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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

 「エウダイモニア」としての幸福


 古代ギリシャに「エウダイモニア」という言葉がある。これは「人生全体の実質的幸福」というほどの意味だそうだ。光文社のニコマコス倫理学の解説に書いてある。
 
 アリストテレスのニコマコス倫理学は幸福論としても読む事ができる。その際の幸福とは、我々の想起する刹那的、快楽的幸福ではなく、エウダイモニアとしての幸福であり、「人生全体の実質的幸福」という意味である。それはいわば、人生全体を俯瞰しつつ追求するタイプの「幸福」の事だ。

 そこでふと思ったのだが、今やこの「エウダイモニア」に相当するような言葉は現在の世界からは失われているのではないか。日本人の「幸福」も英語の「Happiness」も同様に、エウダイモニアには相当せず、どちらかと言うと、快楽的、刹那的雰囲気を感じさせる。我々の言語にエウダイモニアが存在しないという事は、我々の内から「人生全体の実質的幸福」を追い求めるという精神が失われている事の証左になる。実際、僕はこの解説文を読んで始めて、『そういう概念』がある事に思い至った。これは言語という側面を考えると重要な事かもしれない。

 過去を遡れば「幸福」「Happiness」にも深い意味が隠されていた一時代があったのかもしれない。我々は我々の精神に則って語を変形させる。すると、もうそれ以上の観念は想起すらできないものとなってしまう。我々が自分の時代を相対化し、新たな時代を掘り起こす事ができるのは、我々が過去と今とを比較するからである。過去と今との違いを知る事が、未来を作る。

 言葉と人間とはおそらく、互いに浸潤する関係にあるのだろう。人間精神は言葉に反映されるが、言葉それ自体も一つの独立した物体のように人間を規制する。辞書の存在、「正しい日本語」という観念は、言葉が人間を規制する事を示している。我々が正しい、良い言葉を使わなければ、言葉の方でも悪しき人間精神を産出する事に一役買う事になる。

 我々が話す一つ一つの言語が、我々の全歴史であると言っても過言ではない。正しい日本語を使うべきであると主張する人は、言葉というものを物体のような硬いものとして想像している。重要な事は正しい日本語を使う事ではなく、正しい人間である事だ。その正しさが何かを追求するのに、古代の人間の文献を漁る事は無意味ではないだろう。そうした意味で、過去に帰る事こそが未来を作り出す。今、この瞬間を相対化し、俯瞰し、それを乗り越えるには過去を知る事によって自らを知るという方法しかない。知る事というのは常に、それ自体を乗り越えるという事を含む。過去は我々の未来となって現れる。その為に、我々は今を生き、過去を振り返る事によって未来に進む。時間というのは人間にとってそのように作用しているのだろう。

 

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作家の目指す最高の境地

 


 自分は小説を書いているが、小説というものにおいて何が重要なのかは大体見えているように思う。
 小説というものは簡単に言えば人生を描くものである。より正確に言えば、人生に意味付けをしていく行為である。
 人生それ自体は無意味であるーーと言うと、聞こえは悪いかもしれないが、よりはっきり言うなら、それは有意味とも無意味とも言えないものである。そしてこれを意味づけたり、方向付けたりする事に、倫理・道徳・価値観などが現れる。

 例えば、結婚して子を生み、平凡に幸福に生きる事が一番いい生き方だ、と誰かが言えば、それは人生に対する意味付けである。しかし、この意味付けがその人以外にとって本当に良いものか、正しいものかと考えるとそれは謎である。なぜなら、各人の生は多様なものであり、それだけ、各人の生に対する意味付けも多様だからである。この多様性を多様なままにすくい取る術があるか。この方程式を正確な形で解いたのが、例えばシェイクスピアという存在だったと考える事ができる。シェイクスピアは世界を意味付けつつ、それを彼一個の主観と立場に限定したりはしない。彼はまるで神のように、多様なものを多様なままに(悪すらも善と同様に)肯定し、見つめているのである。

 普通の人の意見、立場というのは皆、自分という立場にとらわれている。保守主義者が賛美するのは自分の所属する国であり、フェミニストが賛美するのは自分の帰属する性である。「いや、そんな事はない!」という意見もあるかもしれないが、そんな意見ははっきり言ってどうでもいい。今自分の言っている事は、それぞれが自己と思い込んだ立場にとらわれているという事だ。本質的な事はそれである。

 ブッダは、「世間の人は私ではないものを私と思いみなしている」と言ったが、これは完全に正確な哲学的見解である。シェイクスピアは哲学者ではないのでそんな事は言わなかったが、彼は作品において、自分の立場を完全に超越している事が見て取れる。彼は自己を拘束するあらゆる立場、偏見、エゴイズム、性別、国家、時代から抜け出て自由なのである。そしてその自由は逆に、あらゆる立場の人間を多様性のままに肯定するという最後の立場に昇華する事となった。これが作家というものの取りうる最高の地位と言ってもよいだろう。作家は究極的には、神が世界を見るように世界を見る事を欲する。哲学においては絶えず認識論が問題となるが、芸術にとっては「認識=行為」が問題となる。創作行為とは自らの認識の実現である。創作とは私が世界をどのように見ているか、その解明である。

 芥川賞作家の滝口某は、小説が「政府のずさんな国会運営」に対する批判となるという事を言いたかったようだが、実際、シェイクスピアのような立場の作家であれば、彼は全てを肯定する事だろう。彼は「ずさんな国会運営」もそれに対するデモ活動も、それに対して貧しい見解を述べる芥川賞作家も、そしてその事についてぐだぐだとくだらない事を書き綴っているこの私のような存在もーーシェイクスピアはまるごと肯定し、その多様性をむしろ多様性として歓び、それを素材として自らの作品を形作るだろう。シェイクスピアはそのようにして完全なる自由に達している。おそらく、作家というものの目指しうる最高の境地はそこにある。つまり、全てを相対性と見る最後の絶対性である。この場所に立って始めて作家は、世界を十全に描く事が可能になるのだ。

 「神の死」の後をどう生きるか


 今は2016年だから、二十世紀が終わってから十五年ほど経過した。二十世紀というのは概観してみると、かなり煩雑で、堕落した世紀だったように思う。その傾向は現在まで続いていて、人間は結局、神に変わる新たなシンボルを得ていない。現代人は神など必要ないと言うだろうが、今、アメリカでも日本でも、狭隘なナショナリズムが噴出しているのは、結局、これらの人々の基礎にある享楽主義というものの反動が出てきたのだろうと自分は思っている。

 現在と過去は違う、ある時期から新しいパラダイムが出現した、〇〇が発明したのは××時代から~というのは、最近の社会科学や哲学ではよくやられている。そこにはそれまでそう考えられていた偏見を覆そうとする意志が見える。

 僕は仏教哲学を勉強して、気が抜けてしまった人間である。二千年前、二千五百年前の人間がここまで本質、真実を洞察しており、それから二千年も経ったのに、この俺は一体何をしているのだろうと考えてしまったタイプの人間だ。だから、現在と過去との断絶を主張する哲学に対しては割合冷淡である。また、過去と現在の連続性を主張するのも同じ事だ。問題は連続性とか断絶とかが、人間の論理の一形式に過ぎないという事だ。世界をどう見ようが、それは我々の論理の内部にある。これをメタに、超越論的にカントは洞察した。カントと仏教は類似する点が多々あるように見える。

 神が死んだ後、カント、ゲーテ、ヘーゲル、ベートーヴェン、ナポレオンらの西洋近代の偉大な天才達は、それなりに安定感のある人間主義を生み出した。これは僕の勝手な私見である。これらの人々は神の概念を地上に下ろしてきて、神と地上、卑俗なものと崇高なものとの間に対して、バランスの良い巧妙な人間主義を生み出した。この人間主義がニーチェ以降は卑俗化してしまう。理想は現実に堕ろされ、享楽主義、大衆社会が噴出した。良き時代は消えた。ヘーゲル→マルクス→レーニン→スターリンと矢印をたどっていけば次第に歴史が悪化していくさまが見て取れる。

 例えば、ロシアの二人の偉大な作家、ドストエフスキーとトルストイがどうしてあんな高みまで昇れたかというと、考えられるのは彼らが信仰を持っていたからだ。彼らはキリスト教を最後まで手放さなかったが、同時に現実も手放さなかった。(トルストイはある時期以降手放したかもしれない) ドストエフスキーやトルストイが偉大な作家、思想家になったのは、現代の我々から古く、無意味と見える神への愛、神への信仰を持っていたからではないかと僕は思っている。もちろん、この「神」の所には別の言葉を入れても良い。そこに信念、イデア、愛、真理などを入れても良い。しかし、いずれにしてもこの神に値する概念は人間理性を越えている。そしてこの人間理性を超えたものはないと断ずるにはあまりに惜しく、あると称するにはあまりに嘘くさい代物である。この点をどう考えるかは未だに難しい問題であろう。(ドストエフスキーはこの矛盾を最後まで手放さなかった。彼は悪霊のチホンとスタヴローギンを同時に自分の中に飼っていた。彼の天才性はこの両者の対決それ自体にはっきりと表現されている)

 さて、ここまで概観して何が言いたいのかというと、現在はとにかく理想が消失した時代ではないかという事だ。恋愛という名の下に隠れているのは性欲の発露に過ぎず、夢を叶える、社会を向上させるという言葉の下にあるのは社会的地位の上昇、金銭の増加に過ぎない。もちろん、社会生活がよくなる事は良い事には違いないだろう。しかし、目を見開けば、我々の社会生活は過去に比べればもうすでに良くなっている。蛇口をひねればいくらでも水が出て、インターネットで世界中の情報が手に入る。そのほかにも、先進国の我々が享受している社会生活はかつての王侯すら手に入れられなかったものだ。しかし、それに対して心から歓びを感じている人間を僕は見た事がない。だとすると、こう考えるのが妥当ではないか。我々が社会や自分の環境を向上させる事によって達成しうると夢みている事は本当に夢にすぎないのではないか。我々がもし不老不死に達したとしたら、我々はその瞬間に「そんな事は当たり前だ」という態度を取るのではないか。本来、我々が望み、達成しようとしているのは我々が望んでいると考えている事とは全く違う事ではないか?

 こういう考えに突き当たる時、自分の目にウィトゲンシュタイン・カントが重要な存在に見えてくる。これらの哲学者は結局、天国に行く事を拒み、現実に帰ってくる。マルクス主義はあらゆる天国を夢想したが故に実現したのは人工の地獄だった。今のナショナリズム、変形したマルクス主義、イデオロギスト達もみな、おそらくはこれと同じ結論をたどるのだろう。つまり、彼らは理想は実現しうるという甘い夢を抱き続けるが上に、現実の上では落下し続けるのだ。カントの純粋理性批判は人間の理性の限界を教えてくれる。我々にとって生きる事が幸福となるのは、我々の望む幸福が実は幸福ではないと知る事が条件となっている。

 以上はとりとめのない意見だが、自分の思想の過程として書き記しておく事にする。おそらく僕個人はこれから、理想と現実を共に自分の中に飼う事を目標とするだろう。もしかしたらその内、自分は宗教者になるかもしれないとも感じている。

文章を書く技術

 


 エリック・ホッファーは書く事と読む事の間には千里の隔たりがあると言っていた。書くという事は、一見誰でもできるようだが、実際にはピアニストがピアノの弾き方を習う事と同様に難しい。インターネットに広がる無数のブログ、ツイッター、フェイスブックなどを見ればそれは一目瞭然だ。そこではただ書いている、ただ言っているだけで、書く技術というのはほとんど見られない。より正確に言えば、書く事によってしか表現できないものがそこには現れていない。

 哲学者のエリック・ホッファーは、モンテーニュを熟読する事で書く技術を習得したと言っていた。ホッファーは日雇い労働者で、冬に雪に閉じ込められる事を予期して、先に分厚いモンテーニュのエセーを買ってからそこでの労働に望んでいた。そしてホッファーは予期通りに雪に閉じ込められ、モンテーニュと向き合う事になった。ホッファー曰く、そこで彼は書く技術を学んだらしい。

 物事を学ぶ人間には誰にでも師匠と呼べる存在がいるものだ。僕にとって、思想上の先生、表現というものが何かを教えてくれたのは「神聖かまってちゃん」なのだが、具体的に書く技術を教えてもらったのは小林秀雄である。僕の語り口に逆説的かつ、難解な語り口調が含まれているとすれば、それは師匠の小林秀雄から取ってきたものだ。僕の文章が難解だというクレームがあれば、師匠の小林秀雄にクレームを言ってもらえればありがたい。そうすれば弟子の責任は免れるというものだ。

 元々、小林秀雄は僕には難解な存在だった。大学生の時、何度か小林秀雄を読もうとしたのだが、どうしても読めなかった。どうして小林がこれほど評価されているのか、よく分からなかった。小林秀雄評価などはったりではないかと疑問を抱きすらした。しかし、大学を出て一年、二年した時ぐらいに小林秀雄の短いランボー論を読み、意味は分からないが「こいつはどうやらすごいやつだ」という漠然とした感想を抱いた。それがきっかけとなって僕は小林秀雄を読むようになった。

 小林秀雄で僕が一番気に入っている本は、岩波文庫から出ている小林秀雄初期文芸論集である。僕はある時期からこの本を毎日読み、小林秀雄の文章、一字一句に文字通り心酔した。心の底から小林秀雄の文章、啖呵の切れ味、半端な学者や文学者もどきを綺麗に切っていく姿に感動し、毎日のように読んでいた。その事が自分の文章の根底を形作ったのだろう。僕は小林秀雄の逆説的な論理を受け継いだと今でも勝手に思っている。

 最近は偉そうになっているので好き勝手言わせてもらうと、本屋で最近の作家のエッセイなんかを手にとっても、ほとんどが文章によって自己を表現する技術というものを感じない。ただ、自分の感じている事、考えている事を事実の水準で言うという事と、言葉を音楽のように駆使して己を表現するという事は全く違う事だ。読者でも作者でもその事を認識している人はかなり少ないと思う。翻訳者などでも、良くない翻訳には音楽性が欠如している。補注をたくさんつけて、学者としての知識量を自慢したとしても、翻訳というのは結局、日本語を扱う技術が必要とされる。翻訳者は部分的には詩人であらねばならないが、自分は詩人ではない、学者だという隠れ蓑に隠れたがる人は「原文に忠実な~」とか、訳注をたくさんつけて知識に逃げる傾向にある。言葉を扱うというのはかなり難しい事だ。

 言葉を扱う技術というのは本質的は「手」を使う事であり、そこには職人的な気質も存在する。手を使って人は物を作るが、その際、技術に熟達したものは頭より手の方がよほど物を知っているという感覚を味わう事だろう。今の作家…例えば西尾維新とかその手の作家に感じるのは、「頭でっかち」という事だ。現代のインテリは大抵、手を具体的使って何かを表現する事を知らないので、頭だけで先行しているという印象を受ける。手を使い、体を使って物事を覚えるのはそう簡単ではない。(僕がこう言うと、「それは肉体性の欠如の事ですね」みたいにしたり顔で言う人間がいるが、僕が頭でっかちというのは正にその「肉体性の欠如」みたいに整理して何事も済まされるという発想それ自体である)

 話を前に戻すと、本屋で最近の日本作家のものをパラパラと見ていて、唯一書く技術を感じたのは、村上春樹のエッセイだった。村上春樹に対して僕はもう興味をほとんど持っていないが、村上春樹はやはり、書くという事を自分なりに知っているのだと思う。(ホッファーレベルではないにしろ) そして、人が書く技術を習得し、自分を表現できるようになるには、おそらく考えられているよりはるかに遠い道のりがあるのだろう。知識や情報はそれを活用する者を必要とするが、それを自意識の領域で、自分の手足の如く活用できる人間……そういう人間を生み出すには多くのエネルギー、金、時間が必要とされる。ホッファーのような人間一人生み出されるにも、世界の内の実に多くの資源が費やされたのだ。そしてまた、ホッファーのような優れた文章を読む我々はその文章それ自体をまた、自らの資源としなければならない。そのようにして「書く事の歴史」は進展していくのだろう。

インターネット時代における天才の出現について (エリック・ホッファーの論から考える)

 


今連載している哲学少女という小説では不完全な形で、「疎外された知性」というテーマを扱っている。このテーマ自体は書き始めた時にはイメージしていなかったのだが、書く過程で自然と出てきた。

 昨日、本屋でエリック・ホッファーの現代社会を考察していた本を読んでいたら、ホッファーは重要な事を言っていた。それは、知識や情報を持った個人が社会の中で行き場を失ったり、挫折したりすると、そこに芸術・思想・哲学などの重要な成果が生まれるというものだ。

 それは例えば孔子であり、またマキャベリでもある。孔子もマキャベリも政治家志望だったが、そうなれなかった挫折が彼らを思想家、著作家として優れたものにした。思えばダンテもそうだし、司馬遷などもそうだろう。知識、情報を持ち、現実に対して期待を持っている人間が現実に裏切られたと感じる時、彼らは筆を取った。彼らの情熱は挫折の屈折を経て、書物の中に刻印された。そしてその思想が、後の時代や社会に深く影響を及ぼすものとなった。

 また、ホッファーは天才が生まれる時代・社会というのは限られているとも言っている。ドストエフスキー・トルストイという大作家は似たような時代に生まれたが、スターリン粛清後のロシアは天才が生まれようのない国となってしまった。天才が生まれやすい社会とはなんだろう。それはおそらく、知識・情報が才能のある手の人に渡るという事が前提かもしれない。ブッダは天上天下唯我独尊と言ったが、実際には雄大なインド哲学の地盤があってブッダが出てきたのだと僕は考えている。それに引き換え、最近のインドから偉大な思想家が生まれるとは考えにくい。少なくとも、ブッダクラスの人がインドから出るとは考えにくい。

 僕は、現代の日本、あるいは現代社会というのは天才が生まれやすい時代かもしれない、と思っている。なぜそう思うかと言えば、インターネットというものがあるからだ。また、先進国の人間は金や地位がなくても、図書館などに行って自分で学ぶ事ができる。大学に行かなければ勉強できないというのは自分には馬鹿げた話としか思えない。昔は東京帝国大学に行かなければ、西洋近代の理念を理解するのはほぼ不可能だったろうが(だから昔は東京帝国大学の周りに天才が集結した)、今はそういう時代ではない。個人と世界がネットを通じて直結する時代である。だから、そこから豊かな天才が生まれる可能性がある。

 もちろん、これを自分は楽天的にだけ言っているわけではない。思想・哲学・芸術などの分野では、今文化と呼べるほどのものはないと感じている。全てがあまりに形骸化しており、形式的となり、独自性はかけらもみられない。書く者は、己に向かっても世界に向かっても書いておらず、ただ「選考委員」に向かって書いており、その反対には大衆的なエンターテイメントがある。大衆的エンターテイメントと狭隘で、閉塞的な専門家集団の間に挟まれ、具体的な文化、知性と呼べるものはほとんど存在していない。文芸雑誌、思想雑誌などを見ればそれははっきりとしている。
 
 今、僕は個人的に優れていると思っている芸術家、思想家などは何人かいるが、彼らはいずれも無名であり、ネット上で活動している人達である。その中で唯一プロに属するのは神聖かまってちゃんというバンドだけだが、彼らも状況から見るに、「有名なメジャーアーティスト」という感じではなく、やはりネットに所属するバンドというイメージが強い。これら…僕が優れていると思っている人達は皆、アカデミックな、あるいは公的な世界から閉めだされた人ではないかという思いが僕にはする。ホッファーの言っている事を読んで、ふと自分はそういう事を考えたのだった。

 つまり、古代と今とでは対して状況は変わっていないわけだ。知識、情報を持つ人間が、現実世界から閉めだされたと感じる時、この優れた人物はそのエネルギーを自分の作品に注ぎ込む。もしマキャベリが政治的に大成していたら、彼はあのような著作は残さなかっただろう。現代においては、公的な社会に疎外された知性は、インターネットにはけ口を求めているのではないか。彼らは形骸化して、形式化した世界から外れた場所にいて、それゆえにネットという新しい現象の中で自己を生成している。もっとも、それもいつまで続くかはわからない。ネット自体がメジャーなものになってきて、全体主義的な雰囲気を帯びてきているからだ。スターリンが出てきて、トルストイ・ドストエフスキーの類はもう出てこれなくなったように、ネット上でもまともな言論は全て粛清される日が来るかもしれない。

 ホッファーの言っている事を読んで、自分は大体以上のような事を考えた。自分は外国語ができないので、日本の事しかわからないが、世界的に目を向ければ、他の国でも似たような事が起こっているかもしれない。つまり、政治的、社会的には挫折者、失敗者、あるいは少なくともなんでもない人として扱われているような優れた人物が自分の知性と能力をインターネット上にはきだす。そうした事は語学ができれば、ネット上で確認できるかもしれない。自分は日本語以外がろくにできないのでそこまで確認はできていないが、今はそういう時代ではないかと思う。つまり、未来の進歩、新たな第一歩というのは常にこのような、閉塞した状況をはっきりと理解するところから生まれるのだ。そしてインターネットのような技術は天才を生み出す基盤にはなりえても、それ単体で褒め称える事はできない。ネットのような科学技術はハードウェアであり、それには人、作品のような人間的ソフトウェアがのらなければならない。その二つが合わさって始めて世界は前進する。そういう意味では、現在という時代は希望が溢れると共に絶望が支配する時代とも言う事ができるだろう。

時間を失った現代

 


 フランスの社会学者ロベール・カステルは「現代の若者は永遠の現在の中に立ちつくしている」と書いていた。カステルの言っている事は紛れも無く正しい。

 現代というのは基本的に、時間というものを失った世界である。これは自他共にそうだろう。例えば、フランスの現代思想、フーコー、ドゥルーズらの哲学は様々なものが横に、並列的に並ぶ空間的な哲学である。彼らはつながる事、横に水平的に広がる事に関してはよく知っているが、そこには一切の時間性が欠けている。現代の若者も同様に、時間を失って生きている。だから、三十代、四十代になっても我々は男子、女子のままであり、そこに成熟というものが見られない。年を取っても求めるのは彼氏、彼女であり、自分の幸福を希って周囲のものを自分に惹きつけようとしている内に時間が過ぎてしまっている。そして、時間に見合った成熟度は、現代の人間は与えられない。

 現代の人間は自分が何を求めているのか、理解しているのだろうか。瞬間的な快楽を追い求める事によって、自分の人生の時間は細切れになり、その後には何も残らない。今の若者ーーつまり、我々が求めているのは一体何なのか。連続する快楽の連続なのだろうか。我が身を振り返ってみても、二十四時間の内、適当にゲームをして、食事をし、寝て、後はそれなりにかわいい彼女がいて時たま「やらせてくれれば」万々歳である。…これが現代の男子の理想だと言えば怒られるだろうが、人間が求めているのはその程度のものではないかという気もする。もちろん、女性の側でも大した変わりはないだろう。仕事においても、シフト制、アルバイト、非正規労働の中で時間の持続が引き裂かれ、細切れになった時間だけがある。(正社員にしたら解決するという話ではない) 我々はこの細切れになった時間の連続の中で、不意に自分が年を取っている事を感じる。しかも、もう全ては手遅れになってしまっているのだ。

 この事に対しての処方箋、解決策を示すつもりは自分にはない。そもそも、こういう事を問題とする事ができるというだけでも、現在、先進国に生きている人間は非常に恵まれていると言う事ができるだろう。そこでは生きて、衣食住、それにある程度の人権などが保障されているという前提のもと、話が始まっているからだ。だから、これは二十一世紀の自分達が考えなければならない新しい問題ではあるだろう。

 卑近な話だが、僕個人は何かをしようと本気で思ったら、それを必ず毎日する事にしている。例えば、こうして文章を書く事など。僕は文章を書くという事はほとんど毎日しているが、それは時間を失った世界に対するささやかな抵抗ではある。この程度の抵抗しか自分が持たないのは残念だが、塵も積もれば山となるかもしれない。毎日続けなければ、時間は細切れになって、人生というものはただ断然した瞬間の連続となってしまう。自分がこういう文章を書くのも、そうした刹那生を越えようという意図があるためだ。



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