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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

語りえないものは語りえない

 


 成功と幸福の二者は神なき現代においては、一つの宗教となっているのではないかとふと思う。

 成功する、幸福になる、という事が「目的」として前提されるという事はどういう意味があるか、と一度真剣に考える必要があると思う。人間というのは原因→結果という風にしか物事を考えられない生き物だが、そのような構造として現実が成立しているかというのは分からない。ただ、「そういう風にしか考えられないのだから、とりあえず、現実もそうだと仮定すべきだ」と主張するのは話は別だ。我々が認識を押し着せるように自然が成立しているとは限らない。この世界が何であるか、我々が全てを知る日は永遠に来ない、と言っても、来る、と言ってもどちらの意味も同じである。自然が物自体としてあっても、物自体は認識不可能なのだから、それがあると言ってもないと言っても同じである。しかし、人間の認識上、物自体を仮定する事は極めて重要な事だと僕は思っている。

 「目的」というのは多くの人にとって無邪気に前提されている。僕が小説を書いていると言うとたいていは「賞を狙っている」という話になる。因果関係としては 小説書く→賞取る→成功 みたいな感じである。何故、この→が正しいのか、僕はこの→は究極的には「間違っている」という考えを主に仏教のラインから得た。ウィトゲンシュタインで言う所の「語りえないもの」だ。目的、原因、結果といった作用は人間が脳で考え出した作用である。人は幸福、成功を自明のものとして考えそこから逆算して様々な事を議論する。しかし、それは自明ではないという前提に僕は立つ。すると、なにも見えなくなる。このなにも見えない(と同時に全てが見える)のが真実であろうと思っている。

 しかしこういう事は語りづらいし、また、人には伝わりづらいだろう。我々にとって理解しやすいものは我々が既に理解し、また、欲しているものに過ぎない。しかし、その欲するという事が一つの幻想だ気づいた時に我々は救われる。つまり、「救われる」「救われない」が概念に過ぎないと気づいた時に我々は救われる。そしてこういう事は、基本的には語りえないものである。どんなスピリチュアルな話を持ち出してきても(それが仮に真実だとしても)それは語りえない。語りえず、伝わらない、という事を先に感じたからこそ、ブッダは人に真理を話すのを躊躇したのだった。またそれは龍樹には仮設体という概念に昇華される。しかし、この事は語り難い。

 自分の考えでは、これから先もカントやウィトゲンシュタインが大衆の手に渡る事はないだろうと思う。それらは単に「難しいから」ではない。それらは根底的に、我々の自明を突き崩しているからだ。そういうわけで、ドストエフスキーやシェイクスピアもその真の姿はついに、人々の手にはわたらないに違いない。彼らは語りえないものを語った。我々は常に、それを一般化して語り得るものとして語ってしまうのである。例えば、今のこの記事自体がそうした一般化してしまった言説に他ならない。

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崇高さや偉大さを目指す事

 今、カントを勉強していて、それとは関係ないがレッド・ツェッペリンを聞き直している。

 カントとレッド・ツェッペリンの間には特に関係性はないが、どちらも偉大だという事では共通している。(カントの方が偉大だろうが)

 人間というのは偉大さや崇高さというものを目指してもいいものだと僕は考えている。しかし、偉大さや崇高さというのは、俗物的なものを完全に切り離して成立するものではない。むしろ、俗物的な、凡庸な精神や生活を「ひきずって」達成されるものだと思う。だから、歴史上性格の悪かった大天才というのは割にいる。

 今の世の中では蔑視するのがファッションのように流行しているので、偉大なものを目指せば周りから笑われてしまうかもしれない。人は皆、自分と同一であって欲しいと心の底では願っているものだ。しかし、こうした社会でも偉大さや崇高さに憧れ、それを達成する為に努力する事は罪でも悪でもないと思う。

 周囲の人間が「笑う」という事は彼らはその時、恐怖を抱いているという事だ。我々が崇高さや偉大さに到達し、そこから世界を見渡すと、人々が何故、あの時、あんな風にして我々を嘲笑したのか、はっきりと見えるだろう。

 人々が自分を失うまいと固いガードを見せている時、実はそのガードの先には「なにもないのだ」とはっきりと見て取る事。人々が嘲笑し、敵をでっちあげ、無邪気に攻撃できる誰かを探している時、彼らは心底怯えているのだと知る事。その事を知る事によって、もはや恐怖するものは消えるだろう。というより、日々の恐怖よりももう一つ大きな恐怖と闘う事が使命である人物にとって、生活の上での恐怖は何を意味するか。

 崇高なものや偉大なものを目指すのは罪ではない。しかし、それが罪であるかのような雰囲気が作り出される事はある。また、崇高さや偉大さを俗なものとは完全に切り離されたものとして、むやみに崇め奉る事。そのどちらも間違いであり、そのどちらも間違いであるという事を知る方法は、自分がその道を踏破する以外にない。

 そういうわけで崇高さや偉大さを手に入れる為に努力する事は悪い、間違った事ではない。ただ、それが「良い」かどうかはわからない。それを「良い」と言うと、そこにまた別の基準を持ちださなければならないからだ。しかし今の所、自分の中にそんな基準は見つかっていない。

ウィトゲンシュタインの帰還

 


 哲学というのは一つの病だという風に言う事ができるだろう。それ自体、意味に病んでいる。
 
 人間が生きるのは「生きる意味」について考えるためではない。そうではなく、それは「生きる」ためだ。しかし自己意識というものを持った人間は時折、自分の内部を深く覗き込んでしまう。哲学の考え方で独我論というものがあるが、独我論は病の典型的な兆候だろう。
 
 しかし、もっと厄介な事は、世界が病んでいないとも限らない事である。世界が病む、という事は事実上あったし、歴史的にもあった。そこでは、人々が健康である事がそのまま、世界が、社会が病んでいる事を意味する。もちろん、ここでの病ーー正常との対比、その基準を定められる場所などどこにもない。どこにもないから、本来このように誰が病み、誰が病んでいないかという事は問えないはずだ。だから今僕はーー信念として、そう言っている。

 とにかく、問題はそのような相対性にある。哲学は役に立たないとか、必要ないとか言う言葉が「健康な」人の口から漏れるのを稀に聞く。しかし、そうした「役に立つ」とか「必要」とか言う概念を問う事ができるのは、健康な人々の健康な概念とは反対のものーーつまり、病だけなのだ。病だけが健康を判断する事ができる。そして時に、「健康こそが病だ」と判定する。そして後の時代に、事実、そう認められる場合もある。もっともその「後の時代」もいつも正しいわけではない。

 僕は小説など書いている人間だが、何故この世界に物語があるのか、おおよそ把握しつつある。人間の理性は正しい答えを出そうともがく。倫理や道徳、意志は「ねばならない」と世界に対して言明する。人間の肉体や生のあり方は一部の教条に従う。しかし、従うという事が本来ありえないありかたなのだ。どうしてだろう?

 マルクス主義が間違えた点はまさにそこだった。人間の自由を制限して、物質的に富んだからと言って、それで人が幸福になるとは限らない。しかし、今言った「自由」「幸福」も所詮は概念に過ぎない。「実存主義」というのは、「実存」という概念を押し着せられた時、もうそれ自体の生き生きした存在である事をやめるのだ。だから、人は語りえないものを探らなければならない。そうしなければ、生きていけないのだ。何故か。生きていくためのノウハウが「溢れ」過ぎているからだ。

 そういうわけで論理はまた元に戻ってくる。人はーーウィトゲンシュタインがそうしたようにーー哲学を通行し、哲学を通りぬけ、自分の生を歩む他ない。しかし、哲学する事だって生の一部だ。だからこそ、ウィトゲンシュタインは十年の沈黙を破ってまた哲学に帰ってきたのだ。


幸福に生きる事について (論理哲学論考から考える)

 


 「善き意志、あるいは悪しき意志が世界を変化させるとき、変えうるのはただ世界の限界であり、事実ではない。すなわち、善き意志も悪しき意志も、言語で表現しうるものを変化させることはできない。」

 「幸福な世界は不幸な世界とは別ものである。」
                                    (論理哲学論考)


 一般的に考えるのであれば、幸福は世界の中の「事実」による、と考えられている。最近で言えば、結婚、年収などだ。
 
 ものすごくどうでもいい事だが、サエコというタレントが、金持ちの社長を恋人としているニュースを僕は見た。多分、ネット上で色々な反応が出たのだろうが、ここで問題になっている事は「世界の中の事実」である。そして世界の中の事実如何によって人は幸福になるとかならないとか、一般にはそういう風に考えられている。例えば、素敵な人と結婚するとか、年収が~などの事である。しかし、それは世界の中の事実である。ウィトゲンシュタイン的に言えば、それらの物事はその人間を幸福にも不幸にもしない。世界の中の事実如何によって人は幸福になったり不幸になったりするのではない。また、世界の中の事実に依拠して幸福になろうとするものは、今度はその幸福を手放す事を恐れて不幸となる事だろう。ここで不幸と幸福は同一の事だが、そもそもそうした事に拘泥している人は幸福でもなければ不幸でもない。


 幸福な世界と不幸な世界は別ものーーー。これはどういう意味だろう。僕は次のように解釈する。幸福な人は、自らの意志によって世界の限界を変えている。世界の内容には触れ得ず、世界の限界を、世界の意味そのものを変えてしまう。だから、幸福な人は世界の事実如何関係なく幸福である。そして不幸な人は、世界の事実がどうなろうと不幸である。なぜなら、「意志」が違うから。生きている世界そのものが違うからである。そういう意味で、超越論的な領域に達したカントとウィトゲンシュタインは幸福な人である。作家であればシェイクスピアとドストエフスキーの両者が頭に浮かぶ。彼らは世界の中の事実を変えはしなかった。(あるいは変えたとしてもほんのわずかしか変えなかった) しかし、世界の限界を変え、世界の意味を変えたのである。彼らはある観点から世界を見た。すると、世界にはそれまでとは全く違う意味が見えてきた。彼らはそれを語り得なかった。彼らはそれを「示した」のだ。

 
 この世界とは何か。幸福とは何か。例えばある種の高級な骨董品を、鑑識眼のない人に渡してもそれはゴミにしか見えないだろう。しかし、鑑識眼のある人に見せれば、それはダイヤモンド以上のものに見えるだろう。この世界もまた同じ事だ。カントやウィトゲンシュタイン、ドストエフスキー、シェイクスピアなどはこの世界がゴミではなく、ダイヤモンドである事を発見した。しかし、それを理解するには「眼」がなければ駄目だ。(これがウィトゲンシュタインの言う意志にあたっている) それで一切は尽きている。つまり、彼らは幸福に自らの生を生きたのだ。

「何故、人を殺してはいけないのか?」に対する自分なりの答え

 


 「何故、人を殺してはいけないのか?」という問いに対する答えが出たので簡単に書いておきたい。今から言う事も、カントーウィトゲンシュタインの流れから分かった事だ。また、この回答は僕にとっては明快で簡潔な答えだが、僕以外の人間にとっては極めてわかりにくいだろう。なので、明快な答えを望んでいる人は肩透かしを食う事になるだろう。もっとも、明快な答えを望んでいる人は、そもそも自分が何故明快な答えを望んでいるのか、何故答えが明快でなければならないのか、その点を自分で意識していない場合がほとんどである。こうした人には「何故、世界に明快な答えがあると前提するのか?」と逆に問いを発した方がいいだろう。本論に入る。

                             ※

 まず、最初に言うなら、『人を殺してはいけない理由』というものは存在しない。こう言うと、必ず次のような疑問が返ってくるだろう。「それでは人を殺していいのか?」と。

 それに対して僕は次のように答える。「人が人を殺してもいい理由もない」と。だから、「人が人を殺してはいけない理由」というのはこの世に存在せず、また「人が人を殺していい理由も存在しない」。なぜなら、それらは倫理であり、道徳であるからである。それは、ウィトゲンシュタインで言う所の「語りえぬもの」である。それらは語る事はできない。カントの言う所の実践理性の部分に当たる。


 もう少し考えてみよう。疑問なのは、そもそも何故人は「理由があれば人を殺してもいい」と思っているかという事だ。「何故人を殺してはいけないのか?」と問う人間が問いを発するその底にはこの「理由さえあれば人を殺してもいい」という思考がある。とはいえ、僕は一部の道徳的な人間のように「人は、理由があっても人を殺してはいけない」などと言いたいわけではない。どうして、理由があれば人は人を殺していいと考えるのか? と人間は考えるのかという事が僕にとって疑問である。だから、逆に言えば、「人を殺してはいけない理由」をしかめつらしく、社会道徳的に語る人間は逆説的に「理由があれば人を殺してもいい」と考えている事になる。再三言うが、僕は別に、人は理由なく人を殺してはいけない、などと言うつもりはない。そんなつもりは全く無い。


 つまる所、人間は理由があれば人を殺してもいいとか、殺してはいけないとか、そういう論理的な構造みたいなものを持っている。人を殺してはいけない理由を社会道徳的に解説している人間がいるが、そういう事であれば、同じ理由から社会道徳的にいかに人を殺してもいいのかという理由も必ず生まれるだろう。なぜなら、そうした人達は理由があれば人を殺してもいい(いけない)と考えているからである。しかし、僕の考えでは、この世界において生きるという事に理由はない。また、人が人を殺してはいけないという理由もなければ、人が人を殺していいという理由もない。それらの理由は現実には存在しない。生とは一つの混沌だ。


 しかし、まだ話は続ける事ができる。では何故生は混沌なのに、「何故人を殺してはいけないのか?」という問いが発せられるのかという事だ。この問いは不遜な問いであり、常識的で穏健な人はこの問いに不穏なものを嗅ぎとる。そして不穏な問いを嗅ぎとった「大人」はそういう問いを発する事自体が間違いだ、という事を言ったりする。


 ここで新たに問題になっている事は、「大半の人は人を殺してはいけないと思っている」という事だ。僕も大体そう思っている。しかし、ここで強調したいのは、「人が人を殺してはいけない理由」は現実、世界の中には存在しないーーと僕が先に言った事と、「大半の人は人を殺してはいけないと考えている」という事実は別個の事だという事だ。大半の人がそう思っているからそれは駄目だ、というのは普通の意見だ。しかし、より根源的に問うなら、「何故そうなのか?」と更に疑問を加える事ができる。大人たちはこの問いに答える事ができず、この少数派の人間を力で潰すことに注力するだろう。しかし、大人達というのは「人は絶対に人を殺してはいけない」という倫理と「大半の人は人を殺してはいけないと思っている」という事実を混同する。普通は、この二つの事実を混同する事により、理屈を成り立たせる。しかし、それはそうではない。存在するのは後者の事実のみで、前者は存在しない。また、後者は前者の根拠にはなりえない。なぜなら、「大半の人がそう思っていも俺(私)はそうは思わない」と考える事が誰しも可能だからである。そしてそんな風に考える少数派の人間の思考の可能性の息の根を止める事はできない。もしこうした思考の息の根を止めるとしたら、それは「人を殺してはいけない」と考える思考の可能性も殺す事になる。思考そのものは本質的に自由だからだ。


 更に話を続けよう。では、どうして現在、「人を殺してはいけない」と大半の人は考えているのだろうか? その答えは簡単で、人間は過去の歴史で随分と人を殺したり殺されたりしてきて、その結果、「人を殺してはいけない」という観念を作り上げた。従って、私達はほとんど無条件のように人を殺してはいけない、という風に考える。しかし、その下では「本当にそうだろうか?」という問いがあり、それがたまに顔を覗かせる。何故その下に「本当にそうだろうか?」という問いがあるのかと言うと、我々の大半が人を殺した経験を持たないからだ。だから、我々は過去の人類が作った概念を現在の自分達に当てはめ「人を殺してはいけない」と考えている。しかし、その考えている事は、「それはしてはならない」という事の根拠にはならない。我々がそう考えたとしても、それは逆に「いや、どうして人を殺していけないのだろう?」と考える事ができるからだ。


 そしてここから先は、現実的な解決になる。カントは利口な人だったので、実践理性批判で「要請」という考えを打ち出した。(実践理性批判は読んでいないので、概要だけ見て僕は言っている) 「要請」というのは、「そういう観念、概念、倫理が確固としてあるわけじゃないけど、そう考える方が都合が良いよね」といういわば方便としての倫理だ。こうする事で、カントは「人は何故人を殺してはいけないのか?」という問いに、「人を殺してはいけない理由などない。しかし、人はそう考えるべきだ」という答えを打ち出した。(あくまでも自分の理解だが) これはある意味でずるいやり方だとも言える。ウィトゲンシュタインはもっと明瞭で、倫理は語る事はできないので、人はその箇所をまさに生きなければならない、と考えた。僕はウィトゲンシュタインの答えの方が好きだが、この辺りは意見が別れるだろう。

 
 まとめると「何故人は人を殺していけないのか?」の答えは次のようなものになる。まず答えとしてはーーー「人を殺してはいけない」という理由は存在しない。ただし、「殺してもいいという理由」は存在しない。また、理由があれば人を殺していいとか、殺してはいけないとか考える理由も特にない。生とは一つの混沌である。ただ、多くの人が「人を殺していけない」と考えるのには、歴史的な理由がある。多くの人が「人を殺していけない」と考えるのは普通の事である。だからといって、それが絶対に正しいとか、その道徳を現実に当てはめ、それが真実だと考えるのは間違っている。なぜなら、倫理・道徳よりも人の意識や思考が自由であるという事のほうがより上位に来るからだ。しかし、そう考える方が現実的だ、と現実的に考える事はできる。これはある種の逃げ道とも言えるがそういう解決法もある。大体以上の事で「人は人を殺してはいけない」という事の理由、何故人はそういう問いを発するのかという問いに対する答えになっていると思う。この辺りの事は後々、もっとちゃんとまとめたいと思っている。
 

空は何故青いのか? (カント哲学について)

 

 
 カント哲学についてずっと考えている。カント哲学と仏教哲学の二つを合わせて見た事で、自分がずっと疑問だった事が溶けつつある。

 最近ノーベル賞が発表され、日本人の物理学者が受賞したそうだ。ニュートリノに質量がある事を発見したためらしい。普通の人なら、このニュースを聞いて多分、こう思うのだろうと思う。「これでまた一段と世界の謎の解明に迫った」 大体、既存の科学者もそういう風に考えているのではないかと思う。


 カントはもう二百年前の人物だが、既にその考えを捨てている。だから、カントは僕にとって恐ろしく新しい。カントは物理学者が新しい定理を発見したとしても「この世界の謎の解明に迫った」という風には考えない。(僕なりのカント理解だが) そもそも、カントは「この世界」と言うように、世界を客観的なものとして考えないからだ。


 物理学者が新しい定理を発見すると普通はこのように「世界の謎の解明が~」と考える。人間の理性というのそのように、「この世界は~」と考えがちだ。しかし、この「世界」が本当にそういう概念で捉えられるかどうかというのはさっぱりわからない。そこでカントは次のように考える。我々は世界を客観的な方法で認識しているのではなく、むしろ、我々の認識に従って世界が現れるのだ、と。この世界が数学で解明できるのは、ピタゴラス学派が考えるように、世界が数学に支配されているから、ではない。むしろ、我々の認識能力の根底にあるのが数学的な論理だからである。だから、この世界を我々が解明できるのは、世界がそのようにできているから、ではない。そのような世界と私達との相互関係自体が「世界」と呼ばれるものであるからだ。


 以前ブログにも書いた事があるが、現代では「空が何故青いのか?」と問われれば、分子の話などを持ちだして科学的に説明すれば「空が何故青いのか?」という疑問に答えた事になる。僕はその事が常々疑問だった。この場合の「何故?」というのはそういう「何故?」ではないのだ。また、人がこの説明で納得できるという事が納得できなかった。普通に考えれば、目の網膜や分子構造などをいくら持ちだしても、僕が感じる「青」に到達する事はできない。脳科学者が脳の中の快楽物質を勝手に「幸福」という概念と結びつける時、実は彼らはかなり危うい橋をわたっている。彼らは物を観念に変えつつ、自分は唯物論的な科学者だと信じている。しかし、その観念に変える方法論そのものが意識されていない限り、科学者や僕らの望むような改変が起こっていないと誰が言えるだろうか。


 では、「何故空は青いのだろうか?」 それは「何故、空は青いのだろうか?」と問う事のできる人間の基底にある認識構造が空を青いと認識するからだ。つまり、空を青いと感じる事を、一つの実在的な、確実な真理として主張する事はできない。人間が青だと見ているものを赤だと感じる宇宙人がいるとしたら、その宇宙人より我々が正しいと言いうる根拠はない。従って、何故空は青いのか? という問いには必然的に、人間存在という主体的なものが絡んでくる。分子や粒子の構造を持ちだしたとしてもそれは変わらない。それは客観的な実在ではなく、主観と客観との間にある『関係』のようなものだ。そして主観(主体)と客観(客体)との共通する構造として、分子や粒子はその底に位置するようなものであるから、我々人間には客観的と見える。しかし、それはそう見えるだけで、より大きな視点から見ればそうではない。だから、何故空は青いのか?という問いに、確実に空は青いのだという前提で答える事はできない。できるのは、空が青いという現象は我々と関わりあるという形で、「とりあえずそう見える理由」を答えるだけである。だから、我々が言えるの次のような形だ。「僕達人間には空は青くみえる。とりあえず、僕達はそういう世界で生きているんだ。また、それが僕達自身の姿でもある」

 
 カント哲学の成し遂げたコペルニクス的転回というのは僕にとってずっと疑問だった事を氷解させつつある。それは仏教哲学と同様に、論理が極限を越えると論理そのものを否定する、というような主張を含む。カントは確実な真理という西洋哲学の最後の切り札を失ったが、それによってそれ以上に大きなものを手に入れた。この大きなものが何なのか、これからじっくりと探りたい。しかし、どっちにしても論理が最終的に論理を否定するのだから、出てくる答えは「矛盾」「沈黙」のようなものだろう。(あるいは「暫定的な」真理) そしてこの場合、沈黙に至ったのは僕の知っている限り、維摩経とウィトゲンシュタインの論理哲学論考だ。 

生きる意味、生きる価値についての答え

 


 生きる意味とは何か。生きる価値とは何か。その事について個人的に答えが出たので簡単に書いておきたい。(今から言う事は自分の独創ではなく、ウィトゲンシュタインが既に言っていた事で自分はそれを自分なりに理解した(つもり)という話だ)

 
 まず、生きる意味や生きる価値というのは生きる事の内側にはない。それは今を生きている個人にはわからない。簡単に言うと「生きる意味は何か?」と聞かれたら「それはわからない」というのが自分の中で確定した答えだ。…これで答えは終わり。しかし、当然、「は? 何それ?」と誰しもが思うに違うない。「わからないんじゃ、答えじゃないだろ!」と。しかし、ここから哲学に入っていく。なぜなら、そのように「はあ?」と思う人が何故「はあ?」と思うのかという事も、この「わからない」という答えの内に入ってくるからだ。


 もっと簡単に言おう。今、僕は自分の人生を生きている。仮に、僕の人生を八十年としよう。僕は八十歳の誕生日を迎えた時にパタリと死ぬ。そういう人生だと仮定しよう。そして今の僕が丁度その半分、四十才だと仮定してみよう。


 さて、四十才の僕は考える。「僕の生きる意味とは何だろう?」 しかし、その答えは出ない。それはわからない。なぜなら、その人はまだ生きている最中だからだ。あるものの価値とか意味とかは、完全にその「あるもの」を客観化して対象化しなければ決してわからない。描きかけの絵の価値とか意味とかについて議論するのはナンセンスだろう。なぜなら、その絵は完成していないからで、完成してはじめてその絵の価値とか意味について議論する事に意味が出てくる。


 さて、この僕の人生は八十年で終わる。今、この僕の人生を「描きかけの絵」と考えてみよう。するとこの絵(=人生)が完成するのは八十才の誕生日を迎えたその時、つまり僕が死ぬ時だ。僕が死ぬと、僕の生涯(=絵)は完成する。逆に言うと、僕は、僕だけは自分の人生という絵の完成図を見る事はできない。何故か。まさに僕はその絵(人生)を生きているからだ。僕はその絵を描いている。しかし、それが描きあがるのは僕が死んだ瞬間だから、僕は決してその絵の完成図を見る事はできない。僕は僕自身の人生の完成した所を見る事はできないし、従って、その絵についての価値や意味について云々する事はできない。それについて批評をくだすのは、僕が死んだ後の他の誰かのする事であって、僕のする事ではない。


 つまり、生きる意味や価値というのは、その本人が云々できるものではないという事だ。それは死後に他の誰かがやる事で、本人がやる事ではない。何故ならその人は、その人の人生を生きているからだ。その人はまさにその人の人生を生きるという理由によって、生きる価値や生きる意味と呼ばれるものを作っている。作り続けている。例え作るつもりがなくても、最悪の醜悪な人生を自分の意思で生きたとしても、そこには醜悪な価値や意味がある。とはいえその醜悪さは自分では語る事はできない。なぜなら、人は人生の只中にいるからだ。生きる事の中に埋没して、それを作り続けている人に、その完成した姿を語る事はできない。もちろん、完成したと仮定して語る事はできるだろうが、それはあくまでも仮定の話だ。人生はどうなるかわからず、常に人生は死に到達するまでは未完成のものとしてある。だから人は生という未完成の状態を生きる。それを無理矢理完成させるのはその人の死だが、その完成図を人は見る事はできない。


 大体そういうわけで、生きる意味と生きる価値というのは、まさに人生を生きている人には語りえないものだ。そしてだからこそ、人は自分の人生を真剣に、誠実に生きなければならない。なぜなら人は生きる事によって生きる意味を瞬間瞬間作っているのだから。そしてその意味について議論するのは死後、他人に委ねるべきもので生きている当人が言う事ではない。そういうわけで、生きる意味というのがわからないからこそ生きる事というのは重要なものとなる。それが自分なりに理解した「生きる意味とは?」「生きる価値とは?」についての答えだ。

 学歴に対して議論する前提



 ある若い学者の書いたものをパラパラ読んでいたから、学歴について言及していた。そこでは概ね「なんだかんだ言ってもこの社会は学歴というシステムを採用しているので、学歴は必要だよね」みたいな事が書かれていた。僕はその事に疑問を持った。


 僕は学歴システムに対しては知の形骸化という点から批判的だ。ただ、もちろん、学歴というものに肯定的な意見があってもよいし、あってしかるべきだと思う。ただ、このような「なんだかんだ言っても~」という議論は確実におかしいと思っている。それは学歴というものに否定するにせよ、肯定するにせよ、おかしいと思っている。(この場合は肯定の仕方としておかしいという事になる)


 学歴というシステムについて僕らが議論する時は、当然それが社会(ひいては世界)にとって有用か否かを議論する場だと思う。学歴という一連のシステム、東大をヘゲモニーとするようなあり方というのは、日本とか、あるいは世界全体にとってどのように有効か、無効かという風に議論すべきだと思う。当然、有効だという人もいるだろうし、無効だという人もいるだろうし、様々な立場があるだろう。しかし、「何はともあれ今は学歴システムで回っているので学歴は必要だ」というのは、システムの問題を個人レベルにすり替えた議論だと思う。僕は学歴に対して批判的だが、例えば親戚の誰かが「自分は将来を考えて東大を目指す」と言ってもそれに反対しない。あるいは、反対するかもしれないが、それはその人の勝手だという事も意識した上での反対になる。つまり、個人レベルで、「なんだかんだ言っても社会で学歴は必要だ。よし、良い学歴を手に入れよう」と努力する事は間違いではない。ただ、正しい事でもない。それは個人の自由であり、勝手であり、それに関してはそういうものだとしか言えない。

 しかし、この個人レベルの問題を大きなシステムの話にすり替え、「やっぱり学歴は必要だよね」と言うとおかしな事になる。それは現行のものを全て「今はこれでやっているから、これでいいよね」と言うようなものだ。人間は自分達に理想的な社会を追求する権利があるし、また追求すべきだと思う。現状追認しかできないのであれば、何のための議論かわからない。


 今はたまたま学歴の事について話したが、これは他の事にも当てはまると思う。どうしてこの学者のような「今はこうだから、これでいいよね」という議論が出てくるのかと言えば、その理由は単に、個人より社会の方が大きくて強いから、という事があるのではないかと思う。また、システムの中心にいる人物は、システムから恩恵を受ける事が多いので、自然とシステムを肯定するようになる。もちろん、ある種のシステムを肯定する事は間違いではない。しかし、システムを自分の身から引き剥がして肯定する事ができないという点に問題がある。それは自分が〇〇の機関、組織、国家に所属しているからその〇〇を無条件に肯定するのと同じ事だ。自分が所属しているシステムに、人は誰しも愛着を感じるし、恩恵も受けている。しかし、それを大きな場で議論する時は対象化して述べなければならない。それが議論というものの基本ではないかと思う。しかし、学歴について議論すると大体ぐだぐだした結論で終わる。多分、僕のこの意見も「お前は偉そうな事言っているが、それはお前が学歴批判したいからそう言っているだけだろう」みたいな見方をする(したがる)人が出るだろう。僕が否定したいのはまさにそうした意見のあり方であり、学歴に肯定する人ではない。

 そういう意味で、意見の食い違いなどよりは、そういう構造/前提のあり方のほうが大切なのではないかと思う。人間はイエス・ノーで語りがたる生き物だが、その底にはもっと重大なものが隠れているように思う。

 芸術哲学の構想



 芸術哲学を作りたいと考えている。その際のアイデアはもう既に出ている。それを簡単に書いてみる。

 作家のトルストイは、記者か何かに「『アンナ・カレーニナ』という作品の意図は何ですか?」と聞かれ、それに「もし私があの作品の意図を言おうとしたら私は『アンナ・カレーニナ』をまた最初から書き直さなければならない」と返答したという話がある。

 このエピソードの中に既に自分が展開したい問題ははっきりと出ている。自分はここにウィトゲンシュタインの「語り得るもの」「語りえないもの」の区分を導入したい。つまり、アンナ・カレーニナという作品の全ては「語り得るもの」であり、アンナ・カレーニナという作品の意図は「語りえないもの」である。

 アンナ・カレーニナという作品の意図そのものは確かに明瞭に存在するし、もしそれがなければ、作品の構成が意味をなさない。明らかに作者はアンナ・カレーニナという作品を一つの完成体に近づけようと努力している。しかし、その意図は「語りえず、示されるのみ」である。学校の国語の授業で「この作品を書いた作者の意図は?」という質問を受けて、かすかな違和感を感じた人は大勢いるのではないかと思う。何故違和感を感じるかと言うと、作者の意図がもし明瞭に述べられるのであり、またその意図を述べる事により作者が深く満足できるとすると、何故作家はわざわざ苦労して長大な小説などを作り上げなければならないかという事が疑問だからだ。(意図を述べる事ができたとしても、それは語りえず、示されたその意図とは全く違うお粗末になものになってしまうだろう。これもウィトゲンシュタインの考え方から取ってきたものだ)

 逆に言えば、例えば「カラマーゾフの兄弟」の解説やあらすじを読んで、カラマーゾフの兄弟を直接読んだ満足を得る事は不可能だ、という事だ。ただ、カラマーゾフの兄弟をある程度知っている状態で解説を読めば、カラマーゾフの兄弟理解の手助けにはなるだろうが。しかし、例えそうだとしても、あくまでも基本にあるのは実際に小説を読んだ読書体験そのものだ。

 だから、この語り得るもの/語りえないものの区分は芸術にも導入できるように思う。いつになるのかは全くわからないが、そういう芸術哲学を作りたいと思っている。

 世界の創造と理解について (黒崎政男 カント『純粋理性批判』入門 感想)

 
 
 黒崎政男の『純粋理性批判』入門に次のような疑問がある。「1+1=2」というのは人間の側が勝手に作り出したものなのに、どうしてそうしたもの(数学・物理学)を使ってロケットが月に到達できたり、惑星の公転周期を正確に計算できるのだろうか?

 これに対するカントの答えは次のようなものだ。『世界の成立そのものに人間の主観的原理であるカテゴリーが関与しているから』 このカテゴリーの中に『1+1=2』のような論理性も含まれている。

 つまり、何故、人間の側で勝手に作った『1+1=2』のような論理が、この惑星の外の事物にも応用できるかと言うと、まさにこの世界そのものを我々がそのように作りつつあるから、という風に理解できる。この場合、カントは真理を外的な、客観的な事物から、人間の主観の方へと引き戻したのだった。

 しかしそうは言っても疑問は残る。少なくとも僕は純粋理性批判入門を読んでまだ疑問を感じた。それではカント・黒崎の言う「世界」(=現象)とは何か?という事だ。これに対してはカントのアンチノミーの問題が役立つ。


 あやふやな物理知識を持ち出すと、宇宙物理学では時間はビッグバンと共に始まったとされる。では、その際、ビッグバンの『前』はどうなっていたのか?と人間は疑問を持つ。しかし、それはわからない。『わからない』というのが答えである。なぜなら、人間が世界を認識する基準の奥底には時間ーー空間という様式があるからだが、『世界』がその通りになっているとは限らないからだ。言い換え得れば、ビッグバンからこちらがわは我々の思考カテゴリーで理解できる。…というより、こう言った方がいいかもしれない。人間の通常的な認識の限界、思考の限界はビッグバンのこちら側であり、人はまさにその理性によってその世界を創造したのだと。視野の内に視野の限界はないとされる。しかし、視野の外側から視野を見ると、視野が見ていないものを見る事ができる。人間の『世界』の外には不可知のものが広がっているが、それが人に理解できないのは何故なのか。それはそれについての認識できる力がない、と言っても良いが、むしろ、認識できる範囲の世界は人間が(主観的に)作り上げたのだ、と考える事ができる。
 
 またあやふやな理系知識を持ちだして考えてみる。量子論に波動関数というものがある。これは世界を記述するに足る数式の一つだが、ここには複素数というものが使われている。(高校の数学辺りでやったかもしれない) 複素数というのには虚数が含まれている。虚数というのは、その名の通り「虚」の数で、iを2乗すると-1になるというあれだ。面倒くさい点を省くと、この虚数というのは実数に比べれば、我々の普通の常識感覚では捉えられない。だから言葉も『虚』の数と言われる。


 量子論では現実の物質を記述する時にこのように虚数を用いる。そしてそうした数式を用いられて表される現実=実験結果は我々には理解不可能なものになる。量子論に二重スリット実験というのがあるが、これは普通の我々の感覚からすると完全に理解不可能なものである。調べてもらえればわかるがそれは『1+1=3』と言われるような理解不可能性だ。


 この点、実際に色々な混乱や批判が起こったらしい。普通に考えれば物が理解できないのは、我々の認識が足りないせいである。知識や理解力が足りないから理解できない。学校勉強になれた理性はそう考えがちだ。しかし、それはそうではなく、普通の理性には理解できないーーという事が答えだ。(ただ、再現性などはあるので科学的に取り扱いはできる) ここにカント哲学を当てはめると、量子論で言われている事は丁度、ビッグバン以前が我々に理解不可能であるように、理解不可能であると言う事ができる。もっとも、これは虚数という人間が生み出した数式で記述可能なので、数式は人間の感覚的認識よりももう少し先に行ける。


 以前、僕は量子論を自分なりに勉強している時、どうしても『わからない』という事がよくわからなかった。実際、アインシュタインも量子論には腹を立てて反駁している。アインシュタインは古典主義者なので、その『わからない』というのがどうしても解せなかったのだろう。しかし、おそらく答えは逆だったのだ、とカント哲学を見て気づいた。カントは量子論に先駆けて、『わからない』というのが答えだと言い切ったのだと思う。逆に言えば、『わからない』という事が問題ではなく、『わかる』という領域をまさに人間は瞬間瞬間に創造しているのだという事だ。


 例えば目の前に石ころがある。もし、これを見ている私、ひいてはこの石ころを観察したり手で持ち上げたりする人間が全ていないとしたら、この石ころはそれでも存在するか? 常識は「存在する」と答えるだろう。カントの時代もそれは同じで、『時間と空間は客観的なものだ』とカントは同時代の哲学者から手紙をもらっていた。しかし、実際はそうではなく、『そんな事はわからない』が答えなのだと思う。人間が存在しなくても、時間ー空間は世界の根底の客体的真理として存在し続ける。常識はそう告げる。しかし、それは『何故』なのか? 黒崎政男によれば、カントがコペルニクス的転回を果たしたのはまさにこの点だった。時間ー空間を人間の主観的な認識基準にカントは取り戻した。だから、人間がいなくなれば時間ー空間があるかどうかは「わからない」。

 
 宇宙物理学者が、『あと少しすればこの世界の全ての物事は解明されるだろう』と言っているのを聞いた事がある。科学者というのはそういう事を言いがちだ。『今はまだわからないがあと少しすれば、世界全体を解明する一揃いの数式が発見されるだろう』 よくそういう事が言われてきた。しかし、カントをくぐった今、その発言は逆に聞こえる。そうではなく、科学者はそうした数式を発見する事により、世界を拡張しているのだ。彼らは世界に刻印された真理を発見しているのではなく、まさに彼らは世界を創造しているのだ。


 そして、このあるがままの世界ーー『物自体』は不可知のままにとどまる。僕は観念派が退けたように、物自体という概念はそう簡単に斥けられないと思っている。世界を理解(創造)できるのは、理解不能ななにものかがあるからだ。だから、人間は常に未知の場所にとどまり続け、これからも世界を創造していく事だろう。その点では、芸術家も科学者も同じ地平線に立っていると言う事ができる。

 (この文章では世界を『作る』と言ったが、その作るは普通の意味での作るではない。我々が世界を認識するという事は必然的に世界を作る、という概念を含んでいる、というような意味だ。普通に粘土細工のように世界を『作る』という事ではない。)

太宰治論をアップしました

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 主観と客観


 誰しも、自分の言った事とか意見を「お前の意見は主観的だ」と批判された経験があるかもしれない。少なくとも、僕はある。

 僕は以前からこうした批判が気に食わなかったが、その事について少し書いておこうと思う。僕が気に食わないのは、自分が批判されたという事ではなく、「主観的だ」と人が言えば、それだけでもう相手を批判したような気持ちになっているというその事だ。

 ある種の人がこういう事を言う前提には当然、客観=良い事、主観=利己的な事、すなわち悪い事という前提がある。この前提は非常に現代的なものであると僕は思っている。それは科学が、現代の権威として山上に輝いている時代そのものと関わりがある。

 僕が疑問なのはそもそも、客観的なる意見というものがあるかどうか、という事である。あるいは、こういう事を言う人間はそもそも主観、客観について全く反省的に思考していないように見える。主観とか客観とかは、それほどわかりやすいものではない。ライプニッツ、ロック、カントのような大哲学者達はこの問題に取組み、今も哲学者達はこの問題に深く取り組んでいると言える。これはそもそも簡単な問題ではない。


 ただ、僕が思うのは次のような事である。僕が、ある意見を言う。それは全く主観的なものである。それが科学的裏付けを取ったとしても、それを利用した意見そのものは僕固有の意見である。それは、主観的なものである。しかし、その僕の主観的な意見に僕以外の人間が(部分的でも)共感した時、そこに一つの共感性が生まれる。大切なのはその点である。だから、全て意見というのは主観的なものであるが、全ての意見は人々の間を伝播し、客観的となる可能性を持つ。何故僕がそう言うかと言うと、客観的というのは異なる二者以上の存在が共有する事柄だ、と定義しているからだ。


 従って、僕が言う意見はどうあがいても主観的なものだが、それは他人に開示する事によって客観的となりうる、と言う事ができるだろう。例えば、フロイトの精神分析の理論は、その当初、全く独創的で主観的なものだが、人々の内を伝播している間に、フロイトの手を離れ、客観的なものとなった。そういう事ができるだろう。これを、「フロイトの精神分析理論はお前などのつまらない論考と違って最初から客観的だった」と言う人がいるかもしれないが、それは間違いである。フロイトの言っている事が僕の言っている事よりはるかに質が高いの確かだが、その事とそれが最初から客観的だったという事は違う事柄である。この手の事を言う人間はそもそも、権威主義者であるパターンが多く、名の知れた人間には甘く(あるいは過剰に反抗的で)、無名の人間には軽蔑して接する事が多い。こうした人は、権威から逆立ちして理論とか言説を見るが、最初にあったのは個人の中にある思念とか、言説の方である。最初から権威があるのではない。この点を逆立ちして批判しようとしている人がネット上には多い。また、こうした人達がそうした批判をしたがるのは、自分自身が無名である事に対する恥の感覚があるからかもしれない。自分の劣等感を覆い隠す為に他人を攻撃する。彼らは自分自身に対して非反省的であるが故に、自分に対して無知であり続ける。だから、彼らは主観的とか客観的とか言う言葉自体を自分で吟味できない。彼らに本格的な哲学的思索は不可能であり、やりたいのはただ、自分の欠点を隠すために他人を批判する事だけだからだ。


 そういうわけで、「君の意見は主観的だ」と言われても、そう気にする必要はないように思う。そもそも、「主観」以外の意見があるかどうか疑問だからだ。…余談だが、今辞書を引いたら、『客観』の説明項目にこんな事が書いてあった。「主観から独立して存在する外界の事物」(のこと) しかし、これは普通に考えれば間違いである。あるゆる主観が見ていない客観なる事物があるかどうかなど、人間にわかるわけがないからだ。もし全ての人間が月を見ていないとすると、その時、月が「ある」かどうかは分からない。辞書によれば、誰も月を観測していない状態でも月がある、と明言するのが客観だそうだが、それこそが客観ではなく「主観的迷妄」だと僕は考えている。では、どうして全ての人間が月を見ていない時には、月があるともないとも言えないのか(僕はあるとも言えないし、ないとも言えないと考えている)、それは面倒で長い話になるので、哲学書などを読んでいただければわかる事ではないかと思う。しかし、大雑把に言えば、哲学は客観的実在論から、仏教的な関係主義に移ってきている。そしてその過程で、今のこの月の問題も出てくる。僕個人はその流れで言っているだけで、独創的な事は全く言っていない。とにかく、他人から「お前の言っている事は主観的だ」と言われても気にする必要はない。僕はそう思っている。

アンネ・フランクの非凡な知性

過去がそうであったから、未来もそうであるべきだ、という考えは一様に保守主義としてくくれるのではないかと思う。逆に、過去がそうであったから、未来は変わるべきだというのは改革主義だと言えるかもしれない。

学生運動というのは昔からあったが、学生というのは自らが何者でもないという事を強みにして改革を起こそうとする。一方で保守主義者は、既に自分達が何者かであるという事から端を発して、既存のシステムを守ろうとする。つまり、どちらにも一理があるように見えるが、結局、彼らは彼らの立脚点を反芻せずにそのまま言説化しているだけ、とも言える。

知性というのは僕はそういうものではないと思う。アンネ・フランクの日記には、「イギリス軍に早く上陸作戦を決行してもらいたい」というオランダ国民の願望が記されている。当時、オランダはナチスに占領されていたので、早い所イギリス軍にナチスを撃破してもらって、自分達を解放してもらいたいというのは当然の願望だったろう。

しかし、アンネはそれに対して冷静に思考する。アンネは「一体オランダ国民はイギリス軍に助けてもらうような何かをしただろうか?」と考える。そして結局、「いつ上陸作戦を決行するかはイギリスが自分達で決める事だ」という結論を出している。

もちろん、アンネだって、早いところイギリス軍に来て解放してもらいたかっただろう。それは人としての当然の情であり、アンネだって恐ろしかったはずだ。彼女もまた、自分を救ってもらいたいと心底から願っていたはずだ。

しかしアンネはそういう自分の感情を越えて、自分の意見を述べている。アンネはオランダ国民の、自分達だけの立場から物を言っているのではない。彼女はイギリスの側の立場もわきまえて物を言っている。彼女はどちらの立場をも俯瞰するような視点で意見を述べている。ヘーゲル流に言えばアンネ・フランクは「世界精神に則っている」のだ。

そういう点でアンネ・フランクの知性は、アンネの立場を越えている。僕は彼女のような思考や意見というのが本物の知性であると思っている。

「国家」とか「社会」は

当たり前の話だが、国家や社会というのはアスファルトの台座のように堅牢なものとして自分達の外部にあるわけではない。

「国家のために」「社会のために」という教条的な言葉を持ち出してきても、もし全ての人間が国家に身を捧げれば、その国家は消滅してしまう。何故なら国家や社会を構成するのは我々そのものであるからだ。こんな事は当たり前すぎるように当たり前な事だと思う。

最近では、国家とか社会とかをあたかも自分達の外部にあるかのように想定する言説をよく見かける。しかもそういう事を言う人は、僕などには到底辿れないエリートコースを歩んできた人たちだったりする。これらの人達の言説は一様に、国家や社会を自分達の外側にある恒久なものとみなす事から端を発している。しかし、国家とか社会とかいう観念も実は最近生まれたものではないか。日本は最古の国であるとかないとかいう話もあるらしいが、そもそも「日本」という意識をこの国の人々が持ち始めたのが何時頃なのか、そういう事ももう少し考える必要があると思う。

あまりに単純で平板な意見が世の中を行き来しすぎていると僕は思う。しかもそれを世間的には「賢い」と言われているような人達が平気で口にする。僕は、歴史は繰り返すのだなあと、過去の人が感じた感慨を自分の中に感じている。世の中というのは、変わっていると喧伝する人達が思うほどには変わっていないように思う。

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