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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

批評 アルチュール・ランボー

http://p.booklog.jp/book/110133/read

ランボー論です。小林秀雄のランボー論から一歩も越えていないのでお蔵入りにしようと思ったのですが、なんとなく公開する事にしました。批評というよりは散文詩として読んでもらえるといいかと思います。

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「シン・ゴジラ」に欠けていると思う部分 (ネタバレあり)

 映画「シン・ゴジラ」を見てきました。ネットでの評判がかなり良く、また監督も庵野監督だったので、(かなり良い作品なんだろうな)と思い、友人と一緒に見てきました。感想を一言で言うと「騙された…」というものです。

 これから作品内容について覚えている限り、簡単に分析してみますが、正直、分析するような事もあまりありません。僕はどちらかと言うと、「シン・ゴジラ」がどうしてここまで(やたらと)評価されたのか、という事の方が分析に値する気がします。その話を先にすると、ネット上の評価を見て、ふと嫌な予感がしました。「シン・ゴジラ」という作品を一種の日本賛歌的なイデオロギー的作品として見ている人が結構いるのではないか。その事が「シン・ゴジラ」の高評価につながったのではないかという疑念が出てきて、嫌な汗が流れました。

 最初に言っておくと、自分は日本人ですし、日本の事がそれなりに好きでもあり嫌いでもあります。最も、他の国に行った事はないので、はっきり比較はできないのですが。

 自分は単に、芸術というものは、それ自体独立して見られるべきものだという考えを持っている一介のディレッタントにすぎません。本居宣長は、芸術の本質は「もののあはれ」だと考え、芸術を倫理的傾向から見るべきではないと主張しました。小林秀雄が芸術それ自体の価値を徹底的に考え詰め、マルクス主義と戦ったという事も同様の意味を持っていたと思います。つまりは、彼らは真剣に芸術に打ち込んだ批評家であり、芸術というものをそれ自体独立したものとして感じ、擁護していたということです。

 もちろん、自分も一人の人間ですので、例えば、自分の好きな芸術家が実は性格が悪い嫌な奴だったと聞いたら嫌な気がします。自分の好きな芸術家が日本を蔑視していたと知ったら、嫌な思いがします。しかしそれでも、常に芸術は独立してみなくてはならないと考えています。それは自分の感情を越えた判断で、その点に関しては好き嫌いではない判断基準を持っています。

 それで、これから「シン・ゴジラ」という作品に対する自分なりの評価を述べますが、それは、芸術作品として考えられた映画作品であり、決して災害シュミレーションとか、イデオロギー的作品であるとか、そういう見方はしません。こう言っても「人の価値観はそれぞれだろ、お前のは偉そうに言っているだけ」と言ってくる人間が必ずいますが、まあ……もう馬鹿らしくなってきたのでやめます。感想に移ります。


                          ※

 まず、褒めるところだけ褒めておくと…おそらく、精巧な災害シュミレーションとは非常に良く出来ているのだろうな、という事です。(これは先に言ったように芸術として見る見方ではないですが) 僕はよくしらないのですが、防災という観点からこの映画を見ると、現場の人間や、役所の人間も色々参考になる事があるのではないか。そういう観点での価値というのはまず考えられます。

 後は庵野監督が一番やりたかったであろう、ゴジラが暴れ回り建物が倒壊する映像。こうした映像は映像的にリアルにできていたと思います。似たような事ですが、緊急事態での政府の対応のリアルな内情や行動なども、相当に取材して作りこんだのではないかと思います。そうした点、主に映像ルポ的な点は良かったと思います。

 ただ、すでに言ったように、問題は映画というのは芸術の一種であり、芸術ではない場合はせめてエンターテイメント作品だという事です。映画館で宣伝して上映しているので、これを単なる災害シュミレーションとか、閣僚のリアルな動きをゴジラを利用して描いた作品とは言えないと思います。ですから作品の全体が問題となってきます。

 さて、作品の全体を見渡してみると、確かに映像の素晴らしさやリアルさは目立ちますが、全体としては平板な構成になっていると思います。政府内の細かいリアルな動きや建物の壊れる様子などは非常に精細に描かれていますが、そうした細かいシーンが長々と撮られていて、全体の物語の変化は少ない。基本的には日本政府がゴジラを倒すまでの話で、内部で色々あるものの一直線となっている。アメリカが核を落とすとか、死んだ博士(?)が残した暗号(?)を解くとかいう事も絡んできますが、長さにしては変化が少なすぎるように感じました。

 しかし、それも瑣末な話と言えば瑣末な話で、展開が平板なのは大して重要ではありません。自分が見ていて、違和感をずっと感じたのは政府の閣僚、また主人公が異様にマッチョな思想を持っていて、正義一辺倒の人間で、全く面白みがないということです。「お前の面白みで語るな」と言う人もいるだろうから、例を出します。

 村上龍に「愛と幻想のファシズム」という小説があります。これは、主人公達は世界を支配する悪の側の立場の人間なので、シンゴジラとは立場が逆ですが、全体にマッチョな、固定的なイデーを持った人間が政治的に運動するという事では全く同じです。「愛と幻想のファシズム」というのも、主人公達の政治結社は優秀な政治団体ですから、合理的精神を持った野心に富んだ、さほど内面性や感受性があるとも思えない人物で構成されています。それだけだったら、「愛と幻想のファシズム」はシンゴジラと同じく、それなりによくできた政治小説というだけです。

 ただ、村上龍はここで重要なキャラクターを投入しています。それは「ゼロ」というキャラクターで、作中ではおそらく、この人物が唯一、文学的感受性とでもいうものを持っています。このキャラクターがいなければこの小説は単によくできた政治小説ですが、ゼロがいる事で作品に深みが出てきます。「ゼロ」は主役の「トウジ」と一緒に、悪に手を染めていきますが、次第にその事に無意識的に堪えられなくなりとうとう自殺してしまいます。「ゼロ」はオートマティックな、有能な、ただ目的に突き進む集団の中で一種の抵抗のような役割を持っています。「ゼロ」は有能な人間から見ればうじうじしたつまらない人間かもしれませんが、それでも人とは違う価値があるとーー主人公の「トウジ」にも作者にも目されています。「ゼロ」がいなければ、「愛と幻想のファシズム」という作品の価値は著しく低減する。それはつまり、人間というのは単に目的に一直線に突き進む有能さや合理性で割り切れないものだという事です。

 それに比べると、シン・ゴジラにはそのようなキャラクターは見当たりませんでした。主人公は一本気な正義観にとらわれており、アメリカから来た石原さとみは最初は嫌なやつかと思ったら案外いいやつで、上司の竹野内豊のキャラクターも別に内面的な苦悩やら何やらがあるとは見えません。全体的に、直線的で固定的なイデーに支配されており、単純と言えば単純です。ゴジラ自体もどうしてでてきたのか、どういう生命なのか、どのような背景があるのか、そういう事もさほど深く掘り下げられていませんでした。ゴジラも、それと戦う人間もみんな棒立ちで、どこにも内面性が見当たらない。
 
 内面性がなくてもいいではないかという声もあるかもしれませんが、庵野監督は、似たような、エヴァのヤシマ作戦では、シンジ君や綾波レイの心の揺れを描いていました。エヴァという作品も手放しで褒められた作品ではないと思いますが、少年少女の精神的葛藤と、世界を守る戦いとが同時進行している事に作品の魅力があったと思います。シンゴジラではそれは片方しかなく、最初から最後まで直線的に話は進みました。

 でも、今、更に考えてみましょう。「別に映画に人間の内面性が映されていなくても問題ないではないか。それだけが映画の良さではないじゃないか。シン・ゴジラは確かにそういう要素は少なかったが、あれは傑作だ。ごちゃごちゃ言っているな、黙っていろ」 そんな意見も聞こえてきそうなので、更に考えます。

 僕はその意見には究極的には、シン・ゴジラという映画で描かれているのは、いわば人間の政治的、合理的側面だけであって、もう半分が欠けていると感じます。この事は重大な事で、欠けている半分は積極的に描かれていなくても、少なくともそういうものが製作者の側では暗に意識されていなければならない、と考えます。

 シン・ゴジラでは、ゴジラに殺された人間達もたくさんいたし、最初の総理もあっさり殺されますが、その事にたいしての、しっかりした描写はありませんでした。最も、こういうところで異様にセンチメンタルな描かれ方をしても気持ち悪いわけですが、主人公らは人の死を悲しむ間もなく、「前へ前へ」といういわば異様にポジティブな思考で前進していきます。
 
 作品構成の問題から言えば、ポジティブな思考が何故成立するかと言うと、ゴジラというのがほとんど何の考えもなく、荒らしまわり、破壊するだけの「悪」だからだと思います。絶対的な「悪」をフィクションとして想定するからこそ、絶対的な正義は機能として成立する。現代の人間は苛ついており、絶対的な正義の観念に包まれて何かを攻撃し、「スカッと」したい。そんな潜在的な欲望を感じる事があります。

 ガンダムを作った富野由悠季は既に、敵を相対的なものとして描いていました。庵野監督はガンダムの後の監督ですが、「敵」の描き方としてはエヴァにしろ「シン・ゴジラ」にしろ、芸術的には一歩後退していると僕は考えます。敵、悪というのは絶対的な、内面性も何もない、壁がこちらに向かって倒壊してくるような、そんな単純なものなのかという、その事への疑問がない。ただ、多くのエンタメ作品では「悪」はただ悪いものとして描かれている。こちら側の「正義」という概念も実は、破壊に対する破壊なので、完全に正しいものかどうかはわからないわけですが、「正義」としての対象への攻撃が何の違和感も、良心の痛みもなく綺麗に機能するのは向こう側に絶対的な悪を想定するからです。こちら側から見れば「スカッと」する心の運動は、全体を俯瞰してみると、本当にそう単純なものかはわからない。敵側がこちらを同様に、悪の権化として考えている事も考えられる…。

 もっとも「シン・ゴジラ」はそんな小難しい芸術ではなく、エンタメなのでそれはまあいいじゃないか、という視点もあると思います。ただ、エヴァの時は、シンジや綾波レイやアスカなどの心の揺れや、精神の極限を描く事ができていました。まどか☆マギカという作品も、ある大きな悪意の中で少女達が絶望する話で、絶望や危機の中でこそ人間性ははっきりと露呈するわけですから、まどか☆マギカも少女達の精神をうまく描けていたと思います。

 こうして考えてみると、シン・ゴジラはエヴァから、少年少女の葛藤や内面性を剥ぎとって、マッチョな政治思想の大人達が「使徒」を迎撃するという映画と見る事ができます。僕はこのような作品が、災害シュミレーションや、社会的ルポルタージュのようなものとして機能するとしても、芸術作品として優れていると思わないし、エンターテイメント作品としても良いとは思いません。「いや、お前の意見なんてどうでもいい、皆、楽しんでいるんだから水を差すな、ボケが」 という意見に対しては…ここまで考えるともはや言う事はこちらにもありません。自分はそのような作品は芸術作品として良いとは感じないというだけです。

 シンゴジラにおいて、主人公達が異様に直線的な正義観で問題を解決する、そういう風に「事」に当たれるのは、そもそもゴジラがほとんど何も考えず破壊するだけの存在だったからだと思います。この、全体的に強固なリアリズムで描かれた作品は、政府閣僚の動きや、人が避難する動き、建物が壊れる動きなどの事柄は非常にリアルなのですが、もう一つの人間の心情のリアルさを欠いている。人間の内面の動きを組織全体が忘れれば、それは正義や悪としては、有能な一個の集団として正当に機能するが、その機能が勝ち取るべき、あるいは守るべきものが空白になる。その守るべきものとは、命を張って戦うという行為に比べれば実にくだらない、例えば碇シンジのうじうじした葛藤や、アスカの明るく見えながらも中に悲しさを持っている心情とか、そういうものなのかもしれませんが、世界というものを全体として考える限り、碇シンジやアスカのうじうじした少年少女の心を忘れてはならない。僕はそのように考えます。

 大体、シンゴジラという作品に対する僕の感想はそんなものです。僕はああした作品が良い作品とは感じません。ただ、ここまで書くと、庵野監督に対する批判という事になるかもしれませんが、庵野監督は単にゴジラを東京に出現させ、それが建物をぶっこわす映像を取ってみたかったのじゃないかという気もします。ゴジラを東京に出現させ、それを今の技術で的確に、リアルに描いていく。そういう映像を撮るために一応お情け程度のストーリーを設け、一応アメリカと日本の政治云々の話も盛り込んだが、庵野監督がやりたかったのはただ現代の技術でもう一度そういう映像を作りたかった…そんなふうにも見えます。そういう観点からすると、別に庵野監督を批判する事もないし、「そういうものを撮りたかったんだろうな」で終わりになります。ただ、庵野監督の意向に関しては考えず、異様に高い世評と、作品全体を交互に見ていくと、上記のような感想になります。しかし、こういう作品がこういう形でヒットすると、これからこういう作品が増えていくんだろうなと思います。芸術とはおそらく、そういうところとは違う場所にあると(どちらかというとエヴァの側に)あると僕は考えます。

「龍が如く0」のシナリオからクリエイターの技術の問題について考える

 


 ゲームなどを見ていればはっきりとわかるが、技術というのは大抵、年々向上していく。僕が子供の頃遊んでいたスーパーファミコンのグラフィックを今の十代が見れば「しょぼ!」と言うと思う。

 技術というのは年々、進歩していて、それは様々な領域でそうなっている。その根底にあるのは、理数系の学問は論理による積み重ねができる、という事にあると思う。今、自分は「物語 哲学の歴史」という本を読んでいるが、哲学なんかだと、過去に比べて今の方が進歩しているかというとかなり微妙な感じがする。とはいえ、理数的な、論理学の取り扱いなどは進歩しているのだろうと思う。

 自分はゲームなんかも昔から好きで、ちょいちょい時間があいたらやっている。それで、新作ゲームなどでよくあるのが「華麗なグラフィック! 壮大なストーリー! 新しい戦闘システム!」みたいな宣伝文句だが、実際やってみると「大した事ない作品だなあ」と感じたりもする。この時、宣伝文句自体には間違いはないのだろうが、結局の所、製作者の『意図』あるいは『理想』そのもののレベルが低いので、いかに高い技術を駆使しても、全体としては『低い作品』しか出てこないという、根底的な構造があると思う。

 以前に、ある大きなゲーム会社の元社長の講演文章を読んでいて、反発を覚えた事がある。うろ覚えなのだが、要するに「今の時代は昔と違って、少数の天才がゲームを作るのではなく、大多数の人の努力の積み重ねで作品を作っていくべきだ」みたいな事である。これは言葉だけで見ると正しいように思える。しかし、実際的には大多数の人を一つの方向に束ねる統率力、全体を一つの方向にまとめる意志、理想がなければならず、結局の所そうした場所には、何かしらの形で有能な人間を入れなければならない。そしてこの有能な人間とは言われた事をできるという意味の有能ではなく、何をなすべきかを知っており、目的そのものを作り出すようなタイプの「有能」という事だ。

 こうしてビジネスという部門で考えていっても、自分がシンパシーを感じるのは、任天堂の山内溥とか、スティーブ・ジョブズだったりする。彼らの語録を読んでいた時期があるが、彼らの言葉は非常に真っ当で、地に足がついている。今言った大会社の元社長の言葉はそれとは逆に、地に足がついていないというか、要するに頭でっかちな優等生という雰囲気を抜け出せていなかった。ソーシャルゲーム、クラウド、新興市場を開拓する、ネットとの融合……などの、きらびやかな言葉の陰でその人物が一体何を理想とし、どのような作品を『具体的に』生み出したいかという事が結局見えてこない。

 元の話に戻ると、VRやARなどの技術が発展していく事は基本的には良い事には違いない。しかし、それが「何であるか」という事を洞察するある視点は、そのまま作者の理想という形に結晶する事になる。どれほど技術が高くても、製作者の意図そのものが低ければ低い作品が生み出されるに留まる。

 これを言うと怒られるかもしれないが、初期のドラクエやFFなどは、作品単体として見てしまえば、過大評価されている作品だと自分は思っている。自分は元々、ドラクエやFFドンピシャの世代で、友達と一緒に熱心にやったタイプの人間だ。ただ、大人になってドストエフスキーやらカントやら何やらを個人的に知っていくと、ドラクエやFFがここまで皆に評価されるほどの凄いものではないという事が段々見えてきた。

 とはいえ、もちろん、世の中がこれだけ評価するのには理由がある。それは何かと言えば、ゲーム黎明期の時代には、グラフィック、ストーリー、音楽、キャラクターなどを一つのパッケージに詰め込んで、一つの流れる体験として味わせてくれる作品はほとんどなかったのであって、先陣を切ったのがドラクエやFFだったという事なのだろう。つまりは、ドラクエやFFの大きな評価というのは、作品単体の評価というよりは、時代的な、ジャンルの黎明期に、一つの模範を作り出したという意味での評価が大きいと思う。

 これを「技術」の問題として、元に帰って考えてみると、ドラクエやFFは音楽、グラフィック、ストーリー、操作性などの、それまではバラバラだったものを一つの、ある程度高い次元で融合できるというモデルを示してくれた。そのプレイ経験があるからこそ、僕達はドラクエやFFをこうも評価しているのだと思う。だから、今、同じ事をこの時代にやろうとしても、当時のような高い評価は得られないだろう。

                           ※

 さて、ここでこの文章は終わってもいいのだが、具体的な作品に沿ってもう少し、技術の問題について掘り下げて考えてみようと思う。例として取り扱うのは「龍が如く ゼロ」という作品で、最近これをプレイした。(ここからは『ネタバレあり』で行く)
 
 龍が如くシリーズというのは人気の高い作品で、キャラクターとかストーリーとか全体的に非常によくできている。ほかのゲームをしていても、イベントシーンにそこまで引き込まれるゲームはあまりない。龍が如くゼロもよくできている。

 しかし、自分はこの、非常によくできたゲームをしていて、物語が後半に行くにつれて、色々疑問を感じた。物語が盛り上がりを見せるにつれ、段々自分はこのゲームから気持ちが離れていった。

 何故そうなったのだろうか。一つには、やたらどんでん返しや、隠された謎が明るみになる、伏線回収、みたいな事が多いからだ。謎めいた〇〇という人物は実は××の兄弟でした…みたいな事が次々と出てくる。それから違和感としてあるのは、主人公の桐生にしろ真島にしろ、イベントシーン以外では大量の敵を一人でぼこぼこにやっつけるのだが、イベントになると急に相手の策略にかかってピンチになって、そのピンチが次の物語を生む、という仕掛けになっており、これを連続でプレイしていると、プレイヤーは製作者の手のひらで自由に転がされているような、人工的な感覚が出てくる。

 (ここからネタバレあり)
 そうしたなかでも自分が一番違和感を感じたのは、立花という社長が死ぬ場面だ。立花というのは基本的にいい人、いいキャラで、主人公側の味方だ。それが物語終盤で敵の拷問にあって殺されてしまうのだが、それまでに立花は何度も窮地をくぐり抜けている。立花の死と共に、妹が現れ、彼女は立花の遺骸を抱いて、果たせなかった兄弟の出会いがそこで果たされる…という感動の場面が出てくるのだが、自分はどうしてもそこに感情移入できなかった。何故なら、立花はそれまでに死にそうなピンチを何度もくぐり抜けていて、言ってみれば製作者の側で立花をいつ殺す事も可能であると感じてしまうからだ。もっと言えば桐生ちゃんにしろ真島にしろ、彼らをピンチにするのも、そこを切り抜けさせるのも、製作者の手腕一つでどうにでもなり、またそうした手腕を駆使して、上記のような感動できる場面を作っている…そういう人工的な感覚がプレイ途中から違和感となって出てきて、自分はどうしてもゲームにのめりこめなくなった。これと同様の感じをメタルギア3なんかで経験した事がある。

 もちろん、シナリオというのはシナリオライターが作るものだから、ある程度は制御してコントロールされなければならない。しかし、視聴者にこれでもかこれでもかと謎解き、どんでん返しを見せ、なおかつ感動できる場面を、自分の作ったキャラクターを殺す事によって現出させる…それは本当にシナリオづくりとして素晴らしい事なのかという疑問が自分の中に湧いてくる。

 ではどうすればいいのだろうか。これは、もしかしたら視聴者の方にも問題があるのかもしれない、と自分は思う。ゲームプレイヤーももう色々な刺激になれっこになり、色々なストーリーを体験済みだ。だからこそ、龍が如くのシナリオライターは、手を混んで複雑なストーリーを創りだそうとする。普通のストーリーでは満足できない、ボリュームの少ないゲームは嫌だ、もっと遊びたい、もっと楽しみたいという人工的な欲望に応える形で最近のゲームは手の込んだ作品を送り込んでくるが、そうした応答にはそもそもある欠陥があるのではないかと自分は感じている。

 その正体はなんだろうと考えてみると、(ここからはゲームから外れる)、視聴者、クリエイター双方にある『傍観者意識』ではないかという気がする。何か、作品というものを手先で作り、それを自分とは違う場所にあるものとして感じ、それを巧妙に操作する事で、ゲームやアニメや小説ができあがる。読む側、見る側も傍観者であって、自分とは遠くはなれた場所で「面白い」「面白くない」と言う。結局の所、どんな大傑作がでてきたところで、それは視聴者の傍観者意識を揺るがす事はできない。どんな作品も彼らの根底にある、いわば椅子に深く腰掛けて、作品を歎賞するという態度を突き崩せない。クリエイターの方もそうした態度を共有している。例えば、上記の「死」の問題においては、安々と自分のキャラクターを、感動場面を作るために殺せてしまう。平和な時代の平和な作品で、そうした意識に浸り、自分の「死」について振り返らないからこそ、キャラクターの死をいくらでも手のひらで弄べてしまう。しかも、その弄びの技術が上手な人が、「プロ」のクリエイターとして尊重される。そういう、現代の先進国特有の問題が日本でもアメリカでも(アメリカの最近のゲームはある意味もっとひどい)あるのではないかと思う。
 (ちなもに、まどか☆マギカではマミさんがマミったりするが、死を弄んでいる」とは感じなかった)

 ここまで考えると、これは単にゲーム作り、シナリオ作りの技術の問題から大きく外れてしまうが、根底的にはやはり、作者の自己認識、世界認識が問題となっていると思う。またそれは視聴者の肥えた目線にも同様の問題が有り、視聴者が自分を疑わない、クリエイターが自分を疑わないという点に現在の問題はあると感じる。傍観者意識がどこにも染み渡り、希釈された基準の中で全てが演じられる。シナリオは「技術」でありピアノ演奏も「技術」であり、様々な事が「技術」であるのは、そもそもその技術そのものが行使される基準が一元的に規定されているという事だ。シン・ゴジラを見てもつくづくそう思ったが、この基準のうえで高得点を叩き出す作品は皆からこぞって絶賛される。しかしこの基準そのものを疑い、破壊するようなもの(例えば「地球は回っている」という真理)は賛否両論か、全面的に否定されるか無視される。しかし、歴史に残るのは既存の文脈を精巧になぞったものではなく、それを壊し、新たな文脈を作る作品だ。人々はこれに遅れてついてくる。自分としてはそういう作品を期待したい。
 
 (…しかし、まあ、そこまで望まなくても、シナリオを作るという時は、シナリオ作りの精巧さだけではなく、見る側が全体を「自然」と感じられる要素も考えられるべきではないかと思う。(この「自然」は違和感がないというような意味だ)エンタメのシナリオとしてうまくできていると思うのは、例えばジョジョの三部だったりする。ジョジョ三部は話としてはラスボス・ディオをぶっ倒しに行って、ディオをぶっ倒すというだけの作品なので、作品構成は単純とも言える。ただ、単純であってもつまらない作品ではなく、むしろ非常によくできたエンタメ作品になりうるという見本になると思う)

ママタレ英才教育のニュース記事を見て


 いわゆるママタレントと呼ばれる人の何人かが自分の子供を英才教育しているというニュース記事を見た。子供には小さい頃から、語学やバイオリンやピアノを習わせているという。

 英才教育というのは実際にあるのだろうが、そもそものはじめから、社会的地位の維持や向上を目的としており、芸術そのものや、語学そのものの愉しみを置き去りにしている以上、そこに矛盾が起こってくるのではないかと個人的には思っている。これはもう少し大きな問題として考える事ができる。つまるところ、「〇〇の為」という風に人が考えるという事は実はかなり脆弱な事なのではないか。それ自体、その内部に固有の価値を見出し、その内部において充足するのが、どの分野においても重要な事ではないかと思う。そうした事柄が後々、世界の為にもなっていくのだが、それはまず彼自身にとって充足した形態であらねばならないのではないか。

 バイオリンやピアノといった事柄に焦点を当てると、そうした事は「音楽」であり「芸術」だ。芸術とは、社会的地位の向上の為に結果的になったとしても、それが本来の目的ではないと僕は思っている。

 バイオリンやピアノが「うまい」という事はそもそもどういう事なのだろうか。音楽における原初的形態に関して、批評家の中井正一は面白い事を書いていた。最初、狩りか何かの時に弓を持って行った人間がある時ふと、弓弦に触れてみる。するとそこに美しい音が発音される。この音に耳を澄ます事ーーこうした事が「音楽」の原初的形態だと考えられる。中井はそんな風に書いていた。

 もちろん、中井正一が実際にそれを見たわけではないから、比喩として言っているのだと思うが、これは面白い考えだと思う。この時、狩人は単にその音に耳を澄ましているのみであるが、これを探求しようとする心持ちが出てくると、こうした精神を音楽の発展の歴史とつなげて考える事ができる。

 よく、ピアノがうまい、バイオリンがうまい、プロ級、だとかいう話を耳にするが、それは一体どのような基準に照らしてそうなのかという事がいつも僕には合点ができない。突き詰めると、シンセサイザーもストラディバリウスも全て音波であり、空気の振動だという事になる。哲学的に考えていくと、人間というのは科学においても芸術においても、自然という非秩序の中に秩序を成立し、自然を越えようとしている、と言える。そういう意味ではアインシュタインの理論も、モーツァルトの音楽も代わりはない。ただしそれらは運動していく方向、秩序を成立させようとする方向が異なっている。いずれにせよ、彼らは宇宙のカオスを素材とし、あるいはそれを理解しようと、あるいはそこに一つの、自らの精神性を体現しようとする。そこに音階や数学的な問題が現れ、それはモーツァルトやアインシュタインと呼ばれる個性と結託する。

 自分は芸術というのはそのようにして、人間が自然に対してある形式性を発明するものだと見ている。その場合、その人間がどのような人間であるかという事と、彼が紡ぎだす形式の間にある必然性が成り立たなければならないと考える。モーツァルトの音楽はモーツァルトの個性の表現であり、ベートーヴェンの音楽はベートーヴェンの個性の表現だ。しかし彼らが己の個性ーーつまりは己の音楽性を守った為に、全体として見れば不幸な人生を送ったという事もやはり確かな事と思う。それでも彼らは天性の…そして極めて論理的、人工的な大芸術家だった。

 最初の、ママタレの問題に戻ると、そこではもちろん、こんな面倒な哲学的な問題は一切問題とされていない。僕がもしこんな事を言えば、多分僕は狂人とみなされるか、頭のおかしい奴だと思われるに違いない。しかし、問題は英才教育を施される子供の側にある。子供は実際にバイオリンを弾き、ピアノを弾くのだろう。するとこの子供は結局、自分の存在と、ピアノやバイオリンという外的形態、外的技術形態との間に、疎隔を感じる事になる。どんな天才でも、いきなり、外面的な技術と自分の内部の魂との間に必然的な関係を結ぶ事は不可能だろう。確かに、才能のある者なら、すみやかに教えられた技術を習得するという事はあるだろう。しかし、それはあくまでも、外的な技術にとどまり、それは彼自身の内面とは結びついてはいない。そしてこの結びつきを体現するためには結局どんな天才でも、この場所で苦労して努力しなければならない。この努力はまた、英才教育のようなものとは違う努力で、内的な、孤独な努力であり、他人がどう評価するという事を越えた事柄だ。しかしこの努力がなければそれは結局芸術とは言えない。

 とまあ、ここまで面倒な事を書いてきたが、そもそも人は「芸術」を必要とはしていないんだろうな、と思う。芥川龍之介に「沼地」という短編小説があって、そこでは芥川の芸術にたいするオーソドックスな信念がよくわかるが、それはやっぱり世の中にはあんまり必要とされていないのだろう。僕の感じでは、英才教育を施された子供は、本当に才能がある子供であるほどに、その事自体に苦しむと思う。そうした子供は、自分の弾くバイオリンやピアノがそもそもなんであるのか、と問わざるを得なくなると思う。そうすると、周りの大人達との間に疎隔を感じて、別個の自分の道を行くか、一人、バイオリンやピアノという楽器、音色の中に閉じこもったりするのかもしれない。

 英才教育というのは第二、第三の高嶋ちさ子ぐらいは生むのだろうが、それ以上の事柄は、その本人の天才の苦悩と努力による。結局、英才教育によって天才を生もうとする事は、こちらの基準に沿って、その基準で高得点をはじき出す存在を作ろうとする事だから、この基準を破る天才の存在はいつも理解不能なものとして現れる。仮に英才教育から天才が生まれるとしたら、その天才は自分で勝手に英才教育的な基準を越える別物を生み出したのだと思う。モーツァルトは自分の音楽性を守るためにパトロンから追い出され、借金まみれで死んだ。その事を思い出すと、英才教育を施すママタレントは第二のモーツァルトを育てたいわけではないだろう。モーツァルトもベートーヴェンも基本的に不幸な人生を送ったのだと思っているが、そうした不幸を見ない事で芸術的な雰囲気、「役に立つ芸術」というのは成立する。しかし世の中はそうしたものなわけだから、自分のような人間の意見は絶えず少数派に留まるのだろう。芸術というのはそれ自体、悲劇的な性格を担っている。そして、この悲劇を見ない所に、通俗的な「劇」は成立するのだろう。

〈カーニバル〉概念から考える「インターネット」と「孤独」の関係

 

 ミハイル・バフチンに「カーニバル文学」という哲学概念がある。これを単純に定義する事は難しいのだが、とりあえず、様々な相異なる要素、人間、意識、声のようなものが一つの広場的な場所で出会い、関わりあい、葛藤する…そのようなものとして考えたい。

 バフチンは「カーニバル」の例として様々なものを考えている。その極限はドストエフスキーの長編小説であり、また歴史を最初に戻せば、ソクラテスの対話もカーニバルだ。それらはそれぞれに違う意識や声が混然一体となって一つのものに融合されている。

 この時、重要な事柄は、例えば、それぞれの持場をそれぞれが離れているという事だ。貴族は貴族であり、貧民は貧民であり、互いに離れた場所でいがみあっているようでは「カーニバル」とはならない。貴族であろうと貧民であろうと、彼らは広場に強引に引きずり出され、自らの全てをさらけ出し、他者と葛藤する事を宿命付けられる。そこには、貧しいものが富んだものよりも優勢だったり、権力のないものが権力あるものより上位にくる事はあるだろう。しかし、それはヒエラルキーとしての、権力意識、政治的な発展という道を取らず、むしろ滑稽さやユーモアとして現れてしまう。ここでは全てが平明であるが故に、それぞれは自らの、社会的立場やその他様々な衣装の背後に隠れている事はできない。ここでは全てがさらけ出され、全ての個人が己とは何であるかという事を、他者との葛藤を通じて思考していかなければならない。

 バフチンの「カーニバル」という概念は概ねそうしたものだが、これは現在のインターネット空間にそのまま当てはまるのではないかとふと思った。例えばインターネットの「掲示板」においては、それぞれの人間の社会的立場は消去され、一つの言説、声に還元される。それぞれの人間が現実において何であるかという事が消え、インターネットは純粋に、それぞれが一つの声であり、視覚的表現とか、そうしたものに還元されてしまう。ここでは人間は現実的存在である事をやめて、インターネットというカーニバル空間を構成する一要素となる。

 とはいえ、ここにはある問題があると僕は思う。このようなインターネット的、カーニバル空間においては、ソクラテスの対話のような意義ある対話は全くといっていいほど行われない。確かに、インターネットは全ての要素を一つの声、意識に還元して、現実存在を忘れさせる。しかし、本来的にカーニバルが成立するには、それぞれがなんらかの形で価値ある言説や存在を負っていなくてはならない。この事はもしかしするとバフチンは指摘していなかったかもしれない。

 何がいいたいかと言うと、ネットも…そしてネットを通じた現実も、多数の声が一つの概念に還元化され、大衆の一方向への過度の普遍化が働いているという事だ。これは、ニコニコ動画のコメントなどを見ても明白で、そこでは意義ある、価値ある会話は行われないし、求められてもいない。2chでも同様であり、異質性、多様性が一つの場所に包含されているようでありながら、実は一つの平板な概念に全てが流入しており、ここではカーニバル化は行われていない。こうした場所はカーニバルの名にはふさわしくなく、人々は多様性、開かれた空間を褒めているように見えるが、実は、「人々」という多数性が強力な権力を握っていく様が見えてくる。

 そう考えると、インターネットが本当に「カーニバル」なのか、自分でも疑わしくなってくる。ただ、「場」として考えるなら、それはやはりカーニバル的なものの土台となりうる。現実において僕が誰かと話すと、僕の社会的立場や性別や年令などが考慮に入れられつつ、言葉を交わす事になるが、インターネットにおいては純粋に「言説」を問題とする事ができる。これはテキストとしての文学、哲学においては理想的な環境と言えるかもしれない(文学者、哲学者としての力量不足を自分の社会的立場で代用しようとする人間には嫌な環境だろうが)。 

 ただ、それはあくまでも、テクノロジーとしての「場」の話ではある。現在においてはネット上に「カーニバル」が現れる事は稀か、まずない。そこでは人々が、「皆違って皆いい」の名の元に、実は似たような概念や認識に流れ込んでいく様が見て取れる。多様性というのは確かに素晴らしいが、全ての人間が同じ教義や信念を持った世界というのは、多様性があるとは言わない。ここまで考えると、インターネットという開かれた空間において現在本当に大事なのは、人々に一挙に認められるようなものではなく、自分の孤立と孤独を守る事ではないかと僕には思える。現在のネットは過度の普遍化に傾いており、ネット上のコメントの殺到、同一方向への言説の横溢という事は、その運動を加速させている。こうした方向への運動はやがて人間全体を一つの同一性へと導き、そこではカーニバル的空間はもう現れる事はなくなってしまうだろう。したがって、これから先の重要な未来の諸要素は、過度に普遍化されてきた現実やネットではなく、それと自分を切り離す孤独の作用にあるのではないかーーーそんな風に自分には思える。



 「引きこもり」の言語が外に出て行く事について



 ドストエフスキー=小説の構造について考えている。それで色々思いつく事がある。

 例えば、「地下室の手記」の言葉は基本的に「引きこもり」の言葉だ。それは一人の個人が内的に貯めこんだ、非常に根深い言葉であって、深い井戸のように果てしない。この言葉はこの個人ーー主人公ーーの内部で無限に発せられている。

 しかし、「地下室の手記」という作品に意味があり、価値が有るのは、これが単に内的な、引きこもり的な言葉であるが故、だけではない。この人物はドストエフスキーに似て、神経過敏で、感受性が異様に豊かである。だから、彼の内的な言葉には常に他者の言葉が入り込む。延々と独語される内的な言葉には他者の言葉が入り混じり、感知されている。独白型の小説というのは沢山あるだろうが、そうしたタイプの小説の価値とはそこにどれほど他者の言葉が織り込まれ、内的な言葉を発する人間にどれほど肉化され、理解され、融合されているか、その点にかかっている。…そんな風に考えてみる事も、できるかもしれない。

 例えば、狂人の言葉とは他者の言葉の響きを欠いている。人のブログなどを覗き見ても、明らかに精神が病んでいる人間というのは他人の言葉を受け付けず、自分の言葉の中に閉じこもっている。他人の言葉はその言葉の中に一切入ってこない。それに引き換え、内的な、「地下室の手記」的な言語は独白でありながら、他人の言葉が入り込んでいる。注意したい事は、他人の言葉が入り込むとは他人の言葉を鵜呑みにするという事とは全く違う事だ。最近は「わかりやすく書け」「もっと面白く書け」と横暴に書く人間が多数いるが、こうした人間の意見を「聞く」必要はおそらくない。しかし、彼が何故そんな言葉を話し、彼らが何故そんな事を言うのか、という事は知らなければならない。つまり、他者の言葉を自らの言葉に融合されるとは、それ自体おそらく、対話的なアプローチなのだろう。「引きこもり」の言語の中には、そうした他者の言葉が流れこむ。

 しかし、「地下室の手記」から「罪と罰」へと進んだドストエフスキーの道筋は更に興味深い。自分はこんな風に考えている。ラスコーリニコフが殺人という事件を起こし、世界の闘争の中に入り込み、実在の他者との葛藤関係に入る事ーーそれは正に、彼が本質的に引きこもり的な言葉を彼の孤独の中で徹底的に練磨し、磨き上げたからなのだ、と。確かに、ラスコーリニコフのイデーは拙い。彼の殺人を犯す為に生んだ論理はそれ自体、いくらでも批判しようがある。批評家などはよくドストエフスキーの小説の中の登場人物のイデーに対して文句をつけたりしているが、彼らが理解していないのは、ドストエフスキーの小説においてイデーは生きられているのであり、真理としてドストエフスキーに語られているのではない、という事だ。つまり、そのように文句をつける批評家というのは実は、ドストエフスキーより上に立っているように見えて、彼自身がドストエフスキーの描く小説世界の中の一登場人物と化してしまっている。ここにドストエフスキーの不思議さ、偉大さがある。

 ラスコーリニコフによって醸成された引きこもり的な言語は、殺人という誤った形で、他者にとって目に見えるものとなった。カラマーゾフの兄弟や悪霊などで、ドストエフスキーが「事件」を必要としたのはおそらく、それぞれのあまりに深い内的自意識が一事件を巡る事で、様々な照明を当てられ、その本質が開示されるからなのだと思う。その最も著しい例がカラマーゾフの兄弟のラストだ。カラマーゾフのラストでは、検事と弁護士が親殺しの殺人事件にたいしてそれぞれの見解を述べるが、ドストエフスキーはこの事件に対して、検事と弁護士の口を通じて、巨大な思想的意味を見出してしまう。これはドストエフスキー自身が現実に対して取った態度と同じで、凡庸な目には退屈と見える人々、現実に対して、ドストエフスキーはそれとは全く違う巨大なものを背後に見た。これは、情報量の問題として考えられるだろう。…例えば、プログラム言語や難解な数式を僕が見てもそれを単に文字の羅列のようなものとしか見えないが、専門家が見ればそこに無数の情報を読み取る。ドストエフスキーはそのように現実から巨大な思想的意味、大きな情報を読み取ったのであり、そういう意味ではドストエフスキーの言うように、彼自身は「写実家」だったと言える。

 「罪と罰」を内的な、引きこもり的な言語の問題として考えてみると、まず、そうした内的な言語や意識は一つの思想となって結晶化して現れる事になる。それは仮にラスコーリニコフという名前が付けられる事になる。次に、このラスコーリニコフという人物は殺人事件を犯す。しかし、これは単なる殺人ではない。普通の小説家は殺人事件を殺人事件として描くが、ドストエフスキーにとってこの事件は、ラスコーリニコフという思想の外世界への発露である。すると、この発露である事件を、ポルフィーリィのような人物は読み取らねばならない。つまり、事件の奥にラスコーリニコフという無数の内的言語…巨大な情報を読み取るわけだ。

 こうした物語構成が可能なのは、先に、ラスコーリニコフの内を流れる内的言語、引きこもり言語が、イデーという形で結晶化していたからだった。だからこそ、この結晶化されたイデーは一つの人格として、外界を自由に振る舞えたのだった。(それ自体、イデーの虜だったが) これと比較する時、プルーストの小説は結晶化していない内的言語と見る事ができる。プルーストの語り手の内的意識は外側の世界に出る事はない。何故なら、彼は外側の世界を全て自らの内的意識に溶かしあわせてしまうからだ。普通の人間の内部を見ればプルーストの方が自然だ。しかし、この内的言語を結晶化し、それが「行為」となってようやく、ラスコーリニコフには「他者」が現れる。人間に「他者」が本質的に現れるのは、恐ろしいまでに自己との対話を繰り広げ、もう逃れようのないほど自分というものを固く、突き止めた後の話なのだろう…。

 後はちょっと社会的な話をする。クレッチマーの「天才の心理学」という本があって、ここに天才というのは、集団的な遺伝構造とはどんな関係があるのか?という事が論じられている。クレッチマーの言う事を信じると、天才が出現しやすいのは、ある程度の時間成熟した社会的グループ、部族、国家のようなものが、あるときにそれとは違う異質な集団と出会い、混交する時だという。

 クレッチマーが何度も主張しているのは、そうしたグループはただ開かれているだけ、ただそれぞれが無作為的に混血するのは人類にとってあまり良くない事であり、かといって完全に閉鎖しているのも良くない、という事だ。ある程度の閉鎖性がある集団が外界にひらけ、他の集団と出会う時、そこに天才をはじめとする創造的な文化が生まれる。クレッチマーはそんな風に考えているように思える。

 この話を読んで僕は二つの事を思い浮かべた。一つは今書いたような、ドストエフスキーの物語構成。ここでは孤立した内的言語が外界に出ていき、その意味を問われる事が重大な要素となっている。もう一つはもっとわかりやすいが、日本の近代化だ。長い間、鎖国していた日本という国が改革を行い、外界に開かれていく過程で夏目漱石のような天才が生まれた。そういう意味では、今の社会はおそらく、あまりに開かれすぎている為に、強制的にそれぞれが閉じてきている…そんな風な気がする。日本でのナショナリズムの高まり、アメリカでの政治家トランプの出現などは、開かれた集団が、平地的な空間に我慢できなくなったが故、自分に誇りを持ちたいが故に、閉じていこうとする現象の一端であるように見える。こうした事がいいことかどうかはわからない。しかし、開かれたものが閉じていく過程でどのような文化が生まれるかは僕はよくわからない。もしかしたらこれからは歴史的には、巨大な暗黒期が訪れるのかもしれない。そんな気もしている。


思想は語られるものではなく、生きられるもの……ドストエフスキーについて

  
  

 ドストエフスキーについてずっと考えていて、気付く所があった。それは、ドストエフスキーにとって真理(思想)とは語られるものではなく、「生きられるべき」ものだという事だ。これはバフチンの指摘から気づいた。

 バフチンは、これまで批評家がドストエフスキーの作品に対して各々の思想を見出してきた事を非難する。バフチンの言葉では、ドストエフスキーにおいて思想、イデー、あるいは真理とは、それが命令的に、モノローグ的に語られるのではなく、小説内部において一人の人格として生きられねばならない。人は思想を語るのではなく、一つの思想としてそれを生きるのである。

 この事は、ドストエフスキーという人物が、骨の髄まで小説家だったという事を示している。事実、ドストエフスキーの「作家の日記」という評論は、一つの明確な声を欠いており、最初は作家の真理の提示と見えていたものが、次第に、ドストエフスキーの耳に他者の声が反響し、彼はそれに応答しようとする。彼は真理について語ろうとしていつしか対話に入っていく。これは、ドストエフスキーが真理というのを固定的なものと捉える事ができなかった、という事を示していると思う。

 こうした事は、それだけで詩と小説との分水嶺を成していると思う。また、自分の思想を一義的に世界に語る思想家と、それを小説内で、一人の人間として生かす小説家との違いをも示している。

 詩は何よりも言語表現であり、それがどのように高度に複雑になろうと、それは世界に対してある言葉を投げかけるという事を意味するように思われる。つまり、そこでは「作者→(言葉)→世界」という定式がとりあえず作用している。作者は世界に向かって何かを語りかける。そこには、作者の感覚、心情、思考、イデーなどが、言語により感覚的に表現されている。読者はそれを詩人の言葉として聴く。しかし、そこで現れている感覚や心情、イデーはそれ自体変化しはしない。そういう意味で詩とは、己の瞬間性や気分というものに対して最も素直で、正確なものだと言う事ができる。

 ある個人の思想、正しさについて一義的定義というのも同様に考えられる。世界に対してある言葉が投げかけられ、それは正しいか否か、正確かどうかという判断をくだされる。そこでは「正確さ」や「正しさ」が考えられ、たいていの人間は自分の哲学や思考を、他者よりも正しいものとして世界に言明する。これは非常に賢く、高度な思考を持つ者でも大抵は同様の思考パターンによって成されている。

 自分がここで思い起こしたいのは哲学者カントだ。彼は僕にとっては、哲学者としてのドストエフスキーであるようにどうしても見えてしまう。彼の純粋理性批判では、理性の限界が示されるのだが、それは物語的に運動する。カントの圧倒的に偉大なところは、彼は、何かが論理的に正しいかどうかを見極めるのではなく、論理そのものを主人公にした物語を展開した所にある。論理を自分の思うがままに進めていって、それがどこで破断するか確かめようとした。これは一つ次元の違う事であって、後世の我々は彼の業績をまた「論理的に正しいかどうか」で見ようとする。しかしそれを越えたあり方がいわば、物語としての哲学であり、根源的にはカントとドストエフスキーは同様の、人類史的に極めて偉大な事をしたのだと思っている。

 ドストエフスキーは罪と罰で、純粋理性批判に近い仕事をした。重要な事はラスコーリニコフの思想が正しいか否かではない。彼が一つのイデーとして自分の人生を生き始め、それが純粋理性批判の論理のように、あるポイントで破綻したという事が重要な事だ。これはラスコーリニコフの思想が正しいか否かと論議している中では絶対にたどりつけないポイントであるように思う。通常は、ラスコーリニコフの思想か、あるいはそれに似た思想が正しいか否か、何が正しく何が間違っているかが集中的に論争される。そしてここで出てくる、正しさや間違いというのは空間的なものだから、ドストエフスキーやカントのような時間性、物語性を生む事がない。そこでは真理は語られ、述べられているが、生きられてはいないのである。(こう考えると、維摩経や論理哲学論考にもある時間性、物語性があるように見える。これはまた別で考えてみないとわからないが)

 罪と罰のラスコーリニコフは一つのイデーを生きる。彼は殺人に正当な、完全な論理を付与して生きようとする。彼はそれに失敗し、最後に社会からの裁きを望む事になる。これは物語のプロットであるが、通常、小説家というのはプロットを、全容として把握するのであろう。つまりは登場人物、主人公、物語などをあらかじめ頭の中に想起しておくのだろう。罪と罰は小説なので、一見、これは他の小説と同じようなものにも見える。そこから、種々の小説家らは、ドストエフスキーから影響を受けたという事ができる。つまりは登場人物にある思想を語らせたり、作品のテーマを取ってきたり、または三人兄弟が出てきて親殺しを行うなどのストーリーラインを取ってくる事ができる。しかし、罪と罰のラスコーリニコフはそうした事とは全く違っているように見える。彼は自らのイデーを語るのではなく、一つのイデーとして人生を生きる。彼は自分の思想を自分の中に包含しているのではなくて、彼そのものの存在が思想であり、彼はその思想を生きて貫こうとするのである。だからこそ、彼の目の前には現実が立ちふさがり、彼はソーニャに内心の告白をし、ポルフィーリィと対決しなければならない。彼は思想として生という道を歩くが故にある結論に達する。しかしその結論はおそらくイデー・思想ではない。それは思想が一つの生として生きた結果であり、固定的に世界に遍く宣言される解答ではない。世界に解答は決まっておらず、また、世界に解答は決まっていないというこの僕のイデーもやはり、僕の人生を通じて、それは生きられねばならないのだろう。

 こうして考えると、ドストエフスキーという人物は徹底的に、魂の底まで小説家だったという事が分かる。ベルジャーエフはドストエフスキーを「ロシア最大の形而上学者」と呼び、それは正しいが、そうした考えに対するバフチンの批判もよく分かる。ドストエフスキーにとって、思想とは描写の対象であり、それは肉化され、作品の中で生きられねばならないものだった。これは、ある固定的な思想や見解を互いに突き合わせ、その審級を考えている段階ではイメージする事すら難しい産物である。何故なら、これまで僕が書いてきた事、またはドストエフスキーの小説そのものを一つの固定的思想として僕達は見ようとしてしまうからだ。これに比べれば、トルストイはより明瞭にその思想を発見する事ができる。ウィキペディアを見ると「トルストイ主義」というものがあるそうだが、それに反して「ドストエフスキー主義」というものはない。「ドストエフスキー主義」というものは僕には到底考えられない。ドストエフスキーはある主義を標榜したのではなく、主義を描写し、それを作品内で生かし、それを最後に結末まで持って行った。それでは彼の思想はいかなるものか?と僕達が問うとき、おそらく、そこで言われる「思想」という語は既に変質したものである。ドストエフスキーは骨の髄まで小説家だった。彼は現代人が、正否を巡って論争し、結論を出そうとしている様を見た。彼は、他の人がしているようにその論争に加わろうとせず、むしろそれを小説の対象としたのだった。それによって、彼はカントと同様に、正否では見つけられない答えを発見した。そしてその為には完全に、正否や論理に囚われたラスコーリニコフのような人物が必要だったのだ。

 

 ドストエフスキーと現代を生きる哀しみ

 
 ドストエフスキーとカントの重大性について、今になって気がつく事が沢山ある。彼らはいわば認識論的展開をしたのだが、これを骨身のレベルで受け止めるという事がどれほどむずかしいかーー逆に言えば、過去の様々な事をもう「知っている」と考える常識がいかに何も知らなかったか、という事を思い知らされている。あるいは彼らはそれらを概念としては知っていたが、自分の物の見方を根底的に変えてしまうものだと「知る」事ができなかった。「知る」とはおそらく「見る」事であり、「見る」とは「行動する」事なのだろうと思う。この辺り、「知る」から「行動する」までの間をこれから自分は運動していくだろう…。

 ドストエフスキーの認識論的変化について明確に語っているのはバフチンだろう。バフチンには本当に沢山の事を教えてもらった。ドストエフスキーの世界というのは、カント的な意味での「事実」の放逐であり、世界のあらゆる物事は常に、自意識という鏡に映し出された像に過ぎない、という事だ。この自意識はプルーストの「語り手」のように単一のものではなく、それぞれの人物に割り振られており、だからこそ、それぞれの搖動する自意識は相互に影響を与え合っている。

 これまでにドストエフスキーに影響を受けた作家は沢山いただろうが、認識論レベルで影響を受けた人物はほとんどいないのではないかと思う。構造的に、ドストエフスキーと似ていると感じるのはサリンジャーだが、サリンジャーはドストエフスキーに直接影響は受けていないかもしれない。また、別の意味で構造的に近いのはセルバンテスのドン・キホーテだ。セルバンテスがドストエフスキーに影響を与えた事は明瞭に分かっている。

 ドストエフスキーが成した革命とは世界とは「自意識」という鏡に映し出された映像に過ぎないというものだ。よく考えれば、全ての物事は人間の意識、感覚、心理に還元される。誰にも目に見える判明な事実というのは、むしろ様々な自意識が、複合的に感覚的な客体として「想定」しているものであり、それは確固として外側に存在するものではない。今の小説の大半は、世界を「事実」として見る、単純な世界観でできている。そこではだから、テーマや登場人物や雰囲気だけを取ってきて「ドストエフスキーから影響を受けた」と言う事ができる。

 「地下室の手記」の主人公というのは、ほとんど規定しがたい人間だ。この人間の自意識は全てに反発しており、一様の定義を許さない。四十過ぎた作家がこのような混乱した小説を描かなければならなかったという事に、僕はドストエフスキーの巨大な才能を感じる。ある種の作家が、こじんまりとしつつもまとまった作品で賞を取ったりする事ができるのは、最初からその世界には明確な限界があるからであり、この限界の内部で技術を磨いていく事ができる、そうする事が無意識的に正しい、と信じられているからだ。ドストエフスキーはこれとは逆に、技術が作られていく際の、限界自体に対して突破しようと試みた。これは過去からの技術の破壊であり、事実の構成としてのリアリズムからの逸脱だ。当然、混乱した作品とならざるを得ないのだが、ドストエフスキーはそういう事をやった。

 「地下室の手記」の主人公の自意識はあらゆる事に反発するため、一様の定義を許さない。この人物は凶暴に自分の自意識を主張しようとする。よく、小説においても、あるいはタレントなどに対しても「性格」「キャラクター」という言葉が割り振られたりする。これを現実に当てはめると「天然キャラ」などである。しかしこの世にキャラクターなどというものが果たして存在するのだろうか。僕がある自意識を保有しており、人が僕に対して「この人はこういうキャラクターだ」と決めつけるとき、その人は僕の自意識の限界を強引に設定しているのではないだろうか。フローベールのボヴァリー夫人の描写が正確に成り立つのは、その中の登場人物よりも、それを描くフローベールが一段高い場所に立っているためだ。ボヴァリー夫人の中の人々は生活者であり、彼らは自分を疑わない。彼らが自分を疑い、自分の行為、心理を詳細に分析にかけ、己自身の願望と「あえて」逆の事をしてみる、と言えば、もうフローベールの世界は成り立たなくなるに違いない。しかしドストエフスキーの世界は正にそのようなもので、ドストエフスキーのキャラクターは、自らをある「キャラクター」と決めつける定義に抵抗しようとして、他者と相関する。自意識は常に自由だが、その自由にはどのような形で定義ができるのかという事にドストエフスキーは独特の方法で答えたのだった。

 話を進めよう。「地下室の手記」というのは、主人公の一人称の告白小説になっている。これは主人公の自意識を主張するには好都合だったが、この方式では描けないものがある。それは「他者」と「無意識」の二つだ。一人称の告白の場合、全ての物事は語り手の意識に吸収される。そこで語る事ができないのは、語り手の立場から見えない他者の内面と、語り手自身の無意識だ。語り手に対する他者の内面をいくら作品内で語ろうとしてもそれは単に語り手の推測に過ぎないという事になるだろう。これは現実的に考えれば簡単で、「僕」はいくら頑張ってもあなたの心の内を覗く事ができないという事だ。洞察する事はできるが、それはあくまでも洞察に留まる。

 同様に、語り手は、自らの無意識も描けない。語り手が語るのは自らの意識であり、語りそれ自体であって、仮に無意識を描こうとすれば、それは意識に上ってきた、過去に無意識だったものであって、それは意識に上った段階で無意識ではない。ドストエフスキーが「罪と罰」で三人称に移行したのは一つには、主人公の無意識を描くためだった。

 ドストエフスキーは「罪と罰」という作品で、三人称に移行した。これによって主人公の無意識と、主人公以外の自意識を描ける事となった。実はこの両者は同じものでなのではないかと僕は考えている。「カラマーゾフの兄弟」のラストで、イワンは自らの無意識と葛藤する事になっている。この時、イワンのかくれた言葉に対して悪意ある言及を行うのがスメルジャコフであり、これを天使のように言及するのがアリョーシャだ。アリョーシャとスメルジャコフは対をなしている。その後、イワンは自らが生み出した幻覚の悪魔と会話するが、これはイワンの中のかくれた言葉が具現化したものと見る事ができる。つまり、自己にとっての無意識とは、自己にとっての他者に他ならない。また、他者は、自己の意識と無意識を総体として受け取る存在である。僕達に他者が必要なのは、僕は僕の存在の一部分しか知覚できないからだ。これを存在まるごととして受け取るのは、「他者」だ。しかし、もちろんこれは普通の「他者」ではない。イワンに対して、アリョーシャやスメルジャコフという強烈に加工された、徹底的な内部考察力を持った他者であるからこそ、イワンに対する「他者性」として機能する。普通の意味での他者はほとんど他者ではないし、同一の信仰や同一のイデーに心酔している人間はむしろ、「地下室の手記」の主人公が自分で自分に対するほどの他者性も持っていない。

 人間とは自意識そのものであり、それ故にそれは無限に広がり、定義する事はできない。それぞれの人間が自分の自由を持ち、他者が自分に対してあてはめようとする定義に反抗する。「白痴」では、ナスターシャ、ムイシュキン、ロゴージンの三角関係が展開されるが、これは極端に言えば、狂人三人の、自意識の劇だ。この中で地に足をつけている人物は一人もおらず、彼らはラスコーリニコフのようにその可能性も示されていない。アグラーヤという女性が白痴には出てくるが、この人物だけが地に足を付け、ムイシュキンを正しく愛する事ができる。わかりやすく言えば、結婚して「良い奥さん」になりそうなのはアグラーヤだけだ。だが、現代人はみな、ナスターシャやムイシュキンやロゴージンの方に似ている。

 話がずれてきたので、「罪と罰」を基本ラインに据えてみよう。「罪と罰」は主人公ラスコーリニコフが殺人をする話だ。この殺人は、ラスコーリニコフの徹頭徹尾、意識的な加工である。ラスコーリニコフが、殺人という行為を行ったのは、彼自身が自分の内面的、自意識の地獄から抜け出るためだった、と考える事ができる。この行為は、それが行われる事によって、他人に対してラスコーリニコフの意識が見える事になった。この事は重要だと僕は考える。

 つまりはーー小説というものに「事件」が必要なのは、それが小説内で解かれる為だ。ラスコーリニコフは殺人という行為を行ったが故に、ラスコーリニコフという自意識の内面が外界に、一つの事物として目に見えるものとなった。つまりは、他者の意識に、ラスコーリニコフの意識は殺人という行為・事件を通じて可視化される。だからこそ、殺人以降のラスコーリニコフは「世界」の中で他者と相関する事を余儀なくされる。実際、人を殺すまでのラスコーリニコフは全て、内面的な自意識の告白で済む。しかしそれ以降は、それだけでは済まない。他者と己との関係を意識せねばならない。(これは作家にとっても同じだった) この事が始まる為には、「殺人」という誤った事件が必要だったのだ。

 ドストエフスキーの小説において「事件」とはおそらく、人間の自意識を外在化し、他者との関係を築く為に必要な物だった。ドストエフスキーの小説は大枠で見れば何らかの「事件」が起こり、それを「解決」する方向へ導かれる。しかしそれはあくまでも大枠での話で、この大枠の内部で、それぞれの自意識は「事件」を中心に関係する。いわば、何らかの事件を媒介としてそれぞれの自意識は自分のギリギリの内面的言語や、絶対的な行為をなさなければならない。見方を変えれば、ドストエフスキーは、それぞれの自意識の限界を露呈させる為に、わざと「事件」を起こした。ラスコーリニコフにとって得た金はどうでもよく、最初考えていた思想もむしろどうでもよかった。彼は世界に、世間に出て行きたかった。しかし自分の内面的自意識に閉じ込められて出て行く事ができず、どうしようもなくて殺人を行った。…そんな風に見る事もできる。

 ドストエフスキーの作品においては、イデーが描写の対象となっている。確かにバフチンの言う通り、この登場人物のイデーに、批評家はドストエフスキー自身のイデーを見つけようとするか、または批評家自身のイデーを発見しようと務めてしまっている。しかしドストエフスキーそれを「描いた人」である。描く人間は描かれたものとは違う存在だから、ドストエフスキーはそれらのイデーをまるで、過去における物質のように描写したのだった。ドストエフスキーはこれらを「描写」したのだが、人は未だにこれらの「内部」にいる。人は未だに、自分の正当性とイデーを他者との関連の中で主張しており、その思考方法を知らずにドストエフスキーにも当てはめてしまっている。しかし、そうしたイデーそれ自体が劇の構成要素そのものだというのがドストエフスキー自身の「イデー」だった。今はそんな風に見えている。

 後、付け足したいのは、ラスコーリニコフとは、自分自身のパロディだという事だ。彼が何度も漏らす台詞は「自分はこうなる事を知っていた。前から知っていた」というものだ。ラスコーリニコフは、自分がどうなるかを知っていた。彼の聡明は彼自身の行く先を「最初から」知っていた。しかしそれは無意識的なもので、意識はそれとは違うものを求めていた。普通の小説においては、当たり前だが、主人公は物語の結末を知らされてはいない。物語を統御しているのは、作者であり、主人公や登場人物は何も知らない事になっている。しかしラスコーリニコフは作者としての機能も兼ねており、彼は自分がどこへ行くかを知っている。彼の生きる哀しみとは全てを知っており、自分が何であり、どこへ行くかもわかっているにも関わらずそうしなければならない、という事だ。ラスコーリニコフは自白するが、本当は自白したくない。にも関わらず彼は「自白しなければならない」「ソーニャと会わなければならない」という事を「知って」いる。彼は最初から、物語内における時間それ自体を空間的に把握しており、それにも関わらず彼はそれをもう一度時間的に生き直すのである。ここにラスコーリニコフの悲しみがある。この事は僕は、現代人の生きる哀しみと繋がっていると考える。つまり、現代人もまた、全てがアーカイブ化され、あらゆる事に対して結論が出ているにも関わらず、その「生」をもう一度生きなければならない。この事にある哀しみが生まれてくる。そしておそらくはこの世でアーカイブ化されていないのはその哀しみだけなのだ。

 

小説というものが成立する際の社会・世界の役割について  

 

 小説というものは「小さな説」と書く。語源については知らないが、これは「大説」の逆だと考えられる。「小さな説」としての小説はあくまでも、個人の運命や生活を描くものとして規定できるだろう。一方、「大説」は、大きなもの、つまりは社会や歴史の運動を描くものとして考えられそうだ。(自分は言葉のイメージから論を始めており、辞書にどう載っているかは知らない。人の過ちにだけ目を注ぎ、人の論じている事には興味のない人間が多くて面倒に感じている)

 自分は「小説における物語の機能について考える」という文章で、物語において、「社会」あるいは「世界」は主に特殊な自意識を持った個人(主人公)を価値付け、評価する機能だと論じた。社会と主人公との間には他者があり、他者は主人公を世界に融合させようとしたり、逆に世界から弾こうとしたりする。

 この事についてもう少し深く考えていきたい。小説というは「小さな説」だから、あくまでも個人の運命を描く。様々な映画、アニメ、ドラマ等でも同様で、個人が問題とされる。これには大抵主人公がいるが、主人公が複数の場合は何らかの形で同一性のあるグループが描かれる事になるだろう。

 自分が考えたいのは小説があくまでも「個人」を問題とするのであれば、それを判定する社会は、必ず、ある程度の正当な、正常な機能である事を要請される、それが小説という構造において真なのではないかーーーという事だ。具体的に考えていこう。

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 どこから入ってもいいのだが、とりあえず、ジョージ・オーウェルの「1984年」という小説を考えたい。これはディストピア作品で、近未来の、全体主義が世界を支配した時代の話だ。世界は全体主義が支配的であって、これに主人公とその恋人は抵抗するのだが、最終的にはこの世界に主人公達は抵抗むなしく敗北してしまう。

 この小説は僕には非常に偉大な、優れた小説だと最初読んだ時から考えていて、その気持ちに変わりはない。ただ、この作品の終わり方は「おそらくこれは作品のうまい終わり方がないから、こういう終わらせ方しかなかったのだろう」というようなものになっている。どういう終わりかと言うと、最後まで抵抗を続けていて主人公が最終的には、全体主義の象徴である「ビッグ・ブラザー」を愛するようになったという終わり方である。つまり、主人公は心から体制に服従した事が告知されるわけだが、それまで抵抗を続けていた主人公が、本当にビッグブラザーを愛するようになったとは思えない。体制の虚偽を知り抜いた人間が、今更元の無知に帰る事はできないと思う。

 ただ、この終わり方は、オーウェルの終わらせ方がまずいのではなく、作品の構成上、こうした終わらせ方しかないと考えられる。何故なら、最初から全体主義はあまりにも強固で、それが破れるような気配はほとんど感じられないからだ。作品をずっとたどっていっても、主人公ウィンストンと恋人ジュリアの抵抗は虚しく終わるだろうという風にしか見えない。

 「1984年」という作品を見ていくと、最初から主人公ウィンストン・スミスは凶悪な全体主義社会に放り込まれている。そこではほとんど自由がない。そこでウィンストンの絶望的な抵抗が始まるのだが、問題は仮にその抵抗が成就したとしても、その成就と、その後の社会の変革はおそらく、小説という枠組みを越えてしまうという事にある。もしウィンストンらの抵抗が成功し、社会をひっくり返し、革命を起こし、もう一度人間に自由をもたらす事ができたとすると、それはもうどちらかというと、小説ではなく「大説」に位置するような物事になってしまう。構成上、この作品において小説が小説であるのは、制度の中で個人がもがいている間だけである。一度、この個人が制度をひっくり返す事に成功すると、もうそれは個人の問題ではなく、制度の問題となってしまう。

 これはかなり難しい問題だと思う。例えば、マトリックスという映画は、主人公ネオ達が仮想空間に囚われた人間達を解き放つ為の戦いをする話だった(と思う)が、その場合も、解き放たれた後の世界というのをどうもうまくイメージできない。そもそも、人間達の自由な同意がない状態で、人間達をロボットから開放する事が善なのかどうなのかという事はかなり難しい。仮に、今の僕達の世界が実はロボットが見させている仮想空間であるとしても、僕達はそれでもこの仮想空間でそれなりの人生を送っており、「外」の世界が「ここ」より良いかどうかとは考えられない。それはそうかもしれないし、そうでないかもしれないが、どっちにしろ、世界の内部に位置する僕達には、世界の論理に沿って思考する事を定められていて、「外」の世界は「ここ」とは違っている以上、それが僕達にとって良いかどうかを判定する基準がない。僕達が「良い」「悪い」と言っている基準はあくまでも仮想空間内で通用している体系に過ぎず、それが「外」で通用するかどうかは「中」の僕らは判別できない。

 現代の作家、シナリオライター、漫画家などは、色々な事を知識として知っているので、自由に仮想空間やネット社会や、「別の世界」「別の宇宙」を考えられる。しかし、そうした体系を作品内部にどのように導入するのが適切なのかというのはまた別の問題だ。また、「別の世界」「異世界」などと言いつつ、結局のところ、僕らはそれを自分達の論理の延長線でしか考えられない。想像力というのは思ったよりも飛躍しない。自分は最も想像力を飛躍させた人間はカントだと思っている。カントは論理を限界を越えて走らせる事により、それが破綻する点を発見した。カントは想像力に溺れず、想像力そのものを認識するもう一つの視点を自分の内部に構築した。

 話が広がってきたので、元に戻ろう。オーウェルの作品、「マトリックス」などでは、ある世界の体系が示されている。その体系は作者の描き方からすれば、悪しきものであるが、それが良い世界に変わったところは両作品とも描けていない。もし描こうとすれば、おそらくもっと長い作品にしなければならないのだろうが、そうなるとそれはもはや、「小説」あるいは「映画のシナリオ」という枠組みを越えて、単に「歴史」であり、大説となってしまうのではないか。…もちろん、「小説」というのは元々雑多な寄せ集めで、なんでもありだから、「歴史も小説だ」というのならそれで構わないが…。

 ここまで、自分は話を引っ張ってきたが、本当に言いたかったのはオーウェルや「マトリックス」の話ではない。自分はシェイクスピアの作品を想起していた。シェイクスピアの作品やドストエフスキーの作品、あるいは夏目漱石の作品には僕はある調和性を認める事ができる。特に、シェイクスピア、ドストエフスキーの五大作品などを読むと、まるで世界全体を一周したかのような感覚を味わう事ができる。これに比べると、カフカの世界は中途で遮断されるし、オーウェルの作品も前述したように、途中で止まる感覚がある。例えばプルーストの「失われた時を求めて」は独白的な体型内部では美しく完成されているが、シェイクスピアのような、個と世界を包み込んだ完全性は感じない。自分が言及したかったのはこのような、シェイクスピアやドストエフスキーに備わる「完全性の感覚」についてだ。


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 シェイクスピアの作品は全て読んだわけではないが、シェイクスピアの作品を読むといつもある完全性のようなものを感じる。調和性、と言っても良い。それは、シェイクスピアの作品において、その内部で起きる事件は最後には必ず解決されるからだろう。シェイクスピアは劇作家だから、調和性が必要だったというのはその通りだろうが、ここは哲学的に考える。

 シェイクスピアの作品において、物事や事件は必ず解決される。では、この解決とか、解決された感覚は何に由来するのだろうか? この点について僕はここ二日ほどずっと考えていた。おそらく、シェイクスピアの作品が解決されるという事の原因は、例え過ちがあったとしても、それは最後には何らかの形で解決されなければならない、と考える作者の思想にある。ここで強調したい事は「何らかの形で解決されなければならない」のであって「解決されるものだ」というものではない、という事だ。

 現実を見渡してみよう。今僕らが住んでいる日本でも、解決されていない理不尽な問題というのは沢山ある。世の中には、小説には適さない理不尽な問題は沢山ある。凶悪な犯罪を犯した人間が逃亡し続けている、若くて、性格も良く誰からも愛されるような人間が若いままに病気で死んでしまい、一方、内面性も何もないろくでもない人間が長生きし、なおかつ高い社会的地位を持っている…。これらの事は小説という要素には向かないし、小説になったとしても非常に胸糞わるいだけだ。しかし、現実というのは胸糞悪い要素が沢山ある。人は普段これに目を瞑って生きているが、目を開けば、世界の理不尽さは沢山発見される。

 このような状態があるからこそ、人は「物語」を欲する。劣等生が頑張って勉強し、受験合格した、なんてのはわかりやすい物語だ。これが事実であろうとフィクションであろうと、それが人が欲している物語という事では変わりない。物語というのはこのように、現実に対する「慰め」として機能したりする。

 しかし、ここから更に突っ込んで考えたい。ここからが難しい。では、現実に対する慰めとして、調和的な物語が機能するとすれば、ドストエフスキーやシェイクスピアのような作家もまた、そのような作品を作ったのだろうか? 彼らは現実の理不尽性に対して、調和的な、つまりは突き詰めればご都合主義的な作品を作ったのだろうか? 彼らは文学におけるリアリズムの道をふみはずしたのだろうか? リアリズムという言葉を素直に考えてみると、現実の理不尽さを直視する事もその中に含まれるはずだ。だとしたら理不尽な現実を理不尽なままに描き出すという事は作家の為すべき事だろうか? 例えば、ソ連や北朝鮮で行われている理不尽な断罪ーー何の救いもない断罪ーーの類も、「そういうもの」として描かなければならないのか?

 自分はこの問題に対して次のように考えている。ドストエフスキーやシェイクスピアのような作家が描き出した調和性というのは、社会に対する「要請」だったのだ、と。彼らの作品において調和性が現れ、何らかの形で事件が正当に解決されるという事は、世界が本当はそうなってはないという事を踏まえつつ、しかし本来、世界はそうであるべきだという、理想的な像を含んだものだった。この場合、彼らの作品の細部を読めば、彼らが現実を少しも軽視しなかったという事はすぐに分かる。
 
 別の事柄とくらべてみよう。少し前に、「学年ビリのギャルが努力して勉強して一流大学に受かった」という(一応)ノンフィクションの本が出て、それなりに売れた事があった。この本の内容はともかく、人がこの本にどういう物語を欲しているかはかなり明白だ。人はここに、「努力すれば報われる」という物語を見たいに違いない。この場合、この本が「事実を元にしている」という売り文句も重要になってくる。「これは事実だ」という事が「人を勇気付ける」。しかし、僕が問題としているのは、そうした事で勇気付けられる感性や論理性そのものだ。「努力すれば報われる」というのは、事実としてはそんなにすんなりとはいかない。そもそも「ビリギャル」が勉強している最中に、ある日交通事故で死んでしまえば、物語性もクソもなくなる。そんなノンフィクション本は絶対に売れないだろう。しかし、絶対に売れないようなつまらない事柄が現実では普通にある。僕が明日死んでも、そこには何の物語性もない。ただ僕が死んだという事実があるだけだ。

 だが、この事実を事実として率直に認識するだけの事では、そもそも小説もノンフィクションも成り立たないだろう。そもそもノンフィクションと言っても、事実を編集し、切り貼りしている段階でフィクションの領域に突入している。現実というものは、それ自体徹底的に考えれば、あまりに理不尽でカオスで、人間には認識できないものになってしまう。それはカントの「物自体」の世界だ。世界は世界として現れている時点である秩序を有しており、人間の認識にしたがって世界が現れてくる(カント哲学)。ここから更に編集を施しノンフィクションを作るにしてもそれは加工されたフィクション的なものだと言えるし、そもそもフィクションも必ず事実や現実の像を構成的には取り扱っている。

 「ビリギャルが努力して一流大学に入った」のが「現実だ」という事は「人に勇気を与える」。しかし何故そんな感性が現れるのだろうか。人はこれが、「ノンフィクションに見せかけたフィクションだ」と言われれば怒るに違いない。だがそこに現れている活字は毫も変わっていない。という事はこのノンフィクションは、その活字や表紙のレイアウトとは違う場所でその作品が支えられている。それは事実であると人々が作品外で補填して考えるからこそ、こういうものはノンフィクションとして成り立ち、売上が出る。ではそこで人は何を補填して見ているのか。先に言ったように、人はここにおそらく「努力すれば報われる」という単純な理論を、事実の中に確認しようとしているに違いない。この理想と現実を混濁して考えるという事柄は単純に、通俗的なものの特徴として考えられるかもしれない。人は現実の中にフィクションを導入しようとして、「ノンフィクションの本」を手に取り安堵しようとする。つまり、彼らは現実の都合の悪い部分を忘れようとして、現実の都合の良い部分のみを取り上げた作品を「現実を描いた作品」として受け取り、安堵しようとする。

 ドストエフスキーとシェイクスピアに戻る。僕は両者の調和性は、現実を知り抜いた上に出てくる調和性だと考えたい。実際、両者は、悲劇から逃げ出していない。「ハムレット」という作品を読むと、おそらく作者が肩入れしているであろう、主人公のハムレットは最後にはまったく救われず、悲劇的な終わり方をしている。この事はシェイクスピアが、世界の事実から逃げ出さないどころか、世界の中の理不尽な事実さえ率直に認証しようとしている事の証拠に見える。根源的に言えば、シェイクスピアとドストエフスキーの思想は「悪霊」のキリーロフが語った言葉に代表されていると思う。キリーロフの言ったのは、醜悪な犯罪を犯す人間はそれはそれで「良い」のだし、犯罪を犯された側の人間がそういう人間に復讐し、相手を殺すとしてもそれもまた「良い」。ドストエフスキー・シェイクスピアが悲劇を描き出す事ができた、調和性を持つ事ができたのはどうしてだろうか。それは、例え、ハムレットのような苦悩する偉大な人間が悲劇的な終わりを迎えても、それはその体系内部では調和的に終わるであろうし、終わるべきである…という思想を持っていたからだ、と僕は考えたい。この場合、彼らは個体の存在を越えて、世界全体に調和性を見ようとしている。個体は悲劇的な終わりを持つ事はありうる。理不尽な死はありうる。しかし、それを理不尽だと考える「他者」が描かれる事により、体系自体は調和性を持つ事ができる。彼らは作家として、世界における調和性を見て、個体はその中で運動するに任せた。

 シェイクスピアと対極に位置するのがトルストイだ。トルストイは晩年にシェイクスピアを猛烈に批判したが、それはある意味で当然の事だった。トルストイ作品においては、作者が肩入れする主人公は必ず救われなければならない。トルストイは明確に善と悪を区別する。ピエール・ペズーホフは救われ、レーヴィンも救われる。悪しき不倫に手を染めたアンナは自殺を余儀なくされる。しかしレーヴィンは神を発見し、幸福である。「イワン・イリイチの死」ではイリイチは病気で死んでしまうが、最後には精神的救いを見出す。

 トルストイに我慢ならず、トルストイに理解できなかった事は、シェイクスピアが物事を、個体レベルで処理しているのではなく、作品という体系として処理しているという事実だった。シェイクスピアは作品世界を調和的に描いているが、個体に関しては調和しているとは限らない。善良な人間が理不尽に死ぬ事もありうるのである。トルストイはこれとは逆に、自分に似たタイプの主人公は救われなければならないといつも感じていた。トルストイにもし才能がなければ、彼は単に夢想的、空想的な独りよがりな、自分に似た主人公が救われる勝手な小説を書いただろう。しかしトルストイには巨大な才能があり、理不尽な現実、この現実という悪夢をいつまでも追い払う事ができないから、彼はそれと無限の、恐ろしいまでの巨人的な戦いを続けた。この戦いの偉大さがトルストイの偉大さだ。そういう意味では、シェイクスピアはこの戦いを一見放棄したように見える。シェイクスピアはこの問題の解決をもう一段高い、作品レベルで解決した。この体系内において、作品は調和的に解決される。

 今まで長々と書いてきたが、ようやくここで主題は最初に帰る。シェイクスピアのように、作品の主人公の取り扱い方ではなく、主人公と他者との相関関係を含めた体系全体で問題を処理するタイプの偉大な作家の場合(そんな作家はほとんどいないが)、それはどのように処理されるのだろうか。自分はここで最初の問題に帰りたい。つまり、この処理の仕方というのが、最終的に、社会は個人に対して適切な判断を下すのだとーー要請しているその仕方に代表されている。そう考えたい。

 ハムレットという作品を考えてみる。ハムレットは基本的には、亡父の敵を討つという基本的には正しい立場にいる。間違っているのは義父のクローディアスであり、こちらは奸策で王位を奪い取ったわけだから、悪人の名にふさわしい。にも関わらず、シェイクスピアはハムレットもクローディアスも、またハムレットと最後に決闘するレイアーティーズも死ぬ事にしている。これらの重要な登場人物は大抵が死に、またヒロインのオフェーリアも狂死してしまう。本当に救いのない話ではある。だが、ハムレットという作品にはある完結性が示される。「ハムレット」のラストでは隣国の王が、ハムレット達のいた場所に入ってきて、亡骸を見るという場面が示される。この隣国の王フォーティンブラスが悪人だったら、またぞろ奸策などが始まりそうだが、おおよそこの人物は正常で健全な精神を持つもののようであり、だからこそ、この悲劇を正しく認識する事ができる。個体レベルにおいて、(一応)正しきハムレットは死ぬが、ハムレットを含んだ悲劇は、フォーティンブラスらによって悲劇として正しく認識される。この認識があるからこそ、作品は終わる事ができる。リア王の終わりも、パターンとしてはハムレットに近いように見える。
 
 こうした事を現実の問題として考えてみよう。実例を出してもいいが、嫌な思いをする人もいるだろうから、抽象的に考えてみる。現実に実際に起こっている事…例えば、理不尽な殺人行為、あるいは強姦のような事柄というのはそれ自体、被害者の視線から見たら理不尽以外のなにものでもない。被害者の方で過失がまったくないならそれは完全な理不尽で現実にはこういう事はありうる。ただ、被害者の観点から見た理不尽な事柄は、その犯人が現実に捉えられ、社会によってその行為が判断され、犯人は罪に見合った罰を受けるーーーこうした過程が起こると、それは被害者レベルにおける理不尽さというものをもう一つ上の体系レベルで解決したと考えられる。もちろんそうは言っても、被害者の人が非常な損害をこうむったか、生命までも失ったという事実は変わらない。しかし個体レベルでどうしようもない事はもう一つ上のレベルで解決する他ない。

 そしてこの、個体レベルで解決できない事はもう一つ上の体系で解決しなければならないという場合、当然、その社会はある程度の正常性を持っている事が要求される。世界のあり方、司法のあり方、警察や検事や弁護士のあり方にはある程度の正常性が要求される。もし、これらが異常な状態だと、個人レベルで解決できなかった問題をもう一つ上のレベルで解決する事すらできない。個人の理不尽、実存の問題が個人のレベルで収まらない場合はもう一つ上の体系ーーつまりは、国家や社会のレベルで解決するほかない。「小説」というものの構造を体系レベルで考えていくと、世界に対してある正常性が要求される。

 もちろん、現実にはそうなっていない事もある。社会や国家が正常で、公平だとは限らない。権力で理不尽な事がもみ消されたり、裁判官が恣意的な判決を下すことも現実にあるだろう。そしてもし、それら全体が異常で過ちがある場合は、別の共同体によってその国家自体のあり方が判定されなければならないだろう。これは「戦争」という形を取るから「小説」の範囲を逸脱するだろうが、原理的にはそうでなくてはならないと思う。

 これをもっと拡大して考えてみれば、仮に、全世界が間違っていればどうだろうか。全世界の全人間が、自分達の存在やそれ以外の存在を壊滅させる方向に動いている場合は、一体これらを何が判定するだろうか。これをフィクションの問題として考えると、それらが最後に調和されるポイントは、「彼らが正に破滅する事」であり「破滅を破滅と認識する事」だ。体系内部では彼らは皆自分達が正しいと思っているので、体系内ではこの作品はうまく成立できない。しかし、体系の外、架空の一点からこの体系を見てみると、それは「滅亡」し、「滅亡の認識」によってこの作品自体は構成される事になるだろう。この時、この作品は世界を描いているようにみえて、世界を超越した地点を持っているという事になる。

 シェイクスピアの問題に戻るとーーシェイクスピアのような作家に調和性があると考えられる場合、その調和性は世界が一応正常に機能するか機能しなければならないという思想に根源がある。世界は作品の限界を成しており、主人公や登場人物達はこの世界を歩く。もし、世界そのものが歪んでいると、主人公達が真っすぐ歩いても、ゆがんで歩いている事になってしまう。この時、この歪みを判定する機能は作品内部にはなく、それは読者の手に委ねられる。
 
 世界が正常に機能せざるを得ないのは、それが作品内の人物達の価値を判断し、その判断によって作品を終わらせる為にあるからだ。オーウェルの作品の場合、世界が歪んでいる事は最初からはっきりしており、この時、オーウェルは主人公の側に正しさを見ている。しかし個人はどうしても社会に勝てず、社会に判定してもらうほかない為に、個人は社会に敗北する。この時、オーウェルが作品を作る立場はかなり難しい。主人公らが体制に殺されてもそれは理不尽な終わり方であるし、体制に順応しても、主人公達が虚偽を知った上で順応するから、どこかにしこりが残る。ほかに可能な終わり方としては、革命が起こり体制がひっくり返る事だが、作品内でひっくり返った体制を描くと、それは純粋な政治の話へと変わってしまう。そうなれば、大きな流れの大小説になるかもしれないが、小さな自意識の変化としての個人の問題は取り残される。

 シェイクスピアの「マクベス」では、マクベスは王になり、国家を統一するが、それはマクダフらによって討たれる。シェイクスピアは最初から、マクベスが王になる体系に対してその外部を指し示しており、だから、マクベスが、彼自身率いる国の外側の勢力に敗北しても違和感はない。

 「リチャード三世」においても、悪であるリチャード三世は最終的に外部の共同体によって敗北する事となる。これはつまり、シェイクスピアが作品を調和的に考えているという事だろう。ある体系内部において、悪がその体系全てを占めたとしても、それは別の良き体系によって否定される。そうでなければ、劇は終わらない。小説や文学というものがあくまでも個人レベルを問題にする場合、それを判定する判定者である共同体は正当に機能してくれなければ、話がうまくまとまらない。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」は最後は「誤審」によって、間違った判決で終わる事になっている。この場合、その後に、ミーチャ脱出計画が暗示される事によって物語の続きがある事が示される。カラマーゾフの兄弟は本来二部構成で、僕達が読めるのは前半のみだが、それは作品のラストを考えると、実際そんな構成になっていると感じる。もっとも、カラマーゾフの兄弟は前半部のみでも十分完成されている。誤審は誤審であったが、事件の全ては読者に明らかにされた。

 さて、ここまで長々と考えてくると、作品という体系の外部に、もう一つ、作品内には決して入り込まない別の体系がある事に気付く。それは「読者」だ。作品にとって読者は、いくらメタ的表現を使おうと、語る事ができない、外部の体系という事になる。芸術作品がその内部において一つの体系として、終局的には調和的に存在しなければならないのは、外部の読者が調和的ではない生を生きているからではないか…自分にはそのように思える。シェイクスピアの作品構成が調和的に、世界全体の模型として存在しているようにみえるのは正に、現実が理想的ではないからこそ、作品はせめて理想であらねばならないという思想に基づいている。そんな風に自分は考えたい。

 自分のこの長ったらしい論はここで終わる事にする。この文章は普遍的なものとして書いているわけではなく、小説の構造を論理的に把握する為に、自分の為に書いている。…更に付け加えるなら、作品や芸術家が成長するのは、作品の外部に位置する読者が、作品を越えた判断を持ち、その判断を作者の方でもまた理解するという過程があるからだと思う。とはいえ、これは読者が「つまらない」と言えば「本当につまらない」というような、最近の風潮に見られるような読者に絶対の権利を委ねる考えではない。読者の認識力が低いから作品を理解できず、理解できないものを無碍に批判するという読者は無数にいる。本当の意味で作品を成長させるのは作品を越えた認識を持つ読者だが、作品という体系はこの読者の認識をもう一度フィードバックし作品内に閉じ込める事ができる。ドストエフスキーの「罪と場」は、イデーが実在となった現代の青年の存在をもう一度作品内の体系の一部と化した作品だった。そういう意味でやはり、自分は読者に「受ける」作品ではなく読者を越える、読者と争闘するような作品こそが良い作品だと考える。その為に、この文章では小説内部の構成について考えてみた。とりあえずこの文章はこれで終わりにする。

貝殻を拾うポール・ヴァレリー




壮年のポール・ヴァレリーは海辺を歩き
一つの貝殻を拾う
彼はそれを家へ持って帰って じっと眺めた後、ふと
「人と貝殻」という文章を書き始める
…以上は僕の想像に過ぎないのだが
ヴァレリーが「人と貝殻」という文章を書いたのは本当である

                 ※

ヴァレリーは問う 「この貝殻を作ったのは誰か」と
ヴァレリーには貝殻は美しい芸術作品と見えており、同時に
数学的、幾何学的対象として見えている
ヴァレリーは貝殻は一体、誰がどんな目的を持って作ったのかと考え
つい、うっかり自分の神性を発露してしまう
僕はヴァレリーの言葉を読みつつ考える

「自然はそもそも目的論的に作られてはいないが、人間はそれを目的論的に問う事ができる
芸術作品の『作者』の精神の座をイメージする事は、批評家にとっては普通の事だが
人はこれを自然に対しても向ける事ができる
しかし、目的なき自然の中に、ある法則性を見出す事のできる人間という存在は
どうしても自然を生み出した「神」という存在者を想定してしまうだろう
この点では科学者も芸術家も変わらず、両者とも宇宙の中に秩序を見出し
秩序から自らの創造物を創りだす
その経験は今…例えば、一片の『貝殻』へと向けられて
貝殻の奥にヴァレリー自身の『神』を見出す
そのような事もあるのではないか…」

そんな事を考えている間にヴァレリーの幾何学的解説は進む
ヴァレリーは哲学者のように観念にも移行せず、数学者のように概念にも移行しない
彼はやはり普通の自然観察者のように手元の貝殻をいじくりながら
「人と貝殻」を書いている
最後にヴァレリーは海辺に戻って
貝殻を海に放り込んでしまう
彼は一編の詩を書きおおせたから、もう貝殻は必要ないのだ…
貝殻は波の中に消え
ヴァレリーは海辺から去る
それから百年近くも経った現在
僕はヴァレリーの「人と貝殻」という文章を片手に持って
その「目的性」を問おうとしている
海辺に佇んだポール・ヴァレリーがある日、貝殻を拾い
その目的性について思考したように

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