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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

幸福論

もし君が何かを幸福だと定め

そのために努力しているというなら

君はその「幸福」を得た途端

それを失う事を怖れ、そのために

「不幸」と同じ状態になるだろう


「悟り」とは出たり入ったりする事ができないものだと

ある人は言った

だとしたら幸福もまた

出たり入ったりできないものではないか


幸福な人は死を前に怖れを抱いてはならない、と

ウィトゲンシュタインは言った

もし、そうであるなら

「幸福」とは絶対的に人間に強制された枷ではないのか

そして その時

幸福と不幸とはもはや同じ意味ではないのか


煩悩と悟りは一つであると

ある人は言った


幸福であれ

今、この瞬間に

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諸行無常の意味

 

 「諸行無常」というのは、命はやがて散るもので、全ては儚いものだ、というような意味ではない。そういう事では全くない。

 南直哉というお坊さんは「諸行無常というのは存在に根拠が無いという事です」とはっきり述べていたが、南直哉の言っている事は百パーセント正しいと思う。日本人というのは、抽象的思考が苦手という側面があり、仏教なども日本に輸入される過程でかなり通俗的なものに変化したのではないかと思う。どちらにしても、桜の花がはらはら散るのを見て「諸行無常だなあ」と言うの、本来の諸行無常とは違う考え方だ。

 では諸行無常とはどういう事なのか。自分が理解した限り、それは「常なるものはない」という事だ。それが南直哉の言う「存在には根拠が無い」という事と合致する。

 例えば、桜の花がはらはら散るのを見て「諸行無常だなあ」とつぶやくのは、あくまでも桜の花を見て、「物事は変化してゆくのだなあ」という感傷を語っているに過ぎない。僕の理解では諸行無常はもっと一般的な哲学概念である。この場合で言うと、桜の花を見ている私ーーこの「私」というのは無意識的に固定化されて考えられている。また、桜の花が「散る」という場合、「散る」という概念に拘束されてものを考えている。無常だという事は「桜の花が散る」のように、物事を固定化して捉えるのが間違いだという意味を含んでいる。「桜の花が散る。儚いなあ」と人が言う時、その時人は桜の花が生命として死ぬ様を思い浮かべている。しかし、仏教哲学では「不生不滅」という考え方がある。これは諸行無常と同じである。桜の花は生命として散るのではない。「生命」という風に物事を固定化して考える事は不可能、全ては変化である、と悟るのが諸行無常という事の意味である。

 もう一度整理して考えてみよう。こちらに「私」がいるとする。そして向こうに「桜」がある。つまり

 私  →   桜
   (詠嘆) 
 
 という図式だ。この場合、「私」という存在は桜の花が散るのを見て、「儚いなあ」と思う。しかし、それは間違っている。問題はそうやって見ている私自身もこの大いなる変化の中にいるという事だ。人間というのは、自分を定点として考える。例えば、この宇宙、と人が言う時、僕達は無意識的に自分を中心にして宇宙全体のあり方を想起する。自分自身が変化している中での視点、というものは想像できない。人間というのはとにかく同一性を求める存在である。それが、人間の武器と言っても良い。言葉というのは、概念という力で物事を固定化する。その過程で、人間も固定化される。例えば、「自分」「他者」。しかし、自分と他者をいかなる理由で区別するのか。それは区別が先天的にあるから、ではない。いわば、全てが諸行無常である世の中で、僕達は言葉という仮の道具を使って、あくまでも「そういうもの」として仮の区分をするのである。この区分はあくまでも「仮」である。この仮を真実とみなす所から、様々な問題が起こった。

 
 はらはら散る桜の花を見て、諸行無常だなあ、と思うという事は、その底に「繰り返す生死、循環する自然」のような考え方がある。しかし、諸行無常とはそういう事ではない。桜の花が散る事は、桜の死ではない。というより、今言った「桜」とか「死」とかいった物事の捉え方そのものが、人間特有の物事を固定化する作用である、この迷妄を抜け出せば、無常である世界が見えてくる、というのが諸行無常の考え方だ。これはカントで言えば「物自体」に相当するかもしれない。しかし、カント以降は(自分で調べたわけではないが)基本的に「物自体」を認めない傾向に走り、そこからドイツ観念論に至ったようである。しかし、仏教哲学はこの物自体を、諸行無常というような形ではっきりと見据える。逆に言えば、このあやふやな、人間の理解を越えたものを認めるか認めないかで、宗教と哲学の分水線が引かれるのかもしれない。しかしいずれにしろはっきりしているのは、諸行無常という考え方は、桜の花が散って、ああ儚いなあ、と思う事ではない、という事だ。

想像のインフレ化した社会

 

 
 現代社会というのは想像力が現実を完全に追い越してしまった時代なのではないか、と思っている。そして様々な事が、想像力を現実として具現化しようとしているが、その二つの溝は最終的には解決できない。

 例えば、非リア充、リア充という言い方があり、またネットでも年収がどうのという言説が良く出てくる。また「男は~で」「女は~で」という言説とか、また、時の首相がまるで自分達の政策が全てを救うかのように喧伝したりする。こうした事は、僕達の想像力が遥かに現実を越え出て、その理想(高い理想ではないが)があまりにも突出しているために、それとの溝を埋めようとする作用に見える。

 想像力が現実の自分達を越え出て、あまりに先まで行き過ぎている為に、この差を埋められるかのような無数の偽善や偽悪が生まれてくる。一部の政治家らが突然に、空中に見えない敵を描き出そうとしているのも、現実の自分達の問題に対する非解決という解決もどきを見せたいからかもしれない。

 もっと言うと、この社会は想像力のバブル期に陥っているとも考えられる。イメージや理想だけが氾濫し、それが現実の自分達に対する正しい視認とならない。おそらく、このバブルは弾けるだろうが、弾けた後にも、その弾けた様をまた別のバブル(泡)で埋めようとするペテン師達が出てくるだろう。僕はそう考えている。

 今僕はシェイクスピアを読んでいる。シェイクスピアにおいては、想像力が遥かに現実を越え、遊離しているのではない。シェイクスピアはそうではなく、現実の底に更にもう一つの世界を見ている。バブルとしての想像力は現実から遊離するが、シェイクスピアやドストエフスキーの想像力は現実の底を見据える。そこが、この両者の違いである。僕はそのように思う。

シェイクスピアの完全性



 シェイクスピアを今読み返しているが、「シェイクスピアはやはり最強だな」というよくわからない結論に落ち着きつつある。

 シェイクスピアを読んで思うのは、一つには、聖と俗、貧と富、幸福と不幸、などの相反するものが全て平等に扱われているという事だ。シェイクスピア作品には、主人と下僕のような上下の関係は当然沢山出てくるが、しかし、下の者も上の者もみんな同じような人間としての権利、意思、自由をシェイクスピアによって付与されている。女性と男性においても、女が男になり、男が女になるシェイクスピアの世界では、そこでは全てが相対的であると共に平等である。ここにシェイクスピアの世界が完全なものに感じる一要因があると思う。
 
 
 シェイクスピア作品では、個々人の自由と、それを制限するもの(不自由)との葛藤が基本的なテーマになっていると思う。これはゲーテのエッセイから類推した話だ。


 例えば、ロミオとジュリエットでは、ロミオとジュリエットの愛というのは互いの意思、自由そのものである。二人は一つになる事を願うが、シェイクスピアはそこにわざと障害をおく。つまり、ロミオとジュリエットの家柄はお互いに宿敵同士である。これは物語の作り方としては、わりに普通のやり方だと思うし、こんな方法を取っている作家、シナリオライターは今でもゴマンといるだろう。しかし、シェイクスピアが非凡なのは、二人の愛の結びつきの強さを証明する為に、現実はその踏み台になっているという点である。つまり、私見ではーーあくまでもシェイクスピアが表現しようとしているのは二人の愛である。二人の愛はあまりにも強いから、二人は現実に完全に敗北してしまう。もっと言うと、二人の内面性が現実を越え出ているからこそ、二人は現実に敗北してしまう。二人は中途半端な所で妥協しないからこそ、二人の愛は至高のものとして我々に示される事になる。


 この点でシェイクスピアは最大限に内面的なものを称揚していると言えるが、しかし内面的なものが外に現れる為には、外面的なものが存在しなければならない。普通、人は外面的な現実に対して妥協的に接するので、内面的なものも中途半端にしか現れないが、シェイクスピアはそれを許さない。彼は内面的なものを外に出す事を、登場人物達にほとんど強要している。そしてそれだからこそ、あのシェイクスピアの全一性ーー全てを出し切った、という印象が現れるのだと思う。そういう意味でシェイクスピアはやはりずば抜けた存在だと思う。しかし同時に、今現在そのやり方を文学の領域で真似るのは厳しいと思っている。そうしたやり方は現在では、また違った方法で再生する事になるだろう。そしてそれを完全な形で体現しているのは、自分の理解では、ドストエフスキーである。

 アニメ・ゲーム化する世界



 まどか☆マギカ、エヴァンゲリオン、ペルソナ3などはいずれも「絶対的な敵」を想定していたように思う。シュタインズゲートなども、おそらくその範疇に入るだろう。これらの作品は最近のサブカルチャー作品としてはどれも優秀な作品であるがまた同時に、絶対的な敵を想定しているという点ではひとくくりにできると思う。


 一番はっきりしているのはエヴァンゲリオンで、エヴァの敵ーー使徒ははっきりした理由もわからないままに、こちら、つまり人類側を攻撃してくる。そしてその攻撃力は圧倒的で、人類の方には多大なダメージが出る。そしてそれに立ち向かうのはネルフという機関と、エヴァンゲリオンという巨大ロボ(ひらたく言うと)を操作する何人かの少年少女達である。この作品のテーマになるのは、この巨大で圧倒的な敵を前にした少年少女の心の葛藤である。

 
 まどか☆マギカという作品も、その構造は完全に同一である。これもまた絶対的な敵を最初に想定し、それに立ち向かう少年少女の心理的葛藤を描いている。つまり、ここで、視聴者が共感できる人間のドラマ性は、「絶対的な敵」を想定する事により可能となっている。これはアニメ・ゲームなどが得意とする方法だろう。


 ライトノベルの書き方などでは、主人公たちをひどい目に会わせろ!という事がよく言われる。これは正しい方法論だろうが、それが何故なのかというは深く考えられてはいない。例えば、シュタインズゲートの主人公オカリンに視聴者が共感できるのは、オカリンが一人でタイムスリップしつつ、絶対に勝てない(であろう)敵ともがきつつ戦うからである。そこにシュタインズゲートという作品の良さがある。


 しかし、シナリオを作る時、主人公に視聴者を感情移入させるために、必ず絶対的な敵を作らなければならないかというと、そんな事はないと思う。その好例は初代ガンダムで、ガンダムは敵側のジオン軍もきちんと人間として描いている。この点だけ取り出せば、エヴァやまどか☆マギカよりガンダムの方が優れた作品だと言えると思う。(作品の全体的評価は別だが)


 自分が突然こういう事を言い出したのには理由がある。それは、おそらくアニメなどは現実には見ないであろう人達がフィクションをなぞるかのように「絶対的な敵」を想定し始めたからだ。彼らはある意味現実主義者なので、アニメ・ゲーム・小説などには全然興味が無いかもしれない。しかしそういう現実主義者である、一部の政治家などが、急に絶対的な敵を自分達の外部に作り上げはじめている。それはまさにフィクションであると彼らに言っても、彼らはそれを信じないだろう。彼らは自分達は現実にいると信じており、そしてそれ故に、自ら作り上げた観念という強固な夢の中に閉じこもっているからだ。


 そういうわけで、現在、この世界はフィクション化しているように思う。絶対的な敵を外部に想定する事により、このドラマなき社会にドラマを作る、という方法をサブカルチャーの優れた作り手は採用した。しかし、今や現実でもそういう方法が採用されはじめている。そして、それはフィクションであれば、作品の良し悪しを言って済んだのだが、今やそれでは済まない所にきている。現代はそこまで来ていると僕は思う。

 執着してはならないという事



 仏教では執着を離れるという事が基本的な教え、その眼目となっている。そしてその過程で、言語の問題が出てくる。言語というのは物事を固定化し、概念化するので、人間の執着という問題と密接に関わってくる。そしてその中では「私」というのも、一つの執着であるとされる。

 
 仏教哲学では執着しないという事が、一番重要なテーゼとなっている。しかし、この執着しないという事は「執着しない」という事にも執着してはならないのだから、そう簡単ではない。

 
 仏教経典をパラパラ見ると、いたるところに矛盾的な表現が出てくるが、それは簡単に言うと執着してはならないからである。執着は良くないのだが、執着しない事にも執着してはならないので勢い、矛盾的な言葉が増えてくる。だから、今、本物の仏教哲学者がいれば「仏教にすら執着してはならない」と説いたと思う。そうなると何がなんだかわからなくなるだろうが、その何がなんだかわからなくなるのが仏教哲学的には正解だと思う。


 そういう意味で、自分は初期仏教の教えというのは凄いものだと思っている。そういう点からすれば、自分は仏教徒に改宗(日本人なので元々仏教徒なのだろうが)してもいいと思っているぐらいだが、しかし、仏教という形態に執着してはならないという仏教の「法」に従い、普通人とでいようかと思っている。自分の言っている事が嘘だ、矛盾だと感じる人は龍樹辺りの言っている事を読んでいただきたい。龍樹は自分などよりはるかに矛盾だらけで、そしてはるかに深く、魅力に富んでいる。


非政治という政治性


 安保問題などが巷では騒がしくなっている。これから政治問題はもっと騒がしくなるだろう。

 こういう時代において、芸術がどうのと言い続けるのは大変である。また、これから先はもっとそうなるだろう。「政治状況がこうなっているのに、お前はどうして芸術なんてものをかまっているのか!」という無言の圧力がかかるからである。

 しかし、自分は相変わらず、政治の事に言及せず、芸術的問題を追求していこうと思っている。政治について一切語らないというのも一つの政治性である。僕はそう考えている。 

 仏教哲学の合理性



 仏教哲学を自分なりに勉強している。自分の中で仏教哲学と呼んでいるものは ブッダー龍樹ー般若経・維摩経 あたりの流れだ。日本だとわかるのは道元くらいで、他の人達は正直、仏教でもなんでもないのではないか? と思っている。(ある意味そっちの方が宗教っぽいが)

 仏教哲学というのは突き詰めていくと、凄まじく論理的である。唯識派と中観派のバトルというのは凄まじくレベルの高い話であると思うし、ある意味、神様がいるという事が前提になっている西洋思想よりはるかに合理的だと思う。唯識派と中観派の闘いは、いわば合理的なものの中の更なる合理性を突き詰めていく話で、僕は基本的に大好きである。(中観派を僕は支持するが)

 こうした仏教哲学から見ると、現代というのは(不思議な事に)かなり宗教的な時代である。…例えば、「孤独死」という問題がある。孤独死は怖いとか、孤独死は嫌だとかいう話がある。しかし、孤独死が怖いというのはおそらく自分が死んだ後を想像して言っているのだろうが、死んでしまえばもう認識できないので、死後を想像するのは無意味である。孤独死が寂しいとか、良くないというのは生きている人間が死んだ人間を見て勝手に言っている話である。(厳密に言うと、「死んだ人間」というのも間違っているのだが、面倒なのでその辺りは竹村牧男辺りの解説書を読んでいただきたい)


 他にも色々あるが、仏教哲学は自分にとっては論理を突き詰めてその挙句、論理を否定する極限の哲学だと見えている。この哲学のおかげで、自分は今まで自分にとって疑問だった事が氷解しつつある。とにかく、こういうものを人類が考え出したという事はとてつもない事だと思う。また、この仏教哲学に唯一、たった一人で肉薄しているのは西洋ではウィトゲンシュタイン一人ではないかと思う。そういう意味でウィトゲンシュタインは全然西洋的ではない、異端な哲学者である。その辺りはこれからの自分の表現活動の核となっていくと思う。

 「敵」と戦う事は

 

 最近は絶対的な敵を外部に想定して、それと「断固戦う」という姿勢を見せる人が多いように思う。また、人々もそれを求めているような風潮を感じる。多分、これらの人は現状に閉塞感を感じていて、「断固闘う」という事が閉塞感の打破につながると無意識的に感じているのかもしれない。
 
 
 外部の敵と断固戦う、という発想は僕はそれほど断固たるものではないと思う。自分達の外部に絶対的な敵を想定するという行為は、自分達をも絶対的な存在だと認める事に通じる。しかし、我々は絶対的な存在ではないし、敵もまた絶対的ではない。もし敵なる者がいても、それはどちらもやはり人間なのだと思う。ゲームに出てくる敵のように、全く何も考えずにこちらを侵略してくるモンスターというわけではないだろう。


 自分は絶対的な非戦論者というわけではない。しかし、相対的ーー絶対的という観点から見れば世の中全体は「絶対的」な方向へ向かっていると思う。しかし僕はこの世界は相対的なものだと感じている。結局、人生どうにもならないのだ。しかし、そのどうにもならなさに腹をくくれば、もうどうにかなった事と同じなのだ。自分はそう思う。

極限の論理……「維摩経」と「論理哲学論考」

 


 僕は「維摩経」と「論理哲学論考」の二つの書物は、人間の考えうる限りの極限の思索であり、論理であるという風に考えている。これ以上に哲学的な哲学はないという風に感じる。


 この二つの書は構造的には同一である。つまり、最後には沈黙がやってくる。なぜこの二つの書の最後には沈黙がやってくるかと言えば、これらの書の論理があまりに鋭すぎて、最後に自身を犠牲にしなければならないところまで来るからだ。つまり、思索が己の思索そのものを否定してこれらの書は終わる。そういう極限まで人間の思索、論理は達してしまっている。


 例えば、ヘーゲルなどで言えば、「理性」「精神」と言う、近代西欧にとって割に座りの良い哲学的概念に収斂される。そこではヘーゲルは自分達の近代的理性にかなりの自信を持っている。逆に言うとヘーゲルの論理は「維摩経」や「論考」のように、自らそのものを切り刻む所までは行っていない。ブッダは、自分が悟った内容を世に話すのをためらったが、ここにある沈黙は維摩経・論考的な沈黙と考えても良いのではないかと思う。何故僕がそう思うかと言うと、長尾雅人の本に、ブッダが世に自分の教えを広めるのをためらったのは、世の無理解の事を思っただけではなく、言語そのものの「嘘」を感じていたためだ、と書いてあったからだ。
 

 そういう意味で、「維摩経」や「論理哲学論考」は極限の思索、極限の哲学だと思う。逆に言えば、それらはあまりに極限的にすぎるので、一般の我々にはほとんど関係ないと見えるかもしれない。ヘーゲルやマルクスを読めば、社会とか文明の事が見えてくるが、維摩経や論理哲学論考を読み込んで何が見えるか? なにせ、最後に沈黙がやってくるので、見えるものはないーーというより、見えると見えないとかそういう事自体が言えない、というのが彼らの論理ではないのか、と思う。つまる所、彼らはある種の無知に達した。しかし、それは彼らの知があまりに衆を抜きん出ていたためだ。僕はそのように感じる。


 そういう事でこの二つの本は自分にとっては思考・論理の極限である。このような思索は、人間の考えうる思索の果てであると僕は思っている。しかし、極限概念だけではやっていけないので、その間に様々な中間的段階も必要になるだろう。しかし、最後には知はこのような無知に達するのだと思う。つまり、真理は真理の否定に達する。そして、真理は自ら沈黙する事によってその責を果たすのだ。この二書はそのような書物だと思う。

哲学と信仰



 パスカルは「私」というのは、他人にとっては偶然的な存在に過ぎないという事を短い文章で明瞭に表している。一方でウィトゲンシュタインはそれより更に一歩進んだ。ウィトゲンシュタインは「私」とは「他人にわかってはならないもの」だと明瞭に断じた。永井均は青色本のその箇所を読んで、ある種の解放感のようなものを覚えた。(詳しくは「ウィトゲンシュタイン入門」を読んでいただければ) 僕もまた、ウィトゲンシュタインのその発言に解放感を覚える者である。

 自分は他人に理解されないーーと人はずっと繰り返し嘆いてきたのかもしれない。しかし、その問いにウィトゲンシュタインは裏側から答えてみせる。「自分とは他人に理解されないものーーいや、理解されてはならないのだ」と。この言葉に「結局、自分は他人に理解されないではないか!」と嘆いて見せる事ができる。しかし、僕の考えでは、それはそうではないのである。他人は、理解できないからこそ、他人なのである。もし完全に理解可能な存在=他人ならば、それは自分と同じ事になってしまう。全体主義や、ある種の宗教団体が狙うのはこうした「自分の拡大化」である。全ての内面を単一の原理に還す事を彼らは目指す。しかし、ウィトゲンシュタインの言葉に従えば「他人とは理解されてはならないもの」なのだ。

 しかし、ここでもまだ疑問は残る。つまり、「自分とは他人に理解され得ないもの」だという事を共有する我々は何者なのか、という事だ。私は他人に理解されえない…しかし、その事をそれぞれの個人が、ウィトゲンシュタインの言葉を読んで理解してしまったとしたら、それはどのような存在なのだろう? ここで問題は空転する。しかし、この問題を解く人はまだ現れていない。そう思う。

 本当の事を言えば、ウィトゲンシュタインの論理やブッダの論理はあまりにも鋭利すぎるために、彼ら自身の存在を切り刻んでしまったのではないかと僕は思っている。彼らが沈黙を大切にし、言葉に嘘を見るのは、彼らの言葉による論理があまりにも鋭すぎるがためだ。しかし、彼らは我々に語った。すると、そこには何があるか? …究極的に言えば、僕はそこに信仰があると思う。彼らは何かを信じたからこそ、語ったのではないかと思う。もし、論理それ自体を信奉するなら、ブッダは自分の見た夢などに関係なく、悟りの内容を人々に話さなかったに違いない。しかし、ブッダはそれを人に語った。

 ここで、論理は微妙にある種の信仰に変わる事になる。それが哲学なのか宗教なのか、僕には判別できない。しかし、哲学は最後に宗教に昇華するという誰かが言った言葉は、ここではある種の真実を発しているように僕には思える。

北野武「ソナチネ」感想

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 北野武の「ソナチネ」を見た。

 これまで僕は北野武映画には肯定的ではなかったが、「ソナチネ」は傑作だと言えると思う。逆に言えば「ソナチネ」以外の作品(きちんと他の作品を見たわけではないが)では、北野武の芸術性や通俗性がそのまま真っ正直に出過ぎているとも言える。とにかく「ソナチネ」という作品は、北野武が自分の剥き出しの資質をうまい具合に理性で抑えこみ、計算して一つの作品に落とし込める事ができた、そういう意味で重大な作品だと思う。映画的に傑作だと思うし、こんな作品を作れる人は(今の北野武も含めて)なかなかいないと思う。

 「ソナチネ」を見て、すぐ気付く点はふたつある。一つはユーモア、もう一つはバイオレンスである。この二つは対比的に用いられている。また、殺したり殺されたりという惨状、その赤い血の色と、沖縄の青い海、空の美しさもまた、対比的に用いられている。この点は常に対照的に用いられていて、その塩梅、バランスは監督北野武がかなり意図的に作りこんでいる。

 昔見たのでぼんやりとしか覚えていないが「3-4X10月」などは暴力シーンが前面に出すぎていて、北野武が自分の剥き出しの資質をきちんと理性で押さえ込めていないという印象を受ける。芸術というのは、「剥き出し」である事が必須要件だが、しかしただ剥き出しであってはならない。それはきちんと、芸術的に計算されていなければならない。

 例えば、自分がよく名前をあげる神聖かまってちゃんなどはまさにそういう好例に当たる。神聖かまってちゃんの楽曲は一見、荒々しい荒削りなものに聞こえるが、の子というアーティストがネットに上げるPVは芸術的にきちんと計算され、考えられて作られている。そこでは確かに荒削りなものはあるが、しかしその荒削りをどう見せるかという点で、神聖かまってちゃんのの子はアーティストとして正しい選択方法、制作方法を選んでいると思う。
 
 北野武の場合はの子と違い、「ソナチネ」以外では色々なバランスがとれていないような気がする。しかし「ソナチネ」では過度に暴力的に、エロス的になる事もなく、ただ単に残虐さや冷酷さに走る事なく、血と海とのバランス、美しいものと醜いものとを巧みに使い分けて、芸術的に計算された作品を作り上げている。この作品が一般的には全然ヒットしなかったという事は、北野武にとって一つの不幸として働いたが(この後、北野武は自殺未遂とも言えるバイク事故を起こしている)、芸術家として北野武はこの作品を正当に作り上げたのだと僕は思う。これだけの傑作を作って世に評価されず、落ち込んでバイク事故まで起こしたと考えると、その正当性は北野武の方にあると思う。おそらく、北野武はこの作品にはかなりの自信があっただろうし、それは全く正当な事だ。

 作品に話を戻すと、この作品において重要になるのはユーモアとバイオレンスの二つである。というか、この二つを交互にペダルように押していく事で、作品は進んでいく。(それは沖縄の美しい風景と、殺人の描写が交互に進むのと全く同じ事だ) では、この二つの異なる要素は何かと言われれば、それこそが北野武の本質だと言わざるを得ないだろう。北野武という芸術家の特徴的な点の一つは、彼が人間を描く気はほとんどないという事にある。北野武に出てくる人物は、そのほとんどが内面的な葛藤を持たない。だから、死とか殺人は、人形をなぎ倒していくような、ただそれだけであるような、そういう印象を受ける。

 しかし、だからといって北野武のキャラクターが人形そのものであるという事ではない。それは北野武の人間観だと言った方が正当だろう。通常、人は知人や恋人が死ねばむせび泣いたり悲しんだりするが、そういう芝居やシーンは北野武がもっとも嫌う所である。だから、死は淡々として処理される。しかし、淡々として処理されるその背後に、死の悲しみは余韻として残される。この余韻、空白としての感情は北野武がどれほど意図しているのか、それを想像するのは難しい。(あるいはこれは僕が読みすぎている可能性もある)

 この映画で最も印象に残るシーンはやはり、北野武演じる村川が、ロシアンルーレット的な遊びで自分のこめかみに銃を当て、引き金を引くシーンだろう。僕はこのシーンが北野武のもっとも奥底にある心象風景だという気がしてならない。

 村川は、ここで部下二人にロシアンルーレットの「遊び」を強要する。三人でじゃんけんして、負けた方がリボルバーのピストルを向けられ、引き金を引かれる。そして最後の一発というところで、村川が負ける。村川は自分のこめかみに銃を当て、押しとどめる部下二人に対してニヤッとした微笑を送りつつ、引き金をひく。しかし、銃は発砲されない。銃にもともと弾は入っておらず、それは村川が弾を入れたかのように見せたトリックだった。

 この場面ーー村川…北野武が部下二人に笑いかけながら引き金を引くシーンというのは、まさに北野武が描きたかった場面だという風に見える。もっと言うと、この場面を描くためにこの映画全編があると言ってもいいほどだ。この場面では、北野武のユーモアと残虐性とが交差している。ここでは、死に対する欲望と、それをユーモアでいなそうという欲求の二つが同時に垣間見えている。元々、北野武の「笑い」は自分の死に対する恐れ、怯えから来ていたと言ってもよいかもしれない。あるいは北野武自身が、三島由紀夫と同様に、自分が死の方向へ絶えず傾斜していくという事を知っていたからこそ、それを避けるようにユーモアでなんとかその場をつないでいたとのかもしれない。

 笑いは死に対する特効薬なのか?という点は一度考えてみる必要がある。例えば、テレビでは「ドッキリ番組」というものがやっている。そこでは例えば、タレントの一人がヤクザに絡まれたり、という事がある。この時、視聴者は、このヤクザが偽物だという事を知っているが、このタレントはヤクザが偽物だとは知らない。だとしたら、このタレントの恐怖は本物の恐怖ではないのか?と、テレビを見ている人間は決して考えない。彼らは物事を滑稽と見る立場に慣れている。そこで、タレントが怖い目にあっているのを見て、健全に笑う事ができる。しかし、この笑い…視聴者の笑いとは実は、あまりにも酷く残酷な立場ではないのか、という事が、事実を知らされないタレントの立場からは出てくる。しかし、傍観者である人々はこの視点を無視する。

 北野武のこの場面、頭にピストルを当て、引き金を引くシーンでは、視聴者は、ピストルの弾倉が実は空だという事を教えられていない。だから、見ていてものすごく怖くなる。もし、このシーンの前にそれがトリックだという事を先に知らされていたら、視聴者は安心してこの場面を見れただろう。しかし、実際はそうではない。

 では、この場面で北野武は何を見せたかったのか? それは北野武自身の死への欲望と、またそれに対するユーモアによる回避の両方だとしか言えないだろう。もっと言えば、北野武というのが何かというのは、この場面に凝縮されているとも言える。

 北野武の映画を見ればわかるが、北野武は明らかに人間の内面を掘り下げる資質は持っていない。彼は内面を掘り下げるのはかなり苦手である。そしてその変わりに、両極にユーモアと死とが現れる。そしてその反復が北野武映画の本質となっていると思う。この「ソナチネ」という作品は、北野武が自分のそうした資質に真剣に向かい合い、それを作品の形として結晶化させられた稀有な作品だと思う。そういう意味で、この作品は北野武の映画の頂点を示すものではないかと思う。そしてこの死とユーモアがどのような意味を持つのか?という点は、またもっと巨大な尺度を持ってきて計るしかないと思う。しかしとりあえずの所は、これほどの映画を作れる人はそうそういないという事を指摘しておけば、十分であるように思う。

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