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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

芸術作品と男と女


 


 ピアニストのD猫殿下さんが、以前、「男とか女とかそんな事関係ねえ!」という事をツイッターでつぶやいてたと思う。あやふやな記憶なので、過去のツイートを調べようとしたが、ちょっと見つからなかったので、これは正確な引用とは違うという事にしておいてもらいたい。

 丁度、昨日、小林秀雄を読んでいたら、小林も同様の事を言っており、古来から天才の作品は、それが男が作ったものか女が作ったものか、そんなものを越えているのだという旨の事を言っていた。答えは、(僕に言わせれば)それで尽きているのではないかと思う。

 これとは逆の意見をよく見かけるので、こうして書いているがーー僕らはある作品や行為から逆に、その人の性別、環境へと遡ろうとする。しかし、答えはその逆であって、彼はそれらの個別性を乗り越えたからこそ、あのような作品(例えばD猫殿下さんのピアノ)を作り上げたのだ。僕としてはそれ以上に言いたい事はない。
 
 フェミニズムというのか、ジェンダー論というのか、そういう人がやたらに抽象的な論議を積み重ねているのをよく見かけたりする。しかし、フェミニズムにしろナショナリズムにしろ、何イズムにしろ、イズムを通してしか物を見れないのはさぞ、しんどい事だろう。ただ、これらのイズムに取り憑かれた人達は、自分達は賢いと信じているのではないか思う。僕から見て、間違っていると思われるその点が正に、彼らの賢さの根拠なわけだ。

 優れた(古典レベルの)芸術作品は正に僕たちの目の前にある。僕たちはそれを普段歪めて見ているが、本当に歪んでいるのは作品の方ではなく、その人の視界ではないか。あるいは世界を眺めて、世界が歪んでいるのを指摘し、憤る一群の人達がいるが、歪んでいるのはその人の視界ではないか。

 世界を率直に見る事。そうすれば、世界に歪みなど一つもない事に気付くだろう。世界は世界の内において、一つの解決を果たしている事に気付くだろう。

 矯正すべきは自らの視界であり、それ以外ではない。その事に気付けば、世界はそのまま、それそのものとして存在している事に気付くだろう。

 しかし、余りに賢く、利口な人達に対してつける薬は存在しない。そういうわけで、僕はこれからも「愚か者」で在り続けるつもりでいる。
 

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文学の夢ともう一つの夢

 


 ナポレオンは死ぬ前に、自分の発言集や自分の書いたものは全て嘘っぱちだという事を言ったそうである。それを、小林秀雄が取り上げていた。

 ナポレオンは政治家であり、行動する人間だったので、彼が自分が書いたものを残余のものとみなしたことはある意味当然の事である。しかし、この最後の叫喚を小林秀雄は優れた文学的表現、と評していた。この辺りに、小林秀雄らしさというか、小林の鋭敏さがあると思う。
 
 一応、普通に考えると、ナポレオンは言葉によって書かれたものをフィクション、嘘っぱちとしてとらえたのであり、それは僕のように、言語表現にこだわっている人間からすると腹の立つ事かもしれない。しかし、それは本当ではない。実はこの言語表現は、言語表現の嘘を言語によって見抜く事ができるという、かなり特異な表現能力を持っており、過去の偉大な作家や哲学者らはみんなこの機能を行使してきた。禅問答などはその典型だろう。

 言葉が言葉を否定する所にまた一つの言語表現が成り立つ。これは不思議な事だが、事実である。しかし、それを我々読者は、「最初の言葉」として受け取る。だから、この読者にかけているのは、己の言語表現に対する否定性である。その否定性が付け加わって、言語ははじめて一つの行動となる事ができる。

 文学というのもこれと全く同じであり、おそらく、新しい文学は文学の持つ夢を破壊する所から生まれるだろう。それはあるいは、ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」のように、自己否定を内蔵した新たなシステムなのかもしれない。しかし、今の現状はそうではないようである。現状は、それぞれの作家が各々、それぞれが信じた文学の夢を作っており、その中でも「クオリティ」の高いものが文学賞などをもらっている。しかし、それらに僕は大した興味はない。

 おそらく、新しい鮮烈な夢は、過去の夢が破れる事から生まれるだろう。そしてこの新たな夢は、現実世界において、一つの巨大な行動として世間の中を巡っていくだろう。シェイクスピアの諸作品がこの世界においていかに巨大な生き物として練り歩いたか。そういう事も、これからおいおい決まっていくだろう。

詩人と「歌い手」




詩人になるために必要な事は

ただ一つ勇気があればいい

そんな事を僕は

この冬の夜に思います


もし、現代に中原中也がいて

インターネット上に詩を載せていたら

彼は今のように

有名になれただろうか?


…僕は無理だと思いますね、実際

何せ、世の中が欲しているのは

沈黙に似た美しさではなく

ただ、騒がしさ

それも世の中の人間にとって有益であるという

見かけを伴った騒がしさ

ただ、それだけしか望まれていないのですから


だから、現代の中原中也は

やっぱりあの当時と同じように

孤独にどこかの往来をぶらついているのでしょう

…僕はそういう気がしてならないのですが


そしてそんな詩人が一人で

病にかかって死にかけている頃

ニコニコ動画のランキングでは

「歌い手」達がみなさんから喝采を浴びているのでした

三島由紀夫と北野武の天才と欠陥について

 


 三島由紀夫北野武の二人は、天才かと問われれば、天才だと答えられる数少ないアーティストと言えるだろう。ちなみに、この場合、北野武は映画監督としての姿を言っている。

 僕もその事に対して異論はない。この二人は天才か?と言われれば、「天才だ」と答えざるを得ない。しかし、僕は同時に、この二人に、優れたアーティストが本来保持していなければならないものが欠けている事を見て取る。そしてこういう事を言っていたのは、確か吉本隆明で、僕の問題意識はそこから発している。

 三島由紀夫北野武の二人を並べて見ると、この二人の「才能」「天才性」は明らかなように思う。しかし、そこには何らかの欠けたものがある。では、それは何かと言われるとーー僕はそれを言いがたいのだがーー、それはオーソドックスな芸術に対する信頼、あるいは人生に対する希望のあり方、あるいは他者に対する信頼、そこから来る絶望のようなもの、ではないかと思う。これは説明がかなり難しいのだが、三島や北野の世界観というのは元々乾いており、そこには絶望も希望も入り込む余地がないように思う。つまり、彼らの作品を見ると、ツルツル乾いた氷のような場所を滑っていく感覚があり、情念がとどまる場所がない。

 以前に「3-4X10月」という映画を見た事がある。これは北野武の映画の中でも、優れた方の映画かもしれない。しかし、この作品を見て、僕はなんとも言えない印象を受けた。映像に対して、北野武は自らの情念を放散させるように描いており、そこに何かしら、留めるものがない。何かしら、本来芸術に必要なはずのある「抵抗」がない。では、この「抵抗」とは何か。

 三島由紀夫北野武と同じ事で、三島由紀夫の作品を読むとツルツル滑るような感覚を受ける。例えば、代表作の「金閣寺」。金閣寺では、主人公が金閣寺を燃やすまでの経緯が綴られているわけだが、しかし、この主人公は最初から最期まで自分自身の核に出会う事はできない。そしてそれはおそらく、三島由紀夫自身もそうだったろう。

 三島は、多少タイプが似ている芥川龍之介と比べればわかりやすいかもしれない。刻苦勉励によって自分の文体を彫刻的に彫り上げたという点では、三島は芥川に似ている。しかし、芥川には「蜜柑」とか「沼地」のように非常にオーソドックスな作品がある。これらの作品は本来、芥川が世界に対して希望を持ちたい、世界に対して明るいものを見たいという、そういう新たな思想が裏返って出たものである。

 おそらく、我々ディレッタント、技術も努力も欠いた僕のようなディレッタントでは、こうした通俗的な観念があっても、それは「直接」作品に出てしまう。しかし、それでは良い作品にはならない。あくまでも、希望は、現実に打ちのめされた後に出てきて、その真価を発揮するのだ。例えば、夏目漱石の虞美人草という作品は、どう考えても、駄作である。しかし、漱石が元々持っていた資質は、虞美人草によって発揮されていたとも言える。そしてその資質はそれ以降の「それから」に辿りつく事によって、独特な形で昇華されたのだ。

 僕は三島由紀夫の全作品を読んだわけではないが、しかし、おそらくは三島に「蜜柑」のような反転した世界を描く事は無理だと思う。表面的な形式が似ている作品はあるかもしれない。しかし、「蜜柑」のような、深さの反転した世界というのを三島が書く事は無理だと思う。それは彼に、そもそも絶望が欠けているからであり、そのために真の希望も見出させないからだ。もちろん、希望、絶望というのは単なる言葉にすぎない。僕が言わんとするのは、ある心の深さ、自己対象化、そしてそれをひっくり返す力、そのような事を言おうとしているのだ。(説明しにくいが)

 他の例を上げれば、太宰治だ。太宰には芥川と同じように「黄金風景」という短編がある。これは太宰にとっての「蜜柑」のような作品に当たっている。ここで、太宰は、時として現れる生理的現象、基本的に暗い色調で覆われた太宰作品の中にふと浮かぶ明るい調子を描く事ができている。「走れメロス」でももちろんかまわない。しかし、北野武ーー三島由紀夫のラインではそもそも、彼らに暗さが欠けている為、明るさも浮かばないという印象を受ける。そしてそれは、作品の表面的なあらすじとか、登場人物の暗さ、明るさを意味しているのではない。そうではなく、作品全体を支配する作者の情念の深さ、その暗さ、明るさを言っているのだ。

 北野武も同じ事で、北野武は映像を常に直接的に世界に解放してしまう。本来はそこで言いよどんだり、迷ったり、立ち止まったりしなければならないが、その部分が決定的に欠けている。人を殺したり、陵辱の場面がそのままに映像に現れたりする。しかし、それは、少年少女の恋愛を描いている時でも同じなのだ。北野武の中で、本来、心に留めるべきところで、それは直接世界に放散されてしまう。そしてそれはそのまま映像となってしまう。だから、ある意味で、北野武は本当に才能に恵まれていると言えるかもしれない。しかし、「才能」だけでは、「本当に」優れた芸術作品とはならない。

 もちろん、北野武の映画は、芸人の余技というレベルを越えている。松本人志の映画や、太田光の小説などとは比べる事ができないレベルに達している。しかし、それだからこそ、僕は彼の作品に抵抗と違和感を覚える。しかし、それは北野武の天才性を充分感じているからこその事でもある。この辺りの判断は自分には難しい。

 僕は以前に書いた太宰治論で、太宰は最期まで自己対象化する事を忘れていなかったという旨の事を書いた。それは人間失格に対する分析だった。人間失格のラストでは最期に、暗い主人公に対する、他者の視点が微かに現れる。太宰は常に、絶望に対して、ユーモアによって逆説的に抵抗するという事を忘れなかった詩人だったが、崩壊直前でもその事を太宰は忘れはしなかった。そしておそらく、三島由紀夫にかけているのはこのユーモアの点である。といようり、三島に欠けているのは、この最後の他者の視点である。三島由紀夫は、いわば言いっぱなしの、告白しっぱなしの太宰治みたいなものである。告白し、なおかつそれが何かを他者の視点によって相対化するという事が太宰文学の本質だった。しかし、三島の恐るべき才能は、告白して、それを世界に投げて、それで終わってしまう。小林秀雄は三島由紀夫に対して「なんでもかんでもあんたが頭で発明としたものでしょ」という事を言ったらしいが、それは全く正しい。結局、三島の最後の自決も三島が自分自身にこしらえた劇だった。しかし、そこで三島は、あまりにも真面目すぎ、あまりにも真剣すぎたとも言える。そこで、自分は滑稽な存在だという事、自分は笑うべき存在であると同時に、それを自分はするのだ、という二重性の問題はなかったのではないか。僕の考えでは三島ーー北野らが自殺に傾く傾向があるのと、太宰ーー芥川が自殺に傾く傾向があるのとでは、傍目には似たようなものに見えるだろうが、本当は違うものだと思っいてる。それは少しだけ、ずれて違うのだが、この「少し」が非常に重要だと思う。

 余りうまく言えなかったが、僕の北野武、三島由紀夫に対する印象はそうしたものだ。二人共既に、世界的な評価を受けたアーティストであり、それに見合った力があるという事は言うまでもない。しかし、それにも関わらず、この二人は、本来、芸術初心者にも備わっているかもしれないあるオーソドックスな観念、正義感、善悪観、世界に対する信頼、そこから来る絶望…のようなものが欠けているのではないかと思う。その点が自分にとっては、二人に対する疑問となっている。そしてこの事は当然、二人の才能が欠けているものを示すものではない。そうではなく、才能以上に大切なものがこの世にあるのではないか、というそういう問題意識と関係している。
 

 誰に向かって書くか ~「理想の読者」について~



 魔法少女まどか☆マギカはパクリだという記事を書いた人がいて、予想通り炎上している。

 パクリだとか、過大評価というのはよく言われる事だが、その背後には、そう言う人間の卑屈な自己主張がある。しかし、そういう人間を叩く側にも、やはり卑屈な自己主張がある。そうして僕にも卑屈な自己主張がある。結局、全ては卑屈な自己主張である、と言えば単純すぎるかもしれないが。

 以前に、自分の書いたものが動画上の広告などに反映され、一時的にその記事のアクセス数が伸びた事がある。コメントも沢山ついたのだが、今覚えば、「それはそれ」という感じがする。例え、自分に大勢のファンがつき、あるいはそれこそノーベル賞作家になったとしても、クリエイターは必ず「少数の者」に向かって書かなければならない。言い換えれば、書くとは頭の中の理想の読者に向かって語りかける事にほかならないのだが、この理想の読者のレベルは絶対的に高次なものでなければならないと思う。この理想の読者のレベルを引き下げると、書くものの品質もどんどん下がっていく。だから、理想の読者の設定は、作者にとっては一つの死活問題と言える。もっと言うと、それぞれの人間が書くもののレベルは、この読者の設定如何で変わってくるとも言える。

 だから、おそらく、書くとは、未知の、永遠に向かって自分の事をべらべらと喋りかける事かもしれない。昔の偉い人などは、おそらく、神に向かって一人語りかけたのだろう。神がいない今、僕は一体、誰に話しかければいいのか。それは大衆ではない。2ちゃんねらーではない。自分の信者に対してでもなく(そんな人はいないが)、自分のアンチに対してでもない。それはその向こう側にある、ある高次の存在に向かって、だ。

 そして、その高次な存在というものは、おそらく決して現実には存在し得ないものだろう。そしてその魅力の源泉はおそらく、それが現実に存在しないという事にある。荘子などが見抜いていたように、役に立たないもの、現実に存在しないものは正に、それゆえに現実に対して大きな恩恵を与える。そういう事はありうるのだ。それが、僕にとっての「未知」の価値の定義だ。

 批評の陥りやすい罠




 それなりに優秀な批評家の人でも、間違っていると思う点が一つある。それは頭の良い人ほど陥りやすい罠だ。それは、クリエイターはそこまで意識的に物を作っているわけではない、という事だ。

 フロイトに起源を発する「解釈」という考えがよくないのだろうが、クリエイターや作家が自分の作っているもの、一字一句に、頭の良い批評家が考えるほどに意味を込めているかどうかというのは、かなり疑問だ。今の批評家らのしている事を見ていると、大抵頭が良いのだろうが、単なる知的見世物に堕している感がある。つまり、この作品の〇〇という場面には、実はこういう意味があります、などという知的見世物だ。

 例えば、魔法少女まどか☆マギカに対して、ああだこうだという理屈をこねて、「ほうら、どうですか、この作品の裏にはこんな思想がありますよ」などと僕らにわかりやすい見世物を見せてくれる。しかし、クリエイターが本当にそんな意味を込めて一々物を作るかというと、そんな事はないと思う。大体、もしそうだとしても、そんなマニアにしかわからない事を細かに詮索するの批評の役割ではない。批評の役割とは、僕たちがその作品全体から受ける印象を明確に論理化する事にある。もっと言うと、感動の論理化、感動の言語化という事になる。そこに批評の役割があると思う。

 批評などの知的操作というのは、やっていると単なるマニアックな知識の集積みたいになってくる。しかし、今の批評、今の知的な見世物を僕は大抵信用していない。優れたアーティストというのは、大抵、感覚でやっていると思う。そしてこの感覚は、天才に固有のものだとか、恵まれた才能故のものだとかいうものではない。それは例えば、ビートルズの方がツェッペリンよりも好きだとかいうような、そうしたものだ。つまり、そうしたものも「感覚」の一つと言えると思う。アーティストはいわば、そうした感覚の延長で、例えば「ここはオルガンよりもシンセの方がいい」とか、あるいは「この比喩はこちらではなく、もう一つの方がいい」というように選択していくのだろうと思う。そこには不思議なものはないのだが、(だから誰しもが感覚を持っている)それは言語化しにくい。しかし、そこには感覚、勘、というような内容がしっかりと存在している。そして批評はそれをまた別の言葉に翻訳していく。

 しかし、今の批評は大抵、知的見世物に終始している。自分はそういう事とは離れたところでやっているつもりである。そしてその場合の僕の師匠ーー先生は小林秀雄一人だ。その他の人は僕はほとんど知らない。

目標を定める事は難しい

 自分のような人間というのは、仕事に行っている間以外はずっとパソコンの画面の前に座っている、廃人みたいな人間である。神聖かまってちゃんの曲の歌詞に「あんな大人になりたくない」みたいな歌詞があったが、正に僕はその代表である。僕がもし年長者として、年下の人間にアドバイスする機会があるなら「自分のようにだけはなるな」と言うに違いない。

 とはいえ、そういう言い方というのも考えものである。例えば、小説家志望者が「将来、村上春樹みたいな偉い作家になりたい」と言っても、一般人は頷くだろうし、それはそれほど不遜な考えではないように見える。しかし、実際、僕の理解では村上春樹よりも、同系統で言えば、ミシェルウェルベックの方が作家としては力量が上である。しかし、小説家志望者が「将来、ミシェルウェルベックみたいな作家になりたい」と言えば、普通の人には「?」と思われる事だろう。

 こういう言い方で、僕が何を言いたいのか。それは簡単な事だが、目標を定めるという事は普通に考えられているよりもはるかに難しいという事である。(ドラッカーも言っていた) 手回しオルガン弾きさんも言っていたが、人は目標を、夢を実現するための努力はするが、夢そのものを吟味する努力は怠っている。だから、ここに、天才にむずかしい事は凡人にはたやすく、凡人にむずかしい事は天才にはたやすいという奇妙な事態が現れる事になる。天才というのは常に凡人より遅れてやってくる。しかしその代わり、天才は現れるやいなや、凡人をものすごいスピードで抜き去っていく。それは天才が人一倍才能が溢れるからではない。そうではなく、彼の目的意識、彼の夢そのものの設定が凡人のそれより圧倒的に優れているからだ。しかし、この目標の設定に、過去の天才はおそらく、かなりな神経と努力を払った事だろう。しかし、この努力は一般には努力とは見えまい。普通の意味では努力とは、机の上で十時間ぶっ続けで勉強する、みたいな事だからだ。そしてその勉強の方向性についてはほとんど吟味されない。

 そういうわけで、目標や目的、夢を設定するという事は極めて難しい事である。個人的には、村上春樹やノーベル賞文学賞や芥川賞、直木賞なんてのは、個人の持つ夢としてはかなり低い目標設定だと思っている。(一般にはそう言われないだろうが) そして、僕にとっての目標設定は(馬鹿げていると思われるだろうが)、とりあえず、神聖かまってちゃんというバンドを芸術的に乗り越えるという事である。これは笑われてしまうだろうが、僕は、自分のしている事が神聖かまってちゃんの思想を乗り越えるという目標は、ノーベル賞を取るよりもはるかに難しい事だという確信を抱いている。

 まあ、一般的には笑われてしまうだろうが。

 「言いたい事を言う事」と「表現」の違い

 「言いたい事を言う事」と「表現」の違い


 
 一般にどう思われているが知らないが、言いたい事を言うという事と、言いたい事を表現するとは別々の事実である。

 ネットで色々な意見を見てみると、ただ言いたい事をブログに綴っている人をよく見かける。しかし、そんな事をしてもどうにもならないのではないか、と僕は思っている。僕が〇〇したいと思っているからと言って、「〇〇したい!」と書いたところで、それはどうにもならない。問題は、その源泉に何があるか、という点だ。表現という事を考える上では、そういう点までさかのぼってみなければならない。

 例えば、よくある話だが、「この小説の言いたい事は何ですか?」みたいな質問がある。この質問に対する答えとしては「それはこの小説の最初の一行から最後の行までの事です」としか、言いようがない。我々はある作品や、ある哲学者の思想を、二言、三言に要約する事はできる。しかし、要約されたものと、要約した元のものとは違うのである。そしてこのズレを認識できなければ、「表現」というものは成り立たない。

 最近は何でも脳髄皮質で要約して、簡単な答えを出し、もう全てわかっているという顔をしている人が多い気がする。しかし、それは「わかっていない」のだ。では、わかるとは何か。わかるとはその内容自体を理解する事だ。そして、それは決して「要約できない」ものだ。しかし、要約できないものを無理に要約する事はできる。しかし、この「無理に」という言葉を現代社会は、急いで省略しようとする。

 僕としてはこうして、人々が全てを簡便にして、ある概念に単一化するという現象に逆らいたいと思っている。言語の豊穣は沈黙から生まれる。そして語る事は、語りえない事が源泉となって流れ出すものだ。ある知識を僕達が知っているという事は、どういう事か。知っているとは、どこかで聞いた、どこかで見た、という事ではない。それを自分の肉体に化したかどうか、ということだ。

 そうして、この「肉体」はやはり言語化不可能に近い。

文学フリマというものに行ってきました

2015-05-05 07.41.04


文学フリマというものに始めて行ってきました。そこでクランチマガジンというサイトで出会った山田宗太郎さんや九十現音さんなんかと少し話してきました。


元々、この「ヤマダヒフミ」という人物は、このネット上の存在に限定させるつもりでした。でした、というのも妙ですが、無意識的にそういうつもりでずっと自分は文章を書いてきました。現実の僕(本名は別にある)など、何ものでもないという発想が始めにありました。というより、現実にうんざりして、ヤマダヒフミという空想的な人物に逃げ込んだというのが事実でしょう。現実の僕などつまらないものです。


ただ、そういう事もずっとやってきて飽きたので、ふとこのヤマダヒフミという人物が現実に現れたら、人はこのヤマダヒフミというフィクション的な人物と、現実の僕とのズレをどう認識するのか、気になりました。理屈をつけると、そんな感じで始めて「ヤマダヒフミ」という形で他人と出会いました。そしてそこでは僕も知っている、山田宗太郎、九十現音という人の、フィクションと現実とのズレを僕の方でも視認できました。それは奇妙な体験であり、なかなかおもしろかったです。


僕は以前にドストエフスキーを自分なりに調査しました。ドストエフスキー論を書くつもりで。しかし、その際、僕の中でどうしても矛盾として残された問題があります。それは周囲の人物が描き出すドストエフスキーという個人と、ドストエフスキーの作品との間にある圧倒的な「ズレ」です。作者と作品との間にある圧倒的な溝です。そして、実を言うと、この溝こそが、作者が現実からスタートし、作品というもうひとつの現実をつくりだした距離そのものを表しています。つまり、その距離を作者は生誕の時からずっと旅してきたと言えます。


いい書き手というのは、誰しも現実の作者と作品との距離が圧倒的に乖離しています。だから、僕もある種、そういう点を狙っていると言えます。つまり、現実の僕を置き去りにして、ヤマダヒフミという奇妙な人物が突出して世界の外に出て行く。そういう事を狙っているとも言えます。


しかし、それもある程度やってきたので、今回、ヤマダヒフミとして始めて人に出会いました。それはなかなかおもしろかったです。ただ、フィクションの自分が現実の自分よりも上位にあるという事はおそらく今後も変わらないと思います。


色々理屈を書きましたが、まあ、実際はふと思いついて、文学フリマに遊びに行ってきたというのが実情です。出店者並びに、来場した人はお疲れ様でした。



 「才能」を越えて




 才能という言葉は世間ではもっともいい加減に使われている言葉の一つだろう。2chなどを見ると、この言葉が非常によく使われている。


 努力という言葉も、才能という言葉に負けず劣らずよくわからない使われ方をしているが、才能の方がさっぱりわからない。例えば、ある作品がヒットすると「〇〇には才能があった」と言う。これはほとんど何も言っていないに等しい。本当は、自分達にわからないものを「才能」という言葉の中に、まるでゴミ箱に捨てるように捨てている、というのが正しいだろう。


 小林秀雄が、ある言葉ーー符牒が流行するのはそれが「屈伸自在」であるからだ、という事を言っていた。これはわかりにくいが、よく考えると簡単だ。つまり、ある言葉、ある語に対して、人々が各々勝手な願望や思いを入れても、別に不都合ない(と思われている)から、その言葉が流行するという事だ。「才能」という言葉はその好例だろう。「才能」という言葉を人が使う時、人はそれが何を意味しているのか、よくわかっていない。例えば、ある優れたアーティスト…例えば、坂本龍一にしよう。坂本龍一が優れたアーティストであると仮定すると、「坂本龍一には音楽の才能がある」とかあるいは「ない」とか言ったりする。


 しかし、その際、その才能という言葉が坂本龍一の音楽のどの辺りの部分を指して言っているのか。坂本龍一に一体どのような意味での「音楽の才能」なるものがあるのか? という事は全くもってよくわからない。というより、わからないという事を全て、「才能」という言葉のブラックボックスに入れ込んで平然としている。しかも、これが一応のロジックとして世の中において成り立っている。


 では、「才能」とはあるのか。それはどんなものか。


 僕個人の意見では、才能とは意志の事に他ならないと思う。言い換えれば、「やる気」である。しかし、そう言うと「やる気があってもうまくいかない人もいる」としたり顔で説教する人物もいるだろう。だとすると、その「うまくいく」とは一体どんな事だろう? 生涯に一枚しか絵が売れず、死後にその絵に高い値段がついたゴッホという人物は「うまくやった」のだろうか? そういう事はどうなのだろう? 僕個人の考えでは、ゴッホには「意志」という「才能」があり、彼はそれを長い修練の果てに、その色彩によって表現し得た、としか言いようがないに思う。それ以上の事は言い様がない。ここに他人の評価を持ってくると、ゴッホの意志や努力に比べると、偶然的な要素が多分に入ってくるので、それはまた別の視点を持ち出すしかないように思う。つまり、ベートーヴェンのCDとAKB48のCDが、日本という国のある時期において、同じくらい売れるという事はありうる事だろうが、それらを並列に論じる事は僕にはできない。しかし、それらを並列して論じる視点はあるのだろう。しかし、それが芸術的な視点であるとは全然限っていない。というか、それはどちらかと言うと、大衆論のようなものに傾くだろう。僕は今の所、大衆論をする気はない。


 というわけで、「才能」という言葉を自分は「やる気」「意志」だと捉えている。「やる気があってもうまくいかない」「意志があっても夢破れる人間もいる」…という人は、その語句についてもっと真剣に思考する必要があるのではないかと僕は思う。僕などは、人間が抱いた全ての夢は間違いなく破れると確信している者だ。そして、全ての夢が破れる事から、もう一つの夢が始まるだろう。おそらく、そのもう一つの夢こそが、夢の形態を取ったもう一つの現実ーー真実だ。僕はそう思う。元々、文学とか小説とかいうものは一つの夢にすぎないのだが、それが真の現実性を持つためには、作者の夢が一度破れなければならない。つまり、作者が、「文学によって自分は幸福になれる」という夢を抱いている時、作品は作者の夢の従属物になりさがってしまう。しかし、作者の夢が、生における作者の夢が完全に敗れてしまうと、さっきまで単なる空想だった、文学作品という夢は、作者にとって忽然と、一つの実感ある巨大な現実へと変貌する。フィクションと現実の関係性というのはそのように、倒錯的なものであると僕は思う。僕達はそれを逆さに見る事から始めるが、道を歩くにつれ、自分自身が逆さになっていく。そして次第にフィクションという名の一つの現実に入り込んでいく。そして、かつて現実であった作者の自分自身はもう既に過去の夢へと変貌していく。奇妙だが、そういう事はありうる。そしてその道の間では、才能があるとかないとか議論するという事は大した意味ではないように思う。そうした道筋というのが一番大事なものであるように、自分には思われる。


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