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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

社会は異質なものを許容し、摂取する事によって進歩する

 


 ある社会が進歩する為には、その社会にとっては外部的なもの、一見異質と思われるものを許容しなければならない。ある社会を一つの生態と考えるなら、その生態は、その生態にとって異質なもの、反抗的なものを認め、それを摂取する事によって、それ自体進歩する。最近、そういう事に気がついた。

 この事は、アメリカとソ連とを比べてみればわかりやすいと思う。体制に反するものを全て切り捨てたソ連と、体制に反抗的と思われるロック音楽のようなものも許容したアメリカ社会と、どちらがより発展、進歩したかと言えば、やはりアメリカの方だったと思う。もちろん、進歩の原因はそれだけではないだろうが。
 
 最近、この国、この社会はずいぶんと排他的になってきている気がする。おそらく、社会そのものが貧窮してくると、その責任を「外部」の人間に押し付けようとする圧力みたいなものが働くのかもしれない。また、反社会的、非社会的なものに対する排外行動も強くなる。そしてそうした行為は見かけ上、この社会を守り、この社会のためであるという体裁を取る。それらは一見功利的に見えるが、しかし、それは功利の皮を被った感情論であると思う。一部の学者連が、彼らの偏狭な思考、感情から発して、勝手なデータを寄せ集めて、自分達に都合の良い理屈をこねて、それを科学的と称する。これは昔からやられてきた事だ。

 だから、ある意味で、どんな科学や論理性よりも、まず高潔な心が必要とされると言う事もできる。論理や科学それ自体が絶対ではなく、それが向かう先が何であるかがより重大な事だ。しかし、正論、正論の連続でそんな事は忘れられかけている。

 正しいものが何であるかという事を越えて、この世界は存在しているように僕には見える。自分達にとって異質なものを認可できず、排除する社会は、その清潔性故に滅びるしかないだろう。例えば、僕がこれまで書いてきた文章なんてものは大抵非社会的なものである。その事をある人に、「もう少し社会に対して親和的にならないか」と言われた事がある。しかし、僕からすれば答えは逆である。ある事が非社会的であるという事が、究極的にはその社会の為になるという事もあるのだ。社会はそのような不自由性を許容する事で、より自由になるのだ。

 もちろん、ただ単に反社会的な、犯罪行為や不法行為は取り締まられるべきだろう。しかし、正義が横行する時代は危機の時代であると思う。正しいものの影に隠れて、それ以上に大切なものが失われていく。ニーチェが「善悪の彼岸」というのは、彼には善悪以上に大切な人間の営為が見えていたからではないか。僕は、そういう気がする。

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 "読書は何の役にも立たない"



 僕は中学生ぐらいの頃から、かっこつけて難しい本を読む(ふりをする)癖みたいなものがあった。その「癖」は年々加速して、おかげで、生きていくにはおそらく必要ないであろう知識体系を脳に詰め込んで生きるはめになっている。

 今から振り返れば、中学、高校と、僕は「本好きの変わった奴」という見方をクラスメイトにされていたと思う。しかし、何故、僕がそんな風に本の世界に逃げ込まざるを得ないのか。それについて僕にその答えを教えてくれる人は誰もいなかった。僕自身もその答えが未だによくわからないままである。

 たまに、インターネットなどで「世界のエリートはこれだけ読書している」みたいな記事を見かける。また、年収が高いとか、社会的地位があるという事と、読書を結びつける記事なんかもたまに見かける。僕はそういう記事を見かけるといつも、そういう事を書く人は本を読んだ事が全然ないのだろうと思う。本を読むという事は一種の悪徳である。しかし、それが真にその人の役に立つのは、それが悪徳である事を知っている場合に限る。

 本を読む事によって何かに役立てよう、就活に役立てよう、もてるようになろう、年収をあげよう、と「頑張っている」人達には、僕というボロ切れのような人間を見せてやりたい気持ちになる。僕は、僕自身を指さしてこう言うだろう。「こいつは他の人より、沢山難しい本を読んだ人間だ。しかし、それによってこいつは、こんなどうしようもない人間になってしまった」 実際、今の僕の境遇を羨む人間がこの人間世界に一人もいないという事は断言できる。では、読書というのは何の役に立つのだろうか。

 …無論、何の役にも立たない。しかし、ただ一つその効用を上げれば、それは世の人間が、「読書を何かの役に立たせよう」とする時の、「役に立つ」という概念自体が大した事ではないと知る事ができるという事だ。読書は読書自身にとって役に立つ。それは己にとって役に立つ、というより、むしろ、己自身の一部となっていくのである。これは、無償であるという事でもないし、自分の為、という事でもない。しかし、世間的にはこの二つの成因でしか理解できないだろう。だが、僕はその二つの理由を拒否する。本を読む事によって、僕という存在は次第に膨らんでいく。しかし、その事が僕の年収を増すわけでもなければ、僕の寿命が伸びるわけでもない。どちらでもない。しかし、僕はいい加減、この形骸化した市民社会の、勝手な測量棒にうんざりしている。全ての事を数字に置き換えたからと言って、全てが数字の結果として存在するのではない。誰がどう言おうと、世界はそのままにあるのだ。

 本を読む事によって、人は書物の世界にのめりこむかもしれない。しかし、それによって彼は人間でなくなるかもしれない。彼の内面は、彼の周囲の人物よりも豊富なものになるかもしれない。しかし、世界にはその内面の豊富さを理解できる人はごく少ない。だから、書物は(ほとんど)役に立たない。そういうわけで、書物はまた書物の世界に帰っていく。しかし、本当は、そうした個人の内面を誰かが読まなければならないのだ。僕はそう思う。誰かが、この一冊の書物を読まなければならないのだ。
 
 しかし、この世界はそれとは違う方向に走って行くであろう。この世界において役に立つとか役に立たないとかは、わかりやすい場所にあるわかりやすいものであり続けるだろう。だから、僕はやはり、次のように極言する。「読書は何の役にも立たない」 そしてこの言葉の先には余人に見えないように、密かにこう書かれている事だろう。(しかし、それは役に立つという事が役に立たない事を教える。そして、世間が役に立たないと判断した領域において、それはあまりに役に立つ) しかし、それは見えない言葉で書かれているので、誰にも読む事はできないだろう。

 …と、いうわけで、読書は何の役にも立たない。それが読書に毒された人間の答えだ。


 歴史における一回限りの現象としての「ベートーヴェン」



 亜流というのは常に、本質を見ないものだ。亜流は必ず、外側の形式しか見ない。

 ある芸術家がある形式を生み出すに至るまでは、必ずそこに宿命の基調音が鳴っている。それがなければ、本物の芸術家とはいえない。しかし、これを逆さに見て、形式的な側面からのみ、見る事ができる。しかし、形式もつぶさに点検すれば、次のことがわかるだろう。

 つまり、ある芸術家がある形式を生み出すに至った過程は、必ず、その芸術家が体験した個々の事例や、時代的制約に引っ張られている。ある観点からすれば、ある芸術家は必ず、その時代に縛られた形式を持っている。だから、よくある、「デカルトは〇〇世紀的発想をした」みたいな考え方もそうした点から出てくる。

 しかし、この点はよく考えてみた方が良いだろう。ある芸術家や哲学者、政治家、科学者などがそのような考え方をし、そのような行為をしたのは何故か。これを芸術の観点から考えていこう。例えば、ベートーヴェンはあのような曲を作った。ベートーヴェンはあの時代の物理的制約をうまく使って「第九」という曲を作った。そこでは、コーラスやバイオリンやピアノが使われている(と思う、ちゃんと調べてはいない)。それを現代の我々は、一つの絶対的な形式として聞く。もし、我々がその楽譜を多少書き換えた上で、「これはベートーヴェンの第九です」と言って、演奏会で演奏したとすれば、それはおそらく、非難される事だろう。何故なら、それは完璧なベートーヴェンの「第九」ではないからだ。

 しかし、問題は、「完璧なベートーヴェンの『第九』」とは何か、という事だ。ここまで思考を引っ張ってくれば、ややこしい話になってくる。しかし、まさにこの「ややこしい問題」にベートーヴェンその人は取り組んだのではないのか。そして、世の亜流は決して、この問題に踏み入れはしない。僕に言わせれば、本質というのは、それ自体、実体が存在しないものである。それは仏教における「空」の概念とぴったり一致する。しかし、空は無ではない。同じように、本質も無ではない。それは形を持たない。そして形を持たないが故に、あらゆる形式を支配するものである。しかし、人はこの法則を決して理解しはしないだろう。人が見るのはただ形式のみであるから。

 ベートーヴェンという一個人が、ある思想や霊感に捉えられ、「第九」という曲を作り出した。そこでは、どのような関係があるのか。例えば、それにはこういう風に言う事もできる。つまり、芸術家にとっては、「それを表現する直前」がその芸術家自身にとって一番誠実な姿である、という事だ。つまり、ある思想や霊感は、形となって表現されるや否や、形式に束縛される事になる。だから、芸術は形式になる前の段階が一番、美しい姿をしているのではないか。…しかし、実際、自分でなんやかんやと手を動かしながらやっていると、こういう言い草は嘘を含んでいるという事がわかる。つまり、ある種の思想やイデーは、表現される事によって、はじめて芸術家にとっても目に見える所のものとなり、それにより、「自分はそうした事を考えていたのか」「自分はそういう事を望んでいたのか」と知る事ができるようになるからである。この辺りは、かなり面倒な問題がある。芸術家は、おそらく、普通の人が考えているほどに、自分の作っている作品を知悉しているわけではない。しかし、彼は彼の肉体を動かす事によって、彼が考えている以上のものを表現していく。ここに芸術における肉体性が関与してくる。芸術家が自身の無意識を作品に参入させる時は、この人物の肉体性が必ず大きく寄与している。

 話を元に戻そう。…ベートーヴェンが「第九」という楽曲を作り、それを世に送り込んだとする。すると、ベートーヴェンの専門家、クラシックの専門家はこの曲を詳しく、物理的、形式的に分析するかもしれない。しかし、本質的な芸術作品の場合、彼らはそうした事をするからこそ、間違えてしまうのである。そしてこの場合、この曲に感動して、単に涙を流した人の方が正当な立場にいる。だが、この正当な立場から、「ベートーヴェンのようなアーティストになろう」と望むや否や、人は路頭に迷う。そして、できあがるのは一群の「ベートーヴェンみたいな曲」である。しかし、ここでは路頭に迷うのがまず、正しい道の進み方だ。この点において、何かを目指す人間は、世界の内で既に決められた道に、自分の道がない事に絶望するだろう。この場合もまた、絶望する方が、絶望しないよりもはるかに正当である。

 僕は以前に、知り合いから、その人が書いた小説を見せられた事がある。それを読んでくれというわけだ。僕はそれを読んで、特にいいとも悪いとも思わなかった。そこに現れているのは「こういうのは文学っぽいだろう」という雰囲気、態度だけだった。その場合、僕は否定も肯定もできない。はっきり言って、そうした作品はそれ以前の段階にある。そしてここで明らかに欠けているのは、作者の宿命である。作者と作品との間にある必然的な関係である。作者と作品との間の必然的な関係を規定するのは、作者の宿命である。

 人間は元々、精神という自由なものを抱いてこの世界に生まれる。しかし、この人物はその人物の、立場、国籍、性別、身体的特徴、性格、生まれ育ち、そしてその人物が生まれた時代そのもの、そうしたものによって囚われざるを得ない。そしてそこから哲学的問い「何故、私はこの時代のこの場所に生まれたのか?」という問いが現れてくる。しかし、答えは逆である。ある時代、ある場所の個別性に生まれたから、我々はそのように考える事ができるのだ。そしてその問いよりははるかに大切なのは、そのように問う事ができるのは、精神という自由なものを持つ人間だけなのだ。

 芸術でも同じ事が言える。確かに、ベートーヴェンは、あのような形式において「第九」という楽曲を創造した。しかし、それは彼がある時代、ある個人として生まれた事、そうした拘束的な一個人として存在したという事と、彼が精神の自由を望んだという、その差異によってはじめて育まれる類のものである。確かに、人間は人間であるという理由によって様々なものに拘束される。あらゆる形式に、人はがんじがらめにされる。しかし、そこから自由へと飛び上がろうとする時、人間は、その人間を拘束する様々なものを駆使して、精神の自由をまさに表現するのである。

 だから、亜流の芸術家達にとっては、ピアノやバイオリン、あるいは様々な詩の形式とか、絵画の技法などは、彼らを拘束する道具でしかない。しかし、彼らはむしろ、拘束される方が嬉しいのである。亜流の芸術家達は皆、技法そのものが彼らの目的なので、まさに技法によって彼らそのものが制限される。表面的にどれほどピアノやバイオリンがうまくても、それを自己表現の道具としていないのであれば、それは「ただそれだけ」の事である。結局、そうした人達は、ピアノやバイオリンを使いこなしているのではなく、むしろ、それらの道具やそれらの操法そのものに使役されているのである。

 ベートーヴェンが「第九」という楽曲を作ったという事は歴史的事実であるから、それを後の人間が変える事はできない。そして、この変える事ができない、という点から様々な、形式的なベートーヴェン理解、批評、物真似などが出てくる。そしてその場合、欠けているのは、ベートーヴェンの宿命である。ただ、それだけである。

 ある一個人が、ある時代的、個人的制約を背負って、一つの作品を生み出すという事にはいかなるものがあるだろうか。僕はそこにあるのは、一つの目に見えない力であると思う。つまり、その時代に散らばる様々な素材を織り込む事によって一つの芸術作品を創造する事…しかし、それを織っているその手自体は、その織物の中には見えない。人は、この織物の美しさに驚嘆する。そしてこの人物を天才と名付けるかもしれない。しかし、本当はそうではない。そうではなく、そこにあるのは、その人物が時代的制約を越えようとして、ある精神的自由に辿り着こうとする、その悪戦苦闘の跡なのである。もっと言えば、この世界に精神の自由が立証されるのは、それが現に存在するからではない。そうではなく、それはこの世界にそのまま存在できないから「こそ」、それを存在させようと努力した、その跡が残るからである。そしてこの跡が芸術作品として残ったり、ある政治的行為となって現れたりする。しかし、人はそれを生み出したものを見ず、生み出された結果のみを見る。そして結果から逆算して、自分達に適用しようとすると、大きな間違いを犯す事になる。何故なら、ある結果が生み出されるにあたって、そこにあったのは、ある時代的制約とある個人の宿命だからである。人は他人の宿命を所有する事はできないし、自分の生まれた時代を過去に戻す事はできない。だからこそ、ベートーヴェンっぽい曲というのが、結局、結果としてはもっともベートーヴェンの曲から離れるという事になる。

 ベートーヴェンはある時代にある個人として生まれた歴史的存在だった。しかし、その楽曲は、彼の個別性を越えて、大きな普遍性に到達した。そして、彼が彼の内心に普遍性を持っているという理由によって、彼は世界の中で十分に孤独であった事だろう。何故なら人は、自らの中に個別性しか抱いていないからだ。それぞれが、自分の立場にあまりに固執しているからだ。そしてこうした差異が様々な物語を生み出してきた。そしてこの点で重要なのは、ベートーヴェンという一人の人間が自分の肩に背負った宿命である。彼は彼の宿命を辿る事によって、全人類的なものへと到達した。しかし、それはある形式に拘束された。拘束されざるを得なかった。そして現代の我々が知った顔でこの形式を語る時ーー我々は必ずや、ベートーヴェンという人物を誤解する事になる。彼にあっては形式を支配して一つの作品を創作したのにも関わらず、我々はその支配の方法については見ないからである。

 だから、ベートーヴェンはやはり、歴史における一回限りの現象である。そして、この時代において、ベートーヴェンたろうとする事は、まるでベートーヴェンとは似ても似つかない姿となるだろう。現代のベートーヴェンは、まさにその人物がベートーヴェン的だという理由によって、ベートーヴェン演奏者やベートーヴェン批評者からは見向きもされないだろう。ここに、おそらく、形式と本質との根底的な闘争がある。そしてこの闘争は、この先も引き続いて行われるだろう。そしてこの時、現代のベートーヴェンは、彼が全人類的であるという理由によって、まさに全人類から孤立するだろう。何故か。それは、この人物以外の人間はほとんど全人類なんてものに興味がなく、自分の立場しか知らないか、偽善的に人類を想起するにとどまるからである。だから、この人物は普遍的であるという理由によって世界から孤立するのだ。

 しかし、この人物の歌う歌はやがて、この世界を覆うだろう。また、そうした闘争は過去にずっと続いてきたし、これからも続いていくだろう。僕はその闘争の歴史を感じる。そして自分もその闘争の一部である事を、うっすらと感じる。今はそういう気がする。

又吉直樹の芥川賞受賞から振り返る文学界





 芸人の又吉直樹芥川賞を取ったという事で少し文章を書いたが、もう少しきちんと書く事にする。


 僕は本屋で、「火花」という作品を手に取ってパラパラ見たが、大した感想も覚えなかった。いいとも悪いとも思えなかったし、さほど興味の湧くものではなかった。


 一応、僕個人も作家志望なので、芥川賞を取った作品などは、本屋でパラパラと見たりする。しかし、その場合、僕が「いいな」と思う作品はほとんどなかった。唯一、「少しいいな」と感じたのはいとうせいこうの「想像ラジオ」だ。(賞は取れなかったが) この作品には、珍しく文体というものが感じられた。


 以前から言っている事だが、基本的に現代においては芸術というのは形骸化している。僕が今一番優れたアーティストだと確信している神聖かまってちゃんというバンドは、世界に対して逆説的にしか接触できない。おそらく、その事は、この世界そのものが形骸化している事を示している。つまり、健全な一般人からすれば、神聖かまってちゃんは異端な、頭のおかしなロックバンドに見えるが、しかし、本当にそうであるのか、というのが問題だ。


 パスカルは「真に哲学をするものは哲学をバカにする」と言った。神聖かまってちゃんというバンドもまた、「ロック」というジャンルを再定義した存在として考える事ができる。つまり、神聖かまってちゃんはロックというジャンルの中で歌っているのではなく、そのジャンルを越え、そしてそれによって、ロックを再び現代に蘇らせようとしたのだ。その逆に、いかにもロックっぽいが、少しもロックではないバンドというのもたくさんある。(あえて名前はあげないが) そうしたバンドは「っぽい」のであって、ロックではない。もっと言うと、ロックとは何か、という定義を越えなければ、真のロックにはならない。


 そこから翻って、今の文学の状況は何か。どうなっているか。はっきり言ってしまうと、僕は、今、サブカルチャー系の人達の中に優秀なシナリオライターや作曲家などが現れているという状況に対して、「文学はどうしてこの程度なんだろう?」などと考えてしまう。今の文学の世界において、「まどか☆マギカ」とか「シュタインズゲート」に匹敵する作品があるだろうか? あくまでも僕個人の意見だが、少なくとも、両村上くらいの作家が二、三人、若手として出てこなければ、文学としては、アニメやゲームの優秀なクリエイター達と頭を並べる事はできないと思う。


 例えば、高橋源一郎、村上春樹、村上龍らの全盛期を想起すれば、これらの人を坂本龍一とか、中島みゆき、忌野清志郎などの優れた音楽家とくらべても、僕にはそれほど問題はないように思える。しかし、今の文学の状況はそうではない。今の文学の世界はどうなっているのか、よくしらないが、傍から見れば「文学っぽいもの」が文学の代用をしているように見える。つまる所、文学界そのものが行き詰まっている。これはクラシック音楽などでも同じではないかと思う。再三、言っている事だが、「っぽい」という事と、本物である事は似ても似つかないのだ。しかし、本物は、理解するのに時間がかかるし、力も必要になってくる。何故なら、本物はいつも、本質的な意味で「新しい」からだ。過去の天才達がその当初認められなかった例が多いのは、そういう事情による。


 それでは、今度、芸人の又吉直樹芥川賞を取ったという事をどう見ればいいのか。僕個人としてはやはり「っぽい」作品だと思うし、それ以上は特にないと思う。では何故これだけ騒がれるかと言うと、それは、大多数の人が又吉直樹という芸人をテレビを通じて知っているからだ。おそらく、「又吉直樹受賞おめでとう!」という人は、知り合いが有名な賞を取ったような感情があると思う。逆に言うと、それ以上の事はない。


 僕個人、余りに力がなくて、無理なのだが、もし現代にドストエフスキーの「罪と罰」のような作品が現れれば、世界は一変するだろう。あるいは、ソ連が実際にやったように、この世界はその作品に塗り込められた真理に恐れをなして、それを禁書扱いにするかもしれない。本物の芸術というのは、短期間であれば毒のように作用する事がある。しかし、それは最終的には人類の為になるものだ。しかし、我々が今、即時的な時間の中にいるか、究極的な時間の中にいるか、誰が知る事ができるだろう?


 話がずれたが、又吉直樹芥川賞を取ったという事は、全てがタレント化され、映像化されている現代社会の考察には持ってこいであろう。しかし、それは文学の状況を微動だに変えないどころか、文学の「いかにも文学っぽいものが文学」というよくわからない性質を強化するに留めるだろう。実際、何も変わらないだろう。もっと言うと、又吉直樹が賞を取ったという事で面白いのは、芸人が芥川賞を取ったという事象であり、それを評価している人々それ自体である。はっきり言うと、作品以上に、作品に付随する現象の方が面白い。これは作家と世界との力関係の問題である。


 もし、ここに、シェイクスピアのような真の作家が一人いるとすれば、この人物はおそらく、そうした事象そのものが何であるかを徹底的に解明する作品を生み出してしまうだろう。つまり、こうした本物の作品においては、人々が起こす事象そのものを作品の内に取り込んで、なおかつそれを解明する事によって、世界を越えるのである。そういうわけで、シェイクスピアやドストエフスキーは真に恐ろしい作家である。例えば、神聖かまってちゃんの「ロックンロールは鳴り止まないっ」という曲でも、まさに、それに対する批判、アンチ的な言葉そのものをあの楽曲が取り込んでいるという事に一つの特質がある。あの楽曲は、ああした曲を批判しようとする人達めがけて書かれたものだから、あの曲を既存の方法で批判するなら、それはまさに、あの曲の支配下に置かれている事を、批判者が自ら証明してみせるようなものだ。傑作と呼ばれものは常に、このように現実に打ち勝つ素質を秘めている。


 そうした観点から考えて、今回の、芸人が芥川賞を取ったという話はまさに、大衆がちょっとした話題に持ち出すにあたっては格好の話題である。そこで問題になるのは作品ではなく、作品の外側の現象である。言ってみれば、こういう場合、作家や作品は人々によって「描かれている」と見たほうが見やすい。よく売れるかどうかなんて事を熱心に議論している人を見るが、本質的な事はそこではない。こうした場合、作家や作品が価値を帯びるのは、人々が話題に持ち出す限りである。しかし、本物の作家や、思想家の場合はそうではない。本物の作家はまさに、人々を描くのである。人々によって描かれるのではなく。人々はその事に、一瞬嫌な感情を覚えるだろう。自分の背後、自分達が隠していたものを暴露されたような、嫌な感じがするだろう。…しかし、最後には人々はその作品を認めるだろう。何故なら、それは人々そのものを描き、なおかつそれを越えているから。つまり所、それは真実だからである。そして真実というのは、我々の脳髄がいくら頭だけで否定しても、最終的にそこに戻ってくる、そのようなものだ。


 そういうわけで、今求められているのは真の、本物の作家、アーティストであると思う。しかし、それが世の人々に求められているかどうかは僕は知らない。世の人々が欲するのは、仕事の休憩中に適当に話題とする事ができる軽い事柄かもしれないし、あるいは人々が酔う事のできるわかりやすい作品かもしれない。しかし、真の作品はそれら全てをひっくるめたものとして現れる事だろう。


 そして今の文学の状況からは、そういうものが生まれる気配はほとんど感じない。そこで、この世界で何事かを思考し、自らの理想を持つ者は、再び自分の孤独に戻らなければならない状況が生まれてくる。未知の明日は、それぞれが秘めた孤独から生まれる事だろう。

夢とリアリズム

 


 又吉直樹という芸人が芥川賞を受賞したそうだ。これにより、文学業界が盛り上がるのならそれに越した事はないという意見を見たが、僕はそうは思わない。この程度の事でしか盛り上がならない業界なら、潰れた方がいっそさっぱりするのではないかと思っている。

 僕の理解では、キルケゴールやパスカルはキリストを敬愛する余り、キリスト教を批判した。どうしても、本質というものはそういう形を取るらしい。ニーチェもおそらくは、キリストその人に対しては敵意や悪意はなかったと思う。問題は、その派生系であり、亜流である。僕個人は、文学を敬愛するあまりに、「文学界」を批判している。別に僕はキルケゴールでもパスカルでもないが、阿呆らしいという気分があるのも確かだ。
 
 現状の文学についてはもういくつか書いたので、もうこれ以上はとやかく書かない。ただ、自分自身は一つの方法論を発見しつつあるので、そちらを探索していきたい。今の僕にとっての問題は一つにはリアリズムである。今の作家らは皆似たようなリアリズムを使っているが、何故そんなリアリズムを使用しているのかと彼らに聞いても、多分明確な返答は返ってこないだろう。

 元々、人間というのは意識的な動物である。あらゆる物事は脳髄を通して、理性、意識を通してしか眺められない。と、すると、例えどんな唯物論者でも、彼が物を重視するその姿勢そのものは観念的である。すると、人間は全て観念という夢を見ているのではないか。では、リアルとは何かという問いがここで、極めて難しい問いとして発生する。つまり、あらゆる人間は全て自らの夢を織って生きているのに、その先のリアル、現実なるものは存在するのか?という問いだ。これがリアリズムにおけるもっとも重大な問題ではないかと個人的には考えている。

 この大問題を説いた人は、僕の理解では二人いる。一人がドストエフスキーであり、もう一つはセルバンテスである。セルバンテスはドン・キホーテに、そしてドストエフスキーはラスコーリニコフに、それぞれの夢を背負わせた。そして彼らは夢が破れていく様こそを、真のリアリズムとして描いた。逆に言うと、夢が、この世界の作用によって覚めていく様こそが本当の意味でのリアルである。それこそが、ドストエフスキーとセルバンテスの答えだったと思う。

 僕はこれから、その事を自分の小説というものを通じて探求していくつもりでいる。僕たちの世代は、メディアの発達により、あらゆる事が観念的になっている。あらゆる事が夢に覆われている。人間関係から、就職、いや、生から死に至るまで全てが、体の良い共同観念によって覆われている。だとすると、この夢は覚めるのか。夢が覚めれば、この人物はどうなるのか。世界はどう変わるか。どう見えるか。

 ラスコーリニコフは、思念を終えて、生活を始める。しかし、そこで物語は終わっているのである。そしてドストエフスキーは決してその先を書かなかった。つまり、生活は物事の終わりである。しかし、凡庸な我々にとっては生活こそが、スタート地点ではないのか? 文豪が生涯を使って辿り着いた地点が我々のスタート地点にすぎないとはどういう事なのか?

 牢獄から出てきたラスコーリニコフは、おそらくソーニャと凡庸な日常生活を始めるに違いない。しかし、何故それは物語とはならないのか? この点において、フィクションと現実との生の違い、その葛藤の問題があると思われる。僕はこの問題を個人的に追求していきたいと思っている。その為にはしかし、僕自身が生活を始めなければならないだろう。僕もまた、大人にならなくてはならないだろう。

 そういうわけで、自分の考えている事は今の文学云々と全く違う方向に伸びている。正直、文学なんてどうでもいいという思いに今は駆られている。純粋に、僕にとって重要なのは思想の問題である。生の問題だ。それをどうすればいいのか。

 僕はそういう事を考えている。そういうわけで、今の文学業界がどうなるかという事はまるで違う事が、今は頭の中にある。

悠木碧論


 結構前に声優オタの友人が「悠木碧っていう新人すごいよ」みたいな事を言っていて、僕はその時、「ふーん、あ、そうなんだ」と適当に流していたが、実際、まどか☆マギカ十話の演技を見て、確かにこれは凄い役者だと思い知った。


 元々、自分は演技の事などよく知らないし、こういう文章を書く気はなかったのだが、演技に関する本格的な論評というのはネット上ではほとんど見当たらない。大抵、「うまい」「へた」「才能がある」「才能がない」「声きれい」みたいなフレーズで終わってしまうコメントばかりなので、自分のような門外漢も一言言ってもいいのではないかと思い、こうしてキーボードを叩いている。一応、それを言い訳としてから、この小論を始めたい。

                            ※

 まず、演技の話から始めよう。先に言ったように、僕は芝居に関してはよく知らないのだが、大雑把に言って、芝居というのはキャラクターに対する役者の批評であると考える事ができる。それは、丁度、ピアノやバイオリンの演奏者が譜面(曲)に対する批評家であるのと同じような意味にあたる。


 役者はまず、自分が演じるキャラクターと向き合わなくてはならない。もちろん、自分が演じるキャラクターを通して、作品全体とも向き合わなくてはならない。しかし、今のアニメ作品は大抵、わかりやすい萌えアニメやハーレムアニメや、腐女子向けアニメだったりするので、作品に「向き合う」というところまで行かなくても済むのだと思う。つまり、キャラクターの内面が単純であるから、役者もそれほど複雑な技巧を必要としない。逆に言うと、ここで、極めて生々しい演技をすると、逆に良くない効果を生む恐れがある。


 後できちんと言うつもりだが、悠木碧は、「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」のオーディションで落ちたそうである。その際、悠木の演じるキャラクターがあまりに生々しい(妹が兄貴をなめている芝居で、本当になめているような、怖い芝居をした)という事で落ちたらしい。正確かどうかは知らないが、そういう話をラジオで聞いた。僕の理解だと、この際、悠木碧はあまりに「リアルな」演技をしてしまったのだろう。しかし、「俺の妹が~」くらいの作品なら、もう少しテンプレート的な演技が求められるのではないかと思う。だから、悠木碧は他の役者と違って「生々しい」芝居ができる。そういう所は、他の若手役者とは違うのではないかと思う。


 この点に関しては後で戻ってくる事にして、今は元の道に戻ろう。まず、役者というのはキャラクター、そして作品自体と向き合わなくてはならない。まず、その事について考えてみよう。一般的に、声優は「うまい」とか「へた」とか色々言われる。またプロになるのは「声が綺麗でないといけない」とか、「ボイトレが~」みたいな事が言われるが、そうした事は全く本質とはずれた議論だと僕は思っている。例えば、ここにジョジョの空条承太郎というキャラクターがいる。あなたはこの原作を読んだ事がある、としよう。この主人公は、強面の、ガタイの良い、きっぷの良い高校生である。何ものにも物怖じししない、そして自らの力を信じていると共に仲間を信じている、どちらかと言うと寡黙型の主人公である。では、あなたはこの人物をどう演じるか。あなたは、この人物をどう批評し、理解するのか。あなたは一体どのようなプランを立てて、録音室(きちんとした名前は知らない)に入るのだろうか?


 こう考えただけで、「うまい/へた」という二項対立がそう簡単に機能するわけではないという事がはっきりとするのではないかと思う。(言っておくが、僕は現実に声優が録音の時どうしているとか、事務所の力関係がどうとか、そんな事は全く知らない。僕は原理的な事についてだけ言っており、その他の事についてはどうでもいいし、論じる価値はないと思っている) 問題は、声によってその人物を表す、という事である。つまり、ある声音がある人物、キャラクターを十全に表す事ができるのかどうか、という問題である。


 例えば、「わかった」とセリフ欄に一言書いてあったとしても、その「わかった」とは一体どういう「わかった」なのだろうか。こういう事を、おそらく声優は考え無くてはならないだろう。例えば、そこに書いてある「わかった」は、もしかして、わかっていないのにわかった振りをして言う「わかった」なのかもしれないし、あるいはそれは、「わかった」という一言で主人公が、ある重要な決断をした証となるのかもしれない。そういう事をおそらくは、監督とか音響監督などと詰めていくのだろう。しかし、再三言っているように、普通のアニメ作品では、そこまでごちゃごちゃと考える必要はないのだろうと思う。しかし、良い脚本であり、内面が複雑なキャラクターが出てくると、そう安穏な事も言ってられなくなる。そこで、「魔法少女まどか☆マギカ」を取り上げる。

                             ※

 魔法少女まどか☆マギカでは基本的に、役者とキャラクターのバランスは取れているように感じる。喜多村英梨が演じるさやかは、喜多村英梨にぴったりだし、斎藤千和演じるほむらは斎藤千和にぴったりだと思う。いずれも、過不足なく僕は文句ない。


 ただ、そこで例外を上げると(別にディスるのが目的ではないが)、野中藍ではないかと思う。野中藍演じる杏子というキャラクターは僕の目には、野中が演じる以上に複雑なキャラクターと見えた。杏子は決して一枚岩のキャラクターではなく、複雑な内面を持っているが、野中藍の演技はその複雑性に届いていないように見えた。野中藍の演技は、全体を通して、杏子というキャラクターに対して平板と聞こえる。ただ、これは野中藍がダメな役者と言いたいわけではない。そうではなく、あのポジションはミスキャストだったのではないかと思っているだけである。


 さて、やっと話を悠木碧に移そう。悠木碧のまどか☆マギカ十話の演技に関しては、僕は本当に驚いた。そこでは、お互い敵にやられたほむら(斎藤千和)と、まどか(悠木碧)が会話を交わす場面がある。この場面で、もちろん、斎藤も悠木も共に良い演技をしている。どちらも、熱の籠もった素晴らしい演技をしている。しかし、悠木と斎藤ではその意味合いが違ってくる。


 僕の見た限りでは、斎藤千和はあくまでもほむらというキャラクターを演じている。そこで現れている感情はあくまで、暁美ほむらというキャラクターの内面であり、その苦しみであり、哀しさである。これに別に文句があるわけではない。しかし、悠木は更にその先を行く、と僕には見えた。悠木碧は、まるで彼女自身が痛み、苦しんでいるかのように演じているのである。言ってみれば、この点で悠木碧は自分自身のもっとも弱く脆い部分を演技という表現行為を通じて、聴衆にさらけだしているのである。これは簡単にできる事ではないと思う。


 もっと言えば、あの十話の演技には、悠木碧のこれまでの人生が詰め込まれているのだろう。斎藤千和の演技があくまでも、暁美ほむらというキャラクターに忠実な良演技だとすると、悠木碧のあの演技は、鹿目まどかというキャラクターを通じて、悠木碧という人物の魂をさらけ出しているのだ。……ちょっと言い過ぎたかもしれないが、しかし、僕はそういうものだと思っている。もう少し言うと、あの場面では、悠木の魂とまどかの魂が一つに溶け合っていると言っても良い。そこまで行けば、逆に、悠木碧はまどかというキャラクターを否定していると考える事もできる。つまり、あまりに自分本位の演技ではないか、と。


 しかし、本当はそうではない。あの場面ではーーー悠木はあくまで、鹿目まどかの内部に深く降りる事によって、自分の内部を世界に向かってさらけ出しているのである。そこまで行って役者ははじめて、キャラクターの傀儡たる事を免れて、己を表現する事ができる。その時に、はじめて、鹿目まどかというキャラクターの内部に何があったのかが視聴者に理解できるようになると共に、また、悠木碧という個人が痛み、傷つきやすい資質を持ってこの世を渡ってきた事を知るのである。


 だから、悠木碧という役者は、適宜な役を与えられれば、「自分の核を露出させられる事のできる」本格的な役者だと僕は思っている。そういう事ができるというのは、演技の巧拙の問題ではなく、悠木碧という一人の表現者が、キャラクターの内面にどこまで肉薄できるのか、というそういう問題である。もちろん、その点に関しては、脚本家とか監督とか色々な問題が関わってくるだろう。しかし、そういう「自らの核をキャラクターを通じて露出されられる」役者というの本当に稀有だと思っている。しかし、悠木碧がその演技と個性を発揮するには、そこに良い脚本や、その演技を抑制しない監督が必要とせられるだろう。


 今の所、悠木碧はアイドル活動やら何やらをやっているが、おそらく少し経てば、そういう事では満足できなくなるのではないかという気が(キモオタの一人としては)している。おそらく、悠木自身、自分の中にあるものをさらけ出す機会をもっと求めるのではないか。そういう時、アイドル活動や今のような無難な歌手活動では不満が出てくるだろう。…そういう点、表現者としての悠木碧に期待はしているが、しかし、業界には色々な事があるだろうし、何がどうなるかはさっぱりわからない。ただ、おそらく、自らに自覚的となる事を通して人は大人になるのだろうと思う。すると、あのような表現が可能な人物が、それに見合った形式を探してどこかへ飛び出すのも、必然ではないかと僕には思える。


 以上のような事で、僕の拙い声優論は終わりにしたい。自分自身、役者とか演技の事はそれほど知らないし、きちんと分かる人からしたら笑うべき評論かもしれない。しかし、声がどうとか、かわいい声がどうとか、うまい/へたとか言う事ばかりよく言われるので、少しはそういう事を言う人間がいてもいいだろうという事でこのような小論を書いた。サブカルチャー論に関しては、暇があれば、また開拓してみたいと思う。とりあえず、この小論はここで終わる事とする。

 作家の見る夢と現実



 小説家というのは、言葉を扱う職業だと思う。言葉によって世界を掘り出すのが仕事と言ってもいい。しかし、こうした言葉の使い方は一般人に興味のない事なので、無視されたり、軽蔑されたりする事も、割りと普通の事であると言っていい。この国で、詩がほとんど読まれず、まだ小説の方が読まれるのも、そういう意味合いがある。詩人の言葉の使い方は、普通の人の言語の使い方とは違うのである。そしてそれ故に、詩人というのは夢想的な、世間知らずの人物であるという勘違いも生まれる。本当は詩人は純正な意味で科学的な言葉の扱い方をする(しなければならない)のだが、このあたりの事情は世間にはまず通じない。


 しかし、その事はまあいいとしよう。詩人が夢想的な人間だとか、詩人(笑)と世間から馬鹿にされるのもよしとしよう。彼らが百年前の中原中也を興を持って読み、今現在の「中原中也」を笑い、蹴飛ばすとしても、まあ、それもいいとする。それも別にいいだろう。そんなものだ。しかし、僕はもう少し話を先に進めたい。問題は今現在の「小説家」だ。僕にとっての疑問は、今現在の小説家が、ほとんど言葉を扱う職業という事を忘れているのではないか?という事だ。

 
 それは例えば、黒田夏子のような、一見言葉にこだわっている作家でもそうだ。それは朝吹真理子などでもそうだと思う。彼らが言葉を扱う職業としての小説家としての立場を意識しているかと言うと、そうではないと僕は感じる。しかし、今はわかりやすくする為に、朝井リョウとか、その手の小器用な作家について考えてみよう。


 今の作家というのは、朝井リョウとか、あるいは綿矢りさとか、だれでもいいが、大抵はリアリズムみたいなものを使って小説を書いている。そこに書いてある会話の文を見ると、実際にそういう会話を現実の人物が話しそうな気がする。しかし、重要なのはその点ではない。問題は作家が、言葉という道具を使ってある世界を体現しえているかどうか?という事だ。こういう問題について無頓着なままに今の作家は小器用な小説を書く。そしてその結果、彼らは揃いも揃って通俗的な作品を書くようになる。


 例えば、朝井リョウという人は、就活をリアルに描いた小説を書いたそうだ。しかし、では、それを「何故」作家は書かなければならないだろう? おそらく、この手の作家がこういう問題を自分で自分に問いかけた事はないだろう。また、黒田夏子のような作家が書くものが、そこにどんな価値があるのか? 何故、そういう事を自分が書かなければならないのか? …もちろん、この何故の答えは別に出なくても良い。重要なのは問いかける事だ。人間がある生活をしているとして、どうしてそれを作家が描かなくてはならないのか?

 
 僕個人の考えを簡潔に言ってみる。例えば、フローベールのようなリアリズムに徹した作家がいる。しかし、フローベールには思想がある。何故か。フローベールにおいては、ボヴァリー夫人、エンマの生はある思想の象徴なのである。もちろん、作品のどこにも、ボヴァリー夫人が何かの象徴であるとは書いていない。しかし、このリアリズムは、それがフローベールの思想を体現する上で機能する一方法なのだ。僕はその事を信じて疑わない。フローベールがただ、リアリズムで書けばそれでいいだろうと考え、適当に不倫の話を書いたとは思わない。ボヴァリー夫人の問題はすなわち、フローベール自身の重要な問題だった。しかし、その関係はリアリズムという方法論で結ばれている為に、我々にはフローベールの思想は隠れて見えないようになっている。


 もう少し方法論の問題を進める。おそらく、ドストエフスキー文学の世界に一革命を起こしたのには次のような事情があった。つまり、ラスコーリニコフという人物は、エンマのような人物とはわけが違うのである。一般的なリアリズムの場合、リアリズムが機能する前提として、作家が描く登場人物の言動が、そのまま登場人物の存在を表していると考えなければならない。もし高度な作家ならば、作家の方法論をかいくぐって登場人物が別の魂を持っている事が暗示できるだろうが、そういうややこしい事はとりあえず置いておこう。重要なのは、一般的に考えられているリアリズムにおいては、人間の言動がそのまま人間の存在を表している、そういう考えが前提としてあるという事である。では、それに反して、ドストエフスキーはどうか。


 ドストエフスキーが「罪と罰」で示した創作手法の重要な点は次のようなものだ。つまり、そこにおいては、ラスコーリニコフという一人物の言動と、その内面とが完全に乖離している。つまり、従来のリアリズムでは全く捉えられない人間がはじめて、ラスコーリニコフという人物によってこの世界に登場したという事になる。そしてこれは僕の考えでは、「最初の現代人」である。近代人の定義が何かはさて置くが、ここではじめて現代人が現れた。何故なら、この人物は外側から見た己と内側から見た己が完全に分離しているからである。そしてこれは僕たち現代人の特質をなしている。だからこそ、僕たちはトルストイを読む以上の共感性を持ってドストエフスキーの主要作品を読む事ができる。もちろん、人により好き嫌いはあるだろうが、僕は今、構造の問題について言及している。


 では、ドストエフスキーが苦心の末に編み出したこの方法により現代人は捉えられたのか。…僕はまさしく、捉えられた、と感じる。だからこそ、僕はそれを親身に読む事ができる。ラスコーリニコフを自分自身と感じて読む事ができる。それは観念過剰の現代人に適合した人物造詣である。しかし、エンマにはそう簡単に共感ではない。何故なら、エンマは自身の観念過剰に苦しんだりはしないからだ。もっと言うと、エンマは普通の人である。対して、ラスコーリニコフは知識人である。そして僕たちはいつの間にか、大衆のままに知識人化している。だから、ドストエフスキーの手法は今でも有効である。


  それでは、その点から振り返って現代の作家はどうか。僕は相変わらず、現代の作家がフローベール的な方法の延長線で書いているように見える。しかも、現代の作家の多くはフローベールのような「思想性」を持たない。つまり、多くの作家らは自分の書く所についての自意識の強度が明らかに弱い。彼らは何故自分が登場人物を動かすについて意識する度合いが弱いままに、それを動かすのだ。それは生きる意味について問わないままに生きる事にとてもよく似ている。我々が生きる事について考えだすと、生きる事そのものが詰まってしまう。生きる意味について僕たちが問う事は明らかに一種の病気である。しかし、この病気を透過しなければ、健康の意味そのものは決められないのだ。そういう意味で、健康な人間は自身の健康性を認識できない点で病んでいる、という事もできるだろう。人々が生きる意味を失ったままに生きる事は、彼らの内部では健康かもしれないが、それを俯瞰する一つの視点からすればそれは病んでいるのだ。


 もう少し突っ込んだ話をすれば、朝井リョウやその他の作家らがやすやすとリアリズムを使う事ができるのには次のような事情がある。それは、現代そのものがフィクション化しているという点である。友達、彼女との関係、就職活動など。我々はそこに、すでにフィクションが先行している現実を見出す事ができる。恋人と一緒にディズニーランドに行くのは現実であり、リアルかもしれないが、そこで演じられる劇はまさにフィクションではないか。しかし、こういう問いを発しなければ、フィクション化した現実をそのまま描くリアリズムが、一見リアリズムとして機能するように見える。つまり、現代の作家らが安住しているリアリズムはそのような場所だと僕は思う。つまり、彼らの書くものは先に、現実というフィクションによって先取りされているのにも関わらず、彼らはそれをリアルだと思い込む。ここにちぐはぐがある。少なくとも、僕はそう感じる。例えば、就職活動などというのもほとんどフィクションそのものと言ってもいいかもしれない。そこで演じられる滑稽な劇を、誰も滑稽と見ないなら、それはただちに(紙の上でも現実でも)嘘となるのだ。


 僕がこういう風に言うと「では、現実とは何か?」という問いが出てくるかもしれない。…しかし、その答えはもう「罪と罰」に書いてある。僕はそう思う。ラスコーリニコフは、自身の夢を破る為に二人もの人間を殺した。彼は殺人というもっとも強固なリアル、現実に接触する行為を行った。しかし、夢は破れなかった。物語はそこから始まる。しかし、その時点でもう物語は決しているのである。重要な事は、我々の世界においては、世界の果てまで行っても、人を殺しても、自身の夢は破れないという事である。だから、僕がリアルと言う時、それはただ一つの事を指す。つまり、この世界は夢だという事、その事を悟る事だ。セルバンテスは既にこの方法を「ドン・キホーテ」で活用していた。ドン・キホーテは騎士道物語を読み過ぎ、自身の夢を生きる。従って、そこに滑稽な劇が現れ、この滑稽さのみが本当の意味で真実なのだ。だから、セルバンテスはドストエフスキーに先行する作家である。ドストエフスキーがセルバンテスから大きく影響を受けたという事も、当然うなずける事だ。


 小説家の言葉の意味からリアリズムの問題にまで辿り着いてしまったが、そういう事が今問題となっていると思う。ラスコーリニコフは自身が夢を見ている事を知っている。そこに、ラスコーリニコフの意味がある。しかし、今の作家らの書く作品のどこにも夢の存在はない。つまり、彼らはそれを現実だと感じている。しかし、まさにそのような理由によって、彼らの作品が薄っぺらいフィクションに化けてしまうのだ。現実がただ一匙のフィクションにすぎないと感じた精神から、一匙のリアルが生まれるが、現実に対して疑いを抱かない精神が作家それ自体を一つの夢としてしまう。従って、現代の若手作家らの大半はただ、夢の中にいる。僕はそう思う。そして彼らは、現実を知らない。彼らが現実を知らないのは、彼らがそれを夢と感じた事がないからだ。そういう問題が現代ではあると思う。そして、セルバンテスーードストエフスキーが使った方法論は現在でも全く有効だと僕は思っている。何故なら、人間の意識が外化したメディアがこれほど発達した社会で、全てを夢と感じる強力な自意識は物語の主人公たりえるからだ。そういう事が今、作家技法の問題としてあると思う。そういう事は自分以外にあまり言われている形跡はないようなので、とりあえずそうした事についての疑問をこの文で呈しておいた。

ニーチェ感想

 

 
 今、ニーチェを読んでいる。そこで感じるのは、ニーチェほどわかりにくく、大衆からほど遠い哲学者はいないのではないか、という事だ。ニーチェほど、強烈に世界から反発した哲学者はいないのではないか。そしてその結果、反動として彼は生前にはほとんど認められなかった。しかし、もし彼が同時代において認められたとしたら、彼は同時代において「認められない」領域まで一人で走って行くのではないか、そういう事が僕の疑問として浮かび上がってくる。

 天才とは、真空を飛ぶ鳩である。そう言う事もできるだろう。この大気圏では満足できず、彼は真空に飛び出す。しかし、そこには空気がないのだ。よって、この鳩はそこで死んでしまう。本来、ここで鳩は地上に帰らなければならない。しかし、ニーチェは突き抜けていったのではないか。彼は彼自身が神である事を感じたが、それが正に、彼のルサンチマンだったのではないか。僕には疑問だが、ニーチェが価値転倒の試みをする時、何故自らを転倒させなかったのか。僕のニーチェに対する信頼と疑問は同時にそこに由来する。何故、彼は自らを「滑稽」だと認めなかったのだろう? この点、ドストエフスキーの主人公達はいずれも、自らの滑稽さを、自分か他人に寄って指摘される。そこまで、ドストエフスキーは論理を引きずっていく。もし、ある絶対的に正しい真理があるとして、何故それを話しているのが、そのような「人間」なのか? 人間は神ではない。にも関わらず、(ニーチェのように)神になろうとする存在である。そしてそれ故に滑稽さが現れる。滑稽さというのは、我々の肉体と魂との乖離を端的に表現したものと言う事もできるだろう。では、何故ニーチェは肉体を置き忘れたのか? この地上に?
 

 永井均の「これがニーチェだ」では、ウィトゲンシュタインと対比する場面が若干あるが、僕もまたウィトゲンシュタインの方がニーチェより優れているように感じる。論理哲学論考は、真空まで辿り着いて、またそこから地上に帰ってくる。そのような印象を受ける。ウィトゲンシュタインは僕には難しすぎてよくわからないだが、僕には仏教哲学との類縁性を感じさせる。それは維摩経と似ているかもしれないし(この事を指摘している人もいた)、あるいは「私の指を見ず、私の指の指す先を見よ」と言ったブッダの言葉に違いのかも知れない。ウィトゲンシュタインにおいては、絶対的な真理は、言葉の中にない。言葉の外側にある。彼は生活を差し置いて、極めて論理的な言葉を積み重ねるが、しかし最後に生活に、つまり、「我々」に帰ってくる。僕にとってウィトゲンシュタインがあまりに魅力的なのは、その論理の構成、もっと言うとその物語性にある。ニーチェは突き抜ける。そして帰ってこない。ウィトゲンシュタインは帰ってくる。そして帰ってきた場所は、最初出て行った場所とはほんのすこしだけずれた、違う場所に見えるのだ。ここには哲学における物語性がある。僕はそう考えている。
 

 いずれにせよ、ニーチェに最後に欠けているのは、自身の論理で自身を切断する事ではなかったかという気がする。弱者や強者の設定、よいーわるいの設定も、それ自体ニーチェという一つの個人を軸にしているのである。ニーチェは神ではない。哲学者は神ではない。哲学者もまた、一人の人間である。そこにはつまり、肉体性がある。彼らが思惟の宇宙を突っ走って、世界の外側まで行こうとするその推進力に関しては、よく分かる。痛いほどよく分かる。しかし、ニーチェにしろ、パスカルにしろ、彼らは自分達がこの歴史における一現象だという事を忘れたのではないか。彼らが肉体性を喪失した所に、精神の旅が現れたのだが、何故その旅を行わなければならない存在が一人の人間であらねばならないのか? 客観的に己を見たニーチェを考えると、彼は彼自身にとって滑稽に見えた事だろう。その時、彼は自らに微笑せざるを得なかっただろう。しかし、彼に微笑は訪れず、かわりにやってきたのは発狂だった。発狂は何を意味したか? …きっと、何も意味しないだろう。しかし、彼はそういうやり方でこの世界の「外」に出たのだ。ウィトゲンシュタインが折り返したところで、彼は外に出て行ったのだ。発狂という形、狂人という最後の肉体性を伴って。


 ニーチェを読んで、僕はそういう事を感じた。しかしそうは言っても、ニーチェが提出した問題は今でも非常に重要であると思う。しかし、それは万人が理解したり受け入れたりする事は決して不可能な論理ではないか、という気がする。しかし、この世界はそれを通俗化している。超訳ニーチェなんてものもある。しかし、ニーチェの哲学は、ニーチェの発狂と同じようにこの世界の外側を旅している。そしてそれはニーチェの死後もそうではないかと思っている。真空を飛ぶ鳩を、「超訳ニーチェ」的なものは、地上を這う蛇に変じようとしている。しかし、それは根底的には無理なのだと思う。彼は未だに世界の外側を、精神の羽で悠々と飛行している。

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