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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

30歳になる前に

 



 世の中には29歳変動説というものがあるらしい。僕は今丁度29歳なので、何か変動があればいいのだが、しかし今の所そんな兆候はない。

 僕も今年で30になるーーーと考えると、驚くべき事ばかりのような気がする。僕のような『無』の存在にも30という年があるのか。おそらく、僕は50になっても、80になっても同じ感慨を繰り返す事だろう。

 世間一般では、社会的成功というのには、非常な敬意が払われているが、それらをどれほど積み重ねても、おそらく人生の無為、人生の虚無には抗しがたいだろう。人生の虚無に対向する手段というのは、おそらく存在するのだろうが、それを根底的に掘り下げる事はとんでもなく難しい。生きている間は死ぬ事を考えず、適当に遊べばええんやーーーもちろん、そういう考えも悪い考えではないだろうが、考えるのであれば、とことんまで考え詰めないと意味がないような気もする。

 自分という人間は三十年近く「協調性が欠けている」と言われ続けてきたのだが、しかし、彼らは「協調性を欠かざるを得ない」僕の運命については見なかったようだ。…しかし、それは今から考えれば当たり前の事で、人々が僕の運命を発見しなかったからと言って、彼らを指弾するのはもちろん、間違っている。ただ、僕は、芥川龍之介や太宰治や、あるいは三島由紀夫などがいかに辛い人生だったかという事はうっすらとわかるような気はしている。彼らには文学の才能があったのではなく、自身の死への欲動に抗する為に文学というものにすがりついた、という風に見る事もできる。そしてその闘争こそが、彼らの劇となり、あるいは彼らの文学となった。では、この私ーーー僕には どんな闘争が残されているというのか。

 僕個人は、これまでそれなりに努力してきたつもりでいるのだが、しかし、その努力は完全に個人的なものなので、僕を「努力家」だと見る人は僕以外に一人もいなかったようである。しかし、それもまた当然の事だ。僕は人々の価値観と異なった場所に行きたかったので、そういう方向に歩いてきたのだとも言えるが、それが何を意味するのかは自分でもよくわからなかった。

 僕という個人は、他者との間にガラス張りのような、バリアーみたいなものを感じて生きている。(それは丁度、カフカが身にまとっていたバリアと同じだろう) そしてその原因は、乳幼児期の母親との接触の不完全とか、そういう事があるのかもしれない。しかし、そういう事がどれほど唯物論的、あるいは精神分析学的に解読されようと、自分の運命というのは消えないのだ。この先、自分のする事が一挙手一投足、遺伝子情報に書き込まれていると誰かが宣言したとしても、我々が生きる困難は変わらないだろう。我々は結局、ロボットではないのだから、自分で考えて、自分の今抱いている壁は自分の足でまたぎ越えなければならないのだ。

 僕ももう30なので、青春に対する幻影とは別れなければならないだろう。ーー僕にとって青春とは、アルチュール・ランボーの詩句であり、あるいは神聖かまってちゃんの「ロックンロールは鳴り止まないっ」であり、あるいはウィトゲンシュタインの「論考」である。ウィトゲンシュタインがこの世界の哲学問題を全て解決したと信じて、この世界を去りゆくさまは、ランボーに酷似している。彼らはみな、いずれも青春を抱いて生きた。そしてそれに通有の『別れ』を強いられた。幻影とはいつか別れなければならない。生きていくとは泥水をすする事だ。ーーしかし、一度、清水の味を知った魂が再び、泥土に戻るとはどういう事だろうか? 僧侶や修行僧のような過去の宗教的な人々はいずれも、フーコーの言う所の「自己への配慮」を重んじた人だったのだろう。では、比叡山で修行した親鸞が山から下りてくるとは一体、どういう事なのだろう?
 
 我々が現実に還っていくとはどういう事なのだろう? 僕はその時、どのような表情をしている事だろう?

 一つ確かな事は、人々が趣味的、インテリ的、イデオロギー的に色々な事についていくら語ろうと、それは僕という一個の運命や魂には触れられないという事だ。人は様々なものをカテゴリーに分類し、知識として処理して安堵するが、その処理している当体は一体、どこに処理するのだろうか? 我々が死を、運命を忘れているとはどういう事だろうか?

 これから、僕は汚れた人生を送る事だろう。そしてそれゆえに僕はーーー清らかな『死』を得る事だろう。

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 「一般文学批判」 (小林秀雄と太宰治を通じて)




 太宰治や小林秀雄があの当時、文学の領域であれほど優れた業績を残したのは、彼らが文学に対する根底的な懐疑主義者であったからだと考えられる。この辺りは哲学の歴史と全く同じで、哲学を発展させてきた人は常に、哲学に対する懐疑主義者だった。だからこそ、パスカルは「哲学をするとは哲学をバカにする事だ」と言ったのだ。

 現状、文学というのを、芥川賞や直木賞のような形である種の人々が素朴に信じている、というのは、そうした観点からは不思議に見える。何ものも信じない、という点に、文学というのは存在し得るのか。ーーー答えとしては存在し得る。何故なら、その時、文学とは、その人間の表現機能の一部となっているからだ。全てを疑い、全てが嘘だと気づいた精神のみがたった一筋の真実であり、これは文学という嘘を通して語られるほかない。だからこそ、これまでの優れた芸術家というのは、芸術の破壊者であったり、芸術に対する懐疑主義者であったりしたのだ。…あるいは、この事は次のように言い換える事もできるかもしれない。彼ら全ての優れた芸術家というのは、芸術を愛好し、それにのめりこむあまりに、一般に芸術と思われる形式を破壊してしまったのだ、と。宗教においても事は同じで、キリストを愛する余りにキリスト教を批判する、みたいな事は歴史的に何度も繰り返されてきた。彼らは、そうしたものが形式として成り立っているのではなく、本質が形式を「表している」事を知っていたので、形式を崇め奉る事に我慢ならなかったのだと思う。しかし、形式というのはどの時代においても、神となりうる。何故なら、人間は常に、実存や本質を見る程に自己の精神を鍛えられている存在ではないからである。

 しかし、本質というのは常に形式において表されざるを得ないという意味で、どんな本質もまた肉体を持つ。言い換えれば、肉体を離れて本質は存在しない。モーツァルトの楽譜を粉々に分析し、解読する事はできる。しかし、それら全体を構成するものを我々が「本質」とか「魂」とか読んで何の間違いがあろうか。間違いというのはただ、本質が形式を離れているとする考えの中にあり、また、形式に本質性を与える、という点にある。形式に本質性を与える、というのは現状の唯物論のように、物質に過度の精神性を与える、という意味だ。金や物に、それそのもの以上の人生の意義などを与えるのは、裏返った宗教にほかならない。この点で、形式と本質とは本来分かたれる事がない事を見れば、それで十分なのだと思う。人間の理性や感情の機能を、それに則した一定の領域以上に拡大すると、色々な間違いが起こってくる。つまり、物事は単純で、ある作品に私達が心底感動したのなら、その感動の源はその作品の形式にあると考えられる。また、作者がその元になった精神を持っていると仮定してもいいだろう。しかし、ここにはもちろん、様々な錯誤の可能性がある。しかし、そうした事も、鑑賞や創作の体験を経て、純化されていく事だろう。

 現状、文学というものを信じている作家、あるいは僕達ディレッタントがどういう様相の中にいるか、というのは以上のような観点からもそれなりにはっきり見て通せると思う。つまり、我々は(プロであろうと素人であろうと)、文学や芸術を自己の発現機能と化せていない。簡単に言って、我々はそれらのカテゴリーに隷属しているのである。そして、その方が安易だし、気持ちが落ち着けられる。何故かと言うと、その場合は自分が孤独ではないからだ。つまり、私の作品を測る物差しは「文学」というあちらがわにあり、それ故に、その「文学」というものさしで、こちらの作品を測れば、そこに点数のようなものが出てくる。そしてそれによって我々は「よい作品」とか「悪い作品」とかいう風に判断する。しかしその場合、絶対的な価値観の尺度はあちらがわ、カテゴリの側にあるのだから、我々は常に芸術に対して使役される立場にある。最近のいかにも純文学風の作品を書く若手作家の作品などを見ても、それらの作品を、彼が、自分の表現機能の一部として行使しているとは僕には全く感じない。そうした作品で僕が感じるのは、それとは全く逆の事実、つまり、そうした作品は文学、あるいは純文学というカテゴリに一致するように書かれているという事実だ。それらの作品は最初から、優等生的な頭脳で外側のものさしに合致するように書かれている。だからこそ、そこにはいかにも深刻そうで、何かしら大切な事を言ったかのように見えるが、そこに確固たる作者の確信のない作品が無数に出てくる。人々は今、不安である。どの領域においても。そして人々はこの不安を安心させるために、外側の価値尺度に依存しようとしている。しかし、その不安そのものの根源的原因は、その尺度に頼ろうとするその姿勢にほかならない。なぜなら、その尺度に依存して百点満点を弾き出した所で、それらは結局他人の価値観であるために、いつまでも、本当の自負と確信を持てないからだ。こうして無数の優等生的作品は生まれるが、個性的な作品は一つも生まれないという事態が発生する。そしておそらくは、小林秀雄や太宰治が活躍した時代も、文学の状況は似たようなものであったろう。(当時はマルクス主義文学が流行っていたようだが、要は外側の価値観がそれぞれにその時代に衣装を変えているにすぎない) そしてまた、そうした時代だったからこそ、この両者は文学に対する懐疑と解体を通して、それぞれ、文学そのものの化身となるような、そうした業績を残せたのだった。彼らのした事は文学の解体にほかならない。思えば、近代文学の創始者セルバンテスは、当時の通俗文学に対する徹底的な決別から自らをスタートさせた。そしてこの事は、それがメタであるとかないとかいうより、根源的な事であるように思われる。それは丁度、カントが哲学批判、形而上学批判をする事によってまた新たな哲学、形而上学を可能にしたのと一般であろう。こうして、批判と否定を通して新たな時代は幕を開けた。しかし、それは当然、苦い自己否定をも含んでいる。何故なら、誰しもある種のカテゴリに依拠せずに、最初から何かを考えたり何かをする事は不可能だからだ。

 以上のような事で、僕の「一般文学批判」を終わる事にしたい。新しい芸術、新しい文学を創始するのは、文学や芸術を愛好するあまり、それを乗り越えていってしまう人々であろうと僕には思われる。そしてそれは、カテゴリというものさしによって自己を評価し、測る人々によってではない。今、世界は様々に紛糾しているように見えるが、時代は変わっても、色々と変わらない事がある。僕は有名だとか無名だとかという事で色々な事を区分けしてはいない。重要なのは、社会が我々に与える価値観とは違う価値観を創り、磨き上げる事にある。そうすれば、創作の問題はそれに比べれば小さなものに見えるのだろう。全ての天才とはおそらく、失敗作を創りあげる事のできる人達だ、とも言えるかもしれない。なぜなら、彼らは常に未知に挑戦する為に、そこに成功はなく、あるのはただの無数の失敗作と、そして「ある程度の成功作」だけだからである。他人の価値尺度で自らを測るのであれば、そこに現れてくる点数は明瞭なものだろう。しかし、ほんとうに面白いのは、点数を超えた場所、価値と尺度を離れた所にある何かである。こうして過去の天才達は全て、「完全」に辿りつけなかった失敗者であると言う事もできる。しかし、彼らはそれと同じくして、浅はかな成功者には思いもかけないものを達成したのである。そしてそれは個人の意識にとっては常に、失敗や、不完全として認識される。そうして、本当に豊かなものはそこにある。そしてまた、小林秀雄も太宰治も当時にあってはそうした道を歩いた。僕には、そのように思われる。そして、彼らが示した方途は、現代でも依然として大手を振って通用するものであると思う。それが、社会の価値観において何点と評されるかは分からないが。

芸術家の発展する道 (自己確立から世界そのものへ) 





 最近の文学・あるいは小説関連のニュースを見ていると、タレントが小説を書いたり、ジャニーズジュニアが小説を書いたりして、それが売れたりしている。

 だからどうというわけではないが、単純に「小説家になりたい夢」がある人はその夢を先に叶える為に、お笑い芸人やジャニーズ事務所に入る事を目指してもいいのではないかと思っている。そうすれば、ある程度、その人の書いた小説は話題になるかもしれない。しかし、こんな事はもちろん、全てどうでもいい事だ。(彼らの小説が良いか悪いかは知らない)

 こうした方法論が現れるのは、手回しオルガン弾き氏が指摘した、色々なものの「タレント化」という現象がある。テレビに出ている人間が純文学デビューしたと聞けば、なんとなく、知り合いの誰それが作家デビューしたような気分がするので、手に取って読んでみる気がしてみる。つまり、こういう所では、作者と作品とが全て渾然一体となっている。だから、佐村河内のような人間も、この先、必ず出てくると思う。何故なら、グラサンに長髪、耳が聞こえないという事も、言ってみれば作品の一部に入っているからだ。これら、タレント的な現象、作品が独立しておらず、その作者と一緒に見られている現象ーーーここには、言うまでもなく、芸術としての根本的な問題はない。なので、僕はこれらの問題に対してはここらで切り上げたいと思っている。

 では、芸術が現在、成立する地点とは何か。それは僕は、すでに神聖かまってちゃんが示したと考えているし、それらについてはもうかなり言及した。小林秀雄の言った通りに、芸術は個性的なものを狙う。では、個性的なものとは何か。ーーーもちろん、そんなものは存在しない。この世に、個性なるものはない。龍樹の指摘したように、それ自体、自生として存在するものはありえないのだ。しかしながら、限りなく、不滅の自己を目指していく運動というものはありうる。それは最後の一点で、自己なるものに出会うかもしれない。あるいは出会えないかもしれない。しかし、この自己を確立しようとする運動そのものを定式化するという事が、そのまま芸術行為となった。これが神聖かまってちゃんが、我知らずやった偉業だ。僕はそう考えている。

 芸術というのは、元々、綺麗なものではない。それは個性的なものである。芸術が美であるのは、誰がどう言おうとも、『醜』を含んだ結果であると僕は思っている。何故芸術が『醜』を含むかと言えば、それが芸術家の全存在を反映したものにほかならないからだ。人間は醜さも『含めて』美しい、というのが芸術というものの、根本的な立場であるように僕は思う。僕がいわゆる技術的に優れた『プロ』の創ったもの見て、なんとなく物足りないように思うのは、彼等が『醜』を意図的に、作品から排除しているからだ。僕の考えでは、モーツァルトにはメランコリックな響きがある。つまり、確かに、小林秀雄の言う通り、モーツァルトには悲しみが宿っている。ただ、彼の駆け足は早いので、悲しみは彼の行く先を追うにとどまっているが。

 しかし、芸術にはまだその先の運動がある。僕は今それについてぼんやりと考えている。芸術とは始め、見えない秩序の中から自分をつくりあげようとする行為であると言える。つまり、我々は生きていると、一つの社会秩序の中に溶け込んでいるわけだが、そこから自分を分離して取り上げようと、そこに、満身の苦痛が現れる事になる。皆と和気藹々とした中で、良い作品は創れないのだ。(もちろん、形而上的な意味で言っている) そしてそういう点において芸術は常に、不幸と孤独を背負っていると言える。芸術が不幸と孤独を背負うのは、それが好きだからではなく、それが一つの運命を持ちえるただ一つの道だからである。そういう意味で、キルケゴールはわかりやすい、と言う事ができる。キルケゴールが孤独なのは、彼が己自身である為に選択した事であり、そしてまた絶海の孤独の中で始めて、天のキリストが彼に微笑む事になる。人々、社会、世界と仲良く融け合っている中ではどうやら、キリストもブッダも我々には微笑みかけないらしい。そういう場合に我々に微笑みかけるのはわかりやすい「仏教」でありまた「キリスト教」である。生きるという事は根本的に自分的なものだが、しかし、それを失う時、我々はおそらく全てを失うのだ。

 では、そのような自己を確立する運動のその先にあるものとは何かーーー。それは一言で言えば、シェイクスピア的なものだ。つまり、彼はとうとうその自己を失う。彼は、自己を失い、その自己意識はこの宇宙に溶け込む。彼は自分すらも失い、もはや一つの視点となる。そして、この無という一つの視点からのみ、この世界全体を描く事が可能になる。シェイクスピアのような偉大な作家が、いかに世界と融和的に見えようと、それは融和的でもなければ、反抗的でもない。シェイクスピアのような存在は社会に対する自己、個人のその両者の関係を止揚した、そういう存在と考えられる。彼はありきたりの世界を、自らの視点から焼きなおす。アレンジしてみせる。彼は、世界を描く。つまり、彼は世界そのものを描く。しかし、ここで忘れてはならないのは、世界を描く事ができるのは、完全に世界から離脱したものだけだ、という事だ。世界の内部にいれば、その人物は世界を描く事ができない。我々は確かに、「小説の書き方」についてはいくらでもノウハウは持っているかもしれない。しかし、この観念化した世界の中で、我々の観念そのものがこの観念の海に完全に溶けきっているからこそ、我々は人間一人を描きえないのだ。そしてこの未熟な芸術家はまず、自分を創る事からはじめなければならないだろう。しかしこの人物はやがて、自分を放棄し、シェイクスピア的な世界におもむかなければならない。それは仏教で言う、「空」のような場所だ。そしてその無という一つの実在の視点からこそ、この世界全てを手中におさめる事ができる。こうして、全てを捨てたものは、全てを得るに至る。おそらく、全ての芸術家はゆったりと、そういう道を歩いているのだと僕には思われる。

 今、僕が考えている事はそうした事だ。そしてこんな事を考えている人間が、普通一般の芸術に関する考えから疎外されるのは当たり前の事だろう。したがって、僕はまた自分自身の孤独に戻っていく事になる。


 おそらく、世界は、それを捨てたものに、微笑みかける事だろう。そういう意味で、我々に神は必要はない。我々は自らの中に、おそらく、苦しい努力の末に神の視点を持つ事は可能だろう。しかし、その人間は、その視点を持った時、誰よりも、ごくありきたりの、普通の人間の顔をしてこの市街を過ぎ去る事だろう。この世界全部を手中に収めた事を、自らの内に静かに感じつつも。

メディアに出てくる科学者の事など

 僕は自分の立場上、オカルトや自己啓発の類は斥ける事にしている。何故なら、それらは基本的に自分から逃避するものだと考えられるからだ。そういう意味で、僕は臨済という奇妙なお坊さんを支持したいと思っている。臨済は、仏弟子達に対して、自分から逃げる事を許さなかった。

 最近、仏教哲学を学んでいて、心底関心する事ばかりである。特に、ブッダ、龍樹、般若心経、維摩経、唯識派辺りのところがとてもおもしろいと思っている。つまり、僕は倫理・道徳としての仏教よりも、自然哲学としての仏教に焦点を当てて見ているのだと思う。そしてそういうのを読んでいて気づくのは、これらの仏教哲学というのは、ある意味で徹底した唯物論だと言う事ができる。全てが「空」にすぎない、それ自体で存在しているものはどこにもないので「関係」が本質である、というのはほとんど、全てを解体するような考え方だ。仏教哲学をじっと見ていると、そのどこにも、あの世とか前世などが入る余地がないように見える。しかし、これらはあくまでも僕が見た仏教哲学であって、仏教の世界自体は広大なので、まあ色々あると思う。

 仏教哲学から比べると、今の科学者の一部などの方がオカルトではないか、と思う事もある。例えば、ある事をすると、脳にいい、と脳科学者が言うとする。その場合、そのある事が脳にいい、とはどういう事だろうか。僕達がそう言う時、「脳」という物質を知らず知らずの内に擬人化していないだろうか。脳にいい、という事はつまり、「私」にとっていい、という事である。つまり、本来、「私」が目的にならなければならないのに、何故、「脳」で、色々な事が止まってしまうのか。

 しかし、仏哲学に限って言うと、この「私」というのがすでに迷妄だという事まで言い切ってしまっている。これはかなり面倒な議論なので、ここでは言及しない。しかし、「脳」が行為の目的というのはどういう事だろう。例えば、私が私の脳の事を思って、紅茶を飲むという行為は現在では不自然ではないのかもしれない。では、その脳は私の脳なのだろうか。私は、私がその紅茶を飲む時には、まるで、私の外側に私の脳なるものがあって、そのもののために飲んでいるような気がするだろう。

 物質を精神化するという過程はどこにでもよく見られる。ポルシェは物質である。しかし、それはある種のステータスを意味しもする。では、これは物質か観念かと考えても、多分、大した意味はないのだろう。問題はそれが本人にとって何か、という事だ。それはある人にとっては鉄くずであり、またある人にとっては自分のアイデンティティそのものでもあるだろう。人は物質に憑かれているが、同時に精神にも憑かれている。

 私は、おそらく、私の拙い脳によって思考しているのだろう。だとすると、思考する私が、その思考している脳の為に活動するとはいかなる行為なのだろうか。例えば、脳がドーパミンを出すと、幸福感が得られるという実験結果があるとしよう。すると、ドーパミンを出すためには…という方法論が出される。だが、少し待って欲しい。ドーパミンが出る事はおそらく、幸福感を得られるという事と同値なのだろうが、しかし、それが『幸福』そのものと同値とは限らない。僕にはそのように思える。そしてこの手の発想を辿って行くと、延々、注射でも打ってドーパミンを出す事になりかねない。それは、我々にとっての『幸福』なのだろうか?

 僕の個人的な考えを言うと、科学者というのは、彼らが意識しない内に、ものすごく半端な哲学者になっているのではないか、と思う。つまり、彼らは、哲学に代表されるような抽象的思考に疎い(気にしていない)為に、知らず知らずの内に色々なものを擬人化したり、当て推量したりしていて、その事に自身では気が付かないのではないか。例えば、ある人が赤い色を見た時に、脳の中のある部位が反応し、それが観測できたとする。するとその時、この脳の部位と、赤い色を見るという行為が関係ある、と言う事は言えるだろうが、しかし、「赤色は脳のこの部分によって認識している!」とまでは言い切れないのではないか、と思う。しかし、こういう事を今、メディアに出ている人の一部は言い切ってしまっているのではないか。そしてまた、言い切った人の方がメディアとか、一般人にわかりやすいというのも事実だ。だから、もしかしたら、真っ当な人ほど、目立たなくて、表に出てこないのかもしれない。

 これも僕の推量にすぎないが、自然科学は、量子論辺りから、大きな転換点を迎えたのでないかと僕は思っている。ニュートンやガリレオの頃に、自然に対して「何故?」と問いかけるのをやめて「いかに?」と問いかける事によって、科学は爆発的な発展を成し遂げた。つまり、そこでは、哲学的な思考を切り離し、自然を数量化する事によって、自然を支配しえたのだと思う。しかし、その発展も量子論で行き詰まり、人間の主体的認識と客観的なものとの関わりが避けきれなくなってきた。つまり、現代の科学者はその発展の経緯から、古い過去の科学的哲学者のような、そういう総合性が求められているのではないかと僕などは思っている。そしてこうした事は、ボーアやハイゼンベルクが一番良く感じていたのではないか。アインシュタインが、量子論に否定的だったという事実は象徴的な事だろう。アインシュタインは我知らず、ある種の思想形式を選択していたのであり、彼は、量子論が現れるまで、その存在に気付かなかったとも言える。つまり、科学者達は長い間、見えない領域で、ある安易な哲学的土台の上に座り込んでいたのだ。そしてそれが破れた頃に、また老荘思想や仏教哲学などが見直されてきた。そういう事があるのではないか。

 しかし、こういうのは全て、門外漢の感想にすぎない。これからの科学者は色々な事を考えざるを得ないだろう。そして、おそらく、彼らは、古代に書かれたものを読んで、様々な事を発見するのではないかと思う。確か、ハイゼンベルクは、プラトンから不確定性原理の大きなヒントを得ていたのではないかと思う。僕個人も、色々な事を学んで行こうと思っている。その際、僕のやり方の基本的な事は、普通の物の考え方をあくまで手放さない事だ。どんな専門用語やデータが出てきても、生活している自分の実感を手放したら、どんなペテンにも引っかかりかねない。逆に言うなら、龍樹のような人がかなり極端な事を言っても、それは実感を煮詰めたものとしてあるので、それは物を精神化したり、精神を物化した思想ではない。確定した未来や、自分以外のものによって自分が救われるというのは基本的に信仰であると僕は思っている。そして今、科学の皮を被った物理的精神論のようなもの現れて久しい。僕としては自己啓発、オカルトと共に、物理的精神学、あるいは精神的物理学としての科学も自分の考えからは斥けたいと思っている。人間というのは、物理的であると共に精神的な生物だ。そして今生きている自分という実感を失ったら、それこそおしまいだと思っている。おそらく、仏教哲学における「悟り」は自らの背後にあり、その逆の「洗脳」は自らの前方にあるように思うが、それを考察するのはまた先にしようと思っている。とりあえずこの文章はここで終わる事としたい。

 幸福の哲学への決別


 
 これだけ、自己啓発本が売れるという事は、人は何らかの形で救われたがっているか、あるいは何かの宗教を欲しているのだと思う。

 色々見ていると、真面目な人に限って悩み苦しんだ挙句、新興宗教とか、あるいは何かの自己啓発的セミナーにはまるようだ。では、ズルをする人間はラクラクと生きているのかと言うと、おそらくそうでもないだろう。しかし、どっちにしても、僕の見た感じでははっきりしている事が一つある。それは自身の限界をどこにあるか、設定していない事だ。

 こんな事を言うのは、今僕がウィトゲンシュタインを読んでいるせいかもれない。ウィトゲンシュタインは書いている。「語りえぬものについては沈黙せねばならない」 では、語りえぬものとは何だろうか?

 例えば、幸福になる、前に進む、ステップアップする、とまあ色々な幸福の為の方法論が語られる。「年収一千万以上の人は〇〇をしている」などなど。これら全ての事に共通するのは、彼らが自分から退避しようとしているという事だ。最近、仏教哲学を学んで、つくづくそういう事を感じた。仏教哲学は、僕の勝手な理解では自分に帰ってくる哲学である。それは自己を否定しながらも、また最後にそこに帰ってくる。我々には自己がある。それで、十分である。自己とは問いではなく、答えである。生とは、意味を問う場ではなく、それ自体が意味である。臨済は言う。「お前は仏に会いたいか? …ならば、お前自身が仏である事を悟れ」

 自分というものを離れた所に、幸福があると人は夢想する。おそらく、僕の考えでは、ある種の哲学者が、絶望と不幸のみが「自己」であると感じ、そういう生を生きたという事には重大な価値がある。しかし、これらの哲学者はあくまでも、『どこかにある幸福』としての対比として、自己の絶望を感じていたと言う事もできる。しかし、おそらくそれは間違いなのだろう。『どこか』に幸福などはない。それは、『語りえぬもの』であって、沈黙すべき事である。しかし、人はこれに対して、今、饒舌である。

 人々の饒舌が重なりあって、それは共同幻想となる。一般規範となる。あたかも、それが実際に存在するかのように。そしてメディアにおいては、『正に自分は幸福の化身そのものである』というような顔のビジネスマンだのモデルだのが次々と出てくる。しかし、彼らは結局、画面の中の概念にすぎない。概念は風に吹かれて、消え去るだろう。

 仏教哲学において、『空』という考え方がある。それは、この世界はつまり、『空』であり、自己自身も一つの幻想にすぎないという事だ。(適当な見方だが) 僕の勝手な理解では、仏教哲学における、この自己解体の技術は、他には見受けられない珍しいものではないかと思う。デカルトの懐疑は「我」で中途半端にとまってしまったが、ブッダやナーガルジュナは更にその先に言った。自己、というのも、我々が自己なるものを名づけた時に発生した一時的なものに過ぎない。だから、死によってこの自己は解消されるが、これを私達は恐怖と感じる。しかし、それは概念としての自己を実在としての自己と取り違える事によって起こる勘違いである。だから、死に対して恐怖する事は、論理的に間違っている。そして、この事は滝行に打たれて理解するタイプの事柄ではないのだ。

 こういう言い方は、全て僕の身勝手な仏教理解から来ている。(仏教の専門家にあれこれ言われては面倒なので先に予防線を張っておく) 僕は仏教哲学に色々教わる日が来るなどは、思いもしなかった。本当の事を言うと、「悟り」というのは、我々が普通に生きる事そのものであっていいのではないかと僕などは思っている。普通に生きる事が悟りである。ーーだとしたら、悟りなど意味はないではないか? もちろん、そんなものに意味はない。だから、言っているではないか。全ては「空」である、と。

 人は「自分のために」「幸福になろう」としている。しかし、この論法は一度解体する必要があると思う。しかし、人は自らを省みるより、前方に突き進む事を好むものだ。人は小難しい事は好きではない。自分を切り刻む事は好きではない。何故かと言うと、それには苦痛が、痛みがともなうからだ。しかし、外科手術に痛みが伴うように(麻酔もあるが)、精神を癒やすにも、おそらく痛みが伴うだろう。人々が痛みを回避し、そして自己から逃げ出そうとするその先にはより多くの痛みが待っているように、僕には思われる。何かを得る事によって我々は幸福になるのではない。全てを捨て去る事によって、我々は幸不幸を超えた涅槃に行けるのだ。古代の極限的な哲学者はそのように事を考えたように、僕には思われる。したがって、僕はこの古代の人に深い敬意と尊敬を払う。

 自己とはなにものか。幸福とはなにものか。「私」とは何か。あらゆる物事の先頭に起こるこの「私」とは何か。この解体は一度、考える必要がある。そしてその為には、哲学は大いに役立つだろう。問題は哲学が我々にどのように役立つか? ではない。哲学の力は、役立つという事のその意味それ自体を完全に解体し、そしてその「私」すらも、一つの迷妄にすぎない事を明かす所にあるのだ。今は僕はそう思っている。

 今はそのような事を考えている。何にせよ、古代の哲学者はとてつもなく深く、根底的な問題について考えている。この問題についてはまた掘り下げて考えていきたいと思っている。

言語宇宙の輪廻




言葉が透明であるなら

それはどこまでも浸潤するだろう

君の心の奥まで

深く、深く浸透するだろう


メディアの中に現実があって

画面のこちら側には現実は存在しない

僕らはそれぞれ、偽の着物を着て演技している

そしていつしか演技が真実になり

楽屋裏での束の間の休息は全て

偽の存在となってしまった


君は言葉を知らない

なのに映像を知っている

そして、君は君が作った映像の中で

一人踊っている


もし、この世界に神がいたら

それは必ずや乞食の格好をしているだろう

何故って、神は決して演技しない存在だから

そして、演技の中で踊る人間達の間を

暗い顔ですり抜けていく事だろう


その時、君は友人達と笑い合っている

そして、私は………


もしこの世界が滅びたら

さぞさっぱりする事だろう

その時は僕も消え、君も消え……しかし

「消えた」と感じる意識の目だけがまだ生きている

その目はおそらく何億光年も離れたどこかの銀河系から

僕らのいたはずの銀河系に注がれている一つの視線

そしてその生物はおそらく

過去にこの地球で乞食としてまかり通っていた

神そのものなのだろうと僕は思う


だから、僕達は乞食には優しくしなければならない

何故って、もし僕達に神の目がなければ

僕達はただの人間になりさがってしまうのだから


…そう、この世界は何度でもやり直しが聞くし、多分

プランク時間ごとに明滅しているのだろう

そしてその時の煌きの中で いつか

君は「僕」に会う事になるだろう


何故って、僕は今や

この「言葉」という情報そのものに成り果てているのだから


言葉はどこまでも浸潤する

君の心の奥まで、とても深く

そして、君はついには君の心の洞穴を辿り

最後には君自身を生み出すだろう

そしてまた宇宙は輪廻する

あの乞食の「神」を置き去りにして

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