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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

 幸福は自らの内にあり、外側にはない、という事 




 太宰治が「チャンス」という短編で、恋愛とは要するに意志だという事を言っていた。以前から太宰は好きだったが、こういうのを見て、ますます好きになった。

 最近、テレビやネットなどで、僕には馬鹿馬鹿しいとしか思えない理屈を、東大卒などの非常に頭の良い人などが言っていてびっくりしたりする。例えば「〇〇すれば、××という脳内物質が出るからいいですよ」のような理屈である。これは一見、科学的に見えるが、おそらく、そうではない。では、人間はついに、「××」という脳内物質を放出するために日頃行動するのか?という奇妙な問いが、その理屈のすぐ後に控えているからだ。しかし、ある行動をした時に、ある脳内物質が放出され、それが我々に快感を与える、というような理屈ならそれは科学者として正しいだろう。しかし、だからそれが「良いのだ」とは全く結論できないのだ。この点が、今の疑似科学者達に対して僕が一番疑わしく思っている点だ。また、同様に僕は、スピリチュアリズムについても、似たような疑問を持っている。

 文学とか哲学とかいう領域を歩いて行くと、人間というのは非常に奇妙なものだと心底納得する。例えば、「成功者は〇〇している」みたいな理屈に対して、文学・哲学的な領域は次のように反発する事ができる。「どうして、誰も彼もが成功したがっていると勝手に結論付けるのだ? 人間には、成功や幸福を愛するとともに、不幸や絶望を愛するという根強い精神もあるのだ。成功や快楽が良いとは、どのような価値観なのだ? そしてその価値観に基づいて、一連の唯物論的な物質の放出や離散を価値つけているというのはどういう事なのだ?」と。

 遺伝子や、ある物理法則が、我々に対して先験的に機能していると考える事はできる。しかし、だからといって、僕という個体の人生の問題が楽になるわけではない。しかし、遺伝子の解析や、物理法則の解析が、そのレベルにおいて、問題の解決となる事はあるだろうし、これまでもあった。それは人類にとって大きな恩寵であった。しかし、我々が生きている限りにおいて、苦悩しなければならないという事実は、我々がどれほどの金持ち、不老不死になったとしても、以前として確定的にあり続けるように思う。何故か。つまり、端的に言えば、それが「生きている」という事だからだ。道元は、悟りと修行は同一のものだと言ったそうだが、道元という人はそこで、悟りというものを静的で、固定的と考える事を捨てて、動的なものとして捉えようとしている。僕も全く同じように思う。つまり、人は、「例え、どこにも行くところがなくても、どこかに行かなくてならないのだ」ということだ。

 おそらく、もし実際にあの世が存在したとしても、それはあの世があればいいと願っている人達の満足を満たしはしないだろう。あの世に行った人達は、おそらく、あの世においてまたもう一つ別の「あの世」を想像して、自分を慰め続ける事だろう。だから、問題は今自分という個体が生きる事にある。というか、それ以外にはない。強い精神はこの事実を直視する。(ウィトゲンシュタインのように) そして弱い精神は、自己の外部に幸福を求めようとする。例えば、脳内のセロトニンの放出量、というように。しかし、おそらく、幸福というのはそういうものではない。セロトニンがどうであろうと、我々が幸福ならば、それは幸福なのだ。それは科学ではない? だとすると、科学とは何か? 我々が物質を勝手にこちらの判断、価値系列に位置づけている以上、我々はその価値系列そのものを吟味しなければならないだろう。唯物論者が知らずの内に、凡庸な精神論者に転化している様もそこに見て取れる。彼らは物を知らずの内に精神の系列に置いている。例えば、遺伝子が我々そのものであるかのように振る舞う、そのように記述するなど。

 自分達にとっての問題は、自分達が生きている事だろう。そしてその事から逃れるわけにはいかない、という理由から、我々は我々の常識に再び戻ってくるだろう。あらゆる科学は、スピリチュアリズムは、我々に手を貸してくれるかもしれない。あるいは哲学、芸術、文学は我々に何かを教えてくれるかもしれない。しかし、歩むのは自分なのだ。もし自動歩行機械によって歩いたら、それは人生ではない。そして自分の足で自分の人生を歩むという事には必然的に生の痛みがある。苦しみがある。そして苦しみがある以上、喜びもある。僕はそう思う。科学がどれだけ発展しても、それは我々の手助けとなるのであって、我々の「最終回答」となるのではない。何故なら、もしそれが最終回答となるなら、その時、我々の精神は完全に死んでいるーーーつまり、認識する主体自体が消えているからだ。

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短編小説を書きました

ひさしぶりに短編を書きました。以下のサイトで見られます。

http://ncode.syosetu.com/n4957cq/

http://i.crunchers.jp/w/7663

 ドストエフスキー・シェイクスピアの世界を飲み込み思想点




 孔子の論語なんていうものは今読んでも面白いと感じる。孔子というのは一元的に捉えられない多面的な要素を含んでいる。

 孔子と老子、荘子の対決というのは、おそらく更に奥深いものがあると思う。老子にとって、仁とか礼とかいうものは、人類が廃れた後に出てくる人工的な概念であって、それは笑うべきものだったのかもしれない。ニーチェは老子を知っていたのか知らなかったのか、よくわからないが、そういう意味ではニーチェは老子的立場に立っている。つまり、善悪の彼岸である。

 あるものが善で、あるものが悪であり、人としてあくまでも善を選ばなければならないというのはもちろん立派な態度だろう。しかし、僕がドストエフスキー、シェイクスピアにこうまで引かれるのは、彼らの世界内には倫理の領海線が存在しないからだ。同様の事はウィトゲンシュタインの論理哲学論考にも言える。おそらく、彼らはただ世界に対して「然り」という肯定の言葉のみを発したのであって、その中に正義も悪も存在しない。正義や悪は、我々が世界の中に引く一本の境界線である。ではその境界線を取り除くと、何が残るのか。もちろん、何も残らない。世界は再び混沌に戻る。

 だとしたら、混沌を混沌として取り扱ってやろうのではないか。シェイクスピアやドストエフスキーにはそういう不遜な態度が見られる。

 そういう点が、割り切った思想を持とうとしたトルストイなどとの大きな違いであるように僕には思われる。

(もちろん、今言った事は、哲学的観点、芸術的観点としての話しで、この世界に五体を持って生きる身としては、倫理があり、いきなり暴漢に襲われても「然り」とは言っていられないだろう。今言っているのはあくまで、この五体としての自分を越えた「上」の視点の話しである。こういう視点を人間が持つ事ができるかどうかはまた議論する余地があるだろう)

 芸術と芸術的なものとの違い





 パスカルが「真に哲学するとは哲学をバカにする事だ」と言っている。パスカルはおそらく、様々な形骸化の問題について、そういう一言で本質を貫く言葉を残していたのだと思う。
 
 これを自分の領域に置き換えると、「真に文学するとは、文学をバカにする事だ」という事になる。これもまた、パスカルの言うように真実であろうと思う。ちなみに、これをもっとも適正に実行したのは、セルバンテスではないかと思う。近代小説の始まりたる「ドン・キホーテ」は正に、「(当時の)文学をバカにした真の文学」だった。

 別にパスカルの言った事に僕は何かを付けたそうとは思わない。あらゆる思想、政治、芸術、制度が時代により形骸化する。古代中国の禅の坊さんなんかはその辺りの事をよく心得ており、自分の言う事が教義となる事をかなり恐れていたように思う。ソクラテスなんかが、書き物ではなく、話し言葉を重視したなんてのもそこらに原因があるのかもしれない。つまり、そこで言葉の意味が固定化し、それを後の人がそう捉えると、それは形式化し、形骸化するという問題だ。この時、いきいきした精神は言葉にとらわれてしまう。

 我々は言葉を使っているが、それに囚われるか、それを使用するかでは微妙な異なった態度を持つ事になる。相変わらず、創作という困難な行為に対して、方法論一つあれば十分だという考え方があるようだが、辞書を持っていれば英語が十全に話せるというわけではないだろう。例えば、僕がアニメ、ゲーム、小説を作るとして、僕はその創作の際に一々、手元(脳内)の方法論を参照して作るのだろうか? これは馬鹿げた事ではないかと思う。もちろん、そんな時もあるかもしれないが、根本的に人生というもの、現実というものは、そういうものではないと思う。マニュアルがあって、その通りに作ればそれができるという発想を持っている人間は、マニュアルではどうにもならない領域に敗れ去るだろう。あるいはそれらの人はついにその領域を見ないのかもしれない。

 あらゆるものが形式化し、教義化し、マニュアル化する。それは免れる事ができないし、それ自体適正な事でもある。しかし、現代の純文学とか、クラシック音楽、現代アートなどの領域では、『芸術的』なもの=芸術という定式を本気で信じている(信じる事によって成立しているアーティスト)が多数いるのではないかと思う。僕はそれは嘘だと思っている。芸術というのもまた、「芸術をバカにする事が真の芸術だ」と言える領域があると思う。真の芸術と、芸術『的』なものとは似て、非なるものだ。僕はそう思う。一例を上げれば、朝吹真理子とプルーストは似て非なるものであり、中村文則とドストエフスキーでは似て非なるものであるという事だ。それらは互いに、本質的には全く違うものだ。それはあまりに違うものであり、ただ、後に出てきた作家らが身につけた衣装がやや、その前に出てきた作家に似ているという事だけだ。本当は全く違う。

 僕などは、ベートーヴェンが現代に生きていたら、シンセサイザーもDAWも平気で使っただろうと思っている。しかし、そうなるとベートーヴェンというパーソナリティ、独自性は全く謎になってしまう。ベートーヴェンという独自性は完全に霧の向こうに消えてしまう。

 しかし、オリジナリティとか創作というものは、この霧の中から生まれてくるのであって、『芸術的』なもの、『芸術的』な雰囲気から生まれてくるのではない。最近はそういう事を考えている。

 昔を振り返って




 日々、自分のろくでもない人生に耐えるという事は一種の修行なのだろうか?とふと思う。しかし、衣食住がそれなりに事足りているではないか、と見る事もできる。

 誰しもが自分の人生を生きているが、自分の人生に誇りを持てないというのは奇妙な事だ。あるいは、我々が自分の人生に誇りを持てる日は永遠に来ないのかもしれない。誇りを持つ事ができるのは、我々の行為であって、人生ではない。人生とはただ流れているだけの川にすぎない。
 
 そんな詩的な言い方をしてお前はまた何から逃げようとしているのだ?と人は言うかもしれない。僕は小学生の頃、机でおとなしく文庫本を読んでいた所、ある口達者な(口の悪い)女子生徒に叱責された事がある。その女子は、非常にませていて利発な女子で、おおよそ、僕に次のような事を言った。「お前はそうやって本を読んで、フィクションの世界に逃げ込んでいる。そうやってお前はいつも現実から逃げ出している」 もちろん、そんな事を小学生女子がはっきり言ったわけではない。そのような事を言ったという事だ。僕はその日の帰り、その事がしきりと気になった。僕はその日の帰り、とても落ち込んでいた。そして自分は何か悪い事をしたのだろうか?と自問していた。

 二十九歳になった今も、僕のしている事はあの時と変わらない。思えば、非常に馬鹿馬鹿しい話である。僕は一貫して現実から逃げてきた。そしてフィクションの世界を拡大する事に努めてきた。聞いた話では、親鸞が比叡山から降りてきたのは二十九歳であり、ブッダが悟りを開いて、現実に帰ってきたのも、確か、二十九歳の時だった。

 それでは、僕もまた現実に帰らなければならないだろうか? しかし、その際、フィクションの世界で得たものを持ち帰る事が、人生という航路において必須要項となるだろう。問題は、僕が架空の世界で何を手に入れたか、という事だ。
 
 人間は日々、夢を見て生きているが、夢が現実だと信じている人間に、その「夢性」は伝えられない。政治や経済は現実であり、芸術は夢だと単純に定義する事ができる。だが、僕達は政治や経済で得た貨幣ーーその現実をまたフィクションにつぎ込む。あらゆる事が観念化された今、現実とは何か。…そんな事は定義できようがない。ただ、それが現実だと信じる個人がいるだけである。

 僕は小学生の時から、何も変わっていない。…高校生の時、二年生が三年生の卒業式に、クラスごとに二人ほど出なければいけないという決まりがあり、僕はくじ運悪く、それにあたってしまった。関係のない人達の卒業式で、僕は隠れて、村上春樹の「ハードボイルド・ワンダーランド」を読んでいた。それでまた、隣の同クラスの女子生徒に注意された。馬鹿げた話である。そして今も、馬鹿げた事は変わっていない。

 僕は僕の人生を振り返る。そうすると、そこに何もない事が僕にはよくわかる。しかし、他人が僕の空虚の中に、何か宝石を見つける事はありうるだろう。その可能性を僕は少しは信じている。

 …とはいえ、ずっと「怒られ通し」の人生なわけだが。

切れました



  
真空が風になったら

有が無になるのだろうか?

インターネットを通じて世界は

僕に逐一指示を出してくる

でも、時々、僕はそれを

風の中の雑音と聞き間違える


大学生の時に恋したあの子は

今は何才になっているだろうか?

…笑わせる、あの子は今

僕と同じ年のはずだ

…だが、その「はずだ」はいつか

壊れてしまうかもしれない

僕はふいにそんな事を思う

きっと、あの子は

年々若返っているに違いない


結局、人々が何を言い、どれだけはしゃごうと

相変わらず自然はそのゆっくりとした流れを止めない

人々が互いに嬉々とした表情で

お互いの首を刎ね合おうと

それでも、近所の野良猫はのんびりと

自分の肉球をぺろぺろと舐めているだろう


(…はい、わかりました すいません、すいませんでした 以降、気をつけます)

(ええ、もうこんな事は二度としません 間違えてしまったんです すいません)

(このお詫びはまた、後日、別の形で すいません それでは、また『あの件』よろしくお願いします)


ツー・ツー・ツー

電話は切れた

それと共に僕も切れた

電球が切れるように、パチっとね

近況など


 今小説を書いており、そこに自分の言いたい事、表現したい事を詰め込んでいるので、ブログの更新が疎かになっている。元々、自分のブログというのは自分勝手にやろうという事だけを決めていたので、読者の方の視線を気にせずにやっている。勝手なものである。

 小説を書いていて思うが、例えば「その小説で作者が言いたかった事」を、作者たる僕が作品とは別の形で表現するという事は基本的に不可能である。それは、論理空間における主体と同じく、言語化不可能なものだ。しかし、それを「要約」する事はできる。しかし、要約を読んだからといって、その作品を読んだ事はならない。だから、要約や単純化は、そのものの理解を助けるかもしれないが、そのものに実際ぶちあたる事の代用にはならない。

 有料ブログを書いているある人間が「面白いシナリオ制作方法を勉強した人間がどうして面白いシナリオを作れないのだろう?」という疑問を書いていたが、正直こんな事は寝言もいいところではないかと思う。そんな事は実際に自分でシナリオを作ろうとしてみれば、はっきりとするだろう。自分には才能がないとか適当な言い訳をせず、自分で実際にやってみたら色々な事がすっきりするだろう。結局、この手の方法論=制作という発想は、傍観者根性のなせる技だと思う。実際、ものづくりに取り組んでいる人間はそれなりに必死である。しかし、その必死さを論理化できない所に、こうした傍観者的視点が入り込む余地が現れる。とはいえ、小林秀雄や折口信夫みたいな人が、創作という事を精密に論理的に辿ったとしても、この手の人はこうした論考を熟読する力がないのだと思う。僕はよく思うのだが、もうほとんどの答えはすでに出ている。足りないのはただ、我々の力量だけである。過去を探るにつれ、素晴らしい物、良い物はもう出尽くしているような気がしてしまう。しかし、過去の良い物を「良い」と新たな価値判断に照らし合わせて言う事ができるのは、現在の特権であるわけだから、この権利を行使しないわけはないだろう。

 他にも色々書きたい事はあるが、とりあえずここまでとする。自分の書いているものにも少数の読者がいらっしゃると思うので、少し書いてみた。また色々表現していくつもりである。

ペンを落とす



多分、夜の音はハタハタと聞こえるし

君の声は波の音にとてもよく似ている

人間たちの世界はいつも

雨上がりに

キラキラと光るガラス片によく似ている

なんて書いてどうなるの?」と君は聞くけど

そう問う君自身がこの先どうなるのか

かつて真剣に考えた事があっただろうか?


宇宙の果てまで行けば

そこにはこことは違う大気圏があって

そしてそこでは僕達とは異なる論理空間が張られていて

でも、そこでもやっぱり

七次元的な存在が

一生懸命をものしているのだと思う


…ふと、そんな気がする午後

僕は机の上から ふいに

ペンを落っことした

世界が壊れた後




私達の言葉は耳を持って

この世界の中を飛んで行く

全てが光の珠になってばらけて散っても

君の微笑だけは

まるで彫刻のように残っている


世界が笑えば 君の涙一つが

それに照応しうる幻想となる

君達、人間の言葉はどんなものか

この一本の葦たる僕に教えて欲しいな

僕には依然、山羊の方が

まだ、少しは「人間らしく」見えたりするのだが


もし、宇宙が爆発したら

パルサーこそがホワイトホールだという事が証明されるから

その時、宇宙学者達は「これこそ真理だ!」と

爆発する地球の只中で叫ぶに違いない


そしてその時、サッカーボールを蹴っている少年は

無数の流星が降ってくるのを肉眼で確認する

しかし、医師達はそれを信じない

何故なら、それはMRIに映っていないから


経済学者たちは経済指標を改ざんするのに忙しく

政治家達は票を取るのに忙しく

作家は文体をひねり、哲学者達は

自分達がいかにデカルトとカントよりも立派であるかを

大層な数式を用いて証明していた


そんなこんなで消滅していくこの世界を

惜しむ人は一人もいなかった

しかし、そんな中で

精神病院奥深くに隔離された一人の狂人は

この世界が壊れる事を感じて一粒の大きな涙を流す

その涙は看護師達の嘲笑のネタとなったが

実を言うと

この僕達の世界はその一粒の涙から始まったのだ


だから、僕達は感謝しなければならない

あらゆるデータを放逐した後に流された

たった一粒の「人間」の涙に…


まあ、そのあと皆はまた

その涙をデータ解析にかけるのに

ものすごく忙しかったんだけどさ

ドストエフスキー・漱石作品における「意思」の問題

 ドストエフスキーの『白痴』という小説は基本的には恋愛小説である。しかし、この作品は同時に反恋愛小説とも言う事ができる。

 自分は自分のやっている事を進める内に、そういう事を発見したのだが、例えば、夏目漱石の小説においては三角関係が主題となっている。それは誰でもわかっている。しかし、本当に、真に問題になっている事は三角関係ではないという事に最近気づいた。漱石の作品において何故三角関係が、男女の恋愛関係の主軸となるのか。なぜ、一対一の関係にならないのか。それには簡単な理由がある。それは、個人の『意思』の問題が、三角関係よりも実は重大な問題として漱石に想定されているからだ。というより、この個人の意思は作品中では必ず、三角関係という形を取って現れる。つまり、「それから」の代助にとって、彼の個人意志の発露は、三千代という本来選んではならない女性を選ぶという事の内にある。実を言うと、代助が迷う、三千代と、お見合い相手である佐伯という女性との間にはそれほど差異はない。漱石の時代は、言ってみれば、男尊女卑とも言えただろう。それは漱石が女性を軽蔑していたからではなく、そういう時代だったからであるーーと一応逃げておく。その事については今は、それほど深く立ち入るつもりはない。ここで重要なポイント、僕の言いたい事は、三千代や佐伯、あるいは「こころ」における「お嬢さん」は自分の意思で男性を選択する力はまだない、という事である。ここが漱石の前時代性と言っても良い。しかし、ドストエフスキーの「白痴」においてのナスターシャは彼女の意思で生きている。しかし、これは先に言ったフェミニズム的な男尊女卑云々よりもはるかに深部にある問題である。女性が意思を持ち、自立した後、いかなる悲劇が起きたのか、という事をドストエフスキーは的確に描いたと言えるのであるから、女性の自立について、今僕は次のように定義する事もできる。つまり、時代の変化、あるいは女性側の要請により、女性が真に独立し、自立した知性を持つ事によって、彼女は一つの悲劇を演じる可能性を得たのだ、と。そして当然、この悲劇は個人の意思と関わりを持つ。そしてこの悲劇は一般的にぼんやりと考えられている幸福の丁度反対にあるという事も言っておきたい。

 自分が最近気づいた事はそういうーー要するに、漱石の作品にしろ、ドストエフスキーの作品にしろ、そこには決定的に個人の意思の問題が介在しているという事だ。というより、この意思、理想こそが全ての現実を照らす。それは、少し前に僕が自意識と呼んでいたもの非常に近いものだ。しかし、自己意識に限界はない。我々が自分の意識のあり方を振り返ると、そこには限界がないという事に気付くだろう。これに限界をつけるのは、自分ではなく他者である。したがって、ここにドラマーー劇が起こる。つまり、ある一人の人間が強大な意思、知性を持つという事が最初にある。すると、その知性はそれが巨大であるという理由によって、現実を否定する。現実を否定し、高く上昇しようとする。しかし、この知性は、それ自体の存在としては息苦しい存在である。だから、この知性は一度否定した現実に再び戻ってこようとする。つまり、代助にしろ、ラスコーリニコフにしろ、あらゆる現実を形而上的に徹底的に否定した精神すらも、現実に生きざるを得ないという所から彼らのドラマは始まる。この点が、彼らをして凡百の小説家と全く異なる存在にした。普通の小説家は単に、現実に起こる劇を描く。つまり、漱石やドストエフスキーは、一度現実を否定した人間もまた現実に生きざるを得ないという、いわば、折り返し、反復の問題としての立体的な劇を描いているのに対し、普通の小説家は二次元的な劇を描いている。まず、この点が違う。ありとあらゆる事を自らの脳内に収めたラスコーリニコフや代助のような人物は、まさに全てが終わった所から始めるのである。そしてこれらの登場人物が最初の一歩を踏み出すとは正に、作家である漱石やドストエフスキーの人生がそこで終わってからの事だった。この両者はおそらく、自己の人生が終わったと感じた所から、真に作品に新たなスタートを切らせたのだ。僕はそう思う。

 今はだいたい、そういう事を考えている。以上の事はスケッチ程度に簡単に書いたが、この事はいずれ本格的に哲学として展開しなければならない気がする。現実とフィクションとの関わりというのは、今まで自分の考えていたものと全く違うという事が最近になってわかった。以上の事は最近考えている事の、とりあえずの素描である。

理想と現実、フィクションとリアルとの相克について

 



 今小説を書いているので、小説の事ばかり考える。考えたくなくても、頭の外側で「それ」が回っているというか、そういう感じがする。

 人が理想を捉えるのではない、理想が人を捉えるのだ、と誰かが書いていたと思うが、それは本当だと思う。昔、吉本隆明が「どんな傑作恋愛小説も、現に恋愛している人を振り向かせる事はできない」と書いていた。僕は今になると、吉本の言っている事は間違っていると思う。しかし、これがどう間違いか説明するのは、至極難しい。

 何度かそういう意見を見かけたが、例えば、「小説(フィクション)というものは、人生の価値を上回ってはならない」という意見がある。これは至極まっとうな意見に見える。我々は皆現実に生き、自分の人生を生きているのだから、フィクションはあくまでもフィクションとして、我々にその価値を供するものであるべきで、この関係は転倒するべきではない、と。

 これは普通に見れば当たり前の、正しい意見に見える。しかし、そういう観点から僕達の人生を振り返って見た時、自分たちの人生はそう立派なものではないという事に気づく。我々は聖人ではないし、卑小な人生を送っている。そして時々、フィクションの世界に入り浸って「楽しむ」。そしてまた現実に戻ってくる。現実は大切だ。人生は重要だ。もちろん、それはそうだ。では、現実の何が大切なのか。人生の中の何が重要なのか。もちろん、自分が存在していなければ、小説を読む事も、アニメを見る事もできない。しかし、そういう観点からすると、自分が楽しむ、という事が人生の最終目標にならざるを得ない。つまり、人生、現実というのは自分と切っても切り離せない関係にあり、あらゆる物事の最終目標は、自分自身(の楽しみ)であるという事になる。これが現代人の偽らざる人生観ではないかと思う。

 これは嘘ではないし、これはこれで大事であろう。他人の為と言っても、その他人も、他人にとっては「自分」である。これでは堂々巡りである。だとすると、と僕は考える。本当に自分の幸福、自分の人生というのがあらゆる事の最終目標であるのか?と。どんな傑作恋愛小説も、現に恋愛している人を振り向かせる事はできない。だとすると、この世界にいわゆる恋愛小説がこんなにも氾濫しているのは、我々に素敵な恋愛が欠けているからではないか? これに対する答えも、「イエス」となる。なるような気がする。しかし、おそらく、真の答えは逆なのだ。そしてただその点だけが、吉本隆明をして小林秀雄を越えさせる存在にさせなかった。

 つまり、真にフィクションの世界に飛び込んだものは、あらゆる現実の事実を、自己意識の中で経験し(実際に経験したわけではない)、そしてそれを前提とする事によってフィクションの世界に入り込んだのだ。その点が本当は違う。そして我々はそうした作品を、この現実の方から眺めて見る。すると、それは素敵な、我々の人生に彩りを加える夢のお伽話であるように見える。しかし、本当はそう感じるのは間違っている(と思う)。この世界、人生、現実というものが、絶対的に乗り越えられないある線分を感じるからこそ、彼らはフィクションの世界に移動したのだ。

 要約して言うと、真の傑作恋愛小説を書いた人間は、現実の恋愛に見切りをつけたからこそ、ああいう作品を書いたのだ。彼らは現実、生活、人生というものを越えたからこそ、そういうフィクションを作った。だから、彼らは現実を越えて、フィクションの世界に移動した。しかし、フィクションというものも、現実にその形式を「拘束されざるをえない」。そしてこの「拘束されざるをえない」という事情を逆さにする事によって、我々は傑作作品に、作者の卑小な人生を見る。そしてそこでまた、吉本のように間違ってしまう。(別に吉本批判したいわけじゃないが)

 つまり、僕の言いたい事はこうだ。傑作を書いた作者は少なくとも、それを書いている間だけでも、彼らは彼岸にいる。彼らは向こう岸にいる。それはフィクション、あるいは形而上的な世界である。そして私達読者はこちらにいる。つまり、この現実という卑小な世界である。そして我々にとってはこの現実が全てだから、そうした観点から向こう岸の存在を理解しようとする。そして、向こう岸にいる人間をも、僕達の頭の中でこちらの岸の存在としてしまう。実を言うと、向こう岸とかこちらがわとか言っているが、我々にとっては現実が全てなので、基本的に向こう岸の存在は見えていない。見えていないものを理解する事はできないので、我々はそれをないものにしようとする。そして、本来向こう岸にあるものを全てこちらの岸にあるものとして理解しようとする。あるいは、理解した、という事にする。しかし、向こう岸から見たら、こっちの方が滑稽に見えるかもしれない。

 本当の意味で傑作を作った人は、現実を越えている。しかし、我々はそれが越えているという事を理解できない。何故なら、我々は越えていないからである。そして、実を言うと、越えた先にもう一度、現実というものが輝き渡る領域がある。それは小林秀雄から更に発展して、シェイクスピアやドストエフスキーのような大作家が発見した領域におもむかなければならない。そしてこの領域では、現実は再び、理想の光を受けて輝き出す事となる。しかし、それはいわば、理想という一つの橋を通って新たに現れた現実の新たな側面であるから、ただの現実ではない。我々のいる生な現実そのものではない。この点に関してはゲーテの言う「太陽が照れば塵も輝く」という格言がぴったりあうだろう。太陽とは理想である。塵とは現実である。理想(フィクション)がある事によって我々の現実は輝き渡る。しかし、それは現実を越えたものがあるから再び、現実は息を吹き返すというような意味である。普通の小説はこの点を全く混同している。彼らは一般に理想を持っていないので、現実の泥沼を這いまわる事を小説と称している。僕はそれは違うと感じているが、それはもちろん僕だけの勝手な考えである。

 こうした事に関しては、これから先も当分議論は続いてくだろう。例えば、「いくら太陽が美しくても、塵がなければ、それは輝かせる対象そのものを失ってしまう。太陽がいくら優れていても、塵がなければ結局意味はないのだ」というような。これはキリストと悪魔の議論と同様の議論であり、悪魔の問いに対してキリストは「人はパンのみによって生きるにあらず」と答えた。この「のみ」の部分だけに食ってかかれば、「結局、パンがなけりゃ生きられないじゃないか」という言い分につながる。ドストエフスキーもこの点を考えていたと思う。つまり、現実と理想との対立はこれから続くという事だ。そしてどちらも、相互に相手を必要としている。社会主義国家においては、パンこそが至上のものとなったのかもしれないし、現代社会もまたそうかもしれない。しかし、理想を失った現実は全てバラバラにちぎれたパンのように、細部のみの存在となってしまうだろう。今の私達は、そういう細部だけがつなぎあわされた理想なき社会にいる。しかし、理想が幅を利かせる社会では、我々は、「理想だけじゃ生きられないよ」と文句を言うに違いない。こうしてこの闘争はまだまだ続いてくだろう。

 ではそういう闘争をどう考えていくか。それに関しては、僕は自分のできる範囲で解決していきたいと思っている。あるいは解決できなければ、解決できないままにその問いを提出していこうと思っている。理想と現実との間に起こる矛盾はおそらく、劇という形で解消されるだろう。そして劇とは我々の理性を越えたところにあらわれるだろう。そして実は、文学というものはこの理性を越えたものをもう一度理性で捉える事にある。そしてそれこそが、小説作品の物語性を構成する事になる。今自分はそういう事を感じている。

生活と作品の間の距離について (夏目漱石を中心に)





 夏目漱石は、その代表作ではもっぱら三角関係を題材にしている。よくある批評では、結婚していた漱石自体が近くの誰それに恋をしていたとか(大塚楠緒子)いう事が取りざたされるが、そんな事は大した事ではないし、むしろそういう事を取り上げる事によって作品の価値を貶めるか、作品を間違って見てしまうと思う。

 もう一度、現実とフィクションの関係を整理しよう。我々は傑作を書いた作者を、精神異常や、現実にこんな事があった、あんな事があったと関係付ける。そしてそれを安易にやる。そしてそれは玄人的な見方をする人ほど、そういう見方に陥りやすい。そしてそこには先に言ったように、小説というものと人生というものがある程度似ている為に起こる誤解がある。

 しかし答えは逆である。僕は中学生の頃、一つの事がずっと疑問だった。つまり、「どうして現実世界はこんなに退屈なのに、書物の世界はこんなにおもしろいのだろう?」と。しかし、今になると、僕の答えはその問いに対して、逆さまに答える。答えはこうだ。「優れた作品を書いた作者は全て、現実というものをあまりに退屈だと感じていたからこそ、あのような優れた作品を書いたのだ」 もちろん、優れた作家が皆、現実を退屈に思っていた、感じていたとは限らないだろう。…しかし、ではどうして彼らはああいう作品を書いたのか?という事は、我々凡人にとっては謎となって残る。現実が楽しければ、そこに充足していれば十分ではないか。わざわざ骨折ってフィクションを作る必要はないだろう。

 我々は、夏目漱石の「こころ」を知っている。ドストエフスキーの「罪と罰」を知っている。太宰の「人間失格」を知っている。すると、作品から作者の生活が見えてくる。そんな気がしてくる。「こころ」に漱石の私生活の影がちらり、「罪と罰」に、「人間失格」の中に、作者の私生活の影がちらりと見える。あるいは逆に、彼らの私生活に作品の影が見える。夏目漱石は大塚楠緒子に恋をしていた。『だから』三角関係の小説を書いたのだ。だが、ちょっと待って欲しい。僕のような愚人は、この『だから』という接続詞をそう簡単に書いてもらいたくないと思う。もっと言うと、僕はこの二十九年の人生を、この『だから』の接続詞の空間の中、彷徨ってきた。馬鹿だと思われるかもしれないが、それは僕にとってずっと謎だったのである。

 こういう場合、我々は常に、物事を逆に見ている。作品というフィルターをくぐって、そこに作者の私生活を見ている。そしてそこに、自分達の予期していたもの…つまり、作品に似た作者の私生活を発見する。そしてそこで『思った通りだ』と独語する。しかし、それは間違いだ。僕はそう思う。作者は正に、我々と同じ現実を生きた。ドストエフスキーも漱石も、我々と同じような泥沼の、よくわからない、もこもことした現実を生きた。彼らはその泥沼から立ち上がり、なんとか必死であのような作品を書いたのだ。しかし、我々は作品を通じて彼らの生活、彼らの現実を見る。すると、彼らの生涯や、彼らの私生活は綺麗に整理された、我々の生とは違う立派なものに見える。しかし、それはそうではない。この点は再三指摘したいが、彼らは我々と同じ生を生きたのだ。彼らは、我々の卑近な日常生活と全く同系の日常生活を生きたのだ。そしてその泥沼から、あのような秩序だった作品を作り上げたからこそ、彼らは偉大なのだ。我々は通常、批評と解釈を通じて、知らず知らずのうちに作者を自分達と同じ次元に貶めている。しかし、それは間違っている。もしそうであれば、彼らがあのような作品を残す事は不可能だっただろう。漱石の作品に、大塚に対する生な感情が捨象できていなければ、漱石の作品はあのような偉大な作品になれなかったに違いない。僕がほとんどの批評に対して感じる不満というのは、このそもそもの前提を認識する事を批評家らが拒否している事にある。特に、現代の傍観者的な読者はすぐにわかった顔で色々な事を言う。しかし、答えは全く逆なのだ。僕はそう思う。作品が先にあって、生活が後にあるのではない。生活という泥沼から彼らはあのような作品を作ったのだ。『だから』彼らは偉大なのだ。

 我々は、我々がそれを持たない為に、生活と作品をすぐに密着させて考えたがるが、偉大なアーティストであればあるほど、この距離は膨大になる。そしてそれは漱石やドストエフスキーになれば、あまりにも巨大な差となってしまう。ここで、半端な解釈者が出てきて、漱石やドストエフスキーの中から卑近な日常の些事を取り出し、彼らを「親しみやすい」ものにしてくれる。これは僕ら凡人にはありがたいしかけである。しかし、僕はそれを拒否する。僕はどこまでいっても凡人だが、しかし理想を持って自分の人生を生きたいから。そして漱石もドストエフスキーも、自らの理想を持って自分の人生を生きた。大切なのは理想の方だ。理想は人生を照らしだすだろう。すると人生は、それまで我々に知られなかった輝かしい一断面を示すだろう。おそらくはそれが、彼らの作品の意味に違いない。

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