においては何者でもなかったが、私の物語、言葉は大きな河の中の一滴ではあったはずだ。それでは、みなさん、さようなら。言葉は…何も語らなかった。…いや、言葉は全てを語ろうとして、まだ何一つ語りえないのだ。私はこの河の一部へと消えるだろう。

 それでは、みなさん、さようなら。

 最後に、ありがとう。

                                                    」
    
                          ※

 …上記のテキストは2016年、10月8日、十三時二分にネット上に投稿された。本テキストを書いた人間は、病床にあった無名の物書きだった。彼はアマチュアの作家として活動しており、その活動はほとんど知られる所はなかったが、彼は旺盛に活動していた。
 2012年頃、彼は全身が癌に犯されている事がわかり、入院生活を送る事となった。上記のテキストはこの人物が残した最後の文章である。彼は本テキストを書いた翌日に死んだ。彼は生涯、無名の物書きだった。しかし、彼は自分が過去からの大きな物語の一部である事を知っていた、偉大な物語作者だった。なお、彼の残した遺稿のいくつかは、鳥星社から出版される事となっている。


                 (伊藤計劃さんの事を調べていてイメージが湧いたので書きました。)

渋谷の坂道でスマートフォンが壊れた話




 とある小さな機械がこの世に現れてから、人間は地面を見て歩かなくなった。人はいずれも、「スマートフォン」と呼ばれる小さな端末を通じてしか、世界を見る事ができなくなった。
 人間の目は機械の目に移り変わり、人間は幻想を通じてしか、世界を見る事ができなくなった。彼らから本物の視力は失われ、代わりに精巧な義眼が備え付けられた。
 人は人と会って話す時も常に、「スマートフォン」と呼ばれる端末をいじり、その中を覗き込み、そこで起こる事に一々反応していた。外に出る時も人と会う時も家にいる時も、「スマートフォン」がなければ何もできないのだった。
 人はまるで様々な刺激を、機械を通じて与えられなければ何も出来ない単純なロボットのようなものに変じた。誰かが真摯に自分の哲学を話しても誰も信用しないが、「スマートフォン」から…その内部からもたらされた情報はいともたやすく信じるのだった。
 こうして人はもはや、地面を見る事なく、画面だけを見て生きる事となった。人の生は、「スマートフォン」という画面の中にあるものとなった。

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 ここに一人の人間がいて、彼もまたスマートフォンを片手に歩いていた。彼は渋谷の坂道を歩いていた。雨が降っていて、道はぬかるんでいた。
 彼は今、仕事の取引先に向かっていた。左手に傘を持ち、右手にはスマートフォンを持っていた。彼はいつもスマートフォンを最新式のものに取り替えていた。その事を職場の同僚に自慢してもいた。
 彼は今、地図を見ながら歩いていた。取引先まではすぐそこだった。
 だが、しかしーーー彼は急に転んだ。渋谷の急坂、雨でぬかるんだ道、両手が塞がった状態など、複合的な状況が生み出した転倒だった。彼は盛大に転び、傘を地面に落とした。スマートフォンも強く地面に打ち付けてしまった。
 彼はすぐに立ち上がった。慌てて、傘とスマートフォンを拾う。周りを歩いている人間は一瞬歩みを止めて彼を注視したが、ただそれだけだった。彼は起き上がり、「あいてて…」といいつつ、片手のスマートフォンが壊れていないかどうか、見てみた。
 スマートフォンの画面にはヒビが入っていた。彼は絶望しながら、電源ボタンを押したが、スマートフォンは点かなかった。彼は更に絶望した。彼はその時にはもう仕事の取引先の事は忘れていた。
 彼はそこらにある建物の陰に入り、座り心地の良さそうな階段に腰掛けた。彼はそこでスマートフォンをいじって、なんとかもう一度復帰させようと思ったが、いくらやってもうまくいかなかった。彼はほんの一瞬の内に起こってしまった出来事がなんであるのか、想起しないわけにはいかなかった。彼は自分が「転んだ」事を後悔したが、後悔しても仕方のない事だった。
 いくらやってもうまくいかないので、彼はスマートフォンの再起動をとうとう諦めた。それは壊れてしまったのだ。もう戻らないのだ。そう考えた時、彼はふと、前方を眺めた。手持ちの機械を置いて、肉眼で世界を見てみた。
 そこには渋谷の街を歩く大勢の人々がいた。驚く事には、それらの内の実に多くの人が片手にスマートフォンを持ち、画面を注視しながら歩いていた。
 彼はこの光景に驚いた。誰も、誰一人として現実を見ていない。それは驚くべき事だった。これだけ大勢の人がいるのに、誰も現実を直視できていない。誰しもが画面の中の世界しか見ておらず、目の前の物事を見ていない。
 人間達はいつの間にか幻想の中に生きる事が通例になっていて、その事に気づきすらしない。あらゆる幻想形態は、「技術の進歩」という美名の下に正当化され、人間はいつかテクノロジーの支配下に置かれる存在となってしまった。彼は、自分が「新しい機械を買ったから」という事で、優越感を保持していた事を思い出した。では、自分は結局機械とテクノロジー以下の存在だったというのか? …きっと、そうには違いない。
 しかし、彼のそんな眼差しも長くは続かなかった。彼は取引先に向かわなくてはならない。今日の商談をすっぽかせば、会社に迷惑がかかり、自分の地位も危うくなってしまう。
 幸い、取引先の地図は紙媒体の形でも持っていたので、その事で問題はなかった。彼は内ポケットから、取引先までの簡便な地図を取り出して見た。
 彼は立ち上がり、歩き始めた。片手には紙の地図がある。雨は降り止んできたので、傘は差さなかった。彼は今、自分が見た光景に思いを馳せていた。誰も現実を見ていない、誰もが片手の中の画面を食い入る様に見入っている、誰もが世界の中におらず、もう一つの違う世界の中に吸い込まれている。これは異質な事ではないのか、これは本来、不思議な事ではないのだろうか? 誰もが世界と自分との間にある隔たりを感じず、誰もがごく自然に、「何か」に支配されている。言葉…画面の中の言葉や映像や音楽が我々の現実に対して指示し、支配し、そこで認められなければまるで自分は存在しないかのような感じがする。事実、スマートフォンが壊れるという事は、自分という存在の大きな機能が壊れるという事を意味している…。
 彼は珍しく、そんな哲学的思考を進めてみたのだが、その思考も長くは続かなかった。彼はただ歩いているだけでは退屈に感じ始めて、そうしてやはり、スマートフォンが自分には必要な事を感じたのだった。(そうだ、どうしてもスマートフォンは必要だ。これがないと仕事にならない。早いところ、修理か、交換をしてもらわないと。明日は休みだから、ショップに電話をかけて、どうにかしてこよう。これがないとどうにもならない。それに、スマートフォンがなければ退屈だ…)  彼はそんな風に考えつつ、取引先までの道のりを歩いた。彼にはやはりスマートフォンは必要なのだった。そして他の誰彼にもそんな世界が必要だった。彼はその事を痛感した。
 彼が取引先のビルにつき、中に入ったあたりから、また雨がぱらつき始めた。雨は人々の思惑を無視して降り始めた。人々は画面が濡れるのを嫌がって、傘を差したり、屋根のある建物の陰に入ったりした。
 人々が画面を注視している中、雨はそんな風に渋谷の街に降っていた。雨はまるで、自分だけがごく普通であるかのようにーーそれだけが自然であるかのように、降り続いた。人はそれを、スマートフォンの画面越しに、「雨の情報」として受け取った。目を見開いて、雨の存在自体を直に見る人間は、沢山の人が息づいている渋谷の街には、ただの一人もいないのだった。


 〈渋谷の坂道を歩いてたら転んでスマートフォンを壊してしまいました。その事に自分で腹が立ったので、このような掌編を書きました。これだけ読むと、僕が文明否定論者のように見えると思いますが、実際にはそんな事もないです。「スマホ壊れちゃったよ、クソ!」という気持ちを構造化しようとして書いた作品で、僕個人はスマホ否定者という事はありません〉


 村上春樹、カフカ、ドストエフスキー、セルバンテス、夏目漱石の現実との接続について 


 文学という領域では、メタファーという事が重要になってくる、と最近考えていた。ただ、このメタファーというのはいわゆる「暗喩」ではなく、作品全体が現実と何らかの関係を結んでいる、という意味なので、本来は「象徴」とか「アレゴリー(寓意)」と言った方が正確かもしれない。しかし今は、メタファーという言葉を拡張して考えていこうと思う。ここで使われるメタファーというのは「現実の象徴」という意味だと思ってもらいたい。

 例えば、村上春樹作品を「拡張されたメタファー」という観点から考えてみよう。僕の感じでは、村上春樹作品は「ねじまき鳥クロニクル」までは、彼の作品の物語の構造は現実の象徴、メタファーとなりえていた。彼の作品の物語的な構造が、高度資本主義的な世界で、人間達が織りなす文明の謎、不可解さというものと必ずリンクするようなっていた。

 これは吉本隆明が言っていた事だが、村上春樹の作品では、充足した高度資本主義、輸入されたアメリカ文化に対する「疑い」が作品の構造を成立させていた。「ダンス・ダンス・ダンス」の最初では、主人公の「僕」が、ティーン・エイジャーから小銭をふんだくる為に歌われたバンドミュージックに対する毒舌が現れていた。物語の最初にそれが出てくるというのは特徴的な事で、そうしたものに対する疑いが、主人公を世界の構造とは外れた(実は世界の構造の内部にすぎないのだが)もう一つ別の世界への冒険の契機となる。この物語の作り方は僕は優れていると思う。

 …とはいえ、村上春樹の作品にはある限界がある。それは、「ダンス・ダンス・ダンス」では主人公の「僕」が結局の所、スタートするのも帰ってくるのも、村上春樹自身にとって母胎のように感じられているある世界観であって、村上春樹はどうあってもこの世界観の外には出ない。この世界観とは多分、八十年代の日本の雰囲気であって、それは友人とバーでビールを呑んだり、自分が「寝たい」と思った女とはなんとなく優雅な雰囲気の中で「寝れる」ような世界である。

 村上春樹の他の作家では、村上龍をのぞけば、大抵、そもそも世界に対する疑いも抱いていないので自分は非常に物足りなく感じるわけだが、世界に対する疑いを抱いている村上春樹でも、上記のようにある限界性を感じる。では、この限界性はどのように表出されたのだろうか。僕はそれを、「海辺のカフカ」以降の、作品の現実からの遊離、つまりは単なる「お話」を紡ぎだす人になってしまったという事実に見ていきたい。

 ここで話を「メタファー」に戻す。…海辺のカフカでは、作品内で、化物を倒すシーンが出てきたと思うが、今振り返っても、化物を倒すという事は、それ自体何のメタファーにもなっていないと感じる。友人の手回しオルガン弾きさんが指摘していた場面で、イワシが降ってくる場面があったが、それもおそらくは何のメタファーにもなっていない。ここでメタファーになっていないとはそれが現実と接続していないという意味だ。

 こうした事で何が言いたいかというと、村上春樹が自分の中に持っていた、現実分析装置が時代が変わるにつれて機能しなくなっていったという事だ。世界が、八十年代の日本を大きく外れて、別の世界に変わっていくに連れて、分析は機能しなくなっていった。それにつれて村上春樹の作品は現実を遊離して「お話」を書くようになっていった。村上春樹は形式的なレベルでは技術を高めていっているだろうが、作品内の深い構造のレベルにおいては、作品の精度を高めていっているとは言いがたい。

 村上春樹とくらべて、例えばカフカを例に取ってみよう。カフカの作品というのはどれほど幻想的に見えても、常にカフカ自身の宿命と接続している。カフカの世界との間のごわごわした違和感、自分がそこになじめないという感覚、その感覚をカフカは絶対に手放さない。カフカ自身はそうした運命にうんざりしていただろうが、文学者としてみる時、カフカの作品を現実に接続させているのはその違和感である。カフカは、世界に対する異質物としての自分を手放さなかった。カフカの作品がアレゴリー・メタファーとして機能しているのはカフカが自身の違和感を手放さいなからであり、カフカは自身の宿命を通じて絶えず現実と接続していた。だからカフカの作品は現実に対する逃避としてのフィクション作品ではなく、あくまでも優れた文学作品として論じる事ができる。

 これに比べると村上春樹作品は確かに精妙に構成されたそれなりのスケールの世界ではあるものの、彼の作品は最初から作者にとってある気持ちの良い世界、優雅で快適な世界を目指していた。もちろんそうはいっても、その快適で優雅な世界にそれなりの意味、実定性があったのだ。しかしその実定性は「ねじまき鳥クロニクル」までで、それ以降は現実と接続する事も少なくなっていった。

 これらの事を総体として考え、今、ある程度の答えを出してみよう。つまる所、文学作品は何らかの形で現実と接続している事が求められる。この場合、「いや、想像力は無限だ、自由だ」という人がいるかもしれないが、カント哲学を想起してみれば、それは嘘だという事がわかる。我々は我々の世界の「外」を思考しうるが、その「外」も実は内側の世界を延長したものに過ぎない。「1+1=2」というのは我々の直感と一致するが、「1+1=3」の世界は想像する事ができない。「1+1=3」は正しいと言い張る事はできても、その「正しさ」がそう言い張っている人間の直感と一致する世界というのは、この世界に生きている我々には想起しえない。だから、我々は「1+1=2」が「正しい」(本当に正しいかどうかはわからないにせよ)として生きていく他ないのである。ここで想像力は限界線を引かれる。

 想像力はこのように限界を引かれるだろう。この時、SFもリアリズム文学も同じ、「文学作品」というジャンルに混合されるわけだが、それで構わないと自分は考えている。ではこの文学作品と呼ばれるものはなんだろうか。アリストテレスは文学というものを「一個の人間の人生を描く事によって人類全体の人生を象徴的に描き出す」のように定義したのだが、アリストテレスの定義は現代にも通用するのではないかと思う。アリストテレスの定義を村上春樹に適用してみると、海辺のカフカ以降の作品は人間全体を象徴する事を止めて、単なる文学作品という形式性の中に入っていったという事を意味する。

 こうして考えていくと、文学作品というのは常に現実と照応した、イデア的なものだと考える事ができるだろう。漱石やドストエフスキー、トルストイのような偉大な作家の作品は最初から最後まで現実に対して開かれていた。それは「海辺のカフカ」以降の村上作品とは違うタイプのものであって、村上春樹がいかに形式的に漱石・ドストエフスキーから学ぼうと、文学作品の根底的な構造において村上作品はドストエフスキーとも漱石とも異なっている。ドストエフスキー・漱石・トルストイ作品で物語性が現れるのは、現実に対する逃避や、現実の我々を心地よくさせ、読者を楽しませるためではなく(そういう目的もあったかもしれないが)、あくまでも現実に対する分析の延長線上の事だ。現実とは何かという問いに対してそれと葛藤し、それを越えようとする時にある物語のパターンが現れてくる。後代の作家がそのパターンにのみ目をつけ模倣すればそれなりの優れた作家にはなれるだろうが、セルバンテスやドストエフスキー、トルストイ、漱石のような大きな作家にはなれないだろう。彼らが偉大な作家なのは、彼らの作品が現実を観照し、なおかつそれを越えようとする事自体が、物語内部で主人公が運動していく過程として描かれているからであって、単にそういう形式性を生み出したからではない。

 それでもう少し付け加えるとすれば…カフカの作品は現実に対する照応やメタファー概念として考えられる。それは現実に対するカフカ自身の意識の構造化として認識する事ができる。しかし、カフカは現実と自分とを、極限的に、いわばセルバンテスのように対比的に作品内部に取り込む事はできなかった。カフカの作品が幻想的なのは、彼が幻想の外側にある現実を作品内部に取り込めなかったからだ。現実は幻想の外部にあって直感されてはいるが、内部に取り込めてはいない。これを取り込んだのだがセルバンテスの「ドン・キホーテ」であり、だから「ドン・キホーテ」の主人公は悪夢を背負ったまま現実を通行する。こうして考えていくとドン・キホーテという主人公はカフカの悪夢…カフカの作品全体を脳髄に宿したまま現実と戦う物語であり、カフカよりも一段大きい構造を持っていると言える。同じ事はドストエフスキーの「罪と罰」にも言える。時代が違うので本来単純比較できないのだが、無理に比較するというそういう点でカフカーーセルバンテスは物語の構造が大きく違うと思う。

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