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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

 断章




 最近は文学・小説というものがとにかくつまらないと感じている。もちろん、文学はそれ自体はつまらなくはないが、つまらない作品はつまらない。そしてそれに反比例して、ドストエフスキーや夏目漱石が心底面白く、楽しくなってきている。

 村上春樹は最近はドストエフスキーなどに言及したりしているが、村上春樹はおそらく、ドストエフスキーを形式的にしか見る事ができていないと思う。小林秀雄やシェストフらが、それぞれの運命を持って接したようにはドストエフスキーに接する事は、おそらく村上春樹には不可能ではないかと思う。それは文学者としては仕方のない事で、才能の差というよりは、もっと恐ろしい、個人の中にある深淵の差という気がする。

 以前に深津望という人の「煙幕」という小説が、加藤典洋の激賞で特別新人賞みたいなのを取っていたと思う。その時、深津という人の作品含めると三作が新人賞を取ったのだが、僕から見ても「煙幕」が一番、何かに挑戦していたように思う。しかし、その他の二作の、小奇麗にまとまった作品の方がすんなり新人賞を取ったというのはどういう事だろうか、と訝ってみる。

 芥川賞などは、もう一般の人にもほとんど興味がないだろうと思う。しかし、「永遠の〇」みたいなものはそれはそれで退屈である。なんというか、素人の退屈さとプロの退屈さというのは両方存在して、僕はどっちにも与したくないと思っている。よって僕は大抵、反文学みたいな文学を一人でコチコチとやっている他ない。

 一般の小説がつまらないと僕に思えるのは、それらが何かを前提としている点にある。小説家らはほとんど、その視点が固定化されている。自分自身を絶対化し、その視点が固定されている為に、書く題材だけが問題になる。僕は、真の詩人はつまらないものも美しく見せるのだと思う。何故なら、その詩人の目が光っているからだ。そして詩人の目が暗い時、この世界全部は暗くなる。

 小林秀雄がすでに言っている事だが、立場を捨てるという事はとても重要だ。それは作家にとっても極めて重要な事で、僕がその事をはじめて、一種のひらめきとして意識したのは、神聖かまってちゃんのためだった。試しに、神聖かまってちゃんの「ぺんてる」という曲を聴けば、その意味ははっきりするのではないか。そこで現れる少年の像は、この世界全てから打ち捨てられた自己の姿である。そしてこの自己を発見できない限り、つまり、世界を一度捨てない限り、もう一度世界を捉える事は、どんな天才にも不可能な事だと思う。天才というものには常に、ある種の宿命が随伴しているのはそういう理由による。

 色々見ていると、つまらないとかくだらないとか言いたくなるが、しかし、それはある種の前提というか、ある基盤のようなものが前提されているがために通用するものであるように見える。そして、天才の作品というのは常に、それ自体が自主独立している。デカルトの哲学が他の哲学から自らを区別して屹立しているのは容易に察せられるだろう。今の流行っている多くのものは、基盤そのものの変更と共に流れ去っていくだろう。そして基盤がされば、また新たな基盤が生まれるだろう。しかし、それに抵抗したものには、抵抗しただけの価値を時代によって付与される事だろう。

 人生というのはお遊びする場ではない。人生というのは何かを掛けて闘う場だと僕は思っているがーーーこんな考え方は古いのかもしれない。しかし、僕には、笑って、遊んでいる人々が、ある点で何かに笑われているようにも思う。人々は何に笑われているのだろうか。ある種の真剣さーーー老齢期になって自己を取り戻そうとして、何かのイデオロギーに参入したとしても、もう失ったものは戻ってこない。「文学は牛のように押していけ」…夏目漱石の言葉は、凡人である僕には強く響く。

 もしこの世界が壊れたとしても、あるいは世界の終焉がやってきても、その次の瞬間からまた新たな世界は始まるだろう。人々が概念によって切り分けている事を無視して、自然は悠々と歩んでいく。ウィトゲンシュタインの言ったように、この世界が何故あるかは神秘ではない。そうではなく、この世界があるという事自体が神秘なのだ。そしておそらく、シェイクスピアやドストエフスキーはこの神秘に彼らなりのやり方で触れたのだろう。そしてこれに触れる方法は芸術であろうとなかろうと、構わない。世界があるという事が驚きであるという精神ーーー我々に欠けているのはこの新鮮な精神の輝きではないのか。僕はふと、そういう事を考えた。


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傑作を書く方法



 



 傑作を書く方法というのは非常に簡単である。これからノーベル文学賞を狙う人には是非、次の方法をおすすめしたい。そして、その場合の定式は次のようになる。


 作者→世界


 そしてこの場合、この→は描写、描くという事にあたっている。だから、あなたはこの世界を描けばいい。すれば、それは間違いなく傑作だろう。


 ………え? それだけかって? 君は、この定式では不満だと? では僕は次のように補足しよう。つまり、君がこの定式では不足だと感じるのは、つまり、君が世界を描くという事がどのような事かを知らないからだ。例えば、今、君が想像している「描く」とは、君が街中にいながらにして、人々を描こうとするかのようなものだ。君は人混みの中を歩きながら、人混み全体を描こうとしている。しかし、それは無理な話だ。君が人混み全体を描こうとするなら、君は俯瞰視点を持たなければならない。君に足りないのはその俯瞰視点だ。


 ………では、その俯瞰視点とはどのようなものかって?


 僕はやたら親切なので、一応君の問いに答えてあげよう。例えば、君が登場人物を一ダースも出してきて、その群像劇を描くとする。すると、それをどの点から「よく書けている」とするのか。うまい、へた、才能、努力なんて言葉は全部捨てよう。冷静に考えてみよう。君はある人間の全存在を描く。一体、そんな事が君に可能だろうか?

 
 例えば、今、僕が「アップルジュースが飲みたい」と言ったとする。すると、君はこう書くのか。


 ヤマダヒフミは不機嫌そうな表情で『アップルジュースが飲みたい』と言った。


 では、君はこれを正確な描写だと思うか? 君はこれを積み重ねていけば小説というものができると思っている。何故だ?
 例えば、その時、僕は「アップルジュースが飲みたい」と言いつつ、実は心の中では「オレンジジュースが飲みたい」と思っていたかもしれない。その時、僕は連続三日間オレンジジュースを飲み続けていて、そして続けてオレンジジュースを飲みたいと、本当は心の中では思っている。しかし、さすがに「四日連続はないだろう」と思って、「アップルジュース」を頼んだとしたら、どうだろう。もしそれが事実だとしたら、君はどこまで描けば、僕の全存在を正確に描写したという事になるだろう? どう思う? 君?


 もちろん、この問いはどこまで続く。どこまで描けば正確か、良いかと言う事はない。しかしね、僕は今、不安なんだよ。どうして今の多くの小説はこれほどまでに、「表面的」なのかって事か。例えば、彼氏と彼女のやりとり、妊娠した女性の悩み。あるいは、まるで深刻そうな振りをした孤独な青年の物語。それらは何だか全て僕には、表面的なものに見える。つまり、彼らは世界の中にいながらにして、世界にあらざるものを描いている。彼らの視線は前方に進んでいる。そして、自らを見ない。


 自らを見るとはつまり、自己意識の事だ。太宰も小林秀雄も、この道を進んだ。人は自分の背後を見る事ができない。背後から自分を見る視点ーーーそれが自己意識なわけだが、これが拡大すると世界意識となる。つまり、そうなって始めて、この世界全体を描く事ができる。


 みんなが、これほどまでに、あらゆる分野でうまい、へたを問題にしているという事はつまり、それらは全て目が前についているという事を逆から表しているように思う。つまり、彼らは自分自身の存在を巻き込むものとしての芸術については一切関知していない。作り手も読み手も同じ事だ。そこでは、自己認識が欠けている。そこにあるのは鑑賞者と、鑑賞者に作品を提供するクリエイターの図だ。おもしろい、よかった、よくなかった、つまらなかった、そんな二択で全てが片付いてしまう。しかし、それらの定式はどこまで行っても


 作り手→作品←読み手


 の定式を出る事ができない。僕がどうしても見てみたいのは次のような作品だ。つまり、


 作り手→世界(作り手→作品←読み手)

 
 というような作品だ。そこに、世界全体を描く為の唯一の術がある。すべてのものが趣味的だとすると、その趣味的なものを徹底して描くというその一点は、趣味的ではないはずだ。傍観者達を、自分という傍観者を含めて描く時、その視点は新たな傍観者であるから、既存の傍観者とは違う一つの視点であるはずだ。そしてその時、新しい視点が生まれる。つまり、発見と創造とは一つの事を見方を変えただけに過ぎない。発見は視点から見えたものを指し、創造とは視点そのものを生む過程の事を指す。どちらも同じ事だ。


 だから、君はこの方法を使って、どんどん傑作を書いて欲しい。ノーベル賞なんてお手の物だよ。え? 何を言っているがよくわからなかったって?

 …まあね、僕もよくわかっていないのかもしれないね。大体、そんな方法、最初から知ってたら、僕が今頃村上春樹をしのいでノーベル賞取ってるはずだよ。多分。


 でも、それらも全て世界。君が「わからない」という事も含めて全て世界なわけだ。だから、この定式は生き続けるだろう。そしてこの定式も、こうして書かれた直後から風化して、世界の中に溶け込む事となるだろう。


 常に創造とは否定を伴っているがゆえに新しい。そしてそれは創造された瞬間に過去に属するものとなっていく。だから、僕達はーーー過去を満身の力を込めて見ることで未来を一つずつ形作っていく。それがおそらく芸術(あるいは哲学)の力なのだろう。

 僕はそう思うがね。それでは、君が傑作を書く日を期待して待っている。


文学理論メモ

 


 
 今の小説の大半があまりおもしろいと僕には思えないのには次のような理由がある。つまり

 A(作者)→世界(登場人物など)

 という定式が考えられる際に、その作者の識見そのものが低いからである。簡単に言うならーー我々が世界を見るに際しては一度、世界から「のけぞら」なくてはならない。我々が世界を見る時には、一度、世界を廃棄しなければならない。我々が世界を描く時には、世界そのものであってはならない。しかし、大半の小説家、クリエイターらは、彼らが世界の一部でありながらなおかつ世界を描こうとする為に、そこには非常に狭苦しい世界が現れることになる。これが(僕にとって)大半の小説がつまらない(と見える)原因ではないかと思う。

 例えば、岡崎京子の作品ではセックス・暴力・金が出てくるが、彼女は作家として、それらに一種の透明な空虚を感じている。つまり、その場所で彼女は世界に対して「のけぞって」いる。だから、岡崎の真似をして、セックス・暴力・金に焦点を当てて漫画を書いても、単にそれだけでは岡崎のような優れた作品にはならない。僕にはそのように思える。

 この定式は簡単な事なので、これからも拡大して考えていきたいと思う。つまり、答えとしては簡単な事だ。小説家が扱う登場人物達が皆人形のような表情しかできていない時、その小説家は、世界を人形的にしか見えていない。彼らは世界に対して、膠着し、捉えられるが故に世界を描く事ができない。彼らに足りないのは「絶望」である。そして底のない絶望こそが、世界そのものを「然り」と肯定する事ができる。シェイクスピアもドストエフスキーも、遂にはそのような道を歩んだように僕には思われる。


岡崎京子 「pink」「エンド・オブ・ザ・ワールド」



 岡崎京子の「pink」と「エンド・オブ・ザ・ワールド」を買ってきて読んでいた。岡崎京子作品においては、岡崎の言う所の愛と資本主義が基本的なテーマとなっている。そしてそれにもう一つ付け加えるなら、暴力の要素であろう。

 この愛、金、暴力というのは、我々の平和(だった)日常生活の裏側にあるものとして、作家らの基本的なテーマとなってきた。しかし、岡崎京子がその他の作家とレベルが違うと僕が言い切れるのは、岡崎京子はそこに一つの空虚を見ているからだ。そこがまず違う。そしてこの事は村上春樹や村上龍と完全に通底する事であろう。つまり、そこでは、様々な、セツクス、死、金への執着という事が、人間にたいする深い愛と軽蔑の眼差しで切り取られている。そしてこうした際、岡崎ほどのレベルではない作家においては、それ自体が目的となってしまう。つまり、彼らにおいては、セックスや金や暴力を描く事そのものが「文学的」とか「芸術的」とかいうように勘違いしてしまう。しかし、それはそうではない。我々の生活は一つの空虚の目ーーーつまり、作家の目を通して、始めて意味があるのだ。小林秀雄が、「真の作家には一度人生を廃業した目がある」というような事を言っていたと思う。(うろ覚えだが) 小林の言っている事はおそらく、そういう事であると思う。つまり、事象それ自体に意味があるのではなく、それに意味を持たせるの作家の眼であり、そしてこの作家の目はその時、空虚に透明で乾いていなければならない。色眼鏡のある目では、悲しみも怒りもその筆に盛り込む事はできないのだ。

 岡崎作品では、主人公などがふいに空を見上げて、茫洋とした気持ちに浸る、印象的な場面が出てくる。そしてその時の台詞は大抵、散文詩的なものとして出てくる。僕の理解では、岡崎作品の一番底にあるのはこの空虚の海であるように思う。つまり、この点を底点として、岡崎作品の世界は作られている。一種の透明な空虚感が底にある為に、そこにセックス、暴力、死、金、愛の問題を盛り込む事ができる。岡崎作品は全体的にドライな空気が流れているが、それは絵柄の問題でもあるだろうし、何よりも、岡崎京子の世界観に関わる事柄だろう。「pink」では、どうしようもなく醜い人物ーー主人公のデリヘル嬢と性行為をした後に主人公に説教垂れる中年男ーーなどが出てくるが、岡崎京子はそれに対して、少々の憤りを込めつつも、しかしさらりと書いてみせる。ここでは、ドライな感覚を持たなければ、人の醜さは現れえないという、岡崎京子の見事なバランス感覚が出ていると思う。岡崎京子は人の醜さに対して憤る前に少し立ち止まって、それを注視しようとする。そしてその、透明で乾いた、冷たい目の中に、人の醜さも温かさも、逆転して生まれる事ができるようになる。我々は自らを空虚とする事で、全てを描く事ができる。作家というのはそういうもので、おそらく、本当の意味での作家修行というのはそういうものだろう。筆先だけでごちゃごちゃやって傑作が書けるようになるとは僕には思えない。例えば、モーツァルトはおそらく、常に実人生の上を飛翔していた人物だった。モーツァルトはおそらく、常に透明で空虚で乾いた泉に一人腰をおろしていた永遠の少年だった。そしてそこから現実を見つめる時に、一種の悲しみが現れる。真の作家(アーティスト)の表す悲しみとはおそらく、そういうものだろう。

 岡崎京子の作品は、村上龍と同じように、高度資本主義を基礎とした作品であるので、これから少しずつ時代とぶれていくだろう。それはおそらく、避けられない。しかし、岡崎京子の作品に普遍的価値があるとすれば、それは岡崎が世界を見るその目のーー冷たさと温かさにある。彼女は空虚で乾いた目で世界を反転して見るが、そこでの人物は乾いた劇を演じながらも、最期には透明で冷たい泉のような場所にたどり着く。そしてそここそが、おそらく、詩人としての岡崎京子の本来の場所なのだろう。岡崎京子は実に詩人的な漫画家で、僕であったらーーー彼女に中原中也賞(あと芥川賞も)をあげたいと思う。そんなものいらない、と言われるかもしれないけど。

 興味ねえ



 もはや僕は自分の運命を持たない人間に対しては何の興味も感じないだろう…。彼らにとっては、外的な全ての事が彼らの全てなのであるから、彼らに内的な運命を見つめる事を求める事は誤っている。彼らにはどんな聖賢の言葉も、豚に真珠だ…。

 僕はもやは、彼らに対して何一つ与えないだろう。また、それ故に、彼らは僕に全てを与えてくれるだろう…。僕は一つのブラックホールとなる事だろう。

 ある種の政治家が、その冷酷さ故に成功するのも、そうした事に一つの原因がある。つまり、人々は冷酷に扱われたがっている。人はいつもロボットになりたがっているし、自分の頭で考える事を拒否したがっている。彼らは彼らが見なかったものによって飲み込まれて死ぬ事だろう。もとも、それは賢者も同じ事だが…。

 僕はもはや、人間達に何の興味も示さないだろう。彼らはーーー僕がそういう振りをすれば、その通りに信じこむ類の人達だ。僕が悪人の振りをすれば悪人に、僕が善人の振りをすれば善人に、彼らは認識する。僕は舞いを踊る。ダンスをする。ある人は喝采を、ある人は罵声を僕に浴びせる。しかし、僕は彼らなど全く信じていない。もっと言うと、彼らなど眼中にない。この手の人物はどうでもいい。僕に興味があるのは、僕が演技している事を知っている人間だ。つまり、冷眼を、表の目の裏にもう一つの目を持っている人達だ。裏の目を持っていない人間がどのような末路を辿ろうと、僕にはもはや一切の興味が無い。彼らは全員「バカヤロウ」だ。頭が良かろうと悪かろうと、物を一次元に見られないのなら、それは「バカヤロウ」だ。僕はそう分類する。

 そしてこんな事を言っている僕ーーーこれが最大のバカヤロウだ。だから、僕は沈黙する。僕が沈黙した後、君はーーーー何かを話しだすだろうか?

 はて。

 哲学断章 1




 ・僕はピアノを弾くように文章を書きたいといつも願っているが、それが成功した試しはない。言葉は常に重ったるく、意味という不要物をいつも随伴している。しかし、それでも言葉は常に音楽を目指して運動していく。詩とは、言葉の音楽への憧れと定義する事ができる。萩原朔太郎は詩第一、批評第二、小説第三とランク付けしたそうだが、その順で行くと、音楽はそれより更に上に位付けられるだろう。音楽は常に、芸術としてもっとも純粋な姿をしている。しかし、文学にも良い点を見つけるならーーーそれが余計なものを伴っているが故に表現できるなにものかもあるはずだろう。僕の精神は雑然としているので、文学という容器はおそらく、僕の雑然とした精神を全て受け取って、それでもなお余りあるだろう。

 ・吉本隆明が昔、「どんな傑作恋愛小説も、現に恋愛している人を振り向かせる事はできない」と言っていた。こうした意見にはよく出くわすし、また、それはある程度真っ当な意見だと思う。それはつまり、スポーツとか芸術とかいったもの(趣味的なもの)が、生そのものの価値を上回ってはいけないという事である。つまり、生を犠牲にして、何かそれ以上の価値あるものを作り上げてはいけない、というテーゼである。

 しかし、今、僕はこの意見に疑問を持っている。もちろん、人生というものは我々の持っているものの中で最も大切なものである。そしてそこでは、現実の恋愛が、どんな恋愛小説よりも重たい意味を持っている。…しかし、本当だろうか? 僕は考えてみる。本物の恋愛小説を書く人は、ありとあらゆる恋愛に「うんざり」した点から書き始めるのではないか? 現実の恋愛で満足している人間がどうして、恋愛小説を書かなくてはならないのだろう? あるいは、それは現実の恋愛を強める効果があるのだろうか?

 現実とフィクションの関係は、今の僕にはまだわからないままだ。しかし、おそらくは、人々が現実からフィクションを見るといういつもの見かけを破る事に、真の作家の面目はあるのではないかと思う。つまり、彼は、フィクションから現実を見つめる。その際に、フィクションも現実の方がより虚構的な存在としてその人間の目には映っている。そしてフィクションは現実から抽象された、現実以上のリアリティを持つために、それこそが真の現実である。そういう場合もーーー真の作家にはありうる事だろう。おそらくは。

 ・ウィトゲンシュタインは、「論理哲学論考」で、論理を積み重ねて、最期に一つの沈黙に達した。そこでは、正に、沈黙して生きる事そのものが、真理を体現しているという事だった。僕はウィトゲンシュタインに救われた点が、自分の中にあるような気がしている。つまり、言葉からはみだした部分は自らの生として続いていく。生は、最期の言葉、「論理哲学論考」の、書かれなかった第八パラグラフである。しかし、その生は論理の果てとして現れるものであって、論理以前として現れるのではない。ここには「反覆」の問題があるのではないか、と僕は思っている。つまり、生はそれ自体では意味を持たないがしかし、それ以外に我々が行くべきところがないと知った後の生には意味がある。詭弁かもしれないが、生と言葉にはそのような関係があるのではないか。…どっちにしてもはっきりしている事は、生を一つの教条に置き換えたところで、我々のよくわからない泥沼の人生は続いてくということだ。この点から、僕はあらゆる粗雑な教条主義を排する。そして僕はおそらくはーーウィトゲンシュタインの創ったはしごを登っていく。ふらふらと、よれよれとした足取りで。

 ・ネットでは、よく新興宗教的なものを見かける。また科学がねじくれて、安易な自己啓発に堕しているのをよく見かける。これらの構造はおそらく単一であると思う。つまり、これらの事はーー先に言ったようにーー我々の生全体を何か一つのお経のようなものに変換しようとしている、ということだ。こうした事は、我々の複雑でよくわからない人生を何か単一のものへと変化しようとしている。あるいは、それは、人生そのものをないものにしようとしてる。あの世がある、という事はこの世などどうでもいいという事ではないか。ある統一的な方程式ができたとしても、それは我々の生を救わないだろう。それは我々の人生を便利にはするかもしれないが、しかし、それでは救われないだろう。では、どうしたら救われるか。もちろん、ここには、「どうしたら救われるか?」と問うその問いそのものの中に答えがあると考える事ができる。つまり、我々はーーーどうして、そうも救われなければならないのか?

 人生に埋没して生きる事は楽である。本来、人はそう生きるべきなのだろう。しかし、人生に埋没する為には、各々に理由のようなものがいる。そこで、論理が必要になってくる。そして僕の場合、それがウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」と言う事になるのだろうか?

 ・僕の解釈では、ブッダの言う悟りの境地とは、正に瞬間瞬間、自分自身と闘って生きろ、という事ではないのか。あくまでも僕の勝手な解釈だが、ブッダの論理は我々に正に生きる事を要請しているのではないか、と思う。自らと闘う事を止めるな、考える事を止めるな、考え続ける、生きる事、生きようとする事をやめるな。ブッダやウィトゲンシュタインの到達した真理は僕には、そのような言葉に聞こえる。つまりーーー哲学(宗教)の最終到達点とは、何らかの絶対的な答えなのではなく、正に問いなのである。つまり、我々の生は、哲学の達した最終解答から正に始まるのだ。優れた導師は我々を答えに導きはしない。優れた導師は正に、我々を一つの問いへと導く。そしてそこからどう歩くかは、我々の自由である。優れた達人は我々に自由を保証する。そして他者の自由を極端に害するもう一つの自由だけを否定し、批判する。生きるとはそういう事ではないか。

 ・僕がこの先幸福になる事はないだろう。ーーあるいは、僕が幸福を幸福として受け取る事はないだろう。そしておそらくそれは、僕自身の不幸にも当てはまる事かもしれない。僕はこれまで幸福になる事が恐ろしかった。幸福になれば、そこから突き落とされる危険性をいつも予測してしまい、それ故、僕は幸福になるのが怖かった。だから、不幸の方が安堵できた。しかし、よく考えれば、不幸も幸福も同じ事ではないか。三十年間、お前は一体何をしてきたというのだろう?

 ・自分という存在が孤独なのは必然的な事象である。孤独でなければ、人は死んでしまうだろう。たとえ、どんな全体主義の元、皆で一つのスローガンを唱えたとしても、やはり人は孤独である。そして孤独の中心に、悲しみと共に、人類を許し愛せる場所がある。そしてそういう場所まで辿り着けば、その場所から引き返して、現実のみなさんとーーー握手をする事も可能だろう。おそらくは。

 ・ある人から、君は世界に大してそう否定的にならずに、世界と融和的になるべきではないか、と言われた。しかし、世界に大して単に融和的というのはどういう事か。それは海の中の水の一滴である。つまり、それにはそれ自体の存在自体がない。つまり、通常、社会と融和的とされる現象は単に、自己がない、という事を意味している。そして真に社会と融和的という事象を起こすには、まず、我々が社会と一度、喧嘩する必要がある。そこで、社会と自己とは違う存在だという事を一度はっきりとさせる必要がある。そういうわけで僕は、やがてやってくる(はずの)、社会との大いなる融和に向けて(そのために)、社会と大喧嘩してる真っ最中なのだ。…まあ、社会の方では、僕が闘争を挑んでいる事自体にすら気づいていないわけだが。

 ・おそらく、今、僕が書いているこのような文章はあと百年くらい経てば、非常に高価なものとなるだろう。…僕はそんな気がしている。しかし、そんな気がしているからと言って、それが何なのだろう? 金が欲しいのは、この今の僕なのである。未来の僕に僕は送金をしてどうしようというのだろう? その送金を、一体、僕以外の誰が受け取るのだろう? …しかし、あるいは実際、誰かはそれを受け取るのかもしれない。実際、僕はこうした文章を書く為に、過去から送られた多量の財宝を湯水のように消費している。つまり、教養と知性は最大の富、しかも、それは時間を越える事のできる富である。

 ・とりあえず、この哲学的おしゃべりはこんな所にしたい。今年辺りから、哲学に本格的に手を出そうと思っているがーーーどうなる事やら。やれやれ。哲学(笑)なんて笑われて、それでおしまいだろうか?
 
 やれやれ。

岡崎京子「ヘルタースケルター」


 


 先ほど、はじめてこの作品を知って読んだ。ぱっと見た感想は「ああ、こりゃいかん、これは天才だな」と言う事だ。岡崎京子はおそらく、衆目の見る通り天才だろう。しかし、それが本格的な意味で天才かどうかと言うと、僕はそこに疑問符をつける。しかし、凡百のクリエイター、アーティストとは違う天才だという事は間違いない。

 岡崎京子が描いている世界は例えば、村上龍やミシェル・ウェルベックと同一のものである。つまり、高度資本主義における華美と退廃である。人はこの内、大抵、片方しか見ないが、しかし、これを同時に、矛盾として描く事ができるという事に作家としての力量があるという事になる。そういう意味で岡崎京子は、村上龍の世界観にかなり似通っている。そしてその際、岡崎の作品は、女性であるから、女性視点だという事が違う。しかし、それはそう本質的な差異ではない。重大な事は、この高度に享楽的な社会の、美しさ、華麗さとその下の醜さを同時に描けるかどうか、という事である。

 「ヘルタースケルター」の主人公りりこは、美を追い求め、怪しげな整形に手を出し、薬に手を出し、しかしその反作用でその美は次第に蝕まれていく。彼女はテレビ界のトップスターなのだが、彼女の美が、人工的に作り上げられた美が崩壊していく事によって、彼女の精神も一緒に崩壊していく。そしてその過程で、それに付随するマネージャーと、マネージャーの恋人をも一緒に奈落にひきずりおとしていく。

 どこから評論してもいいのだが、例えば、岡崎京子はりりこの「暗さ」というものを的確に描き出す事ができている。りりこがひとりぼっちになった時、「ひとりになった時になにをすればいいのかわからない」と内省する場面がある。りりこには孤独が耐えられない。りりこという存在は正に、他人の視点の、その関係の中で存在している存在である。彼女自身、自分の孤独に耐えられない。誰かがいる、あるいは誰かが自分を認めてくれている、そのようなあり方でしか存在できない存在である。彼女は関係の網の目の中で生きている。そしてテレビにおけるスターというのは、その関係の網の目の中心のような存在である。しかし、それにも関わらず、その網の中心は、それが網の目の中心であるという事により、空虚である。それは徹底的に空虚である。りりこは知っている。つまり、自分が大衆に認められているわけではなく、正に大衆が求めるものを自分が演じる事により、人々に認められる、という事を。しかも、その認証というのは実に浅はかなもので、彼女が自殺しようが、テレビから消えようと、一年もすれば、誰しもが彼女の存在を忘れてしまうだろう。

 こうした存在は現実にメディアの世界で起こっている事だろう。岡崎京子の意図を越えて僕が誇張して言うならーーー今の人々は皆、「お客様」である。人々は今、客観的態度、お客様としての態度、傍観者としての態度で世界を見ている。ヤフーのニュースについている簡易掲示板には常に、他人事としての正義論が振る舞われ、そしてそれに「賛同する」のようなポイントがついている。しかし、その際、何かをする、何かをしなければならないのは常に他人であって、自分ではない。自分は何もしなくていい。何故なら、自分は才能のないただの凡人なのだから。何かをしなければならないのは、才能ある人、人気のある人、公人、政治家、スポーツ選手、そうした人達に限られている。「私」は、何もしなくていい。だって、私はお客様だもの。この世に対して、あるいは自分自身の人生に対して私はお客様だもの。

 そうしたお客様気分に対して、りりこは美しい破滅の舞いを踊る。彼女は自分が破滅する事を知っているが、それを求めているが故に、それを止める事をやめられない。

 そしてそれに対して、吉川こずえという新たにでてきたタレントーーモデルがいる。こずえはりりこと違い、本物の美しさを備えている人物である。そして、岡崎京子が優れた鬼才であるのはーーーこのこずえが、りりこと違って、人気を得続けているのは、彼女がそれに執着していないから、という事を的確に描けているからだ。つまり、こずえはりりこのような、ある種の執着がない。そこまでは岡崎は描いていないが、しかし、おそらく、こずえには、りりことは違う、もう一つ上の視点を持っていると考えてもよいだろう。つまり、りりこは他者の視線、他者との関係、トップスターとしての自己、他人に対して見返してやりたい、母から逃げ出したいという、いわば「二次元的な」段階にとどまっているのに対して、こずえはそれらを冷静に、どこか俯瞰した視点で見ている自分がいるのである。その点がこずえとりりことの根底的な違いである。こずえが人気を得続けられるのは、本当の事を言えば、彼女が「美しいから」ではない。そうではなく、彼女がテレビの中でスターとしての地位を保ち続ける事ができるのは、彼女が人々の欲望より一つ上の俯瞰した視点を持っているからだ。

 …しかし、今言った事は僕(ヤマダヒフミ)の多少の誇張を含んでいる。物語は、あくまでもりりこを中心にしているので、僕は少しこずえをクローズアップしすぎたと思う。この辺りは原作を読んで確認してもらえればいいと思う。

 岡崎京子が非常に優れた作家・漫画家であるというのは以上のような事で多少は触れられたのではないかと思う。物語、あるいは漫画、文学(ヘルタースケルターは文学だと僕は思っている)というのには非常に奇妙な所がある。もし、現実にりりこという人物がいたとしても、僕はその「人物」には何の興味も感じないだろう。(そしてこうした人物は、テレビ・ネットの中に現実に見つかる) そしてまた、りりこのマネージャーとか、その恋人などと現実に会って話してみても、僕は彼らに対して何の興味も覚えなかっただろう。僕が「ヘルタースケルター」の中で、特に興味を持つのは、こずえである。それは、こずえがりりこに比べると、やや複雑な精神構造を持っているからだ。そしてその精神構造が、人々に解かれな間は、こずえは人気者で在り続けるだろう。…もちろん、現実的に美を保つ必要もあるだろうが。

 今、僕は、りりこには興味を引かれないと言ったが、しかし、僕はりりこの破滅を主題としたこの作品には大いに興味を抱く。では、それは何故か。そこに、作品、フィクションの謎がある。つまり、りりこの内部には明るいものはなく、暗い、低次の精神構造しかないのだが、しかし、それを照らす作者の視線は明るいのである。つまり、岡崎京子という人物がりりこの暗部に光を当てる限りにおいて、この人物は、我々にとってかくも魅力的で、永続的な存在となるのだ。もし、りりこという人物が現実にテレビ・ネットの中にいたとしても、僕達は、「ヘルタースケルター」の中の人々と同じような態度を取るだろう。つまり、僕達はりりこという人物を、一種の人形的なものとして愉しみ、そして愉しんだ後はそれをポイ捨てにするだろう。

 りりこという人物は物語の最期ではフリークスとして、外国でショーをしているという事になっている。しかし、僕は思うのだがーーーりりこは最初からフリークスだったのではないか。そしておそらくは、岡崎京子もその事を意識していたのではないか。つまり、アイドル、トップスターというのは、いわば、形の異なったフリークスにすぎない。ねじれた奇形というものと、完全に抽象化され、偶像化された美とは同じものなのではないか。そういう事が、いわば物語の最期では示されているのではないか。…そして、ここでこの作品は終わる。それでは、りりこという奇形の人物は元、何だったのか。彼女の中に最初から破滅は内蔵されていた。だとしたら、我々の内にも同種の破滅は内臓されていないだろうか? SNSなどのつながりによって、人々の承認欲求はますます強まった。そこで、他者の視点の内にのみ存在できる存在ーーロボットのような存在が現れるのではないか? そしてそこに身を置く時、人は自らの中に完璧な空虚を見出す。そしてこの空虚から、この像化された現代空間の中で、我々は逃れられないのではないか? りりこは美しく、彼女は破滅する。そしてそれに伴い、我々の承認欲求も破滅するのか? 岡崎京子は僕達にある種の事柄を予知し、示したと言う事もできるだろう。そしてこれからも、りりこに付随するような一つの舞い、劇は訪れる事だろう。しかし、そのそれが真に意味を持つのは、「ヘルタースケルター」という作品そのもののように、それそのものに光を照らす、岡崎京子という優れた作者が存在して始めて可能となるものなのだ。僕は、そう思う。





「約束」


 


 ・君は沈黙していなければならない。沈黙だけが、唯一世界の言語に対応する強力な一つの動態なのだ。

 ・だから、君は黙っていなければならない。君は言葉を発してはならない。言葉を発すればその時、君は言葉にとらわれる事だろう。そして概念の檻の中に閉じ込められる事になる。

 ・例えば、「男」と「女」、「今」と「昔」、「昼」と「夜」、「日本」と「中国」、これらの対立概念は僕達の言葉が生んだものだ。そして言葉を僕達が信じた事によって、概念による対立はますます深まった。

 ・僕達が一つの海をなんと名付けようと、その海はとうとうと流れているのだ。その名がなんであれ、そんな事おかまいなしに、海は流れ、常に変化しているのだ。

 ・なんと、見事な事ではないか。

 ・君は今、沈黙を破ろうとしている。その事が僕には感じられる。しかし、僕はどうしてこんな事を話しているのか。

 ・僕は「海」について語る。しかし、僕の言葉は「海」に触れられない。本当に海に触れるのは僕の指、そして君の指だ。しかし、真実を言うと、僕の指も君の指も、形の異なった「言葉」にすぎない。

 ・人は真理の前で沈黙する事を余儀なくされるだろう。そしてそれが人間にできる表現の全てだろう。ブッダは悟った。しかし、その悟りは常に、瞬間瞬間において、自己との戦いだったはずだ。つまり、「悟り」などはなかった。あったのは、ただ、悟りを探求する一人の男の闘争だけだ。

 ・僕はそんな事を考えている。今、この今。

 ・そしてそれを言葉でしか語れない事に僕は今、不快を感じている。

 ・だから、僕は言葉の前で………ウィトゲンシュタインのように………

 ・ここで、言葉は途切れる。そしてその後の沈黙の道は、君が自分で歩かなければならない。

 ・いいね、お兄さんとの約束だ。いいね、わかったね。



 「それでは、また」

「さて。」

私はー彼女の「歌」を聴いて涙した

私はー彼女の「声」を聴いて涙した

しかし、私は彼女ではなかった

彼女はいつも通り「彼女」だった



ここに一杯の水がある

それを彼女が飲むのか、私が飲むのかー

それは決められないことだ



ここに一握りの土くれがある

それが「あなた」を造るのか 「私」を造るのか

それもまた決められないことだ



そこに「あなた」がいる しかし、それが「あなた」であるという

その証拠を求めにあなたはあなたの外に出ようとする

それでいつもあなたは間違える



言葉は饒舌だ

それが一つの沈黙を抱えているために



君は誰だ?

ー「私」の名を呼んで下さい

そっと、自分の存在を恥じながら



心から歌が歌いたい

もう詩なんて人工物は捨ててしまいたい

でも私の心が言葉でできているなら

それも仕方ない事なの

彼女は息を引き取る前に

そう言いました



ーさて、私は机の前で

白紙を前に頬杖ついている

いつか私に「言葉」が訪れるだろうか?

彼女の「歌」のように



………さて。

文学作品を批評する事は


 文学作品を批評する事は



 僕はこれまでに文学批評をいくつかやったのだが、その際、僕の方法論は、小林秀雄とかシェストフのように、自分の主観を作品に関連付けられる限りにおいて述べるという、いわば自己中心的なものだった。その際、僕はどちらかというと、今流行りのテキスト論ではなく(テクスト?)、作家論に傾いていたのではないか、と思う。そして自分なりに、ちらちら勉強してきた哲学の影響も入っているのではないかと思う。

 最近、フーコーの対談を読んでいて気づいたのだが、フーコーにおいての「作者の死」、要するに作家論ではなく、テキスト論への移行というのは割合と政治的な意味合いが強いのではないか。そういう事は、日本のインテリにはかなりわかりにくい事だが、想像で書いてみる。

 おそらく、フーコーの著作というのは全て、マルクス主義、サルトル、ヘーゲル的な進歩史観に抵抗し、反抗しているものとみられる。フランスのインテリというのは、知的にものすごく洗練されているが、それと同時にものすごく狭苦しいギスギスした空間で、あまりのびやかな呼吸ができない場所ではないかと思う。そしてその際、サルトルや共産主義というのは強大な力を持っていたのだろう。その点、日本のインテリの内部でもマルクス主義が力を持っていた時代というのはあっただろうが、フランスほどに狭っ苦しいという事はなかったのではないかと思う。

 そしてその際、作家論ではなくテキスト論に移行するというのにも、そういう政治的な意味合いがあったのではないか。これはぼんやりした想像だが、作家論というのはどこかしら、ヘーゲルの進歩史観とか、マルクス主義とつながって、政治的権力を持っていたのではないか。

 これらはもちろん、日本にいる凡庸なディレッタントの想像である。しかし、日本のインテリがフーコーやデリダを、何かしら知的でかっこいいものとして見ているのは違うのではないか、と思う。僕達に必要なのは、現実を分析する、その析出方法であり、その方法論として有効である限り、それらを活用すればよいと思う。しかし、フーコーやドゥルーズの息苦しさと、知的な洗練さに憧れるというのは何か違うのではないか、と今の僕は思っている。しかし、過去にはそんな風には思っていなかった。

 もう一度、テキスト論に戻ると、テキスト論は良くて、作家論は古いとか、そういう事はどうでもいい事だと思う。例えば、目の前にケーキが会って、これを半分に切断する際に、縦に切ったほうがいいとか横に切ったほうがいいとか、それはまあ、どっちでもいいのだと思っている。しかし、切るのであれば、半分に切らなければならない。つまり刃線が、ケーキの中心を通らなければならない。そういう意味で駄目な批評というものは、対象を完全に切る事ができない。よくない批評というものは必ず対象を木っ端にして、端の方だけ切落す。根本的な批評方法の差異というのはそういう所にあるのではないかと思う。


                                 ※

 僕の書いた批評がいいものだとはもちろん決まっていない。ただ、自分の為に自分の批評方法を整理してみるなら、次のようになる。つまり、僕はテキストから、作者の像みたいなのを導き出してくるが、しかし、そこで導き出された作者像は現実の作者とは異なっている。だから、いわゆる、学校でよくあるような「作者の言いたい事」とはまた違う方法論であると自分では思っている。

 この点、非常にわかりくい作家は例えば太宰治で、太宰は、作品から現れてくる作家像と、現実の太宰治という人物を微妙に戯れさせたような作家なので、非常に面倒で、わかりにくい事になっている。

 例えば、ドストエフスキーの書簡集を僕らは読む事ができるが、ドストエフスキーの作品に慣れ親しんだ人なら、書簡集から透けて見えるドストエフスキーが本当にあのような大作を書いたのかと、疑問に思うのではないかと思う。僕はドストエフスキー夫人の回想録を読んで、非常によくできていると関心したのだが、しかし、夫人が正確に描写した男が、あのような作品をどうやって書いたのか、その謎は以前、僕の頭の中では解決されなかった。ドストエフスキーの大作というのは、ドストエフスキーという個人の生活をどこまで掘り下げても、そこに一つの答えが見いだせないように僕などは感じて、僕はドストエフスキー論を書く時には作者の私生活にはほとんど触れなかった。
 
 したがって、僕の考える作者論ーー作者像というのは以下のようなものだ。つまり、まず作品がある。私ーー批評者がこれを読む。私はこれに感嘆する。そして、私はこの作品から逆に、一つの作者像を想像する。それが想像できる根拠というのは単純な発想による。つまり、ある一つの作品があるとすれば、その全体を統御する精神がなければならない。したがって、その作品の全空間を貫く一つの普遍的実質ーーーそれを一つの概念として、作者像として考える。そして、これを、現実に生活している作者と比べる。すると、この作者像と作者は、あまりにもかけ離れた存在である事がわかる。

 では、ここで現れてくる作者像と作者の違い、ズレというのは何か、という事が僕の中で問題になる。それを問題にするのが、今の僕の批評の問題、謎であるという事にある。あるいは、それは人間というものに内在する謎と言っても良いのかもしれない。そしてここで現れる、理想像としての自己(作者像)と、現実の作者との解離というのは、優れた作家、思想家になればなるほどかけ離れている。したがって、過去の偉大な人ーーー例えば、イエス・キリストのような人が、一般の人に「あいつは立派な奴だと言われているが、所詮大工の息子やないか!」と馬鹿にされる、というその契機が現れてくる。つまり、この理想像としての自己と、現実としての自己とのズレがこのような揶揄を生む。見える人には、作者像としての作者が見えるが、見えない人には現実の作者しか見えないからだ。

 以上の、作品を書く精神としての己と、現実の己との差異が今、自分の批評では問題になっている。そしてここでは、作者論がどうとか、テキスト論がどうとか、そういう事は問題にしていない。そういう事は基本的に本質的なものではないと思っている。ただ、批評家の特質を示す事ではある。しかし、重要なのは、作品そのものを真っ二つに切らなければならない、という事だ。ある方法論に乗っかればそれだけで自分が浮揚するというのは、いつの時代にも見られる偏見だと僕は思っている。批評家が作品に向かう際には、これを理解しようと努めなければならない。そしてその理解の形式は各々の自由である。しかし、その理解の形式を目的とする所に、半端な批評というものが存在するのだと思う。そして批評というものの根源にあるのは、読者がある作品に感嘆したり、感動したりする事である。作品が感動を生む以上、その感動は分析されてしかるべきだろう。しかし、作品を蔑ろにする為に知的な道具を振り回す批評というものが世の中にはたくさんある。そういうものとは一線を画して、自分は密かに自分の批評を追い詰めていこうと思っている。



 『入り口』にたどり着く事



 
 

 ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」は、真理を指さし、それに対して沈黙する所で終わっている。

 正直言うと、ウィトゲンシュタインが形而上学全般を一気に否定するやり方はむちゃくちゃじゃないのかと思っているが(言葉と世界とはそんなに簡単に対応つくのだろうか?)、しかし、僕が興味深いと思っているのは、ウィトゲンシュタインにおける真理と沈黙、言葉と沈黙の関係である。ウィトゲンシュタイン風に言うなら、沈黙とは言葉によって表されるほかない。しかし、それは言葉ではないのである。よって、言葉は沈黙の前で立ち止まる。そして現に沈黙するのはウィトゲンシュタイン本人ーーーあるいは、読者それ自体であるのだ。

 ここからは、非常に面白い色々な考えが浮かぶように思う。つまり、ある芸術作品は、言葉によって橋を作り、それは生の前まで辿り着く。ドストエフスキーの罪と罰は、次に新たな物語が来る事を予期して終わる。しかし、彼はその物語を書かなかった。彼の生涯は、彼の物語を反覆して深める事によって終わった。では、ドストエフスキーが罪と罰のエピローグで予示した、「次の物語」はどこへ行ったのだろう?

 実を言うと、それ自体が、「論理哲学論考」における沈黙にあたっている、と考える事ができる。僕はーー以前から不思議だった。あるいは、僕自身そういうものを求め続けていた。つまり、それは生を前提として得られる何かしら、絶対的な真理とか、等式みたいなものだ。そういう式そのものを得れば、生きる事はなにものでもない。そういうものを僕は芸術に求めようとしていた。しかし、本当はそうではないのではないか。本当に優れた作品ーー哲学は、生の前で立ち止まり、そしてこうつぶやくのではないか。

 「僕は君を『入り口』まで連れてきた。ここから先は自分で歩きたまえ」

 したがって、作者(哲学者)にとっての最終到達点は読者にとっての入り口であり、スタートなのである。確か、バタイユは、彼の作品群はそこに入ったら出られない、そのようなものとして書いているーーというような事を言っていたと思う。その場合、バタイユは、読者を、生という入り口までは導いていないと言う事もできる。バタイユはバタイユという袋小路に、我々を誘おうとしているのだ。そこに、出口はない。(あまりに魅力的で示唆に飛んだ袋小路だが)

 したがって、あらゆる真理、あらゆる傑作というのは、それで「終わり」になる作品ではなく、正に、読者自身に自身の生を懸命に生きる事を促す作品なのではないか、と思う。そしてその著者自身はいわば、その真理の一歩前でとどまる。だから、ある個人の生涯の最終目標は「入り口にたどり着く事」と結論付ける事もできる。それ以上の事は僕は今、考えようがない。

 したがって、この世界における掟というのは、書物が途切れた時に、生が始まるのである。しかしながら、その生はまた一冊の書物に吸い込まれていく。人は何度も、スタート地点にたどり着く事によって進歩していく。ふと、仕事中に自分はそういう事を考えてみた。

お知らせ

哲学者ヴィルゲン氏ーのインタビューという小説をアップしました。元ネタの哲学者はウィトゲンシュタインです。

http://p.booklog.jp/book/95194/read
http://i.crunchers.jp/c/7249

カフカに寄せて

自分の太宰論の中で若干、カフカについて触れている所がある。カフカについては、バタイユがもっとも適切な事を言っていると思う。バタイユは、カフカに対して「ある種の幼童性」にとどまっている、と書いていた。その論旨は要するに、カフカは、父親に対して子供であるまま、認められようとした人生(文学)であったという事だ。カフカは常に、ある敷居の前でとどまり続けた。「掟の門」という短い小説が一番カフカをうまく表しているが、カフカは生涯、あるものの手前でとどまり続けた。そして彼はそこに手をかけても、すぐにまた元の場所に戻ってしまった。つまる所、彼は最期まで「大人」になれなかった。

だから、言ってみれば、カフカの文学は子供の秘密基地みたいなものだと言える。カフカの秘密基地は今では、我々の遊び場になっている。我々は疲れれば、時々、そこに入り込んで十分に遊ぶ。そこでは、我々はある種の幼童性に帰る。

しかし、本当を言うと、カフカを「幼童性」と評する事ができるのは、バタイユだけかもしれない。なぜなら、自分という個人にとって、カフカのように闘うべき運命が存在しない我ーーーその我が社会習慣を受け入れる事により大人になるとしたら、それが本当に大人であるかどうかは、簡単には言えない事だからだ。誰がどう見ても立派な見かけをしている人間が、精神的には小児以下という事は十分考えられる。いや、現実生活では、そういう場面をよく見かける。

カフカが乗り越えられなかった壁を僕達が乗り越えようとするなら、僕達の手には一体、何が残るだろうか。生というのは、なんだろうか。掟の門を開けて、その中に入れば、どんな劇が待っているのだろうか。

おそらく、その時僕ーーこの僕は子供の頃の秘密基地を失うのだろう。と、いう事は僕は、ある種のアイデンティティーを失うという事だ。ある点から、完全に自分でなくなるという事だ。僕は自分を捨てられるだろうか。そして、カフカは死の前には、自らをどう感じたのだろうか。

そして、カフカの未完結の物語は、現在誰がつなぐのだろうか。一人の人間の死が、新たな人間の物語の幕開けとなる事はあるのだろうか。

今、僕は色々な事が気がかりだ。

サリンジャー論をアップしました

サリンジャー論をアップしたのでお知らせしておきます。

http://p.booklog.jp/book/95042/read

http://i.crunchers.jp/c/7226

沈黙する哲学者

 哲学を学んでも、別に人生はよくならない。僕が哲学を気に入っているのは、それが何をも何一つ解決しない、という点である。そしてイエスとかブッダの思想も、広義には哲学に入ると思うが、これらの哲学もおそらく、人生を救いはしない。これらの哲学をくぐり抜けた後でも、人生はまるでそっくりそのまま、思想や哲学をくぐり抜ける前と同じ形で存在する。
 
 これは哲学の不思議な点で、だから、哲学や思想に興味のない人は、「そんな事して何の役に立つの?」と聞く。そう聞くのはもちろん、正しいのだが、問題はその「正しさ」が何か、という事だ。

 はっきり言ってしまうと、何がどうなろうと、我々が根源的に抱えている不安とか未来に対する絶望のようなものが解決される事はないのだ、と僕は思う。というより、そんなものが解決される必要はない、なぜなら、我々が存在し、生きている事自体がすでにその解決であるからーーという事を哲学(宗教)は僕に教えてくれたように思う。そしてもちろん、そんな事を教わった所で、僕という人間の所得は変わらなければ、病が癒えたり、東大に入れたり、かわいい彼女ができたりするわけではない。全ては、何も変わらないのである。

 そしてこれが変わる、未来に変わると称するのが一連のオカルトや、あるいは科学的宗教、宗教的科学、あるいは唯物論的オカルト、オカルト的唯物論などであろうと思う。以前、うちに来た日蓮系の、新興宗教の人は熱心に僕を勧誘していったが、その際、彼らは団体に入る事で得られる利益について、世俗的なものをあげていた。つまり、自分は団体に入って熱心にお経を唱える事によって、会社での地位が上がったという。僕はその頃、ニートで暇だったので、はあはあ、と話を聞いていた。

 僕はそれら新興宗教の人を馬鹿にする気はないし、今から考えると、あの人達は性格の良い人達だったと思う。それに皮肉な意味はない。それに、お経を唱える事に意味がないなどとも思わない。多分、実際、人間が何かを「信じる」という事には巨大なパワーがあると思うし、そうした事が世俗的なものとリンクしているとしても、それはそれで良い。ただ、ここではっきりさせたい事は、いくら現実的なものを積み重ねても我々は救われ得ないという事だ。逆に言うと、我々が生きている事でもう救われているので、これ以上救われる必要はない、ただ日々に尽力すればそれで十分だ、と知る事が本当の宗教ではないかと僕などは思っている。そしてそう解体して考えると、宗教などあってもなくてもいい、という結論になるだろう。だから、僕は究極の宗教というのは、その本質からしてあってもなくてもどうでもいいものなのだと思う。僕などは、禅の昔のお坊さんはそういう所まで言い切っていると解釈している。

 人生における問題は何一つ解決され得ない。何故なら、すでに解決された形でそれはあるのだから、それを生きる事がすでに問題の解決である。僕は以前に「どこでもないどこか」というブログ名にしていたが、しかし、この思想からはそろそろ脱しなければならないと思っている。(それでブログ名を変えた) 「どこでもないどこか」は存在しない。それはしかし、存在しえないからこそ、想像できるものであり、存在できないからこそ、自分にとって世界から逃避できる場所だった。しかし、今や僕は、時間と空間の中に占められているある一点としての存在である。これが僕である。僕という存在はすでに与えられている。どうしてそれから逃げ出す必要があるのか。

 こうした事はまた哲学的にきちんとまとめなくてはいけないが、人生というものを考える時、その辺りの事が問題になってくると思う。村上春樹の質問コーナー「村上さんのところ」を見ていると、色々な人が色々な事で悩んでいる事がわかるが、彼らは大抵外的な事で悩んでいる。しかし、彼らは悩む事自体にそれほど悩んでいないのではないか。そして哲学者とはおそらく、悩む意味について徹底的に悩む存在であるのだ。そしてそれが、外的な悩みに対する哲学者の解答なのだろう。つまり、問題は解決され得ないが、それは何らかの形ーーつまり、問題は「消滅する事によって解決する」。問題の解決は前方にあるのではなく、それを問う我々の背後にあるのだ。真の哲学者は、この背後のものを掴む。そしてそいつを力づくで握りつぶす。すると、何が残るか。全てはそのまま残っている。みすぼらしい生、みすぼらしい人生、自分。それらは全てそのまま残っている。しかし、それがみすぼらしいと見るその観点は何なのか。その問いは哲学によって解決されている。ブッダは悟りを開いたと言ったが、死ぬ時は随分苦しんだそうである。余人はこれを矛盾であるとか、結局悟ったなんて言ってもくだらない事で苦しんでいるじゃないか、凡人と変わらないではないかと、笑うかもしれない。(その手の考えが、奇跡を行う超人を生み出す) しかし僕はそうは思わない。ブッダは苦しみについて、生の苦しみについての問題を握りつぶしていた。しかしなお、彼の肉体はそれを感じたのである。では、そのどちらが正しいか。

 …しかし、これ以上は僕は言う事はできないのだろう。どちらが正しいか、という事もおそらく、結論という形で議論されるべき事ではない。それは生として粛々と実行されるべき事である。だから今、僕は沈黙する。だから、この文章もここで終わる事とする。

 要は、今はそういう事を考えている。それぞれに解決すべき問題があるだろうが、それは生によって解決されるべき問題であり、生を基盤として議論されるべき事ではない。重要なのは沈黙だ。ウィトゲンシュタインは論考の後、十年ほど沈黙した。彼の沈黙は彼の一つの哲学的実行だ。論考の後、彼は沈黙した。そしてその沈黙が、『論理哲学論考』よりも価値の低いものだったとは誰が言えるだろうか? 人は見えない場所でも、生きているのだ。これほど、言説がやかましい時代にあっても、沈黙はそこにある。

 そして人は生き続けるだろう。『生きる』事の価値をやたら褒め称えるもの、死ぬ事に華美な意味を付与する者達を置き去りにして、現に生きるものは一つの沈黙として自分の生を生きるであろう。そしてその沈黙に一つの意味を与えるのはその言語行為者ーーーつまり、本物の『哲学者』なのかもしれない。

 

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