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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

第二十二回文学フリマ

5月1日の東京の文学フリマに参加します。

「アヴァンギャルドでいこうvol.5」by Shiny Books@第二十二回文学フリマ東京(ブース番号:ツ-13〜14)
https://c.bunfree.net/p/tokyo22/4875

上記のブースの誌面に僕も投稿しています。友人の山田宗太朗さんが編集をやっています。フリマは五時に終わりなんですが、僕は仕事の関係で三時くらいからブースに行こうと計画しています。よろしくお願いします。

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村上春樹と横光利一の間違い

 


 村上春樹はドストエフスキーのような総合小説を書きたいという念願を持っていたらしい。その結果が「1Q84」なのかもしれないが、現状、村上春樹とドストエフスキーの作品を比較する事は不可能に思える。そこでは思想的な規模があまりに違いすぎるからだ。


 昔、横光利一という作家がいて、村上春樹と同じような事を考えた。村上春樹はおそらく横光利一の作品を読んでいないと思うが、パターンとしては同じだと思う。


 横光利一が主張したのは、ドストエフスキーのような作家の作品はいわば「総合的」であり、「大衆文学」と「通俗文学」の長所を併せ持った作品だという事だ。横光利一は村上春樹と同様に、ドストエフスキーのような作家を形式的に眺めている。横光利一もそういう考えから、彼の思う総合的な小説を書いたのだが、横光利一をドストエフスキーと比較する人はほとんどいない。


 横光利一と村上春樹が何を間違えたのかははっきりとしている。彼らはドストエフスキーとかトルストイとか、そういう作家を形式的にしか見ていない。言い換えれば、ドストエフスキーとかトルストイを芸術の形式性からしか捉えられていない。だから、それだけを本質として取り出した彼らの作品はドストエフスキーやトルストイの作品よりは遥かに力が弱く、思想の威力が小さい。


 ドストエフスキーやトルストイのような大作家に取って、彼らの通俗性と芸術性を成り立たせた本質は、芸術の外側にあった。夏目漱石の作品にも芸術性と通俗性が両方あるが、それはただ一つ、近代日本の宿命を夏目漱石が自身の肩に一人で背負ったという、漱石自身の宿命に求められるべきである。漱石が自身の重荷と格闘する時、ああした作品が現れるのであり、それを「純文学にして通俗文学」とか「悪霊のような総合小説を書きたい」と考えても、それは間違えてしまう。

 
 これを哲学的に見れば、形式を支配するものはその外側にあるものなのだが、それは形式の内部に現れない。トルストイが、ドストエフスキーが、自身の人生と人類全体の悲惨や幸福をどう思ったのかという格闘の歴史は作品として表出される。しかし、一度表出されてしまえば、それは芸術作品としてしか解し得ない。この「解し得ない」というところから、村上春樹と横光利一は自分の理論を作り上げた。実際、ドストエフスキーもトルストイも、村上や横光の計算の外側にいた。その外側は作品の外側にあり、世界全体と作家全体の、葛藤、その心理的緊張に求められるべきものだ。横光や村上にもそういう葛藤は存在するが、その葛藤は、彼らが芸術を信じていると同様に、安易なものだ。その点を二人は見なかった。その為に彼らは彼らの思う大家とは異なった存在となった。トルストイやドストエフスキーのような大家はもはや、文学に目を注いでいない。彼らは惑星の外を、宇宙の外を見つめていた。そしてその一点が支点となり、それがために彼ら大作家は世界全体を一望できるような作品を作り上げる事が可能となったのだ。
 

作家は誰に向かって語りかけるべきか

 


 ある新人作家が編集者に原稿を持って行った。編集者は伝説の編集者として、業界では名の知られた人物だった。
 「どうでしょうか」
 新人は言った。編集者はざっと原稿に目を通した。作家は原稿に自信を持っていたが、編集者にどう見られるか不安で仕方なかった。
 「ダメだね」
 編集者はあっさり言った。編集者は原稿を作家に突っ返した。作家は、頭に血が上るのを感じた。
 「ダメ……どうしてですか」
 「君の書くものは人間に向かって書いている。人間なんか、語りかけるべきものじゃない。…まあ、君の書くものは人間に語りかける作品の部類としては上等なものだけどね」
 作家は編集者の言っている意味がわからなかった。変人だとは聞いていたが、ここまでとは彼も思わなかった。
 「一体、それはどういう意味ですか? 人間の語りかけるのは間違い? 分かるように言ってください」
 「そのままの意味さ。君の書くものは人間について語りかけている。だから駄目だ。人間なんてそもそも語りかけるべき対象じゃない」
 「じゃあ、一体、誰に向かって語りかければいいんですか」
 「神だ」
 編集者は断言した。作家は目を見開いた。
 「神に向かって語りかけた作品でなければ、毛ほど価値もない。私はそう考えている。作家というのは神に向かってのみ話すべきだ」
 「でも、神なんていません。存在するのは人間だけです」
 作家は内心、ムカムカとしていた。
 「だから駄目なんだよ」
 編集者はポケットからタバコを取り出し、火をつけた。
 「神は確かに存在しない。だからこそ、存在しないものに向かって作家は語りかけるべきなのだ。神は…神という言葉が嫌いなら、真理や本質という言葉で置き換えても良い。…とにかくも作家はそういうものに向かってのみ、自分の心を吐露すべきなのだ。君は人間に向かって語りかけている。それが君の間違いだ。神に向かって、ただ一人神に向かって語りかける事によってのみ、価値が生まれる。君は今、神は存在しないと言った。もちろん、そうだ。しかし、人間は存在するからこそ、その存在を刻々と変化させていく。変化するものなど頼りがないし、意味がない。神は存在しないという理由によって不変だ。だから語りかけるべき価値がある。その神の中に人間の存在も内包されている。神に語りかければ、次第に人間達もその歌に耳を傾けてくれるだろう。私の言葉が信じられなければ、実際君の人生で体感すれば良い。私の元を離れたければそうするがいい。しかし、私達は常に神にのみ向かい合うべきだ。人間と、隣人と向い合っても喧嘩するか、それなりの関係を持つか、その程度の事で終わる。そんな事は『関係』じゃない。神と関係を結ぶ事だけが本当の『関係』だ。その派生として、人間とも関係を持つ事ができる」
 編集者は独断的な調子、威厳のある口調で言った。作家は気圧されるような気持ちがした。作家は自分がこの編集者についていっていいのか、離れたほうがいいのか、判断がつかなかった。しかしとにかくも、編集者が尋常でない人間だという事だけは察せられた。
 作家は一礼して、帰ろうとした。編集者は鷹揚な調子で軽く手を振った。しかし、ふと……作家は一つの事が気になった。彼は振り返って編集者に話しかけた。
 「最後に一つだけ聞かせてください」
 「何かね?」
 「あなたは本当にその神様を信じているのですか?」
 編集者はちょっと困った顔をした。彼は微笑し、苦笑いして……手で「はやくあっちに行け」という仕草をした。作家は渋々、その場を立ち去った。彼はエレベーターに乗って階下へ降りながら、編集者のあの仕草が一体どちらの事を意味しているのか、その事について思案していた。


少女と小説家


  

 世界的に有名な小説家の元に少女がやってきた。彼女は小説家の熱心な読者であり、彼の信奉者だった。二人は会話を始めた。

                           ※

 「先生、私は先生の著書を全て読んでいます。先生の作品は本当に素晴らしく、私は心から感動しました…」
 「それはありがとう」
 二人は大きな木の下で話していた。小説家は三十代で壮健な感じで、立派な服装を身に着けていた。少女は美しかったが、どこかひ弱な印象だった。
 「先生、先生の著書はどうしてあんなに素晴らしいんでしょう…。私、先生の作品に本当に心の底から感動してしまいました。先生の作品を知って以来、私は来る日も来る日も先生の事、先生の作品の事を考えています。でも、私は思うのです。私は先生に比べてどうしてこんなにみすぼらしいのだろう、って。私、それを思うと辛くって」
 「そんなに辛く考える必要はないさ」
 小説家は笑って答えた。彼はまだ問題を軽く考えていたのだった。
 「君はまだ若いのだし、これからだよ。これからさ。僕も君くらいの年にはそんな風に悩んでいたものだ」
 「でも、先生。私には本当に何の才能もないんです。私には先生のように、世界全体を明るく輝かせる才能はありません。先生はその作品でもう一度、この世界を再び、価値ある明るいものに変えてしまっています。こんな世の中、こんな世界…先生、私は辛いのです」
 少女は泣きそうな顔をしていた。小説家は真剣な顔で少女の話を聞いていた。
 「先生、私には本当に何もないのです。才能がないのです。先生のような。ああ、先生教えて下さい。私は一体、どうすればいいでしょう。先生はきっと、ご自身の生活から悲しみも苦しみも味わわれた事でしょう。それを作品から感じます。先生は、ご自身の身に起こった全ての事を作品として、全ての人に還元する方法を知っています。先生の小説が世界中で尊敬を込めて読まれるのはあまりにも当然の事です。先生はその著作でこの世界を作り直し、先生自身の悲しみや辛い思いだって価値あるものに変えてしまいました。でも、それに比べて私のこの人生は何でしょう? 私なんて何もないのです。私なんて、私なんて……」
 そう言うと少女は泣き崩れてしまった。小説家は少女に近づき、そっと肩に手を置いた。
 「そんな風に思う必要はないさ」
 小説家は優しく言った。彼は、自分にそんな読者がいるのだ、という事に心底驚いていた。小説家はその頃、一種の厭世主義に陥っていた。彼は自分の書くものが世の中に全く理解されていない、人は自分の肩書しか見ていない、人はほとんど内容を読まない、という感覚に陥っていたのだった。
 「君がそんな風に言ってくれている事は本当にありがたい事だ。君は…良い子だ。君は私の書くものを理解してくれている。だから、君はそんな風に言うべきではないんだ。君は自分に価値がないなんて言うべきじゃない。私は…君の言う通り、私の作品で人類に共通の普遍的なものを目指している。そしてその事が君の魂に共鳴したから、君は私の作品に感動してくれた。その時、私の作品は、いや、私自身はどこにいるのか? それは君の中にだ。君がそう言ってくれている時、君が私の作品に感動してくれている時、私と君とはもはや分ける事ができない一つの魂の中にいるのだ。いいかい、そんな君は何の才能もないとか、自分には何の価値もないとかそんな風に考える必要は全然ないのだ。君がそんな風に生きているから、そんな風に生きている君がいるからこそ、私の作品には何かの意味や価値があるのだ…。そしてそれはきっと良い事なのだ……」
 少女は感動した面持ちで顔を上げた。少女は泣き止んでいた。
 「ありがとうございます、ありがとうございます、先生…」
 少女は頬を上気させていた。小説家はその顔をじっと見ていた。
 「先生、私は明日、行かなければならない所があるのです。明日、私はもうこの国にはいません。私はとても遠い所に行かなければなりません。もしかしたから、もう二度とこの国に戻ってくる事はないかもしれない。私はどこかへ行って、何かのつまらない人生を送ります。私は何十億人の人間の中で埋もれた生活を送ります…。でもそう言ってはいけないのですね。先生の著作を持って私は行きます。私が先生の御本を読んでいる時、私は先生の魂の下にいるのですね。ですから私は…もう自分の事は考えないようにします。私は一つの肉体を持って生きていますが、同時に全人類と一致した魂そのものなのですから。先生の御本を通して…」
 少女はそれだけ言うと、下に置いたカバンを手にとって、その場を去った。それは頂上に大きな木のある、静かで美しい丘だった。小説家は木の下に立ったまま、丘をくだっていく少女の姿をじっと見守っていた。彼はふと呟いた。
 「あれこそが最良の人間というべき人だ」



 〈この作品は宮沢賢治 「マリヴロンと少女」オマージュ作品です〉

 どこかの誰かを主人公とした作品は「私」の作品ではない



 ウィトゲンシュタインという難解で、意味不明な哲学者にとりかかって一年以上が過ぎたがようやく、その効果が出てきた。その結果、おおよその所、自分の哲学のパターンに関しては決定したように思う。


 また、自分のような人間の考えている事、感じている事、主張している事が世界に対して孤立している事、その事が「何であるのか」という事がはっきりと分かった。これによって色々恐れる必要もなくなった。


 簡単に説明すると、世界には二つの領域がある。一つは「私」の世界であり、これは語りえない。もう一つは「ヤマダヒフミ(のような三人称が問題となる)」世界であり、これは語りうる。三人称の、一般的世界を普通は我々の世界の全てと、私達は考えている。例えばスマップの「世界に一つだけの花」という曲。この曲ではそれぞれの独自性、違いは「色々な形、色の花がありますよ」という程度のものとして認識されている。しかし、自分の考える独自性というのは、正に他人に語りえないものであり、大切なのはこの語りえないものの方だ。スマップの曲の場合、「オンリーワン」と「ナンバーワン」が対立的に用いられており、普通の人はこの物の見方を受け入れるかもしれないが、実はどちらも三人称の世界に依存した見方に過ぎない。私の独自性とはナンバーワンでもオンリーワンでもなく、比べられるものでもなく、語りうるものでもない。そしてその事が私の、(そして私の世界の)本質を決定するのだ。

 
 僕がもう色々な事に恐怖する必要がないと言ったのこの哲学と関係している。つまり、人々が常に念頭に置いているのは三人称の世界の誰々であり、一人称の世界の「私」ではない。またさらに言えば、完全に孤立した系(本当は孤立の比較になるものすらないのだが)である一人称の「私」の世界はそれによってより高度な普遍性の世界に旅立っていく事ができる。そこでは人はあらゆる場所から隔離され、完璧に孤独であるが故に、より高度な意味で大きな普遍性、共同性に属するという事ができる。この哲学の発案者のウィトゲンシュタインはこの共同性についてはほとんど拒否していたかもしれないが、彼が結局、哲学という形で、ある「作品」を世に残したという事が、彼がこの共同性を間接的に肯定したという事の証明となるだろう。しかしもちろん、この共同性も本来は語りえないものだ。語りえない故に具現化する、もう一つの語りうるもの…と言っても良いかもしれない。絶対に他人に何も語る事ができない二つの存在があるとすれば、その二人はまさにその事によって深い内部で共鳴する。自分の言う共同性とは、この共鳴の可能性である。


 大体、自分がウィトゲンシュタイン(+永井均)から得た哲学はそんな所だ。ウィトゲンシュタインは難解なので誤解している可能性もあるが、誤解も含めて自分の感じている事、考えている事に一つの形が与えられた事をありがたく感じている。また自分が一般の小説作品などに全然共感できない理由もこれではっきりした。一般の小説作品で語られているのは「私」の問題ではなく、第三者の、どこかよその人物の話なのだ。それは全然、「私」の話ではない。それはそうだろう、小説とは他人の話だろう、と言う人間がいるかもしれないが、それは間違っている。ドストエフスキーが「地下室の手記」から「罪と罰」に変化していく様子……そこに現れている主人公像というのは、十九世紀のロシアの誰々さんではない。それは「私」なのだ。それがドストエフスキーの一番肝要なポイントなのだ。他人ではなく「私」が決定的に大事だと悟った人間が、他人に対する反感をむきだしにするその様を描く事(サリンジャーも同様)が、今自分が言った「共鳴の可能性」「新たな共同性」を具現化するものとなっているのだ。そしてこの立体的な構造に比べれば現代の作家らの書いている作品は二次元的なものだと言う事ができる。彼らの作品はどこかの誰か、三人称や固有名詞で呼ぶことのできる誰かのお話なのだ。それはつまり、「私」の作品ではないのだ。

私とは何か

 

 
 私とは何か? この問いに関してはもう色々な人がはっきり答えを出しているのだが、自分なりに感覚的に分かったのでそれを以下に箇条書きにしておく。ちなみにこれから言う事はすでにウィトゲンシュタインとか永井均が言っている事だ。

 
 私とは何か? その問いに対する答えは次のようになる。「私とは他人に伝わらない何かである」 これが自分の答えだ。ではこの事を以下に検証していこう。


 例えば、この私ーーヤマダヒフミという固有名詞のついた人物を想像していただきたい。このヤマダヒフミは家族と一緒に住んでいるという事にする。このヤマダヒフミという人物は仕事に行ったり、学校に行ったりして、そこにも普通の人間関係を持っている。他人から見ると、そこにヤマダヒフミという一人の人物が確かに存在する。しかし、ある時、このヤマダヒフミーー僕ーーは誰かによって監禁されてしまう。そしてその代わりに偽ヤマダヒフミという人物が現れ、偽物は本物の僕の代わりに生活を送る。偽物は外見とか、言動とか、記憶とかあらゆる点で本物である僕そっくりである。というより、それは完全なる僕のコピーである。この時、他人から見て、この人物を偽と見破る術はない。DNAなんかも同じである。


 さて、こうして偽物の僕は僕の代わりに僕の生活に完全に溶けこんだ。偽ヤマダヒフミは、本物の僕のいたポジションに居座り、そこで毎日、僕と同じ生活を送っている。この人物を偽物だと見破る人は一人もいない(というより、見破る術自体が存在しない)。しかし、この人物が偽物だと知っている人は二人だけ存在する(できる)。それは本物の僕と、偽物のヤマダヒフミだ。この二人だけが、ヤマダヒフミが入れ替わった事を知っている。

 
 今、問題としているのは私とは何か、という事だ。この時、私と呼ばれる現象は何なのかと言えば、以上に上げた例で尽きている。つまり、他人や社会にとって、ヤマダヒフミという人物がある日、偽物に変わろうと、そのなりすまし方が完璧であれば、そこには何ら矛盾も欠点も存在しない。たとえば、どれほど親密な恋人、僕の些細な動作、言動にも敏感に反応し、その奥にあるものを想起する良き恋人がいると仮定したとしても彼女は僕が偽物だと見破る事はできない。それが絶対にできないという事がこの偽物が偽物として存在できる条件だからだ。こうした世界の中では、「私」と呼ばれる現象は三人称の「ヤマダヒフミ」という人物の中に溶けてしまう。ウィトゲンシュタインが言いたかった語りえない事ーーとは正にこの「私」の存在の事だ。我々が語れるのは「ヤマダヒフミ」という三人称の固有名詞の人物だけなのだ。

 
 だから、社会や他者にとって「私」とは「ヤマダヒフミ」の事であり、その為にそれがある日そっくりの偽物にすり替わっても何ら問題がない。というよりそこにはもはや、偽物ーー本物の区別というものがない。他人にとってはそうした動作や容姿をしている人間が「ヤマダヒフミ」であるからだ。しかし、これを偽だと感じる事ができるのは先に言ったように二人おり、それが「私」と「偽ヤマダヒフミ」である。この二人だけが、「私」と「偽物」の区別をつける事ができる。


 ここで、そういう区別がつけられる存在ーーつまり、「私」というのは絶対に他人に伝わらない何かだという事がわかる。(偽物をのぞけば) 私達が「私」と名づけている存在は、あらゆる外的表徴を抜いてもなお残る何かであり、それこそが私の本体である。しかし、それは他人には伝わらない。それは他人に伝わらない、という点によって本質的に「私」なのだ。


 だから、例えばこの文章においても、この文章の半分あたりで、偽のヤマダヒフミが本物の私に代わって書き継いでいても、文体や内容が同じであれば他人には見分けがつかない。人はよく「本当」とか、「真実」とかいうものを誰にも開示可能であり、絶対的に正確なものだと考えたがるが、ここでの私とは正に「開示不可能」という理由によってその本質を構成している。この時、私というのは一つの独我論の孤独の中に立たされていると言っても良い。

 
 ただ、この文章を書いていて自分でも意外に思ったのはこの偽物の存在だ。他人に「私」は伝わらないと自分は言いつつ、その事は「偽物」だけには伝わる。するとこの偽物はこれまでとは違った意味での「他者」なのではないかという疑問がよぎる。ウィトゲンシュタインにおいても、彼が「私の本質は他人には伝わってはならない事」と言う時、そう言っているのは誰なのかという問題が頭をかすめる。もし本当に「伝わらない」のなら、何故それはそのように、(ウィトゲンシュタインという個人によって)口に出されたのか。彼は一体、誰に向かって語りかけているのだろうか? これはまだ未決の問いとして残されるかもしれない。


 しかし、暫定的に結論を出しておくなら、「私」というものは他人は伝わらない何か、という事になる。「私」がどの民族、どの性別、どの世代に属していてもそれが「私自身」だという想像は可能である。しかし、姿形、性格が完全に同じでも、それが違う存在あれば、それは「私」ではない。そしてこの「違う存在」と言う事を知っているのは私一人(と、偽物)だけなのだ。私とはそのような、一つの「語りえないもの」だ。そこにおいて私の本質はとりあえず、示されていると言う事ができる。

現代のクラシック音楽と純文学への疑念

 


中国学者の入矢義高が「味噌の味噌くさきは上味噌にあらず」という格言をあげていた。これはいかにも「それっぽいもの」「雰囲気だけのもの」は、本物とは違う、というような意味だ。


 自分は文学という領域の関係しているのだが、今の純文学と呼ばれるものはそもそも芸術の名に値しないのではないかと思っている。また、同じ事をクラシック音楽にも感じる。現代の純文学、クラシック音楽は本当に芸術なのか、自分は非常に疑問に思っている。その疑問を要約すると「文学の文学くさきは文学にあらず」「クラシック音楽のクラシックくさきはクラシックにあらず」という事になる。


 元々、文学もクラシック音楽も多数の偉大な天才を排出してきた、非常に重要な領域だ。それは誰しもが認める所だろうが、正にそれ故にそれらは形骸化してしまった。今、問題としたいのは、現代のそれらの表現者の事だ。例えば、プロのピアニストやプロのバイオリニストがゲームとかアニメの曲を演奏した動画というのがネットにたくさんあがっている。自分はそれらをたまに見ているが、あまり良いと感じない。しかしそういう動画には絶賛コメントがよくつく。逆に自分がこれは芸術だと確信する神聖かまってちゃんの動画などは、賛否両論のパターンが多い。


 そうしたプロの人達の動画ーー演奏というのはもちろん、技術的には優れているのだろう。しかし、それは何の為の技術なのだろうか、という事が全く問題にされていないという気がする。文学も同じ事で、文章はうまい、確かにうまいが、それらを書く動機は何なのかというと、いつもそれは不透明に見える。

 
 ウィトゲンシュタインは「世界とは私の限界である」「倫理・意志は世界を形作るが、世界の内部には現れない」という考えを持っていた。今、これを芸術に代入してみよう。

 
 「作品とは作者の限界である」「作者の思想・意志は作品を構成するのだが、作品内部には現れない」 …さて、これをピアノの演奏に考えてみよう。演奏家は楽譜そのものを読み取り、そこにある情感、あるイメージを読み取る。しかし、それは演奏を構成するものとして現れるのであり、演奏内部にあるのは音、あるいは卓越した指の運動だけである。


 飛躍して言うなら、今の芸術家に徹底的に欠けているのはこうした作品を構成する「倫理・意志、精神」のようなものだ。自分はこれを「思想」と名付ける。「思想」は作品を構成するのだが、作品内部には現れない。現代のアーティストに欠けているのは思想だ。


 この「思想」と自分が呼んでいるのはある視点、観点の事だ。思想は作品を形作る。この時、文学においては小説家は何をどう書くかという事が問題になる。この時、彼は一つメタの立場に立っていると言える。彼には「何故書くのか」という理由が自分の中ではっきりとしている。しかしそれは語りえず、作品という形で示される。今の純文学作家に僕が思想を感じないという時、僕は何を言おうとしているのかーーそれは彼らにこのメタの立場が欠けているという事だ。彼らには文学は既知のものとして感じられている。つまり、彼はゼロから物を作らず、「文学」というジャンルに向かって(審査員・編集者に向かって)書くのだ。同様に、クラシック音楽の人間はクラシック音楽というジャンルに向かって演奏する。彼らは世界を形作らない。ウィトゲンシュタインのようなポジションに彼らは立たない。彼らに世界は既知であり、すでに構成された世界のマス目を埋めるように彼らは物を作る。だから、自分のような人間はそれらに物足りなさを感じる。

 
 別の観点から言えば、彼らの作るものは彼ら自身の存在と乖離していると言う事もできる。これは哲学でも同じ事で、頭の上だけでフランス辺りから輸入した思想を弄んでいる為に、彼らはそれをいかように捨てたり拾ったりできる。音楽でも文学でも、そこに作者の全身を感じない。だから、彼らはそれを簡単に捨てる事も拾う事もできる。もっと言えば、彼らにとって芸術は彼らの存在とかけ離れている為に、芸術を物化する事ができる。「芸術の為に」と言う事が彼らにはできるし、逆に「芸術は自分(他人)の為に」と言う事もできる。これらはベクトルが逆だが、結局同じ事を意味している。本物の芸術家は、演奏している時、書いている時、彼自身芸術そのものになりきるのだ。そこに隙間も切れ目も存在しない。そこでは、それ自体が目的なのだ。


 現代の芸術というのは、今そういう問題に陥っていると思う。一番、芸術「らしい」芸術が、一番芸術ではない、という一見矛盾に見える事も、歴史を通じてみれば普通の事なのだろう。本来の芸術は醜さも汚さも含んだ、人の存在を反映した「全身的」なものだ。それがいつごろからか綺麗事を並べるものとなった。つまり、「味噌くさきが上味噌である」というテーゼに代わった。しかし、本来の芸術はそうではなく、やはり「味噌の味噌くさきは上味噌にあらず」という事ではないかと思う。もっとも、こうしたものが何故社会では常に評価される存在なのかという事は別に考える必要がある。そこでは鑑賞者の基準自体も問題としなければならないだろう。その基準を問題とする事は、彼らの生き方、存在を問題とする事に通じる。基準と価値は常に相対的に釣り合っている。世界の中の価値は我々の基準と同期する。だとすれば、「本質」と哲学者が呼ぶものはどのような基準に該当するのだろうか。それに関してはこれから個人的に考えていく事とする。


沈黙する芸術家 (小説) 

 

 
 私は小説家だ。これまでに三冊の長編小説を、二冊の短編集を世に出した。私は自分の事を芸術家だと考えていたし、世間的にも私はそれなりの評価を得ていた。私は自分のしている事に対して疑惑を抱かなかったかし、その私に、社会もまたきちんとした地位を与えてくれていた。
 以下に記すのは私とその読者との間で交わされた、ある討論だ。私がその人物と知り合うにはそれなりの経緯があったのだがそれは本質的な事ではないので書かない。簡単な事だけ記せば、私の議論相手は二十代の女性であり、不動産屋で事務の仕事をしている人物だった。彼女は私の小説の大半を買って読んでくれていた。私達はファミリーレストランで待ち合わせして、会った。それは日曜の午後で、店内には人が多かった。

                            ※

 「先生は芸術家ですね」
 彼女が言った。彼女は黒く澄んだ瞳で私を見てきた。彼女の名前は楓と言った。
 「先生は芸術家ですし、それで世間からも高い評価を得ています。その事を恥ずかしいと思った事はありませんか?」
 彼女は真剣な眼差しでそう言ってきた。しかし、彼女の口ぶりに私は、私への憎悪は全然感じなかった。彼女は冷静な感じだった。
 「恥ずかしい? どうして私が恥ずかしがるんだい?」
 「過去には、その時代時代に天才と呼ばれる芸術家がいました。沢山、天才的な芸術家はいました。でも、その内、同時代に評価されて、良い人生を送った人はそんなにはいません。…いいえ、私の考えではきっと、傑作を書いたのに埋もれてしまった芸術家だっていたでしょう。でも、先生は今、世の中でとても評価されています。その事を先生は『恥ずかしい』と自分で思った事はありませんか?」
 「恥ずかしいだって? 確かに、私は世の中からある程度の評価を受けている。金銭的な面でも精神的な面でも。しかし、それは私が社会に対してある価値を提供した見返りとしていただいているもので、私がその事を恥ずかしいと感じる必要などないと思うが? 確かに、私は天才ではないかもしれないけれど」
 「人はそのように言いますね。『私は価値を提供している。報酬は見返りである』と」
 彼女ーー春山楓は手元のアイスコーヒーをストローですすった。私の目の前には彼女と対照的に、ホットコーヒーが置かれてあった。
 「しかしですね、その『価値』とはなんでしょうか? ゴッホは生前、一枚しか絵が売れませんでしたが、彼の死後、彼の絵にはものすごい額で売り買いされました。では、ゴッホは社会に対してどのような価値を提供したのでしょうか? 彼の生前に彼の絵は社会に価値を提供していなかったのに、彼の死後、評価されるようになると急にその絵は社会に価値をもたらしたのでしょうか? そんな事ってあるでしょうか?」
 「君が何を言おうとしているか、私にはわからないな。私だってそれなりのプライドを持って自分の仕事を果たしている。私は編集者と相談して、売れる作品、面白い作品を作ろうと尽力している。その事が…」
 「『尽力』とはどういう意味でしょうか? それは一体、どういう事を意味しているのですか?」
 春山楓は私の目をじっと見ていた。その目は異様に真剣な輝きを帯びていた。
 「尽力は尽力さ。私だって努力は…」
 「先生が尽力しているという事はわかりました。しかし私が問題にしたいのはその先の事です。世の中の人に受けなければ意味がない。人はよくそう言います。結局、全ての物は我々ーー私達が楽しむ為にあるのだ。その為に過去のあらゆる芸術は存在する。しかし、何故そうでなければならないのですか? 私は聞きますがーー先生はどうしてそれを恥ずかしいと思わないのですか?」
 「何故、私が恥ずかしいと思わなければならないのだ? 私が芸術家だからか? …いいか、私は努力してこの地位を築き上げた。私は無名の、何もない人間だった。私は毎日文章を書く訓練をして何度も新人賞に応募した。そしてそこから、私はなんとか這い上がったのだ。どうして君にそんなに言われなければならないのだ? …これでも私は謙虚に接している方だと思うがね。君はあまりに…無礼だ」
 「私が無礼であろうなかろうが、そんな事はどうだっていいんです。先生、例えば、こうは考えられませんか? 先生が受賞した賞というのは大日文芸新人賞ですよね? 純文学の登竜門として有名な? しかし、あのような賞のどこに価値があるんですか? ここ三十年、日本の純文学には大した作家は一人もいません。…いいえ、どのように言い訳しようと、ここ三十年近く、ロクな作家は一人もいません。どういうわけか、この国から天才作家は消えてしまったんです。かつては存在したのに」
 私は春山楓という人物をじっと見ていた。彼女は若く、美しい女性なのに、どこか狂気じみたものを持っていた。
 「先生、どうして先生が自分を恥ずかしく思わないかと言うと…どうしてかと言うと、この世界自体がすでに恥ずかしいものに代わっているからじゃないですか? ベストセラー作品が最も価値の高いものだなんてほとんど誰も信じていないのに、口を開けば、『芸術も世の中の為にあるべきだ』と言う。それはおかしな事ではないでしょうか? どうですか? 先生? 本当に優れた作品は、どこからも見えないものとして存在していて、それはたまたま何かの形で、その『破片』が私たちに示される。ブッダとかキリストかだってその『破片』に過ぎないのではないですか? 私達が目にしている優れたものは、本当は隠されたもののほんの一部分であって、本当に偉大で優れた物事は歴史の中で隠されているか、あるいはその人自身が自分を隠してしまうんじゃないですか? 先生はその事に対してどうお考えでしょうか?」
 「どう考えるも何も…そんな事は私は考えた事がないな。それは一種の哲学であって、私のしている事はただ…」
 「先生、先生は何故、今このように『先生』と呼ばれるんでしょう? そこにはごまかしがあるんじゃないですか? 先生が今いる地位とか、作家であるという事は一体どのような検閲をくぐってきたのでしょう? 〇〇賞を取った、国から表彰された、ある程度の部数を上げたという事以上の価値基準を人が持たないのであれば、そうした事が価値基準の全てとなります。しかし、先生は何故、書くんですか? それを『読みたい』人達の為ですか? ですがその『為』とは一体、何を意味しているのでしょう? 私の知り合いで、作家になろうとしてなれなかった人間がいます。彼は偉大な人間でしたが、新人賞一つ取れませんでした。彼は文学にはさっさと見切りをつけて、今は別の事をしています。世の中はこういう人間には『才能がなかった』というレッテルを貼ります。しかし、一体何故そういうレッテルを貼る事ができるのでしょうか? 私達が普通に持っている基準の方が間違っていたという事はないのでしょうか? そもそも、この歴史それ自体、いや世界自体がそのように存在するというただひとつの理由で正当化されています。しかし、それは間違いではないですか? そしてこの事を今の作家、エンターテイナー、アーティストと呼ばれる人間が誰一人として疑わず、誰も彼もがゴミみたいなロクでもない作品を生み出しているのはどうしてでしょうか? 私にはわかりません」
 「君は間違っている。…君はおかしな迷路に入り込んでいるようだ」
 私はその時には、相手の熱気にほだされて、相手に反論しようとしていた。
 「君がそんな風に考える事が可能なのは、そもそもこの歴史、世界があるからなのだ。君は文学賞や大衆の基準に対して攻撃をかけている。私の作品に対しても。しかし、そんな事を考える事ができるのは、『この世界』があるからなのだ。文学賞の基準が気に入らないだって? 君の友人がどんな人間か私は知らないが、もし仮に君の友人が優れて偉大な人物だとすると、世の中はその人を認めざるを得ないだろう。逆に言うと、人が認める事のできなかった人間というのは、もう無条件に偉大でない人物なのだ。この意味が君にわかるかね? そもそも、世の中に認められなかった人を偉大だと言う事は絶対にできない。何故なら、偉大さというのは偉大さによって人々に認められる事を意味しているのだからね。いいか、君の考えている事は完全に間違っている。君は今ある所から、今ない所に向かって一歩を踏み出そうとしている。君は現実を否定して、理想を捉えようとしている。しかし理想というのは絵に描いた餅に過ぎないのだ。君は私の事が不服かね? 私が有名人で、作家だという事が不満かね? しかしそういう基準だって、世の中がそんな風に定めたのだよ。そして私はその基準をクリアしたのだ。誰がどう言おうと、私は君よりも世間に認められている価値ある存在だ。この意味を君は分かるかね? それは、それ以上に価値基準がないという事ではない。その世間の価値基準はどうしても君の持っている基準よりも価値が有るものだと言わざるを得ないのだ。君は自分の基準を世間のそれより高いと前提しているが、そんな前提はおかしい。誰がどう言おうと、世の中が認めなければその人は偉大な人ではないのだ。この世界に、『本当は立派だったけれど、世の中に認められなかった』なんて人間は一人もいない。何故なら『立派さ』という事はそれ自体が、『人に認められる』という事を意味しているからだ。そして、現に私は認められているのだ」
 「フフッ」
 春山楓は急に笑った。私はドキリとした。
 「思ったより、考えているじゃないですか…。安心しました。それならまあ、『世間様から認められる価値がある』というものです。まあ、あなたの書いているものは芸術的に価値が高いとは言えないですけれど。しかしですね、先生…。先生の言う事に私は全く納得できないのですよ。それは、私がこの世界の基準に全く同意できないからです。仮に先生の言う事が正しいとしても、私は偉大さというのは見えないものとして存在していると考えますね…。それにパスカルやゴッホが死後に評価されたという事がどういう事を意味しているのか、先生の理屈では謎のままです。彼らは彼らの小さな時間軸の中では評価されなかったですが、より大きな歴史的時間の中で新たな照明を受け、その価値を評価されたのです。人には二種類の時間がある。大きな時間と小さな時間。先生と先生の追従者達がいるのは小さな時間の中です。もちろん、今の文壇、純文学、新人の選考基準、それら全てが小さな時間に所属しています。ですがそれらはより大きな時間に突き動かされ、跳ね飛ばされ、そしてとうとう小さな時間は流れ去り、消失してしまうでしょう。偉大なものは本物の姿で世界に姿を現します。しかし、それは氷山の一角に過ぎない。私はシェイクスピアやモーツァルトという氷山の一角から、氷山全体をイメージしているんです。そこでは、ベートーヴェンやアインシュタインだってその世界の住人の一人に過ぎない。非常に大きな時間の中に生きている人は、そのように永遠の中に属しているのです」
 「ふん…大層な事を言うね、君は。君はどうやらただものではないようだ…。でもね、君がいくらそう言おうが、いくら君が真理を語ろうが、今この現実でより価値があるのは『私』の方なのだよ。さっきも言った事だがね。仮に君の言う大きな時間なんてものがあるとしても、人は基本的に卑小な事をして生きているものだ。自分達の立場を肯定してくれる言葉を皆は欲している。誰もが小さな基準に沿って生きている。文学新人賞とか、文壇とか、あるいはもっと他のものでもいい。大学の研究者達や、アニメのクリエイターやテレビの業界人や…そんな何もかもが君には腐りきっているように見えるのだろう。しかし、それでいいのだよ。私達は皆、世の中が望んでいるものを提供しているのだ。私は君と違い、より大きな、広い空間に属している。私は社会に属している。だからこそ、私は社会に評価されている。君がいくら大層な理屈を並べようと君は孤独だ。君はひとりぼっちだ。孤立してみすぼらしいのは君だ。私はそうではない」
 「先生は社会の奴隷だから、社会に認められているように見えるのですよ。一時的に。ですが、社会は奴隷の事なんてすぐに忘れるでしょう。彼らはやがて、主を欲するでしょう」
 「ひどい事を言う」
 「…本当の事です。本当の事を言って何が悪いでしょう? 最近は皆示し合わせたように、本当の事だけは言わないようにしています。私はそれが我慢ならないのです」
 そう言うと、春山楓はアイスコーヒーを一口飲んだ。私は何も飲む気にはならなかった。私は茫然としていた。
 「じゃあ聞くが」
 少しの間の後、私は自分を励ますように声を出した。眼の前の小娘に言いくるめられたくなかった。
 「どうして、君は何者にもなろうとしないんだ? 君は私を、私達を非難するばっかりで、創造的な事は何もしない。私は君のように愚痴ばかり言う人間が大嫌いだ。私は君のような…君は自分でも何を言っているのかわかっているのか?」
 私は思わず机を手で叩いた。バンッと音がしたが、春山楓はたじろがなかった。
 「君はそんな風に知性があって能力があるのだろう? だったら、何かをすればいいではないか? 創造的な何かを? そうすれば、人に認められるかもしれない。君は…大きな時間に生きているのだろう?」
 「確かにそうかもしれませんね」
 春山楓はそう言った。彼女はちょっと宙を眺めてみせた。それはそれまでにない態度だった。
 「その件に関しては確かにあなたの言う通り……でも、本当は沈黙が大事なのだと思います」
 「沈黙だって?」
 「そうです。沈黙の内に生きる事です。何も書かず、何も作らず。さっきも言った通り、本当に良いものは沈黙の内に隠れています。歴史の中に隠れたものが、本物の価値です」
 「では、シェイクスピアやモーツァルトにはどんな価値があるっていうんだ?」
 「彼らは破片です。沈黙の破片。歴史の中に埋もれた沈黙がほんの一時、欠片となって世界に現れたのです」
 春山楓は最後通告のように言った。私は黙った。私はもう何も言いたくはなかった。この女は自分の論理の中に生きている。この女の論理は彼女の中で完全に正当化されている。そしてそれを誰も止める事はできない。たとえ神様だってこの女を説得する事はできないのだろう。おそらくは。
 私はタバコに火をつけて吸い始めた。春山楓はそれに大して何のリアクションも示さなかった。
 タバコを吸っている内に、私はふいに一つの質問を思いついた。それはきっと、私が最後に彼女に尋ねなければならない質問だった。
 「それなら聞くが」
 私は荒っぽい声を出していた。
 「それなら聞くがーーそもそも、君はどうして私の前に現れたのだ? 君は、君のような人間だけは私の前に現れてはいけなかった。そのはずだ。そうだね? だって、君がもっとも重んじているのは沈黙であり、君は沈黙の生を生きている。君は沈黙の内に生きており、それはもっとも価値高いものだ。一方、私は大衆にごまする詐欺師に過ぎない。それはいいとして…だとしたら、君のような『神々しい』人間がどうして私のような人間の前に現れたのだ? それは矛盾ではないのか? つまり、君が今ここにいるという事が、君の理屈の最大の汚点ではないのか? 違うか?」
 私は弱点を見つけ、そこをつついている気分で話していた。しかし春山楓は表情一つ変えなかった。
 「おっしゃるとおりです」
 彼女はそう言うと、すっと立ち上がった。彼女は財布から千円札を取り出し、机の上にそっと置いた。
 「それに関しては全く先生の言うとおりです。先生の言う事がそれに関しては完全に正しいのです。実は私もここに来る間、その事を思いついて、自分で恥じていました。どうして私はこんな事をしているのだろう?…と。しかし」
 彼女はキッとした目で私を見た。それは私の魂を串刺しにするような目つきだった。
 「まあ、それでもいいのかなと私は考えたのです。つまり、『矛盾する事だってそんなにおかしい事ではない』と。そんなに理屈通り生きなくてもいいのだ、と。私は道中でふと考え方を変えたのです。電車の中で、窓から外の風景を眺めつつ。私の目には桜の木が写っていました。桜の木の美しさというのは全く陳腐なもので、嘘くさいものです。私はキライです。しかし、その陳腐さも悪くない、私はそのように考えたのです」
 春山楓は微笑した。私には彼女は悪魔のように思えた。
 「そう、私はそのように考えました。ですから、ここにいる私は矛盾した存在なわけです。先生の言うように、私の理論の中の唯一の汚点(しみ)です。しかし、この汚点を通して見える清潔さもある事でしょう。そんな風に私は考えたわけです。私はとにかくーーそのように考えたわけです」
 私は黙っていた。私はただ春山楓という人物の異常さ、非凡さに目を見張る思いだった。
 「そういうわけです。ですから、汚点はもう消えます。私が消えた後は沈黙だけが残るでしょう。先生の著作はこれからも売れ続けるでしょうし、そこに私のような愚かな、劣った人間の攻撃は歯がたたないでしょう。なにせ、私は元々、矛盾した存在だし、本来存在すべきでないはずの存在だからです。つまり、先生の勝ちなのですよ、結局は。そして私は、自分の敗北の中で自分が本当は勝利している事を深く知るのです。私は沈黙の中で自分の勝利を知る。しかしその勝利は人目に触れれば敗北へと変わるものですから、『結局は』先生の勝ちなわけです。そういう事です。そういう事ですよ、先生」
 春山楓はぺこりと頭を下げた。それは本当に儀礼的な、形式的な態度だった。
 「先生、それではさようなら。不快な気持ちを起こさせて、もうしわけありませんでした。私は去ります」
 春山楓はくるっと振り返って、スタスタと歩き出した。私は後ろ姿を目で追った。彼女は角を曲がり、店員に見送られつつ、自動ドアを開けて店から出て行った。
 闖入者は去った。私は一人になった。私は自分自身の沈黙の中に取り残された。
 それから、私は一時間くらい、その席でタバコをふかしながらぼうっとしていた。今さっき彼女から受けた打撃を修復しなければならなかった。その為にはぜひ、それくらいの時間ぼうっとする事が必要だった。


                             ※

 それ以来、春山楓とは一度も会っていない。
 彼女が私に与えた打撃は深刻なものだったが、私はそれをなんとか修復して作家活動を続けている。春山楓の言った事を思い出すと頭痛がしたが、その事は出来る限り思い出さないようにした。やがて時間が彼女の事を私の頭から消し去ってくれるだろう。
 ただ、一つだけ、彼女と会って以来、私にはそれまでと違う変化が現れるようになった。それは私がインタビュアーによく質問される事ーー「今、注目している人は誰ですか?」の問いに「春山という作家です」と答えるようになった事だ。そう言われると、インタビュアーは「誰ですか?」と皆尋ねる。しかし、私はその問いには明確には答えない。そして次のように、いつも付け足す。
 「いや、以前にそういう名前の素晴らしい才能と出会った事があるんです。ただ彼女は一身上の都合で、創造的な生活からは退いてしまいました。もし、彼女が今もそこにとどまり続けていたら、私などは及びもつかない作家になった事でしょう」


語りと沈黙



 語る事というのは難しい事ではないかと思う。自分はこんな風にブログをつらつら書いているのだが、どうも全てが間違っていたのではないかという感じがしてしまう。本当はこんな風に語るべきではなかった。例え、読者がゼロ人だとしても、語るべきか、語るべきでないかというのは自分の良心の問題として存在する。自分はもっぱら、自分と話している。

 自分の書いた事にコメントが付き、「お前の意見は独善的だ」とか「お前の意見には根拠が無い」と言われる事もある。ニコニコのブロマガにも同じ内容で書いているので、そちらで言われる事がたまにある。そういう意見を言う人は、何故、自分がそういう事を言うのか、自分でよくしらない。だから、僕の意見は独善的に見えるのだろう。自分と対話をした事のある人には、僕の意見は独善的というより、「僕」ーーヤマダヒフミという個人の意見だという事が察せられるだろう。本当にあるべき意見は、盲目的な正しい意見ではなく、間違っていたとしても考えぬかれた意見だ。自分の信念、哲学はそこに立脚している。しかし、もっと考えるべきだ。お前ーーヤマダヒフミは何故、その哲学が優れていると自分に認可するのだ?と。

 ある個人が、自分の興味関心に従って歩いた道があるとして、それはどうして自分以外の他人に見せなければならないのか? それに対して、論理的な理屈がいくらでもつく事は知っている。しかし、それは何故この僕、つまり、今こうして書いている「僕」に通用するのか? 僕が僕独自の道を歩いたという事を僕以外の人間が知らなければならず、それを評価しなければならないというのは、それこそ独善的な事ではないか?
 
 しかし、本当はそうではないと思う。例えば、太宰治が「君」と呼んで語りかける相手は、男性とか女性とか、ある社会の価値観を受けた人というより、もっと実存的な「君」だ。だから、太宰治が「君」と呼んだ時、まるで僕達は本当に自分が呼ばれたような気がしてしまう。そして、この「君」に「私」が該当しない人は、多分、私ではない他者を生きているのだ。では、他者とは何か。

 このブログの趣旨、自分のやろうとしている事にとって「他者」と呼ばれる存在はおそらく、「自分のため」「人のため」と考えている人の事だ。人が深く自分を覗き込み、世界と離れ孤独になる時、その孤独の内にもうひとつの共通性、共感性を発見する。それは孤独の中の社会性と呼ばれるべきものだ。僕ーーこのヤマダヒフミはその社会に向かって語りかけているのではないか。更に言うと、我々がある芸術作品に心の底から「感動」した時、その人は「その人」ではなくなっている。その時、人は自分から抜け出し、作品の精神に同化している。そして作品の精神は、作者自身が抜け出たものを反映している。作者が自分を捨てた所と、読者が自分を捨てる場所は同じなのだ。それは孤独の中心部にある。作品が語られるのは、自分について語るのをやめるためだ。世界を捨てるのは、もうひとつの世界を創造するためにほかならない。

 人はこのブログの記事を、ヤマダヒフミという他人の書いたものとして読むだろう。そしてそれに同意したり、批判したりする。それは何故だろうか。それは正に、その事によってこの人物ーーヤマダヒフミという人物から離れていく事なのだしたら、この人物…つまり、この僕とはそもそも誰なのだろうか。おそらくお前は………

 まあ、いい。今、僕はきっと、世界に向かって語るというゲームから抜け出せないのだ。本当は何かが間違っているのだ。そういう気がしてならない。パスカルが、アリストテレスやプラトンの哲学者として一番大事な部分はその著作にあるのではなく、彼らが静かな生活を送ったという事にあった、と言っていた。今、自分の演じているゲームに足りないのは、この静かな生活だ。僕には生活が欠けているーーという事が君の哲学の最大の欠点なのだ。だとすると、哲学は語られるものではなく、実行されるものだ。そしてこの哲学は語りえない。では、何故、君はこうした「言葉」を書いているのか。その問いは宙に浮かぶ。

 君は一体誰なんだ?

 永井均「マンガは哲学する」に関する文学擁護


 永井均のこの本は名著なので、漫画をより深く知りたい、あるいは哲学をわかりやすく知りたいという人にはおすすめしたい。ただ、今から書く事はそれとはちょっと関係ない事だ。

 永井均はまえがきで「マンガという形でしか表現できない哲学的問題があるのではないか」と書いている。それは良い。ただ、その次にこのような文章がある。

 「(マンガが哲学的な問題に深く言及できている事は)たとえばアンデルセンなどの童話が、トルストイやドストエフスキー、夏目漱石や森鴎外などよりもはるかに深く、そして単純な意味で哲学的であるのに似ているだろう」

 僕はトルストイとかドストエフスキーとか夏目漱石なんかの大ファンなので、彼らの個人的弁護をここで行いたい。

                               ※

 まず、永井はマンガを使って哲学の問題に深く切り込んでいく。その独創性は見ていて非常にわくわくするものである。しかし、だからといって、アンデルセンなどの童話がトルストイやドストエフスキーよりはるかに深いとは言えないように思う。
 
 元々、永井均の哲学的発想はマンガ的だと言えると思う。例えば、一人の人間が二人に分裂したとすると、どちらが「私」なのか、私以外の人間が実は人間の格好をしたロボットだとするとそれはどうして証明されるか。こうした発想はマンガ的な要素であり、永井均の哲学的方法論と一致する。だからこそ、永井はマンガと哲学を融合させられる。

 では、それを上記の有名文学者と比べた場合、どうか。確かに、永井的な視点からは、トルストイやドストエフスキーの方が、哲学的叡智に欠けているように見える。何故かと言うと、そこには「思考の遊戯」がないからだ。突拍子もない設定をして、あえて人間存在をどのようなものか探る、そうした事に永井は魅力を感じており、簡単に言うとそういうものが哲学だと感じている。だから、それをしないトルストイとかドストエフスキーはより現実に囚われており、その為に漫画家とか、あるいは童話のアンデルセンの方が想像力において優っているように見える。これは確かに一面的真実と言える。

 ただ、自分は次のように考える。トルストイやドストエフスキー、夏目漱石などがその文学的営為で、外したくなかった事は、生な生活の中での個人の自意識の問題である。個人の中を流れる感情や、人間精神の自然なあり方、その発露を彼らは損ないたくはなかった。だからこそ、彼らは文学という道筋を選んだ。そしてその為に、彼らはマンガ的な発想をしないのである。彼らは生活の中の人間像を深く掘り出したいという意図に満ちており、その点が優れているからこそ、その他の面ーーつまり、永井から見た哲学的な視点が欠けているようにみえるのだ。そして永井の視点からは当然、藤子・F・不二雄のような優れた漫画家が想像力の点から賞賛され、検討される。もちろん、藤子・F・不二雄は優れているが、それはあくまでも永井均の哲学的営為という観点から見て優れている。そしてそれは永井均自身が優れた哲学者であるという事と完全に一致している。しかし、哲学的方法とはただマンガ的なやり方に収斂されるものなのか。永井はこれを「イエス」と答えているように見える。しかし、本当にそうだろうか。

 永井ーーマンガ的哲学。こういう方法論から見られた人間像はあまりにも単純化されすぎているように自分には見える。つまり、その点では文学の方がより優れた、成熟した個人の像を描けている。しかし、例えば、萩尾望都の「半神」などはどう考えても天才の作品としか言いようがない。それは間違いがない。しかし、萩尾望都の作品がドストエフスキーより優れているかと言われれば、それはそう簡単に言えそうにない。それがそう簡単に言えないというのは、萩尾望都がマンガ家として描いている人物像が、ドストエフスキーとかサリンジャーのように、個体の内部の自意識が生々しく、それ自体で存在感を感じさせるようなものではないという事に由来している。しかし、萩尾望都はある程度単純化された人間を大きな設定と物語性の中で、その存在自体を外側から描いている。「半神」における主人公の心のゆらぎは本物だ。しかし、それがサリンジャーの創造したホールデン・コールフィールドに優っているかと言うと、そうは言えないのだ。ホールデンはその内部の意識だけで人を惹きつける何かを持っているのだ。言い換えれば、文学という領域はマンガや哲学にも劣らない、それ自体の「深さ」を持っているのだ。

 この論理はもっと進める事ができるが、長くなるのでこれぐらいにしておこうと思う。永井均の哲学的思惟の深さには自分は全く及ばないが、自分は文学が好きなので、あくまでも文学の立場から文学を擁護しておいた。こういう擁護も意味のないものではないだろう。

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