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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

長編小説を発表します

「哲学少女」というタイトルの小説を今日から順に発表していきます。http://ncode.syosetu.com/n3410dc/  
サイトは小説家になろうです。

当分この作品を自分の代表作という事にしようかと思います。ドストエフスキー論を代表作としていましたが、この作品を自分の中の重要な作品として更新したいと思います。

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 物語空間について ートルストイ・ドストエフスキー・シェイクスピアー




 トルストイは晩年、シェイクスピアを批判した。オーウェルはそれを論評している。オーウェルはシェイクスピアを擁護し、トルストイを批判している。オーウェルの言っている事を読むと、彼の言っている事は至極まっとうだとわかる。ただ、自分はオーウェルとは違う視点を持ちたい。

 例えば、トルストイとドストエフスキーはどう違うか。トルストイの場合はあくまで邪を斥け、正しいものに迫ろうとする。アンナ・カレーニナでは主人公に似た人間は幸福に「ならなければならない」し、逆に、主人公と反対の思想の持ち主は不幸に倒れなければならない。不倫という罪を犯した人間は汽車に突っ込んで死ななければならない。それがいかに魅力あり、聡明な女性であったとしても。

 一方でドストエフスキーは、邪なものと正しいものとを自分の中に共存する事ができた。彼の中では悪ですらも、世界を構成するためには必要なパーツとすらみなされていたのである。しかし、それは悪を「肯定」する事ではない。僕の意見では、ドストエフスキーは自由と混沌の立場に立っている。ドストエフスキーは罪と罰では、場合によっては殺人を肯定しているようにすら見える。しかし、これは肯定とは少し違う。もちろん、殺人は肯定されるべきではない。それは倫理的に考えればそうだ。しかしより詳細に見れば、殺人という行為すらも、それが生まれる源泉ーー自由ーー混沌を否定する事はできないとドストエフスキーは考えている。殺人はやがて、悔恨、罰を受けるという物語的時間の中に吸収される。この物語的時間の中をラスコーリニコフは生きるのだが、問題はこの物語的時間に一つの結論を与えるという事である。この物語的時間に結論を与えると理性が勝ちを収め、「殺人は良くない」とか逆に「(正当な)殺人は良い」などという結論が出てくる。しかし、この結論よりも、人は常に未完結な時間の中を生きざるを得ないという根底的な条件の為に、ラスコーリニコフは罪を犯すのである。いや、罪を侵さざるを得ないのである。この問題に関して自分はかなり徹底的に考えたが、この事が自分以外の人に容易に伝わるとは自分も思っていない。

 ドストエフスキー、あるいはマクベスにおけるシェイクスピアの立場は例えば、後期ウィトゲンシュタインの思想と比べる事ができる。ウィトゲンシュタインは後期には、行為と規則とが逆転できる事を主張した。つまり、ゲームのルールは、ゲームを遊ぶ事から生まれるのであり、普通考えられているように、ルールがあるからゲームできるのではない。そうではなく、ゲームをするから、ルールが生まれる。(ルールがあるから遊べるのではなく、「遊ぶ」事からルールができる) しかしこの時、ウィトゲンシュタインがひっくり返したものーーその、「ゲームをする」「プレイする」という言葉の意味は、言葉の意味以前の混沌と自由の領域に身を置いている。ウィトゲンシュタインは明言しなかったが、彼が成し遂げた事は、彼の表現の簡素さよりもは遥かに奇妙で偉大なものだった。

 ドストエフスキーの罪と罰、シェイクスピアのマクベスにおいて彼らは、トルストイのように、自分の思想の反対側の人間を完全に否定しているわけではない。ドストエフスキーは牢獄には入ったが殺人者ではなかったし、シェイクスピアも人殺しではなかった。彼らは人殺しではなかったにもかかわらず、人殺しが書いた手記などよりも遥かに人を殺すという事がどういう事を正確に書いている。では、それをなぜ書いたか。なぜ書かざるを得なかったのか。ここには先に言ったように、悪すらも世界の現象の一つだと見る視点がある。より詳細に考えると、シェイクスピアとドストエフスキーは、悪や善という倫理道徳よりも、それが発現してくる自由と混沌の領域に目を据えていた。しかし、自由と混沌は、時間的推移を伴い、なんらかの結論、概念、倫理に至らざるを得ない。シェイクスピアとドストエフスキーの物語空間はこの「自由・混沌→概念・結論」の領域とイコールだ。これはウィトゲンシュタインからすれば、行為から規則が生まれる、という真理となった。

 一方で、トルストイは丁度真逆の立場にいる。トルストイは自身、随分とひどい事もしてきたにもかかわらず、彼は自分を常に善と幸福の立場に置き、悪を自分の外側に排出しようと努力する。トルストイがこの努力に誠実であった事から彼の天才は生まれたのだが、しかし同時に彼の悲劇も生まれたのだった。トルストイの生涯の晩年は悲劇と言えたが、それは彼がそもそも、絶対に悲劇を認めない存在だから生まれた悲劇なのだという事もできよう。トルストイは善を取り、悪を排除する。この時、トルストイは自分の芸術的天才を捨てて顧みなかった。しかし、人が今、トルストイを顧みる時、重要なのは芸術的天才としてのトルストイであり、説教家としてのトルストイではない。この事は、芸術家だった頃のトルストイが自身の内に、いやいやながらも混沌を持たざるを得なかったという事情が反映している。アンナ・カレーニナにおいて、幸福なレーヴィンとキチイだけでは物語にはならない。アンナ・カレーニナが優れた作品になるには、トルストイが否定したがっていたアンナという女性が必要だった。しかし、トルストイが決して認めたがらなかったのは、人は悲劇的な生を送るという意味では、誰しもが多少は「アンナ」ではないかという事だった。この事をトルストイは頑強に認めようとせず、これとの戦いに彼は生涯を費やした。一方で混沌と自由を手にしたドストエフスキーとシェイクスピアは、トルストイよりも更に先の領域に進んで行った。もっとも、その際にドストエフスキー、シェイクスピアが払った犠牲は我々には考えられないほどに巨大なものである。彼らの偉大な達成は、彼らが世界に対して完全な諦念を持った時に生まれたのである。彼らはトルストイのようにニヒリズムを排除し、否定しようとはしなかった。彼らはニヒリズムを引きずったまま、突っ走ったのだ。

 トルストイはあくまでも、善と悪の二項対立の論理の中で自らを善の立場に置こうとした。一方で、ドストエフスキー、シェイクスピアの二人はニーチェの言う所の「善悪の彼岸」まで彼らの論理、作品を推し進めていった。この事と、二人のキリスト教信仰がどんな関係にあるかは自分の手にあまる問題だ。ただ、神という概念はおそらく、無慈悲と悲惨、絶望、犯罪、無秩序をも含んだものでなければ、彼らはとっくに神を失っていたに違いない。彼らは神という概念からゲームを始めたのではない。彼らは行為、ゲームのプレイという混沌・自由からスタートして、神という概念(ルール)に到達したのだ。しかし、後の時代の我々はまたこの行為という混沌からはじめなければならない。だから、僕はドストエフスキーとシェイクスピアが到達した概念を疑う。疑う事から全ては始まるのだ。そしてトルストイが終わった地点はむしろ、トルストイの全盛期よりも後退した地点だったのではないかという疑問が頭から離れない。人生に結論はないというのが、唯一の人生の結論ではないか。今、自分はそういう事を思う。そしてこの僕もーーそして世界全体も、おそらくはこの自由・混沌→結論・概念の物語空間を移動しているのだ。もっとも、これを読んでいる人間がこの「物語空間」という概念を疑う事は可能であろうし、それは今こうして主張している「物語空間」という理屈に沿ったものですらあるのだ。自分はそのように考えている。

良い芸術作品とはどういうものか

 


 良い芸術作品と良くない芸術作品は見分けがつくだろうか。
 
 現実にはそんな事は困難だが、今、便宜上、そういう事が可能だとして自分の芸術理論について述べてみたい。できるだけわかりやすく書くつもりでいる。

 例えば、一枚の風景写真があるとしよう。それは、あなたの友人が外国旅行した時に撮ったもので、友人はその写真を写メで興奮気味に送ってきた。写真に映っているのはモンサンミッシェルでも、ガウディの建築でもいい、とにかくそういう有名な観光スポットだ。
 
 さて、そうするとあなたの前に一枚の写真が置かれる事になる。では、この写真は「良い」写真かどうかと今、僕が尋ねたら、あなたは不思議な気持ちに陥るだろう。そもそも、こういう写真はそのように「良い」「悪い」、あるいは美的に判断するものではないからだ。しかし、僕はあなたに尋ねよう。ではなぜ、あなたはそう思うのか?

 ここから簡単な芸術理論に入る。僕の考えでは良い芸術作品とは、主体の存在が作品の中に入り込んでいる作品の事だ。別の言い方をすれば「表現」している作品が良い作品だという事だ。「表現」とは「表に現す」と書く。作者が自分の様々な感情や、その存在を表に現しているのが良い作品である。逆に言えば、それができていなければ良くない作品だ。

 ではさて、あなたの前の一枚の風景写真に戻ろう。この写真は良いだろうか、悪いだろうか。…おそらく、この写真は良くはない。なぜだろうか。それは、あなたの友人は、ガウディの建築やモンサンミッシェルを前にして、非常に興奮した気持ちでシャッターを切ったにもかかわらず、その興奮は全然、写真に刻印されていないからである。あなたの友人は、有名な建築物を見て興奮し、ひどく感動して、おもわず携帯で写真を撮ったのだろう。しかしその興奮や感動は写真に表現されていないのである。

 ここから一つの結論を引き出す事ができるだろう。良い芸術作品は芸術単体で成立している。それ自体が一つの世界である、と。なぜなら、あなたが友人の風景写真を決して馬鹿にしないのは、友人が海外旅行に行き、観光スポットに感動したという事を知っているからだ。つまり、あなたが友人の事とか、この写真が取られた前後関係を知っているという事が、この写真に独立した芸術作品とは別の価値を与えているのだ。どんなつまらない作品でも、作者の人となりを知っていれば、多少は興味あるものとなるだろう。

 この事を別の例で考える事もできる。音楽でも似たような例を考えられる。例えば、二十歳前後の可愛らしい女の子のシンガーソングライターという存在は大体、何年かのサイクルで定期的に出てくる。シンガーソングライターでなくても、単に歌手でもかまわない。この場合、彼らの楽曲とか、CDを買う人は曲単体の魅力で音楽を評価しているわけではないだろう。それには、その曲を歌っている歌手がどんな女の子かという事が必ず関係している。これをイケメンの歌手にしても、アイドルソングにしても事情は同じだ。ここでも、先ほどの風景写真と同じ構造がある。つまり、作品そのものが単体で成立しておらず、作品を支える事情がむしろ、作品自体よりも重要になっている。とはいえ、いくらかわいくてもあまりに下手くそなら人は嫌がるだろうから、その辺りのバランスの問題もあるかもしれない。

 今では誰も彼もがアーティストという事になっているが、本当の意味でアーティストと呼べる人は、芸術作品が単体で成立している人の事だ。言い換えれば、本物のアーティストはある意味で、現実廃棄的な精神を持っているとも言える。なぜなら、作品が単体で成立する所まで行くほど努力する人間は、それを支える現実をある程度切り捨てる必要があるからだ。現実を超越しようとして優れた芸術作品が生まれるという事情もここにある。だから当然その逆に、現実におもねる芸術作品も無数にあるという事だ。

 ここまで書くと、自分の芸術理論は吉本隆明「言語にとって美とは何か」の「自己表出」という概念と似ているという事に気付く。自己表出という考え方では、同じように、芸術作品は自己の表出が問題となるのだから、これは先に言った「表現」「表に現す」と同じ事情であると言っても良いだろう。

 では、その自己とは何か、表出とは、表現とはなにか、と言う論理も考えられるが、これはそう簡単には決められない。それは個々の優れた芸術家が開拓すべき問題であって、理論でどうこうできるものではない。理論は現在から過去を見て、全体を整理する事はできるが、未来までは決定できない。自己とは何か、表現とは何かという事は個々の芸術家の手に委ねられるほかない。

 ただ、良い芸術と良くない芸術の違いとは何かと考える事はできる。あるいは、人が本当に芸術家としての道を歩き始める最初の一歩はどこにあるか。それは先に言った風景写真の例で尽きている。つまり、その風景写真では、作者の感情、興奮は伝えられないのである。(言葉の例で言えば、「私は哀しい。私は死にたい」とノートに書きなぐっても、そこに作者の悲しみは「表現」として独立した形では造られていない。詩人が修辞的な言語を持って遠回りするのはこのように、直接的な言語では伝えられないからだ) この「伝えられない」をなんとか伝えようとする事に芸術の努力が本当に始まると言っていい。

 コミュニケーション大好きな世の中に反して言うなら、芸術というコミュニケーションにとってもっとも大切なのはこの「伝わらない」事の自覚に他ならない。そしてこの「伝わらない」を対象化し、客観化しようとする事に芸術家の真の努力がある。つまり、ここでこの芸術家は、自分と世界の溝とを架橋しようとしているのだ。また、この芸術家と世界との間になぜこのような深淵が生まれたかは芸術家自身の運命と関わる問題だ。おそらく芸術家はこの深遠を意図的に選択したわけではなかった。彼は気づけば、世界と自分との間に巨大な溝がある事に気づいた。そしてふとこの事に気づいた時、彼は第三の言語ーーー自己言語でも他者言語でもない、それを超えるような言語ーーーを作り上げなければならない事に気づいた。この第三の言語こそが、本当の意味での良い芸術作品と呼べるものである。芸術家はこのような第三の言語で自分と世界とを同時に越えようと努力し、もがいているのだ。

 

馬鹿/日暮れ

馬鹿


光には彩りがあって
少し暗い方がよくもてると言う
髪をとかして君に見せたい
新しい髪型、流行りのアクセサリーで
僕は馬鹿になりたい
電車を待っている時
線路に飛び込む君の姿が見えた
ああ、君も馬鹿になればよかったのに




日暮れ


雨降ってる夜は
もう一度雨が降る
神がいる日はもう一度
神様が降りてくる

トレジャーハンティングはたまにうまくいく
誰も裏切り者がいない時に限り
もし君が裏切り者なら
僕は君をためらいなく殺すだろう

人混みにトラックで突っ込む男も
いつか甘い夢を見た事があるのだろうか
今日、牢獄にも
社会と同じ日が暮れる

詩人のただ一つの魔法



自らの運命の悲惨を詩人は
独特の方法でポジティブなものに代える
真の詩人はそのような魔法を体得している
詩人はこのたったひとつの魔法で自らの運命と戦う
すると、人々にはこの魔法の背後にどんな悲惨が隠れているかは見ず
ただ、魔法の結果たる美しい幻影だけを目にする事となる
つまり、詩人はそのように生を生きたのだ
彼は自らと人々に対して美しい嘘を残した
そしてこの嘘によって事実としての人生を超越したのだ

 「無知の知」を知っていると思い込む事について



 ソクラテスは昔、「無知の知」という哲学を編み出した。ソクラテスは「ソクラテスが最高の智者である」という神託を受けた。彼はこれを間違いだと考えて、それを試すためソフィストと議論した。結果、ソフィスト達は知っていないのに知っていると思い込んでおり、ソクラテスはそれに引き換え、自分は知っていない事を知っているのだと、理解した。

 
 「無知の知」というのは以上のような内容で、こういう概要だけを見れば「なんだ、それだけだ」と思われるかもしれない。現に僕も最初、この話を知った時、そう思った気がする。(記憶がおぼろげだが) しかし、この話を理解していないという事は正にこの「なんだ、それだけだ」という感慨によって証左されるのだ。近頃になってその事が見えてきた。


 無論、僕は現代のソクラテスでもなんでもない。しかし、現実で、あるいはネット上で人と会話したり、他人の意見をネットや本で見て、おおまかに次のような事がわかってきた。ある種の秀才的な人は物事を概念で捉えるのが得意である。そしてそれは社会学的・経済学的・哲学的方法を取ったりする。例えば夏目漱石は「近代化した日本のエゴイズムを描いた~」という風に捉え、それでもう漱石については言う事はないと考える。ドストエフスキーにおいては「キリスト教的思想を体現しようとした~」とか、他にも色々な理解、把握の方法はある。そういう概念による把握の方法は一理あるし、妥当でもある。しかし、それはそう捉えようと思っているという事、捉えようとする論理と捉えられたものとが微妙に食い違っている。人が妥当な観念によってある物事を説明し終えたと感じた時、実はその物事自体とは微妙なズレが生じている。しかし、秀才的な優れた人はこの「ズレ」を認識していない。最近、自分はその事に気づいた。

 
 ウィトゲンシュタインはこれを「語りえぬもの」と名付け、その微妙なズレを彼なりに解消したーーという風に僕は理解している。仏教哲学の方でも、真理と実在とのズレをいかに克服するかという事にかなりの努力と労力を費やしている。そしてその結果、真理によって真理を否定するというような現象に陥った。僕の理解では、彼らはこの「ズレ」を理解していた。そしてそれは、人間の論理、概念では捉えられないものが世界の実体だと感得する事だった。


 しかし、僕は知っている。僕のこの文章を読んだそれなりに賢い誰彼が僕のこの文章、そして僕自体を「これは〇〇の事だ」と概念として理解するであろう、という事を。実に問題はここにある。どんな物事も自意識のレンズで縮小化して見る事はできる。人は自分の存在だけを、自分の絶対に明かされたくない真実だけを脇に置いておいたまま、すべてを理解したような顔はできる。賢い人であればあるほど、より一層この深い罠にはまる。ウィトゲンシュタインが「語りえないもの」と呼んだものを野矢茂樹は「語りうるもの」に変えようとしている。野矢はこれを進歩と考えるかもしれないが、そうではないのだ。しかし、この「そうではないのだ」が既に語りえないものだ。


 そういう事で、知の最深部には、知で語りえないもの、言語の論理を超える部分がある。しかし、これを超える人は、痴呆の表情をしていなければならない。賢い人間は観念と概念で現実を正確に把握するに違いない。この人物は、語りえないものも語りうるものとして理解するであろうし、ウィトゲンシュタインを哲学史の中に位置づけて満足するかもしれない。しかし、そうではないーーというここで言葉は途切れる。だから、この言葉の途切れた先に、本当に本質的な問題がある。この言語と実在との微妙なズレ、論理の果てる場所ーーここに最も重大な問題がある。しかし、再三言うが、この「重大な問題」を人は傍観者的意識において「そうなんだ、この人はそういう事を考えるのだな」と思うに違いない。僕が狙いをつけて闘っているのは実はこの「そうなんだ、そういう考え方をするんだ」である。ここに論理の極限がある。この点がなぜ、自分にとって決定的な問題となるかと言えば、その答えは物凄く簡単だ。僕は傍観者としての人生を送りたくないからだ。「そうなんだ、そういう人なんだ」ではなく、「この僕」という人生を生きたいからである。そしてその為に、僕は人々が観念により世界を固定化する現象と、観念を用いてこうして闘う必要があるのだ。

現実を「描く」事と現実を「なぞる」事

 現状の文学批判のエッセイを書いたのでネットに載せようと思ったが、その段階でもう嫌になってしまった。現状の文学を批判するという事すらもうやりたくない。正直、批判するのも馬鹿らしいという気持ちしかない。今の文学っぽいものはそれはそれで勝手にやってくれればいい。というか、もうどうでもいいという気持ちしかない。

 
 今の文学がこういう状況なのは色々な理由があるだろうが、朝井リョウ・綿矢りさ・青山七恵らの作品というのはすべて、現実追認の文学ではないかと僕は疑っている。今の作家の取る道というのはそんなに多くはなく、大抵ができあがった現実を「なぞる」リアリズムであり、そのほかは現実からの逃避でできあがっている。現実を批判精神を持って描くという心意気を感じさせるのはフランスのミシェルウェルベックぐらいしか思い浮かばない。


 再三言っている事だが、現実を「描く」という事実と現実を「なぞる」という事実は違う事柄だ。今の作家は99%が後者であり、後者を前者と混同して考えている。彼らは社会規範を疑わず、世界の存立を疑わず、文学なるものも疑わない。彼らは常識を疑わないので、常識を疑わない人々には心地よいものに見えるのかもしれない。しかし、現実を描くとは視点を変えるという事だ。視点を変えるという事は自分の位置を変えるという事であり、この時、主体の変化がある。しかし、主体を変化させず、目だけをチラチラと動かして様々に題材を変える事を彼らは「描く」と勘違いしている。元々、自然主義文学も文学の一時期に生まれたものであり、自己告白というものも文学の一時期に生まれたものである。そもそも、文学そのものが、人類が言葉を使って何事かを他人に(自分自身に)伝えようとするある表現方式であり、それを疑ってはいけないという事はない。


 文学を守る、とか文学のこれから、とか言うとかっこよく聞こえるが、それはそう聞こえるだけの話だ。例えば、村上春樹がドストエフスキーのような「総合小説を書きたい」と念じるのも、文学を形だけで見た囚われ方だ。ここで、村上春樹は横光利一と同じ過ちを繰り返していると思う。文学というのはその奥にあるものから必然的に造られたものに過ぎない。ではその奥にあるものは何か。それは形式ではない。形式は、「すでに現れたもの」に過ぎない。では、奥にあるのは本質なのかというと、本質なるものは形式を伴わなければ作者自身にも見えないものである。ここで、本質というものはかなり微妙な言い方をしないと表現できないものになる。もっと大きく言えば、神とか魂とか言う話になるが、この文章ではあまり話を広げる事はしたくない。

 
 話を元に戻すと、現実を描く事と現実をなぞる事とは全く違う話だ。今の作家は大抵リアリズムで書いているが、それは視線が固定されたリアリズムに過ぎない。例えば、ある登場人物の服装を描くとはどういう意味があるか。フローベールのような作家にとってそうした事に意味があるのは、登場人物の存在と、その人の衣服や目鼻立ちとが完全に等価だと信じられているためだ。ある人物がいるとして、その人物の精神性、その存在をその人の外貌や服装がすべて表している。『だから』作家には透明なリアリズムの視線が必要だ。これがフローベール的な描写の本質だったと僕は思う。そして、こうした方式はドストエフスキーでは一変する。ドストエフスキーにおいてはむしろ、内面と外面の齟齬が問題になる。彼らは絶えず自らに演技し、自らを騙そうとする。自分の本心を自分で知りはしないが、それでも知っている振りをしようとする。ここではフローベールの等式は完全に外れ、人間は自分自身との純粋な齟齬とも呼べる現象となっている。この間にはむしろ、科学的、哲学的認識の変化が訪れたと考えた方が良いだろう。


 では、今の作家は現代人を描いているのか。確かに、描けているのかもしれない。彼氏がどうした彼女がどうした、就活がどうしたと、一応問題にすべき事を彼らは取り扱っているかもしれない。地震が起これば地震の話、テロが起こればテロの話。しかし、彼らはそれをなぜ描くのか。なぜ、小説に登場人物なるものが存在せねばならならいのか、なぜ、この世界に物語なるものがあるのか。それらはただ読者を楽しませるだけでなく、『なぜ』あるのかが問題であるはずだが、それを疑いう人はほとんどいないように見える。


 現状はそのような状態にあると思う。今の世の中には出来合いの答えばかりがのさばっていて、適切な問いがほとんど見当たらない。答えらしきものを握っているという顔はたくさんお目に掛かるが、自分が生涯かけて問うべき問いを持っている人にはほとんど見当たらない。それは文学でも同じ事だ。問いを問う事ーーーこの重大さは答えの簡潔さの影に隠れて忘れられている。懐疑論が神にもっとも近い、とドストエフスキーは言ったが、それでは一直線に神を握りしめる人は実はもっとも神から遠いのではないか。今の世界から遠くはなれて、自分は自分の問いを問う試みを続けるつもりだ。しかし、その問いはもう既に出ているたくさんの答えからは笑うべきものに見えるだろう。だから、僕は人から笑われる事にもう少し馴れなければならないだろう。それが僕のこれからの訓練の一つとなるだろう。
 

逆さまに落ちる人

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透明な渦が引かれ
その中に世界は吸い込まれていく
「私」の名もいつしか透明となっており
人々の眼窩の中にそれはない
…今を生きているという実感が
この私を生かしているのだろうか?
死を肯定するという事もやはり
生の実存の一つに過ぎない
「私」の為にあらゆる他人を使役し
この世界のすべての人間を私という王の為の奴隷にしたって
そんなゲームにもいつか飽きがくる
もし人生が無限に続き、我々が無限の富に恵まれたとしてもやがて我々は
その事それ自体を否定したくなるだろう
人間は世界の外側を考える事はできない
なぜなら、世界と呼ばれる存在そのものが私達自身の存在とイコールなのだから
人々にとって世界が生きる場所であるなら
私にとってそれは苦痛を受ける場所
そしてその苦痛から何が生まれてくるか
私自身知る由もない
この詩を読む人間が世界にこの私一人しかないとしても
私は私が誰よりも客観的な基準を握っている事を知っている
そう、私はあくまでも私の主観的な基準の中で
自分が世界と同一だという事を知っているのだ
だから、人々は……いや、もう人々の話はよそう
とにかく私は今ここに生きており、だから私は
今生きている自分を越えようとしている
だから、私は私の悲劇を見る事ができる
船首から逆さまに落ちる船人のように
世界が私の逆目に綺麗に映るのであれば それはやはり
この世界が元から逆だったという事の証明になるだろう
そしてその時、君の目は
何故か、閉じていた

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