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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

最期のモーツァルト

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モーツァルトの最期に関する小説です。多少、史実を拾っていますが、基本的には創作です。この所は死について考えています。

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 「正しさ」の適用の仕方は正しいのか



 世の中には意見や論争というものがあって、そういうものが成立するにはそもそも、「正しい意見がある」という前提がなければならない。僕はこの前提そのものを疑っているので、人とはあんまり議論したくないと思っている。そもそも、僕達が同じゲームをしているかどうか、信じられないからだ。

 しかし、まあ仮に、人類全体にとって正しい意見、正しい答えというものがあると考えてみよう。それは人類全体にとって間違いなく、合理的に、恩恵となる正しい答えだ。しかし、この答えは理解したり、認識したりするのが難しくて、人類の半分はこれに対して否定的見解を持った、としよう。人類の半分は正しい意見を理解できず、「否」を唱えた。では、この時、「正しい答え」を理解しているもう半数の人達はどういう態度に出るのだろうか。

 「これは間違いなく人類に対してプラスとなる答えだ。お前達はどうしてわからないんだ!」「あんなもののどこがいいんだ。ふざるな! これは〇〇の陰謀だ!」 そんな風にして人類の半分と半分が戦い始める。ここで勝ったのが、正しい答えを握った方だとしよう。だとすると、正しい答えを握った方の半分の人類は、残り半分の屍を足元に見つつも「正義は勝利せり」とさわやかな凱歌を上げる事ができるだろうか。この時、正しい答えのその「正しさ」が立証されたのだと、勝利した側は胸を張って言えるだろうか。また、このような争いが未来に起こらないと誰が約束できるだろうか。

 僕が懸念しているのは、「何が正しいか」ではなく、正しさの適用の具合の方である。仮に正しい答えがあるとしても、それを一つのテーゼとして残りを排除するという具合に運動する時、世界はどうなるだろうか。しかし、世界は正にそういう方向に動いているように見える。つまり、世界は「正しさ」を掲げようとしている。この世界はそういう方に運動しているように見える。

ベラスケス 「ラス・メニーナス」

Las_Meninas,_by_Diego_Velázquez,_from_Prado_in_Google_Earth


                            はじめに


 ベラスケスの「ラス・メニーナス」の批評をやってみようと思う。絵画に対してはあまり詳しくないのだが、自分の論理がどこまで通用するか試す感じでやってみる。(時代背景考えず、抽象的にやる) もとより、余技としての批評ではある。

 さて、「ラス・メニーナス」を見てみよう。この絵画をじっと見ていると、不思議な感覚に打たれる。きっとこの絵画の批評を書いた人は自分の中のこの不思議な感覚をなんとか言語化しようと試みたに違いない。まずそんな考えが頭に浮かぶ。

 ラス・メニーナスは室内画である。しかし、室内画なのに、不思議にこの空間は手前側と向こう側の二つの空間に開かれている。室内画であるのに、この絵は非常に豊かな重層性を感じさせる。この重層性は画家ベラスケスの論理的な精神を感じさせる。
 
                            扇型の空間

 まず、目を付けるべき一番大切なポイントは左手にいる画家だろう。この画家ーーベラスケス自身はこちらを向いて絵筆を持っている。目の前には大きなキャンバスがありキャンバスはこちらに背を向けていて、見えないようになっている。

 元々、絵を見るとはどういう事か。そこから掘り起こして見よう。自分のウィトゲンシュタイン論から引用してみる。

 「一枚の風景画を想像して欲しい。山の絵でも川でもなんでもよい。その時、我々はそこに語られず(描かれず)示されているものを想像する事ができる。それは画家の視点である。画家の視点は、絵画から逆算して想起する事ができる。しかし絵画の内に、画家の視点、そして画家自身は描かれない。たとえ、この風景画に絵を描いている画家自体を描いたとしても、その絵を描いている画家自体は描く事はできない。つまり、描く「手」は描かれるものとは違うものである。」

 上記の引用で、僕は「主体」を明らかにしようとしていた。つまり、主体とは語られず示される。主体とは絵画においては、作品内部に現れずに、それを描く画家の事である。画家の存在は絵を通じて、描かれず、示されるのである。この事は、ベラスケスのように、メタなポジションを取っても変わらない。描かれた画家を描く画家(ベラスケス本人)を描く事は、やはりできないのである。

 もう一度、絵を見てみよう。左手にいるベラスケスはこちらを見ている。こちらを「描いている」。しかし、彼を描いた当のベラスケスは、一体どこにいるのか。絵の中のベラスケスを描いたベラスケスは、絵画の「こちらがわ」にいる。この時、私達は「こちらがわ」のポジションに立って、絵を見る。すると、すでに不思議な事が起こっている事に気付くだろう。つまり、私達は見る存在であると同時に見られる存在ーー描く存在であると同時に描かれる存在だという事になる。これは散々指摘されただろうが、考えると非常に不思議な点だ。

 しかし、それだけでは、この絵画の不思議さは説明できない。上記の説明だけだと、画家がこちらを向いて絵を描いているという構図だけで十分だろう。ラス・メニーナスにはまだまだ不思議が眠っている。

 画家ベラスケスは僕らから見て左手にいる。中央にいるのは王女であり、その位に応じて、中央の一番光が当たる位置にいる。王女は鑑賞者の視線が最も集まるポジションにいる。王女の側には二人の侍女がいる。右側には小人が二人いて、足元には犬がいる。この時、ベラスケスは見えない主体(鑑賞者)を中心にして、扇型の空間を作っている事に注意しよう。図にしてみよう。
 
        扉・男
    鏡・夫妻     
              
             男、男2
 画家 女官 王女 女官 小人 小人
キャンバス         犬
   \          /     
     \       /
       (鑑賞者)  

 後で使うので、後ろの男も書き込んでおいた。さて、この時、見えない主体をぐるりと囲むように、扇型の空間が現れている。この扇型の空間の支点に当たる所に鑑賞者がいて、鑑賞者は見えない。絵の外部にいて、なおかつ絵に対して決定的に重大なポジションを占めている。

 この時、扇型の空間の「外部」に後ろの人間はいる。特徴的なのは、扇の背後の、鏡に映った王夫妻であり、扉をあけている男だ。後で詳しく述べるが、この二つのポジションは扇型の空間の「外部」にいる。扇を形成している人はこちらを向いているか、横を向いているかで、背後の人には気づいていない。だから、背後の存在(特に、扉を開けている男)の、空間の異質性は強調される。扉を開ける男は周囲が暗いのに一人だけ光を受けている。この男の存在を知っているのは、扇型の空間の支点の鑑賞者(私)だけであり、扇を形成している少女達は彼を知らない。だから、男の異空間性はいやでも強調される事になる。

 この扇型の空間を形成する方法を、ベラスケスは他の絵でもやっている。ベラスケスに「アラクネの寓話」という絵がある。ここで、ベラスケスはいわば、ラス・メニーナスに到達する寸前の段階の手法を僕達に開示している。「アラクネの寓話」でも同じように手前に、鑑賞者を支点とした扇型の空間を形成している。扇の弧の部分には糸を紡ぐ女達がいて、その奥にはまた別の人達ーー別の空間があるーーという方法である。

 「アラクネの寓話」は、後ろの空間に光を当てて、背後の空間の異質性が強調され、手前の扇型の空間との違いが示されている。これは「ラス・メニーナス」と共通している。しかし、「ラス・メニーナス」にあって「アラクネの寓話」にないものはこちらを見て絵を描いている画家であり、また、明暗の使い分けだ。こちらを向いている画家がいるからこそ、ラス・メニーナスには「アラクネ」にはない空間の二重性ーー描かれるものと描くものとのーーが現れている。また、ラス・メニーナスでは明暗をくっきりと強調させる事により、特に最後方の男の扉を開ける光が強調されている。この最後方の男が開けている扉は、前面の様々な効果が前提されているおかげで、強烈な効果を生んでいる。表面的には、真ん中の王女が一番スポットライトを浴びているのだが、実はもっとも重大なポジションを占めているのは背後の扉の男ではないかと僕は考える。

 伝記的な詳しい事は知らないが、ベラスケスは宮廷画家であり、官史でもあったから、王女を一番目立つ所に置かなくてはならないという事情があったのもかしれない。しかし、ラス・メニーナスにおいて真ん中の王女は傀儡であり、この絵は見るものに不思議な空白感を生んでいる。ベラスケスの描く肖像画は皆こちらを向いて、非常に透徹とした視線を見せている。この視線はまるで、現実を乗り越えてもう一つの世界を見ているようなーーもう一つの宇宙を見ているような、そんな錯覚を起こさせる。おそらく、ベラスケスの内部にあった空白の宇宙は、「ラス・メニーナス」という大画によって始めて完成された、閉じた円環を持ったのだろう。中央の少女は傀儡であり、ベラスケスが本当に描き出そうとしているものはそれとは違うものに見える。もう少し、詳しく見ていこう。

                      夫妻の鏡面、ミシェル・フーコー

 言葉は不器用だから、一つずつ要素を潰していこう。まだほとんど言及していないポジションで、鏡に映った左手の王夫妻がある。これは、調べた所、王夫妻の視線は鑑賞者の視線と一致するらしい。つまり、絵の中のベラスケスが見ている鑑賞者は、王夫妻という存在として、鏡面に写り込んでいる。簡単に言えば鑑賞者=王夫妻という事になるらしい。

 美術批評の世界がどうなっているのか全く知らないが、この辺り、僕は自分勝手に考えたい。僕は、王夫妻と鑑賞者をイコールとは考えたくない。何故かと言うと、そうなると、不在、空白としてもっとも謎めいた存在である鑑賞者(主体)にわずかに実体の影が射してしまうからだ。不在としての鑑賞者こそが最も重要なポジションを占めるというこの絵の不可思議さを考えると、鑑賞者にこうして実体がわずかでも与えられると、この絵の神秘性は損なわれてしまうように感じる。そういうわけで、美術批評の事を考えず、(あくまでも個人的に)王夫妻と鑑賞者は違うものとして考えてみたい。ただ、鏡面に映った王夫妻は、手前の扇型の空間とは違う、別の空間を告知するものとしては、隣の、扉を開けている男と同じように、空間の多重性を形成する事に役立っている。王夫妻はこちら側を見つめており、それはこちらを見ている王女、画家、小人、扉の男と共に、不在の鑑賞者を指し示している。こちらを見ている人間は絵画の左右にきっちり配置されており、その為に我々は「見られている」という感じを強くする。この時、三つの異なった空間があり、①扇の弧の部分の三人 ②鏡面の王夫妻 ③ 扉の男 である。このように多重的空間がこちらを指示しており、それが絵の複雑さを増している。王夫妻の鏡面はその空間の一つを占めている。

 全体の構成については簡単に触れられたので、「ラス・メニーナス」という作品のイデー自体に迫ってみよう。つまり、この絵を見た時に鑑賞者が感じるだろう「不可思議な感覚」に自分なりの言葉を当てはめてみたい。

 叩き台に、フランスの哲学者ミシェル・フーコーの「ラス・メニーナス」論を使ってみたい。フーコーの批評は例によってわかりにくく、まどろっこしいのだが、どっちにしてもフーコーが自分の歴史哲学を象徴させるものとしてベラスケスの絵画を使っている事は明白である。
 フーコーは「ラス・メニーナス」という絵画を時代の「継ぎ目」を象徴していると考えている。彼はそう本気で信じているというよりは、「歴史断層」という自分の哲学を代表させる為に、ラス・メニーナスという絵画を引用している。

 フーコーの「知の考古学」「エピステーメー」という基本的な歴史哲学のスタイルは反ヘーゲルとして生まれたものだと思う。元々、フーコーは共産党にいて、後、共産党やマルクス主義にうんざりしたのだった。ソ連やマルクス主義にうんざりしたという所から、それらの哲学を知的に中和しよう、修正しようという意向が生まれ、ドゥルーズやフーコーのような抽象的な概念を利用する哲学が生まれた。つまり、哲学と政治とを再び分離させようとする、しかし、哲学と政治とは互いに緊密な対面状態にあって、それらはマルクス主義のように合流して一つにさせたくはない、という微妙なポイントをフーコーらは狙っていたように思う。
 
 ここではフーコーには深入りしないが、フーコーの哲学がサルトルらとの権力争い、フランスの高度なインテリの知的闘争であった事は容易に想像できる。そこからフーコーの、歴史を空間的に区切っていく哲学が生まれ、その哲学に過去のあらゆる表現、哲学、政治は埋め込まれる事になった。

 フーコーがヘーゲルとは違う歴史観を持ち、それを展開したにせよ、彼がヘーゲルやマルクスと同様、歴史を一様に「展望」できる視点に立ったという事は確かだ。フーコーは「主体の消失」を証明する事により、ある権力意識に抵抗しようとしているが、彼が歴史そのものを一望できると前提している事がすでに、ある知的地盤(エピステーメー)に立っているように僕には見える。僕はあらゆる地盤を踏み抜こうとする、デカルト、パスカル、ウィトゲンシュタイン、ヒュームらのようなオーソドックスな哲学者により好感を持っている。

 これはミシェル・フーコー論ではないのでフーコーの事はこれぐらいにしよう。フーコーはベラスケスの絵画「ラス・メニーナス」を歴史的文脈の中に埋め込もうとしている。僕はこれを逆さに振って考えてみたい。つまり、歴史が「ラス・メニーナス」を見るのではなく、「ラス・メニーナス」が歴史を見るのだ、という風に。

 何故、僕はそう考えるか。「ラス・メニーナス」の最大のポイント、不在の鑑賞者のポジションは様々に変更可能である。ここは(フーコーの言うように)、鑑賞者が自在に変化する事ができる。「ラス・メニーナス」が描かれ、ベラスケスが死んで百年、二百年経った後も、鑑賞者のポジションに現れる人物は次々に変化する。今、僕は二千十六年に存在する一人の日本人ーー男性だが、こんな人間が「ラス・メニーナス」を見るとはベラスケスは想像もしなかっただろう。しかしきっと、最初にラス・メニーナスを見た人間が感じたと同じような不思議な感覚が、現在の日本人ーー「僕」にもやはり訪れるのである。この時、我々がラス・メニーナスを見ているのではなく、ラス・メニーナスが我々を見ているのだ。ラス・メニーナスはフーコーの考えるように歴史的文脈に埋め込まれていると共に、その透徹した視線で鑑賞者の我々を見ている。我々人間の集団が歴史を形作るものだと考えると、ラス・メニーナスが我々(歴史)を見ているのだと考えてもそう間違いではないだろう。

                          通路を伝って

 左手の画家はこちらを向いて絵筆を持っている。キャンバスは裏向きになっていて、そこに何が描かれているかは分からない。しかし、画家はこちらを向いて、描いているわけだから、「私達」「私」を描いているのだろう。

 鑑賞者である「私」は見えないポジションに立っている。しかし、絵の中の人物の何人かはこちらを注視している。私達は「自分」が見られている事を知る。この時、「自分」は相互に交換可能だという事を私達は観念としては知っている。しかし、それにも関わらず、私達はこの絵の前に立っている時、他でもない「私」が見られているという感覚を味わうのである。

 フーコーに足りないのはこの観点だった。フーコーは一般的な、抽象的な概念としての鑑賞者を絵の前に立たせる。しかし、彼、フーコー自身は巧妙に一歩引いた場所にいて、鑑賞者と絵を交互に見ている。しかしそれでは「絵」は見えないのではないか。まず、フーコー自身が絵の前に立たなければならない。そしてフーコー自身が絵の前に立ち、「ラス・メニーナス」を見た時、「ミシェル・フーコー」という固有名詞は消え去るのである。彼はもはや「鑑賞者」という一般的概念でもなく、ただ絵を見て、絵に見られている一つの存在になるのである。ここで私達は、絵の前で始めて「自分」に還ってくる事となる。

 「私」がこの絵を見る。この時、「私」と名付けられる存在を「ミシェル・フーコー」と呼ぼうと「ヤマダヒフミ」と呼ぼうとそれは関係ない。絵の前で固有名詞は消失している。フーコーが絵の前に立てば、彼はキャンバスに描かれているのはフーコー自身だと考える。僕が絵の前に立てば、キャンバスに描かれているのは僕だろうと考える。そしてこれは一般的な概念としての、他者としてのミシェル・フーコーやヤマダヒフミではないのだ。
 
 絵の中の画家はこちらを見て、キャンバスに絵を描いている。扇型の空間は、こちらと関連性を持っている。私達はおそらく王女を知っている。小人も犬も、右後ろの辺りの男も一応は知っている。「私」はきっと、この扇の中心となれるような関係の存在であるに違いない。こう考えると、ここから歴史的、社会的研究を始める事ができるだろう。この人物は〇〇王朝の〇〇何世である、という風に。しかし、そうではないのではないか。私はこの絵を見ている時、本当にこれらの人と知り合いであり、扇の中心に位置しているのだ。「私」はふと気づくと、絵の中にいる。私はーー現在、二千十六年に生きている日本人なのに、それとは全く違う一つの空間の中にいる。この時、鑑賞者は自分自身を二重化させている。この存在の二重性こそが、ラス・メニーナスを見た時に感じる不思議さの正体ではないのか。そう気づいた時、私達は絵の中から現実の自分を見ているのではないか。現実の自分が絵を見ているのではなく、絵の中の私が、現実の私を眺めているのではないのか。段々、そんな気がしてくる。

 しかし、絵はそこで終わっていない。それだけであれば、扇型の空間、画家、キャンバスがあれば事足りる。可視的な物の中では最も重大なポジションーー扉の男がいる。この男は暗闇の中で、鑑賞者ーー「私」にしか見えないような場所で扉を開け、光を内部に入れている。これによって、「私」ーーー「絵画」の絶えず相互に影響しあう空間に、もう一つの「道」をベラスケスは取り入れている。扉の男は、絵画と鑑賞者の間の絶えず戯れ続ける空間に一つの通路を導き入れている。ベラスケスはまるで、「これで終わりではない」と言っているかのようだ。絵画と「私」は相互に向き合い、気がつけば私は絵画の中にいて、もう一人の私を見ている。私は見られていると共に、見ている不思議な存在である。しかし、この対面的な二つの空間、その整合性に描き手としてのベラスケスは最後の明るい道を取り入れている。ここで終わりではない、絵画は絵画内部の通路を伝って別の世界に出て行く事ができるのだ。私達は自分を絵の中で形象化した後、扉の男の通路を伝って、これまでとは違う世界へと出て行く。一体どこへ? 答えはない。しかし、ここで終わりではないのだ。絵画と「私」の閉じた、完璧な閉鎖性とは違う通路をベラスケスは開けてくれているのだ。これが彼が構図上、扉の男を必要とした理由ではないか。世界の完璧性と閉鎖性だけではなく、まだ先があるが、それは『本当に』画家に描けないものである。絵画は絵画を通じて、絵画でない世界へと通じている。そしてこの通路を伝って運動していくのは、歴史、空間によって変化していく様々な鑑賞者である。形象化された鑑賞者はそのように、「ラス・メニーナス」という空間の通路を運動していくのである。

 過去を現在に生かせ



 批評家のミハイル・バフチンは「より大胆に可能性を理由せよ」という短い論文で、僕達にとって非常に有益な事を話してくれている。(これを巻末につけた平凡社の編集には感謝しなければならないだろう)

 バフチンが言っているのは、僕の言い方で言えば「過去を現在に生かせ」という事だ。バフチンは文学研究について語っているのだが、普遍的な事を言っている。

 例えば、シェイクスピアは元々、当時のイギリス社会で活躍した存在だった。シェイクスピアはあくまでも一人の人気劇作家として、エリザベス朝で活躍したのだった。しかし、今の僕達は、普遍的な人間性を文学的に表現したシェイクスピアという存在を知っている。この時、シェイクスピアの凄さを褒め称え、その大きな人間性を評価した後の批評家達は間違った事をしていたのだろうか? シェイクスピアは当時の社会の中でのみ活躍した存在だったのに、それをより大きな時間軸の中に解放したという事はやりすぎなのではないか?
 
 これに大して、バフチンは肯定的な意見を示している。バフチンはある文学作品はその社会、環境にのみ閉じ込めていてはならない、と語っている。それはより「大きな時間」に開放されるべきものである、と。そしてシェイクスピアにはそれだけのものがあるのだ、と。

 つまり、シェイクスピアのような巨大な存在は、その当時の社会環境、世界の中だけに留まっているのではなく、現在の視点からその普遍性を取り出し、より大きな歴史的時間に解放してやるべきなのである。私達が今知っているシェイクスピアは、そのように大きな歴史的時間に解放されたシェイクスピアなのだ。それは批評家の誇張ではない。大きく言えば、批評家はそのようにして、人類に大して貢献しているという事になる。

 バフチンはこの事を一つの文化、時代に対しても当てはめている。例えば、「古代ギリシャ人が唯一知らなかった事は自分達が古代ギリシャ人だったという事だ」、というジョークがある。バフチンはこれを取り上げ、古代ギリシャという文化は、それとは違う「他者」の文化の視線を受け、光を受け、解釈、理解される事により、開かれた多様な存在へ変わっていくと述べている。文化とはそれ固有に閉じこもっているのではなく、それとは違う他者の視線の元に包摂され、開かれ、より大きな歴史的時間に導かれていく。

 僕の観点では、これは「過去を現在に生かす」という事だ。過去を過去として閉じ込めているだけではなく、過去を学ぶという事は、過去そのものをより大きな歴史的時間に解放してやるという事を意味する。過去を現在に生かす事はおそらく、未来そのものを形成する。思えば、天才と呼ばれる人は大抵、死後の方が評価が高い。何故そうなるかと言うと、彼は「その時」だけでなく、より大きな歴史的時間に生きているからだ。現在に生きている人間のみが、過去を時間の中に開き、利用する事ができる。そうする事は、今この瞬間を生きている人間の特権でもあり、義務でもあるのだろう。時間はただ一つ流れているのではなく、私達が作るより大きな時間というものも存在するのだ。


社会的見地から考える「神聖かまってちゃん」

 

 
 自分はもっぱら神聖かまってちゃんというバンドを純粋にアーティストとして論じてきた。今回は見方を変えて、社会の方から見てみようと思う。ただ、社会、歴史に関する自分の知識はあやふやなので、推量的に、アバウトに論じる。

                            ※

 さて、神聖かまってちゃんというバンドが出てきたのは、の子が二十三歳くらいの時だから、今から七、八年前くらいだろうか。思えば時間が結構立っている。
 
 神聖かまってちゃんというバンドはネット上の活動を主としている。あまり知識のない人は、神聖かまってちゃんを「頭のおかしい狂人」あるいは「狂人を演じている人」「ライブで滅茶苦茶する人」みたいに思っているだろう。そう思われるのは神聖かまってちゃん自身がそう演じてきたからだ。ただ、ここにはある種の必然性みたいなものがある。の子という、外面とは違い、非常にオーソドックスな詩人的魂を持った芸術家が社会の表面に浮かび上がるには、どうしてもあのような不自然な態度を取らざるを得なかったという事だ。僕はこの事を良いとも悪いとも思っていない。今は、純粋に社会と個人との関係で捉えていく。

 昔の話からはじめよう。夏目漱石や森鴎外が活躍した日本近代文学、その始まりにおいては、文学を志したり、文学をしている人間は大抵、東京帝国大学という場所に集まっていた。優等生タイプには見えない、太宰治ですら、東京大学の仏文科に所属していた。これは現代とはだいぶ状況が違っている。現代では芥川賞作家が、日雇い労働者だったり、ニートだったりフリーターだったり、派遣労働者だったりしても、誰も全く驚かない。つまり、知識というのが一極集中から、全体に分散したという事だ。

 漱石や鴎外の頃は僕らが思い描く文学というものの正体すらつかめていなかった。近代文学というのは西洋からの輸入でもたらされたのだが、当時のインテリ達はその正体をつかもうと必死だった。だから、漱石や鴎外がドイツやイギリスに留学したというのは、ただ日本のエリートが海外に行ったというだけでなく、日本全体の文化を背負っているという気勢があった。最初の文学者は大抵、語学ができた。最初の文学者達が外国語を習得して東大にいたというのは、昔の文学者は今と違って賢かったのだと人は言うかも知れないが、僕はそんな風には考えない。彼らがそもそも文学を志し、それを理解しようとするには、東京帝国大学という狭いコミュニティであれこれ翻訳したり考えこんだりしなければいけなかったわけで、今僕たちが当たり前のように知っている事を知る為に彼らは必死だったのだ。現代のように翻訳で、いろいろな国の文学や哲学を知るという事ができなかった。漱石や鴎外をはじめとする知的エリートは、国家や社会全体の動静とその運命をともにしていた。

 現代は全く状況が代わっている。現在、東大に行くという事は知的ステータスのような意味合いが強い。「いや、東大にはもっと意味がある」という人もいるだろうが、まあ、それはいい。いずれにしろ、昔と違い、我々は様々な知識、情報をネットで、図書館で、自由に得られる事になった。それに伴い、かつての知的シンボルだったものは形骸化した。現代でも一応文壇というものが存在して、それは日本近代文学の延長にあるかのような感じだが、実際存続しているのは雑誌名などの表皮的なもので、知識、知性の本質は全く違う形に変わってしまった。

 神聖かまってちゃんを作り上げた「の子」という人物の経歴は高校中退である。高校中退の後、の子はニートやフリーターをやっていたらしい。だが、の子は自分で音楽を勉強し、音楽につけるPVも一人で作り上げている。の子のそれらに対する教養は僕は別に、幅広いものでも深いものでもないと思う。しかし、高校中退した、どん底の人間が己を具現化する為の様々な知識は、ネットなどが彼に用意していくれていたのである。彼がアーティストとして自己表現する為の素材は、彼が規定のどこそこにいかなくても得られたのである。またその表現も、自宅にいながらネットで世界に向かって拡散できたのである。この二点が、の子という、オーソドックスな詩人が世界に向かって開かれていく過程で重要な要素である。の子が高校中退で、社会的にはいかに恵まれていなかったにせよ、彼は自分一人の力で自分の得たい知識を得られたし、その成果としての表現も世界に発表できたのだ。これを普通の事だと思うなら、例えば、中国とか北朝鮮とかなら、そううまくはいかない事が想像できるだろう。我々はどん底にいても、一応この社会に生きているという事で、現代日本が我々に与える恩恵は得られるのである。

 ただそうは言っても、問題はある。現代は大衆社会であり、いろいろなシステムが形式化した、固定的な社会である。インテリはただクイズ番組に出て、クイズに答えるくらいしか能がなくなったのは、そもそも僕たちが本質的な意味でのインテリをそんなに必要していないからである。漱石や鴎外のように、社会が進歩発展する上で、未知の領域を開くインテリがそんなに必要と感じられていないからである。つまり、現代は戦後何十年も経って、それなりに発展し、進歩した。だから、大衆に必要なのは彼らの耳目を一時的に潤す人物だったり物事だったりする。それで、インテリもタレントもアイドルも皆、大衆に対して座興を提供する演者となっている。いわば、我々は豊穣故に、座興を見たがっているのであり、それ以上の事は大して望んでいない。(これはこれまでの所の話で、現在は風向きが変わりつつある。だがその事には今は触れない)

 ただ、ここにも一つの問題がある。大衆の前に立つ、つまり「売れる」「スターになる」というのは現代では誰もが夢見る事だが、誰しもがこれを望んでいる為には、過当競争が生まれる事になる。また、人々は長年の平和のためか、自分達の感覚をガリガリと削るような、スキャンダラスなものを望んでいる。彼らは自分達を安定した傍観者の立場に置き、目の前の座興を論評してみせる。この傍観者たちに訴えるには、普通の方法では無理だ。だからこそ、の子とか、ホリエモンのような、おそらくは話してみれば案外普通な人間も、外面上は異常な、普通とは違う、神経を駆り立てるような姿で現れてきたのだ。現代はいろいろな事が麻痺している社会であり、この社会でまっとうな、賢者的な事を言っても誰も見向きはしない。人々が望んでいるのは異常なもの、珍奇なものであり、なおかつ彼らはそれを軽蔑したがっている。他には、自分達が楽に浸れる、都合の良い物語、価値がすぐにわかりやすいモデル、お笑い芸人なとが次々と現れてくる。

 こういう状況の中で、神聖かまってちゃんというバンドは現れてきた。僕の見る限り、の子という人物は、非常にオーソドックスな芸術家である。そういう詩人的、音楽的な魂を持っている。しかしそういうオーソドックスな魂の芸術家が、オーソドックスでない形で現れてくるには以上のような社会が土台にあると考えられる。の子は世間に訴える為に、一応、世間が望んでいる姿に身をやつさなければならなかった。の子はその事を良く知っているだろう。の子は、オリコンで一位になるとか、もっと売れたいとか、Mステーションに出たいとか言っているが、一方ではそれらの事は「どうだっていい」という感覚も持っている。そういう事をインタビューで言っているのを聞いた事がある。

 僕にはの子が何故、そういうのか、よくわかる気がする。一方では社会に訴えかけ、のし上がりたいという気持ち、もっと言えば、人に認められたい、人に自分の価値を知ってもらいたい、「かまって」もらいたい、という気持ちがあり、もう一方ではそういう人々に反発し、自分の作品の中に没頭し、孤独の中に価値を見出している、そういう二人の「の子」がいる。僕にはその気持がよくわかる。の子という人物にはこういう二重性が絶えずあって、この二重性が彼の魅力の源泉をなしているのだと思う。例えばこれと勝間和代を比べてみれば、勝間和代は社会に認められているようで、社会に踊らされている個人の姿が透けて見えるばかりだ。

 神聖かまってちゃんという異端のバンドが、異端というスタイルを取ったのには上記のような状況があったからだと思う。現代ではいろいろな事が形式化、形骸化しており、資格とか学歴とかいうのが、表面的には支配している。資格や学歴が問題になるのは、それらに重大な価値があるからではなく、知識が全体に広がって分配され、差異を設けるのが難しい為に、社会通念上、一応、差異をつくり上げる為にある。もちろん、資格や学歴に価値はあると言ってもいいが、僕は現代の傾向性を言っている。この社会においては差異というものが、根底的になくなってきている。だからこそ、社会通念上、社会構成上、一応の差異を設けなければならない。(2chで年収の話がしょっちゅう出てくるのも同じ事情だろう) 人間は人を見下したがるし、人から尊敬されたくもあるし、「あいつは俺達とは違うから」と言い訳もしてみたいのである。だからこそ、差異は設けられなければならない。その為に色々なシンボルができあがる。

 しかしあらゆるシンボルを持たない、高校中退の少年は独力で世界に己を明かさなければならなかった。だからこその子は「キチガイ配信」みたいな一見異様な行動も取った。この行動が見識ある人から嫌われるのはある意味当然の事である。ただの子の方にはそういう社会に訴えかけるには、自分のやった愚かさが必要であったと感じているだろう。神聖かまってちゃんが世の中に出てくるというのは、そういう現代社会との関係があったと思う。この論自体は、ここで終わる事にする。ちなみに、そういう神聖かまってちゃんがこれからどう評価されるかというのはこの社会自体がどうであるかという事と関連性があると見ても良いだろう。僕としては、の子の仕事の意義は、「ロックンロールは鳴り止まないっ」から「美ちなる方へ」という一連のPVにあったと思う。社会の極小の一部としての僕個人には、これらのPVが一つの啓示として現れたのだった。

マラルメの沈黙、ランボーの逃走  

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 Wikipediaを見ると、マラルメは完全な詩作を目指して、結果、非常な寡作になったそうだ。一方、その対蹠と見えるランボーは、詩作を捨てて、アフリカへ渡っている。

 マラルメが完全な作品を目指して、ついに一つの沈黙に至るという事は彼のありあまる才能を示していると言えるだろう。才能や能力というのはそれが限度を超えると、それ自身を食い尽くすに至る。そういう豊穣な悲劇をマラルメは体験したのだろうし、ランボーも同様な悲劇に陥った。ただ、両者はタイプが違っている。

 ランボーは詩作を捨てて、アフリカへと渡っている。ランボーの魂の音色は例えば「想えば、よくも泣きたるわれかな。来る曙は胸を抉り、月はむごたらし、陽は苦し」に見る事ができる。しかし、これは世界に対する嫌厭の裏返しでしかない。ランボーにおいては世界に対する毒舌と自己に対する愛、自分の懐かしさを歎賞する事は一つの精神の異なった断面に他ならなかった。
 ランボーの中のもっとも美しい歌は次に代表される。

 「鳥の群れ、羊の群れ、村の女達から遠く来て。
 はしばみの若木の森に取り囲まれ、
 午後、生ぬるい緑の靄に籠められて、
 ヒイスの生えたこの荒れ地に膝をつき、俺は何を飲んだのか。

 この推さないオアーズの流れを前にして、俺に何が飲めただろう」

 …もちろん、詩人は何も飲めなかったのである。詩人の口を潤すものは何一つなかった。そしてその事を知っていからこそ、この哀れな詩人はオアーズの流れの前に辿り着いたのである。

 この叙情的な気分、美しい風景が、ランボーの退廃と疲労とが臨界点を越えて始めて現れる場所だという事に注意しよう。ランボーが美しい風景に出くわすのは彼がへとへとに疲れ果て、己にも世界にも侮蔑と慈愛を投げつけた「後」である。世界が終わった後にもう一つの世界があるのかーーー人は疑問を持つだろう。無論、それはある。しかし、それを語る事はできない。ランボーはそれを一瞬、言語化する事に成功したが、それをランボーの目を透して再び見るとは何と辛い事だろう。我が国でも、小林秀雄という哀れな詩人がランボーの目を通じて、「もう一つの世界」を見た。

 ランボーには行き場はなかった。彼の倦怠が、疲労が一つの美しい光景を見たとしても、それは雪解けのように消えていくものだ。一方、マラルメは頑強に己の立場を固守した。マラルメには書斎があり、家族があり、仕事があった。彼には芸術について語り合う、非常に狭隘だが、確固とした小さなグループがあった。マラルメには籠城する場所が僅かに残されていたが、ランボーにはそのような場所はなかった。ランボーという名のついた不良少年ーー愚かな詩人は世界の街路を放浪する他なかった。彼のポエジーはこの宇宙に居場所を持たなかった。だからそれは今でも宙を飛んでいるのである。

 マラルメの主調音は次のようなものだ。「全ての書は読まれたり、肉は悲し」 マラルメもランボーと同様に嘆いているように見える。しかし、マラルメはおそらく、嘆いている自分を嘆いたりはしなかった。マラルメの沈黙はランボーの詩からの逃走とは訳がちがう。マラルメは自分の詩作に籠城し、ついにそのまま外に出られなくなった。そんな滑稽な姿を想像してみても、怒られないだろう。マラルメは詩作を捨てなかったが、それが不完全であり、彼の表現上の意図と表現されたものとのギャップに苦しんだ。彼にとって書く事は不完全だという事は、彼の頭に浮かばなかったのだろうか。どうしてマラルメはアフリカに逃げ出さなかったのだろうか。彼は詩の城に籠城し、窒息しつつも詩作したのだろうか。

 ランボーは己の詩を蹂躙する事が、彼の詩作の全体像となる特異な姿を見せている。これは例えば、哲学を食い尽くす事がその人の哲学そのものであったウィトゲンシュタインのような存在になぞらえる事ができる。これは非常に不思議な事であるが、詩や哲学という語の定義そのものによる。才能ある者、優れた者は、その能力故に一つの絶対的不可能性に突き当たる。しかし、余人には、絶対的不可能性なんてものは能力の不足故に突き当たるものとしか思われない。ランボーが外道の言葉しか持たなかった所以である。彼は人に語る言葉を持たなかった。彼の詩はまるで宙に浮かんでいる。それと会話する事はできない。ランボーはあまりに天使であった。

 ランボーは詩を食い尽くし、マラルメは詩の可能性の海の中で沈黙してしまった。マラルメは広大な詩の世界で一人佇み、その周囲を見る。やれやれ、と彼はため息をつく。「肉は悲し、全ての書は読まれたり」 その間、ランボーはもうアフリカに旅立ってしまっている。彼は詩作を置き去りにして世界の果てに行ってしまった。では、彼が捨てた詩を通じて彼の姿を追う私達はやがて、世界の外に出なければいけないのだろうか。答えは、出ない。

 僕は彼らが体験した悲劇について言う事はできない。ただ一つ言える事は、彼らは人間というより、詩人という名にふさわしい生物だったという事だ。彼らの魂を言葉が侵食した時、その侵食の意味を更に言葉で疑おうとしたマラルメと、それを切り捨てようとしたランボー。しかし言葉はどこまでも追ってくる。全てを嘆いた時、その嘆きは一つの美しい歌となる。では、その美しい歌をまた詩人は嘆くのだろうか? 無限に続く彼らの道筋の中ではどんな光も見えてこない。あるいは彼らの世界はあまりにも光り輝いて力強い。だからこそ、彼らもそれに焼きつくされしまったのだ。その事に僕がかける言葉はない。

 現代では、詩はどこへ消えたのか。全ての物事に自分を預け、傾けないーーつまり、何事にも呪われる事なく、己を客観的な立場に置いておく事が現代の流行なのだろうか。では、詩の欠けた世界を歌う事は一つの詩となるのだろうか。僕はイエスと答える。ランボーとマラルメの姿は遠くで光り輝いている。そして私達の世界はそれに比べれば暗く濁っている。しかし、彼らの姿が近くに見えてくるほど、僕達の身に孤独がやってくる。その時、僕達は詩によって再び世界を力強く見るだろう。その時、この世界はどんな色をしているか? それは僕が答える事ではない。かつて、ランボーやマラルメが見たもの。それは必ずや、まだ存在していない詩人が再び見る事になるだろう。僕はこの現代においても未だにそういう信仰を抱いている。
 

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