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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

爆笑問題・太田光と神聖かまってちゃん・の子

 


 最近爆笑問題の動画を見ている。Huluという動画サイトで太田上田という番組を見ていたのがきっかけとなった。「太田上田」という番組は、太田の滅茶苦茶ぶりに、上田の突っ込みがちょうど良い具合なので非常に面白い。上田は大変だろうが、太田の良さがよく出ている。

 爆笑問題の太田をじっと見ていると、彼には分裂症的気質がある事がよく分かる。また、太田光は僕の好きな神聖かまってちゃんの「の子」と振る舞いがよく似ている。「の子」も分裂症的気質がある。僕が今、分裂症的気質と呼ぶのは、パラノイア的な気質の事だ。つまり、想像力が過大で、被害者意識が強く、妄想力が高い。世界が自分を攻撃している、というような感性が常にあって、それに対する反発が彼らの創造力の源となっている。

 他人の事を精神分析的に分類する事は僕は大嫌いなのだが、今、あえてそれをやったのには理由がある。それは僕自身も完全に同タイプの人間だという事だ。だから、彼らがどんな世界の中にいるのかはなんとなく創造がつく。彼らと、本物の精神病者との違いは、彼らが自分の病を創造力の原動だと理解している事にある。彼らの中には相反した二つのものがあって、それは自己認知の力とももうひとつはある種の衝動だ。この二つは彼らの中で常に矛盾としてある。

 彼らがどんな心理的状況の中にいるのだろうか。の子にしても、太田光にしても、なんとなく「天才」という印象を人に抱かせる。それは彼らの能力が優れているから、というだけでなく、ある意味、天才らしい天才、病的な所を含んだ天才だからだ。例えば、ドラッカーなども大天才だが、ドラッカーには病的な所は全く感じられない。太田光やの子はタイプ的にはいかにも天才らしい天才に見える。

 彼らはおそらく、常に鬱と躁の感情に襲われている。自分は天才だ!という確信、自信があると同時に、自分ほどのクズはいない、自分ほどの馬鹿はいないという感情、その二つが常に自分の中にある。これは自分自身の心理から類推している。

 また彼らは世界から攻撃されている、世界から自分は見放されているという感覚を常に味わっている。本物の病人はそれを妄想として現実に写しだしてしまう。両人はそれを感覚的に感じており、それに対して抵抗し、反発する。逆にそれが世間に対して、世界に対して『見返してやろう』という気持ちとなる。彼らが世間に対して攻撃的になる時は、本当に世間に対して腹を立てているわけではない。彼らは自分の心理の投影として世間に対して反発している。そしてその事を彼らも自覚しており、その自覚が演技として見ている我々に伝わる。伝わるからこそ、我々視聴者は彼らを本気に憎めない。彼らが嫌われ者の風貌をしていながら、実はそこまで嫌われていないというのは、この彼らの自覚が伝わるからだ。彼らが自分を統御している分だけ、彼らは世間に対して一歩有利な場所にいる。この手綱を緩めなければ彼らは、メディアの中の世界でもそれなりにうまくやっていける事だろう。

 今書いた事は全て、自分の心理からの想像に過ぎないので、の子や太田光がこの記事を見たら憤慨するかもしれない。彼らは分析されるのを何より嫌がる。彼らは、自分を分解される事を嫌うからこそ、演技する。彼らの演技は根底的に天邪鬼なものなのだが、この天邪鬼がどこから来るかというその根は恐ろしく深い。ある個人が世界に対して倒錯的に機能する時、その個人の中に何があるか、社会は特に理解しない。理解しないが、感じはする。世間や世の中というのは、理解はできなくてもなんとなく感じるという作用があって、それらが両者をメディアの中で生かしておく事にも一役買っているのだろう。両者が倒錯的に機能する時、人は、なんとなくそれを眺める。彼らに共感はしないが、それを異質なものとして人は眺める。人が眺めるその所何があるのかと言うと、特になにもないのだが、倒錯的な両者から見ればそれは世間の欠陥に見える。あらゆる事の『痛み』を感じる感受性は、それを感じない人間の中に欠如を見出すが、むしろ、その欠如を感じる感受性こそが人々に対する優越を意味している。つまり、より深く言えば、彼らが自分にナーバスになり、自分はなんてダメな人間だ、自分には何の力もないと、深く落ち込み、鬱に襲われる時、その鬱こそが人々の持っていないものを彼らが所有しているというその証拠なのだ。しかしこの鬱を持っている人は両者以外にも沢山いる。この鬱の能力を社会的なものへと昇華させる事が、彼らにとって一つの抜け道となっている。つまり、病人は病気を癒やす事で世界に復帰するのではなく、それを自覚し、それを強みとする事によって、世界に復帰する。これは両者のようなタイプの人間にとっては、根源的な世界回帰の為の方法論だと言えるだろう。

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ドストエフスキーとインターネット空間

 
 

 今から書く事はミハイル・バフチンが書いた事ともかぶるし、自分が前に書いたドストエフスキー論とも重複する所がある。ただちょっと強調して、その部分だけ取り上げておく必要性を感じたので記す事にする。それはどういう事かと言うと、ドストエフスキーの現代性についての話で、現在を生きている僕達と大きく関係している。

 ドストエフスキーの小説とはただ単に優れた小説というだけではなく、自然科学的な認識の転換だった。そういう意味で、ドストエフスキーをカントやアインシュタインとひも付けて考えても全く間違いではない。更に重大な事は、ドストエフスキーが発見した人間像は二十一世紀の現代の我々にピタリと当てはまるという事だ。
 
 まず、バフチンがはっきりした事を言っている。彼は、「ドストエフスキーの小説の登場人物達は他人の認識を打ち破ろうともがいている」という意味の事を言っている。更に「ドストエフスキーの小説において登場人物達は一つのイデー(思想)である」とも言っている。これはそれまでの自然主義的な小説とは一線を画す物の見方だ。

 ドストエフスキーの小説が現れて以来、人間は単なる生活者ではなくなった。自然主義的なそれまでの小説では、登場人物達は作者の視線を受けて、行動し、生活する。彼らは普通の人達で普通の生活を送るのだが、彼らは決して作者の方を見はしない。一方、ドストエフスキーの小説の登場人物、またその中でも特に重要な人物は、自分の中にあらゆる「声」を飼っている。絶えずこの人物は自分の中の声と問答し、その結果として行動を起こす。この時、この人物の中にある「声」の中に、それまでの自然主義的なレベルでの作家の「声」「視線」も含まれていると考える事ができる。いずれにせよ、ドストエフスキーが描いた人物は皆、自分の中の「大きな声」との格闘を運命づけられている。

 これは現代とはどういう関係にあるだろうか。例えば、最近の純文学を読んでいて僕が物凄く物足りなく感じるのはその点だ。登場人物達はまるで、何かを無視している、何か重大なものから目を背けているという印象を読者としての僕は受ける。これは僕一個人の好き嫌いの考え方ではなく、必然的な理由があると僕は思う。それは、ドストエフスキーが描いたように、我々ーー現代の我々自身が一つの声、イデーと化してしまっているからだ。我々は内心にある声との格闘を絶えず義務付けられている。

 ではその正体はなんだろうか。例えば、先日、タレントのベッキーが不倫をしたというニュースが話題になった。その時、タレントのベッキーと相手方のバンドのフロントマンは世間からかなりの批判を受けた。(今、自分はこの事について倫理的に論じるつもりはない。この話を今自分は一例として持ちだしただけだ。いちいち突っかかってくる人もいるので書いておく) この時、世間全体の「不倫は良くない」という倫理感が、社会全体を通じて表明されたと言う事ができる。その大きな力となっているのは、テレビ、インターネットだろう。また、直接的に自分の意見を発する事ができるという意味ではインターネットがやはり大きい。

 さて、こうして世間全体から「不倫は良くない」という意見が表明された。それは一タレントの話題をきっかけとして日本中に打ち出されたと言って良い。そうすると、この意見はもうそれぞれの内心に巣食う事となる。つまり、今、現に不倫をしている人がいるとすれば、その人は、内心で世間全体の声に弁明する事を強いられる。

 自分がこうした例を持ちだして言いたい事は次のような事だ。まず、社会全体の共同幻想、意見、意志、政治的意図、などはインターネットやテレビなどのメディアを介して社会に表出される。それは見えない多数決の票であり、普通選挙よりも強力な政治的意見と言っても良いかもしれない。すると、この意見は巨大な力として個人の内部に沈潜する。個人は絶えず、この共同幻想に大して、賛同を求めたり、弁明したりする事が義務となる。また、社会に生きる上ではなんでもない一個人でも、ネット上で皆と歩調を合わせた意見を吐き出していればまるで自分が大きなものと同化したような万能感が得られる。こうしておそらくは、生活者としての人間は消え、絶えず人間はこの見るものーーー見られるものの二つの極に収斂されていく。社会幻想としての巨大な声と、その圧迫を絶えず感じている個人の小さな声。この二つの声の中で、かつて、身の回りのことだけを考えていた生活者としての我々は消失する。いわば、個人は世界大の巨大な声と一体化するか、それに押し潰される無力な個人かの二つの自分しか選ばなくなってしまう。

 ドストエフスキーが最初に自分を発見した小説「地下室の手記」は主人公の独白小説だ。この主人公は絶えず、自分の内に響く世界全体の声にたいして抵抗する。この時、ドストエフスキーは最初の現代人を発見したのだった。人間というのはかつてのように、作者の視線を受け、生活空間の中で適宜に振る舞うだけの存在者ではなくなり、その代わりに、他人の声にたいして絶えず逆らい、自分を見せつけようとする一つの声となった。こうして人間というのは静的なものから動的なものとなった。

 現代はもはや、万人がこの声の中に位置している。自分の一行動に対して、絶えず人々の声が鳴り響いている。かつては、人間の中には神の声が響いたのかもしれないが、現在では人間の内部には共同幻想の声が響くようになった。この時、忘れられたのは肉体のある人間であり、個人の生活であり、もっと言うと、孤立そのものだ。マスコミが世相を切る、と言う時は必ず、皆が斬っている方向に切るだけの事であり、人々の前で意見を言う時は無意識的に人々の志向に僕達は合わせざるを得ない。巨大な声と一体となっている時、僕らはみすぼらしい自分の姿を忘れられる。おそらくこうして世界は「孤立」「孤独」そのものを排外し、排除し、一つの巨大な集積となろうとしている。ネットのここ数年の変化を見ればそういう方向性を感じさせる。

 ドストエフスキーはこのような現代を予想していたわけではない。ただ彼は人間を深く考察する事によって現代に通じる人間像を確立したのだった。現代では人間そのものがこのように動的なものへと変わってきている。そしてこの世界で人間が生きていく事はどういう事なのか、それはそれぞれが決定していく事なのだろう。ただ、集積された声と同調する事は、個人としての姿を見えなくする。この埋もれた声の中に、本当の人間は発見できるのか。それがこれからの文学の課題となると思う。


 悲劇の構造 (ドストエフスキー、サリンジャー、チェホフ、シェイクスピア、夏目漱石)



 結構前にドストエフスキーとサリンジャーを並列的に論じたが、この二人を並べる事はそれほど間違っていないように思う。

 ふと気づいたが、「白痴」のムイシュキンと「ライ麦」のホールデン少年はある意味で似ている。あるいはこれを、「罪と罰」のラスコーリニコフとホールデンが似ていると言っても良い。ではどう似ているのか。

 これは簡単に言う事ができる。ムイシュキンとホールデンの二人は、どちらも生活に足をつけられない存在であり、その知性の為に空中を浮いている。ムイシュキンはそれを最後には悲劇という形で、つまり狂気という形で強引な救済を見る。これはムイシュキンの中に現実と和解する要素がない為に、外側から強引に和解的要素がやってきたという構図だ。(死、悲劇、狂気などは同じ事を意味する) 一方でホールデン少年もまたムイシュキンと同様に生活の上を飛翔している。彼らはともに、「普通の人」ではない。普通の人、個別化され、地面にべったりと足をつけている人とともに穏やかな生活を送る事が彼らにはできない。一方は知性の暴走した少年であり、もう一方は白痴だが、時に叡智閃く青年だ。二人はともに現実に屈従できない。彼らの知性、精神は空を飛んでいる為に、地上への落下が絶えず、劇のテーマとなる。

 サリンジャーやドストエフスキーの作り出した小説が我々の心を打つのは、彼らが普遍的な人物を作り出したからだ。ではこの普遍的な人物とは何かと言うと、どうしても上記のような知性が問題となってくる。世間に沢山いる人間、例えば生まれつき、社会にそれなりに適応し、幸福(不幸)な生活を送っている人を淡々と描写する時、その描写に我々は共感する事ができる。何故なら、我々だってその一人にすぎないからだ。しかし、それでは足りないのではないか、生活だけでは不足ではないのか、もう少しマシな世界があるのではないかと思考した時、人は知性の世界に一歩足を踏み込む事になる。知性とは自己を二重に意識する事であり、世界全体を対象として捉える事だ。世界を捉える人間は、反作用として世界から切り離される事になる。

 最近の純文学系作家の作る人物に悲劇的な人物は一人もいないと言っていいだろう。彼らの作る人物は平凡な、幸福か不幸かどちらかに分類される人間なのだが、それは単にそれだけである。プロットだけなぞれば名作に似ており、登場人物のキャラクター性は過去の作品の誰彼を思わせるかもしれないが、作者の自己意識の構造が単純な為に、作品自体の構造も単純になる。

 例えば、チェホフの「退屈な話」、夏目漱石の「それから」に出てくる重要な人物は皆、知性故に世界になじめない人物だ。そして彼らは、なじめない世界に逆さまに落下していく。なぜなら、我々はそこ意外に生きる所がないから。ここに優れた作家自身の意識の構造がある。優れた作家は皆、自分というものを痛烈に自覚している。自分というものを世界からもぎはなして理解している。そしてその自分がどこに向かうかを、作品によって暗示している。

 では何故、知性は世界から剥がれ落ちるのか。なんとか世界と和解する方法はないのか。人は誤解しているようだが、世界と和解する事が可能なのは、一旦世界から離脱したものだけだ。世界の価値を本当に理解できるのは、一度世界から離れ、それとは違う場所に立ったものだけだ。最初からそこに埋没している人間は充足しているが、その充足に気づく事ができないので、結局はただそれだけの事に過ぎない。

 例えば、シェイクスピアの作品でも、運命に抗う人物が出てくる。シェイクスピアはドストエフスキーらに比べると古い人なので、登場人物に知性があると言えばそれは少し違うという事になるかもしれない。ただ、シェイクスピアの諸作品の構造でもやはり、世界の運命が最初にあり、それに逆らうものが出てくる。逆らうものが悲劇の道をたどるか、喜劇の道をたどるかはそれぞれだが、最後には必ず運命が勝利する。それを端的に現すのが「マクベス」だ。マクベスは自分の予言に従って次々に凶行を行うが、予言に従って破滅する。マクベスは運命には勝てない。しかし、マクベスは絶えず一人の人間として、それを意識し、その苦痛を最大限体感する。この所にシェイクスピアの天才的手腕がある。運命に挑戦するものだけが運命の味を知る事ができる。

 話が飛んだが、すぐれた悲劇的作品にはそのような構造があるように思う。この構造は作者自身の精神の構造と対応しているので表面的に模倣できるものではない。優れた作家は例外なく悲劇的である、と言えるかもしれない。ゲーテのような円満に見える個人がどのような内心を隠し持っていたのか、「ゲーテとの対話」は教えてくれる。現代では文学と呼ばれるものは、上記に書いたような構造とは何の関係もないものとなっている。今あげた作品を三次元的構造の作品だと考えると、現代の「純文学」は二次元的な、平板なものだ。ただ、この世界には依然、悲劇というものは、見えない領域で起こっているように思う。

ウィトゲンシュタインとドストエフスキーの見た風景

 


 世界と呼ばれるものの中に善悪は存在しない。これはウィトゲンシュタインが論理哲学論考の中で考えた事だ。

 世界の中には善悪はありえない。おそらくまた、価値も幸福もないのだろう。それらを付与するのは「主体」であるが、主体は世界の限界を構成する為に、善悪、幸不幸、価値、意味は世界の内部にない。

 もう少し考えてみよう。しかし、世界を構成するその構成の仕方は価値判断ではないのか。ここで、自分は文学の問題として、この事を考えたい。

 個々の作家が世界を構成する時、作品内部に善悪は存在しない。(今、念頭にあるのはドストエフスキーとか漱石などの大作家で、普通の作家の事は考えていない) 作品内部にあるのは登場人物であり、その言動だけである。

 ある個人の生き方が別の人間の生き方より優れているという価値判断は、作品(世界)の内部にはない。しかし、作家がどういう人間を選んで書くのか、どういう人生過程として描くのか、その判断の中に価値はある。しかし、価値判断自体は作品内部には現れはしないのである。何故ならそれはもうすでに現れたわけだから、作品の中には現れはない。それは作品を形作るという形で現れており、作品内部にあるのはただ個人の言動だけだ。

 極限の文学者はおそらくそういう世界観を保持している事だろう。さて、では、その目をもう一度現実の世界に向ければどうか。

 ウィトゲンシュタインが見た風景は、このような「極限の文学者」が見た風景と同じだったという事ができる。世界の中に善悪、倫理、道徳は存在しない。あるのは事実だけ(後期には言語ゲーム)。極限の文学者ならば、世界の中にあるのはそれぞれの人間の人生だけであり、その人生を意味づけるのはただ一つ、作家の視点だけと言うだろう。しかし、この作家の視点は世界を構成するものとしてあり、世界の内部にはありえない。

 しかし、ウィトゲンシュタインの言っている事は嘘ではないのか。例えば、イスラム国が、あるいは凶悪な犯罪者がしている事は紛れも無く「悪」ではないのか。

 それに答えるならば、それは「悪」ではない。もちろん善でもない。いや、もっと考えてみれば、世界の内部に善悪を見る見方よりも、善悪そのものを相対化する視点の方がより大きいのだ、本質的なのだ、とウィトゲンシュタインは叫んでいるように僕には見える。何故なら、善悪の概念は世界を分節化するからである。単一の概念の内部を、ケーキを切るように「善悪」で切り分ける。すると世界は二つに分けてしまう。片方を捨てて、もう片方を取るのが「正しい」のか。ーーこの「正しいか否か」は極限概念として言っている。

 ドストエフスキーは凶悪な犯罪者も「正しい」し、その犯罪者の頭を銃で撃ちぬく人間も同様に「正しい」のだという意味の事を言っていた。この「正しい」という言葉の意味は普通の意味の言葉ではない。これを普通の言葉として考えると、間違ってしまう。

 例えば、イスラム国のしている事は悪ではないと今、僕が言っても、もちろん内心それは間違った思いだという感情はある。ではそれは悪ではないのかと人は問うかもしれない。その時、こうした行為が悪であると思考するのは、肉体を持った一人の人間の立場としてだと考えられる。つまり、自分の肉体が痛み、傷つき、快さや不快を感じるそういうものとしての主体である。一方、哲学的主体はこれとは違う。哲学的主体は純粋な視野である。この時、彼は自分の肉体を失い一つの視点となっている。だから、世界の中に善悪は消えるのだ。
  
 しかし、人々は通常、世界の内部で毎日のように善悪の判断をつけ、価値判断をしている。これらの判断はどうなるのだろう。

 論理哲学論考ではこれらは「語りえない言語」に類別される事となるだろう。また、ドストエフスキーのような大作家であるなら、これらの価値判断は作品内部に取り込まれ、それぞれの人間が相対化して描かれる事になる。そうしてもうひとつのーー真のと言って良いーー価値判断は作品を形作るように現れるだけで、作品内部には現れない。つまり、世界で毎日我々がしている善悪、価値判断はより大きな視点からすれば、我々の行為、言動の一つとなり、絶対的ではなく相対的なものとなる。大きな、偉大な視点は全てを包括する。その内部には善悪はなく、また、「ない」もない。世界にはただ「ある」だけがある。大きな視点はこれをただ見つめ、認識するのだ。それは神の視点と言っても良い。

 こうした視点を我々が簡単に掴む事はできない。我々が通常、価値付け、意味付け、善悪の判断を行っている時、絶えず自分の立場を絶対視している。私がある身分に所属しているならその身分を私と同一化し、私がある国にいるならその国と自分を同一化する。より正確に見れば、私(主体)は認識しえない。哲学的に言えば、我々が主体(私)を手放した時、始めて、私は実体ではなく一つの視野である事がはっきりするのだ。つまり、私達は実体、通常考えられている私を完全に手放した時、一つの視野の元に世界が顕現されていくのを見る事ができる。僕の考えではドストエフスキーやウィトゲンシュタインはそのような風景を見たのだった。彼らは自己を置き去りにして一つの視野となった。そこに、世界は彼ら独自の姿を取って具現化したのだった。

文章の目的

 


 自分は難解そうな、理屈っぽい文章を書いているので、他人から「もっと読みやすい文章を書け」とか、「もっとわかりやすく書け」という意見をよく貰う。

 こうした意見の持ち主は自分の意見を拡張してみせる事がある。つまり、「文章の目的は広く人々に読まれる事」であり、「だからこそ君はそういうものを書かなければならない」というわけである。

 こういう意見というのは一見、正論に見えるが実際はよく考えてみる必要があるだろう。こういう意見の奥底にある根の部分は、実は相当に深い。
                             ※

 昔、マルクス主義というものが流行った事があった。その時、「芸術は世のため人のためにならなければならない」「芸術は社会の為にならなければならない」というような意見が主だった。そういう形式のマルクス主義的作品は沢山生まれた。今、マルクス主義文学で残っているものは小林多喜二の「蟹工船」くらいだろうか。その他の、「世のため人ため」の文学の大半は死滅したようである。日本最大の文学者と言ってもよい夏目漱石、森鴎外の二人はブルジョア文学である。日本で最も優れた作家と言ってもよい夏目漱石の作品は主に不倫などの三角関係を扱っている。漱石が最初に自身を掴んだ「それから」という小説は、(今で言う)裕福なニートが友人の妻を奪う話である。

 江戸時代には儒教というものが主な哲学となっていた。儒教は、当時の封建的な社会制度と合致した倫理的な考え方であり、人間を社会に一致させる事を目的としていた。その過程からおそらく、芸術も社会の為にならなければならないという考え方がでてきたのだろう。要は、道徳や倫理によって芸術を意味づけようとする運動が江戸時代にもあったのだ。これは要するに、「文学は世のため人のためにならなければならない」と主張するマルクス主義と同一のものと僕は考えている。これに対し、真っ向からに反対意見を唱えたのが本居宣長で、宣長は芸術は「もののあはれ」を描けばそれでいいのだと強固に主張した。

 今は大衆社会である。大衆はとてつもなく強固な力を持っている。だから、彼らは「文章は世の中の人に読まれる為にある」と主張して憚らない。その事に対して何の違和感も感じない。これはいわば、マルクス主義、儒学の変形ではないかと思う。今はまだ「文章は世の中の人に読まれる為にある」というレベルだが、これがもう一歩進めば「世のため人のためでなければそれは良い芸術ではない」というイデーへと変貌するだろう。自分の予想では、もうすぐ人はこういうイデーを叫びだすだろう。

 昭和初期の小林秀雄はマルクス主義に対し敢然と反抗し、江戸時代の国文学者本居宣長は儒学に敢然と反抗した。自分は彼らのような偉大な文学者ではないが、少なくとも、文学は世のため人のためではなく、世の中や人を超えるものとして存在しうるのだという事を主張したい。「文章は人に読まれなければ意味がない」という意見に僕は与しない。それは、世間や社会の価値観を絶対視する見方だ。僕は文学というものは、世間や社会の価値観を超えるものして存在しうると考えている。また、芸術はそれ固有の価値を持ち、時代を通じて再発見されるものだと考えている。現代の大衆文化から人は「売れなければ意味がない」「読まれなければ意味がない」と言うが、それは人々の価値観を絶対化するものだ。自分はそうではないと考えている。現在、多くの人に読まれ、一時的に耳目を賑わせている作品群も時が来れば消える事だろう。世のため人のためという場合、その「ため」が安易にしつらえられたものである為に、長続きしない。そして本当に「世のため人のため」になる作品が、同時代にあっては世の人に誹謗されるという事もあるのだ。芸術とは倫理に汚染させられて終わるものではなく、読者や視聴者の価値観に絶対的に迎合しなければならないものでもない。AKBの曲が一番売れているから、AKBが一番すぐれたアーティストだとは自分は全く思わない。芸術にはそれ固有の価値があり、それは芸術家の個性の中で育まれていくものだろう。自分は文学に対してそういう考えを持っている。これから先も同様に批判はあるだろうから、ここに先に、自分の意見をこうして述べておく。

大衆とメディアの需給関係

 


 現代の社会というのはほとんど、文化というものが欠如しているのではないかと思う。最近そういう事を思う。

 知性は知的なものとすり替えられ、文学は文学的な装いにすり替えられた。哲学者はほとんどいないが、哲学紹介者、哲学研究者はわんさかいる。こうした事態が様々な領域で起きている。我々が自分の頭で考える代わりに代用してくれるのは、社会が与える規範である。我々が自分の頭で考えるよりも、世界が我々に押し着せた服の方が、我々にはピッタリとしていると感じる。

 世界がなぜ、このような様式を選んだのか。事は、あるいは歴史の「始め」からそうではないのか。仏教が日本に輸入された時、その哲学性は剥奪され、通俗的な様式へと変化した。

 現代社会では、大衆の欲望と、メディアの存在が互いに需要ーー供給関係にあるのではないかという気がする。大衆がある種の欲望を持つと、メディアはそれに応じて、その為の映像を供給する。その外側の事は我々にはわからない。我々は自分が望む映像を与えられないと、子供のように駄々っ子になる。我々がある事柄が正しいのだと信じると、それがメディアを通じて供給されるまで駄々っ子のように叫びをあげる。

 我々はルサンチマンも抱えている。だから、そのはけ口となる映像もメディアから供給される。我々が安易な、安全な立場にいて、罵る事ができる事柄、軽蔑できる事柄をもメディアは供給してくれる。こうして我々は自分の欲望と、社会が与える幻想の中に次第に閉じこもっていく。はじめ開放的なメディアと思われていたインターネット空間は次第に閉じていく。

 ここでは「外部」というものが意味を持たない。我々が望む事、我々が正しいと感じる事は即座に、メディアがその映像を送り出してくれる。ここでは市場というものも一役買う。我々の一人が大衆に「認められたい」と感じた時、手っ取り早いのは、大衆が望む自分を演じる事だ。こうして、認められたい個人は大衆の欲望に見合う姿として、つまり「タレント」としてメディア上に現れる。我々はそれを新しい人物がでてきたと感じるが、実際は我々の欲望が創造した人間の影に過ぎない。ここでは全てが循環している。

 こうしてこのメディア社会は次第に一つのループに閉じていく事になる。日本だけではなく、アメリカでもそうではないかと思う。アメリカでトランプという政治家が出てきたようだが、彼を見ているとそういう事を感じる。これは国籍関係ない、我々の欲望と幻想の本質的な対関係ではないかと思う。

 自分はこういう事を指摘して、どうこう言うつもりではない。自分は個人であるし、社会全体に対して無力な人間だ。ただ、認識を通じて自由になろうと望んでいるだけの事だ。この社会がどこへ行くのかわからないが、幻想と欲望の対関係の外側に時間というものは存在していると思っている。我々が、自分達は正しいのだと望めば、我々が正しい「証拠」が即座にメディアから送られてくる。しかし「本当に」正しいのかどうかはおそらく時間が決定する。自分の中に閉じこもり、正当性を絶えず自分で自分に認証したとしても、自然は、時間はその外側にある。「国破れて山河あり」 何が破れ、何が現れるか。それは我々の作り上げた関係の外側にあるだろう。そしてそれは時間というツールを通じて、やがて世界に暴露されるだろう。
 

 「学校の勉強」と社会システムの硬直性について 



 高嶋ちさ子というバイオリニストが子供が約束を守れなかったからゲーム機を壊したということで、結構な批判を浴びたそうだ。少し前の話題だが。

 自分にとっていつも疑問な事は、この手の人はどうして「学校の勉強」というものをそこまで無邪気に信じられるのかという事だ。「学校の勉強」というのは聖化されているが、それは単にシステムが規定した知識の集積に過ぎない。システムは己を正当化する上でそういうものを必要とするが、個人がシステムの外側を思考してはならないという規定はない。もっとも、この社会がすでに全体主義化しているというなら、思考してはならないという規定ができあがっている事になるが。

 固定した知識を下々の者に押し付け、それが間違っていようが間違っていまいが、「それが正しいのだ」という態度は社会全体を硬化させ、停滞させる。かつて世界第一等の知性と思想を持っていた中国が長きにわたって停滞したのは、中国の硬直した官僚システムのせいだと僕は思っている。ドラッカーやミルがそういう風に言っているのを見て、そうなのだろうなと自分も漠然と考えた。

 学校の勉強が絶対的に正しいと考えている人は多分、「それ以外」の勉強をした事がないのかもしれない。中学の公民の授業で僕はケインズの経済理論について学んだが、ハイエクについては学ばなかった。分子の結合について習ったが、量子論については習わなかった。ハイエクよりもケインズを取り、量子について教えず分子についてのみ教えるとか、数学のある定理を教え、ある定理を教えないというのはシステムの恣意的な採用である。その恣意的な採用に素直に順応すれば、システムの中では良いポジションを占められるのかもしれない。しかし、システムはもはや高嶋ちさ子的な人間が大勢いる所では、自己批判する能力を持たないので、システムそれ自体が停滞し、更新する能力を失っていく。ここでは個人は社会に服従する事により恩恵を受けられるが、社会は自己批判がないために停滞するという二律背反があるように思われる。

 自分の関係する「文学」という領域では、「悲劇」というジャンルがある。悲劇は、この二律背反を悲劇的に解決したものだと考える事ができるだろう。ソクラテスはギリシャ人に処刑されたが、ソクラテスは何より、ギリシャ社会に有益な人物であった。この二つは矛盾に見えるかもしれないが、矛盾ではない。システムが自己を更新する為には、それを否定する人物が必要なのである。この否定を摂取することで、システムは前進していく。この時、ソクラテスのような天才的個人は悲劇という断絶に出会う。個人の内部では悲劇として現れるこの現象はしかし、システムとの摩擦面では、システムに対して恩恵をもたらすものである。こうして歴史は前進していく。

 今の日本社会もこうした変革の場所にいるのだろう。自己礼賛、自己崇拝は何よりも自己の為にならないという事が、システムに理解できなければ、この社会も停滞期に入るだろう。社会は己を乗り越えるものを許容する事により、前進する。今はそういう時期ではないかと思う。

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