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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

 久しぶりに神聖かまってちゃんを聴いて



 久しぶりに神聖かまってちゃんを聴いている。

 僕は二十四歳の時に神聖かまってちゃんを聴いて、始めて自分が完全に敗北したという事を知った。それまで、自分が(本当の意味で)負けたと感じた事はなかった。

 二十四歳まで「負けたと感じた事がなかった」と言ったら、人は僕の事をどんな超人だと思うかもしれない。もちろん、僕はそんな超人ではない。スポーツは人並み以下で勉強もさほどできなかった。僕はずっと劣等感やコンプレックスの中にいたし、いわゆる「普通の人」に自分がついていっていない、という感覚がずっとあった。

 しかし、それはそれ、だ。僕はそれまで、自分がそれらの人に本当の意味で負けた、敗北したのだとは感じていなかった。自分の中にある欲求、目指すべき道のようなおぼろげなものを感じており、「それ」をはっきりと展開し、表現している人にお目にかかった事はなかった。世の中には僕よりも優れた人間は沢山いて、僕よりも劣った人間も沢山いるのだろう。しかし、たとえ、僕がこの世界の最底辺の、一番下の一人だとしても、本当の意味で自分が負けた、敗北したと感じる事はなかっただろう。問題はそういう事ではない。

 そういう僕は、神聖かまってちゃんの動画を一巡して、自分が完全にこのおかしな連中(の子)に敗北したという事を知った。その敗北の意味とは、次のような事である。人間というのは自己表現をしなければならない。何が何でも。我々が世界の中の何者であるか、という事は自己表現とは直接関係がない。問題は、一般化された「私」ではない。そうではなく、私がまさにこの私であり、他の誰でもないという現実を直視しなければならないという事だ。そしてこの場合、全ての立場は捨て去られなければならない。僕はずっと、自分の「立場」を捨てきれなかった。立場というのは無数にある。自分が日本人だという事、自分が男だという事、二十代だという事、所属している会社・学校の事…etc。ネットを見れば、今も多くの人が自分の立場と自分の存在を同一視している事がわかる。彼らは自分の立場と自分の存在を分離できていない。

 それは僕もそうであり、その事に僕は見えない苛立ちを感じていた。そしてその苛立ちは神聖かまってちゃんにより一閃された。全ての立場を捨て去っても、なお自分は残るのである。これが神聖かまってちゃんが現代に与えた大きな意義だ。少なくとも、僕個人は神聖かまってちゃんの楽曲からそうしたメッセージを受け取った。

 今、神聖かまってちゃんを聞き返すと、その時の気分が蘇る。今、僕は神聖かまってちゃんとは違う道を歩き始めているが、それは個別化され、主体として取り出された個人が世界に帰る道程である。世界とは私の限界である、とウィトゲンシュタインは書いたが、私が自己表現を越えて世界表現となるにはどのような道があるのか。私とは一般化された私ではなく、それが世界の限界であり、世界は認識によって作られる、という道を逆に辿るから、作家は世界を描く事ができる。その際、作家は善悪、倫理の次元を越える。思想・倫理は作品(世界)の外側にあり、内側には存在しないからだ。様々な法・秩序は正義を代表するのではない。法・秩序は作家にとっては、人間の行為・心理を代表するのだ。

 今自分が考えているのはそのような事であり、神聖かまってちゃんの自己表現とは違うものだ。しかし、最初に僕に表現というものを教えてくれたのは神聖かまってちゃんである事は間違いない。おそらく、これからも神聖かまってちゃんのメッセージに衝撃を受ける十代、二十代の人間は沢山出てくるだろう。神聖かまってちゃんのように本質的なものは、それがどのような見かけを取っていても、時間をまたぎ越えて存在していく事だろう。 

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 ウィトゲンシュタイン、龍樹、カント、ブッダ


 
 仏教では諸法無我という考え方がある。これは我というのは一つの幻想にすぎないと悟る事だ。これは純粋に哲学的概念であって、宗教的な事柄ではない。

 ウィトゲンシュタインの言語ゲームでは、通常僕達の言う「意味」という概念を放逐しようとしている。そしてこの事は仏教が辿った哲理の道と大体同じようなものではないかと思う。

 では、それはどのようなものか。

 まず、僕達は必ず物事の背後に「事実」「存在」「意味」を見てしまうという習性がある。問題はこの習性であり、この習性を破壊し、事物のありのままの姿を引きずり出す事を、上記の哲学は目標とする。その代表例が「私」である。私とは、元々、存在しない…と言えば、おそらくこう反論されるだろう。「いや、そうは言っても、この私、これは存在する! 何を言っているんだ!」と。

 では、考えてみよう。一体、その「私」とは何か、と。例えば、「私は走る」という言葉がある。これは龍樹によれば間違いである。「私」が「走る」のではない。「走っている」のが「私」なのである。より正確に言えば、走っている私も走っていない私も結局、「私」あるいは「走る」「走っていない」としか言いようがない。なぜならそのように行為者「私」と「走る」「走っていない」という行為が付属的に接続しているものではないからだ。

 もし、私が走るという言葉が、静止している私が走るという事になればおかしな事になる。静止している私は静止しているのであって、走っているのではない。走っているのは走っているのだから、静止とは違う状態である。だから、静止している、止まっている私が走るという行為はなりたたない。一方で「走っている私」が「走る」のも成り立たない。だから、言葉としては本来、「走る」「走らない」か、「私」としか言いようが無い。(この辺りは竹村牧男の本を読んでいただければわかりやすいかと思う)

 おそらく更に突き詰めれば言語そのものが仮設体という論理に行くかもしれないが、今はそこまで考えない。問題は私達が「私」と名づけているものが何か、という事だ。我々は普段、様々な感情、知覚、思考などに身を置いている。それを言語の文法から逆算して、「私」が「思考(行為等)する」と考える。しかし、現にあるのは思考(行為)そのものであって、そうした行為を我々は後から「私」と名付けたに過ぎない。だから、私とは我々が言語文法に則って便宜的に名付けたものに過ぎない。それはカントにおける時間、空間のように、一種の観念体である。確固とした実在ではない。だから、これを失う事を恐れるというのは妙な話である。私の思考、認識が消えるのであれば、その時、それを感じるそれ自体も消えてなくなるのだから、我々は死を恐れる必要はない事になる。(重要な事は死を恐れる事がないという事が理性的に把握できる事であり、ただ死を恐れるな!と教条的に唱える事は重要ではない)

 ウィトゲンシュタインは「意味とは言語の使用それ自体」と言う、意味という意味そのものを完全に解体した思考を展開している。これは「私」を解体する諸法無我と似ている。つまり、言葉の意味として我々は

 猫(記号) → (=^・^=) (実際の猫)
 猫(記号) → ネコ目の小型動物。耳と尻尾と肉球があり…

 という風に考えてしまう。ここでも、主体→行為 と同じように、物事の背後に回り込もうとする我々の心的習性がかいま見える。猫という言葉の意味を辞書に載っている「猫」だとすぐに勘違いしてしまう。正しい日本語を使おう、などというスローガンもそうした勘違いを原因としている。正しい日本語など存在しないし、間違っている日本語も存在しない。正しい日本語という発想が生まれるのは、日本語というものの裏側に、辞書にのった日本語、学者が定義した日本語、などを想像するからだ。しかし、そうしたものは「私」と同じようにあとづけで生まれたものに過ぎない。あるのは今我々が使っている日本語である。これが唯一の日本語であり、これは変化してきたし、またこれから先も変化するであろう、としか言う事はできない。我々が言う事ができるのは、「我々はとにかく今この日本語でこうやって生き、暮らしているのだ」と言う事ぐらいである。正しい日本語を誰かが定義したとして、我々がそれを使う事を拒否したらそれはみすぼらしい飾り物となってしまうだろう。しかし答えは逆で我々の行為としての言語が言語の全てなのである。定義は行為(変化)にはついに追いつかないのだ。

 ウィトゲンシュタインや仏教哲学、カントなどが行き着いた所は論理の果てに、論理それ自体が迷妄だと「悟る」という地点であるように思う。悟るという語彙に不審を感じるのであれば、それはまさに、その人が論理の範囲内にいるからである。論理の外側では論理が消滅するので、その先は「悟る」としか言いようがない。人間は論理を使って世界を可視化するが、それが実在であるという事とはまた違う事である。我々は青いサングラスをかけて世界を見る。すると世界は真っ青に見える。しかし、その事と、世界が「本当に」青いという事とは違う事である。しかし、人間にこのサングラスを「外す」事は許されていない。それを外せば、もう人ではないから。しかし、ブッダ、カント、ウィトゲンシュタインなどはその手前まで行った。つまる所、彼らは人類として、人類の論理性を越える地点まで行った。これはスピリチュアルなものの見方と比べればわかりやすい。スピリチュアルな人が「あの世」「前世」を想定したとしても、何故それが「この世」と同じ論理形式を背負っているか、完全に不明である。そしてあの世があるにしても、それがこの世界の論理形式を背負っていないのであれば、それは言及不可能である。つまり、それはカントの物自体と同じ純粋な哲学的概念という事になる。言い換えればカントはスピリチュアリストよりも遥かに神秘的かつ、論理的な場所にたどりついた。それに比べれば、スピリチュアルなものを前世やあの世に延長する人はあまりにこの世に取り憑かれているのだ。ブッダ、カント、ウィトゲンシュタインそれらの人はまさにこの世界を越えるところまで行った。彼らはまさしく、そのような人物であったように僕には見える。
 

文学は何故成立可能か

 


 文学は何故成立可能なのか。今、そういう事を考えている。

 文学ーー特に、小説というのは何故、成立できるのか。小説というジャンルがあるという答えは今の僕にはもう答えではなくなっている。小説というジャンルが成立した原因を過去に遡り、発見したとしてもそれも僕にとって答えではない。僕にとっての答えは何故?という論理が消失する点の事だ。

 僕という個人が小説を書く。その作品が良いか、悪いか。…これは価値判断だ。では、その『価値判断』とは何か。もし君が『面白い』と言い、あるいは『つまらない』と言うなら、その言葉の意味とは何か。

 作家になりたくて、デビューしたくて小説を書く。そこでは因果論が見える。努力→夢の実現、という原因と結果の論理。何故、君はその論理が正しいと無条件に想定するのか。すると、小説というのは君を輝かせるための『道具』に過ぎないのか。輝くのは小説なのか、作者なのか。どうして小説というのが可能なのか。

 エヴァリスト・ガロアは五次方程式を解く際、五次方程式の解を出そうともがくそれまでの方式を捨てた。彼はそうではなく、視点を変えた。彼は五次方程式の構造を考察する方法に問いをすり替えた。そして、五次方程式は構造的に解がない、という事を理解した。(数学はからっきし苦手なので、今言った事は僕の勝手な解釈である)

 同様に、何故、文学というのは成立可能なのだろうか。『文学のこれから』を論じる座談会、『文学とは何か』『文学の未来』、こういう雑誌のタイトルにふさわしい議題はそもそもそれが成立しているという前提に立っている。しかし、どうしてそれが成立していると僕達は前提するのか。

 今、僕が小説を書いているという事はその問いに答えるためかもしれない。小説を書くという事だけによって、その間だけ、小説というジャンルは僕の中で、実現可能なものとして現れるのかもしれない。ウィトゲンシュタインは「語の意味とはその使用である」と言った。これはほとんど、「意味」の意味を解体した考え方、あまりにラジカルな考え方である。規則は行為(プレイ)から作られる。だとすると、世界は生に無再現に開かれている事になる。…いや、そんな風に『開かれている』という言葉で言い表せないほど、世界はまさに生にたいして開かれている。ウィトゲンシュタインが裏返った言葉で言おうとしたのはそういう事ではないか。

 僕もいずれは(あるいはその内)死ぬだろう。それまでに、自分自身の問いと答えだけを確定しておきたい。そしてそれが何であるかは、僕の論理空間で論じる事ではない。

 僕は僕が死んだ後に始めて他者を必要とする。

 世界はそのように生に開かれている。一つの論理空間はそれが完全に閉じているという理由によって、まさにその事だけによって、他者に開かれているのだ。

文学フリマの宣伝

11月23日の東京文学フリマに参加します。山田宗太朗、シャイニー高野、九十現音 さん三人主催のアヴァンギャルドでいこうvol.4に書き手の一人として参加しています。https://c.bunfree.net/p/tokyo21/4140

この雑誌には友人の手回しオルガン弾きさんの論考も載っています。またクランチマガジンというサイトで知り合った人達も何人か書いています。僕個人も文学フリマには顔を出そうと思っています。興味ある人はどうぞ。

 以上、宣伝でした。

私の幸福と不幸

  


 意見の違い、私の立場、私の主張、自分達の価値ーーーこういったものが世界を覆っている。それは千年単位でそうではないかと思う。

 僕はカントやウィトゲンシュタインや仏教を自分勝手に勉強して、意見の違いというのはもういい、飽きた、という気分になった。意見の違いというのはそもそも、僕達の底に根底的に同一なものがあるという前提でなされるゲームに過ぎないが、そもそも僕達の根底に同一なものがあるかどうか、そんな事だって本当はわからないのだ。

 幸福な世界と不幸な世界とは別物だ、とウィトゲンシュタインは書いた。だとすれば、もう他人に嫉妬する必要はないだろう。意見の齟齬で煩悶する必要はない。なぜなら、私は私の世界を生きているのだ。それで全てである。

 僕は元々、コンプレックスの塊のような人間だし、今もそうだ。しかし、そうした自意識というのも最終的には色々なものに昇華されているのだと思う。他人に嫉妬する事。自分の境遇を嘆く事。では、その他人になれば問題は解決するのか。自分の境遇が変われば、問題は解決するのか。

 ここで、「解決する」と考える事が決定的な過ちである。しかし、ここで「解決する」という事が多くの人にとっての慰め事となっている。今の自分のみすぼらしさから逃れられる唯一の方法だと信じられている。そして嫉妬は次第に、正義の仮面を被って、悪罵、暴力へと変貌していく。自己弁護はやがて、他人排除へと変化していく。彼らは自らの運命に耐えられないからだ。

 生きる事は何かの目的として存在しているのではない。生きる事も世界のあり方も、今僕が言うような「生きる」「世界」といった論理性を越えて存在している。そしてその不可思議な存在を照らしだすのは、僕というこちらがわの不可思議な存在である。僕は世界と己の神秘を痛感する。答えはそこで終わりである。その先に何故はない。何故?と問う仕方そのものが、結局、人間理性の限界なのだ、と理解する所で問いは終わる。しかし、この終わりは難解である。なぜなら人は難解とか容易とか、そういう概念でしか物事を理解できないからだ。

 そういうわけで僕は今、幸福である。そしてその幸福の意味は世の中の人間が思う幸福とは全く違うものである。世間的な意味で言えば、僕は完全に不幸な人間であるだろう。

 私=世界


 私とは何か、と考えてみよう。

 例えば、Aさん、Bさん、Cさんと人間がいて、その内のAさんが私だとする。しかし、それは本当の私ではない。それはただ一般化された私でしかない。そしてこのような一般化された私を人が想定する限り、人は自分を他人と比較して生きる事を免れない。また、他者との間の戦いや和解が常に問題とならざるを得ない。

 『私』とはそういうものではない。

 むしろ、『私』とはこの…「Aさん、Bさん、Cさん」という構図そのものを成り立たせているものだ。そこでAさんが私であろうとなかろうと、関係がない。その構図そのものを成り立たせている『視野』こそが私だ。だから、(ウィトゲンシュタインが言うように)独我論と実在論は完全に一致する。

 『私』とは一つの視野であり、そして誰であれ、この『私』の視野からは逃れられない。(誰しもが『私』だ) 野矢茂樹は論理空間の外とか別の論理空間とか簡単に言うが、そういう事ではない。論理空間は唯一である。しかし、それは唯一とも言えないものである。なぜなら唯一と言うには自分の論理空間を対象化できていなければならないからだ。しかし、それはできない。だから、本来論理空間も語りえないものだ。

 『視野』である私に世界は与えられている。この時、世界は私と完全に一致する。完全に。この世界には他者はいない。これは重要な点だ。

 はっきりさせたい。『他者』と『私』を俯瞰するような視点などありえない。それは語りえない。なぜなら、それを俯瞰する視点を表明する視点もまた、その人間の論理空間内の言葉だからである。既存の、そして最新の哲学などが色々な仮装を取ろうと、それはその人間を越え出た真理、という形を一応は取ってみせる。しかし、それは『その』人間の言語である。「私は私ではない!」といくら叫んでも、それは結局、私が叫んでいるのである。他人はそう見るだろう。

 『私』は視野であり、視野の先には『世界』がある。では、他者とは何か。それは別の論理空間か。違う。先に言ったように、別の論理空間など語れない。だから、他者とはカントの言う所の物自体である。つまり、認識しえないものだ。人間の外部に存在する、一つの可能性であり、信仰なしには見られないものだ。信仰なしに、とあえて言う。他者の『心』『論理空間』の存在は自分の論理空間内からは把握できない。それがあると、自分とは違う存在があると考えるのは信仰であり、信頼である。そして世界はこの信頼で成り立っているのだが、この『信頼で成り立っている』というのも本来、語りえない言葉である。なにせそれは私の言葉に過ぎないのだから。

 このブログのこの記事を私以外の人間が見ているとしよう。その人間が私の記事に、私に対してどのような感想を抱いたのか、抱くのか、私には分からない。ここで大切なのはそれがわからないという点だ。わからないから重要なのだ。これを『わかろう』と、あらゆる全体主義、全体主義的な宗教は努力してきた。これらは人の内面を全て一つの統一的視野の元にさらけだそうとしてきた。しかし、全ての外部が消去し、全てが一つの平面に溶けた存在はそれ自体潰える。多様性と違和が重要だ。しかし、もちろん、この多様性と違和が重要、というのも、私の意見、私の言葉に過ぎない。ここでまた私は私を一般化して語ってしまっているのだ。

 従って、私にとって他者とは私の世界に位置づけられる何かでしかない。私にとって他人とは部分に過ぎないが、おそらく他人にとって私は部分に過ぎない。この構造を想起する事はできるが、それが正しいという保証はないし、正しいかどうかを判定する事はおそらく不可能だろう。しかし、そう考える事は無意味ではない。

 シェイクスピアとカフカを比べてみよう。カフカの作品にはしばしば、カフカ自身に似た主人公が出てくる。一方、シェイクスピアの作品に、シェイクスピア本人と見えるのは、最後の「あらし」を除けば皆無だろう。しかし、より十全に自身を表現しえたのはシェイクスピアの方だ。シェイクスピアは「私とは一つの視野である」という機能を最大限に行使する。彼はあらゆる登場人物の背後にいるが、どの人物の主張にも組しない。彼は『自然』に近い。しかし、それだけ彼が広い世界を持ち、それを完全に表現しきったという事がはっきりする。カフカの場合はそうではない。彼は自分というものを作品内に持ちださなければ気が済まなかった。逆に言えば、自分⇔他者の関係性の中でとどまり続けたと言えるだろう。カフカは純粋な視野ではない。そしてそれだけ、彼の表現性はシェイクスピアに劣っているのだ。

 もちろん、作者を作品内に出してはいけないというわけではない。出したら自動的に劣った作品になるわけではない。しかし、その際でもそれを書く私はこちらがわにいる。それをどう考えるかという問題である。作品内の『私』を完全に相対化しきっているのなら、全く問題はない。

 私とは視野であり、世界である。しかし、今この言葉を人は(この記事を読んでいる少数の人は)、「ヤマダヒフミ」が書いたと捉えるだろう。もちろん、それは正しい。しかし、その「ヤマダヒフミ」とは何か、(この人物がどういう人物かという意味ではなく)と考えてみるが結局その人自身を考える事になる。この記事を書いているのが僕だと言えば、僕という人間がそう書いていると人は見て取る。しかし、これを書いている背後の人間がどのような人間かという事を考える事は、視野としての(従って形而上的な)一人の人物について想起する事であり、一般化された「ヤマダヒフミ」について考える事ではない。そこで、問題になっているのは私…僕の視野角だ。僕は正しく物を見ているだろうか? しかし、それに対して、賛成・反対を言うという事はどのような意味があるのだろうか? それはその『世界』が間違っているという事だろうか? しかし、この世界に間違っている『世界=私』など一つもありえないと私は断言できる。だから、私・僕のこの記事が間違っているとかあっているとか、そうした事全てを通じてもう一つ上の(神の視点から見た)世界は刻々と作り上げられていくのだ。

 そしてその一つ上の世界に善悪の基準はない。また、本来そのような視野も個人の内部にはありえない。しかし、そのような視野をシェイクスピアのような偉大な作家は目指し、また、達成したと言ってもいい。そしてウィトゲンシュタインのような哲学者はそうした世界については一切語らなかった。彼は各々の中にある唯一の世界を著作としてしらしめるという事で、そうした世界のあり方そのものを変えたのだった。そしてその場所は、まるで物自体を直接に見と取れるのような場所と言ってもいいだろう。しかし、そんな場所はないと誰かが言うのであれば、それは当然正しい。しかし、それを目指す場所は完全に間違った事ではないと僕は思う。

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