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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

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 宇多田ヒカルの簡単歌詞分析

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 暇なので、宇多田ヒカルの歌詞分析でもやろうかと思う。

 宇多田ヒカルというのは僕からすると、村上春樹と同じく、通俗性と純粋性(芸術性)がうまく融合されている、「おいしいポジション」にいるアーティストだ。でも別にこう言っても、宇多田ヒカルをけなすつもりではない。宇多田ヒカルの中では、そういう通俗性と純粋性は彼女の資質の中で、綺麗に融合されている。

 「君に会えない my rainy days
  声を聞けば自動的に
  sun will shine」

 宇多田ヒカルの曲に出てくる恋愛のイメージというのは通俗的なものと言っても良いだろう。それは例えば、浜崎あゆみとか西野カナみたいなタイプが歌う恋愛とそんなに違いがない。でも、詩人としての宇多田ヒカルはそれだけではない力量を持っている。

 「何が欲しいか分からなくて
  ただ欲しがって ぬるい涙が頬を伝う」

 この歌詞の前には「寝ても覚めても少年マンガ 夢見てばっか 自分が好きじゃないの」という詞がある。つまり、歌手宇多田ヒカルは、自己覚醒を呼びかけているわけだが、その呼びかけはそこまで深刻なものではない。ただ、この歌詞での「ぬるい涙」というのは詩人的な感性を感じる。ぬるい涙という語の「ぬるい」には、感性としての「ぬるい」、つまり、何が欲しいかわからないのにただ欲しがる、という甘い感覚の持ち主が流す涙は「ぬるいのだ」という宇多田ヒカルの見方が現れている。つまり、ここで「ぬるい」という語を選択する宇多田ヒカルは、「ぬるい」という語を二重に使っている。これは詩的な言葉の使用として以前に指摘した事がある。つまり
 
 「ぬるい」→温度がぬるい
 「ぬるい」→精神的にぬるい

 というように宇多田ヒカルは「ぬるい」という語を二重に使っている。これは詩人っぽい言葉の使い方であって、言葉の多義性をうまく使いこなしていると言える。宇多田ヒカルの詩人としての力量はこういう所に現れている。

 他にも分析すればキリがないが、簡単な分析はこれぐらいにしようと思う。ちなみに自分は「A.S.A.P」という曲が好きだ。昔、新幹線に乗っていて、物凄く腹が痛くなった時にこの曲をリピートしつつ必死に堪えた思い出がある。まあ、そんな話は宇多田ヒカル本人とは特に関係がないのだけれど。
 

現実世界をオンラインゲームに例える

 


 この世界のあり方は例えば、ネットゲーム、オンライゲームのようなものとして捉える事ができる。もちろん、比喩としての話しだが。

 
 まず、我々はそれぞれにネットゲームに参加していると想像して欲しい。それぞれの人間がコントローラーを握っていて、それぞれの人間はプレイヤーである。プレイヤーはそれぞれ自分の分身を主人公として持っている。プレイヤーは、主人公の行動を通じてゲームに参加する。

 
 ゲームの内容自体はどうでもよい。この現実というゲームで我々は、「自分」というアバターを使って人とやり取りする。他人と関係したり、仕事をしたり、遊んだりする。色々な事をする。とにかく、そういうゲームがあるとする。この時、我々の現実はちょうどネットゲームに似ていると言える。


 さて、自分がこういう比喩で問題としたい事は、プレイヤーと主人公との関係である。厳密に考えれば、プレイヤーはゲームの中に、キャラクター(主人公の事)を通じて参加する。しかし、プレイヤー自身の姿はゲーム内に現れない。あなたがコントローラーを握っている手、あなたが考えている事、感じている事はゲーム内には直接現れない。それはあくまでも、ゲーム内のキャラクターを通じて間接的に表されるに留まる。


 さて、この時、この世界は一つのゲームだ。人はキャラクターを通じてゲームに参加する。この時、プレイヤーは自分の心を知っている。例えば主人公が何かのミスをした時、プレイヤーは舌打ちするかもしれない。しかしこの舌打ちは、自分にしか聞こえないもので、他のプレイヤーには聞こえない。もっと考えれば、そもそも自分のしているゲームに、他のプレイヤーがいるかどうかもわからない。我々はあくまでもこのゲームにキャラクターの一人として参加していて、見る事ができるのは他のキャラクターだけである。そのキャラクターの背後に、本当に(自分と同様の)他人がいるかどうかはわからない。


 このプレイヤーの比喩で自分が言わんとしている事は、人の心、意識、の本質はこのように「語りえず示される」類のものだという事だ。もしかしたら、このゲームにプレイヤーはすでに自分一人で、他は全部プログラムかもしれない。これは現実において、他人は全て実はロボットかもしれない、と考える事に相当する。自分が知る事のできるのは、世界(ゲーム)と、自分の心(プレイヤーとしての自分)だけだ。他人の心は、他人のプレイヤーをゲーム内では見られないと同様に見る事ができない。ゲーム内で見えるのあくまでも他のキャラクターだけだ。


 この世界をこういうゲームだと想定した時、我々がほとんど常にしている誤解は、主人公をプレイヤーと同一視するという問題だ。前にもあげたが、スマップの「世界に一つだけの花」という歌がある。この曲では「人それぞれ違っていいじゃないか」というような内容が歌われている。この時、この曲の中では人は、皆このゲームのキャラクターになぞらえられている。つまり、キャラクターが「私、自分」の全てであり、それが他人と比較可能だという前提に立っている。実はスマップの曲が想起している、「ナンバーワン」と「オンリーワン」の対決という構図は全て、このゲームのキャラクターこそが「私だ」という前提に立ったものだ。そこでは二つのものが対立しているが、実際は同じ構図に収まっている。これまで見てきたように、「私」の本体がキャラクターではなく、プレイヤーの側にあるとすればそれはゲーム内に示されない。そしてゲーム内では他のプレイヤーは見る事ができないから、もともと、「私」とは他人と比較不可能なものとして存在している事になる。


 もちろん、ネットゲームの場合には、人は他のプレイヤーを見る事が可能だ。しかし、この現実というゲームではどういうわけか、自分以外のプレイヤーを見る事はできない。我々の目は画面に釘付けとなっていて、我々の手はコントローラーにぴったりと接着されている。我々はこのゲームを辞めることができない。我々がいかに恵まれていない初期プレイヤーでこのゲームを始める事を強制されたとしても、我々はこのゲームを辞めて別のゲームを遊ぶ事ができない。そういう点はオンラインゲームとは似ていない。ただ、我々が見る事のできる事、語る事のできるのはゲーム内部においてだけだ、という点ではこのように現実をゲームになぞらえる事ができる。そしてこの現実を構成し、その本質を動かすのはゲームの外側のプレイヤーの存在である。しかしそれは他者として、我々には捉えられないものとしてある。しかし、この他者を信じる事でゲームは成り立つのだろう。ここにあるのはおそらく、何が正しいかという論理を越えるもう一つのゲームなのだ。 

俳句と短歌を論じない理由

 

 
 結構前にエニアグラムさんから、「あなたには俳句と短歌とかに関する問題意識が希薄なのではないか」と指摘された事がある。

 実際の所、自分は俳句と短歌は割に好きだ。いや、以前にパラパラ読んでいて、好き「だった」。短歌と俳句は詩の延長線で読んでいて、結構愉しかった。でも、自分は短歌や俳句に関して論じた事はほとんど一度もないと思う。

 何故、短歌や俳句を論じないかと言うと、「よくわからないから」と言う事になる。僕は蕪村が好きだが、蕪村を僕が理解していると思わない。例えば

 「葱買て枯木の中を帰りけり」
 「銭買うて入るやよしのの山ざくら」

 のような俳句が僕は好きだが、僕がこの句を理解していると思わない。僕は、この句を現代的な感覚で捉えてしまっている。しかし、実際、俳句や短歌のような短い文学形式はその背後に沢山のものが詰め込まれていて、その背後を理解しないと理解した事にならないと思う。背後のもの、というのは蕪村が暮らした江戸時代の生活とか、その時代の人々の精神性とか、そういうものだ。そういうものを理解しないと、こうした事は理解できないと思っている。だから、言及していない。

 また、自分が理解していないと思うのは、頭の中に国文学者の折口信夫の存在があるからだ。折口信夫という人は、僕が読んだ限りでは、その天才的直覚で、古代日本人がどういう精神の元で生きていたのか理解できる人だった。折口信夫は例えば、万葉集を読んで、本当に感動してぽろぽろ涙を流せる、そういう人だったと僕は思っている。

 僕は折口信夫はそういう人だったと思っているので、それに比べれば自分のような人間がいい加減な事を言うのは止めようという判断になる。もちろん、自分は普段もいい加減な事を言っているわけだが、その「いい加減さ」というのは自分の中で違った基準の事に属する。自分がドストエフスキーに良く言及するのは、ドストエフスキーが好きだ、感動した、という事が一番だが、それと同時にドストエフスキーに現代性を感じているからだ。現代性という観点からドストエフスキーを論じてもそれほど間違わないだろうという頭があるから良く言及している。

 一方で蕪村とか、芭蕉とかを論じるにはこちらの知識があやふやすぎるので論じられない。こういう事を論じるには折口信夫のように本格的にやらないといけないのではないか。もし、そうでなければ、小林秀雄のように、どこに行ってもその時々に「詩魂」を取り出してくるという事になるのではないか。小林秀雄のようにやるのであれば、自分も頑張ればできる気がするが、そうするとフランスの詩を読んでも中国の詩を読んでも江戸時代の俳句を読んでも、全部同じという事になる。そういうやり方も有益だし、面白いのだが、そうなると、各時代、社会性というものと、詩人の魂とはどのような相関関係があるかという問題意識が消えてしまう。自分は折口信夫のようなやり方の方が、評論としては問題が広がるような気がしている。ただ、これはかなり難解な問題ではある。

 まあ、そういう訳で自分は短歌や俳句を論じていない。でも、もっと年を取ったら、短歌や俳句が好きになって論じるかもしれない。そういう時がこの先、来るかもしれない。

 他に、自分の好きな短歌は次のあたりになる。


 「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」
 「我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に我が立ち濡れし」
 「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ」


 後は、蕪村の「北寿老仙をいたむ」が暗唱するぐらい好きだった。北寿は今でも、非常に優れた詩だと思う。

 

 音楽の根拠の無さ



 音楽について若干わかってきたのでその事について書く。

 音楽というのは、そもそも全然根拠がないものだと思う。自分が音楽評論の本とか、音楽理論とかをパラパラ見ていてもピンと来なかったのにはそこに原因があると思う。

 例えば、ストラディバリウスという高いバイオリンがあるが、その音は素晴らしいものとされている。素晴らしい音を出すから、値段が高いわけだ。でも、例えば僕が今、ストラディバリウスよりも安物のバイオリンの方が良い音だと判断したら、その判断を覆す別の判断というのは存在しない。仮に存在するとしても、それは僕の判断ではなく、他人の判断だ。だから、誰か、優れた耳を持つ人がいたら、その人は僕に「もう少し君は耳の感性を高めたまえ」と言う事はできるが、「君の判断は間違っている」と言う事はできない。何故なら、何を良い曲とするかは、純粋に感性によっているので、そこに正否はないからだ。

 音楽というのはそんな風に、根拠がない。あるとすれば、それは純粋にその人の感性に依っている。だから、感性的に、「ベートーヴェンはよくわからない」と言うのであれば、それに対して「いや、ベートーヴェンは世界的巨匠で…」と言っても仕方ない。ただ、ベートーヴェンが今は理解できない人でも、耳が育つにつれ理解できる可能性は出てくる。でも、理屈はその変化を捉える事ができない。

 だから、様々な音楽理論というものも、自分の感性に沿う形で始めて意味が出てくる。そんな事はない、音楽理論は客観的に意味があるのだ、というなら、その客観性とは何か、と考える必要がある。音楽理論の客観性は我々の主観性に響く上で、意味が出てくる。主観が複数共鳴して客観が生じる。しかし、客観から逆算して、主観に何かを強制する事はできない。しかし、主観が育つ事を期待する事はできる。優れた音楽を作った優れた音楽家は、「いずれ人はこの音に耳を傾けるだろう」と期待する事ができる。でも、「この音楽が論理的に正しい唯一のものだ」と言う事ができない。音楽における論理性とは正に感性そのものの事だ。だから、音楽家はあまりに無力であると共に、自分の感性をそのまま形にできるという点においてあまりに自由である。音楽には色々な党派性とか、師匠ー弟子の関係などがあるが、それは感性ーー音楽の形式に対して補助的なものに留まる。弟子であれば、師匠の音楽があまり良くないと思っても褒めなければならないだろうが、その称賛は真の音楽とは無関係なものだ。

 音楽とはそんな風に、感性に沿った自由なものであると同時に、論理的に人を説得する事ができないものだ。音楽は感性的に人を説得するが、論理的には説得しない。できない。それが音楽の本質だと思う。なので、音楽を理論化し、定義するというのは、結局その人の感性を定義し、論理化するという事に他ならない。しかし、それが音楽において、普遍的なものであるかどうかというのはまた、それぞれの人の感性において確かめられなければならない。つまり、人は音楽を聴いて、自分の判断を高めてゆけば良いという事になる。そこに正否はない。あるとすれば、それは感性の精度という事になる。人は感性によって音楽を聴き、感性によって曲を作る。ではその感性は何かと言うと、そこに根拠はない。我々はなぜだかモーツァルトを良いと感じたり、ビートルズを好きになったりする。それは、小川のせせらぎを心地よいと感じる事のように、「何故だか、そうだ」というものなのだ。

文学にうんざり

 


 自分はずっと文学にまとわりついてあれこれやってきた。しかし、そういう事にももううんざりしてきている。

 タイトル詐欺になってしまうが、僕は文学自体は相変わらず好きだ。しかし、「制度としての文学」には完全にうんざりしてしまった。

 小説家志望というのは、まずは新人賞に送るものと相場が決まっている。各出版社が新人賞を用意している。しかし、その選考基準というのが、僕にはよくわからない。

 例えば、芥川賞を取った作品が、僕にはとても手に届かない高い作品であるならばどんなに良かった事だろう。僕が打ちのめされるぐらい素晴らしい作品だったら、どれほどやりがいがあったろう。芥川賞でもいいし、ヒット作品でもいいが、そういうものを見ても、別にさほど良いと感じない。残念な点はそこにある。最初から、こちら(あるいは相手)の基準がズレていれば、努力する意味自体が不明になる。

 もちろん、こんなものは僕の言い訳と見る事ができる。「お前は偉そうに言っているが、新人賞も取れないではないか」と。しかし、それは社会の価値基準が正しいという前提があるから言える事なのだ。過去の歴史を振り返っても、芸術とは果たしてそういうものだろうか。

 僕は神聖かまってちゃんの音楽に最初に出会った時、自分が本当に叩きのめされた事を知った。の子という頭のおかしな人間は、全身全霊で自己主張をしている。自分に技術があるかないか、自分はプロかアマチュアか、人を感動させるとかさせないとか、そんな事まるで気にしないで己を世界に向かって主張している。自分はその姿に出会い、真に打ちのめされた。自分に足りなかったのは、まさにそこの所だった。自分は今まで色々な事を気にして、はっきりした事を言えなかった。しかし、の子という奴ははっきりと自分の言いたい事を言っている。その時、僕は完全に「敗北」したわけだが、その敗北は僕にとって非常な歓喜でもあったのだ。

 さて、そういう幸運な出会いから振り返って文学の状況を見ると、全く暗澹としている。この状況を見れば、文化の本質がカルチャーからサブカルチャーに移ったのもうなずける。中島みゆきとか、真島昌利とかの方が現行の詩人よりもよほど詩人らしい。優れた才能は、カルチャーの領域にとどまっていない。彼らはその本能で、サブカルチャー的な領域に進出していった。まどか☆マギカの脚本を書いた虚淵玄も、少し前なら小説家になったかもしれない。彼はキャリアの始めを、エロゲーのシナリオライターから始めた。

 そうした全体の状況も考えて、自分は文学というものの状況には心底がっかりしている。でも、そういう愚痴を漏らすのもこれぐらいにしておく。仮に、僕が新人賞に通りでもしたら、今ここに書いてある事を僕が撤回するのは目に見えているからだ。僕はその時は、「文学ほど素晴らしいものはない」と言っているに違いない。そんなものだ。

 

ブログを書く理由がない



 自分はこのブログを七年くらいやっている。結構長い期間やっている。

 それだけの間やっているのだが、別にアクセスが伸びるという事も特になく、反響があるわけでもない。自分の言っている事が伝わっているという感じもしないし、金が儲かるわけでもない。ブログを書いて金を得た事は一度もない。

 別に金が欲しいというわけでもないが、客観的にはこのブログを続ける理由は特にない。自分は言いたい事、言うべき事はある程度言ったので、それである程度満足している。自分の言った事を人がどのように受け取るのかは人の自由だ。

 客観的にはそんな風に、もう書く理由がないのだが、主観的には書く理由がある。僕は文章を書かないと精神的ストレスが溜まるので、それを発散するために書く必要がある。ただ、それをブログにのっけて世の中に発信する意味があるのか、自分でも疑っている。

 こんな事を言っても、別にブログを消したりはしないと思う。更新も、適当にやると思う。ただ、今の自分はそんな気持ちでいる。それ以上の事は特にない。

 天才について

  
 

 他人から見れば、賢い人間と愚かな人間は同じに見えるのだろう。最近、そういう事を考えた。

 賢い人間と愚かな人間はある意味でよく似ている。両者は人々の一般基準を理解できないという点では同じだ。賢者は一般基準を踏み越えるが、愚者はそれに到達できない。しかし人々から見ればそれは同じ事なのだ。

 人々というのは、自分の視界で切り取って相手を判断する。自分の視野が世界の全てであり、それ以上の姿は見えない。仮に天才が、巨大な存在だと仮定しても、人々には彼の「足元」しか見えない。それで、人々には、その人間が天才だという事はよくわからない。彼は愚者と同じカテゴリーに分類される。

 歴史の中に埋もれて、本当に消えてしまった天才というのは沢山いる事だろう。迫害、排除、というのはそれなりに有効なのだ。ただ、天才の語った真理はいずれ、我々の時間を通じて繰り返し発見される事だろう。何故なら天才は時間の終端にいるのであり、我々普通人は時間の始点にいるからだ。

文章を書く難しさ

 


 小林秀雄に「ゴルフの名人」というエッセイがある。

 ある日、小林秀雄の元に、親戚の招待状を持って老紳士がやってくる。彼は「ゴルフの名人」なのだと言う。(プロゴルファーではない) 彼は分厚い原稿を持ってきていて、批評家の小林秀雄に原稿を見てもらいにきたのだ。原稿は老紳士が心血注いだもので、ゴルフ理論と、そこから来る人生哲学だ。小林は原稿を読む前にしばし、老紳士と話し合う。

 老紳士は年齢七十四。彼は貿易に関する商売をずっとやって来たのだが、それと平行してゴルフもずっとやってきた。この年になり、自分の人生を振り返り、「人生夢の如し」という感慨を持った。だから彼は自らが最も知悉しているゴルフに関する本を書こうと思った。それで、できた原稿を小林秀雄の元に持ってきた。

 小林秀雄は直に対面して、話してみて、老紳士が実に魅力に飛んだ人物だという事を感じた。彼の言っている事、「人生夢の如し」という彼の感慨も嘘ではないと感じた。老紳士が帰った後、小林秀雄は原稿を読んでみる。しかし、そこには老紳士の姿はなかった。原稿の上には、作者の魅力は全く刻印されていなかった。つまり、その原稿はダメなものだったのだ。

 老紳士は再び小林秀雄の元を訪れる。小林秀雄は窮して、「文章がいけない」と言う。老紳士はどこがいけないのか、と尋ねる。小林はその時、念頭にある言葉を思い浮かべた。それは原稿に書いてあった言葉で、「フィーリング」という単語だ。ゴルフには、その人にしかない「フィーリング」がなければ駄目だと、原稿には繰り返し書かれてあった。小林秀雄は「あなたの文章にはフィーリングがないのです」とずばり言った。老紳士はその言葉に感嘆し、納得して帰っていった。老紳士は原稿を持って帰った。

 数カ月後、小林は老紳士が死んだという事を、親戚から聞いた。「ゴルフの名人」というエッセイにはそれだけの事が書かれている。

                             ※

 僕が小林のエッセイを最初に説明したのは、ここに、文章を書く事の本質的な難しさが刻印されていると思ったからだ。

 世の中には魅力のある人物、才能のある人物は意外に沢山存在する。才能の塊のような人物だって、世の中には意外に多くいる。周囲の人は、そういう人の魅力を直に感じているだろう。しかし、そういう人が自分の中にあるものを外側に、目に見える形でアウトプットできるかどうかというのは、また別の話だ。
 
 「ゴルフの名人」は魅力的な人物だったのだろう。それは小林秀雄の文章から察せられる。「ゴルフの名人」の周りの人も、彼の魅力を知っていたのかもしれない。しかし、彼が「人生夢の如し」と考え、心血を注いだ原稿に彼はいなかった。ここに文章を書く事の難しさがある。また、ここに文章を書く事の切なさ、あるいはその素晴らしさが同時にある。

 「ゴルフの名人」の文章がいかにまずいものだったとしても、彼本人が魅力的であればそれでいいではないか、と僕達は考える事ができる。通例、僕達はそういう生き方をしている。しかし、そういう僕達もまたその内、「人生夢の如し」という感慨に行き着かないとも限らない。その時、僕達はペンを取るかもしれない。しかし、その時にはもはや、彼の中の大切なもの、彼が世に残そうとするものを外側にアウトプットする技術を習得する時間は残されていない。彼は原稿を書き終えた時、自分の熱情を、自分の存在を原稿に表し仰せたような気がする。しかし、それは気のせいである。彼が知らなかった事は、「書く」という事もまたゴルフと同じように、独特の修練が必要な特殊な分野だという事だ。彼はこの事を知らなかった。そしてそれを知った時には、彼は原稿を持って我が家に帰るしかなかったのだ。

 我々は生きていて、他人の中に独特の魅力を感じたり、強烈な悪意や、神々しい精神を見つけたりする事ができる。その時、抽象的な哲学や文学など必要ないように感じられるかもしれない。他人や自分はこのような生き生きとした実在なのに、何故それを今更、言葉という砂漠の海に帰さなければならないのか。例えば、毎日飲み歩いている大学生が、毎日図書館通いをしている同級生を見て「あいつはなんと馬鹿な奴だ」と考える事もあるかもしれない。そういう時、その大学生は自分が常に人間という生き生きした存在と毎日向かい合っている事を感じている。それに比べれば、活字の不毛さなど何であろう。しかし、にも関わらず、大学生が老年になって「人生夢の如し」と考える可能性もあるわけだ。そうするとまた問題は元に戻される。

 毎日を生きていく事、その事が終わった所から書く事が始まるのかもしれない。しかし、生き生きとした現実の世界を快く感じている人間に書物の世界が灰色に見えてもそれは仕方ないだろう。だが、時間はこの答えを逆転させてしまう。生き生きとした実在の世界が、死という断崖に近づくにつれて灰色に見えてくる。すると逆に、今まで灰色に見えていた書物の世界が黄金に光り輝いて見える。その時にはもう、彼の存在自体が断崖から落下しようとしている。

 文章を書く事の難しさというのは、そうした点にあると思う。「ゴルフの名人」の魅力は、たった二度しか会わなかった小林秀雄という男のエッセイに僅かに刻印された。しかし彼が心血注いだ原稿に、彼の魅力は刻印されなかった。では、何故、彼はそれを刻印しなければならないのか?という問いの中に本質的な書く事の難しさがある。自分はそんな風に思う。「ゴルフの名人」は死を前にして何かを書く必要を感じた。ただ、彼にはそれを成熟させる時間がなかっただけだ。では、彼の魅力はどこに消えたのか? この疑問に「書く」事は答えてくれるかもしれない。しかし、この問いにこうして答える事ができるのは一度人生を廃業した人だけなのだろう。その時、その人には世界が反転して見えるだろう。そして反転して見えた世界を彼はもはや語る事はできない。彼は『ただ』、書くだろう。

神様とほんとうの神様

 


 「ねえ、お母さん」
 男の子は母親に言いました。男の子はベッドに寝ていました。男の子はもう眠る所でした。母親は側に座っていました。
 「どうして、神様っていうのは一人一つなんだろう? どうして皆は、それぞれの神様が正しいと信じて争うの?」
 男の子は母親に聞きました。母親は男の子の顔を見て答えました。
 「それはね、皆が自分の神様だけが、ほんとうの神様だと思っているからだよ」
 「でも、『ほんとうの神様』はそうじゃないよ」
 男の子はそう言いました。母親は男の子がどうしてそう言ったのか、よくわかりませんでした。
 「どうして? どうしてそう思うの?」
 「だって、神様は一番偉くて、立派で、賢くて…だからそんな風に、皆に争いを起こさせる、そんなものじゃないんだよ。ほんとうの神様は、絶対に、たった一つで、一番偉くて、賢くて…だから、皆をそんな風に喧嘩させたりなんか絶対しない。そんな事させるのは『ほんとうの神様』じゃない」
 男の子は真剣な眼差しでそう言いました。母親は男の子の目を見ていました。
 「『ほんとうの神様』は絶対そんなんじゃないよ。皆が、自分の神様がほんとうの神様だって喧嘩している事は、だからそれはほんとうの神様じゃないって事なんだ。それで、僕は『ほんとうの神様』というのを知っている。絶対に誰にも争いを生まない、本当にただ一つの、一番賢い神様を知っている。でも、僕はそれをどうしても言う事ができない。だって、僕がそれを言うと、皆はそれを、『僕が信じているほんとうの神様だ』って思うからだ。ああ、でも…やっぱりほんとうの神様はいるんだよ、どこかに。でも、僕はそれを言う事ができない。どうしても言う事ができない。でも、それはいるんだ、きっとどこかにいるんだ。ほんとうの、ほんとうにほんとうの、ほんとうの神様っていうのは…」
 男の子のまぶたは次第に重くなってきした。母親は少年が眠たくなってきた事を悟りました。
 「無理して話さないでいいわよ。もう寝なさい。神様の事は忘れて」
 「うん、僕はもう寝る…」
 男の子は目をつむりました。男の子は母親の手を握りました。母親は男の子の手を柔らかく握り返しました。男の子は眠り、空を飛んでいる夢を見ました。男の子の見た夢には、神様は姿を現しませんでした。


目的を消失する事


 
 何を目的とするかによって、方法論というのは変わってくる。山頂をゴールとする時と、七合目をゴールとする時では、登山ルートが変わってくる。


 例えば、「モテたい」というゴールがある人にはその為の方法論が必要とされるだろうし、そういうノウハウ本が価値あるものとなる。しかし、別にモテたくない人には、そのために拵えられた方法論は必要がない。


 世の中には様々な方法論が溢れているし、「こうした方がいい」「こうすべき」だという人が沢山いる。しかし、「別にそんな事しなくてもいいや」と思った人に無理矢理「そうすべき」と言う事はできない。「そうすべき」というのは確固たる目的があるから発動される倫理であり、目的が消失した人にはその為のルート自体が無意味となる。


 社会の中で議論され、論争される事というのは、目的が共通しているという前提がされていて始めた成り立つゲームみたいなものだ。このゲームの中では、ゴールはとりあえず設定されている。登山の比喩で言えば、『山頂に登るためにはどのルートがいいか』と議論するようなものだ。しかし、山登りに興味を感じない人はそういうゲームから外れている。ゲームをしている人は、こういう人の存在が厄介に感じるだろうし、『汝、なすべし』という形で彼をゲームに駆り立てようとする。しかし、その人物はゲームの外側にいる。そしてゲームの外側にいる人間はゲームの内部のルールで計る事はできない。


 だから、人が幸福になる為の手段をいくら喧伝しようと、自分は幸福だと決めてしまった人間は文句なく幸福な人間だ。他人が「いや、あの人はそう言っているけど、実は幸福じゃない」と決める事はできない。それはそう言う人の幸不幸の基準で決められたゲーム内の話であり、自分は幸福だと決めた人間は、そのルールの外側で文句なく幸福なのだ。しかし、目的ない終着点だけでは人は段々寂しくなってくるだろう。その時、自分は幸福だと決めたこの人物はまた世界のゲームに復帰するかもしれない。しかし、その場合、彼には世界というゲームはそれまでとは違うものに見えている。そしてこの「違うものに見えている」という事柄も、世界のゲームのルールの外側にある。

文学フリマ・たなかあずささんとVito Foccacioさんの印象

 


 五月一日の文学フリマに行ってきした。そこでプロのアーティストの、たなかあずささんとVito Foccacioさんとちょっとお話させていただいたので、お二方の印象を書こうと思います。自分にとって、お二方は違った意味で好印象だったので、その印象が失われない内に言語化した方が良いと思いました。


 まず、たなかあずささんですが、この方はモデル兼イラストレーターをしている方です。有名な方ですが、僕はお会いするまで知りませんでした。
 この方は非常に美人で、イラストレーターも務めている方です。そういう感じだと、近寄りがたいとか、プライドが高いとか、そんな事をついイメージしてしまいますが、実際にはこれほど話しやすい、親しみやすい人はいないと感じました。
 自分は他の方も交えてちょこちょこ世間話をさせていただいた程度なのですが、人間に対する敵意とか、言葉の裏側とか、嫌味なものとか、そういうものが一切感じられませんでした。少し話しただけで、まるで昔からの友達のような感覚で話す事ができました。そんな人は僕は始めて見ましたので、驚きました。もちろん、言葉の裏、何か裏で考えている、という感じも僕は人間臭くて好きなのですが、たなかさんは非常に率直な人であって、その端麗な容姿もあって、天使か妖精の類なんじゃないかと感じました。(ああ、こういう人も世の中にいるんだなあ)と自分は感心しました。また、この方はプロのアーティストとして活動されているので、社会人としてもピッシリしているという印象受けました。自分の二十歳前後の頃とくらべると、雲泥の差です。


 Vito Foccacioさんはラッパーで、SQUASH SQUADというグループのメンバーです。少し話しただけで、相手の中に何らかの哲学がある事が認められたので、飲み会の時に、隣の席に移動して、僕の方からあれこれ質問しました。僕の哲学についても少し話しました。
 Vitoさんは文学にも造詣深かったので、その話もしました。僕が「神聖かまってちゃん」の話題を出したりしました。技術、内容、意味、表現といった事について論じました。Vitoさんの哲学と僕の哲学がぶつかって、良い緊張関係であったと思います。
 Vitoさんの印象としては、繊細さ、弱さ、臆病さなどという負の感情と、それとは逆の暴力性、攻撃性が絶えず自分の中で葛藤しているという感じでした。Vitoさんはそれら二つの違う感情を絶えず自分の中で統合しようとしている、そんな風に感じられました。あるいは、その統合の方法というのが、Vitoさんの表現それ自体なのかもしれません。


 お二方にはそういう印象を受けました。僕は無名で一人でやっているだけなので、プロのアーティストの人と話す機会はほとんどないので、良い刺激になりました。自分は引きこもり気味の人間ですが、こういう出会いがあるなら外に出るのも悪くないなと思いました。

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