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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

人生は芸術ではない

簡単に言うと、人生は芸術ではないと思う。文学というのは、人生とイコールではない。それは人生を素材とするかもしれないが、全く違うものである。事実の連鎖を描けば、それが小説になるという事はないと思う。

最近の純文学というものが至極つまらない(と僕に見える)のはそれが、単に人生の引き写しにすぎないからではないか。というか、人生を描いたものなど読みたくはないと僕が言えばそれは暴論だろうか? そうではなく、僕が見たいのは、人生に対する作者の視点だ。作者の思想だ。それがなければ文学には決してなれない。僕はそう思っている。そういうわけで、文学というのは一種の光学だと思っている。思想のない作品なんて見たくはない。しかし、思想というのは哲学ではない。思想というのは一種の視座である。世界に光を当てる光源である。

世界に対して、人生に対していかなる態度も有していない人が巧みな小説を書く。僕はもうそれはいいと思っている。シオランは正にこの点に関して、次のような言葉を吐いている。

 「私に興味があるのはきみの経験ではない。きみが経験を提示する、そのやり方だ。生は作品ではない。」

 この言葉は回答として見事なものだと思う。

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ジャーマンウイングス社航空機墜落事件について

 


 ドイツ(現場はフランス)で飛行機の墜落事故が起きた。報道によると副操縦士が意図的に墜落させたらしい。副操縦士は二十七歳の青年で、操縦士を操縦室に入れさせないようにして、墜落の操作を行ったようだ。報道が全て事実だと考えると、この副操縦士は完全に正常な理性を保ったまま、完全な狂気の行為を行ったという事になる。

 まだ捜索途中なのでどうなるかはわからない。しかし、このまま、この副操縦士にテロリズムとの関与が見つからなかったり、子供の頃にひどい虐待を受けたり、という事がなかった事などがはっきりしてくると、この事件の重大性は自分の中で非常に大きなものとなってくる。つまり、現代では、ごく普通(に見える)人間が、ある日、突然、この世界を破壊させたいという暗い野心によって文字通り全てを破壊し尽くす、という事がありうる、という事だ。これは決して誇張ではないだろう。八分間もの間、ドアを破り操縦室に入ろうとする操縦士を無視し、管制からの呼びかけも無視し、ほんの些細な苛立ちをきっかけにして、極めて独善的な狂気を、冷静に実行して百五十人を殺す。これは考えられない事だが、もう起こった事である。

 世論としては当然、この人物を精神異常のカテゴリーに入れたいだろう。事実、この人物は鬱病だと診断されていたらしい。しかし、その他は非常にまっとうな要素が多い。友達もおり、ガールフレンドもおり、職にもついて、真面目な青年だった。 (非社会的という意味では僕の方が間違いなく、犯罪を起こしそうに見えるだろう) しかし、その人物がああいう事件を起こした。僕にはこの事件の極めて重大な意味は、犯人の凡庸性に起因するのではないかと思う。こうしたドイツの青年、あるいはこういう境遇、立ち位置の青年は世界にゴマンといるだろう。それどころか、この青年よりも恵まれていない(と見える)青年だって、それ以上の数がいるだろう。要するに、この青年の中のどこに一体、この世界全部を破壊し尽くそうというような心の闇が隠れていたのか、そしてそれがどんな小さな現実的な事件によって刺激されたのか、まったくもってよくわからないのである。ネットで見た意見だと、鬱病の診断をされて、勤務を差し止めるような指示が病院から出されていたらしい。しかし、精神をおかしくして、一時仕事を休むぐらい普通の人にもありそうなことだ。では、何故、それが百五十人を殺す、しかも、それが完全に正常な理性の元に行われなければならないのか?という事が、あまりに深い闇であるように僕には見える。おそらく、人はこの闇をないものとしようとするだろう。日本、ドイツを問わず、人々はそうするに違いない。その一番簡単な方法は、この人物を精神異常のカテゴリに入れる事だ。

 …しかし、もしその答えが逆だったら、どうだろう? と僕などはふと思う。自分がそのカテゴリに入るという事は、簡単に言えば、この社会で、非人間的存在となる事だ。もし、それに対する反発としてああいう事件を起こしたしたら、どうなのだろう? 人々の防衛機制こそが、ある種の人々の動機になったのではないか?

 以上の推測を、僕は自分でも信じていない。ただの問題提起だ。しかし、この問題の淵はあまりに暗くて深いように思われる。この副操縦士がこれまでに報道されたような人物であり、報道されたようなやり方で飛行機を墜落させたとするなら、犯罪というものは、これまでより(悪い意味で)一次元あがったような気がする。つまり、これからはあらゆる人間が犯罪者予備軍だという事だ。これからはほとんど動機がなくても、その人間の深い心の闇をたどれば、その動機は世界の破滅へと変化する事ができる。なおかつ、一部の人間が言うような心のケア云々という事も、僕には無意味であるように思う。心のケアをしてどうなるというのだ? 心のケアをされる、という事はその人間が世界から疎外されている事を逆説的に証明しているのではないか? 施しを受けた人間は正に、「自分は施しを受けている。つまり、自分は施しを与える人間よりも格下だ」と激怒しない可能性がどこにあるだろうか? 掲示板などで正論を吐き出している人間を僕は信じない。僕は自分の頭で、この闇の問題を考えるつもりだ。

井戸と世界




小説家志望は小説しか知らず

声優志望はアニメしか知らない

漫画家志望は漫画しか知らず

映画監督志望は映画しか知らない

だって私の専門はそれだから

だから、私はそれしか知らなくて結構

他の事はよくわからないし

それにもう新人賞の締め切りが迫っている


こうしてあらゆるジャンルは高度化と専門化を経て

次第にやせ細っていく

理系は文系を批判し、文系は理系を批判し

男と女は全く違う思考、生活体系の中にいて

隣国同士ではまるで考え方も顔形も違う


全てが分節化され、全てが

深い井戸の中にどんどんと潜っていく

おそらく、それは結構な事であるのだろう ただし

それが結構なのは

自分達が井戸の中にあるという事を知っている場合だけ


僕達はいつの間にか

井戸の中を世界と称するようになった

そしてその「大海」の中を泳いで

実に楽しそうな顔をしている


僕はこの世界のどんな井戸よりも

それよりもはるかに深い井戸を一人で掘って

そこに籠城しようと思っている


おそらく、その井戸の最下層には

全てを共通の原理に還す

一筋の水脈があるはずだ

そしてのその水脈を見つけたら 僕はそれを

絶対に一人占めにしてやろう


この井戸は僕のものだ!
 
そうだ、僕も皆と同じく

自分の殻に閉じこもって生きているのだ

ただ、僕はその事を…

深い所からのもう一つの視点で

見続けているような気もするけれど

小説家の自負

 



 私は次のような話を聞いた事がある。それはある、非常に高名な小説家が往来を歩いている時に、熱心な読者から声をかけられた時の話である。

 「〇〇先生」
 声をかけられた小説家は、声のした方に振り向いた。するとそこにはスーツ姿の、初老の穏やかそうな紳士がいた。その紳士は実に親しそうな雰囲気を醸し出しつつ、小説家に近づいてきた。小説家はその姿につい、普段の自分の人間嫌いのバリアーを一時的に解除してしまった。
 「〇〇先生。私は〇〇先生のファンでして。かねてから、先生にお会いしたいと思っていたのですよ」
 「そうですか。それはどうもありがとうございます」
 と小説家はまんざらでもない様子で言った。老紳士は言葉を続けた。
 「〇〇先生。先生のこの前の最新作、読ませていただきました。非常に面白く、良くできた作品だと感じました。私も家内も、それを随分と楽しく読んだものです。私は長年、ある食品会社に努めているのですが、家に帰って、あの作品を読むのが楽しみでしかたありませんでした。先生のおかげで、随分と楽しい時間を過ごさせてもらいました。あの作品、非常に面白かったです」
 「そうですか」
 と小説家は言った。しかし、その顔は今度は曇っていた。老紳士は、自分は何か相手を不機嫌にさせるような事を言ったかとハラハラした。老紳士は、自分の言葉を継ぎ足そうとした。彼は、相手に対する賛辞が足りないと思ったのだ。
 「先生。あの作品は面白かったです。非常によくできていたし、家内も…」
 「私は」
 と紳士の言葉を遮って、小説家が話し始めた。老紳士は黙りこんだ。
 「あの作品を人に『面白い』と思ってもらう為に書いたわけではないのです。もちろん、そうおっしゃってくれる事は嬉しいし、何か良い物を見つけた時にはそれ以外に言葉が見つからないという事も私は知っています。しかし、私はあの作品を魂を込めて書きました。私はあの作品が、この現実を、社会を相対化し、私自身の人生を越えてくれるようにと願って書きました。私はあの作品を書きながら、正に、あの作品の主人公が私から独立して発展していく様を、この目ではっきりと見ました。その時、私の頭にあったのは人々に面白いと言ってもらう事ではないのです。私は、人々のほんの余暇に適当な娯楽を提供したつもりではありません。私は、自分自身の人生とこの世界を徹底的に相対化し、それを、この世界とは別の観点から照らして、それ以前の世界より更に価値あるものとする為にああいうものを書いたのです。もちろん、それは私の意図であって、その私の意図が、読者のみなさんに伝わるとは限りません。しかしながら、私はみなさんに面白いと一言賞賛をもらうためにああいうものを書いたのではないという事はご承知いただきたい。ある者は、私がプロの作家だという事を知っているために、『どうやったら作家になれますか?』という愚かな質問ばかりしてきます。まあ、若い者はそんなものですが。ですが、私はそんな問いに答えるために、小説家などという仕事をしているのではない。私は卑小な一小説家にすぎないが、志だけはいつも大きくありたいと願っていた。しかし、それはあなたにはどうやら伝わらなかったようだ。残念です。次作では、あなたにも、『面白い』と言わせる以上のものを書いてみたい、と今そう思いました。それでは、私はこれで失礼します。それでは、また会う日まで。お元気で」
 小説家はそう言うと、老紳士の前を足早に去っていた。老紳士はそこに立ったまま、しばし呆然とした。

 私はこの話を人づてに聞いたのだが、この小説家を傲慢と評価すべきか、それとも優れた芸術家にとっては当然の自尊心とみなすべきか、未だにその判断をつける事はできないでいる。




                            (この作品の元ネタは野村胡堂「楽聖物語」のヘンデルの項から取りました)

三島由紀夫、小林ゆう等

 今、ちょっと集中している事があるので、ブログの更新がなおざりになっている。自分のブログを読んでいる人がどれくらいいるのかは全然わからないけど。

 それで、自分は今自分の大切に思っている事を隠して、凡庸な事をつぶやこうと思っている。適当な感じで。

 最近は、沈黙の重要性という事を心底感じる。言葉の威力というものは、実は沈黙から発せられるのだが、ツイッターやフェイスブックや、日常生活のおしゃべりで自分の沈黙を失ってしまっている人には、その威力というもの、そしてその力を生み出す沈黙というものの大切さはよくわからないのではないかと思う。愚痴を言うという事、掲示板に自分の憎悪を書き込むという事。こうした全てはノーコストのように見えて、実は非常に高いコストを支払っている。言葉というものに力が生まれるのは、その前に、言葉にできない無数の沈黙の力があるせいだ。ニーチェは日常生活では、非常におとなしい人だったようだ。

 また、言葉というものに力が現れるには、一つには「どもる」という事がある。偉大な文学作品というのは、よくよく見ていれば、どもっている事が非常に多い気がする。言いたい事があるが、それは一口に言えないので、言葉がから回る。そんな所に、作者の言いたかった事がチラリと見える。ドストエフスキーなどは、その典型だろう。僕には、三島由紀夫の作品にはあまりに「どもり」の要素が少ないように見える。「金閣寺」という作品をチラチラと見たのだが、そこではどうしても、文学にとって非常に大切な、重要なものが欠けているような気がしてならない。そしてその大切なものは、三島よりはるかに技巧的に劣る、文学初心者のような人間でも持っている事が可能性としては想定できる。では、その大切なものとは何か。これを言うのが非常に難しくて、どうしても僕はうまい単語が見つからなかった。これについてはまた、その内言及できたらいいと思っている。ただ、三島文学にはどうしても、ある決定的なのもが欠けているような気がする。だから、三島由紀夫を天才だと言うなら、僕はそれを心から認めるものの、しかし同時に、彼が真の芸術家であったとは思わない。真の芸術家とは、妙な言い方だが、片足引きずりながら美しい歌を歌うものだ。三島由紀夫の文学には、片足引きずっている様がない。それで、どうしても一流の芸術とは僕には見えない。もちろん、三島がああいう文学を刻苦勉励の果てに作り上げたのは間違いないだろうけれど。

 今、声優の小林ゆうのキャラソンを聞いているのだが、小林ゆうなんて人はまぎれもなく天才だと言っていいと思う。僕なんかよりは、十五倍くらい才能がある。
 しかし、その天才、才能には保留がつく。小林ゆうはすさまじい才能、パワーの持ち主なのだが、彼女はそれをどう使用していいか、よくわかっていない。だから、小林ゆうにはいいプロデューサーがついてくれればいいと思う。個人的には、神聖かまってちゃんに作曲して欲しい。しかし、そうなると狂人×狂人というコラボになってしまう。僕はどちらも好きである。そんな僕も………まあ、そういう事だろう。
 

漱石とシェイクスピアの言語表現ーー「像」について


 言葉が呼び起こす「像」表現について考えてみたい。

 吉本隆明がハイイメージ論あたりで言っていた事だと思うが、言葉というものには、それが呼び起こす「像」というものがある。これは、視覚表現とは違う意味での「像」だ。例えば

 あたたかい手
 
 という言葉があるとする。あなたは何を想像しただろうか?
 ここで、問題になっているのは、例えば、物理的な温度として「あたたかい手」なのかもしれないし、あるいは、心理的な温度としての「あたたかい手」なのかもしれない。そしてこの場合、後者の方の表現は、言語表現としてかなり特徴的な気がする。例えば

 私は彼の手を握った。彼の手は、あたたかった。

 と言う、冬場の恋人同士の仲睦まじいシーンがあるとする。するとこの場合の「あたたかい」は温度としてあたたかい、という事と、心理的に、人のぬくもりとしてあたたかい、という両方の意味を含んでいる。そして人はこの文章を読む時は、その二種類を特に区別する事なく読む。言葉というのはこのように心理的な像を引き起こす事ができる。

 (ロミオがジュリエットに言う) 「こんな塀くらい、軽い恋の翼で飛び越えました」

 これはシェイクスピアのロミオとジュリエットの一節だ。シェイクスピアが類まれなる優れた文学者であるという事は、シェイクスピアが使う、魔術的な言葉の組み合わせと関係がある。
 ロミオとジュリエットのこの場面の場合、シェイクスピアは、恋愛の力のおかげで、こんな塀くらい一つ飛びで来た、という事を表現しようとしている。この場合、恋愛という心理的なものの力と、物理的な「塀」という現象が、シェイクスピア独特の比喩によって結合されている。これを、実際にロミオの背中にキラキラ光る翼が見えるような視覚表現で、シェイクスピアの言わんとした所を言おうとすると、それは少し妙な具合になるだろう。そうした映像表現、視覚表現が必ず失敗に終わるとは限らないし、おそらく、適切に用いられれば良い効果を与えるだろう。しかし、それは、シェイクスピアの発見したある言語表現「軽い恋の翼で越えました」という形で言おうとしている事とは違うものなのだ。

 (物語のラストでマクダフが、最後の戦いを挑む前に仇敵マクベスに言う)

 「待て、地獄の犬め、待てというのに」


 これもまた、先ほどの、ロミオとジュリエットと同じような表現である。この場合、シェイクスピアは「地獄の犬」という言い方で何かを表現しようとしている。それはおそらくは、マクベスの悪鬼的な、憎悪の権化であるようなその姿であろう。シェイクスピアの言葉というのはこのように、常に心理的なものを最大限に誇張する形で表現されている。シェイクスピアを文学というものの頂点だと考えるなら、シェイクスピアは人間心理を、言語が呼び起こす像で最大限に拡張し、表現しようとした作家だと言う事ができる。シェイクスピアがつまらない、という人間も世の中にはいる事だろう。しかし、シェイクスピアがこうして点について極めて特徴的な表現を成した事に対して、見ないふりをして彼を否定する事はほとんど不可能であるように僕には思われる。では、もう少し別の例をあげよう。

 「奥さんとお嬢さんと私の関係がこうなっている所へ、もう一人男が入り込まなければならない事になりました。その男がこの家庭の一員となった結果は、私の運命に非常な変化を来きたしています。もしその男が私の生活の行路を横切らなかったならば、おそらくこういう長いものをあなたに書き残す必要も起らなかったでしょう。私は手もなく、魔の通る前に立って、その瞬間の影に一生を薄暗くされて気が付かずにいたのと同じ事です」

 これは夏目漱石の「こころ」からの抜き書きだ。この箇所は、「先生」が下宿にKという親友を引っ張りこんだ時の描写だ。
 この場合、最後の文章「私は手もなく~」という点を見て欲しい。こうした描写は漱石に特有のものと言えるかもしれない。これは非常に形而上的な描写である事に、おそらく読者は気づかれるだろう。

 シオランの言うように、文学とは経験をそのまま書くものではない。重要な事は経験そのものではなく、経験の呈示の仕方である。それは全くシオランの言う通りである。文学研究者は、作品から逆さまに、漱石に三角関係があった事を発見しようとする。そして実際、漱石には密かに恋心を寄せる女がいたのかもしれない。(多分、いたのだろう) だが、だから何?と僕はつい言いたくなってしまう。我々は誰しも、人を好きになったり嫌いになったりするだろう。それが、何故、偉大な作家夏目漱石が体験したそれとは違う体験だと、一体どういう理由で言い切る事ができるのか?

 僕が思うのは単純な事だ。この場合、漱石の形而上的な描写は、その特有の言語の働きによって我々にある像を呼び起こす。その場合、一つ一つの登場人物の動き、ちょっとした言動などは、全て漱石の形而上的な空間性と関係がある。
 
 漱石は、いわば、この形而上的な空間から、現実を、人間を見ている。だから、そこでは三角関係のようなありふれたプロット、物語、登場人物などでも、普通の作家とは違う全く異様な響きを持つ事になる。何故か。普通の作家、普通の人は、現実しか見ていない。しかし、漱石は自分の形而上的な空間から、この現実を見つめる。そうすると、この現実には、この形而上的な空間から放射された光によって、それまで暗闇の中に沈んでいた側面、隠れていた別の面が顕わになってくる。普通の作家、特に最近の、クリエイターは、残酷描写や極端な描写によって、読者の摩耗した神経をかりたて、刺激を送ろうとする。しかし、夏目漱石の場合は、ごく平凡な出来事の内に、我々が通常見つける事ができないような全く非凡な側面を発見する。そしてこの側面を発揮する為に、漱石が長年培った英文学、漢文学の素養、そして社会に対する洞察などの、彼の知性が大きな役割を果たしている事は間違いないだろう。つまり、ここでは知性が現実を照らしている。普通はそうではない。そして、知性が現実を照らしだす所に、漱石の独特な文体、描写が現れる事になる。文体とはただ弄り回すものではない。

 漱石の作品の文体(それから以降の)は、常にそのような、形而上的な文体に満ちている。彼は現実をある側面から照らしだす。しかし、この分析の仕方では、文体は分析できても、全体のテーマ、作品の構成は分析できない。この分析方法ではかけらを拾うだけである。かけらを集めても、全体にはならない。全体を統合するのはある意図である。だとすると、小説作品を分析する場合、この意図も分析しなければならない。しかし、それはまた次の機会にして、この分析はこれぐらいの所にしておく。

私自身にしか聴こえない歌





広い世界に出るなら

風をひとひらください

私の言葉が間違っているとあなたは

指摘しないでください


あなたの言葉が何であるか

私は知りません

私はいつも眠っています

私はいつも、「眠り」の中で眠っています

だから、言葉はいつも

あなたにささやきかけるでしょう

だって、この世界は一つのおおきな夢

まどろみの中で咲く花にすぎないのだから


人はドラマを基準に、フィクションを基準に

自分の現実を計っています

そしてその測量によって現実が造られると

思い込んでいるのです

だから、この世界は偽花ばかり

でも、本当の事を求めると私は

世界から孤立してしまう


だから、私は世界から孤立して

自分の歌を歌います

世界平和も戦争賛美もどっちもうんざり

私は私自身の中に閉じこもって

歌を歌います



…私自身にしか聴こえない歌を

小説家になるための方法

 
 


 今、色々と言いたい事があるが、沈黙している。自分の小説を書かなければならないからだ。

 ウィトゲンシュタインの「論考」と、ブッダや龍樹のたどり着いた悟りの事が今、ずっと頭から離れない。これらの事はやがて自分の哲学として昇華しなければならないと思っているが、どうなるか分からない。

 とにかく、何かやるという場合、世間の大半の人間の言っている事は無視するに限ると思っている。例えば、僕が小説を書いていると言えば、すぐに彼らはその現実的効用を求める。僕が「これから哲学をやるつもりだ」と言えば、ある種の人は、僕がどこかの哲学科の教授にでもならないかぎり、「哲学者」として認めてくれないだろう。彼らには常に、表徴が必要なのだが、僕は表徴のない世界を頭の中に飼っている。そしてそこで日夜暮らしている。

 ある小説の持つ傾向は、その小説の価値を直ちに決めるとは限らない。あなたの書いた小説が一次選考で落ちようと、ノーベル賞を取ろうと、あなたの書いたものは一字一句変わらない。しかし、これが変わると考える所に奇妙な論が出現する事ができる。たとえ、ワーグナーがろくでもないクズだとしても、僕が芸術鑑賞者としての自分を自認する限り、彼の人となりではなく、彼の音楽を聞かなければならない。ある作品にある傾向が認められるとして、では、それによってどうしてそれがいいのか、悪いのか、と問わなければ意味はない。もちろん、その先まで問うても意味なんてものはどこにもないかもしれない。しかしなくても、論理が尽きるまでは論理は伸ばさねばならない。中途半端な論理は、より精巧な論理に敗れるだろう。論理のはしごを登ってそれを捨てた人間と、途中で諦めた人間は、同じに見えるが、それはしかし、全く違うものだ。

 例えば、「どうやったら小説家になれますか?」という設問があるとする。そんな答えは簡単である。今この瞬間から、自分は小説家だと決めればいい。それ以外の事はない。しかし、普通はそうは思われないだろう。何故なら、普通小説家というのは、賞を取ってデビューして、出版社から本を出しているとイメージされているからだ。しかし、その定義を詳しく解剖していけばそこに何が残るか。

 クズみたいな作品を書いているプロと、優れた作品を書いている素人の二種類がいて、どちらがよい作家といえるか。いや、プロと素人の区別とはなんだろう? 書いたもので金を得たら、プロなのだろうか? だとすると、キンドルで自分の本を売って、わずかでも売上があれば、その人はプロだろうか? 出版社に属している人がプロだとすると、出版社に頼み込んで、とりあえず在籍だけすれば、それでプロになるのか? 世の中の定義というのは曖昧であり、世の中の大半の人はこの曖昧に向かって突進する。僕は馬鹿らしい事だと思っている。もちろん、プロになる、作家になると決めて、努力する事は悪い事でもなんでもない。書く事によって金を得る事、それを目指す事も間違っている事でもなんでもない。ただ、僕が馬鹿らしいと思うのは、人間というのが勝手に定義を決め、「あちらがわ」に何かがあり、「こちらがわ」には何もないと考える事である。僕の考えでは、そんなものはありはしない。こちらとあちらを分けているのは人間の頭脳であり、定義であろう。その定義を消去すれば、我々は未来の事、あるいはあちらの事など気にせず、今この自分を生きるべきだという事になるのではないか。

 僕はおそらく、ウィトゲンシュタインを誤読していると思うがーーーウィトゲンシュタインは論理のはしごを辿って、最後に一つの沈黙に辿り着いた。そしてその際に、彼にはあらゆる半端な論理は、より強大な一つの論理によって排除される事になった。と、すると残るのは何か。それは正に、野矢茂樹の言う通りの「幸福に生きよ!」という事なのではないか。我々は今あるがままで、与えられた人生を生きている。そして、それが全てである。テレビの奥にもう一つの世界が、デビュー後の世界にもう一つの世界があるのではない。「今ここ」が世界の全てである。

 と、すると今この瞬間から幸福に生きるしかないのではないか。それ以外の選択肢はないように、僕には思われる。…ウィトゲンシュタインにならって。

どこにも




例えば日本の事を語ると

誰かがお説教してくれます

例えば世界の事を語ると

誰かが怒鳴りつけてくれます

例えば私が誰かを褒めると

その誰かは私を褒めてくれます

私がおっぱいを出せば

沢山の人が私を見に来てくれます

でも、全部はそれだけ

でも、全部はただそれだけなので

私は凄くつまらないです

私はそれだけの世界がとてもとても

つまらないです

それでも、あなたはどこかで見てくれている?

「本当のあなた」なんてどこにもいないけど

小説を書く気分

 前にも書いたが、今ある小説に取り掛かっており、それでへとへとになっている。なおかつ、精神にもストレスがかなりかかっている。とはいえ、それが愉しいといえなくもない。なんというか、ものすごくはまりこんだRPGをやっているような気分に近いかもしれない。これをクリアするまで自分は死ねないな、というそういう感じである。しかし、これは僕が書いているので、最後までできるかどうか分からない、という事が違う。

 アインシュタインは「自分にとってはわかるという事がわからない」という事を言ったそうだ。小説を書くというのは、作者が頭でコントロールできるものだと普通は思われているだろうし、僕もそう思っていたが、どうしてもそういうものではないらしい。しかし、どうしてもコントロールできない段階に至って始めて「小説を書く」と言える現象が自分の中に現れてくる。僕などは理屈っぽい方の人種だが、いくら頭で理屈をこねても、実際手を動かすと、そこには頭で考えているのとは違う現実が現れてくる。(とはいえもちろん、それらは全て僕の中にあったものだが) これは僕にとってはあまりに不思議な感覚であって、今、僕が陥っている困惑を人にうまく伝えられるなら是非伝えたいが、それはうまくできないような気がしている。僕としてはとにかく最後まで無事書き終えたいのだが、最後まで書き終えられるかどうか、自分でも全く未知である。こんな妙な気分に陥った事は今までに一度もない。

 例えば、ドストエフスキーの小説にはあまりにも無意識的要素が強い。読者は次のページに何が飛び出すのか、わけがわからないが、しかしそれでも一つの世界に閉じ込められているような感じがするだろう。ドストエフスキーの作った世界から出たい気もするし、また、ずっといたい気もするだろう。多分、そういう感覚というのは作者のドストエフスキーも基本的に同一であって、彼もまた五里霧中を進んだと考えて差し支えないと思っている。つまり、執筆というものの技術が卓越してくると、ますますその人の無意識、存在の根っこに近いものが筆(キーボード)にのっかかってくる。そしてそれ故に、作者からしても読者からしても、『自分が何をしているかわからない』というような事になってくる。しかし、それにも関わらずそれらは全て自分(作者)の一部である! こんな奇妙な事が何故起こるのか、僕はもう理屈付ける力はない。ただ最後まで書ききりたい。

 今、自分のしている事は、後百年くらいしたら、「あ、あいつ結構がんばってたんだな」なんて思ってくれるのではないかと思っている(笑) 今、僕はウィトゲンシュタインを勉強しているが、彼の足跡を追うのは途方も無い労苦だ。おそらく、ウィトゲンシュタインも、百年後には自分は~と考えていたのだろう。無論、僕とウィトゲンシュタインでは格が違うと言われても仕方ないが。

詩に意味を与える事、詩自体が意味である事




あなたが詩人なら

言葉を使ってください

あなたが詩人なら

言葉で自分を表現してください

決して『概念』を使わないでください

『意味』なんてもってのほかです

あなたの詩が一つの意味です

あなた自身が一つの意味であるように

あなたが叫ぶ事があなたの意味ではないのです

あなた自身がそれ自体でひとつの意味なのです

勘違いしないでください …だから

あなたは詩を作るべきです 書くべきです

詩が意味する所は問題ではありません

詩自体が一つの意味であるように

そのように詩を書いてください

その時、あなたの詩はおそらく沈黙するでしょう

そう、それはまるで一輪の花のように

そして花と同じく

沈黙して咲いている姿こそが一つの意味なのです

それは人間みたいに意味を叫ぶ

醜い獣ではないのです

詩という生き物は

 〈小説空間〉について 2



 小説空間というものについて引き続き、考えていきたい。小説空間というものを想定すると、今の小説家達は一体、その空間とはどのような関わりがあるのか?

 例えば、〈青山七恵〉は小説空間とはどのような関係を持つのか? あるいは綿矢りさは、村上春樹、村上龍はどうだろうか?

 色々と問う事ができるが、これらの作家よりも、もっと重大な作家に目を向けよう。その方が問題はスッキリとするだろう。例えば、それはセルバンテスであり、ドストエフスキーである。僕の見立てでは、セルバンテスは近代小説の開祖であり、ドストエフスキーは現代小説の開祖と言える。つまり、彼らはまるっきり新しい小説空間を築き上げた、と言う事ができる。彼らは、この世界に新たな空間を開いた。そこで我々が日がな遊んだり、考えたりできる巨大な空間を開いた。そしてそれは過去の文学空間を否定する限りにおいてだった。

 セルバンテスがメタ小説から始めた事は知られている。彼は騎士道物語という古びた空間性を捨て去る事から、物語を始めた。セルバンテスのドンキホーテにおいて、その物語は二重化されている。彼は過去の騎士道物語の姿に自分を重ねあわせている。そしてそれと重ねあわせているからこそ、現実との間にズレができ、そしてそれが劇となる。ドストエフスキーに関しても同様の見方ができる。彼においても、罪と罰の前に、書かれなかった一章をこちらが勝手に見出す事ができる。つまり、ラスコーリニコフは全ての書を投げ捨てた後で、自分のドラマを作るべく動き出したのだ。

 ここで強調しておきたい事は、我々にとってある空間、ある形而上的論理というものが、それ自体、意味が無いと最初から諦める事と、その空間を完全に探索し終えた後でそれに意味が無いと悟る事とは全く違う、という事実である。世間には意図的にこのような混同をする人間が多い。つまり、それを知る事により、それが無能、無意味だと知る事と、知る前から諦める事とは全く違う事実である。カントは理性の限界を決めたが、彼は何もしなかったのだろうが? 彼は理性そのものを十分に行使できない愚かな人と全く同じ位相を持っているのか? もちろん、それはそうではない。我々は過去を知る事によって捨てられる。しかし、知らずに諦める事はそれとは違う事である。

 セルバンテスやドストエフスキーは端的に言って、過去の文学空間を捨て去る事によって新たな空間を創りだしたと言う事ができる。では、例えば、昨今の普通レベルの小説家はどうか。僕の答えでは、彼らは空間を模倣する。彼らはすでに開かれた空間しか考えられない為に、頭の中にあるのはプロットや登場人物の設定だけである。だから、彼らにとってはそれらをいかに巧みに描くかというその事しかない。つまり、全てが既知であるとすると、その組み合わせだけが問題となるというわけだ。

 自分の論理は粗雑だろうが、まあ先に進めよう。例えば、村上春樹や村上龍における小説空間はどうか。僕は彼らが、日本文学において新たな空間を開いたとまでは言えないと思う。彼らに大きな影響を与えているのはアメリカ文学であり、彼らは半分くらいはそれを模倣している。しかし、日本に元々そのような空間性がなかった事を考えると、彼らは輸入者としてのオリジナリティがある、と言えるかもしれない。そしてまた別の観点からすると、よしともばななのような作家は少女漫画的な空間を輸入したと言えるかもしれない。

 もう一度、今の普通の、芥川賞系、直木賞系の作家などに戻ると、そこには空間の模倣性が見える。彼らには基本的に空間のオリジナリティはない。では、この空間を創りあげる事ができるのは何かと言うと、それは「小説外」の力であると言っても良い。僕は、ドストエフスキー、セルバンテス、夏目漱石、シェイクスピアなどはいずれも巨大な思想家、また偉大な社会観察者であったと思っている。彼らはそれぞれが持っているものを哲学として露わにしても良かったのかもしれないが、彼らはそれを文学として表した。しかし、彼らの文学を偉大たらしめているのは、小説空間の外側のものなのだ。ここにおそらく、小説というものの最も重大な問題がある。「芸術がダメになるほどに芸術家が増える」とシオランは言っているが、そういう事とも関連がある。つまり、芸術が形式として行き詰まると、人は芸術空間なるものを最初に飲み込んだ状態から始める。そしてこの空間は、プロ、素人含めた多量の芸術家らによって飽和状態になる。(芥川賞の似たりよったりの作品を見ればはっきりする) 彼らは最初に、その空間そのものを飲み込み、それに対して一切疑いを抱かないので、その空間そのものが飽和し、こうして芸術全体が墜落する。そしてその時にこそ、新たな空間を生み出さなければならないだろう。そしてその事はクオリティの差ではない。登場人物やプロットの設定の差ではない。それは「思想」「哲学」(としか呼びようのない何か)の差である。

 では、この「思想」とは何かという問題は提起されよう。しかし、それは小説空間の外側の世界であるから、この論理で語る事は不可能であろう。それは「小説」というものの外側に位置しているので、小説の論理では語れない。つまり、それは現実と連接しているのだが、しかし、それについて今、問う事はやめておこう。私にはそれはあまりに過大な問いに見えるからだ。しかし、多くの小説家が、小説というものを一生懸命に読み、優等生的な素早い理解によって、それなりに優れた作品を書く、書けるという正にその事によって小説はやせ細る、という事は指摘しておきたい。そしてその事を破る事ができるのは、この空間をまとめて規定できる何かなのである。要するに、セルバンテス、ドストエフスキー、あるいはカントやデカルトなどが踏み出した一歩が必要なのである。では、その為に何が必要かという事は今は問わない。この事はまたの課題としておく事にする。

 〈小説空間〉について







 小説空間という新しい考えを思いついたので、その問題について提起したい。前置きは省いて、今は簡単に記す事にする。

 〈小説空間〉とは何か。小説というものの中に、ひとつの空間を想像してもらいたい。あなたが書いている小説、読んでいる小説の中に一つの空間があり、そこで主人公はその世界を探索する。ここでまず問題にしておきたいのは、主人公がこの世界を探索するという事だ。つまり、この世界は完全には既知ではない。例えば、村上春樹の中期以降の冒険小説を想像して欲しい。そこでは、主人公が世界を探索する事が物語の要になっている。そしてこの世界こそが〈小説空間〉である。

 小説空間というものの考え方で重要なのは、先に言ったように、この空間は完全に既知ではない、という事だ。つまり、主人公によって探索しなければならない。では、探索するとはどういう事だろうか。それは一言で言うと、「ライトで照らす」という事だ。この小説空間は、実は真っ暗な空間なのである。だから、ライトで照らす必要がある。そしてそのライトに該当するのが、主人公の意識である。主人公は外部の現象に対して「反応」する。そしてこの反応を書く事、つまり、主人公と世界との関わりを書く事によって、この世界=小説空間が次第に明らかになっていく。

 また、今のライトを使った探索でわかる事がもうひとつある。つまり、それは主人公がどのような人物かが、読者(と作者)に理解されるという事である。例えば、道端で弱っている子猫がいるとして、それを見かけた主人公が猫を助けてやれば、この人物が「優しい人物」、もし見捨てれば「ひどい奴」という事が読者に了解される。そしてその際、同時に、この小説空間そのものの、子猫ーー弱っているーーーなどが道具立てとして我々には呈示される事となる。

 つまり、小説空間と主人公(あるいはそれに類する人物)とは相互関係的に成り立っている。主人公が小説空間を探索し、そして、この空間が判明していくと共に、主人公その人がどんな人かが判明されていくという事に小説の重大な要素がある。

 更に論を進めよう。もう少し考えを煮詰めれば、次のような事が問題になる。つまり、「主人公がどのような人物であるかを判明させるためには、他者が必要となる」という事だ。人間というのは言うまでもなく、人間的存在である。だから、ある人間がどのような人間かを明らかにする為には、どうしても自分以外の人間が必要になる。そこで、小説には「他者」が導入される。つまり、人間関係が小説において問題となる。

 もちろん、他者の存在しない小説もあるだろうが、今は厳密さは問題にする気はないので、話を先に進める。では、さて、小説空間というこの特異な空間に、人間関係というものが導入された。それは何故かと言うと、主人公がどのような人物かを決定するためである。それはあたかも、私という人物がどのような人物かを決定するに対して、私と関わりあう他者、あるいはそうした私の生涯が必要であるかのようなものである。そう言う事もできるだろう。

 さて、ではこの思考をもう少しずらして考えてみよう。では、この小説空間におけるプロット、あるいは物語性は〈小説空間〉のどこに位置づけられるのか? その答えは簡単である。小説空間において、物語性は次の二つに分けられる。一つは、この空間から主人公が出て行く事。そしてもうひとつは、この空間に主人公がとどまり続けると決意する事。以上の二つである。

 例えば、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を思い起こして欲しい。この場合、主人公はニューヨークの世界にとどまり続ける事を決意する。だから、パターン2である。その逆に夏目漱石の「それから」はパターン1である。主人公の代助は、安寧のうちにあった高等遊民の世界を、友人の妻と一緒になる事によって、出て行く。だから、「それから」はパターン1と言える。

 この場合、小説空間から出て行く事(あるいはとどまり続ける事)によって物語は終わる。そしてこの際、特に重要なのは、この世界から「出て行く」というその意味である。普通、我々が「出て行く」という時、一体どのような事を想起するだろうか? この際、おそらく、私が「主人公は世界から出て行く、それよって物語は終わる」と言う時、人は、世界なるものに扉のようなものがついていて、そこから出て行く主人公を想定したのではないだろうか? 少なくとも、私が想起する場合はそんなイメージを持った。

 こうしたイメージの問題点は、「世界の外側にも世界がある」と我々が勝手に想像してしまうという事である。最初に言ったように、主人公は「世界の外に出る」のであるから、世界の外に世界があるわけではない。もちろん、世界の外に、元の世界とは違う世界があると考える事はできる。しかし、その場合、「違う」という時、人は勝手に、我々の知っている世界と同じ種類の世界を想像しているのだ。例えば、あの世について考える人間を考えてみよう。では、どうしてあの世はそんなにこの世に似ていなければならないのか? これが疑問である。あの世がある、と宣言するならそれは結構である。しかし、それがどうした理由で我々の世界と、時間ーー空間の形式などを同じくしていなければならないのか?

 また、もうひとつ問題がある。小説空間において、主人公が何者であるかは、主人公が世界を探索するその様によって決定されると私は先に述べた。つまり、主人公がどんな人物かという事と、その小説空間における空間が、どんな空間かという事実は共に連動しているのである。だから、世界の外に主人公が出るという事は、「かつての自分を脱ぎ捨てる」という意味なのである。だからもし、主人公が世界の外に出てしまえば、そこでは本当に全てが一変してしまわなければならない。しかし、その小説自体が、その小説空間そのものによって規定されているわけだから、その小説自体、そこで終わらなければならない。だから、そこで小説は終わるのだ。つまり、小説にその劇的なラストを約束するのは、小説の外部にある、その小説の外側の空間(あるいは空間の不在)のためなのである。そしてこれがなければ、小説は出口を失う。そして出口の外にあるものとは(それが何かは分からないが)、小説ならざるものである。つまり、小説に出口を作ってやるのは、小説でないもののおかげである。

 例えば、ドストエフスキーの「罪と罰」を例に取ってみよう。この小説ではまず、ラスコーリニコフという特異な人物の自意識と、それが見る世界により、小説空間が作られる。そしてこの主人公は様々な事を体験して、そして最後にはこの世界から出て行く。つまり、主人公は、自意識と懐疑の問題を解き、ひとつの解放へ、改心へと導かれるのだ。

 この時、ラスコーリニコフが、懐疑的精神、あるいはニーチェ的精神、全てを疑い、全てに対して疑問符をつけると共に、全てを観念化した人物である事、そしてその事によって規定された小説空間であるという事ーーーそれを知る事はたやすいだろう。だが、この場合、この小説空間を規定するものは何かという問いがまだ残る。

 見方を変えれば、この小説が一人称で書かれれば、ドストエフスキーの前作「地下室の手記」になるのである。しかし、地下室の手記は失敗作と読んでもいい。そこには明確な出口がなかった。何故か。この場合、小説空間そのものを、作者たるドストエフスキーがきちんと規定できていなかったからだ。それが、地下室の手記が一人称で書かれているという事だ。そして一人称にはある限界がある。それは、自分の背後を規定できない、という言う事だ。私は見る。私は目の前の机や、トマトや、猫を見る。その場合、私の視点の位置は逆説的に規定される。我々が生きている時、我々は一人称的視点で生きている。だから、これを自然なものとみなす事はできる。これに対置されるのは他者の視点であるが、他者はまた私の一面しか見ないのである。つまり、私ーーーあなたーーー第三者のような関係をいくら続けても、そこには一面を見続ける光学しか生まれない。それに対して、三人称で書くのであれば、ラスコーリニコフという人物の全貌が明らかになるであろう。ラスコーリニコフという人物の言動を描く事により、その人物が何者であるかを描く事が可能となるだろう。この際、ラスコーリニコフという人物が無限に何かを語り続ける、という普通の意識の流れは、三人称では抽象化された形(言動)となる。その場合、抽象化される事により、失われるものと得られるものがある。失われのは主人公の無限の意識の流れであり、得られるのは、その意識の流れをも含んだ、その人自身の姿である。だから、後者の方がより立体的で抽象的である。(三人称、一人称というのは本質的な方法論の差異として言っているので、ただ三人称だからそれだけで抽象的というわけではない。ここら辺りはアバウトである)


 補足  一人称小説は  「私⇔他者」  という関係である。それに対して三人称で書くという事は次のようになる。

             「作者→(主人公⇔他者)」

              この場合、主人公の『背後』を描きうるのは三人称の方である。自分の言っているのはおおまかに、そういう事だ。
              

 もう一度話を「罪と罰」に戻そう。では、この作品の出口とは何か。それは先に言ったように、ラスコーリニコフの改心である。しかし、ドストエフスキーがいみじくも書いているように、ラスコーリニコフが改心すれば、それはその作品を規定する小説空間を失う事になる。だから、この小説はそこで終わるのである。

 では、罪と罰の小説空間とは何かと言うと、それが小説の内容である。これを述べ始めると、「罪と罰」論になるのでやめておく。今、問題としたい事は、では、この出口の外にあるものは何か?という事である。それを私は今や端的に言う事ができる。では、それは何か。それは「作者」である。作者の立っている精神的位相である。作者の自己認識、あるいはその精神がたどり着いたその場所である。つまり、作者は物語の最後の場所に辿り着いたという感慨から、その最初点に戻って、この小説空間を作り出す事ができるのだ。

 だから、罪と罰のラストに立っているラスコーリニコフの改心後の姿とは、作者、ドストエフスキーがたどり着いたある自己認識、ある理想的像であると言える。では、それを語る為に、最後の一点を語るためにドストエフスキーはあれほど長大な作品を書いたのか? 私の答えは「イエス」である。しかし、その最後の一点はおそらく、正に創作の過程によってはっきりしたものだとは思うが。

 例えば、夏目漱石の「それから」に戻って考えてみよう。「それから」においては不倫行為が問題となるが、研究だと、漱石は不倫したという事はないらしい。それを事実と考えると、何故漱石がそれを書いたのか、という事が問題になる。私の答えはこうである。つまり、「それから」の主人公代助が、社会の掟を破っても自己に忠実に生きる事を選んだ、という事は、漱石自身が、大学教師としての権威ある場所を振り捨ててでも、一作家として朝日新聞に入ったという事と正確に呼応する。(新聞社は当時は今ほどの地位はなかったらしい) しかし、この対応関係は素直に考えてはならない。もしこういう対応を簡単に考えると、そういう経験からすぐに偉大な作品を作れると安易に仮定する事になる。それはもちろん間違っている。だから、この現実と作品の差異に、作者というものの最大の謎が眠っていると言っていい。

 今まで書いてきた事を自分なりにまとめると、まず、小説とは小説空間を遍歴する主人公(ないしそれに類する人物)の物語である。そして小説空間そのものがどうなっているかは、主人公と共に、読者はそれが明らかにされる様を順に見ていく事になる。例えば、主人公の部屋が克明に描写される。それでは何故作家はその描写をするのか? その答えは、その描写がこの小説空間を表すからである。こうして、主人公と共に、読者はこの小説空間を旅していく。そして最後に、この小説空間は最後の扉を開く。そして、ここから出ていくか、それとも残るかの選択を迫られる。そしてそのどちらにしても、この物語は終わる。何故ならそこで、小説を規定しているもの自体(主人公ーーー小説空間の関係性)が失われるからである。

 そしてまた、この小説空間そのものを規定するとは何か?の問いに関しては、それこそが作者である、と答える事ができる。(それは精神的位相としての作者であり、現実の作者の事ではない) 作者は、小説空間内部に入り込まない。もし入り込んだとしたら、それは作者の全精神機構の一部の、パーツとして現れるだけである。作者は小説空間を描き、小説を進めていく時、常に自らの全存在によって、その空間を規定しなければならない。そしてそれによって、その空間そのものは最後には作者そのものの精神的位相に到達する事だろう。つまり、物語の最後の解決は、作者の立っている場所ーーーそれである。しかし、ここで決して間違ってはならない事は、この作者はその作品を書き始める前と、書き終えた後では、また違う作者になっているという事である。つまり、ここで作者は、小説空間を抜ける事により、新たに、その作品によって規定され直されたのだ。私はそう思う。ではもう一度、簡単にドストエフスキーを例に取ろう。

 まず、ドストエフスキーには自らの「改心」がある。彼は死刑になり、それから免れ、牢獄を経て、彼の思想が変化するのを体験した。西欧至上主義は捨てられ、キリスト教的理想がやってきた。そしてそこに辿り着いた彼は、小説を描き始める。罪と罰。しかし、物語は殺人から始まる。彼は意図的に、すごろくを振り出しに戻すのだ。そして自身が体験した思想の遍歴を、別の現実(作品)と変えて、それを表す。そしてそれを辿り、最後にまた今の自分にたどり着く。しかし、それと共に、最後にたどりついた自分と、たどりつく前の自分では、違う自分ではないか?という疑問が我々を襲う。つまり、この時、この作者は、作品によって新たに自己を、規定されなおされたのではないか。つまり、ここには目に見えない、作者自身の物語がある。そしてこの作者自身の物語は語りえない。そしてまた語りえないものがあるからこそ、語りうるものがある。そしてそれが作品である。
 
 つまる所、作品とは「作者→作品→作者」の遍歴する物語の一パーツとも言える。そして読者がそれを読み取る力があればあるだけこの物語は「読者→作品→読者」の物語とする事もできる。そして作品とは、現実を新たに捉え直す事のできる、もうひとつの現実…そうした小説空間であると言える。哲学は、おそらく、この空間を論理によって追うが、文学はこれを描写によって追う。そうした事が違う事だと思う。とりあえず今は、この小文はこれで終わりとしたい。今書いた事は全て、自分の思考を整理するためのもので、細かな所は全く気遣っていない。この考えはまた十分考えなおされる必要があるだろう。

『そうでしょ?』





詩、書いちゃってる?

言葉、続く、君の先へ

笑えばーーー人が笑うと思うよ

君は、笑わないだろうけど



人間性失った、人じゃなくなる

そう言って威嚇した人、皆死んだ

私、言葉より大切なものーーー

ないの


あなたって死んでも笑ってるのね

この間、あなたが酔っ払って寝てる所にキスしようと思ったんだけど

すぐにうんざりしてやめちゃったわ

だってあなた寝てても

寝てても………

「死んで、早く」 そうすれば私

楽に生きられるから



『人間性を疎外されてマルクスは

神となった』


これが詩かどうか、わかる?

どう? 判定者のみなさん?

みなさんのお手元のボタンを押せば

私に一点や二点がつくってわけ?

そんなもの、私はいらない 私はーーー

あなたの素顔を見てみたい

あなたがまだ一度も見た事のない素顔を


この言葉消す? いいえ

言葉とはひとつの自動消去装置

人間達が消えれば、風が一陣残るだけ

その時、あたしがあなたにあの時したキス

その意味、あなたにもわかって?

…いいえ、あなたはわからない

だって、あなた人間じゃないもの


言葉タチ、これが私の全て…

でも、私だけを愛して だって

他の人達、皆、獣みたいに見える

言葉じゃない、愛撫で伝えて

でも、あなたの汚い肌、もう見たくはない

私は存在しない女 言葉の上で…

私は死にたい


生きたい、だから、私は死にたい

意味、わかって?


はやく、お手元のボタン押して

そしたら、私、消えられるから


ーーーごめんなさい、今言った事、全部ウソ

あなたはもはや消失した存在、二千六百年前に だから私は

あなたの名を呼ぶ

だって消滅したものはもう二度と

『消滅』しないのだから



………そうでしょ?




小説に関する事など

 今小説を書いており、それに心血注いでいる為に、ほとんどフラフラのようになっている。三人称で小説を書くというのは非常にエネルギーを使う。

 小説というものがなんであるか随分考えてきたが、しかし、結局は手を動かす事によって次のステップに進める、みたいな事がある。立ち止まっていてはダメだが、時には立ち止まって振り返る事が自己に有益になる。理論は我々に示唆を与えるが、しかし、自分の足で歩くとは理論とはまた違う行為だ。しかし、それにも関わらず理論は参考になる。この間の相関関係は今の僕にはよくわかっていない。

 小説を書いていて気づいたが、小説には「小説空間」とでもいうべきものがある。そしてその空間の輪郭をなぞる行為が、作家のやる描写にあてはまる。そしてこの空間は当然、形而上的な空間である。この壁面を、輪郭をなぞる為に、読者には無意味としか思えないような長々とした描写も必要となる。良い小説というのは前半は退屈で、後半面白かったりするが、その場合、前半は小説空間の輪郭をなぞり、読者にその作品の空間性を呈示しているものと考える事ができる。そしてこの空間が収束する事により、物語が発生(終結)する。

 元々、小説というのは書くのが不可能なものだ。(誰も彼も小説を書いているが) 何故かと言うと、我々は生の只中にいるのに、その生を俯瞰して見ようとするのが文学だからだ。だから、ここには当然無理がつきまとう。シェイクスピアがこの世界、宇宙、地球をどう眺めたか? この事は徹底的に思索しつくさねばならない。彼の小説空間は、ゲーテの言うように、現実をはみでて存在しているのだから。


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