FC2ブログ

物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

 「自分を変える」という事について



 最近、仏教とか老荘思想なんかをかじっている。それらを見て、僕は個人的に色々わかったような気がしている。また、これまで漠然とやっていてた事にも脈絡がつくようになったと思う。

 自分のこれまでやっていた事は、世の中の漠然とした偏見に『現在』という一事で抵抗するという事だったように思う。最近苫米地 英人という胡散臭い人の本を読んでいたら、「時間は未来から過去へ流れる」と書いてあり、「あー、そうだわー」となってしまった。しかし、今はそこまでは言及しない。

 例えば、『前に進む』とか『私を変える』というのはこの社会ではポジティブな発想とされている。この手のコピーはいくらでもあり、『常識を変える』とか『一歩、先へ』とか後は、『本気で生きる』とか『死ぬ気で生きる』とか、そういう色々なバリエーションがある。個人的にそういうものには、生理的嫌悪を持って接してきたが、今色々勉強する中で、それらは論理的に間違っているという事がわかったように思う。なぜなら、我々はもうすでに生きているからであり、この生を離れて、別のどこかに生があるはずはないからである。臨済というお坊さんは「お前達は仏に会いたいか?」と弟子に尋ねた後に、「仏はお前じゃないか? どうしてそれに気が付かないんだ!」と怒鳴り散らした。臨済という人は物事のよくわかっていた人だったと思う。もし臨済が、今の自分探し、あるいはどこか未来のある点で自分は変われるに違いない、と考えている人と出会ったら、彼は「お前はもうすでに自分じゃないか! お前はもうすでに変わった『後』ではないか! どうしてそれに気づかないんだ!」と怒鳴ったのではないか、と思う。結局、仏という言葉を別の言葉にしただけで、真理は同じである。では、どうして僕達は僕達そのものを理解しないのだろうか。

 おそらく、それにはニュートン以来の絶対時間、絶対空間という発想があり、またそれと平行する資本主義の巨大な流れがあるように思う。時間はタイムカードによって区切られる。僕達はいつからか時間を、「時計的な」もの、つまり外的なものとみなすに至り、そしてそれと同時に、「未来のある一点に変化した後の自分がいる」などと思うようになった。そしてそれが現代的とか近代的とか言う事になった。しかし、ブッダのような人はそういう事が間違いだとよく知っており、時間というのは己そのものであり、現象そのものだという事をよく知っていたのではないか。あるいは、時間というものは存在せず、変化のみが存在すると言ったほうがさっぱりするかもしれない。しかし、いずれにしてもはっきりしているのは、いつからか、僕達が僕達自身を「概念」としてどこかのスクリーンに映し出すという事が慣習化しており、僕達はいつの間にかそれから抜け出られなくなってしまった。そこで、僕達は未来のある一点に、成功するとか、うまくいくとか、夢が叶うとか叶わないとか言うようになった。そしてこのような考え方の先にあるものは、今という不幸であり、また未来という幸福(概念である故に絶対に手に入らない)の二つの相である。そしてこの未来のあるべき幸福が手に入らない事に憤って、様々な紛争が現代日本でも起っている。しかし、怒ろうと、自分は幸福だと、自分を騙そうと根底は変わっておらず、それらの人は今ある自分から逃れて別の自分になろうとしている事は間違いない。しかし、そんなものはない。僕がどれほど成功しようと、失敗しようと、そこにあるのはあるがままの僕である。例えば僕がノーベル賞を取ったとして、それが今の僕とは全く違う僕に転生する事はありうるだろうか? それがありうる、と僕達が誤解をする事に、現状のよくわからない様々な価値観は成り立っている。しかし、それはありえない。そしてそれがありうると考えるのは、我々が誤解を共同幻想としているからに他ならない。そして、その誤解=概念を、僕達が脳の中で巧妙に、本物の自分と差し替えるからにほかならない。しかし、そんなものはない。僕にとっては今ある僕が全てであり、たとえ僕がノーベル賞を取ろうとどうなろうと、そこにはいるのは「その時の僕」、あるいは「今の僕」である。したがって、(もちろん、評価される事には大きな意味があるが)僕にできる事は今の僕を変化したり、今の僕そのものに対して努力する事である。そしてそれはどう聞こえようと、自分が、別の自分になるために努力するという行為とは全然違う事なのだ。人間とは概念ではない。人間とは常に、己自身である何かなのだ。

 ちなみに仏教哲学では、この自分そのものも空だという事になっているが、これはもっと深遠な哲学にあたる。僕はそこまでは考えてない。それはまたその内、考えていこうと思っている。

スポンサーサイト



 未来の為の今、という発想への疑念



 「努力の方向性、時間の価値」という文章でもそういう事に触れたが、僕は単純な因果論に対してずっと疑問を抱いてきた。そしてその疑問はどうやらそれなりに正当性があるという結論に達しつつある。
 
 僕が今の結論に達しつつあるのは、仏教関連の哲学を探っているというのが大きいが、これを言い出すと面倒な事になってしまう。なので、わかりやすく、問題を「新人賞を取るための」「小説執筆」と考えてみよう。

 こうして時間を二つに割ると考えやすい。つまりA(執筆)→B(受賞)という流れだ。しかし、こういう発想法が僕には前から不満だった。その不満点というのは前にも書いたように、BのためのAという発想であるなら、Aは他にいくらでも代替可能だという事である。つまり、BのためならC(審査員を刃物で脅して賞を取る)も、別に問題ないとされる。

 もちろん、これは極論にほかならない。しかし、今僕たちがはまりこんでいる因果論は全てこうした形式である。つまり、現在は未来の為にある。未来のある一点の為に現在はある。だとしたら、今の、この現在の価値というのはなんだろうか。どうして今は今の価値を主張してはならないのか。

 最近、苫米地英人という胡散臭い人の本を読んでいたら、「時間は未来から過去へ流れる」と書いてあった。僕は苫米地さんのところまで主張する気はない。しかし、現在を無意味にする未来、という発想に対しては異を唱えたい。もし、何かあるものが、全て自分の幸福の為だとするなら、それを実感する「時間」は我々のどこにあるのだろうか? では、もし私が新人賞を取ったとしたら、私は、私の「努力」が叶ったというのだろうか? 僕はそうは思わない。それは受験生の発想であり、僕の発想ではない。僕は現在そのものに価値があると主張し、現在そのものが、過去と未来の目的であると共に結果であると主張する。現在とは過去と未来を含んだ何かである。そして、もし私が書いたものを誰かが、認識し、評価してくれるとしたら、その人物は私の現在から過去へと逆さに歩いているのだ。すると、ここで苫米地さんの言う「未来→過去」へという流れが出てくる。したがって、僕がもし五十年後にノーベル賞を取るとしても(冗談だが)、それはノーベル賞審査員達が、私の現在から過去へとさかのぼり、そしてそこに価値ある私を発見したからなのだ。私の現在は、私以外の誰も知らない。だから、私は「現在」を走ればいいのである。そして私が走った跡が「過去」としてどこかの空間に残り、それを追体験することが、他人が私を批判したり、褒めたりする事へとなっていく。つまり、私にとって、「賞を取る」「取れない」という未来があったとしても、それは誰かが私の過去を探り当てての話であり、私はそれをいかんともしようがない。だから、私は頑強に今この現在にしがみつく。そして私は「今」を疾走する。今、人々が未来を目指して、今を置き去りにするという行為は一体何を意味するのか? それはおそらく、過去の模倣という結果を生むだろう。なぜなら、「審査員」は基本的に他人の過去しか見る事ができないからである。だから、私達は未来にしがみつくほどに、誰かの過去を模倣するという事になる。

 なので、私は今を疾走する。そして、この私の「今」は他人にとっての未来となるだろう。なぜなら、その時、その人は私の過去に、私の価値(あるいは無価値)を探り当てるだろうからだ。

 卑俗化するメディア世界


 手回しオルガン弾き氏が「タレント化するテレビ世界」という優れた論考を書いている。僕もこの点について気になっていたのだが、自分なりに考えてみて、簡単な答えが出たように思う。

 オルガン氏がこの論考で言っている事はおおむね、次のような事だ。つまり、「テレビタレントはみんな中間化する」 中間化、というのはつまり、学者とかアスリート、あるいはアイドルなどでも、それらの人は専門性を失い、漠然とした「タレント」という層に移行するという事だ。つまりそれは、「歌の専門家である歌手」「文学専門の作家」「脳生理学者」などの専門家も、テレビに出ている内に次第にその専門性を失って、「タレント」という一般化された人々の中にひきいれられるという事だ。そしてその過程で、ジャニーズがコントをやり、また吉本芸人がドラマに出て、というような変動が起こった。つまり、彼らは皆マルチな活躍をしているというよりは、専門性を失い、「中間化」しているという事だ。おおむね、オルガン氏の論考ではそういう事が述べられていたと思う。

 これは誰しもが思い当たる事なので、わかりやすいと思う。僕がこれに更に付け加えるなら、ニコニコ生放送なども全く同じ事であり、今の声優もまさしくこの中間化現象の最たるものとしてあげられる。彼らは声優だが、声優としての専門性を失い、漠然とした「タレント」の層に移ろうとしている。だから、これはテレビにかぎらず、メディアに出る人間の宿命であると思う。

 では、これがどのような理由で起こるか。僕が思いついた理由は単純なものだ。それは「引き下げ」あるいは「卑俗化」と呼ばれる現象が起っているという事である。つまり、僕達一般の視聴者は、テレビに出ている高名な学者とか芥川賞作家とか、どこかのアイドルとかが、僕達と同じような雰囲気とか、生活感を出してくれると、とたんに安堵する事ができる。つまり、「ああ、ああいう有名な人も自分達と同じなんだ」という安堵感である。また、それは同時に、僕達一般の人が「有名な〇〇もこれを使っている」みたいな言い方で自慢する、その自慢を呼び起こす事もできる。つまり、ここでは高いもの(有名なもの)が、下にひきずりおろされる現象が起っているわけだ。そしてそれによって、僕達は安堵できる。とはいえ、それが本当にひきずりおろされると、そのタレントにはもう価値がなくなる。僕達があくまで夢を見ていられるのは、「高いものが低くなる」というその現象の限りにおいてである。それが本当に低くなったら、もう意味がない。だから、僕達の卑俗な意識はそういうタレントを必要とする。だから、逆に考えると、スマップのようなタレントが二十年近く一線で残っているというのは驚嘆すべき現象である。では、彼らが何故あの一線に残っていられるのか。その答えはもう簡単である。つまり、彼らは「一流タレント」という称号と、「どこか街で見かける、ちょっとかっこいい感じのお兄ちゃん」という像、その二つの相異なったものを同時に、そして強固に持ち続けているからだ。そして多くのタレントや芸人が、売れた途端にぼろぼろと崩れていくのは、この二つの異なったものを同時に自分の中に持ち続けらないからだ。つまり、駄目なタレントは簡単に言うと、売れると「調子に乗ってしまう」のである。だから、あまり考えのない女の子達の集団であるAKBは次々にボロを出し、問題を出してしまう。そこで必要なのが、彼女達を統制するプロデューサーという事になるだろう。AKBに求められているのは「普通のちょっとかわいい女の子」という像と、また同時に「国民的スター」というその二つの像を同時に持つ事である。そしてそれを達成、維持する為に、彼らは日夜努力しているとも言える。

 したがって、先にあげたオルガン氏の中間化の問題に対する僕なりの回答は「卑俗化」「引き下げ」の現象という事になる。今や、神となった一般大衆は、自分達が幻影を追い求められるそのスレスレの線でのタレントを必要としている。そしてその幻影に合わせて踊る事のできるタレントが高く持ち上げられる事になる。そして今、起っているテレビ的、あるいはネット的現象はそういうものであるように思われる。また、最近のネットに出てきている声優だのなんだのが、すぐに「ホモ」とか「レズ」とか、そういう風を醸し出したり、またそう演技したりするのは、彼らに彼女や彼氏がいなければ安堵できる、という僕達の心性を表しているのだろう。画面の中の存在は常に、僕達の欲望の最大公約数を巡って運動している。僕にはそのように思われる。

 では、この運動がどこに行くかと言えば、よくわからない。ただ、大衆の欲望は無限であるし、それは日々、変転している。そしてそれは極めて攻撃的なものになるかもしれず、予断を許さない。そして僕達ができる事は、自分の欲望を客観視する事だけである。そうすれば、我々は大衆の欲望に踊らされる事なく、自分自身の人生のコースを見定める事ができるだろう。………多分。

「横浜駅西口で」という小説

http://p.booklog.jp/book/93529/read


以前書いていた小説をアップしました。五十枚くらいあるので、ダウンロードした方が読みやすいかと思います。ちょっとした出会いの話です。

直感について  (苫米地英人の動画を見て)



 苫米地英人という人がおり、この人の話は非常に面白く参考になる。なるほどなあと思う。ただ、胡散臭いという世評も一理あるので、この人物に心酔する事なく、この人物の言っている事だけ聞いていれば、なかなか勉強になると思う。別にセミナーなどに行く必要はないし、そんな事はどうでもいい。この人物の言っている事を横目で見ながら、こっそり勉強すればそれで十分だ。心酔する必要はないし、そもそも過去の賢者はみんな、自分に心酔するなかれ、という警句を残してきたのではないかと思う。

 この人物が「直感について」語っている短い動画がある。  https://www.youtube.com/watch?v=kZLG82sunvw  僕の経験上、言っている事は紛れもなく正しいし、それを数学的に定義している事も極めて面白い。僕なりに直感、インスピレーションについて語るとすれば次のような事になる。

 まず、直感というのは俯瞰である。それは部分ではない。では部分とは何か、それは論理である。したがって、論理は直感よりも下位のものである。それが苫米地氏の言う所の抽象度をあげる、という事である。抽象度を上げれば、部分的な知識から全体像を導き出す事ができる。

 もっとシンプルに考えてみよう。ここにパズルがあるとする。パズルピースから私達は、全体の絵柄を思い浮かべる事ができる。そしてこの時、私達はパズルを一つずつ当てはめているその途中で「これはドラゴンだ」とか「これは猫の絵柄だ」とか、わかったりする。その時、全部のピースを当てはめる必要はない。言ってみれば、この絵柄に「気付く」事が直感であり、インスピレーションである。そして全体像がわかれば、部分を当てはめていくのは容易になる。

 したがってインスピレーションには何ら神的なものはない。それは論理以上に論理的であるが故に、非論理そのものである。こう言うとわかりにくくなるが、そうとしか言えなくなる。例えば、技術、というものについて考えよう。技術とはなんだろう。僕達は誰々のピアノはうまいとか、ドラムはうまい、とか言う。しかし、うまいというのはそもそも、何を指して言っているのか。それは結局の所、ばらばらに散らばった一つずつのピースの事ではないのか。我々は全体を知った時、それを組み上げるものを、本当の意味での「技術」と呼ぶ事ができる。しかし、現代の僕達が技術と言っているのは、大抵、それが自己目的化している。技術というのは全体があってはじめて成り立つものであるのに、僕達は「うまい」と言えば、それでもう全てを言ったつもりになる。では、それは「何に対して」うまいのか?

 例えば、いわゆる「ヘタウマ」の絵師がいるとしよう。では、僕は尋ねるとする。ヘタウマの絵師はうまいのか? それとも下手なのか? そう言われると悩むかもしれない。しかし事実は簡単だ。「ヘタウマ」の絵師は、「うまい」のだ。何故か。それは、彼が自分の表現手段として絵を使っているからでである。彼が自分の表現手段としていわゆる「下手な」絵を使ってるとすると、彼はそれを使うその用法において「うまい」のだ。逆に、いわゆるうまいと言われる人が、全体像を知らなかったり、自分の表現意欲、表現意思を知らない場合、その人がいかに細部を細かく描いていても、その人は「へた」である。なぜなら、その人は自分の技術を「うまく」使う方法を知らないからだ。

 インスピレーションというものにもう一度戻ると、それは論理より整合性の高い論理であるから、それが間違っている、という事は基本的はない。もしあるとすれば、それはその人物が直感でないものを直感と取り違えた時に起こる。我々が、パズルを作っていて、自分の推測で絵柄を組み上げると、我々はよく間違う。しかし、我々が部分に集中している限りにおいて自らの頭に起こってくる「全体」に関しては、間違いようがない。だから、直感というものはそういうものだと思う。
 
 だから、作曲家に霊感が降りてきたり、作家に作品全体のイメージが「おりて」きたりしたとしてら、それは神秘的な事ではなく、ごく当たり前の事だ。僕達がおそらく、過去の天才らのように直感に到達できないのは、そんなものが存在すると気付かないからかもしれない。あるいは、僕達が直感に達する前に努力を途中でやめるからかもしれない。しかしどちらにしても、直感というのは神的な、神秘的なものではなく、論理の帰結であるに過ぎない。そして論理の帰結は、論理ならざる全体の俯瞰である、という事になる。しかしこう言う事を書くと「お前の言っている事はよくわからない」みたいな批判が出たりするが、それはまあわからないだろうと思う。わかっていたら、この文章はその人の経験を再認するだけのものとなるし、わかっていなければそれは経験されていないので、いわば「非論理」の段階にとどまる。

 なので、残り半面は自分で「直感」してもらうしかないと言う事になると思う。もとより僕の言っている事が正しいか否かなどというのはどうでもいい事である。問題は、自分が何かを積み重ねる先に「直感」する事である。しかし、はっきり言える事はどんな「生まれつき」の天才も何かを積み重ねる事なしに、「直感」する事はありえないという事だ。それはパズルピースをひとつも知らずに、その全体像を知るのに等しいほどの不可能性だ。そんな事はモーツァルトであろうと、無理であるに違いない。
 

「今」




もし私が今を生きていなかったら

私は決して過去を生きる事も未来を生きる事も

できないだろう

私に与えられたのは今この時のみ

なのに、人は未来と過去を漁り

そこに「今」でないものを見つけようとする

おそらく、「今」というのは永遠の別名なのだ

「今」は過去に未来にも、その時々に「今」として広がり、そして

そこを一つの運動できる空間に変えてくれる

それに引き換え、未来や過去は

どんなに華やかで美しくてもそれは決して

私達の前に現前する事はできない

だから、人は「今」を行きなくてはならない

なぜなら、誰しもが「今」を過去と未来とに分解して、そうして

安堵しようとしているから

そして「今」の底を突き抜ければ

私達は同時に、未来と過去に到達する事ができるのだ

 自分を変えるーーー変わらない、について




 ショーペンハウエルの「幸福論」はテレビで紹介されたせいで、そこそこ売れたらしい。また、今ネットで偶然見かけたが。エコノミスト(?)の池田信夫が「幸福論」について少し書いていた。

 僕は確信するのだが、これから何百年経っても、一般の人間がショーペンハウエルをありのままに理解する事はありえないと思う。また、池田信夫のような秀才が綺麗に整理したと思って整理しきれる、ショーペンハウエルはそのような存在ではない。こう言うと、僕の言っている事は多分、傲慢に聞こえると思う。しかし、おそらく、根底的に僕達が勘違いしているのは、真理というのは前方にあるという発想である。事実はそうではなく、真理というのは我々の「背後」にある。現代社会の我々が皆でやっている事は、自分の目の上に載せているメガネを見つけるために、必死に世界中をくまなく探して回るという行為である。僕にはそのように見える。そして人はこの世界の「どこか」に、このメガネ(=真理)があると考える。しかし、それはないだろう。なにせ、それは目の上にあるのだから。これが答えである。ーーーしかし、こんな答えでは不満だろう。もし、そう思うなら、我々は世界へ飛び立つべきだ。そして、それを必死に捜索し、その結果、メガネが「どこにも」ない事に気づくだろう。そしてそれに気づけば、それがどこにあるかという事の「ヒント」になる。しかしながら、大抵の人はメガネを探して、世界を中途半端に捜索して、そして色々な愚痴を言いながら元に戻ってくる。そしてあいも変わらず、自分の目の上のメガネを探し続ける。
 
 僕が一般の人間がショーペンハウエルを理解できない、という言い方で言ったのはだいたいそういう意味である。また、もし、それが理解できたなら、その人はもう一般の人間ではない。そして当然、この人が無名か有名かとか、大学の哲学科で勉強したか否かという問題は基本的にどうでもいい事である。当たり前の話だが、真理というのはあまねくあるから真理であるのであって、東大の哲学科(東大に哲学科があるのか知らないが)の中にだけ内臓されているものではない。

 しかしこういう抽象的な言い回しではなく、もう少し具体的に言った方がいいのかもしれない。

 僕達には使い古された「幸福」という概念がある。人は幸福になろうとする。アマゾンの本のランキングには常時、自己啓発本が入っている。自己啓発本というのを、幸福にたどり着くための、人々にとっての手段として考えるとすると、この自己啓発本というのはなんだろうか? 

 自己啓発本というのは文字通り、自己を啓発するものだろう。例えば、世の中の言い回しでは「自分を変える」「新たなスタートを切る」「未来に挑む」などという言葉が使われる。そしてそれがオカルトであると思われる事はない。どうやらこの社会ではポジティブはネガティブよりも価値があるらしいが、それはあくまでも社会にとってのポジティブであり、自分にとってのポジティブではない。しかし、この社会にとってのポジティブを自分にとってのポジティブにすり替える所に、社会の欺瞞は存在する。

 ブラック企業から全体主義国家まで、大抵同じ事をするのだが、彼らは個的な存在を消し、それを全体に溶かせようとする。それを彼らは、圧政によって達成しようとするので、それはある意味わかりやすい。しかし、平和期においてはどうだろう? 「もっとポジティブに」とか、「もっとコミュニケーションを取らないと駄目」とか、「人と関わらないと」と言う人はよくいる。しかし、彼らがそう言っているのは、そうなった方が、彼らの立場にとって有利になると思っているからそう言っているのである。しかし、大切な問題はそこにあるのではない。もっと大切なのは、この人物が自分と、自分の立場とを同一視している事にある。ここに根底的な間違いがある。そもそも、半端なナショナリズムとか、フェミニズムに奇妙な倒錯を感じるのにも、ここに問題があるように思える。彼らは自己=自己の立場としてしまっている。もちろん、誰しもが自己の立場というものを持っているので、それをその「立場分」主張するのは当たり前の事である。そういう意味では、フェミニズムにもナショナリズムにも、きちんとした価値がある。しかし、彼らのうちの言動で、行き過ぎていると僕達の常識に思えるのは、彼らが自分=自分の立場としてしまっているからである。そこに面倒な問題がある。同じ立場だと考える者はこれらのイデオロギーに賛意を表するだろうが、しかし、人はイデオロギーだけでできた存在ではない。

 もう少し切り口を変えてみよう。

 自己啓発的な言い方では、「自分を変える」とか、あるいは単に「幸福になる」とか言ったりする。では、それはどういう事だろうか? 簡単に言うと、自分は変わらない。なぜなら自分というのは常に変わっているからである。変わっている自分から、またそれが新たに変わるとはどういう事だろう? 人の背中に翼でも生えれば、それが変わった事になるのだろうか? もし、人が成功し、財産を築き上げれば、それは「変わった」事になるのだろうか?
 
 しかし、たとえそうなったとしても、それは変わらないのである。なぜなら、自分はすでに変わっているからーーー。しかしもう少し細かく見てみよう。この時、「成功者」となって変わった、と私達に考えられるのは一体何故だろうか? 僕や、今の僕といくらかコンタクトを取った人は、「作家志望者」という立場の人が多い。では、この作家志望者は「作家」となって成功さえすれば、変わるのだろうか? …いや、そもそも変わるという事そのものがいったいなんだろうか?

 簡単に言うと、私達にこの「成功」とか「変わった」という幻想を見させる為にこそ、この社会装置の最たるものである、メディアというものが機能している、と言う事ができる。我々はメディアを通して誰かを見て、そこに「変わった後」の人間を見る。しかし、それは「変わって」などいない。なぜなら、それは「変わった」事を演じる事を強制されている人間だからである。もう少し別の言い方をすると、私達は他者から見た自分の像を、自分自身と取り違えているのである。私が成功したという事実は、単に私の生活が今までより便利になったという結果しかもたらさないであろう。(それでも大したものだが) しかし、この成功というものに過大な精神性を付与するのは誰だろうか? ここで、私達は、「他人から見た私」を「本物の私」と取り違えるという思考行為を行う。そしてそうする事によって私は「変わった」と錯覚する。そしてこれはメディアでうごめいている原理と全く同一の原理である。つまり、この時、私はカメラを通して成功者たる私を見ているのであり、そしてそれによって私は「私」から疎外され、隔離されてしまう。つまり、その時、私は私自身である事をやめ、「他者から見た私」としての私を生きる事になってしまう。しかし、この事を世間では単に「調子に乗った」というような言い方をする。調子に乗るのは何故かと言うと、自分を他人の目を通して見たものと取り違えてしまうからである。

 しかし、本物の私が果たして存在するのか?という問いもあるだろう。もちろん、人には本物の私だけではなく、「他者から見られた私」とか、あるいは「社会機能としての私」とか、あるいは単に「生物的機能としての私」など色々な私がいる。しかし、それら他の私の要素と同じように、本来の、自己で自己を見る私というのも確かに存在するのである。そしてそれがなければ、個人に運命は訪れない。「運命」というのはその定義からすれば、個人の生の輪郭をなぞるものである。しかし、自己が自己を錯定できない場合、その人間に「運命」は存在しない。なぜならその人間はまったき世界に溶けているからである。

 自己啓発本を追いかけ、自分を変えようとか、幸福になろうとか、あるいは宝くじを当たれば全てが変わるとか、そういう風に考えている人達が「変わる」事はこの先、この世界が何億年続こうが、決して来ないだろう。また、彼らの内のある者は「自分は成功者」、「自分は変わった後の人間だ」と主張したりするだろう。しかし、彼らはどちらの場合でも、同じ間違いを犯しているように僕には思える。つまり、彼らは最初から自分を自分でない存在にしようと必死にもがいている。そして、映像の中で、あるいは他人の視線があたったその瞬間だけ、彼らはそれが成功者たる自分であると主張する。しかしそれは残念ながら、自分ではないのである。彼らは自分から離れようとする。新たな自分になろうとする。しかし、彼らは、自分というものが常に根底的に変化している存在であると気付く事ができない、という理由によって彼らはいつまでも変化できないのだ。彼らはあるがままの状態を見ない事からスタートを切っている為に、あるがままでない世界や、あるがままでない自分がどこかにあると考える。そしてそれは映像の中にあると仮定する。そしてそれに突進する。しかし、それもまたあるがままの自分の一部である。我々は変化から逃れているからこそ、変化できないのだ。いや、我々にできる事はただ一つである。それは自分が刻々と変化している事を実感する事である。我々はすでに変わっているのであり、だから変化する必要はない。もちろん、努力し、なにものかになろうとする事は重要だが、それはその変化を促したり、促進したりするためであって、その時も、変化の原因と結果はその時々に与えられている。そしてその時間の中で我々が時に、爆発的に成長するある点がある事も確かだが、しかしそれもやはりあるがままの自分なのだ。だから、我々にとって必要な事は自分を変化させようとする事なのだが、しかし、「変化した後の自分」になろうとする必要はない。変化はすでに我々の手にある。我々は常に変化しており、そして我々は常に、変化する前の自分であると共に変化した後の自分であるのだ。

 しかし、僕の言っている事は多分難しいのではないかと思う。僕の言っている事を理解するのは、それなりに難しいのではないかと思う。(僕はこの知見をヤフー知恵袋の哲学カテゴリのある人物から得た) 今、僕はこのような事を考えているが、しかし、これは宗教的な雰囲気なども含むんじゃないかという気がする。しかしおそらく古人の言ったように、哲学は宗教に到達するというのはある程度真理であるように思う。しかし、その場合は一般に流布されている宗教とは全く違うものである。そしてそれは単に、世の中をありのままに見る、という平凡な視点の固定へと昇華される事となる。そして、いわば、この世界を解脱した存在は、解脱の結果により、どの平凡人よりも極めて平凡な存在となる。解脱者が手からオーラを出したり、人の背後に守護霊が見えたりする必要は微塵もない。一般人を脅かすためだけにそれは有効なのであり、真の解脱者は多分、誰よりも平凡に普通に、そして心穏やかに自分の生を送るだろう。
 
 今自分はそういう事について考えている。またこの思索は色々応用させようと思っている。

ヤフー知恵袋哲学カテゴリのcolorinc01氏の「悟り」(真理)について

 



 ヤフー知恵袋の哲学カテゴリにcolorinc01というIDの人がいる。(ググれば出てくると思う) この人物はどうやら「悟った」らしい。…僕はこの人物が記した知恵袋の回答をずっと見ていたのだが、僕個人としてーーー妙な言い方になってしまうが、やっぱりこの人物は本当に「悟った」人なのだな、と思う。以下の文章では、僕はこの人物の「悟り」の意味について解説したいと思う。元々、僕は「悟りを開いた」なんていう話は根本的に嫌いである。しかし、この人物はおそらく、現代科学や厳密な哲学的な足取りを少しも損なう事なく、それを全体としての思想に昇華している。そしてこう言うと全ては大層なものに聞こえるだろうが、実際、大切なのは「ありのままにものを見る」というような事である。では、この「ありのまま」とは何か? という事が次の分析対象として現れてくる。

 「ありのままにものを見る」ーーでは、この「ありのまま」とは一体、どういう事だろうか?
 このcolorinc01という人物(以下Co氏)が言っている事は概ね、次のような事である。人間は、様々なものを概念によって区分けしている。人が自分を自分と了解するのは、我々がまだ記憶をろくに持たない頃に、自分を「自分」とか「私」とか呼び始めたからである。元々、この「自分」あるいは自我というものには、確かに、快、不快、のような一連の感情の流れがある。「痛い」とか腹が減った、とか、そういう一連の感情、あるいは感覚の流れである。しかし、それを意味付け、それを「自分」と称したのは後天的な事であり、元々、それらの感覚、感情の総体が自分であるとは決まっていない。では、それが誰なのかと言うと、それは誰でもない。それは自分でもあり、他人でもある。私達が今、自分とか自我とかいうのは、私達が「一時的」に抱いているある一連の、感覚、感情、意識、思考の流れにすぎない。元々、世界はあるがままにあり、宇宙はあるがままに流れているのである。しかし、本当はこの「あるがまま」、「流れている」、「宇宙」「世界」という言葉達も、全く「あるがままの」真実には到達していない。何故か。例えば、今は私は、自我というのは一時的に抱いたある感情、感覚、思考だと言ったが、しかし、「一時的」と、私は何故勝手に、時を区分するのだろうか? どうして私はそれが「一時」だと言明するのだろうか? …つまり、時間には、区切りはない。区切りがない所に区切りをつけるのが人間の概念というものの道具の効用であり、それによって私達は様々なものを理解できる。だが、自然とはありのままにあるという事を、私達が概念として見るのをやめさえすれば、はっきりとしてくるだろう。とすると、私が私の死と呼んでいるのも、それは自然の中の変化の一粒にすぎない。しかしこう言うと、あなたはこう言うだろう。「たとえ、私の死が自然の一部だとしても、私が、この『私』が死ぬのは変わらない! あなたの意見は無責任だ!」と。あなたの言い分はある意味で正しい。しかし、CO氏が言っている事はそれとは正に逆なのである。私と自然とを区切って、それを実在として考えているのは私達の頭なのである。そして、そう言っている頭が破壊されるという事が、自然の一部だという事が、私の「頭」が認識すれば、死は、世界の一部(本当は一部ですらないが)の出来事となる。つまり、私とか自我か呼んでいるものの方が、世界に比べると後天的なものなのだ。

 多分、これは極めてわかりにくい真理だろうと思う。僕もわかりやすく書いているつもりだが。重要な点は、我々が概念と実在とを同一視している、という点にあり、この同一視をほどけば、物事は至極単純である。CO氏の言っている事はおおむねそういう事だと思う。しかしわかりにくいと思うので、別の例を出してみよう。

 私達は様々なものを概念で区切って生きている。そしてそれによって、様々な事が可能になっている。
 
 例えば、二人の人物を想像してみよう。一人は絵の非常にうまい人物。そしてもう一人は非常に絵の下手な人物。この、絵のうまい人と下手な人が同時に、同じ「猫」を描くとする。するとうまい人はうまいし、へたな人はへたなままだ。では、どうしてへたな人はへたなのだろうか?
 
 へたな人は才能がないとか、技術がないというのは世の中の言い訳であり、私達の言い訳ではない。もっと、厳密に考えてみよう。うまい人も、へたな人も、同じ猫を見ている。そしてへたな人が猫を知らないという事もない。このへたな人が、何か器質的障害があって、先天的に猫を知らないという事もない。絵の下手な人もうまい人もどちらも、普通に猫を知っている。しかし、根底的に両者が違うのは、うまい人は「具体的な」猫を見ているのに対し、へたな人は「概念としての」猫を見ているという事だ。試しに二人の頭の中を覗いてみよう。すると、次の事が見えてくる。うまい人の頭の中では、猫は具体的な線や色や形として認識されている。もっと言うなら、このうまい人の持っている猫は常に具体的であって、概念的ではない。この猫は常に、おそらくはどの種類の猫で、どんな表情の猫か、前足はどのように折れ曲がってるのか、などが常に問題となっている。しかし、下手な人のイメージする猫はどうだろう。こちらは漠然としていて、ぼんやりとしている。ここでは猫は「意味」として考えられているので、具体的な線、色、形は問題になっていない。だから、その意味から線や色や形を引き出そうとするから、そこで実際に描かれるのは、猫とも猫ともつかないものなってしまう。

 もう少し厳密な例を考えてみよう。例えば、目の前に、「どう見ても猫にしか見えない犬」がいるとしよう。この生物は見た目は、猫にしか見えないが実際は犬である。では、これを描くという場合、僕達はどうすればいいか。

 しかし、別にどうもしないのである。ここで、僕達は概念として考えるからつまづくのである。君の目の前には一匹の生物がいる。それが犬であろうが、猫であろうが、そんな事をどうして君は気にするのだ? 君はありのままに目の前の生物を描けばいい。それが猫か犬かというのは概念の問題であり、絵を描くという行為においては全く何の問題でもない。しかし、我々は犬と猫を違う概念として考えるから、目の前の生物も犬と猫で違うものになると考えている。しかし、現実的に私達に与えられているのは、目の前の生物の色や形などである。私達はそれを「直接的に」見ればいいのであって、それを概念として見てはならないのである。概念として見るから私達には全ての事が途端にややこしいものになってしまうのだ。だから、概念を捨てれば、ありのままに世界が見えてくる。世界には色、形、線などであふれているが、それを概念として凍らせてしまうから、私達はそれが見えなくなってしまうのだ。だから本物の画家は、世界をありのままに見る。しかし、この時、この画家が優れた才能の持ち主だとか、努力したその結果(努力はしたろうが)と考えるのはどこかおかしい。元々、世界をぼやかして見ているのは私達の方なのである。そしてこの画家は一時的とは言え、その覆いを取り外したのである。答えというのは、ただそれだけの事である。

 これは芸術上の一例であり、これを全体に適用すると、概ねC0氏の言っている真理に到達すると思う。つまり、世界はありのままにあるのであり、それを妨げているのは私達の頭脳、概念化の作用である。私達は認識によって色々なものを区分けし、自分と他人とは違うとか、自分のためとか他人のためとか言うが、そういう風に分けているのは私達であり、それをやめれば世界はそれ単体のものとして現れる。もちろん、私達が現実に生きている限り、自分と他人を区別しなければやっていけない。それは大切な事である。しかし、それはもう一つ大きな観点からすれば、絶対的な事でもなんでもない。それは相対的であり、個別的な事である。そしてこの個別性を消去すれば、世界は一つであり、世界は流れていく何かである。それに始まりがあるとか終りがあるとか考えるのも、人間の思考作用である。しかし終わろうが始まろうが、そんな風な区切りとは関係なく世界はそれそのものとして存在してきたし、存在し続けるであろう。そしてそれで事は終わりである。

 この思考=真理=悟りの良いポイントは、我々の死に対する恐怖というのが、間違いだと示す事ができるという事にある。私達が死の恐怖を持つのは、私達が自我を絶対と考えるからである。しかし自我というのは後天的なものである。後から、私達が認識によって分割したものである。死は、私達の分割を取り除く行為である。したがって、死は絶対的な終末でも、絶対的な破滅でもない。これは死後にあの世があるとかないとかいうよくわからない話とは全く違う事である。また、勘違いされるかもしれないが、「私が死んでも世界は続く、だから希望はある」というような考えとも違うのだ。重要な事は、私達が死を、自分でないものと自分そのものとを分割する線として考えている事だ。しかし、その分割線自体、私達が勝手に引いたものである。だから、簡単に言って、死の「前」も「後」もない。それは世界の変化の一様体にすぎない。「私が死んでも~」という発想は未だに、私という観点から世界を見ている。しかし、本当はそうではなく、世界から「私」を見なければならない。そして世界から私を見れば、私の死は一つの変化に過ぎないという事が感得されるのである。

 大体、以上がCO氏の語った真理=悟りの内容であろうと思う。気づきさえすれば、簡単な事なのだが、しかし、理解するのはとことん難しい事と思う。また、僕の言っている事は誤読だという事はおおいにありうるので、実際にググってみてもらえればいいと思う。

 そしてこういう真理の重要な点ーーおそらくもっとも重要な点は、別にこれに気づいたからと言って、何も変わらない、という事である。だとすると、世の中の人間は必ずやこう言うだろう。「真理を悟って何かが変わらなければ、そんなの意味ないじゃないか?」 再三言っているように、その答えは逆である。私達が変わらなくてもいい、変わる必要などなく、全ては常に変転し続けており、私もその一部であるという事に気付くという事が悟りの内容であるから、変わらなければいけないと考えるのがそもそもの間違いなのだ。悟りを開けば、皆から喝采を浴びてもらえるというその発想そのものをねじ曲げ、逆転させ、それを精神によって屈服させるのが「悟り」である。だから、CO氏の言うように、一度「悟って」しまえば、我々は変わらなくていいと言う事がわかる。また、何一つ変えずに、今まで通りに自分自身に対して注力し、努力すればいい、という事もそのままである。そしてそれが一切である。そしてそれ以上、言う事はない。

 しかし、今言った事も、世の中の人がそれを俗化して理解するだろう事も僕は把握している。しかし、その俗化も、この世界の様態の一部であるーーと気付く、という事も悟りの内容の一つだろう。とりあえず、僕のCO氏の言っている事に対する注釈はそんなものである。それではこの文はここで終わる事とする。

照明係の独白




 性現象はかつては「秘め事」だった。それが今や、様々な光に照らされて、外部的なものになった。僕はそういう気がしている。

 フーコーに「同性愛と生存の美学」という本があったと思う。フーコーは哲学者なので、同性愛に一種の哲学的観念を与えている。フーコーの発想は僕には基本的に空間的なものだと思う。つまり、孤立した個が手をつないで横に並んでいくようなイメージで、そこに縦の、歴史的時間というものは欠如している。そしてそれが同性愛というものと密接に関係している。同性愛では、基本的に子供は作れないからだ。

 フーコーは元々、マルクス主義的、あるいはヘーゲル的な、進歩史観に反対していた人で、つまり、歴史的時間というものに何らかの法則があるという事を拒否していた。フーコーの「言葉と物」はそういう作品で、言ってみれば、この作品でフーコーは世界を空間的に輪切りにしてみせている。そしてこの、歴史的な地層aと別の地層bに何らかの因果関係がある、という事を彼は拒否している。そういう風に考える事を拒否している。何故そうかと言うと、それはやはり、同時代のサルトルなどに抵抗し、反抗したかったという事があるのだろうと思う。でも単に、それがフーコーの選択した運命だったという方が正しいのかもしれない。

 フーコーの立派な哲学にケチをつけるつもりはない。しかし、世界はいつの間にかフーコー的になったと考えられなくもない。あらゆる事が空間化され、平板化され、引き伸ばされ、そこに一切の秘密はなくなった。かつては、性描写など、文学作品はぼやかして書いていたが、今はまるでそれこそが文学作品であるかのように書かれてある場合が多い。残虐描写も同じ事で、それが極めて前面に出ている。そしてそれこそが芸術行為であると倒錯的に考える者もいて、先日、逮捕者も出たようである。こういうアーティストを検閲するか否かという問題は根本的に芸術という領域にとっては全くどうでもいい問題だと思う。昔、ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」が検閲された、というような話があるが、ロレンスであれば、その性描写が芸術か否かと、官憲(古い言葉だが)と戦う事にはそれなりの意味がある。それで結果、負けようと勝とうと、そこにはそれなりの意味がある。なぜなら、ロレンスは芸術家として優れているからだ。しかし、最近話題になっている「アーティスト」に関しては全くどうでもいいし、興味が無い、というのが本音だ。そんな事は芸術そのものとは関わりあいのない事だ。

 性現象が現代にあって全く外化したというのは、一体どういう事だろう?と僕は不思議に思う。彼氏、彼女、あるいは結婚したとしても、それは吉本隆明の言うような純粋な「対幻想」にならない。それにはいつもどこかで、他人の、社会の影が兆している。誰と付き合い、誰と話し合っても、私達はその行為を、別の誰かーーー第三者に見せつけようとしているのではないか? 自分が結婚し、子供がいて幸福だというのは当然の事としてあっていいのに、それをいちいちツイッターやフェイスブックで誰彼に撒き散らさなければ、自分は幸福だと信じられないのは何故だろう? 人は何故、他人や自分自身だけで満足できずに、その行為を、誰か第三者に見せつけようとするのだろう? 僕達がもし幸福だとしたら、ある行為や物事、他人だけで十分安息できるはずで、その事を別の誰かに喚き散らす必要はないはずである。にも関わらず、僕達は何故こうも、誰か第三者、誰か自分達と違う人物にこんなにも何かをアピールするのだろう? 何故何かあれば、すぐにツイッターで世界に向かって報告してしまうのだろう?

 何故だろうか?
 
 その答えはーーおそらく、社会幻想そのものが個体の一部として取り込まれたという事だろう。社会が創りだした、一種の幻想体が、いつの間にか僕達の肉体を構成するようになってしまった。だから、僕達は自分自身と向かい合っているように見えて、実は「自分化」した社会幻想と対話している。「世界に対して自分はどのように見えているか?」「世界に対して自分はどんな価値を持っているか?」 そんな事ばかりが堂々巡りのように、僕達の思考の内側を流れる。誰かと話し、誰かと抱き合い、あるいはキスをする。だがそこには常に第三者がいてーーーそこで、性現象はじめとした「秘め事」としての行為は流れてしまう。僕達は四六時中、見えない誰かに向かって意味の分からない演技を続けている。演技。生活そのものが演技である我々において、現実とは何か。あるいは自己とは何か。そんなものはないのかもしれない。そんなものはない、と言った方が正しいのかもしれない。しかし、この今の僕達の、どこかの崖から少しずつ滑り落ちていくような、そんな現象の意味は何だろう? 我々が現実と思い、そこに張り付いたとしても、それはいつも、どこかの誰かが作った幻想に過ぎないのだ。では、その中にあって生きる事とは何か? 生きる事は演技なのか?

 生について考える事は、生きる事ではない。生の演技をする事は生そのものではない。では、僕達にいつか、「生の本番」が訪れる事があるのだろうか? ーーおそらくその答えは誰にもわからないだろう。僕もわからない。今の、過激な言動をしている人々はある意味で、それを探そうとしているのだろう。しかし、彼らのしている事はある幻想を別の幻想と取り違えるという行為なのだ。つまり、リア充と非リア充とは、互いに異なった夢を見ているだけの存在で、結局、滑稽な夢を見ている事には違いない。それぞれの夢に、「現実」とか「フィクション」とか名づけてももう意味はない。フィクションには、絵、色などの最低限の現実性があり、そして現実の人々は頭のてっぺんから爪の先までフィクション化されているので、拙劣なアニメの登場人物とさほど変わらない。いや、優れたアニメ作品の中のある人物の方が、僕達よりも遥かに現実的存在であるという事もありうる。そんな事はない、現実の人間存在は大切だーーーと言うのであれば、その人の生活のどこに肉体性があるのか。どこに現実性があるのか。…しかし、確かに、現実の人間存在は大切なものだろう。しかし、それはその人が言っているような意味でそうであるのではない。その意味が確かなのは正に、その人が忘れ、見ようとしていないその箇所によってなのだ。
 
 では、何が大切なのか? 我々にとって何が今、もっとも重要なのか? それは僕は知らない。僕はただ、自分の滑稽な劇を自分で認識していくだけである。そして僕は最後には、もっとも愚鈍で情けない演者であると共に、そして最後のーーー拙劣な脚本家となるだろう。その時、曲は止み、スポットライトは消えるだろう。そして僕自身が、光を当てる照明係へと変化するだろう。

 努力の方向性、時間の価値




 僕はツイッター上でウォール・ストリート・ジャーナルの日本語版のアカウントをフォローしており、時々、その記事を覗いたりする。そこで見ていると、ああ、アメリカって国は相変わらずだなあ、と思う事もある。(確かWSJはアメリカの新聞社だ)

 WSJに共通なのは漠然たるリベラルな思想と、また科学的統計法とでも言えばいいのか、まあそういうアメリカ的な効率主義である。効率という考えはノウハウに通じるものがある。僕はノウハウという考えが余り好きではない。必要ではあるだろうが。…では、ノウハウというのはどこまで通用し、どこから通用しなくなるのか。人間が学ぶ事ができるあるポイントと、独創に至るあるポイントというのはどのくらい違うものだろうか。そういう線引きみたいなものは一体可能だろうか。

 僕が不思議に思う事は例えば、「天才になるには一万時間努力しなければならない」みたいなノウハウである。確かに、この時間というものには、それなりの根拠があると僕も思う。吉本隆明は毎日十年やれば必ずプロ(商業的というよりももっと内在的な意味での)になれる、と言っていたが、それは事実であると僕も思う。しかし、何かをやるには具体的な抵抗とか課題がなければならない。河原で毎日石を積むのを一万時間やっていたら、それは立派な努力と言えるのかどうか。僕が疑問なのは、人が才能か努力かの二択を問う時、人は努力の方向性には注意を払わないという事実である。僕自身の事で言うと、どの方向に向かって努力すべきなのかがわからない、という状態が長く続いて、それが一番辛い事だった。何かをしようとする人間が努力する事は当たり前だし、また何かをする際の努力は楽しくもあり、しんどくもある。しかし、それが受験勉強や資格勉強でない以上、それらの努力には、その努力そのものに対する目的性もあるはずである。ここでは、また少し面倒な問題に突入するのでちょっと遠回りして考えてみよう。

 ツイッターなどで有名人にリプライ送る人のツイートを見ると、「何故○○さんは毎日努力できるのですか?」みたいな質問をする人が結構いる。それに対して有名人はそれぞれに返答したり無視したりするわけだが、しかしそもそも、努力は辛く、しんどいという僕らの考えそのものが根底的に間違っている。僕の考えでは、僕らは時間という現象を根底的に誤って認識していると思う。いるかどうか分からないが、この記事を読んでいる十代の人などにこの事が伝わればいいのではないかと思う。

 まず、我々の時間感覚というものについて考えてみると、努力という状態は成功の為の予備段階とされる。僕の考えでは、まずこれが間違いだ。ジョブズなども、商品を作るとは、つまるところ作る過程において、アイデアそのものが作るという行為から影響を受ける、というような事を言ってた。多くのCEOの間違いはここにある。つまり、彼ら経営者達は、まずアイデアを投げさえすれば、後はそれをその通りに形作るのは部下の仕事だとそう考える。しかし、これが間違っているとジョブズは言っていた。作品を作るという事にも同じ事が言える。また、これはもっと全般的な事にもそう言えるのだ。

 まず、我々の「待つ」という感覚について考えてみよう。バイト中、バイトが終わる時間が待ち遠しい。仕事の終わる時間が待ち遠しい。これは誰にでもある感覚であり、こういう感覚があるから、僕達は色々な事に対して計画を建てる事ができる。また、現代の産業が動く事ができるのはこういう我々の時間感覚のおかげだろう。では、例えば、小説を書くという行為においてはどうか。今、小説を書いている人が何を考えているか、僕は知らない。しかし、この「待つ」というような時間感覚に従えば、この人物はまず最初に全体像の理念を作り、そしてそれを順番にーーーまるでピースでも当てはめるかのように、作品を構築していく。だが、それは本当にそうだろうか。

 一月一日に、新人賞の締め切りがあるとしよう。そして僕は現時点ーーー12月18日の時点から執筆を始める。すると、僕のこの執筆過程そのものは、賞を取る為の原因とされる。一般的な考えでは、僕が小説を書いて送るのは、それが賞を取るためだとされる。これは、間違いではない。では、ここで起っている時間というものの整序法はどうなっているか。この時、「成功」というある未来の一点から、現在が完全に整理されている事になる。つまり、我々は未来のある一点から放射状に過去を我が物化して、それを当たり前の事としている。つまり、全ての支配権は未来というある一点に絞られており、現在、この今という時間は、それに対する従属的な存在にすぎない。そういう事になってしまっている。受験勉強、資格勉強、社内の昇進試験、新人賞を取る為の小説執筆。全て、似たようなものである。あるいは大多数によってそう考えられている。しかし、これによって現在という時間は単に、未来の一点の為の奴隷的存在となってしまうのだ。

 ジョブズの言っている事はここでも当てはまり、多くのCEOの間違いは、アイデアに対して製作という過程は従属的なものだという事だ。ここに理性全盛の時代の、おそらくは大きな過ちがある。ジョブズがさっきあげたような知見をどこで得たのかは分からないが、しかしおそらくは、実際に彼自身、何かを作ったり壊したりする過程でそういう事を学んだのだろう。…物を作るというのは本質的に、作るという事を瞬間的に作っていく行為である。それには、もちろん全体的なモチーフ、理念、アイデアがあるだろうが、しかし、それは同時に、その瞬間を形作る行為でもある。そして、はっきり言って、今の大半の小説がつまらないのは、この瞬間を形作る行為=文体が欠けているからではないか、と僕のような人間には思われる。小説を書く人間達もまた、多くのCEOと同じ過ちを繰り返しているのかもしれない。つまり彼らは、最初にプロットを組み上げ、そしてそれに従属的に言葉を従わせようとする。そしてそのアイデア如何で、賞が取れるか取れないかが決まると考えられる。つまりここでは、賞(成功)→アイデア→文章、のような従属的な過程が見られる。しかしそれは本当なのだろうか? どうして、瞬間が、今この時が、現在が、未来のある一点に対して自己を主張してはいけないのだろうか? 一般に受験勉強は、合格しなければ意味がないとされる。これが一般人の理論である。それはおそらく事実であろう。しかし、そうして全てを未来化した現在にはいかなる価値があるだろう? ここに全ての問題がある。現在というのはかけがえのない一瞬であり、誰しもが今を生きているという感覚そのものを我々は忘れているのではないか、と僕には思われる。現在は未来でも過去でもない。現在を過去化すると、すぐにそこに、中途半端な学者的因果論が現れる。つまり彼らに従えば、Aという事象が起きたのはBのためだ、とする。例えば、ある歴史的事件の背後には、××という原因があった。しかし僕の考えでは、過去の歴史的人物もまた、当時の現在を生きていたのだろう。だから、彼らは自由と不自由を同時に抱いてたはずだ。彼らは、彼らのその、自由と不自由の帰結としての一つの事件を起こした。その事件は、今から振り返り、過去事象として見れば定点的な、固定された現象だが、その当時においてはまだ振幅ある、自由の余地を残した事象だったのだ。どうして半端な理屈を述べる者達は、この過去の人間が抱いてた自由を簡単に剥奪するのか。そして彼らは過去の自由を剥奪し、未来に目的を設定し、そしてその元に現在を従属させ、つまりそういう行為によって彼らは時間という不可思議な現象を単純化する。彼らはそういう行為で、時間というのをタイムカード的なものへと変化させてしまう。そしてこの時間感覚は我々に染み付いており、従って全てはある未来の一点、「約束の地」に至るための予備的現象となってしまうのだ。

 文学に話を絞るなら、文学において文体の存在する意味はそこにある。最近では、文体すらを理屈でこね上げている作家もいるが、こうした行為には意味はない。また、モチーフを作品に当てはめ、そこから逆算して言葉をつないでいくのが小説だという考え方が一般的だが、これに対しても僕は疑問を持っている。これはそれこそ、現在の労働環境を表しているのだろう。現在の労働、仕事というものは、一定の仕事に対して「ミスが許されない」「時間通りにする」という程度の考えしかもたされてはいない。従って、そこで全体を統御するアイデアや理念はトップの数人が考えればいいという話になる。これが文学においても同じように作用している。しかし、芸術というものが、その瞬間瞬間に意味がなければ、それはなんだろう? 芸術というのは、工場でロボットが作る生産物とはまだ違ったタイプの生産物である。そこには瞬間と、全体という相容れない理念が共存するなにものかがある。そして古典となって残る作品には、必ずこの瞬間と永遠(全体)とが同時的に継起している。僕にはそのように思われる。

 話が変な方向に来たが続けてみよう。僕には、例えばマグリットやダリは真の意味では天才であると言えないように思う。彼らの作品には理念はある。全体の奇抜なアイデアはある。しかし、彼らはその瞬間瞬間の細部に魂をいれこんで描いているとは僕には思えない。彼らは奇抜なアイデアに自らの瞬間性を抜き取られているのである。だから、彼らは真の意味で天才とは呼べないと僕は思っている。これに反してピカソはその細部に対しても、彼という人物が詰まっている。だから、ピカソは北斎やラファエロほどの大芸術家とは呼べないにしても、ダリやマグリットより一段上の天才であるように思う。

 これを最初の「どうしたら○○さんのように毎日努力できるのですか?」という問いに、また引き戻して考えてみよう。これでこの論考は終わる事にする。…多分、まっとうな人間ならば、こういう問いをされたら、困惑する事と思う。そしてその困惑そのものこそが正しいのであって、この疑問自体が僕には疑問である。努力は毎日するものである…とすると、その先に目的があるからその為に努力するという事になるが、これは先に見たように現在を、未来によって疎外するという発想であろう。僕達が毎日努力できず、それが三日坊主に終わるのは端的に言ってそれを「努力」と考えているからだ。もちろん、それをするのが嫌な日もあろう。しかし、嫌だとか楽しいとかいうよりも、それはそれ自体で意味があって、その意味に触れるのが本質的な努力だと言う事ができる。楽音はその時々に、輪舞するように鳴るであろうが、それにはいずれ終局する時が来る。すると沈黙が来る。では、この一つの曲という概念はなんだろうか。我々は音楽を一つの曲として捉えるから、その全体が作曲者の頭に同時的に湧いたと考えがちだが、それはそうとは決まっていない。確かに、全体のインスピレーション、全体のぼんやりした像が作曲者に浮かぶ事はあるし、それがなければ最初の音を生み出す事はできない。しかしそれはまた同時に、最初の音が次の音を指定するという、そういう継起的な現象も伴っていなければならない。そうでなければ、それはそれ自体の愉しみ、瞬間瞬間の独立性、持続性を失った堅苦しいものになってしまう。そして頭でっかちな人はこういう方法に陥りがちである。しかし、この全体と瞬間の調和する瞬間を狙う(成就する)場所にこそ、本物の意味での芸術がある。ヘーゲル哲学風に言うなら、瞬間と全体を止揚する事が芸術の本質だ。では、この時、人が呼んでいる努力なるものはなにか。そんなものは存在しない。存在しないからこそ、我々は努力を面倒くさく、重ったるいものと考えざるを得ないのだ。だから、役所の試験の為に勉強するという行為はおそらく辛いであろう。なぜなら、それに自己目的性を見つけるのはいかにも辛いからだ。しかし、全ての事はそのタイプの「努力」であるとは限らない。ある場面ではーー経済的に言うならーー効率性そのものと、その行為の目的性が釣り合っている場所がある。そしてそこで人間は始めて、社会労働に充足を感じる事ができる。効率というのはつきつめていけば、未来と過去と現在を一つの時に押し込める行為である。効率は必要だが、しかし、例えばモンスターハンターなどのゲームで、モンスターを二秒で倒す技術が確立されたとしてそれの何が楽しいだろう? 人は、楽しみの為には、アランの言うような「労苦」が必要である。しかし自ら労苦を求めるとはどういう事か。そしてそれは現在の効率的な発想法に対してどのような自己防衛ができるのか。この辺りはそれぞれの人間がその生涯において、真剣に考えなければならない点であるように思う。そしてその「努力」の質、その方向性、その有意味性、無意味性を僕達に決めるのはおそらく、僕達の死そのものであろう。人が歩き出し、動き出す事のできるのは、人に死があるからである。もし人が不老不死の存在ならば、それは効率というものの純粋概念と同じように、時間を一つの無私な領域に還元して、そしてそこにとどまって人は何もできなくなるだろう。面倒な事は明日やればいいのだし、それに「明日」はどこまでも続いてく。こうして不老不死において時間の概念は消去される。我々が一つの永遠性に達する事ができるのは我々が正に滅び行く存在であるからである。そしてその努力の瞬間瞬間に意味があるのは、正に我々が今を生きている限りにおいてである。そして、それは最後に目的へと昇華されるかもしれないが、しかし現在そのものに価値がないものは、遥か未来においてもやはり、一切の価値は存在し得ないのだ。

 現代の経済現象等についての考察





 世の中には色々な言説があるが、いわゆる『学者先生』の書くものには全く、地面に足のついていないものが多々あるように思う。一見正しそうな理屈でも、地面に足がついておらず、机上の空論というような印象を持つ論理には、とりあえず疑いを抱いておいた方がいいと思う。現代においてもまた、錬金術が過去とは違う方法で流通していないとも限らないから。

 例えば、『ユニクロの強みは東南アジアの安い原材料を使っているから』という論理があるとする。あるいは、『日本が戦後発展できたのは、アメリカが日本の円を守ったから』みたいな論理があるとしよう。そして、実際こんな風な事を言うエコノミストはたくさんいる。

 こうした論理は、僕ら素人からすると一見正しそうに見える。はあ、なるほどねえ、という風に見えなくもない。だが、僕が常々疑問なのは、こういう事を軽々しく言う人達の論理そのものに対する認識だ。彼らが哲学を学んだとはとても思えないが、しかし、彼らは自分でもそれと気付かずにそういう領域に突入している。なぜなら、論理というものは、人間存在にとって極めて重大な役立つ道具であり、この道具の発明に哲学は常に貢献し続けてきからだ。

 それがいやしくも論理である以上A→Bという定式が成り立つであろう。これは実に簡単な話である。そこで、先に述べた言説は次のような定式に還元される事となる。「東南アジアの安い原材料を使う→ユニクロは強い」「アメリカが日本の円を守る→戦後の日本の発展」 これは一見、簡単に見える。しかしここで、疑問が起こる。では、『東南アジアの安い原材料を使って衣服を販売する企業は全てユニクロ並みに成功できるのか?』 また、『アメリカが円を守ってくれていれば、日本は必ずその後発展できたと結論できるのか?』 ここで一般化の作用が起きる。しかし、それが論理である以上、一般化は可能だというのは、自明の事とされても良いだろう。

 こういう論理の一般化というのはおそらく、簡単な事ではない。こういう事が可能だった事に、ニュートン物理学の偉大さはあったように、僕などは思う。ニュートン物理学が、日本の物質においてはあてはまるが、韓国の物質においてはあてはまらない、なんて事は基本的に考えられない。ニュートン物理学は(基本的には)、あまりに多くの様々なものに適用可能であり、なおかつその論理的整合性を(ほとんど)崩さずに済む。つまり、物理学的領域というのは、こういう論理の厳密性をくぐってくるのであって、これは生半可な事ではない。僕などのように、言葉と概念を扱う人間は、彼らよりはいくらでもズルとインチキができる立場にある。僕はインチキしているつもりはないが、しかし、多分していないようでもところどころしてしまっていると思う。

 そこでさて、前述の経済的な論理に戻ると、ただちに疑問が起こる。誰だって疑問に感じるだろうが、「A→B」という理屈が一見通りそうに見えても、この「→」部分はあまりにひ弱で、脆弱な論理に見える。考えてみれば、経済現象というのは余りにも多様な人間的要素を扱っており、物理学のような厳密性を得るのは極めて困難だ。それが困難なのは仕方ないにしても、前述の論理を使う人達がこの困難を何一つ感じていないという事が僕には不満だ。しかし、それよりも厄介な問題は、もっと先にある。

 カール・マルクスの資本論は有名な書物であり、この書物の論理性は先にあげた半端なエコノミストの言説とは全く次元が違う。しかし、にも関わらず、マルクスは全てを自らの論理下に収め、そしてそこから得た真理を現実に返還して適用した時に、間違えた。今、共産主義は隆盛になっていない。逆に、人々に平等と自由を与えたのは、マルクスが敵とした資本主義の方だった。

 では、それはなぜそうなったのだろう。ドラッカーはこれを、「テイラーが始めた生産管理方法が広がった事による、生産性の増大のためだ」と結論していた。この論理には、先ほどの論理に比べるとほとんど隙がないように見える。つまり、「生産性の拡大→豊かになる」という方式であり、よく考えれば当たり前と言えない事もない。しかし、ドラッカーもまた前述の半端な論理の行使をする人とは全く違った存在だ。しかし、今はまた別の事を言おう。

 マルクスが間違えたのは、どの点からだったか。先日、共産党のビラを一枚もらったが、そこに共産主義の影も形もなかった。ーーーおそらく、マルクスが間違えたのは、論理を現実に還元し、適用するその方法についてではないかと思う。つまり、マルクスの認識そのものは正しかった。マルクスが社会全体から抽象した論理と、真理はその他の学者連に比べれば圧倒的に厳正かつ、強固なものだった。にも関わらず、彼はそれを現実に適用した時に間違えたのである。つまり、ここでは、論理は一旦現実を上回るが、しかし、その論理を現実に適用しようとするやいなや、現実の方が論理より大きくなる、そのような関係があるように思う。

 現実に対して、そこから抽象された真理を適用する、それはうまくいくかいかないかーー。これは今でも問題であるように思う。しかしこの事をエコノミストらが考えているとはまず思えない。今、我が国の政府は、政府主導の経済政策の立て直しをしている。それは机上の論理では完璧に上手くいくだろう。しかし、それは現実にはうまくいくだろうか。

 僕がこの厄介な問題にとりあえず結論をつけるなら、現実というのは常に論理よりも一回り大きいものだという事だ。しかし、それを統御し、認識するマルクスのような存在は社会に必要かつ、有用である。しかし、では、そこから様々な論理を行使して、現実は良くなるか。答えーーー良くならない。何故か。それは端的に言って、マルクスが神ではないからだ。マルクスと同時代、そしてマルクス以降にマルクスを越える存在は必ず現れうる。そして現に人間は絶えず論理を超えながら運動しているのである。

 インテリの言説は大衆を小馬鹿にしているか、あるいはそれを局所的な存在に貶めた後にはじめるものが多い。しかし、人々が刻々と過去の自己を越える事におそらく、時代の進歩はある。つまり、物理学において、自然が絶えず、人間の作った論理を破るものとして現れたように、人間存在もまた常に、社会論理を越える存在して現れてきたのだ。つまり、生きるとはそういう事である。

 厳密に言うなら、論理とはなんだろうか。僕という人間が、蟻の生態を観察する昆虫学者だとしよう。蟻は、人間よりも遥かに下位の生体なので、この生物を私という昆虫学者がほとんど、何のズレも間違いもないレベルで、一群の論理形態を作る事はおそらく可能であろう。すると、この時、私の作った「論理形態、A」=「現実の蟻、A'」という定式が成り立つように、一応は見える。私が蟻の生態をパターン化したその次の瞬間に、蟻の一部に急に羽が生え、どこかに飛び去るという事はないし、蟻が急に人語を喋る日も当分は来ないだろう。しかし、それはあくまでも「当分」の事である。この「当分」はもしかして、一億年とか百億年くらいの年月を指すかもしれない。しかしたとえそうだとしても、蟻は私が作った論理をなぞる存在としてそこに彼らの生を営んでいるわけではない。そうではなく、重要なのは、彼らの進化形態が、私という個体にとって、一応の間通用する論理形態を作る事を許した、という事なのだ。蟻は私の論理をなぞっているわけではない。また、物の運動はニュートン物理学をなぞっているわけではない。だから、後年のアインシュタインは明らかに間違えたのだ。彼は新たな量子論を否定したが、彼はその時、現実よりも、自分の理論を信奉しようとした。ドラッカーの言うように、「論理は現実に従う」のであって、逆ではない。では、論理そのものはどのような意味があるのだろうか。

 しかし、僕個人、これ以上、解析する事はやめにしておこう。僕もまだ、これらの事について脈絡ある考えを持っているわけではない。ただ、僕は今の一部のインテリの、それぞれの生の主体性を抜きにした粗雑な論理に心底うんざりしただけである。彼らは、生を簡単に二、三行に翻訳しえたと信じる。彼らはどこやらの大学でそういう事ばかり学んでいるからそう思うのかもしれない。僕個人が大切にしているのは日頃、コンビニに行って物を買ったりする、そういう当たり前の感覚である。それ以外に僕の武器はない。

 …しかし、そもそも経済現象そのものが、経済学の範疇に収まるかどうかというのが僕には謎で仕方ない。経済現象は、経済外の事実によって撹拌される。それに、いかに政府が有能であろうと、それは意思し、行動する大衆を引きずって歩いていけるわけではない。政府ができる事は人々に、自らの足で立つ事を教える事であり、それ以上の事はできない。リーダーというのはカリスマ性があると一般に言われるが、本物の良きリーダーというのは、一番他力本願的な存在と言う事もできる。本物のリーダーは人々に自ら立つ事、歩く事を教える。本物のリーダーは人々を引きずって力強く歩いて行かない。そんな事は強そうに見えて、弱い。なぜなら、人間は神ではないからである。毛沢東、スターリン、ヒットラーはカリスマ性ある、神に近いリーダーだったが、彼らは結局人間を引きずって歩いてはいけなかった。誰しもが、自分の足で立たなくてはならない。そして、その足で歩かなくてはならない。そしてその意味で、論理とは常に超えられていくのである。そしてその時、全体を把握する政府のような所は何ができるのか。彼ら、リーダーのような人々は一体、何ができるのか。彼らのすべき事は全体を統御し、統率する事ではない。彼らのすべき事は常に人々に自己を統治する事を教える事だろう。結局、どのように複雑な社会においても、それぞれの主体性が社会性と合致した社会が一番強力な社会となるだろう。そしてそれは今、この国がやっているような、「強いリーダーの待望」のその果てにあるものとは違うものだと思っている。

 

ペルソナ3、ペルソナ4、ペルソナQの世界観

今、ペルソナQをプレイしているが非常に面白い。4つ目の迷宮をクリアしてやっと話がぐっと進んだ。

ペルソナ3、4は橋野桂という人が監督していると思うが、この人は優れたクリエイターだと思う。また、時代に対する鋭敏な感覚を持っている。この辺りは虚淵氏に感覚的に似ている。

ペルソナ3~からの特徴は人間の心理的な悪が具現化してシャドウという敵になるという事だと思う。(1、2については知らないのだが) この事はこの作品に特徴的であって、何らの具体的な課題、目的がない社会においていかに敵を作るか?というそういう課題に対するクリエイターの一つの方法論なのだと思う。そしてこれはエヴァ以来のサブカルチャーの課題かもしれない。

物語は敵がいないと成立しない。では、敵はいかに成立されるか。そこに、理不尽かつ無意味な敵を想定する事が、個々の、主人公達の愛憎を作り出すのに一役買う事になる。まどか☆マギカは物語の設定自体は通俗的だが、そこで人物達が演じられる劇はリアルなのである。そして、この理不尽に設定された敵に少女達が押しつぶされる様が見事な劇となっている。この時、我々の世界において、ただ平和で友達やら何やらと遊んでいる世界では、劇は成立しえない。あるいは成立したとしても、そこには人の心をかきむしるものはない。

この社会は不思議な事だが、今上にあげたサブカルチャーがやっている方法論を模倣しようとしている。つまり、この敵なき社会で、強引に敵を仮構しようとしているのだ。そしてそれにはインターネットが一役買っている。人は今、敵を欲している。そしてそれがネットを、画面を通じて具体化される。不思議な事に我々はまさに、我々のシャドウそのものとの闘いを始めようとしているのだ。

自分自身と闘い得ないものは、自分の外部に敵を作る事となろう。そしてそれは傍目には客観的な敵と映るだろう。しかし、その敵は実は自ら造り出したものだと気づけない限り、人は強くなれないのである。そしてそれはまさにペルソナという物語の、筋書きのとおりである。

だから今、現実はフィクションを模倣しようとしている。そしてまたフィクションは、その模倣する現実を乗り越え無くてはならないだろう。一ゲームファンとして僕はペルソナ5を期待して待っている。


追記(ペルソナQ ネタバレあり) 

ペルソナQは最後までクリアしたが、最後の救いの場面は余りに通俗的だったように思う。悲劇の昇華の仕方としてはもっていきかたが弱すぎると思う。「生きた」という事実を伝えて、生きている意味を探して求めている者を納得させるのは無理だと思う。また絆が個人を救うみたいなのも、陳腐なレベルにとどまっている。どん底に突き落とす仕方、またそこからダンジョンなどができた、という設定は素晴らしいが、その回収としての答えは非常に弱々しいと感じた。次の作品ははたしてどうなるか。

 未来の歴史




 先ほどの選挙で自民党が圧勝したらしい。この事に対する僕の感慨はあまりない。しかし、これから人々が歩もうとする道はおそらく一つであるように思う。

 これから、人々はおそらく何らかの「絶対」を求めるように思う。つまり、それは今、「正論」という言葉である種の人々が示そうとしている事と同じ事だ。人々はおそらく、この平和で倦怠した、その麻酔された体に、巨大な注射針でも打ち込もうとしているのかもしれない。人々は何かを誇示しようとしているし、人々は自分が存在しているという責任を、自分以外の他者に転嫁しようとしている。我々の戦後の平和の長い期間は、長大な生の賛歌を創りだした。私達は生きる事をやたら褒めあげ、そしてその中で、その規定された「生きる事」から疎外された人々が憤懣を抱え、そして何らかの「革命」を起こそうとしている。現状はそんなものではないか。

 以前に2chまとめサイトで「年収一千万以上の内科医が〇〇について語る」みたいな文章を読み、その主の、年収や、自分の社会的地位に対する自負心に大いに驚いた事がある。現在では人間相互の差異がないーーー階級がないので、人は細かい所で差別化を図らざるを得ないのだと思う。人間というのは平等というものにはそれはそれでうんざりとするし、また階級制度にも別の意味でうんざりする。人間というのは真に厄介な生き物である。

 これから先、この国、あるいは世界がどのような道をたどるのか。人は「何か」を自分に証明しようとして、戦争の一つでもやらかすかもしれない。あるいは全体主義が興隆するかもしれない。しかし例えそうなろうと、一つだけ、僕にとって間違いなくはっきりと確定し、見えている事がある。それは、これからどのような大犯罪、虐殺、皆殺し、悪のようなものが起ころうと、『人々はそれを決して認識しはしない』という事である。人は犯罪の後にもそれを認識しえず、従って表面的に反省するにとどまるだろう。そしてそれが何かとは考えないだろう。そしてまた、象徴的な人物の幾人かを処刑して話を終わらすかもしれない。しかし、それ故に『話は終わらない』のである。だから、僕のこれからする事ははっきりとしている。それはこれから起こる未来の歴史をはっきりと認識する事である。人が覆いにかけたものを暴露する事。それがこれからの僕の目標と言ってもいい。

 憎悪は絶望の解決とはなりえない、とドラッカーは何十年も前に書いた。それはナチスの興隆を扱った本のあとがきだったと思う。人はこの真実を見ず、また、『事後』も知り得ないだろう。したがって、ここに一人の歴史観察者が必要となるだろう。だから、僕は横目でしれっと見てやろうと思っている。

 とりあえず、今はそんな事を考えている。人間が自己の価値を知る事ができるのは、全ての人間が消滅した以降の事なのかもしれない。あるいは僕はそんな事を考える。人間が全ていなくなってさっぱりとした世界になれば、地球に残った様々な生命体はやっと、それまでの沈黙から解き放たれ、饒舌にしゃべりだすかもしれない。そしてその時に彼らはーーー人間の事も懐かしく、それなりに「悪くなかった」思い出として語るのかもしれない。僕は、そんな風に感じている。

最後の一息



もし君が笑っているなら

君は泣く事を覚えた方がいいだろう

世界にはいくつか功利的な原理があって

それをマスターできれば

このメディアばかりの世界で 君は

王者になれるかもしれないが しかし


もし君の心にやさしさがなければ

世界はその実存的意味を失い

そしてもし君に強さがなければ

君は外部の力によってそのやさしさを

失う事となるだろう

それは正にフィリップ・マーロウの言った通りだ

現代の街におそらく

マーロウが住む場所はどこにもないが


世界がもし一つの場所なら

君も世界の中の一つの場所となればいい

この宇宙は多元性を僕達に許している

ブラックホールの内部にも外部にも まだ

僕達が知らない世界があって そして

そこでその世界の「ダニ」や「ノミ」達は

僕達が決して知る事のできないこの全宇宙の真理について

真剣に語り合っているのだよ


もし、君が知性の翼をひらめかせて

世界から飛び去る事ができるならば

君の肉体はすぐにでも形骸となるだろう

その時、君は君の「死」を見るだろう

人間にできる最も尊い事はおそらく

自身の「死」を見る事だ

ほとんどの皆は死から逃げる事を

「生」と呼んでいるようだけど


…さてと、僕の短い話はこれで終わりだ

あとは君が勝手にやってくれるだろう

…くれぐれも言っておくが、現実の世界で君が僕に会ったとしても

僕に握手など求めないでくれ

現実の世界では僕と君はお互いに敵同士ーーーにも関わらず

君はどうやら僕の魂の秘密を知り抜いているらしい

だとしたら、僕達の死後、僕達の魂はおそらく

天上の酒場で互いに胸襟を開き合う事だろう

そういう事はありうるのだ、おそらくーーーしかし、まさにそれ故に

僕達は「今」を真剣に行き無くてはならない

忘れられた太古の記憶を胸に秘め

渋谷、新宿、池袋の街を歩いて見たまえ

そうすれば君はその雑踏の中を まるで

深海を静かに移動する深海魚にように歩行できるだろう

人々など波の一滴に過ぎない

人々のざわめきは一つの静寂であり だから 君は

一つの「騒音」として世界を泳ぎまわる事ができるのだよ

泳げ! そして君は最後には

海上に上がって そして

決して人間達にはできなかった最後の一息を

つく事だろうよ


モーツァルトの天才と、凡人たる我々の関係




 吉田秀和のモーツァルトの評伝を読んでいて、色々と思う事があった。僕の考えでは、モーツァルトは、常に人生から飛び去っていた人なのだと思う。つまりそこでは、もう言われ尽くしたように「肉の占める分量がほとんどなかった」のであり、彼は常に、頭の中に音楽の精霊を飼っていたのだろう。とはいえ、彼は俗人でもあり、また普通の良き夫でもあった。彼は快楽を追求しはしたが、おそらく、彼の中でその快楽も、あるいは現実における恋、結婚も、どれも彼の意識の中で音楽ほどの存在を占める事はなかったのではないかと思う。これは邪推だがそのように思う。

 では、ベートーヴェンのようなタイプはどうかと言うと、これも当て推量だが、彼は生活全てを遠ざける、思索型、哲学者型の音楽家だった。そして、どちらがいい音楽家と言う事は言う事はできない。ただ、僕がシンパシーを感じるのはベートーヴェンの方である。ベートーヴェンの鈍重さ、不器用さの方が僕にはよく分かる。しかし、僕には一点気になる事がある。それも少し書いておく。

 ベートーヴェンの最後の大作はあの有名な第九だった。そしてそれは、シラーの詩を使った「歓喜の歌」であった。ベートーヴェンのように、絶えず、人生から労苦と不幸を供給されていた男が、高らかに歌い上げたのが何故「歓喜の歌」だったのか。そして生来明るく、悲しみを置き去りにして走っていったモーツァルトが最後に取り組んだのが何故あの、モーツァルト風の軽々しさをなくした「レクイエム」だったのか。こういう事は僕には、人生と芸術との間の、簡単には解けない謎であるように見える。

 もし、モーツァルトやドストエフスキーのような人物が、偉大な、人類史に残る芸術を残しさえしなければ、彼らは単なる俗人か平凡人として、その生涯をまっとうしただろう。あるいは、他人からはそのように見えた事だろう。特に、モーツァルトに関しては、彼がもし偉大な音楽家でなければ、愚にもつかない手紙をたくさん残している事だし、彼の人生が僕達の興味に残る事はなかったように思える。また、モーツァルトやドストエフスキーの周りの人物の証言からは、彼らが聖人君子でもなく、わりと俗っぽい人間だった事がわかっている。少なくとも、彼らはブッダやキリストのような、思わず拝跪したくなるような、人生そのものを芸術化した人ではなかった。にも関わらず、どうして彼らはああまで偉大な天才だったのか。
 
 こういう問題は簡単ではない。また、簡単に解けると考えるべき事でもない。ただ、僕が思う事はーーーモーツァルトに関しては、常に、彼の音楽は彼の生活、自然から離れて歩いていたという事だ。モーツァルトが悲嘆を感じたとしても、彼の音楽はその悲嘆を背後に背負ったまま明るく、軽やかに流れていった。彼は人生を歩いていなかった。彼はおそらく、音楽の上を歩行していたのであって、ここに天才と凡人との間の不思議な関係がある。我々凡人からは、音楽そのものであるモーツァルトは大天才と見える。だが、モーツァルトからは、我々凡人は生活に固着する一風変わった人物と見える。彼は、言うかもしれない。「世の中にはこんなにも美しく輝かしいものがあるのに、君達はどうしてそんな場所にとどまっていられるのか?」 僕が思うに、ニュートンとかモーツァルトのような純粋型の大天才は、常に、生活から疎外されている。しかも彼らはそれらを苦痛として感じているのではなく、それが、彼らにとっては当たり前の現象なのだ。つまり、我々が生活において行使している論理形態とか、習慣性というものを、全く、生活とは違う次元に移してしまったのだ。僕はそのように思う。

 しかし、ここまで書いた事はあくまでも僕の当て推量である。僕はクラシック音楽を聴ける耳を持っていないし、知識もあやふやである。なので、ここに書いた事は適当な話である。その事は一言断っておきたい。


 …僕は最近思うのだが、芸術というのは本当に人生を解決できるのだろうか? それは、人生という問いに一つの解答を与える事ができるのか? 僕はその点を最近、極めて疑わしく思い始めている。僕が二十歳の頃は、それはできるし、そういうものだと思っていたが、しかし、本当は、芸術は人生を解決するものではないと思ってきている。あるいは、芸術が人生を解決した瞬間、その次の時間から、芸術は今度は人生にとっての謎へと変わり、そして人生の方でこの芸術の謎を解かなくてはならないようになる。おそらく、本当の物事はそのようになっているのだと思う。モーツァルトやシェイクスピアは、彼らの死後に、より我々の興味を引いた。我々凡人は彼らの死後に、彼らを、彼らの生前よりも理解しなくてはならないと感じるようになった。少なくともそういう風に時代は動いた。これはおそらく、正当な事であろう。つまり、ここでは、我々という平凡人の人生そのものが、かつて人生を解決した(しえたと信じた)一群の芸術作品を理解し、分解する事を要求しているのである。ここで、主題は一転する。つまり、我々が彼らを理解しようとするその姿勢にこそ、彼らが生前に感じたであろう、魂の孤独と、社会からの疎外を癒やす道があるのである。そしてそれは相互互恵的な関係である。そしてこの時、この紐帯を通る事によって、我々は、天才と凡人という画然として別れた二つの分離項を(一時的とはいえ)一つに統合する事に成功しているのだ。

 従って、我々がある芸術作品に心底感動するという事は、我々の社会に通有なように、単なる暇つぶし、娯楽、お慰み的な意味を持っているわけではない。娯楽しかない人生は哀れである。慰み事しかない人生は無意味である。我々が芸術を理解しようと欲し、そして一時的と言えど、その作品の内部に入り込むのは、我々に、我々の人生よりも高い所がある事を指し示す。そしてそこに到達した人物がいる事も指し示す。そして、我々はまた、その高みから下りてくる事により、更にまた、人生の意味、その価値を改めて手にとって知る事ができるのである。

 人生に固着し、人生を追いかける事は、おそらく、人生外の領域ーーつまり、精神、本質、実存に、最後には排外されるように僕には思える。人生そのものに埋没する人間は、人生外の領域でたたずみ、苦悩している人物を馬鹿にする事だろう。だがしかし、そういう人間にも死があるという理由により、この人物が斥けていた領域によって、この人物は最後には反駁される。この人物は死を見ず、やたら生を賞賛したので、だからこそ彼には死が、より巨大な鉄槌として感じられるのだ。しかし、苦悩している人物もまた、可能性にとどまっている事はできず、ある地点で、自分の自意識から抜けだして行為しなければならないだろう。ここにおそらく、始めの一歩がある。つまり、人間に勝利が可能なのは、その人間が最初から自己のうちに敗北を背負い込んでいたからである。僕はそのように思う。

 モーツァルト論から意外な所に来たがこの文章はこれで終わりする事にする。僕はモーツァルトやベートーヴェンについてなんやかやと言っているが、実際には大してわかっていない。耳ができていないのだ。だから、こういう理念的な述べ方にとどまった。また、そのうちに、耳や身体などの感覚的なものを鍛えられたら良いと思っている。



該当の記事は見つかりませんでした。