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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

抽象的近況報告


 最近、批評やエッセイの形式では自分の言いたい事は言えないという感じがしている。それで構造を持った「小説」という形にトライしている。

 僕の作品が良いか悪いかはどうでも良い事だが、空間的な自意識が構造を持つ事によって時間ーーつまり、一つの物語性を持つという事は、芸術や哲学の進歩にとっては必然的な事であるように思う。

 「言いたい事」というのは、言いたいままに書き散らしていても駄目なのだという事を今の自分は感じつつある。別な言い方をすると、言いたい事を言うというのは、世界という「敵」に大して己というものをぶつける、という行為である。しかし、敵をも取り込み、一つの作品として構造を持つ事…というのが今の自分にとっては大切な事だ。

 なぜこの世界に物語があるのか?というのは、これだけシナリオや小説が氾濫している世界においても、それほどまじめには考えられていないと思う。僕は…その答えは、元々、空間的な自己意識が自己を対象化するためにあると思っている。別の言い方をすれば、若い時は可能性に満ちあふれているが、年を取ると、自分が世界の中の結晶物である事が実感される。可能性が凝固すると、その他の可能性(凝固されたもの以外)を排除する事になるので、それは可能性の死である。しかし、また同時に、可能性が死に、実体として凝固しなければ、この実体が運動する「物語」は生まれない。

 何を言っているのかわかりにくいだろうが、今自分はそういう事を考えている。それで、このブログに関しても多少惰性で書いている所がある。芸術についての考えは去年辺りにあらかた言ってしまったので、もうそれほど言う事はないと思う。(というより、元々自分の言っている事は小林秀雄やシオランが言ってしまっているという感じもする)

 とりあえず、今は自分はそんな風な事を考えている。これで近況報告終わり、ということにする。

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希望と絶望/挫折と栄光

 


ダンテ、孔子、マキャベリなどは現実的には、挫折した政治家であった。彼らは現実的には挫折した人間だった。

 彼らがもしうまく時代の波に乗る事ができれば、ナポレオンのような絶対的な存在になったかもしれない。しかし、彼らは現実には挫折した。しかし、その挫折から新たな栄光が生まれた。彼らの挫折が、言葉によってまた別の生を受ける事となった。それが「論語」であり「神曲」であり「君主論」であったように思う。

 彼らがもし、現実的に挫折する事がなければ、このような書物は生まれなかったように思う。ある種の人々は挫折と成功とは反対のものだと考える。ある種の人々は「自分は夢を叶えようと思ったが挫折した」と言う。しかし、夢というのはそういうものではないように思う。ダンテや孔子、マキャベリはそれを実証しているように思う。

 ある時代における個人の絶望や悲嘆が次の時代の曙光となる事はある。ヘーゲルの歴史哲学には以下の様な一節がある。

 『…もっとも高貴なグラックス兄弟でさえ、あからさまな不法や暴力に敗れたというだけでなく、国全体に行き渡る堕落や不法にみずからまきこまれています。しかし、これらの個人たちが意思し行動したことは、世界精神という立場からして正当化されるもので、最後に勝利を収めるのはかれらです』

 我々にとって最後に勝利を収めるのが誰かはわからない。だからこそ、我々は希望を喪ってはならないのだと思う。つまりーー妙な話だがーー我々は自らの中に絶望を持つ事に対して希望を喪ってはならない。この時代における絶望が次の時代に、新たな希望となる。『世界精神』に則って、我々はそう信じてもいいように思う。

ヘーゲル哲学感想

 最近、ヘーゲルの歴史哲学講義を読んでいる。

 ヘーゲルに関してはニーチェと対立するものだと勝手に思い込んでいたが、実際はそうでもないと読んで感じた。歴史哲学講義に、「ソクラテスは道徳の説教者ではなく、むしろ道徳の発明者です」という一節があるが、そういう言い方というのはニーチェ的だと言っても良いと思う。ヘーゲルとニーチェはそれほど対立するものでもないという風に感じた。

 ヘーゲルと言えば、弁証法、止揚、という言い方がよくなされるが、実際ヘーゲルにぶち当たるとそんなに簡単に整理できない哲学者だという事がわかる。もっとも、ヘーゲルの哲学の支えになっているのは、ヘーゲルが生きた時代であり、ヘーゲルが生きた地域である。ヘーゲルの同時代人としては、ゲーテ、ナポレオン、ベートーヴェンなどがいるが、これだけ名前を出しただけで、この時代、この辺りの天才達がいかに神々しい人達だったかよくわかる。ヘーゲルの哲学はそういう中で作られたものであり、それはニーチェなどの背後にある不幸感とは真逆のものがある。とはいえ、ヘーゲルと同時代だったショーペンハウエルには不幸と孤独の影があるが。

 また、ヘーゲル哲学は様々な事に対して言及しており、色々な事を知りたい自分のような人間にとっては好都合にできあがっている。法律、社会、国家の仕組みから自然科学、意識、理性、精神、それから芸術など。ヘーゲルは全ての事を統合的に取り扱っている。しかし、ヘーゲルがそういう事ができたのは、ヘーゲルにある一つの確定的視点があるからである。だから、ヘーゲルを取り上げるのなら、この確定的視点について議論しなければならない。ここを突かなければ、ヘーゲルについては否定も肯定もできないと思う。

 ヘーゲルについては書きたい事がまだまだあるが、それはまた今度にしようと思う。おそらく、哲学が好きな人でもヘーゲルは「難解そう」と避けている人がいると思うが(僕も避けていた)、ヘーゲルは基本的に、小説家的な構造を持った哲学者である。その事を頭に入れていれば、ヘーゲルは読みやすくなると思う。小説家としてのヘーゲルが取り扱う主人公は、精神、あるいは理性と呼ばれるものである。ヘーゲル哲学においては、精神や理性がいかに自己発見をしていくかというダイナミックな物語がその本質にある。このダイナミックさを感じられれば、細かな点を理解できなくとも(半端な学者が「誤読」だの「誤訳」だの騒いでも)、ヘーゲルに関しては大方理解できたという事になるのではないかと思う。

覚めない夢の中で 


 


 僕の記憶では、吉本隆明は「理想社会は〇〇のように構想できる」みたいな事を言っていたと思う。ところが、ニーチェはそれよりも二歩も三歩も進んでおり、ニーチェは「理想社会は天才と矛盾する」と言っていた(と思う)。

 もちろん、吉本隆明はニーチェを読んでいたし、知ってもいただろう。しかし、吉本はニーチェを綺麗に整理した所から始めた。あるいは始めたと信じた。しかし、本当はそうではないのではないか。…僕は以前は吉本隆明が好きだったが、今はもうそうではない。

 僕達が将来において理想社会はこのようになる、と発言する事はできる。夢見る事はできる。しかし、それはいつまでも夢のままにとどまるのではないか、という気が僕にはしている。というより、むしろ、それこそが人間の本質ではないか。

 神は(と言わせてもらおう)人間を前に進ませる為に、人間の内に虚栄心を投げ込んだ。神は我々の内に、今の自分を捨て、新たな自分に希望を見出すように仕向けた。だから、我々は絶えず、今の自分を失い、未来の自分に希望を見出そうとする。かつて、野菜などを「旬」ではない時期に食す事は我々の夢だった。今の時代、我々は旬ではない野菜も平気でスーパーで買える。しかし、その事を天に感謝する人を僕は見た事がない。

 従って、我々は、凡人でありながら、理想社会という構想と矛盾するように僕には見える。ある種の人々は、過去を見渡し、過去の人々に色々と足りない欠点を見つけ出す。過去の人々には、今我々が得ている〇〇が足りないのだ、と言う。そして、そうした人たちは未来を見て、あの場所にこそ、自分の理想があると考える。しかし、僕は思う。理想は「あの場所」にないのではないか。それは結局の所、雄大な青い鳥症候群ではないのか。

 東大の野矢茂樹は「哲学のゴール地点は普通の人のスタート地点だ」というような事を言っていたが、僕もどちらかと言うとそれに賛成だ。(野矢はおそらくウィトゲンシュタインを念頭に置いて言っているだろうが) おそらく、我々が理想として追い求めているものは「あの場所」にあるのではなく「今ここ」にあるのではないか。もしそうでなければ、我々は永遠に幻の蝶を追い続ける子供のような存在になってしまうだろう。そうではなく、幻を作り出しているのは、我々の認識である。主観であるーーと気づいた時、幻の蝶は止む。夢は消え、現実は現れる。しかし、それは全てが夢だという現実だ。

 哲学は現実の役に立たないと人は言うーーー。言葉は所詮、言葉に過ぎない、と。しかし、現実と我々が名づけているものは何であるのか、と我々が問う所にもう一つの現実が現れる。人生の目標は、我々が設定した目標を達成する事にあるのではない。そうではなく、そう設定した我々そのものの存在を発見する事にある。そうではないか。ーー僕は今そういう事を考えている。

 しかし、こういう事を言うと、「君はあまりに主観的だ」と批判されるのは目に見えている。しかし、僕の視点からすれば、その批判は逆に見える。「あなたがそう言うのは、自分に対してあまりに「主観的」だからではないのか」と。人が自己に対して反省的でない場合、客観が、現実が現れる。そこで人は夢を忘れる。多くの人は、自らが見ているものが夢だとは考えもしないからこそ、自分は客観を掴んでいると考える。しかし、答えは逆ではないのか。人々が自分が見ているのは夢だと気づいていない分、彼らは夢から覚める事ができないのではないか。そして彼らが「これは現実だ!」と叫ぶ度に、その夢(=現実)は濃くなっていくのではないか。

 しかし、これ以上はもうだまる事にしよう。僕自身混乱しており、それほど多くの事はわかっていない。ただ一つ、言える事はーーーーーいや、ただ一つ言える事など一つもない。我々は各々の夢を紡いで、それを現実だと主張するに違いない。だとすると、徒手空拳の「作家もどき」にできる事はただ一つーーーーーそれを描く事だ。それしかない。

カフカ的孤独

 


 カフカは生涯の終わりに自分の作品を全て燃やしてくれるように親友のマックス・ブロートに頼んだ。しかし、マックス・ブロートはカフカの作品を燃やさなかった。結果、カフカの作品は世に残り、世界的な文学となった。

 僕は東大出身のタレントが「大学では文学部で、カフカを研究していました」と言うのを聞いた事がある。僕はそれを聞いて「東大でカフカかよ!」と思ったが、この「かよ!」がなぜそうなのかと言うと、一言で説明するのは難しい気がする。

 ある面から言えば、カフカの作品は、それを東大のような場所で研究するよりも、それを燃やした方が『正当な理解』である。カフカの作品の本質にはそういう点が含まれている。(バタイユはそれを知っていた) カフカの諸作品は、最後に燃やされる事を心から望んでいたのではないか。…しかしもちろん、一人の文学好きとして、本当にカフカの作品が燃やされるべきだった、と僕が考えているわけではない。もし、そうだったら、僕はカフカを全く知る事ができなくなってしまう。しかし、それはカフカ及びカフカの作品にとって、最も正当な理解だったのではないか…という考えは僕の頭を離れない。

 ゴーゴリは「死せる魂」の第二部を焼き払った。シェストフによれば、そうするより他、真理を守る術がなかったのだと言う。我々にとって必要なのはカフカの作品であり、ゴーゴリの作品である。逆に、我々に不要なのは、生きたゴーゴリであり、生きたカフカである。カフカが己の宿命に敗北する事を感じ、そしてそれを作品に託し、死んだという事。そしてカフカは自作品を燃やしてくれと頼んだという事。そこに、生きたカフカと、死せる作品とのどうしようもな接点が、運命が、宿命が存在する。しかし、悠々とカフカを研究している者達にカフカの宿命などは関係がない。彼らに必要なのはカフカの作品のみだからだ。もっと言えば、彼らが自在に研究するその手を振るえるような、そんな世界的作家、世界的作品だけだからだ。しかし、本当にこの世界で生きて、カフカのような作品を生み出すとは、研究者らが研究し尽くしたものとは全く違う事ではないか。

 僕は僕個人の運命のようなものを背負っている。しかし、誰も僕を『カフカ的存在』とは考えまい。何故だろう? 僕に、カフカのような才能はないからだろうか。あるいは僕がまさにカフカに似ているという理由によって、僕は人々の目に全く映らないのではないか。つまる所、僕が生きている事、僕が何かを為す事、為そうとする事がこの世界の可視的領域に入らないのは、僕がまさに世界の本質を握っているからではないか? そういう事を僕はふと思う。

 しかし、それは僕の自惚れにすぎない事を、僕はやはり知っている。イエス・キリストが故郷に帰った時「あいつはただの大工の息子じゃないか」と揶揄された。つまり、聖人たるイエスも「大工の息子」にすぎない。それは、真実である。だとすると、イエスはただの大工の息子にすぎないのか? …もちろん、そうであろう。しかし、そう揶揄している人々が、何百年か後に、イエス・キリストを崇め奉るという事はありうる。あるいは、歴史的にはずっとそんな事が起こってきた。では、これは滑稽な事だろうか? 笑える事だろうか? しかし、それを滑稽と見る地点は一体、どのような地点だろうか?

 ……僕は今、自身の中に孤独を感じている。しかし、それはカフカのそれとは似ても似つかないものである。だから、僕がこの先、東大の文学部で研究対象となる事はなかろう。しかし、もしかしたら、本当のカフカは今、世界中のどこでも「研究対象」になっていないのもかしれない。僕はこの夏のさなかに、ふとそういう事を考えた。

 村上春樹はファッションか否か



 先日、本棚に村上春樹の「風の歌を聴け」が刺さっていたので、ふと手にとって読んでみた。すると、(村上春樹なかなかいいじゃん)と割と普通の事を思った。僕個人、村上春樹に対する批判は色々あるが、しかし、そうは言っても村上春樹はやはり、純文学と称するその他の作家より頭二つ分くらい飛び抜けていい作家である。僕は素直にそう思った。

 『風の歌を聴け』のアマゾンレビューには、この作品はおしゃれな生活を描いているが、それを真似しようとするとおかしな事になってしまう、というレビューがある。また最近、ネットでは村上春樹に対しては「ファッション」だという見方をするのが通例になっているようだ。

 僕個人はそういう考えは間違っていると思う。それで、その事を簡単にここに書いておきたい。まあ今さら、村上春樹を擁護しても仕方ないが、しかしあまりにも、適当な批判が多いように見えるので、自分なりの考えを書いておこうと思う。

 まず、『風の歌を聴け』という作品は単に主人公がおしゃれな生活を営む作品ではない。本を読み、ビールを飲んで友人と会話し、女と寝る、それだけの作品ではない。もし、それだけの作品なら、僕もなんとも思わなかっただろう。問題はそうした、一見おしゃれな、ファッション的な生活を営みながらも、主人公がそこに一種の倦怠感を覚えているというその二重性にある。そしてそれが作者自身の視点でもある。

 この二重性の問題が端的に言って、村上春樹の立ち位置だと言っても良いだろう。そしてこの二重性の問題はそこまで簡単ではない。僕の目からすれば、村上春樹を「ファッション」だと論じるのは、この二重性の問題の一方しか取り上げていない。つまり、本を読み、ビールを飲み、女と寝るという生活の表面の側しか問題にしていない。村上春樹に希少性、あるいは価値があるとすれば、そこに倦怠感を感じる感受性があるという事である。そしてこの感受性は、村上龍「テニスボーイの憂鬱」などと同型のものだと思う。

 もちろん、現在から見れば、こうした生活の表面は、いくぶんか古臭いものに見える。村上春樹がどう考えようと、彼も社会が生んだ一人の子である。彼が描いた生活は戦後の安定した平和がもたらしたもので、ビール、女性、本、ドライブ、料理と言っ作品を形作る様々な要素も、今から見れば古臭いものに見える。現在では、他者との間の距離はより伸びたし、それに何より、戦後の平和、その飽和期を過ぎて、我々は今一つの危機に入りつつある。我々は今黒い予感を携えつつ、別の時代に入りつつある。しかし、村上春樹の感性は以前、八十年代にとどまっている。彼の社会洞察能力は結局、彼が青春を過ごした時期から離れられていない。その点は今の世代から見れば不服であるのは当然だろう。

 しかし、だからと言って村上春樹をファッションと単純に批判するのは無理であると思う。確かに表面的にはそう見えるかもしれないが、村上春樹はそうした生活と戯れつつ、そこに何かしらの倦怠感を覚えている。村上春樹がより強い思想家であれば、この倦怠感の意味、また社会、生活のあり方をより深く掘り下げ、それらを相対化し、一つの形に結晶化しただろう。しかし、村上春樹はそれだけの作家ではなかった。とはいえ、彼はただのファッション的な作家ではない。繰り返し言うが、彼はそれらに対して倦怠感を感じ、その感性を作品に結晶化できたのである。だから、この二重性を論じなければ、村上春樹を論じた事にならないと思う。

 しかし、今から村上春樹を振り返れば、もう彼の時代ではないという事はほぼ明白であると思う。最近の村上春樹は「ドストエフスキーは~」みたいな事を言っているが、ドストエフスキーと村上春樹では全く力量が違ってしまう。ドストエフスキーはこの世界そのものを相手に争闘する事ができた思想的巨人だったが、村上春樹が同じ事をやろうとすると、表面的な政治問題でも取り上げる他なくなる。ドストエフスキーは社会の奥底に蠢くものを巧妙に取り出す事ができたが、村上春樹では社会の表面にあるものしか取り出せない。それは決定的な差である。しかし、そんな差を問題にできるほど、僕個人も力があるわけではない。それで、相対的に考えれば、村上春樹は「結構良い作家」という評価に落ち着く。そういう意味では、村上春樹をファッションと論じている側も、そう論じる側が一つのファッションに陥っていないか、確認する必要があるように思う。声高に批判するのは簡単である。しかし、内容を吟味する事は難しい。結局の所、自己省察というものは作家にとっても批評家にとっても、かなり難しい事なのだ。僕はそう思う。

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