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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

小説における物語の機能について考える

 


 物語の作品上の機能についてずっと考えている。物語というのは、小説作品という形式を考える場合、どうしても必要なものではない。エンタメであれば必須であるが、筋のない、優れた小説は沢山ある。

 何故小説というものには物語の機能が必要とされるのだろうか? (この場合、ドストエフスキーや漱石をイメージしている) …もちろん、読者を楽しませるため、では答えにならない。「そういうものだから」も答えにならない。

 …ドストエフスキーの小説を想起してみる。罪と罰、悪霊、カラマーゾフの兄弟はドストエフスキーの五大作品の中でも成功作だと思うが、これらの作品は同じ特徴を持っている。(よく考えれば白痴もそうだ。未成年は読んでいない)

 これらの作品ではまず何らかの事件が起こり、それが解消される。それは普通の事ではある。問題は、例えば、「罪と罰」などにおける主人公の自意識は、殺人行為という外化した現象として現れてしまうという事だ。この現象をめぐって、「他者」が現れる。つまり、殺人行為に至るまでは主人公の青年の内的描写で作品は成立するが、それが現実に外的なものとして現れてからは、他者がその行為を巡り、運動する。この時、主人公自身も、自分の犯した行為に大して、苦しめられたり、その意味を考えたりする。
 
 人間の主観や自意識というものは元々、外側の行為に大して批評的に働くものである。例えば、僕が何かの意見を言う時、それはこの世の沢山の物事、過去の作品、自分の体験などを踏まえて、自分の意見を言う。これは批評的な行為である。しかしこれは行為ではない。…ただ、この僕の意見が世界に持ちだされて、それが他人が詮議するものとなった時、それは、批評が現実的な行為となったとみなしても良いだろう。この場合、現実的行為と僕が呼んでいるものは、主観的なものが外に押し出され、それを他者が審議し、相談し、否定したり肯定したりする…そのような現象だという事がわかる。

 さて、罪と罰という作品を思い起こすと、最後はラスコーリニコフは自白して終わる。これは僕の考えでは、最初、個人の内面的自意識、モノローグだった、ラスコーリニコフ自身の存在、行為が、社会によって定義され、一つの意味を与えられるという事だ。つまり、罪と罰という作品では、非常に多様な自意識を持った個人が、殺人行為を行い、それは他者の関係性を呼びこむ。主人公は他者との関係の網目をたどり(特にソーニャ、ポルフィーリィ)、最終的にはもっとも巨大な他者である、社会による裁きを受ける事となる。社会による個人の判定とは、「法」に代表される。カラマーゾフの兄弟のラストが「法定」である事を思い起こしていただきたい。

 人間の内面とは元々、自由なものである。普通、人は歌を歌う事から始める。つまり、モノローグ的な「詩」である。まずは世界に対する有様を把握し、過去の物事、歴史などを洞察し、それを理解する事から人は成長を始める。そもそもこういう点から物事をスタートしない人は多いが、そうした人は、批評的な観点を欠いている。つまりは、先に提出されたものを受け止め、それを昇華する過程で進歩があるのだが、そもそも過去を消化する気がない人間はひとりよがりな意見に終始する。もっとも、こういう意見も、ひとりよがりでありたい人にはありがたく受け入れられる。

 人間の自意識は過去や出来事を見て、それを理解しようとする。その内に、自分の意見を持つようになる。やがて、それは、過去の誰彼を踏まえた、ある個性的な意見へと成長していく。個性とは過去の土壌から吸い上げられたもの…それによって構成された「私」というある統合体の事だ。「私」が独自な存在である事は、現在があらゆる過去を含むという点から可能な話だ。私は、過去を吸い上げ、一つにまとめ、それに対して個性的な見解を持ち出す。そこに個性があるが、それがまた世界に還されると、今度はそれは世界の中の事実となる。つまり、世界の中の無数の事実から、自らの意見を作り出したものは、その意見を発語し、表明する事により、その意見自体もまた、世界の中の無数の事実の一つになる。そういう円環がある。

 この一つの意見、あるいはその人そのもの…は世界の中でさまざまに審議を受ける事だろう。「つまらない」「くだらない」「優れている」「よかった」…などなど。世界はこの意見を一つのふるいにかける。ここに「劇」の原型がある。こうして、この意見やその人は、世界の中で、審議にかけられ、やがてある決定的な意味を与えられる。社会が、そこに一つの意味を見出す。

 もちろん、世界が常に正しい意味を見出す事など到底考えられそうにない。だから、ドストエフスキーやシェイクスピアの作品も、ニヒリズムの作家から見れば夢想的な、嘘くさい話に見えるのもやむない。実際、ドストエフスキーの「悪霊」はソ連では出版禁止になった。ソ連という国家の一個人、作品などに対する判定は、正しかったとは思えない。

 この場合、問題を解決する方法はソ連という国家の外部の共同体が、「ソ連」という国家を判定する判定基準として正しくなければならない…という事になる。(ハムレットのラストは外国の王がつける事になっている。これは国内のあまりの混乱に対しては、その国以外の秩序でなければ解決できないという事なのだろう) ただ、これは話がややこしくなるので元に戻す。
 
 さて、こうして見ると、ドストエフスキーやシェイクスピアもある理想的観点を取っているように見える。これは実際考えてみると、彼らがいかに大天才だったとしても、ソ連とか北朝鮮のような抑圧された社会ではああいう大芸術は作れなかっただろうと想像できる。つまり、彼らが社会を、個人を判定する基準として通用するものだと信じていたのは、彼ら自身、曲がりなりにも彼らが完全に排除されない世界にいたからだーーーと言えるかもしれない。(ドストエフスキーは死刑になって死にかかったが)

 さて、物語の構成について哲学的に考えてみたが、一度整理してこの文章は終わる事にする。

 
 まず、物語とはモノローグ的にスタートする。文学的に言えば、詩とか、内的な、主観的な一人称の文章だ。客観的な世界はまだ出てこない。客観的な世界を安々と描く今の若手作家がエンタメに流れるのは、そもそも彼らに書くべき事がないからだと思う。彼らは思想的な希薄さを物語の筋や、確定された「リアリズム」の思想で代用する。そもそも彼らに独自な意見、個性はほとんど存在しない(と思える)ので、既存の文学理論を当てはめる事で代用される。

 さて、こうしてスタートした内的告白はそれ自体では物語にならない。それは客観物となって、世界の中を遊泳し、ある判定を受けなければならない。近代小説を作ったセルバンテス、現代の文学の最初となった(と思っている)ドストエフスキーの二人がいずれも、実生活では恐ろしくひどい目にあったという事では偶然ではないように思える。非常に優れた才能、大きな自意識を持つ個人は世界の中を通行し、自らの無力や非力を痛感すると共に、自分自身の巨大な力をも感じた…。彼らが世界の中を動いて、「痛い目」にあったという事は、彼らの物語性の根底に関わっている。

 物語性とは、まず内的な告白としてスタートするが、それが客観的となって、次のステージに入る事になる。内的な告白を持つ独創的な個人は、社会の中である判定を受ける。それは賞賛かもしれず否定かもしれない。しかし、いずれにせよ、この個人は判定を受ける。その中で明確に現れるのが、「他者」である。「他者」は通常、主人公に対して、敵であったり、仲間であったりする。このように、世界全体が彼をどのように判定するかという事の、小さな模型として他者は運動する。しかしあくまで中心となるのは主人公だ。主人公にはまず個性がなければならず、その次に個性は他者との関わりの中で、客観的に浮き彫りにされる。

 最期のパートでは、主人公は世界に判定される事となる。夏目漱石の「それから」でも、主人公の不倫行為は、社会からの判定を受ける事になる。秘めていたものが明るみに出る事で物語は終わる。罪と罰の最期もそうで、カラマーゾフの兄弟はもっとはっきりそうなっている。法定とは意味を一義的に確定する場で、ここで、人間の意味が確定される。人間の意味とは自意識の自由さから元々確定できないものであるが、それが他者を通じて最後に世界によって判定されるという事…その道筋として物語は存在する。今はそのように考えている。

 今書いた事は物語というものに対するメモみたいなものだ。この文章はこれで終わりにする。ちなみに、村上春樹の小説が創りだすいわゆる、村上ワールドというのは構成的には非常によくできていると思う。ただ、それが過去の文豪に比べてどこかこじんまりとしているのは、村上が依拠し、そこからスタートして、そこに還ってくる場所が、八十年代的風俗、またはアメリカから輸入された表面的な文化に留まっているからだと思う。結局、村上春樹の主人公は女と「寝た」り、友達とビールを呑んだり、休日に本を読んだりしている他ない。村上ワールドはそこから出てそこに帰ってくる。それはある観点からすればいい気なもので、本格的な深淵を欠いている。村上春樹作品が非常に心地よくもどこか現実性がかけているのはそこに問題があるように思う。もっとも、他の作家は村上春樹以上に、今の社会に隷属的で、隷属的である事はリアリズムの名の元に正当化されるので、彼らはどこまでもペンを滑らせていける。

 ただこんな事を言いながらも一体なにが隷属的で、何が隷属的でないのかという事は僕自身、よくわかっていない。今の技術ある若手作家が随分楽しそうに作品を積み上げているのを横目で見つつ、「ああはなりたくはない」と思いながらも、自分が何を課題としているかはまだはっきりとわかっていない。これに関してはまだ探求、研究が必要に感じている。
 

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小説というものはどのようにできているかーーーメモ

 

 
 小説というものについて少し見えてきたのでその事について書いておきたい。まず、小説というのは「言葉」で織られている。この事は当たり前すぎる事だが、実は忘れられているのではないかと思う。人が、物語や登場人物、といった事を小説に当てはめる場合、小説の文体や認識の問題は忘れられている。

 小説は言葉でできている、という点から見る事によって、文体論から小説を考えるという方向が見えてくる。ここには比喩の問題も含まれる。比喩は、小説をただ意味作用としてみなすと、無意味なものだ。比喩があろうとなかろうと、物語や登場人物には影響しないようにも見えるが、小説は言葉だから、比喩も大事になってくる。

 では、小説は「言葉」という事から、「物語」「登場人物」にどのように飛躍していくのか。この点は実は難しい。詩から小説へ至る経路というのはどのようなものだろうか。実作者はこの飛躍を無意識的にやっているか、また、詩的表現を無視して、単に小説は事実のつながりであると考えて小説を書く。この点はよく考えると難しい。

 自分の答えとしては…小説が詩的表現としての、言語的な形象から小説に移るには、言葉が生きた実体として運動しなければならない、と考える。詩的表現とは、作者が言語に託した自己そのものである。そこでは、自己は言葉の形象と一体化しているし、しなければならない。しかし、人間そのものを一つの流れる言語である、人間の内面そのものを一つの言語なのだと考えると、プルースト的な表現に道が開かれるのではないか。

 人間は元々、対話的な生物だ。人間は自分の意識の中で絶えず、二十四時間言葉を練っている。意識とは言葉そのものだ。だとすると、それは言葉による表現ーー小説表現に適していると言う事ができる。しかし、言葉には別の作用もある。例えば「ヤマダヒフミ」と僕以外の人が発語すると、それは僕という人間を意味する。この時、この言葉は僕の内面、意識、僕の存在を表してはいない。外側からの言葉は内からの言葉と相反するようにも見える。

 特に論理的な整合性を考えているわけではないのでどんどん進むがーーおそらく、詩から小説への移り変わりは、内的な言語から、外的な言語への移り変わりを示している。人間の内部にある無限の言語が、ある、形容詞的な言語で捉えられていく。例えば、絶えず、うじうじと暗い言葉を内面的に発語している人間は単に「暗い人間」と外部から定義される。しかし、そういう外部からの定義で失われるものがあるのも確かだ。だが、そういう移行がなければ、人間の関係を扱うのは難しい。そこで言語はこれまでと次元を異にする。

 詩から小説まで駆け足で考えたが、小説の構造というのはどうなっているのだろうか。小説の構造、骨組みというのは、物語性にあると自分は考える。小説は物語を綴る、とは一般的な見解かもしれないが、むしろ、物語とは小説的表現、作者が表したいものを盛る容器のようなものだ。今はそう考えている。物語が変化し、終端があるのは、限られた内容だからこそ、作者が自分の表現したい事を、無軌道に発散させる事なく、そこに盛り込む事ができる。バフチンの小説論は画期的で、優れたものだが、バフチンの対話、ポリフォニーの理論だけだと、その空間性のみが強調され、時間的な始まりと終わりの点がぼやけてしまう。小説というのは、人生と同じく、時間的な始まりと終わりがある事によって、そこに限定された内容を持つ事ができる。もし、小説が単に対話を主とする、空間的に無限に広がっていくものだとすると、作者は作品と共にこの空間に無限にさまよい続けなければならない。そこに限界性を課すという所で物語は現れてくる。

 具体的に言うと、プルーストの「失われた時を求めて」は、最後に主人公が芸術家として覚醒するという、限界が課されている。この限界がなければプルーストの作品は無軌道の中をさまよい続けなければならない。また、ユイスマンスの「さかしま」では、作者の批評的内容が綴られているが、それが始点と終点では、その批評自体を対象化する物語性が付与されている。「さかしま」が教える所は、個人の内面は確かに無限だが、それは外的な限界を持たなければ「ドラマ」にならない、という事だ。ちなみに、ヴァレリーなどは物語の点に関して否定的だった。だから、ヴァレリーの作品は「カイエ」という無軌道の無限に空間的な記述に陥ってしまった。彼の作品が現実に我々の眼に触れるものになったのは、現実が偶然という形で、彼の精神に区切りをつけたからだろう。ここでは、ヴァレリーは自分の回避していたものによって、彼自身がごく最低限の限界性ーー劇(ドラマ)を持つ事となった。
 
 ここまで小説というものを素描してきたが、今言った事は本当はもっと精密に論じられなければならない事だ。僕は実際に小説を書きたい派なので、これらの考えはあくまでもデッサンというか、メモ書き程度のものだと思っている。

 ちなみに、小説をテクストとみなして分析する、というのは基本的に読者側の視点に立っている。読者の側の解釈、読みが無限に広がるという事を知るという事は、実際に小説を書く側には役に立つ部分と、役に立たない部分がある。ドストエフスキーは確かに、カーニバル文学、ポリフォニーの小説を書いたが、彼の頭を占めていたのは、ロシアの現実と神、キリストの問題であった。そのように思われてはならない。しかし、そのような思想が何故《・・》、ポリフォニーとして現れざるを得なかったのか。ここに読者としてのバフチンと、作者としてのドストエフスキーが接合される部分がある。小説を書く人間は、自分の技術を持って、正にこの接合部を『実践』しなければならない。自分は小説とは、そのような「ジャンル」だとも考えたくないし、人を楽しませる、面白おかしいものだとも考えるつもりはない。人間は現実に生きていて、人間は言葉を話す。しかし人は何故生きているだけでは不満で、言葉という道具を使って、小説などというものを書かなければならないのか、(「作家になりたい」などの理由も除外する) それに答えるのが本当の小説論だと思う。当然、これは非常に難しい問題となる。…とりあえず、このデッサンはここで終わりたいと思う。


 現代において小説を書く際の思想的問題点



 小説というのはとにかく難しいと感じている。ハワード・ホークスさんのブログをずっと読んでいるが、あまりにも色々の事を考えさせられた。

 小説というのは当たり前だが、言語表現だ。言語しか使わない。これは当たり前の事だが、人は小説について語る時、物語や登場人物について語る。しかしそれは、映像表現でも達成できる事ではないか。いや、映像表現の方がより如実に表せるのではないか。言語表現に特化した文学というスタイル…それを時代に遅れたものとみなすのは簡単だ。これはあまりにも平板な考え方をする人間がいつもやってきた事だ。しかし、映像表現が、表現というジャンルで王様のポジションにいるからこそ、小説というものは何ができるか考えなくてはならないのではないか。

 映像と小説を比べた時にすぐに目につくのは「描写」である。簡単に考えると描写は映像の方が圧倒的に強い。例えば、花瓶の赤が鮮やかな色をしているという事実を描く時、このように言葉で伝えても、どんな赤かはついに見えてこない。見えてくるのは言葉のイメージとしての「赤」であって視覚的な「赤」ではない。一方、映像は一発で「赤」を鮮明に描き出してしまう。

 こんな分析をしていてもきりがないので、大雑把に考える。例えば、詩より小説の方がポピュラーなのは、それが僕らの日常感覚に近いからだ。普通の会話は、詩のような言語表現をしない。しかし、小説よりも映像の方がより日常感覚に近い。僕達は音を聴き、物を見て、会話をして過ごしている。映像には全て入っている。

 映像表現とはそのように、僕らの感覚に近い。だからこそ、小説よりもより一般の人に好まれる。言葉の世界に入っていくには、一度、脳の中で迂回路を辿らなくてはならない。その迂回路が面倒だからこそ、映像の方がより好まれる。では、現在、言葉による芸術表現はどうすればよいのだろうか。

 ハワード・ホークスさんのブログから、ヒュームの知覚の束説から、プルーストに至る回路というのを教えてもらった。これはおそらく、ドストエフスキーなんかも絡んでくる。自分はドストエフスキーくらいしか知らないので、ドストエフスキーについて考えよう。ちなみに、ドストエフスキーの小説を映画化しても、小説に匹敵する作品になる可能性はほとんど考えられない。では、どうして「考えられない」のだろう?
 
 「罪と罰」で、ラスコーリニコフがレストランかどこかに入って食事するシーンがあったと思う。しかし、ドストエフスキーは現代的にこれを描き出す。普通であれば、ラスコーリニコフがいるレストランの描写、彼の身なり、彼の思考などが一つの世界観として言語的に映しだされるだろう。ここではいわゆる自然主義的な小説観をイメージしている。一方、ドストエフスキーはこれとは違い、ラスコーリニコフの内面、特にイデーを描き出す。すると、このイデーの部分の描写がどんどんと膨らみ、外界のレストランなどは消えてしまう。ラスコーリニコフの内面が世界そのものを歪ませている事が、冷静なはずの三人称の視点からも明らかにされてしまう。

 自分はまどか☆マギカの分析でもこれに近い事を言った。まどか達が活躍するのは「裏」の世界であり、表の穏やかな日常世界ではない。そしてこの裏と表の世界は一つの世界として重ねあわせている。
 
 まどか☆マギカやペルソナ4という作品は優れた作品だが、しかしそれがどこかしら通俗的な作品になってしまうのは一つにはこういうフィクション性があるためではないか?ーーとも自分は考えている。しかし、それはドストエフスキーと比べた場合の話ではある。何が言いたいかと言うと、まどか☆マギカにおいてはわかりやすい具現化された二つの世界であったものが、ドストエフスキーにおいては、リアリズムの線をたどった、想像性を飛躍させる事なく、それを具体的、現実のものとして現している。ドストエフスキーの小説は一見空想的であるが、むしろ自然主義よりもはるかに現実的だ。この矛盾が成り立つのはドストエフスキーの現実への洞察方法が強すぎる為に、通常の我々の感じ方、見方をはるかに飛び越えてこの世界を二重化してしまっているためだ。そしてこの二重化から「現代」は始まったーーー。僕はとりあえずそんな風に考えている。

 では、こうした問題をどうして現在に引っ張ってくればいいのか。まず、自分として考えている事は、『人間とは内面に流れる言語そのもの』だという認識ーーそれが先立つという事だ。人間は現在においては一つのイデーとなった。自らの幻想に取り込まれたドンキホーテとなった。人間のうちにながれる言語というのは小説作品では、内面的独白、イデーの描写となってくる。おそらく我々は過去の、部屋や自然を描写する変わりに、人間の内面的言語を描写する事が求められている。これは、人間にとって、精神そのものが物質となった事を意味している。物質となった精神を描写する事、かつてのように、生活している実態としての人間とその人間の内面とがずれている事を認識し、そのズレから逃げ出さない事ーーこの事がまず第一に大切だ、と考えたい。

 しかしそれでは話は収まらない。特に、今のネット社会に顕著な事だが、現代では世界と個人は完全に直結している。自分一個の身に起こった事を、ネットを通じて世界に発信できるという事は、逆もまた然りという事を意味する。つまり、個人は常に世界に見られ、監視されている。個人は世界と直結し、大衆幻想と一致し、世界を構成するが、同時に卑小な個人は世界に押し潰される存在である。私は極小の点であると共に極大の世界そのものだ。この矛盾を現実に受け入れなければならないのが現在の個人だ。

 その個人においては、かつての友情とか恋愛とかはまるで二義的なものに感じられる。これは現代の作家がほとんど見ないふりをしていると思う。現代の作家はこの事に見ないふりをするから、そういう描写ができていると思う。どういう事かと言えば、友情や恋愛というのも、それは世界の幻想に吸収されるか、個人の愉悦や嫉妬に吸収されるかになってしまったからだ。例えば、僕に彼女がいるとして、それは「僕には彼女がいますよ」という世界に対する明言、発信の言葉の中に吸い込まれてしまう。ここではまるで、相手の人と付き合っているのではなく、「彼女」という抽象体と付き合っているかのようだ。この問題を小説的に解いた人間はいないのではないかと思う。(村上春樹の主人公と恋人の描写の仕方に、若干そういう問題で出ているかもしれない。「相手」が問題ではなく、優しく触れ合える「異性」が問題であるーーーしかし、それは「その人」でなくても良い。「その人」と「恋人」というポジションのズレを村上春樹は微妙な形で描けている)

 今、「コンビニ人間」という芥川賞小説が「面白い」という評判らしい。本屋でパラパラ見たが、(ああ、こういう感じか)と思って、それ以上興味は湧かなかった。問題はおそらく、そもそもの描写の方法にあると自分は考えている。「コンビニ人間」はちゃんと読んでいないので文学一般の話にすると、例えばああした小説、また、朝井リョウの「何者」とかは、そもそも僕達がコンビニをしっているとか、就職活動をよく知ってるとか、した事があるとかいう事実にもとづいている。例えば、これをずらして、夫婦間の葛藤を描いた小説、にしても同じ事だ。世界にはそういう事実があり、そういうものを描く価値がある。しかし僕は既に人間は変質していると考えている。一番厄介な事はここだーーーつまり、僕は一人の人間をミクロコスモスだと考えている。だから、「コンビニでバイトする最近の人」を描写するにしても、そこに宇宙全体が反映されていなければならない。何故なら、もはや世界と個人はダイレクトに直結するものとなったから。

 しかし、こんな事を言うと、それを「テーマ」として「描写」として扱えばいいと考える人間が出てくるが僕はそんな事は全く問題としていない。そんな風に物を見ている観点それ自体が現在を映し出せない構造的な欠陥があって、その欠陥は、テーマ、主題、登場人物、物語をいじくる事では解決できない。問題は語られた内容ではなく、そもそもそれを語る起点にある。

 さて、ではこういう問題をお前はいかにして解くのか? …その問題に対する解決法を自分は持っていない。今小説を書いているのだが、これらの問題が処理されなければならない、とは考えている。ただそれが解決されるかはわからない。今の所は問題を提出するだけでこの論は閉じたい。


※芥川賞の「コンビニ人間」は思ったより良い作品だという事がわかりました。ただ全体の論旨は変えなくても問題ないと思われるのでこのままにしておきます。

 フローベールとドストエフスキーの描写の比較


 言葉の面から小説というものを考えみたい。
 
 小説というのは言葉でできている。言葉のみでできている。これは当たり前の事だが、本当に当たり前の事となっているのか疑わしい。僕らは「小説」という言葉を聞くと、すぐにストーリーや登場人物の事を思い浮かべる。しかしそうした事は当然映像作品でもできるし、もしかしたら映像作品の方がよりうまく表現できるかもしれない。

 小説が言葉でできている、とは小説というものの根本的な構造にどう作用するのだろうか。僕は既存の小説家がすぐに「お話を作る人」に落ちていくのを見てきたが、彼らに大して不信感を持っているのは、彼らが言語の抵抗を忘れる事で、彼らの「お話」は成立しているのではないかという気がしてならないからだ。

 小説というのは言葉でできている、という場合、言葉はどのように使われているのだろうか。色々考えられるが、大論文を書く気はないのでイメージしている事だけ適当に言ってみる。例えば、フローベールのような描写

 「シャルルは患者をみに二階へ上った。見ると病人はベッドに横たわって、ふとんをすっかりかぶって汗をかき、ナイト・キャップをずっと遠くへ投げ飛ばしていた。五十かがらみのでっぷりした小男で、顔は白く眼は青く、額ははげあがり耳輪をはめていた。」
 
 こうしてこの文章だけ見ていると、この手の文体は今の作家も普通に使っている事がわかる。フローベールの描写というのは、、フローベール自身が安定した土台の上に立ち、神の視線に立って、物事を映し出す事ができるという前提に立っているように見える。ドストエフスキーとくらべてみよう。

 「そう言うと、彼女は疲れきったような、けだるげな眼差しをじっと彼に注いだ。シャートフは部屋の反対、五歩ばかり離れたところに、彼女と向い合って立ち、おずおずとながら、何か生まれ変わりでもしたように、これまでについぞない輝きを顔に浮かべて、彼女の言葉に耳を傾けていた」

 以上、あげた文章だけで二人を比較するのは無理な話だが、僕自身の意見を提出するために、恣意的に引用したと、この記事を読んでいる人は考えていただきたい。元々、文学研究的に公平に比較するつもりはない。

 さて、こうして見てみると、両者はだいぶ違うように思う。ドストエフスキーとフローベールの文学、どちらが世界に影響を与えたかと言うと、おそらくはドストエフスキーの方が読まれもし、影響も与えただろう。しかし、今の作家が、どちらの文体を採用するかと言うと、フローベール的文体の方が圧倒的に楽だろう。もちろん、フローベールのような精度と高さには到達できないにしても、の話だ。

 フローベールの方法は僕にはそもそも、知識人というものと大衆が分離しているからこそ可能な視線の行使ではないかと思う。描くべき対象と、描かれる対象とが整然と区別されていて、それは知識人と大衆との分離に対応している。フローベールが書斎から世界を眺めた時、世界は明瞭な形で見えた。フローベールの文体の背後には、確固として揺るがないフローベールの視点がある。これは透明で直線的な光線のように世界に光を当てる。この時、人間の精神は事物の中に現れている。ここでも、明白な哲学があるように見える。つまり、個人の精神性は外側に肉体として現れるわけだから、肉体の描写の精細を強めてやれば、自然とその内側も描写される。…もっとも、僕はフローベールの事をよくしらないので、勘違いしている可能性も高い。

 一方、ドストエフスキーの視線は歪んでいるように見える。ドストエフスキーが文学の世界において無類の光芒を放っているのは、ドストエフスキーが彼の視線自体を一から作り上げなければならなかったという事情に原因があるように思える。上記の「悪霊」の描写では、その描写によって、シャートフの女、マリイの魂を描いている。ドストエフスキーの目にはほとんどマリイの顔形は映っておらず、マリイの魂しか映っていない。
  
 「悪霊」のマリイというキャラクターは、ドストエフスキーの筆致を見る限り、平凡なキャラクターだ。しかし、マリイは決して平凡に見えない。マリイはスタヴローギンに騙されて、スタヴローギンの子を身ごもっている。マリイは出産直前に元の恋人シャートフのところに戻ってきて、最終的にはシャートフと和解する。このプロットだけ見ると、それはただそれだけの事だが、マリイがシャートフと和解する前の、マリイのシャートフへの嫌悪、憎悪は明らかにドストエフスキーが誇張して、彼女の魂を徹底的に描き出す為に彼が作り上げた独特の方法である。マリイはもはやシャートフを愛している事が明確であるからこそ、シャートフから離れた自分を許せず、だからこそ彼への憎悪を浴びせかけているのかもしれない。あるいはあまりに優しく、平凡で、柔和にすぎるシャートフに腹を立てているのかもしれない。いずれにせよ、憎悪と愛は紙一重であって、この矛盾をドストエフスキーの登場人物は生き抜いてみせる。
 
 この事はカフカなどと比較可能だろう。カフカの「変身」では、カフカ自身の憎悪と愛情のジレンマは、主人公自身が虫になり、なおかつ人間であるという矛盾として表出される事になる。カフカの小説が幻想的であるにも関わらず、現実的な印象を与えるのはそれがカフカの魂と完全に一致しているからだ。ただ、カフカはこのジレンマの処理を、最終的には、虫=人間、の主人公が排除されるという風に描いている。カフカ自身が人生上、このジレンマを処理できなかったように、作品のうえでも未解決ままに終わってしまっている。(終わらざるを得なかった) そういう印象を受ける。

 さて、この時、ドストエフスキーやカフカのラインは、フローベールのようなリアリズムとは違うかもしれない。しかし、それはそもそも、僕達がリアリズムというものを狭義に設定している故に生まれてくる誤解に過ぎないと僕には思われる。マリイやシャートフの姿をフローベールが描けば、確かに現実に生きている平凡な人間となっただろう。では、ドストエフスキーはそれを誇張して書いたのだろうか。例えば、普通の素人には見えないモノが、その道の玄人には見える、という事がある。地層に詳しい人が、崖の断層を見るとそこに様々な情報を読み取るが、素人にはただの断層としか見えないーーという事はきっとあるだろう。そのような場合、地層に詳しい人は情報を「誇張した」とは言わない。彼は単に、正確に事実を把握したに過ぎない。このように、主体の内部の豊富さにしたがって、外界の豊かさも決定されてくる事になる。

 さて、最初は言葉の面から文学を考えると言ったにも関わらず、結果的には全然違うところに来てしまった。言葉の面から考えるのは、次の機会としたい。それで、とにかくーー小説というものを簡単に振り返ってこの論は終わりにしたい。

 フローベールの視点というのは、おそらく、他の作家にも真似やすいものであると思う。その視点を採用しつつ、現実を描き、そこに過不足のないキャラクターや物語を盛り込むという事はできる事だ。今の小説の主流はそれではないかと思っている。これを直木賞的に、ストーリー重視的に持って行っても、卑小な個人生活を描いていく芥川賞的に持って行っても、事態はさほど変わらない。

 しかし、それはそもそも、描く対象と描く作家とが明瞭に分離している前提の元に成される技なのではないか。現代においてこうした、写実的方法によって世界を描いても、世界全域を描いているという感覚を受けないのは、現代社会において、個人というものが生活を営む静的な存在ではなくなかったから、と僕は見ている。生活している人と、生活を見る視線とはかつてのように明瞭に分離できなくなった。現在では、生活者は同時に、批評家でもあり、作家でもある。知識人でもあり大衆でもある。

 ドストエフスキーの方法は、人間を誇張して描いているように見えるが、彼はむしろ、人間の魂を写実している、と考える事ができる。彼の写実は、彼の視線が外面を突き破り、内面を見てしまう。マリイがシャートフに大して嫌悪を示すのは、彼女の愛をより正確に描写する為に必要な段階だった。また、ドストエフスキーの登場人物はそれぞれがそれぞれの定義に大して食って掛かる。マリイの嫌悪もそうだが、他人が自分に大して一義的に当てはめた定義に反抗しようとする。その極端な例がラスコーリニコフであり、イワンであり、スタヴローギンだ。これらの人物は他人の定義に反抗しようとし、ラスコーリニコフはその挙句に殺人までする。彼らの天邪鬼は例えば、フローベールの小説の登場人物が、フローベールがそれぞれに当てはめる定義に大して、全力で反抗する様のようである。もちろんそうなると、フローベールの小説、小説観は成り立たなくなる。しかしドストエフスキーの小説は正に、「そうした世界」を描いたのだ。

 フローベールとドストエフスキーの比較になってしまったが、この論はここで終わる事にしようと思う。文学を言語の面から考えるという事はまた次にやりたいと思う。自分の頭にはバフチンや吉本の言語論があって、それを僕の文学観とつなげてみたい。



魔法少女まどか☆マギカの作品構成分析

 


 今、虚淵玄のサンダーボルトファンタジーという人形劇(ほぼアニメ)を見ているが、非常に面白い。それで、今回は虚淵玄の以前の作品、大ヒットした魔法少女まどか☆マギカの作品構成について考えていこうと思う。(サンダーボルトファンタジーはまだ途中なので) もっとも、まどか☆マギカだけに話をしぼらず、ストーリーのある作品構成をどうするかという全体的な話にも触れる。

 まず、まどか☆マギカを見ると、虚淵玄は力のある脚本家だという事はわかる。まどか☆マギカの時は、女の子数人のグループが、大きな圧力と闘いながら、葛藤する所が描かれていた。

 キャラクターから考えると、例えば、「美樹さやか」は、普通のアニメキャラクターより彫りが深く描かれている。彫りが深いというのは、他の通常のアニメなら回避するであろう人間の醜い部分もきちんと描けている、描こうとしているという事だ。美樹さやかが好きな人を取られて「魔女」に堕ちていく過程は文学的に見れば、まどか☆マギカの中で一番良い所だろう。

 まどか☆マギカでは、そのように少女達の葛藤は非常にうまく描かれていた。登場人物それぞれに特徴的なキャラクター性があって、それぞれの個性がしっかり描かれていた。一番むずかしいのは主人公のまどかだが、これはごく普通の女の子で、実は一番むずかしい。悠木碧はむずかしい役をしっかり演じきったと思う。

 しかし、まどか☆マギカには欠点があった。自分はそう見ている。それは、サイコパス一期にも共通していて、終わり方がまずいという事だ。特に、まどか☆マギカのラストは納得できるものではない。

 まどか☆マギカのラストで主人公の鹿目まどかが、キュウベエに願いを叶えてもらって、メタ概念みたいなのになって全てを解決するという事になっている。アニメ見ていない人には意味不明だろうが、これを読んでいる人はラストまで見たという前提で話を続けたい。

 ここを見て、首をかしげたという人は結構いるんじゃないかと思う。少なくとも自分は首をかしげた。最後にまどかがキュウベエにそんな願いを叶えてもらうというのはいわば…作品としてのルール違反と感じたのだ。

 バトルアニメというのは通常、何らかの形で主人公が論理的に相手に勝つことが要請される。もちろん、その論理は完璧である必要はないが、例えば、全て偶然で決着がつく戦いというの見ていてつまらない。しかし、ある程度の偶然で相手に勝つというのは見ていても許容できる。現実においても、偶然が問題を解決する事はありうる。…とはいえ、全て偶然ではこまるから、何かしら、相手の弱点を見つけたり、主人公が何かのきっかけで成長したり、戦略を練ったり、というような何かの「過程」がなければならない。過程がなければ、相手に勝つ勝ち方にカタルシスが生まれない。これは「ジョジョの奇妙な冒険」とか、「カイジ」辺りを見てもらえればわかりやすい。

 さて、それではまどか☆マギカのラストはどうだろう。まどかはキュウベエに願いを叶えてもらうという形で概念化して全てを得るに至る。しかし、「そんななんでもあり」というのは、作品内の構成としてどうなのだろうか。例えば、まどかがもう一度この宇宙をやり直して、新たな宇宙を作り出したい、その時、人間は死をなくし、永遠に生きられるようにする、とか望めばキュウベエはそれを叶えてくれるのだろうか。というか、どうしてキュウベエはまどかの願いを拒否できないのだろうか。こんな風な「なんでもあり」に出会うと、ルール違反であるような気がする。何故そんな気がするかというと、作品全体が生み出された土台そのものがひっくり返される事が可能だという事が、作品内で示されてしまっているから、だろう。なんでもありは本当になんでもあり、なので、作品そのものが演じられている、フィクションの土台を作り変える事すら可能になってしまう。そしてまどかは実際にそういう願いを叶えてしまった。

 しかし、こういうメタな、概念レベルでの解決しかできなかったのはそもそも、最強の魔女「ワルプルギスの夜」が『絶対に勝てない敵』と定義されてしまっていたからだった。『論理的には絶対に勝てない敵』にたいしては論理外のメタなポジションに立たなければ勝てない。それで、作品のラストはあんな構成になってしまったのではないか。自分はあの作品のラストには、不満を感じる。

 例えば、これをシェイクスピアの「マクベス」とくらべてみる。マクベスは最後に、自分のライバルに打たれるのだが、シェイクスピアは巧妙に劇としての構成を作っている。マクベスは魔女から「女の股から生まれた者には負けない」という宣告を受けていた。魔女の予言は全てあたっており、人間の中に、女の股から生まれてこなかった人間はいないから、マクベスは自分は絶対に負けないと確信する。しかし、ライバルと最後の決着をつけるにあたって、ライバルのマクダフは、「自分は帝王切開で生まれてきた」と言う。つまり、「女の股から生まれた者には負けない」という宣言には落とし穴があり、マクダフは股から生まれたのではなく、女の「腹」から生まれてきたのだった。マクベスは自分が魔女に裏切られた事を知り、マクダフに討たれる。この構成は巧妙だ。

 シェイクスピアは、マクベスに大して、一見、「絶対に負けない」ような見かけを作るが、その裏で密かにそこに穴を作っている。例えば、ジョジョの奇妙な冒険三部のラストでも、ディオは最強に見える。彼は時間を止める能力を持っているのであり、これに叶う能力など考えられない。しかし、承太郎は

 ① 相手の能力が時間を止める事だと認識する
 ② 止まっている時間の中で目だけ動かせるようになる
 ③ 止まっている時間の中で一瞬動く
 ④ 自分が時間を止め、ディオを倒す

 というように、段階を追って、ディオに到達するようになっている。ここには荒木飛呂彦の工夫が見られる。またここでは承太郎の能力が正確さとスピードさに特化していたという事も、加味しなければならない。承太郎のスタープラチナのスピードが臨界点を越えると時間が止まるーーというようなイメージも作る事ができる。承太郎が作品ラストで急に時間を止めるのはやや性急にも思えるが、荒木飛呂彦はしっかりとその過程を描いて、最後のディオ打倒に説得力をもたせている。

 まどか☆マギカは結果的には大ヒット作になったわけだが、そういうラストの部分は弱いのではないか、と自分は思っている。「ワルプルギスの夜」自体が、人格性を欠いた存在だというのも、「弱点を見つけて戦う」みたいな事がやりにくくなっている要因ではないか。また、少女達に絶望感を持たせる設定を強くしすぎた為に、それを覆す最後のどんでん返しがかなり強引な手法になったとも感じられる。サイコパス一期のラストも自分は疑問を持ったので、サンダーボルトファンタジーでは、うまく収まる事を虚淵さんには期待したい。

                               ※

 この原稿を書き始めた当初はまどか☆マギカの話はちょこっとして終わらせるつもりだったのが、書いているうちにまどか☆マギカの作品分析になってしまったので、このまま最後まで行く事にする。

 まどか☆マギカという作品を思い返して、一番に思い浮かぶのは、暁美ほむらというキャラクターの内的葛藤ではないか、と思う。作品を見通すと、実質、ほむらが主人公のようにも思える。

 暁美ほむらはまどかを救う為に、時間を何度もループして、戦い続ける。暁美ほむらは無限ともいえる長い時間を何度もループして、孤独な戦いを続けてきたのだった。

 まどか☆マギカという作品を優れた作品にしている重要な要素の一つは、この暁美ほむらの孤独な戦いにある。普通に分析してもいいのだが、ここでは現在性というものつなげて考えたい。

 暁美ほむらが、時間の中でループして戦い続けるというのは、ヒットアニメ(ゲーム)・シュタインズゲートと似ている構成だ。また、涼宮ハルヒの消失とも同じような構成と言える。いずれも、時間の中をループしたり、一人だけ違う世界に飛ばされ、世界を元に戻すために苦闘する。

 ここで重大な事は、『真実を知っているのは自分一人だけ』という事だ。上記のサブカルチャー作品が、ただ面白い、楽しいというだけではなく、現在に生きる人が共感できる要素を持っているのは、この点が原因だと自分は考える。これを「疎外」という問題から考えてみよう。
 
 かつて、「疎外」とは歴史的、社会的文脈において編み出されたのだった。例えば、女性が男性に虐げられていたとか、極貧の人間は虐げられていたとか、あるいはある社会階層で、その出自からいじめられきた、など…。それらの「疎外」はかつて、社会的、歴史的な文脈で行われていた。しかし、現代においてはどうだろうか。

 インターネットでは「ぼっち」という言葉が頻繁に使われている。(ひとりぼっちの「ぼっち」) 「ぼっち」という言葉はネガティブな意味で使われているが、それは現代の状況ではむしろ必然的なものではないか。自分が考えたいのは次のような事だ。つまり、現代はネットなどを通じてあらゆる知識、幻想を身につける事となった。これまでの社会では、例えば同じ偏差値とか、同じ地域には、同じ幻想性とか、知識が共有されていた。わかりやすく言えば、「関西人は阪神ファンが多い」みたいな事だ。ここから「巨人ファンは疎外される」のような事実が生み出される。そういう事が考えられる。

 しかし、現代では人は一人、自分の部屋に閉じこもってあらゆる幻想性を身につける事となった。人はネットを通じて世界と直結する。そこで個人は自分の望む幻想をいくらでも拡大する事ができる。そうなってくると、生活世界との間に齟齬が生まれてくる。例えば、学校のクラスメートよりも、ネットで知り合った遠くの人との方がはるかに気が合う、趣味が共有できる、という場合も出るだろう。現在では言葉の壁があるので、まだ日本人は日本人と価値観を等しくするだろうが、その内、自国の隣の人よりも、フランスにいる同じアニメが大好きな〇〇さんとの方が気持ちがよく合う、というような事が起こるかもしれない。その場合、僕達は空間を乗り越えて、自分達の幻想性を元にもう一つの、違う世界を作ろうとしているのだ。その際、学校とか職場とかいう今までの、同じ価値観を共有していたはずの世界は古い世界となり、そこではむしろ、自分の言葉が通じない空間となってしまう。

 まどか☆マギカの暁美ほむら、シュタインズゲートのオカリン、涼宮ハルヒの消失のキョン、これらの人物はいずれも「今までと違う世界」で一人で、世界を元に戻すために苦闘する。この時、僕達はこの孤立に共感するが、それは元々、僕達の中に潜在していたのものではないか、と僕には思える。自分一個の幻想性が、ネットなどを通じて膨らみ、巨大化し、それは学校、職場、家庭、地域コミュニティのような、それまで主要だった世界と全く違うものになってしまう。自分の知識や幻想性が自分の欲望ととけ合い一つになって、それが巨大化するに従い、それまでの生活世界との乖離に悩まされていく。それでは、この狂った世界を元に戻す事ができるのだろうか?

 しかし、この問題にはこれ以上首を突っ込まない事にしよう。僕が言いたいのは上記あげたような作品に僕達が共感できるのはおそらくそんな風な社会的下地があるからだ、という事だ。これまでのように「疎外」というものは、社会における空間的なものとして現れるのではなく、むしろ個人の中の幻想性として、いわは平和な世界の中に別の世界が重ねあわせるような形で現れるものとなった。個人の思想、哲学、幻影は一見社会の中で平穏に生きている人のなかで極めて狭隘なものになる可能性がある。それは、知識を我々が自由に手に入れられ、自分の好きな幻想を自分の脳内で加工できるようになった所からスタートしている。まどか☆マギカ、シュタインズゲートなどでは、平穏な世界に暴力的な世界が隠されていたり、時間の裏でそれが起こっていたりする。その事は、我々が世界の中の真ん中とか端とか、頂点とかが問題ではなく、むしろ、二つの世界が同時的に重なり合ってい事を意味している。まどか達が戦うのは我々の平穏な世界の、その「裏」だ。この「裏」は実は平和に飽いた我々が作り出したもう一つの暴力的な幻想世界として考える事ができる。例えばネットの炎上、叩きの苛烈さのように。

 まどかやほむら、オカリンは「裏」の世界で苦闘するが、その事は「表」の人達は知らない。「表」の人達は他人という以上に、違う世界の人だ。我々が孤独を感じるのはもはや疎外された社会集団内ではなく、それぞれが生きている異なった世界において、だ。そしてその世界とは我々自身が自分の脳内で作り上げたものだ。フィクションの中ではそれは具体化され、「自分達だけが見えているもの」とか「異なった時間軸」において表される。そんな風に考えることもできる。

 ついでに言えば、ペルソナ4、ペルソナ3でも同じ事態が起こる。世界は狂っているが、その事を知っているのは自分一人か、自分の仲間達だけ……ここでは疎外の概念が表されている。そして、疎外された者でなければ、物語の主人公である資格はない。言い換えれば、物語の中の主人公とは、社会と離反し、己の孤独を抱えているという点で必ず狂気性を抱いている、と言う事ができる。他者からは狂人と見えるが、己からは世界が狂気と見える。セルバンテスのドン・キホーテは、上記の作品よりもはるかに幻想性と現実性をかね備えた傑作だが……深入りするのはやめよう。自分の言いたいのは要するに、上記の作品の主人公の疎外に僕達が共感できるのはそれなりの意味があるのではないかということだ。
 
                             ※

 後、言うべき事があるとすれば、『敵』の問題だ。これを自分は少し特殊な見方をする。

 自分は、エヴァンゲリオンやまどか☆マギカにおける敵(「使徒」、「魔女」)が非人格的な、絶対的な悪であるかのように描かれている事はかつての達成からの後退だと思っている。かつての達成とは、富野由悠季の「機動戦士ガンダム」あるいは「イデオン」だ。

 「ガンダム」や「イデオン」では、敵は相対的なものとして描かれていた。敵と呼ばれる者が、味方である自分達と同じように痛み、苦しみ、悩んでいる複雑な存在だという事ははっきり示されていた。僕の憶測では、富野由悠季は戦争の事を考えていたのではないかと思う。かつての二次大戦の時、人間が敵を絶対悪と想定した……その事に対する反省があったのではないか、と思う。一方、富野よりも後の世代に生まれた庵野秀明、虚淵玄は、敵を絶対的なものとして想定してしまった。ここで、ドラマは一元的に、平板化されてしまった。自分はそう見る。しかし、こちらの方が視聴者には受け入れられやすいのだろうと思う。どこからかやってきた巨大な、絶対的な悪が人間を襲うという設定は、その悪を討つ自分達の善意、正義を素直に肯定してくれているかのように感じる。敵と味方が相対的だと、いわば爽快感がない。しかし、爽快感を取り、敵ーー味方の相対性を捨てるのは、ドラマとしてみれば一歩後退だと自分は考える。僕のこういう考えは少数派だろう。人が絶対的悪を想定したがるのは、現代の平和への倦怠、自分へのいらだちがあるためではないか。破壊衝動が、正義という見かけを取って現れるとき、我々は容易く色々なものを絶対的な敵として想定してしまう。平和な社会に生まれ、平和な世界に生きているからこそ、絶対的な敵を想定したがる我々の心性は興味深いものがある。

 ただ、今は、シナリオの全体の構想を富野由悠季、虚淵玄、庵野秀明という個人名に被せてしまった。実際は商売がらみなので内部で色々あると思う。別に個人攻撃をするのがこの文章の目的ではないので、「とりあえず」そういう個人名にシナリオを還元した、という事は言っておきたい。具体的には会社の指定とか、色々な兼ね合いがあるだろう。

 まどか☆マギカという作品は元々そのように、「敵」を絶対的なものとして想定していた。だからこそ、それを上回る最後の結論はメタ的な、作品の土台を壊すような強引な解決方法となってしまった。この辺りは、バトルアニメなどは考えなくてはならない点かもしれない。最初に風呂敷を広げて、「敵」を巨大に強いものにするのは簡単だ。絶対に勝てない敵、を想定するのは簡単で、それで読者を威嚇する事はできる。まどか☆マギカはそこから、少女の絶望をうまく描く事ができた。しかし、まどか☆マギカは少女の絶望を描くのは上手でも、救済の方はうまく描ききれなかった。そこにカタルシスはうまれなかった…と僕は見る。これは虚淵玄の今作、サンダーボルトファンタジーではうまく解決される事を期待したい。


                              ※
 
 さて、これまで色々な事を、まどか☆マギカという作品を中心に語ってきたが、思ったより分析できなかった気がする。まあ、予想通りと言えば言えるが。

 あと付け足す事があるとすれば、まどか☆マギカはペルソナ4などと同様に、穏やかな学園生活をしっかり描けているので、その反転としての死、残酷さ、裏の世界などの切り替えがうまく効いている。穏やかな世界の描写を適当に切り上げると、その裏面である真っ黒な世界が際立たない。最初から残酷さや不気味さばかりを表に出した作品は、製作者が意図しているほど残酷だったり不気味だったりしない。これは裏表、陰影をうまく使えていないからだろう。(単純化しすぎかもしれないが)

 それと、まどか☆マギカに限らないが、今の日本のアニメは大抵、学園物となっている。これはオタク(僕含めた)が、JKやJCが好みだという嗜好的な要因があるのだろうが、もう少し掘り下げて考えると、今の日本には、たいていの人が共通して経験する「場」が高校や中学くらいしかない、という事が考えられる。非正規労働が増えている今、サラリーマン漫画などは共感しにくくなっている。ある程度自意識が発達していてドラマが作れて、なおかつ誰もが一応は体験しているだろう場は、中学、高校辺りに求めるしかない。そういう要因もあって今は学園モノが多いと思う。しかしおそらく、もうすぐにでも、学園という「場」も誰もが共通に体験する場ではなくなるだろう。僕はそう見ている。そうなった時、人々が見ていて素直に共感できるドラマ、それが展開する「場」はどこになるのか。今、この答えをはっきり出している人はほとんどいないと思う。今はズルズルと後退して、かろうじて学園がドラマの場となっている状態だ。先の事はわからない。

 さて、自分がまどか☆マギカという作品を通じて言いたい事はあらかた言ってしまった。この論考自体は元々、まどか☆マギカを論じるつもりではなかったがなんとなくダーッと書く事になった。今、虚淵玄のサンダーボルトファンタジーという人形劇がやっていて非常に面白いので、話の皮切りにと、まどか☆マギカを出したらまどか☆マギカ論になってしまった。まあ、自分が言いたい事は、サンダーボルトファンタジー面白いので、虚淵さんに最後まできっちりうまく締めてもらいたい、という事だ。しかし、サンダーボルトファンタジーは面白いけれど、多分、ブルーレイあんまり売れないんだろうな…とも思う。面白い作品を作ったからといって売れるとは限らない。ということで、最後に、サンダーボルトファンタジーが面白いよ!という宣伝で、この論考は幕を閉じる事にする。

レンブラント・リ・クリエイト展感想

 


 横浜そごうでやっているレンブラント展に行ってきました。正確にはリ・クリエイトなので、本物の絵画ではなく、極めて忠実に再現された模造品なわけですが、専門家の人が(おそらく)きちんとやってくれているであろうから、「レンブラントの絵を見てきた」と言っても良いと思います。美的価値と骨董価値は違うわけですし。

 で、見てきた感想ですが、正直、自分の絵画鑑賞能力が低いので、あまり大した事も言えません。ただ、レンブラントという人は恐ろしく頑固な人だったのだろうと思いました。飾られている絵はほとんどどれも背景を黒にしていて、黒色の中に黄色なんかで光を浮かび上がらせるというスタイルを取っているのですが、ほとんど全てがそういうスタイルで描かれている。レンブラントという人は非常に、芸術的に頑固な人だったんだろうと思いました。
 
 レンブラントの絵では「夜警」が有名ですが、これは一番大きい絵だから代表作という事になっているだけの事だと感じました。「夜警」以外も、レンブラントの絵は素晴らしい絵ばかりで、どれを代表作と言っても文句ない。レンブラントは素晴らしい絵を沢山作ったのだと感じました。ただ、その背後にある精神にはどこか、陰鬱な、というか、ほがらかでのびやかな作品というのはほとんど一つもなかったと思います。

 僕が特に興味を惹かれたの自画像です。レンブラントの若い時の自画像も、晩年の自画像も、その目の中には悲しい光のようなものが宿っていました。恐ろしく透明な目つきをした、この世の悲しみを全部味わい尽くしたような顔が目の前にあり、それは一緒に絵を見ている他のお客さんより(そして自分自身よりも)はるかにリアルなものに感じました。ある時代、ある地域に、このような哀しみを抱いた男がいたという痛切な思いを感じました。

 あとは、レンブラントとは直接関係ないですが、やはり、絵画というのは現代でいうアニメーションやCG、最近だとARとか、そういうものと連続的につながっていると思いました。僕が芸術に関して納得できないのは、クラシック音楽であるならそれだけで高級だとか、純文学ならばそれだけで大したものだとか、あるいはフローベールやドストエフスキーを歴史的産物とみなして権威化して、その他を軽蔑するという態度です。こういう態度がなければ商売が成り立たない人が一定数いて、また芸術それ自体を味わう能力がなく、雰囲気や香りに酔いたい人達もかなりいて、そうした領域においてこういう態度が成り立つのでしょうが、僕はそういうものが好きではありません。で、レンブラントの、闇の中から光を浮かび上がらせる技法は、絵画だけにとどまっているものではなく、光とか映像とかいったものに対する指向性みたいなものを感じました。レンブラントが今生きていたら映像作家になった…というと言い過ぎでしょうが、重要なのは絵画というジャンルではなく、人間性の発現としての色彩や線、光、闇の交錯なのだと思います。そういう所でレンブラントは努力しているように感じました。

 あとは、レンブラントの絵は結構主題的な絵が多く、ただ絵を見ているだけでは理解できない所も沢山あると感じました。具体的に言うと、キリスト教に関する知識や当時の信仰心、レンブラント自身の思想について知らないとわからないような事が沢山あると思いました。ただ、レンブラントはキリスト教的な聖性を描き出す為に、闇の中の光という、彼の技法をうまく使っているように思いました。彼の技法と彼の主題とはその点では一致していたと思います。レンブラント展を見てきた感想はそういうものです。会場には、中学生は無料という事で中学生の子が沢山いましたが、中学生がレンブラントを見ても正直つまらないんじゃないかと思います。学校の課題で来ている子が大半だったのでしょうが。十年後、二十年後に自分の意志で再びレンブラントを見ようとする子がまた出てくればいいんじゃないか。そんな事を思いながら、僕は展覧会をあとにしました。

 
 

ブログ・The Red DiptychのHoward Hoaxさんについて

 The Red Diptychというブログをずっと読んでいる。僕はアメコミは無知なので、文学・哲学の所を重点的に読んでいる。それでその感想を少し書こうと思う。

 ブログ主は、Howard Hoaxという人だ。この人のブログを読んでいると、非常な博識、読書家だという事がまず分かる。しかしそんな人は他にも沢山いる。問題はネットワークのように広がる知識を一つにまとめあげる知性だ。知識よりも断然、知性の方が重要だ。

 Howard Hoaxさんは文学に関する深い知識、あるいは映画、アメコミの知識、それ以外にも社会的な事柄や哲学の知識をつなぎあわせて自在に論を展開している。文学史的に文学を論じる事もできるし、小説内で使われている文学理論を精密に読解できる。また作者の視点に立つ事もできる。(作者の視点に立つ事はあまりないが、ジュネ論などはそうだと言える)

 では、こういうHoward Hoaxという人はどういう批評家、思想家なのだろうか、と僕は考えてみるが、これに関する答えは見当たらない。また、多分、見当たらなくて正解なのだろうと思う。

Howard Hoaxさんが小説というものについて語る時、小説というのが雑多な要素の詰め合わせ、現実描写や心理描写など、色々なものが一つに合成されている事に重点が置かれている。Howard Hoaxさんが小説というものを取り上げるときに、このように全てを言葉というもので一元的に溶け合わせされてしまう事が高く評価されている。多分、この事はHoward Hoaxさん自身の批評家としての特色を語るものだと思う。つまり、Howard Hoaxさん自身、一つの混沌《カオス》であって、Howard Hoaxさんは自身、単調な結論を持たない事を恐れていない、という事だ。Howard Hoaxさんを一人の思想家と見る時、どこを切っても、はっきりした結論が出ないように見える。しかし、おそらく、それでいいのだ。彼は人生における見えない様々な起伏を楽しんでおり、それと同様に、小説内に盛られた色々な抵抗をときほぐす事を楽しんでいる。人生を平板で、平らな道にならしてしまい、明瞭な答えがなければ我慢できないという、自分の色で世界を全て一色に塗り直さなければ気が済まないという人間はこれまでにも沢山でてきたし、現在にもたくさんいる。しかし、Howard Hoaxさんはそれとは逆に、対話を、多様性を重んじている。口先だけで多様性を重んじる人間は沢山いるが、彼はそのあり方、批評それ自体においてそれを実現している。いい加減な事を口先で言い、結論部にちょっと「多様性は大事」と書き込みつつ、自分の党派性が自分の思考の限界である、というような評論家とはわけがちがっている。

 しかし、今言ったような要約ではこの人を要約しきる事ができない。Howard Hoaxさんが様々な理論、知識を使いながら作品を読み解いていく姿は楽しい。正直言うと、保坂和志や磯崎憲一郎などは、彼らの小説よりも彼らの小説を読み込むHoward Hoaxさんの方がはるかに面白いのではないかと思う。まあ、世界は面白いか面白く無いかだけには切り分けられないが……The Red Dipthというブログは不勉強な自分には非常に勉強になった。これからも注視していこうと思っている。


The Red Diptychというブログ

タイトルのブログを今読んでいますが、非常に面白いです。コメントとか拍手が結構ついているので、その界隈(?)では有名なのかもしれませんが、今日はじめて気付きました。URLはhttp://howardhoax.blog.fc2.com/


読んでいて、色々目から鱗が落ちる所がありました。例えば


「近代小説を書き作中で描写をなす小説家は、そもそもの前提として、国民国家によって準備された百科全書が作品の外部に存在していることを必要とする。ある言葉がいかなる対象を指示するのかが固定され、その国民国家の内部で合意が形成されており安定して流通することが自明の条件となっているからこそ、小説家は言葉によって描写をすることができる。

 十九世紀、ヨーロッパ各国で近代小説が確固たるものに形成されゆくその渦中で、例えばメルヴィルは『白鯨』のごとき異様な小説を書いた。……これはつまり、メルヴィルは国民国家によって事前に準備された百科全書を自明の前提としなかったがゆえに、自ら鯨に関する百科全書を編纂してゼロから文脈を形成するそのプロセスをも含み込む形でしか小説を書くことができなかったということではないかと思うのだ。(略)

 アメリカは単一民族・単一言語の国民国家を形成することが不可能な場所であったからこそ、ヨーロッパ型の近代小説にとって完全なオルタナティヴとなるメルヴィルのような存在を生み出し得たのではないか。


こういう洞察はオリジナルなものなのか、誰かの影響、流れで言っているのか、僕にはわかりませんが、非常に感心しました。これから吸収していこうと思います。

メールアドレス

実験的にメールアドレスを公開します。何かあれば送ってみてください。左のプロフィール欄にあります。

yamadahifumi(アットマーク)excite.co.jp

です。無精なので、適当だと思いますが。

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