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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

 自分のために クリエイター論



 2chのまとめサイトを見ていると、「プロのライトノベル作家だけど業界の厳しさを教えてやる」みたいな記事があった。僕はざっと目を通したが、そこから学ぶ所が全く一つもない事に驚いた。

 その記事で語られている事は、売れるとか売れないとかいう事、編集の意見は聞いた方がいいとか、はっきり言って心底どうでもいいと思うような事で、また、作品の中身に対する言及が一切ない。

 僕には驚くべき事に見えるが、これだけ小説やら何やら、色々なコンテンツが大流行であるのに、それらに対する具体的な言及、もっと言うと、作者の作品への情熱が全然感じられないのはどうしてだろう?と思う。「プロ」と呼ばれる人も含めて、自分の作品をどう売るか、どうデビューするかみたいな方法論ばかりが横行し、自分の作品を自分で愛しているとか、自分の作品の主人公は作者の業を全て背負っているとか、そういう事をほとんど感じないのはどういう事だろうか? そんな作品ばかりがあるのはどうしてだろう? これは僕が勝手に疑問に思っている。僕が気になるのは、誰も彼もが「よそ見」をしながら物を作っているという事だ。作品に本気で向き合っているのか、疑問に思う。

 「よそ見」をする相手は実際様々あるだろう。例えば、会社の上司とか、株主とか、社長の顔色を伺いながら作る作品。売上や大衆の顔色を伺いながら作る作品。編集や選考委員の顔を見ながら作る作品。スターリン政権のソ連ならば、絶対にスターリンの顔色を伺いながらでなければ、作品は作れなかった事だろう。誰も彼もが、「よそ見」をしながら物を作っている。僕にはそう見えて仕方ない。

 ただ一人自分自身と向き合い、自分の為に、ただ己のためだけに作った作品が何故こんなに少ないのだろう? …無論、そのような作品は最初は素朴で稚拙なものにとどまるだろう。しかし、多くのクリエイターがこの最初の原始的な、素朴で稚拙なものを早い段階であっさりと捨ててしまうのである。デビューしたいという焦りがあるのだろうし、売れなければならないという焦りもあるのだろう。しかし、大半の人はそれが大切なものだという事に気づいていないのではないかと思う。僕はその最初の、素朴で稚拙な自分の原始性…なんと言えばいいのかわからないが…が物を作る上では非常に大切だと感じている。

 例えば、僕がかまってちゃんの「ロックンロールは鳴り止まないっ」に心底感動するのは、それが他人の目をうかがっていなからである。徹頭徹尾、自分自身に忠実であるからだ。D猫さんのピアノでも同じ事を感じる。これらの作品は、自分に忠実だという事が、他人を感動させる。ここでは自己ーー他者の疎隔は止揚されている、と言ってもいいだろう。これらの作品では、それぞれ自分というものを徹底的に露出させている。では、そうした自分に忠実だという事は単なる自己満足とはどう違うか。勘違いされているのではないかと思うが、自己満足というのも徹底的に掘り下げれば、それは究極的には他者満足につながる。そうでなければ意味がない。大体、自己とは最初の他者であり、他者は他者自身にとっては自己である。必要なのは己を掘り下げて、その核に到達する普遍性である。問題はただそれだけだ。しかし、多くの人が巧拙の問題に流れて、自分の中の小さく、それ故大切なものをあっさりと投げ捨ててしまうように思う。そこに今のクリエイターの問題があると思う。

 今は大衆の専制主義と言ってもいい時代なので、これからはもっと、他人の目を気遣い、「他人の為に」というスローガンのもとに、「自分達の為に〇〇しろ」という要求が強まるだろう。それでもアーティストは徹頭徹尾、自分自身を露出させる形で物を作らなければならないと思う。本当を言うと、更にその先の段階、その先の芸術的思想というものを僕はおぼろげながら感じているのだが、それに関しては別の機会にしようと思う。とりあえず、久しぶりの芸術論はここで終わりにしたと思う。

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の子の印象など

「神聖かまってちゃんの時代はもう終わった」みたいな記事を書いたらブロマガに書いたら、ニコニコの運営にさらされたらしく、やたらアクセス数が伸びた。ありがたい話ではあるが、怒涛のようにアクセスが増えて、怒涛のように去っていくので、結構奇妙な体験ではある。まあ、アクセスがあったと言ってもほとんど通りすがりの人なので、興味を持って読んでくれた人は少数ではあるだろうが。しかし、僕がどんな意見を書いたところで、一旦炎上してしまえば、もうその時点で勝敗は決している。多数と一人が戦えば、一人が負けるに決まっている。それは絶対的な関係なので、論破する/しない以前の問題である。大多数の人間の恐ろしさをこれほど知る事ができる世の中というのはこれまでにはなかったと思う。後は戦争が起こるくらいであろうか。

 …神聖かまってちゃんに関する話だと、今、かまってちゃんの生放送を軽く見ていた。(パジャマパーティーのやつ) の子がこれまでの道を振り返り、これからどうしていけばいいかについて語っていたが、見ていて、やはり僕自身の考えをの子が、彼の声で裏打ちしてくれているように感じた。僕はの子と同世代である。我々の世代がいかなる泥濘の中で自分の哲学を創りあげなければならなかったか、その苦労は僕にも痛いほどよく分かる。無論、お前はかまってちゃんと違って無名だろうという声もあるかもしれないが、これは哲学・思想の問題であり、名声の問題ではない。僕達の世代には文字通り、何もなかった。何のとっかかりもないままに、自分の哲学や方法論を創りあげなければならなかった。既成のものは形骸化していたために、ある種の自由な精神は、二千年代には途方に暮れたのである。そこから、かまってちゃんが自分達の方法を作り上げるのにいかなる苦痛が、苦労があったのか。それは僕にはどうしても他人事とは見えない。

 の子自身は、「人生経験が足りない」とか「『僕はがんばるよっ』辺りから歌詞が書きづらくなってきた」、あるいは「ある時から同じ事ばかり自分は言っているなと感じ始めた」と言っていたが、これは僕が先の文章で指摘していた事と全く同じ事だと思う。の子自身、自分の行き詰まりを感じているのだろう。しかし、生放送を見ている限り、の子に次の展開があるという風には思えなかった。の子がもっとインテリ風味であれば、その層に入り込んで適当にやり過ごす事もできただろう。あるいはメッセージ性を捨てて、音楽性に特化し、作曲家になれば、延命する事は簡単だろう。しかし、それではの子の自己表現としては足りないという事になるだろう。正直、もし僕がの子の立場だったら、どうすればいいのかさっぱりわからない。それは全くわからないのだ。

 僕は一度、の子を間近で見た事があるが、その時感じた印象としては「この人物が二十歳を過ぎて生きているのは奇跡だ」というものだった。あれほどに優しく、脆い人物を見た事は僕は一度もない。はっきり言うと、ああした人物はこの現世を生きるにはあまりに天使すぎるのである。だから、の子自身、音楽や配信にすがって自分の命を延命してきたのだろう。もっとエグい事を言うなら、の子の背後には、の子のように生き続ける事のできなかったおびただしい数の精神を病んだ現代人の群がある。の子は、音楽をバネにしてそこからただ一人立ち上がったのである。この宿命的な現象に関しては、健常者は決して理解できないだろう。しかし、僕には自分事のようによくわかる。

 とはいえ、既に書いたように、神聖かまってちゃんのロックは鳴り止みはじめている。これからは、僕は僕のすべき事をやっていこうと思う。僕にはある程度のビジョンが見えているような気がするが…しかし、そんな事を気にしている人は僕以外いないだろう。とにかく、これからは自分の足で歩くのみだ。
 

青い星



AかBかと君が問う時

君は既に支配者の手の中にいる

AかBかと君が思い悩む時

君は既に悩むその意味を喪失している


君が勝つか負けるかを考え始める時

その時、既に君は敗北している

そう考えた時、支配者達は皆

にやりと静かな笑みを湛えるだろう


君は世界に問わなければならない

「それを越えられるか、否か」と

善悪の彼岸まで行かなければ

君は永遠に奴隷のままだろう


論破するのも、論破されるのも好きにしたまえ

君達は君達が信じ込んだものの為に戦い

そうして自分達が信じたものを疑う事を知らない

それ故、君達は無知のままに死ぬのだ


そして、自らが無知であるものを知る者が

世界の手の平を逃れ、次の世界に行く

そこは当然、カントの鳩がたどりつくような

真空の世界だが


その一瞬だけ

この世界が信じられないほど美しいものとして見えてくる事だろう

つまり、地球を脱して眺める

この青い星そのもののように

神聖かまってちゃん 一つの時代の終わり

 (アヴァンギャルド・アウトテイクス  http://borntobeavantgarde.hatenablog.com/entry/2015/06/21/210000 に載せてもらいました。内容は一緒です)



 神聖かまってちゃんのロックンロールはもはや「鳴り止み」始めている。僕個人はこれまで、神聖かまってちゃんから受けた影響があまりにも大きいために、神聖かまってちゃんに対しては褒める事しかしてこなかった。何故なら、その他にあまりにも愚劣なものが多すぎるからである。ほとんどのものが言及する気もおきないどうでもいいものに思われてしかたないために、僕はそれらには言及してこなかった。しかし、神聖かまってちゃんに関しては言及する価値があるので、これまでずいぶん言及してきた。それも、できるだけ肯定的なやり方で。

 しかし、今や、神聖かまってちゃんのロックンロールは鳴り止み始めているように見える。これはニコニコのブロマガで「ともなりたかひろ」という人物が書いていた事だが、今の神聖かまってちゃん、「の子」の音楽は明らかに自己模倣に陥っている。実際、ともなりたかひろという人の言う事は正しく、の子はかつての自分をもう一度焼き直し、過去のシャウトを再び現前しようとしているが、しかしそれはうまくいかない。青春は終わった。玻璃の目は溶けたのである。

 もはや過去のシャウトは戻ってこない。それは遠くで、過去のこだまのように虚しく鳴っているだけだ。何故、そんな風になってしまったのか? 答えは簡単である。ぺんてるという曲にこんな歌詞がある。

  風に吹かれてしまう
  落ち葉のようになれ果てよう
  考えて生きてくような価値なんてどこにあるんだと僕は思うのです

 かつてのの子の叫びは本物だった。真実だった。しかし、そこにはある基盤があった。つまり、何もない人間が徒手空拳でこの世界に立ち向かうというスタイルである。この世界において、この何もない世界において、僕たちはこれまで、自分達が何者でもないという事を頑として認めようとはしなかった。この馬鹿馬鹿しい社会において、誰しもが、自分が何者かであると、ネットで、公道で、主張し続けていた。しかし、そこに「の子」という一人の野蛮児が現れた。そしてこの人物は突然、人通りの真ん中で、ネットの真ん中で、次のように叫び始めたのである。

 「自分は何者でもない。しかし、それの何が悪いのだ! 僕はそこに居直ってやる!」

 誰しもが、未だにアイデンティティの「かす」にしがみついている。誰しもが、何もない自分を恐れ、何とか自分に箔をつけようともがいている。その時である。この狂人の叫びが響いたのは。彼は、自分がもはや何者でもなく、人間でもない事を率先して認め、そしてそれをむしろ、自らの武器としたのである。この点において、神聖かまってちゃん、そしての子という人物の決定的な意義がある。インテリ共がわかった面をして饒舌でごまかしつつ、大衆は自分達の幻想を受け入れてくれる容器を探して往来をうろつきまわっている。欲望と、それを与える者との間で貨幣の交換が行われ、そこにはわずかの人生哲学も真実もなかった。そこにあるのはただふやけて、ぼやけきった人生を送りたいという人々の茫洋とした意思だけだった。そこにこの狂人が現れ、全てを断ち切ったのである。つまり、神聖かまってちゃんは僕たちの世代にとって、一つの切断線として現れたのである。しかし、それももう過去の事である。

 しかし、今や神聖かまってちゃんのロックンロールは鳴り止もうとしている。最近の神聖かまってちゃんの動向を見ても、それが感じられる。神聖かまってちゃんもメジャーバンドになり、それなりにファンがつき、安定したスタイルを持つようになった。安定した環境の中にいられるようになった。そこはぬるま湯なのだが、このバンドほどぬるま湯が似つかわしくないバンドは他にないだろう。これほどまでの天邪鬼、世界に対して逆転した態度を持ったバンドにも、フォロワーがつき、ある程度は社会に受け入れられた。したがって、今の環境でかつてのシャウトをしようとしても、それは嘘になるのだ。今は、もうすでに何者かになっているのである。もう既に、持たざる者ではなく、持つ者に変わってしまっているのである。かつての、徒手空拳で世界に立ち向かうスタイルはもう使えないのである。使おうとしても、の子という人物は既に世界の側に同化しているのである。したがって、この点でロックは鳴り止むのである。これが現在の神聖かまってちゃんの問題点である。

 …僕は神聖かまってちゃんというバンドを極めて高く評価しているし、その事に変わりはない。他のバンドでは、今あげたような問題「すら」、ほとんど全く起こっていない。本当の意味で失敗ができるのは、本当の意味で才能のある者だけなのだ。力がない者は失敗する事すらできない。彼らはただ迎合したり、しなかったり、ふくれて愚痴を言ったりするだけの事である。最初に意図があって、それが現実とはげしく摩擦を起こす事によって、この者は挫折し、失敗する。ここに悲劇が現れるのだが、大抵の人間は、「好きな事をして楽して生きたい」程度の低い意図しかないから、失敗すら起きないのだ。まあ、僕も楽して生きたいとは常々思っているのだが。

 とにかく、こうして、今の神聖かまってちゃんは鳴り止んでしまった状態にある。今のの子は音楽的には洗練され始めているし、最近では、プロの映画監督に撮ってもらった新しいPVなどもある。有名人をPVに起用したりもしている。

 しかし、それらのPVを見ても、僕には全然ぴんと来ない。…残念ながら、の子という人物がまだ何者でもない時に、父親と二人で取った手製のPV、音質は悪いが呪いが込められた初期の楽曲、それらに、最近のPVは全く勝てていないのである。いかにプロの監督、モデル、タレント、機材を使っても、初期のの子が持っていた神性ははや失われてしまったのである。例えば、「二十三歳の夏休み」などはのの子の楽曲の方でも、そう大した曲というわけではない。しかし、そうした曲でさえも、あの時のの子はキラキラと光っていた。他人から見れば、何者でもなく、ただ手ぶらのニート、フリーターでしかない。しかし、それ故に、それに対するバネが、それに対する怒りが、憤激が、世界に対する叫びが、の子の背中に羽根を生やしていたのである。かつて、の子はその羽根で「ある空間」の中を自在に舞えた。しかし、今や羽根はもがれた。ロックンロールは鳴り止んだのである。青春は、消えたのだ。
 
 こうしておそらく、神聖かまってちゃんという一つの時代は終わったのだ。おそらく、神聖かまってちゃんがもう一度、生まれ変わるには、過去の叫びとは違う哲学が必要となるだろう。そしてそれを、の子が断行できるかどうかは未知である。しかし、僕のような神聖かまってちゃんフォロワーも、もはやの子の影響から脱して自分自身の道を進まなくてはならないのだろう。人は、過去の己を断ち切る事によって前へ進むのである。そう、それは「いつの時代でも」そうなのだ。

手回しオルガン弾きさんと会ってきました

 先日、手回しオルガン弾きさんhttp://blog.livedoor.jp/slimshady515/とお会いしてきました。その時の事を少し書きたいと思います。

 元々、オルガンさんとはネット上で交流があり、オルガンさんの書くものが非常に面白いので色々勉強になっていました。そしてそのイメージを抱いたまま、僕は待ち合わせ場所に行きました。すると、向こうから来たのは、爽やかな感じの長身のイケメンで、この人物が「手回しオルガン弾き」さんだというので、僕は少し驚きました。(このイケメンが本当に哲学の話なんかするのだろうか?…)と一瞬疑問に思ったのですが、互いに話してみれば、やっぱりオルガンさんでした。僕らは飲み屋に行って話しました。

 そこで、それぞれ色々な事を話しました。それは色々な話題が出たし、どれも興味深いものでした。しかし、それぞれが相手に質問をし、相手の意見をそれぞれに引き出しあっている中で、おそらく、どちらもが自分自身の事を同時に考えていたのだと思います。つまり、相手と自分との差異を計りつつ、互いの意見を引き出しあっていたのだと思います。それによって、(少なくとも)自分の存在の輪郭が明瞭になったと思います。オルガンさんにおいてもそうだったのではないかと思います。

 かなり色々な話が出たのですが、具体的な話を書けばキリがないので書きません。ただ、最も、重要な点は、それぞれ、独学である知見に到達した(と言わせてもらってもよいでしょう)人物同士が、実際にこうして会って、「自分以外にそういう人間がいるのだ」とはっきり認識したという事だと思います。それを互いに体感できたという事が大切だったと思います。

 僕の考えでは、現代社会においては、知性が形骸化していると思います。知性というものは、いつの間にか、知的な装飾の事を指すようになった。情報がどこでも得られる時代になって、情報を独占していた大学機構みたいなものの権威が崩れつつある。しかし、それでも、「知的なもの」は一応必要なので、それっぽいものが、インテリの作るものとして流通している。それが現代の状況だと思います。例えば、昔は文学をやるような人間はほとんど東京帝国大学に集っていましたが、今はそんな事はない。知性が形骸化して、それがばらけてしまい、それによってオルガンさんや僕のように、独学で自分の知を作る人がちらほらでてきたのではないか。僕はそう思っています。
 
 しかし、それは茨の道とも見えるものであり、オルガンさんにしても僕にしても、別に生活を一挙に楽にしてくれたり、確実に将来の為になるとも決まっていない、芸術とか文学への造詣を深める事は、一般の人からすれば煙たい話なわけです。つまり、「お前はそんな事をやってるが、それは何の役に立つのだ?」というわけです。そういうわけで、オルガンさんにしても僕にしても、排斥を受けつつも、そういう事をやってきたという道筋があると思います。そしてそれは一般的な権威とはややずれたコースだとも言えるでしょう。

 しかし、そうした中で、そうした道を追求しているのは自分以外にもいるのだ、とはっきり認識できたという事が双方にとっては良い事だったのではないでしょうか。色々な話題が出て、他に面白い事も沢山あったのですが、実際会ってみて、一番良かったのはその点ではないかと思います。これからも、またオルガンさんと色々交流できたら良いと思います。

ファシズム化する現代社会とフィクションの機能について



 現代社会はファシズム化していると思う。アレクシス・ド・トクヴィルが、メディアが引っ張るタイプの大衆の専制主義が、これからの新たなファシズムになるのではないかと予測していたらしいが(wikiでみた)、そのとおりになっているのではないかと思う。

 僕は、ある点からこの社会にはそんなに期待しない事に決めたが、しかし、それにしてもこの世界を捨てるというわけにもいかない。日本を離れる事はできるだろうが、世界から離れる事はできない。それに、どの国も、長年続いた平和に飽きたのか、血を見たがっているような気がする。

 僕は、戦中に航空機で相手をずいぶん撃ち落としたパイロットの話というのをネットで見た。するとその下にコメントがあって、その中のコメントの一つに、「撃墜数」とか「エース」とかいう言葉が並んでいる。何が言いたいかと言うと、現代のある種の人々にとっては、実際に戦争で人を撃ち殺したり、撃ち殺されかけたりした経験がない為に、そうした行為を頭の中で、アニメ化、ゲーム化して捉えるという事が、もはや一般的になっている事を知ったという話だ。

 僕は世の中をそんなに信用していないし、人もそんなに信用していない。かなり知性ある人が妙な事を言ったのを聞いた事もある。しかし、そんな事を考えている間に、いつの間にか、自分が「妙な奴」になった事を感じている。だから、僕は黙る他ない。
 
 ただ、自分は文学が好きなので、その観点から話を進めさせてもらう。すると、一つの点が見えてくる。現代のある種の人々は、現実をアニメとかゲームとか小説の延長で見つめている。この手の人間は驚く事に、自分達は現実主義者であると思い込んでいる。つまるところ、真実を見ずに、各々が現実だと思い込んだものを現実だと考える事が、現実主義者であるという事らしい。僕は今、威勢のいい事を言っている人を信用しない。もし、僕が戦争に駆り出されれば、銃を持ってビクビクするかもしれない。ちょっと怪我しただけで泣き言を言うかもしれないし、案外勇敢な所も見せるかもしれない。それはわからない。しかし、一つだけはっきりしている事がある。それは現実はゲームではないという事だ。そう見えたとしても、そういう気がするという事だけだ。夢が敗れて、現実が姿を現す。撃墜数、エースパイロット。そんな種々の言葉の奥に、人間の血、肉体、魂は消えてなくなる。すると、現実は美しい詩的なものに、一瞬は見える。しかし、それは嘘だ。その奥で血は流れているのだ。

 そして、ここからが重要な点だが、文学(アニメ・ゲームでも良い)などのフィクションは、実はその真実を明らかにする事ができる。つまり、人々があまりにもフィクショナルな視点によって隠蔽した真実を、フィクションは、もう一度、フィクションの力で明らかにする事ができる。もちろん、人は相変わらず、このフィクションを『所詮はフィクションで、現実ではない』と簡単に受け取るだろう。しかし、フィクションにはそういう機能もある。それは、現実という名によって隠蔽された真実を、明らかにするもう一つの嘘である。フィクションにはそういう機能がある。

 そういうわけで、これからも、無用の長物たる詩人にも、この社会において重要な役割が与えられる事だろう。そして、それが真に力を発揮するのは、それが現実から弾かれているからである。無用だからである。僕はそう思う。もっと言うと、フィクションとか現実とかは、本来分割不可能なものだ。我々が観念で、それを分けているだけの事だ。

 そしてそれをフィクションはまた、言葉という虚構によって明らかにする事ができる。

井戸の外に

 


 文学=思想であるという考えが、最近、自分の中でよりはっきりとしてきた。これは正確に書かなければ誤解を招くだろうが、究極的に言うなら、世界をありのままに描くという事、徹底的に描くという事が文学にとっての思想であり、夢だという事だ。

 例えば、トルストイとドストエフスキーの違いというのは何か。僕の勝手な見方だが、トルストイは作品の中で、正しい観点、正しい思想を追い詰め、それを証明しようと躍起になっているように見える。しかし、ドストエフスキーの場合はそう見えたとしても、そうではない。そうではなく、ドストエフスキーの場合、作品の全ての体系(形式)が彼にとっての思想そのものなのである。それは例えば、神がこの世界を創造したとして、この世界そのものが神の思想である、と言明するのと同じ事である。

 多分、僕が今言っている事は極めてわかりにくいだろう。しかし、最近、夏目漱石の評論を読んでいてーー漱石が、文学作品の中に、善悪の倫理はない、それは文学という形式においては消滅してしまう、という意味の事を言っていて、やはり、自分の考えている事に近いのではないかと思った。無論、僕は漱石ほど偉大ではないが。

 シェイクスピアにおいてもそうだが、これらの作家において、何が正しいかという事はない。個人があるイデーを正しいと主張するのではなく、むしろ物事がそうある様が「全て」正しいのだ、というそのような論理である。と、いうより、彼らの論理は完全に世界に溶け込んでいる為に、世界と完全に同致して動いていると言う事ができる。だから、ある種の人には、シェイクスピアもドストエフスキーも、何らの問題を解決しているようには見えないだろう。彼らは現実に対して明瞭な思想を提出したわけではない。そうではなく、この現実そのものが既に一つの明瞭な思想そのものである、という事を作品によって示したのだ。最近はそういう事を考えている。
 
 そういうわけで、文学というのは世界そのものと完全に一致する事ができる。あるいは、それは自然からスタートして、自然を越えられると言ってもいいだろう。しかし、今の小説家がどういう事を考えているかは知らない。僕の目には、彼らは世界を描いているというより、世界から描かれているように見える。彼らは描いているつもりで、自分の背後に一つの目がある事に気づかない。しかし、技術は卓越していく。そこが彼らの限界なのだろうが、狭い、井戸のような知的世界に住む我々が彼らの狭隘な作品を褒め称える事もあろう。

 しかし、この世界も自然も井戸の外側にある。そして、同様に、巨匠の作品も、井戸の外にある。

お知らせ


 クランチマガジンで知り合った山田宗太朗さんが編集に関わっているブログに寄稿しました。最近あまりブログ更新していないので、これを更新代わりとしたいです。バンド相対性理論について論じています。

 http://borntobeavantgarde.hatenablog.com/entry/2015/06/06/215500

 よろしくお願いします。

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