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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

 世界の意味を




ネットで色々とくだらない知識、情報、意見の洪水を見る。現実において、些末な事に囚われ、足元ばかり見て、それ以上の重大物を見失う。
 社会に生きていると、色々な事を言われたり、また言う必要が出てくる。多くの人が何かを言う。しかし、彼らというのは何だろうか。彼らの多くは自己弁護をしているだけにすぎない。しかし、その自己とは彼ら自身の本当の自己ではなく、彼らが自己と思い込んだものに過ぎないのだ。
 私はこの世界の中にいてーーー友人、家族、恋人、同僚のような人達と一緒にいると自分を見失う。彼らは確かに身近な人としては大切だ。しかし、彼らの中に叡智を持っているものが少ない以上、我々は集塊としてやがては海に没しなければならない。しかしまた同時に近親者は必要である。
 こんなくだらない事を書いていても仕方がないのかもしれない。生きる事は生きる事について考える事ーーそう仮定すると、生きる事そのものが抜け殻となってしまう。人はやはり、汗を垂らして行動しなければならない。もちろん、肉体労働でなくても構わないが。我々は、短期的な生においては、全体を志向する必要はないが、しかし十年単位で物事を考えると、全体を志向しなければ間違ってしまう。だからここで叡智が必要となる。しかし、叡智はその遠眼故に、近視眼者達から馬鹿にされるのだ。
 あらゆる事がシステム化された社会において、私は一体何を思えばいいか。ーーー私は自分なりに、十年ほど勉強してきた者だ。しかし、今や、勉学とは社会システムに一致する受験勉強や、資格試験勉強となった。私が欲しいのはーーー叡智である。人々が私を馬鹿にするのもやむをえない。しかし私はおそらくーーー彼らとは別個の星辰の上に立って世界を見渡しているのだ。私の頭の中にはそれーーもう一つの宇宙があるから。
 おそらく全ては過ぎ去るだろう。過ぎ去らぬものはないだろう。あらゆるものが破滅への道を向かうだろう。あるいはあらゆるものは創造への道を辿るだろう。君はおそらく、人生において確かな、手応えある答えを求めるだろう。そしてそんなものはどこにもない事に君はいずれ気付くだろう。しかし、君がその事に気付く事ができるのは、人生の内部においてなのである。それは、死の空間においてではない。
 君はいずれ、実存的な孤独に立たされる事だろう。そしてその時、君はーー中原中也の言った通りにーー過去の聖賢達の言葉を思い起こすだろう。そして、君はその時、始めて、悲劇というものが何であるか、生きるという事が何であるか、知る事となるだろう。海の中の一滴の水は自らを知る事はできない。一滴の水は、海から抜け出る事によって自らを始めて知るのだ。
 そしてその時、始めて君は、生まれて始めて心底からの、体内からの、心からの「呼吸」をする事だろう。その時はじめて、君は君自身となる事だろう。
 そしてその時、君は始めてこの世界の意味を知る事だろう。つまり、君が乗り越えていかなくてはならない対象としての、世界の意味を。

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本当の私は





私が誰なのか

あなたは知っている

しかし、あなたが誰なのか

私は知らない


ネットを通じて拡大化される人間の像の中で

私達が「リアル」を見失うのは当然の事かもしれない

しかし「リアル」なんてものが人類が始まって以来

一度でもこの世界に存在したかどうかというのもまた疑わしい

カントは「物自体」を私達が

決して認識し得ぬものとして定義した


私が誰なのか

あなたは知っている

しかし、あなたが誰なのか

私は知らない


だけど、本当の私を

あなたは知らない

しかし、本当の私は

私自身も知らない

しかし、それは確かに存在するのです

私はそれを感じる事ができる

この偽物の、鋼鉄でできた体を通じて

私はいつもそれがどこにあるのかを

感じる事ができるのです

だから、あなたにも本当のあなたが

きっとどこかにあるのでしょう

あなたはそれを探して、いつも

あさっての方向に出かけてしまうけれど

 砂の上の麦わら帽子

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 「君がこれまでに書いた事は」
 と男が僕に言った。男はどこかで見た事のあるような風貌だった。彼は何故か麦わら帽子をかぶっていた。今、そんなものをかぶっているのは狂人くらいのものだ。
 「全て、君自身の人生に対する言い訳と定義する事ができる。君はずっと、自分自身に言い訳していたんだよ。それは、わかるかね?」
 男は僕にそう言った。そこは風の吹く砂丘で、まるでこの世ではない、どこか違う次元の惑星であるかのようだった。
 「そうですかね」
 と僕は気のない返事をした。
 「そんなつもりはないんですが」
 「君がそんなつもりがなくても」
 と男は帽子を風に飛ばされないように押さえながら言った。その声はさっきよりうわずっていた。
 「実際にそうなのさ。君はね、自分という存在ーーその壁に向かって飽くところなくボールをぶつけていたようなものだ。まるで少年が壁にボールを投げ続けるように。君はそうやって、自分自身をいたぶる事を楽しみにしていた。君は確かに…誰かに助けてもらいたかった。だから君はよく、文章の中で嘆いたり、助けを求めたりした。しかし、君はいつも、実際に誰かが助けにやってくると、すぐにその手を払いのけてしまった。そしてまた君は壁に向かってボールを投げ続ける。君の嘆きはどこまでも続く。この世の終わりまで」
 「ルソーも」
 と僕は言った。
 「そんな人間ですね。彼も、人が嫌いでした。でも、人類を愛していました。そしてその齟齬が『一般意志』とか、『自然』とかいう哲学に現れたんでしょうね。カントは生涯独身だったそうですが、でも、カントの生み出した哲学は、多くの子孫を生んだとも言えます。つまりーーカント以降の哲学者は皆、できのいいのもできの悪いのも含めて、カントの子供みたいなものですからね」
 僕がそう言うと、男はこれみよがしに「はあ」と深くため息をついてみせた。そして、言った。
 「私が言っているのは、今のその戯言だよ。君のその戯言ーーその哲学的な戯言、それこそが君の人生を曇らせ、君という人間を間違った方向に導いてきたのだ。いいか、君は何を知っている? 君は『自分が何を知らないか』を告白する事によって、知っている事の代用としようとしている。思えばニーチェのした事もそんな事だ。だが、君にしろ、ニーチェにしろ、君達は根底的に間違っているのだよ。君達は、まず、この世界で幸福となる事を目指すべきなのだ。君達の目指した事は不幸だ。いや、違うな。君達の目指している事は、『不幸を嘆く事』だ。それは今の一部の連中が、嫉妬する事を自分の運命と感じているのと変わらない。彼らは永遠に他人を呪詛し続ける連中だ。彼らは魂の底から不幸だから、いつもいつも『自分は幸福だ』と喚いていないと気がすまないのだよ。…君に、よく似ているな」
 そう言うと男は帽子のつばを押さえながら、遠い目で、風の吹いてくる方角を見つめた。その方向に何があるのかはわからなかったが、もしかしたら、僕には見えない、男にしか見えていないものが存在していたのかもしれない。
 僕は男の顔をはっきりと見定めようとした。しかし男の顔はどうしても陰になって見えなかった。僕は男の顔から目を逸らした。
 「でもねえ、どうしようもないんですよ」
 と僕は言った。僕としては投げやりな気持ちになっていた。
 「どうしようもない。自分というのはなかなか変わらないし、それにそれだって運命の一つじゃないですか? 僕は自分なり努力してきたし、考えもした。僕の人生の最後に、くだらない死があるって事はわかっています。でもだからと言って、どうすればいいんですか? 僕は過去を振り返るにも、未来を見るにも、すぐに悪い事ばかりが思い浮かぶんですよ。良い事はまず思い浮かばない。他人という他人はいつも、僕を攻撃しようと身構えているように見える。例え、他人が無垢な存在だとしても、それはまだ汚れる前の存在であってーーつまり、全ては汚れるんですよ。そして全ては死ぬ」
 「君の言い方をたどると」
 と男が言った。不思議な事だが、男の姿は足元から、少しずつ消えかかっているようだった。
 「全てのものの先に死があるという事になる。君はまた間違いを犯しているな。君がいつもやる間違いだ。君はダーウィニズムと全く同じ間違いをしている。ただし、その方向は逆だがね。君は全てを未来の死の範疇に入れて、現在と過去を消し去ってしまう。そしてダーウィニズムは、発生と進歩の理論の中に個別的存在を入り込んで、全てわかったかのような顔をする。生物学者共が何を言うかはしらんが、彼らよりも、神の存在を頭上に感じていた古代人の方が遥かに賢かったという事になるのかな。…いや、しかし、古代人もまた、神の中に全てを溶かし込ましている点で、変わらない。つまり、そうやって多様で変化しているあらゆるものを無理矢理一つの理念の中に溶かしこんで、安心しようとするーーそれは君達人間がずっとやってきた思考上の慣習なんだよ。では、それを批判したニーチェは何をしたか? …何もしなかった。彼はただ、間違いを暴いただけなんだよ。なにせ、あらゆる真理を否定した以上、自分が新たな真理を提出するのは滑稽だからね。だから、君は君が嫌悪しているものと同じように間違っているのだよ。君は今生きている。これが全てだ。もちろん、君は死ぬがね。だが、君だけにこっそり教えてあげるなら、君が死の観念を持つ事は悪い事ではないよ。ただ、その死の観念を生の為に生かす事ができれば、の話だがね」
 「『生の哲学』というやつですか」
 と僕は言った。男は
 「そんなんじゃない。君の人生、君の今のあり方についての話だ」
 と言った。
 男はそれなり沈黙した。僕も黙った。二人の間を沈黙が支配した。そしてその間、風で砂が流れる音がした。全ては砂でありーー人間的世界は、僕と男の他にはちっとも見えなかった。そして男は不思議な事に、足元から少しずつ消えていこうとしていた。
 僕としては男が消えようと消えまいと、どうでもいい事だった。しかし、男がいなくなると、僕が寂しい気持ちになる事は確かだった。しかし、それでも、男がいるよりはいない方がマシだろう。僕はそう思った。
 「君は」
 と男が沈黙を破って言った。男はもう上半身だけになっていた。相変わらず麦わら帽子を手で押さえていたが。
 「自分が何をしているか、自分が何を間違えているか、もう十分に理解している。君にあと一つ足りないのはーー『愛』だ。この意味がわかるかね? 確かに、君は両親から愛されなかった。人はその生涯を、生涯の最初に受け取ったものを反復して暮らす。大抵の人間はそんなものだ。しかし、君は誰からも愛されなかった故に、誰かを愛さなければならない。そしてそれは人類ではなく、個別的な誰かだ。君はこの意味がわかるかね? 君の目の前にいる人々は決して、『人類』ではない。それは愚かで弱々しい個人なのだよ。しかし、人々は、その事を感じているが故に組織に、集団に逃げ込む。だが、君の愛は個別的であるべきだ。だから、君はーーーいいか。君は『誰か』を愛さなければならない。そしてその為には、まず自分を愛さなければならない。しかし、君達の世界で、自分を愛するというのは極めて難しい事だ。誰も彼もが、自分の不完全さにコンプレックスを抱いて生きている。彼らは様々なメディアによって『完全』を散々に見ている為に、自分が不完全だと否応なく思い込まざるを得ないのだ。しかし、彼らは根底的に自分というものを勘違いして生きている。完全な個人などこの世には存在しない。彼らは完全と不完全の意味そのものについて間違った観念を抱いている。ーーいいか、君。真実は、決して前方にあるのではない。それは『背後』にあるのだ。君は自分の裸身を見た時に、おそらくこの世界の真理を知る事になるだろう。そして、それにはまず、君が君を愛する事だ。そしてそれが直接、他人を愛する事になる。いいか、君が生きているのは、『今ここ』だ。君は、人間だ。いかに君が人間を嫌悪しようと、いかに君が人々にマシンガンをばらまこうと、それでも君は一人の人間なのだよ。例え、人々が認めなくとも、君は今ここに生きている一人の人間だ。定義は関係ない。定義などどうでもいい。いいか、君はーーーーー」
 しかし男はそれ以上言葉を続けられなかった。その時、男の消滅は男の顔にまで達したからだ。言葉は吐かれず、そして麦わら帽子だけが残った。帽子は音も経てず、砂の上に落ちた。
 僕は男の説教を面倒だと思いながら聞いていた。なんだよ、あいつは、と腹が煮えくり返ってもいた。しかし、その後、僕が取った行動は変なものだった。自分で後から考えても、妙な行動だったと思う。僕は落ちた帽子を拾い上げ、それを自分の頭に載せたのだ。
 そしてそれはおそろしいくらいによく似合っていた。真夏にTシャツではしゃいでいる少年がかぶる以上によく似合っていた。鏡がなくても、それくらいの事はわかる。
 そしてその時、風が一陣、ゴウッという音と共にひときわ強く吹いた。僕は風に巻かれた。砂で、視界が曇った。全てが一瞬見えなくなった。そうして、僕も消えた。


                             ※

 目が覚めると、僕は男の事は忘れていた。しかし、説教されたという事だけは感触として残っていた。そしてもう一つーーー僕は頭の上に手を置き、そして、
 「ない」
 と言ったのだった。現実に目覚めた僕の頭に、どこやらの麦わら帽子はもう存在しなかった。




(写真 skyseeker)

失敗


 最近、小説を書いてたのだが、百枚越えた辺りで挫折してしまった。何故挫折したのかはなんとなくわかる。しかし、この敷居を自分が越えられるかどうかわからない。

 今回は始めてまともに三人称で書くという事を試みた。三人称で書くという事は、人がどう言おうと、僕にとっては自己を客観視し、更にそれを分裂させるという行為である。一般的に使われている三人称は、元々、登場人物を『他者』として扱っている。他者としての登場人物はどれも、まるで、自分自身に興味がないかのように生きている。彼らは物語の中で様々な運動をするが、彼らはまるで自身の運動を知らない存在であるかのようだ。そしてそれは我々が我々を知らない、という事に対応しているのかもしれない。

 アインシュタインの相対性理論によって、それぞれの座標軸そのものが変化し、運動するものとなった。座標軸はそれぞれの存在に賦与され、それぞれが相対的な存在となった。アインシュタインは、ニュートンの古典的な科学観を保つ為に、それぞれの個別存在に相対性を与えた。それによって、全体の、ニュートン的絶対性は保たれたのだ。では、これと同じ事を小説に適用するとどうなるか。

 現代では、それぞれの個人の自意識は広がっている為に、各種の人間が、自己を、そして世界を知っている。そして世界を知っている人物が動くとは、どういう事か。それは、それぞれの人間の脳髄に刻印された宇宙そのものが相対的になり動き出すという事である。かつて絶対性とは、例えば、ヘーゲル、ルソー、マルクスのような少数のインテリのみがもてる世界観であった。あるいはフローベールやモーパッサンが人を見る見方もそうである。しかし、今や万人が、小マルクス、小ヘーゲル、小フローベールとなってしまった。ではそういう世界にあって、物語とは何か。登場人物が関係する世界とは何か。

 そういう事を僕は試みたかったのだが、途中で挫折してしまった。僕は登場人物を動かす事ができなかった。それぞれの(三人のキャラクター)人間の脳に世界が宿っている所まではなんとか書けた。しかしそれが運動し、一つの劇となり、終末を迎えるところまでは書けなかった。それは僕の純粋な力不足である。これを克服するのが何であるかは、未来の僕しか知り得ないだろう。しかし今の僕は今の僕として様々に努力しなければならないだろう。

 という事が今僕のしている事だ。自身を整理する為に近況を書いてみた。

以前書いた小説をアップしました

https://i.crunchers.jp/data/work/6672

http://ncode.syosetu.com/n6110cj/4/

やや長いです

現代における死



 今、小説を書いているのだが、正直小説なんてどうでもいいというか余りにも色々な事が頭に渦巻いていて、自分の中でもどういう形で表現していいのか、考えあぐねている。

 既存の小説の形では人間がもう描けなくなったという事は確かだと思う。難しい事はよくわかりませんが、小説だけは書けますーーーなんていう言い訳を僕はもはや信じていない。小説というのは人間を描く術であると考える以上、それは難しいものである。なぜなら人間そのものが難しいからだ。これが簡単に見えるのは、「小説に書く人間」というものが余りに類型化しているからだ。だから、多くの人はチェスの駒でも動かすのように小説の人物を動かす。そういう事はもうしたくない。

 現代においてーー大切な事は人間が観念化したという事実である。精神分析学の発達などもそうだが、要は精神が物象化したという事に現代の大きな特徴がある。例えば、メディアに出てくるタレントは、肉体労働としては大した事をしているわけではない。では、彼らはどんな労働をしているのか。彼らは笑ったり、怒ったり、怒鳴ったり、色々な話をする事自体を労働化しているのだ。つまり、それを対象化し、客観化し、疎外し、労働生産物としている。つまり、彼らは自分自身を商品としている。だとするとーーーマルクスの疎外理論を使うなら、この人物は自己自身から疎外されるという事になる。この人物はマイクの前で話している時、それが自分自身でない事を感じるだろう。しかし、自分自身ではない事を感じる「自分」とは何かという問題がまだ先には残る。

 自分が自分ではない、という事は現代においてはどういう問題なのだろう。営業マンを考えてみても、この人物が、自己自身から離れる事によるストレスは相当のものだと言える。しかし、この人物がストレスを感じている内はまだいい。この人物が、演じられた自己を、本当の自分と取り違えると、どうなるのだろうか。この時、おそらく現代に特有の悲劇(喜劇)が訪れる事だろう。人は自分をごまかしつつ、しかも、それは魂の底から奴隷化されている為に、自分が神か、王であるかのような顔をする事ができる。例えば、秋葉原の事件の犯人などはそのようなタイプではないかと思う。彼は頭の良い人物だ。おそらく僕などよりは遥かに頭が良いだろう。しかし同時に、自分が何故そうしたのかというその根底の理由については自分で内省しきっていないのではないか。しかし、自分のした事が、どうして正しかったのかという理由付けはその頭脳でいくらでもできる。ロベスピエール、スターリン、ヒットラーが悪の徒ではなく、正義の使者だという事は偶然ではない。彼らは正論を、正義を述べた。そして正義の為に全てを破壊したのだ。

 現代においてはあらゆる場所、あらゆる精神すらが労働生産物のような物象となったと仮定できる。我々にメディアは欠かせないものとなっている。誰しもが、誰かの視線によって対象化される事を免れない。この世界では人々の視線は王のようなものである。メディアで騒がれた人間が自殺する。彼は何に追われて死んだのか。人々の視線に追い回されたためか。しかし、人々はいつも無垢の、正義の使者のような顔をしているのだろうか。彼らの正義面はどこで破れるのか。…掲示板の上では彼らは、いつまでもどこまでも正義でありつづけ、そして勝利し続けるだろう。しかし、現実はその先にあるだろう。人間はまだその肉体を脱ぎ捨てたわけではないのだ。人間がこれから機械そのものに化す日が来たとしても、人はその機械に、かつての生身の肉体と同じような、痛ましい肉体を見る事だろう。人は生きている限り、肉体から逃れられぬだろう。なぜなら人は脳髄だけで生きているわけではないからだ。人は痛む事によって知る事ができるが、これは知覚だけの問題ではない。概念はおそらく、存在を持たねばならない。僕の考えではーーー内臓その他の諸器官は単なる「機能」ではない。それは機能であるが故に、同時に心的な性質を持つだろう。僕の言っている事が神秘主義であるなら、それでも良い。だとしたら、人はいつか脳髄のみで生きる事ができるだろうか? では、その時、また新たなロボトミー手術が現れるのだろうか。

 僕は無知な人間である。また、社会的には何の値打ちもない人間である。しかし、僕は一人の人間である。そして不思議な事だがーーー僕は自分が一人の人間であるというその事実によって、人間達の構成する世界から疎外されるのだ。それは事実としてある。演技する事をやめた人間にスポットライトが当たる事はない。彼はもはや演者ではない。人は常に、観客と演者の二つに分裂する。そしてそれは不思議な事に、自己の内部においても分裂するのである。人は他人を見るように、自分を見る。人はいつしか気付くだろう。自分の表情、自分の意思、その感情の全てが、自分が作ったものではなく、他人に強制されて作られたものだという事、そしてそれこそが自分が望んでいたのだと絶えず自分で自分を騙し続けていた事を。

 これらの事がどういう意味を取るかはまだ謎である。現状では、人々は観客席に腰かけて、壇上の踊りを余裕の表情で見ている。その時、人は二つに分割される事になる。この時、人は対象化されており、そして互いに疎外されている。人はいつしか、本当の自分を見つける事ができるのだろうか。あるいはそんな存在などありはしないと考えた方がいいかもしれない。しかし、我々の空虚感は残るのだ。そして我々がIPS細胞によっていかに若さを保とうと、我々に死はある。そして死というのは残念ながら、実存的なものである。死がある限り、我々は我々のごまかしを炙りだされ続ける事だろう。死は我々を窮地に、極限まで追い込むが、しかし少数の人間は死をバネにして前方に飛び出す。世界がよくできた娯楽である、という現代人の悟りを、死は一撃にして粉砕するだろう。だが、その粉砕を先に自己の内面に持った人物はおそらく、死を越えて、その先へ進むだろう。そしてそれは「生の賛歌」などという腑抜けた概念ではない。それは生と死を同時に越えた、ある制作物、ある行為、そのようなものだ。それは生と死を同時に越えた何かなのだ。僕はそう思う。

 カミーユ・クローデルの写真





 僕が彼女の写真を見たのは偶然の事だった。それは本当に、ちょっとした偶然だった。
 僕はインターネットの海をさまよっている内に、その写真を見つけてしまったのだった。「彼女」は全ての天才がそうであるように、痛ましい表情をしていた。その目は透明で澄んでいて、そして深い悲しみを湛えていた。全ての天才というのは皆目が透き通っている。そして彼らはいつも、現実の向こうにある『何か』を見ているような瞳をしている。その事が、肖像画でも写真でも、いつでも歴史と時間を通して証明され続けてきたように思う。

 今、僕は一人で空を見上げながら、何を思うか。それはーーーいや、もうやめよう。僕はもう30才なのだ。青春は終わった。玻璃の目は膠質となった。全ては砕け、透き通ったガラス片となって、辺りに砕け散った。だから、僕は自分の恋を捨てて、自分の現実を掴む事にしよう。あのアルチュール・ランボーが詩を捨てて、アフリカに旅したように。僕には僕のアフリカがあるだろう。生きるとはおそらく、全てを捨てる事だ。そして残る物はーー何一つない。誰も、僕の名前を呼ばないだろう。

 だが、今、僕は最後にーーー彼女の名前を呼んでおこう。たった一枚の写真で、僕の青春の全てとなった人。その名は「カミーユ・クローデル」だ。


 芸術は「醜」を含む






 これだけ「うまい・へた」=「よい・わるい」の基準となると、僕としてももう言う事が全く無いような気がする。しかしすでにゲーテの時点で「最近のピアニストは自分の技術をひけらかすために、演奏会の曲を選んでいる」と嘆いていた。もしかしたら、いつの時代でもこんなものなのかもしれない。

 芸術というのは必ず、「醜」というものを含んでいる。含まざるを得ない。その事を僕に教えてくれたのは神聖かまってちゃんである。人間というのは、醜くうごめく内臓を持ち、大便も小便もし、また性行為もする汚らしい生き物である。そして、上っ面だけの、博物館とか展覧会向けの芸術はこの「醜」の部分を省いて、うわべだけの綺麗な部分を取り出す。しかし本物の芸術は「醜」をも含んで、それを一つの表現へと、形式へと昇華させる。これは芸術という領域を広く見渡しても、必ずそうであるように思う。人間というのは重たいもの、醜いものを含みつつ、前方に歩こうとする存在である。だから、その全存在を反映させるのが本当の芸術である。僕はそう思う。

 しかし僕はこう書きつつ、自分自身が滑稽である気持ちに襲われてしまう。それは何故だろうか? それはおそらく、人々にとって芸術は、あるいは重々しい哲学や観念は必要でないからだ。人にとって、その人の全存在を放射する表現というのは余りに荷が重すぎる。彼らは人生において、芸術にはもっと軽い役割を期待する。あるいは彼らの生そのものも、それほど重々しいものではないのかもしれない。人は生きる事は辛い事、重たい事だ、と言う。しかし、その口ぶりはいかにも軽い。僕は人の言葉の意味など信用した事はない。僕はいつも、その人の口ぶりだけを見てきたつもりだ。その人の口ぶりは、その人の全存在を表すだろう。深遠な真理を、口まねだけでどこかの小僧が語る事はたやすいのである。

 最近、僕は自分自身がどのような人間であるか、という事に気づきつつある。それはあるいは僕が年を取ったという事なのだろう。そして当然、自分に気付くとは他人に気付くという事でもある。僕は昔から一貫して、重たいもの、意味のあるものを追い求めてきたような気がする。そしてそれが今年ぐらいから、やっと形になってはっきりと目に見えるものになってきた。これは僕の長年の間違いだが、僕は人々も僕同様、人生において何かを、人生を綺麗さっぱりと解決できるような、そういう最終的な解を探し求めているのだと心のどこかで思ってきた。しかし、それは間違いだった。それは完全な間違いであった。人々は何かを求めている、というよりは、むしろ何も求めない事を求めているのだ。だから、世界にはこれほど、人生という長い時間を細切れの瞬間に切り裂くコンテンツが溢れている。人々は人生に挑み、そこから一つの解を引き出そうとするより、むしろ、人生という悪夢を一片の良夢に変えようと必死である。そしてその為にこの世界が生み出されたと言っても過言ではない。そしてその結果、この世界はいつも見えない悪夢に追われている一人の情けない男ーーーそんな像へと変化しているのではないか。人生というのはよくわからないものである。それは未知なものであり、複雑なものであり、重たいものである。人生を簡単に考えてみる事はできる。誰にでもできる。人生を数字に、金に、快楽に還元する事はできる。簡単である。それは意識によってそうなされる。そして、それが成就したかのように見せかけるシステム装置はこの世界の至る所に設置されている。人はフェイスブックの「いいね!」を押す。感動した、と言う。良かった、と言う。涙を流した、と言う。しかし五分後にはもうその事は忘れられている。つまり、彼らの「いいね!」とはあくまでも、お客さんが映画館の中の登場人物を見て「いいね」と言ういいね!であって、決して、それ以上のものではない。つまり、そこに自分はないのだ。そこには常に、明確に引かれた主観と客観の線がある。感動した、良い、良かった。人々は何を言っているのか。君は一体、何を言っているのだろう? 僕は疑問に思う。観客席にいて、暗がりの中で映像を眺めている人々は自分の肉体の存在を忘れている。痛み、傷つく事のできる自らの肉体を完全に忘れている。僕としてはそいつに、太い針を打ち込んでやりたいと思っている。人々の麻酔された肉体に、感覚がある事を教えてやりたいと思う事がある。…しかし、よく考えれば、最初に麻酔されていたのは僕自身だった。麻酔された僕の肉体、その感覚の不在にある日、神聖かまってちゃんという爆弾が飛び込んできたのだった。そしてそれ以来、僕は目が覚めたのだった。その瞬間人々は、僕が「狂った」のだと感じたが。

 また長々と書いてしまったが、ここで言いたい事は良い芸術は「醜いもの」を含む、という事だ。僕はカラヤンの音楽が好きではない。彼は本物の意味での一流のアーティストではないと僕は感じている。それは結局、フェイスブックの「いいね!」と同じラインに属している。人はカラヤンを聞いてうっとりとする。しかし、それだけの事ではないか。僕は鈍重なフルトヴェングラーの方が好きである。そして時に人生というのは、醜く重たい足取りを持った者の方が、翼を持ったものよりも遠くまで歩く事ができる。そしてその真理は人々の人生が絶えて後、明らかになる事であろう。

死から見る現在




 例えば、『婚活』というものが流行ったりする。そういう事もあるのだろうな、と僕は思う。今は気体の中の分子のように人間は様々なものから遊離している存在であるので、これが何かと結合しようとするのは当然の事態と言える。しかし、一体、彼らは何を元に結合しようとしているのだろうか。

 我々の社会は自由であり、また、それなりに平等と言ってもよい。しかし、我々は互いに、何によって格差をつけるのか。金か。顔か。生まれか。地位か。もしそうなら、僕がイケメンであるがゆえに人と付き合えるというのなら、僕がやけどで顔を失った時、僕の全ての人間関係は離散してしまうだろう。それでも、人と人とのつながりは在るのだろうか?

 言っておくが、僕はこんな事を真剣に考える事を君にはおすすめはしない。ただこういう事を僕はつい考えてしまうという、それだけが僕にとって何かであるという事だけだ。もし君がこんな事を真面目に考え出したら、途端に君は不幸な人間に陥ってしまうだろう。世の中の幸福な人々は全て、物事の深みに入りまない事を条件として幸せであるのだ。しかし、その人間の中には否応なく、その深みに引きずり込まれる人もいる。何かの因果で。するとこの人間は言い訳を始める。自分がそうなり、他の誰かになれなかった、その言い訳を。

 君は金を払って、大金を払ってでも、子供時代に戻りたいと思うだろうか? 君は戻って、どうすると言うのか? 今と違い勉強して良い大学、良い就職先に入ろうとするか。もっと多幸な学生時代を送る為に、念願の制服デートを始めでもするか?
 
 僕は昨日に戻りたいと思わない。もし、僕が子供時代に戻ったならば、僕はまた似たような道筋を描いて今の僕に戻ってくるだろう。僕は個別的な現実から始めて、本質を得ようとするだろう。

 いいか、君に聞こう。君は誰だ? 誰なのだ? 君はどうして、自分自身である事をそんなに拒否するのだ? 君が思うのはいつも、遠い過去か、明るいはずの未来だ。だとしたら、今そこにいる君とは何なのだ? 何故、君は君自身と和解しないのか? どうしていつも君は君から逃げ出すのか?
 
 そして世界にはその逃避行を許す、ほとんど無限の言い訳が用意されている。君がもし何かを始めるなら、君は全ての言い訳を拒否する事から始めなくてはならないだろう。だから、つまり、自分自身であるとは破滅的に辛い事なのだ。しかし、そこに真の現在がある。君はこれまで一度たりとも、自分自身の姿を自分で覗き込んだ事はなかった。だからいつも、君は他人だった。だがしかし、君ももう一人の人間にならなくてはならないだろう。

 何故って、君もいずれは『死ぬ』のだから。

Who? / 罠

Who? 


誰しもが忘れている事を

誰かがそっと人々に告げるなら

その人は、すぐに忘れられてしまうだろう

まるで、月の彼方に飛んでいった

「架空のオペラ」の男のように


君は誰だ?






 罠


もし雨が降ったら

あなたは必ず外を見て下さい

本当に雨が降っているかどうかを

確かめるために

天気予報士がタッグを組んで

あなたを罠にかけていないかどうかを

確かめるために


 形式を越える音楽  ー神聖かまってちゃんとD猫殿下ー


 この二つのアーティスト(神聖かまってちゃんとD猫殿下)には一見、何の共通性もなさそうに見える。神聖かまってちゃんはロックバンドだし、D猫殿下はピアニストである。神聖かまってちゃんの音楽技術は拙劣なものだし、殿下のそれは達人的なものだ。

 しかし、にも関わらず、この両者の音楽に僕は心を打たれる。それは何故かと言うと、この両者共に、彼らの表現意志、表現意欲がその形式を打ち破っているからだ。彼らは共に、自分達の歌を歌う為に、それ以前の形式を破壊する事をためらわない。彼らは叫ぶ。彼らは歌う。ある者は自らの声と、歪んだギターで。ある者は、細かく調整され尽くしたピアノという楽器によって。しかし、どちらも、それらの音楽が「過去」に属していた形式を破壊し、「現在」たろうとする。彼らは過去の形式を破壊し、何より、この今、現在というその瞬間に極限的に集中する。そしてそこに始めて、未来への扉が現れる。そしてそういうものが、芸術の本質と呼べるものなのだ。

 一般に「デザイン」と「芸術」との両者は違うものとされている。何故だろうか。それは、デザインというものには必ず、ある種の反復性があるからだと思う。デザインが、例えば、ポロックのような芸術作品であってはならない。芸術とデザインとは、微妙に重なり合っている領域であるが、しかし、デザインは過去の形式を反復する要素が芸術よりも強い。過去を反復する要素が強い方が、我々の感性と認識に大して安定的である。それは僕らの感性を脅かしはしない。それは僕らの積み上げたてきた「過去」を壊しはしない。だから、それは見ていて、聴いていて、安心できる何かである。しかし、デザインが反復だけだと飽きてしまう。だから、デザインは常に、過去の中に巧妙に、現在、そして未来を薄く溶かして入れておかなくてはならない。だから、デザインとは常に、新しいものを標榜した古いものである、という運命を背負っている。そしてそれが芸術になろうとすると、必然的にそれは世界から孤立してしまう。だから、デザインと芸術とは違うものである。芸術とはもっと、孤独なものである。

 YOUTUBEにあるアーティストの動画を適当に開いて聴いてみれば、大抵の場合、そこにある類形性が認められるだろう。それは必ず、そのカテゴリや分野に閉じこもっている要素が感じられるだろう。そしてそれはかなり優れたアーティストですら、そこに閉じこもっている何かである。もちろん、ある程度以上のアーティストは、そのジャンルを部分的には破壊する。しかし、それを全面的には破壊しはしない。ある分野、ある反復的な形式を完全に破壊する事には、勇気がいる。音楽にもっとも必要な才能が「勇気」だと言えば、人は笑うだろう。絶対音感? 三才からのピアノ? しかし、僕は言う。本当の意味で天才になるには、その者に、世界から孤立して自己自身となる勇気が必要である。僕はそう思っているし、常々そう感じている。この世界の中で孤立する事には、おそらく、死ぬより辛い何かがある。にも関わらず、それをくぐらなければ人は真に生きる事ができないのだ。

 神聖かまってちゃん、そしてD猫殿下の音楽には絶えず、過去の形式を破壊していく何かがある。例えば、彼らが、目の前にある明確に決められたリズム、音程、音量などがあるとしても、彼らは自分自身の支配者であるので、彼らはそれをたやすく越えていく事ができる。これは繰り返して言ってきた事だが、彼らは、音楽につかえている従者ではない。彼らこそは(例え演奏の間だけとしても、その一瞬だけだとしても)、音楽の支配者なのだ。彼らは音楽を道具にして、それを調べとして、自らを奏でる事ができる。しかしほとんどのアーティストはむしろ、自らが音楽によって「奏でられている」存在なのだ。

 従って、両者は僕は、今のアーティストの中では傑出していると思う。今述べた事が、僕がこの両者を褒めるその根拠だ。この両者にもおそらく、それぞれに欠点がある事だろう。普通の人同様に。しかし、彼らに欠点があろうとなかろうと、彼らがその楽音、シャウトによって「現在」、そして「未来」をこの世界の中に顕現させたという事だけは確かだ。大抵の人間は、芸術に仕え、学問に仕え、会社に仕え、人に仕えて生きている。そこに自由はない。人は、一般に、自由を求める時も、恐れのあまりに集団であり続けようとする。だから彼らにはいつまでたっても自由は手に入らない。自由とは孤独のその先にあるものである。過去の形式を破棄する恐怖に耐えたものに与えられる恩寵である。だから、この両者はその一線を越えたのだ。彼らは音楽によって自由になったのであって、彼らは音楽によって不自由に、苦渋に満ちた表情にさせられたのではない。彼らは、日常では自分自身ではない、そのような存在を音楽の中に解き放つ事によって、自分自身となったのだ。つまり、彼らは音楽によって始めて自己を完全に表現し得たのだ。

 芸術=表現という形式が正しいのであれば、どんな人間にも自己がある限り、全ての人間が天才になる余地があると言える。そしてこの両者はそうなった。しかし、人はこれからも形式の前でとどまり続けるだろう。そしてこれから先も、ある種の孤独な変わり者達は、自らの勇気と技術だけを武器に、この一線を越えるだろう。そしてこの線を越えたものだけが、新たな形式の創造者となるだろう。だから、本当の意味での形式とは、形式を破壊し自己を露わにした人間にだけ与えられる褒章のようなものなのだ。

「戦闘準備」

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「戦闘準備」




今日という日がまた風に吹かれて

一つの昨日となる時

人々は街路で、そしてインターネット上で

一体、どんな表情をしていると言うのか


各世代による対立、性別による対立、そして人種・国家による対立

自分達の責任を自分達の知らない誰かに取らせようともがいている内

僕達の「自分自身」は少しずつ欠けていく

そしてそれはとうとうゼロになってしまう


君がどれだけ賢いかはよくわかった

君がどれだけ頭がよく、君がどれだけ優秀で、君がどれだけ正しいのかは

もう十分にこちらにも伝わった

しかし、たった一つこちらに伝わっていない事がある

それは君が何を感じ、何を望むのか、という事

君はこれまでに一度でも自分自身に触れた事があるのか?

君がビジネスに取り組むのは君の幸福の為

君が小説を書くのは最高の小説家になる為

だとしたら、君の望む事は上等の馬券を買う事と何が違うのか?

君とは一体、誰だろう? 全てが風に吹かれていく中で

君の幸福の概念だけがどうして

この時代の風の中に残るというのだろうか?


…おそらく、詩人とはシステムと時代が置いていった残滓をいつも

人よりも一歩遅れて歩く事により

すくいあげる事ができる者の事だ

それで詩人は下ばかり見て歩いている

その姿を人は随分と馬鹿にしてきたが


君は誰だ?

君は一体、何を望むのだ?

君が口を開けば、君の正しさと君以外の人間の過ちが証明される

しかも、それはこの世界のほとんど全人類が毎日のように繰り返している事なのだ

その中にあって

「本当の君」とは何だ?


今日、僕はJKとJDが男の顔の論評会を開いているのを見た

今日、僕はツイッターで愚痴っている六千万人の人を見た

今日、僕は本当に色々なものを見た

そしてその中のどれ一つとして

僕に関わりあるものはなかった

どれ一つとして


君とは誰だ?

君とは一体、誰だ?


…さて、君はまず

歯を磨く事からはじめなければならない

あるいは髭を剃る事から

君は今、君が笑っている全てのものから いずれ

笑われるようになる その時が来るまで 君は今から

戦闘準備をしなければならない

君の闘いはまだまだこれからだ

君はこれまで世界という名の台座に乗って

他人におんぶにだっこで生きていた

しかし、これからはそうはいかない

これからは君が誰か、一人の人間であるか否かが問われるだろう

そこではあらゆる肩書もあらゆる社会的地位も役立たない

君がどこに所属するどこの者であろうと

いずれ君は本当の君自身に出会わなければならない

その時、君はおそらく、

ソクラテス以降の聖賢達がこの世で一体何を追い求めてきたのか、知る事になるだろう

そしてそれを感じる日が君にとうとう来ないというのなら

君はこの世でたった一日たりとも

真に生きた日を持たなかったという事になる


だから

君は始めたまえ

明日に向かっての「戦闘準備」を

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