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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

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色々とやりたい事が溜まっていて、なかなかに忙しい。しかし、そのどれ一つとしてこの社会が求めているものはない。僕が勝手に一人でやっているだけである。

 今色々な事を考えているし、今考えている事は色々な方向に発展できる気がしている。それはどういうものかと言うと、我々の社会と個人のあり方についての事だ。ドラッカーは、全体の社会システムと個人の生きがいとか、そういう倫理性が一致する箇所を探し求めた。そしてそれがマネジメントというキー概念の発見へとつながった。マネジメントとは単なる経営手段ではなく、全体主義とは違う形で、我々が社会制度の中でいかに生きるべきか?という問いを持った時に見えてくる、ドラッカーなりの一つの答えなのだ。ドラッカーはナチスと社会主義に挟まれた世界情勢の中に生まれ、そうでない方向へと自分自身の資質を開花させていった。

 僕はディレッタントであるので、ドラッカーのように社会的な方向性は取らない。それは芸術的、あるいは宗教的な方向を取るだろう。しかし、それは最後には、ドラッカーのような、社会、経済面から個人の倫理性を考えた人の答えと一致するだろう。また、そういう所に行かなければならない。では、そこまで行くにはどういう道筋があるか。

 そういう事が今僕の考えている事であって、やりたい事である。現状の文学・芸術批判はもうそれなりにやったので、これ以上やっても不毛なので、もうあんまりやらないようにしようと思っている。(とはいえ、少しはやるだろうが) 正直に言うと、ネットを見ると、色々くだらないなあと思う意見がたくさんある。相変わらず、人はぐだぐだと言っている。そして物事の本質には飛び込まない。人は物事の周りで散々、あれはああだ、あれはこうだ、と言う。しかし、「それそのもの」にはならない。何故かと言うと「それそのもの」になるのは怖いからだ。プロは「自分はプロだぞ」という顔をして、素人は「自分は素人なんで」というおどおどした顔をする。どっちも同じ事である。一人の人間として、今実在して生きている人間として何を言うか。それが一番大切なのに、ほとんどの事は、立場から物を言っている。立場から色々な事を言っている。僕はネット上の人格くらいは一人の人間として物を言っているつもりでいる。何故かと言えば、現実では僕はあまりに多くの鎖に繋がれているからだ。現実の僕は僕ではない。僕の文章を読んだ後に、僕に出会ったとしても、君が出会ったのは僕ではない。僕は今ここーーー言葉の中に生息しているのだ。音楽家が音楽の中に生息しているように。

 というわけで僕は色々な事をしている。自分のしている事が何なのか、という意味付けをするのに、僕以外の他者の力が必要になる。個人ができる事は人生のコースを走り切る事だけである。スタート地点でぶつぶつ批評している人間を追い越し、僕は走って行くだろう。そういう事だけは神聖かまってちゃんから学んだ。そしてその走りの意味は僕以外の他者が、はじめてはっきりと、僕以上に力強く認識する事ができるだろう。

 人間の成長というのはおそらくそういう所にあるのだろう。一人でなにもかもやろうとする、あるいはしてしまうーーーしかし、それはある時間的観点からすれば、ほんの些細なケシ粒のごとき存在なのだ。パスカルの予言はおそらく正しいのだろう。我々はいずれ、ミクロの世界の中に、この宇宙の構造以上に複雑な世界を発見するだろう。真理がある点で止まるとは考えられない。しかし、それが無限であるとも言い切れない。我々ができる事は、自分の限界を知る事、そしてその知った自分の限界を絶えず、忍耐と努力によつて拡張していく事だけ、である。それ以上の事は神の仕事である。我々人間の仕事ではない。
 
 という所で、この文章は終わろうと思う。また自分のすべき事をやろうと思っている。

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やがて来る(はずの)83歳に向けて




 ドラッカーの「ポスト資本主義」という作品はドラッカー83才の時に書かれた本だそうだ。そう考えると、ドラッカーの信じられない慧眼と若々しさが身に染みる。

 最近、(馬鹿馬鹿しい話だが)自分の育ててきた思考とか知性とかは、そんなに馬鹿にならないものじゃないか、という気がしてきた。こういう感慨は実は、太宰が三十くらいの年に漏らしている。太宰は「こんな男がこんな所でごろごろしているのはもったない。冗談で言っているのではない」みたいな感じで書いていたと思う。僕もそういう感じが自分に対してしてきており、「なかなかやるじゃないか」などと自分で思ったりもしている。要はうぬぼれてきたという事だ。

 …とはいえ、真面目な顔をして話すと、人間の知性には様々な方向性があると考えられる。例えば、ケインズ経済学に対するドラッカーの批判は極めて鋭い。それを僕なりに解釈すると、知というのが現実という基盤を離れている、というそういう批判に見える。ドラッカーというのは誰よりも、極めて深い意味での現実主義者だった。彼が戦ったのは経済的現実であったが、その向こうに見えていたのはおそらく、マルクス、ルソー、ヘーゲルなどの、近代の、極めて強固な「真理主義者」達であった。彼らは真理によって、生きている個人を閉じ込める事に成功したかに見えたが、そののち、実存主義者達がその殻を破った。ドラッカーもまたキルケゴールという実存主義者から影響を受けている。ドラッカーは現実に対して流動的に自らの知性を柔軟に動かしている。だからドラッカーの目からは世の経済学者達は、現実を蔑ろにした空疎な数学理論の塊に見えたのだろうと思う。この事にもう少しつけたすならば、経済理論は常に、経済外の現実によって撹乱され、干渉を受ける。にも関わらず、相変わらず経済学者達は、その現実を自分達の理論外のものとして、理論の内に取り込もうとはしなかった。したがってそこには狭隘で、学者的で、なおかつ無価値な無数の理論が生まれる事となる。おそらくケインズは当時、経済学の絶対性を再び覚醒させたかに見えたのだろう。しかし、それに対してドラッカーは強烈に批判する。現実は常に理論を越えて存在する、という点におそらくは、ドラッカーの思想の核が存在したのだろう。

 人間の知性というものも、まあ様々な方向を取る事ができる。ここでは大仰な事は言えないがーーー僕は二十歳の年齢から自分で勝手に勉強をしようと決めて、独学で勉強してきた。従って、僕の勉学は、他者に対しても、また社会的価値観においてもほとんど何の意味もないものとして存在してきた。僕の勝手な学びは、社会の価値観とか学歴とか資格試験と一切の関わりがないし、これまでそれで金儲けをした事も、自分が社会において得をしたという事も全くと言っていいほどにない。しかし僕がそれを見捨てず、それを続けてきたのは何故だろうか?、と考えると、自分でも滑稽だし、笑いがこみ上げてくる。どうしてこんな事になったのか。どうしてこんな無益な事をやってきたのか。しかし、おそらくは、知性、知識というものも、この社会現実に則したものと、そうでないものとに分割できると考えられるならーーー僕のやってきた事はそう無意味ではなかったと言えるだろう。なぜなら、現在、知識、知性とされているものは現状にそぐわないものがその大半を占めているからである。芥川賞を取った作品を読むと、そこにはありもしない風俗が書かれている。あるいは文学らしさを出す為に、そのほか全てーーーというより、最も大切なビビッドな僕達の存在を忘れている。そしてその反対側には、通俗的な、僕達の薄っぺらい、メロドラマみたいな作品が流れている。僕はその二つの流れの間で長い事逡巡し、その二つでない道を探ってきた。そしてようやく、そこに一つの方向性を見つけつつある。あるいはそのような予兆がある。それが哲学になるか文学になるかは分からないが、とにかく僕という人間はその方向を辿る他ないようである。

 自分の来た道を振り返ると、そこには何らの道がないという事がわかる。これは現代人共通の問題だろう。僕に青春はなかったし、「青春の不在」以上の青春はなかった。僕に道はなく、ただ混沌と泥濘があるばかりだった。これは現代人に共通の事例なので、誰も思い当たるのではないかと思う。ふと気が付くと、誰もが年を取っている。しかし、年齢に見合った成熟さが自分には全く欠けている。年を取って、急に何かの宗教に入ったり、イデオロギー団体に入ったとしても、それで救われはしない。ドラッカーの言うとおり、憎悪は絶望を解決しはしないのである。我々には時間という最も大切なものが欠けている。この世界はその時間の場所に、快楽という現象を置こうとするが、それは結局、時間を生み出しはしない。それは時間から逃げ出すための方便に過ぎない。そしてこの無為そのものを僕らは、自分達の人生そのもので感じ取っているのだ。そういう事が現代の問題であると思う。また、ドラッカーが取り組んだ、疎外された個人と社会との結びつきとしての倫理性、時間性もその辺りに問題がある。こういうことはまた色々な形で展開していきたいと思う。僕もドラッカーのように83歳になった時に、もっとも若々しい代表作を書きたいものである。

学歴についての思考


 ドラッカーが「断絶の時代」で壮烈な学歴批判をしており、学歴大嫌いな僕も思わず引いてしまうくらい攻撃していた。

 学歴に関して言うならーーーというか、社会全般に対して言うなら、今は色々な事が形骸化しているように思う。仕事の上で前提とされている知識と、実際に仕事に必要な知識が全く合致していない。僕の仕事先に新入社員の女の子がいるのだが、話していると、「何時に誰が何の目的で来るのか」みたいな基本的な事がわかりずらいと感じる。彼女は優秀な人なのかもしれない。勉強ができたかもしれないしできなかったのかもしれない。(僕よりはできただろうが) しかし、実際、社会に出て必要なスキルというのはそういう地味なものだったりする。確認を怠ってミスが出る。部下の誰々のある種の感情に気づいて、先回りしてケアしてやる。そういう事ができればいい上司なのだろう。しかしそれは学校では教えてくれない。

 先日、ギャルが勉強して慶応に入ったみたいな本が書店に置いてあり、こういう本が未だに売れている事に不思議に思った。(表紙の女の子だけは眼力があっていいと思うが) 世間の人間は未だこういうわかりやすい物語を欲しているのだなと思う。わかりやすい物語と言えば、「永遠の0」とかもそうかもしれない。この社会現実というのは、僕の語彙で言うなら、物語なき社会である。過程がなく、ただ結論だけがある。誰でもどんな情報も得られる。苦労して何かを得る、というより、すでにある知識を何かに適用するという行為のみが存在する。人は社会思想に合致した行為であれば、犯罪行為ですら認可するだろう。だが、人は社会思想に合致しない独自性だけは、絶対に許しはしないだろう。今はそういう時代だと思う。

 今の十代の学生からしたら、学校の勉強なんか馬鹿馬鹿しいと思う。勉強する事の意味を考えると、馬鹿馬鹿しく思うのが普通であると思う。僕は中学の時に、ケインズの均衡理論について教えられた記憶があるが、ケインズについて学び、シュンペーターについて学ばないのは何故かと言うと、それに大した意味はないように思う。源氏物語を原文でのろのろと読む事はやらされるが、あんなものを一つ一つ調べて読んでいてもつまらないであろう。源氏物語には近代小説的な完備された要素があるので、現代人には現代訳でまずその良さを伝える事が大事だと思う。こういう事について、受験勉強は答えを与えてはくれない。だから結局は自分で学んだ方が早いという結論になってしまう。まあ、本当に良い教師に出会えた人は幸運だろうが、そんな人はそう多くはないだろう。だからそういう意味では、書物というのは最高の教師とも言える。パスカルから、ソクラテスから、夏目漱石やドラッカーからいかに僕達は多くの事を学べるか。理系の人はおそらく最新の学説というものがどうしても必要なのかもしれない。そういう人に対してはウェブで最新の論文が見られるようにしてあげればいいんじゃないかと思う。知識とは一般化する事が大切である。何故かと言うと、社会のどこに、未来のマルクス、未来のドラッカー、未来のアインシュタインが転がっているからわからないからである。

総体性の時代


 おそらくこれからは総体性の時代になると思う。情報を得るより、捨てる方が大事になってくる。また得た情報を組み合わせる事も大切になってくる。

 今テレビに出ている学者や予備校の先生なんかには僕はなんの期待も持っていない。今僕はブロガ・エニアグラミカと、手回しオルガン弾き氏のブログの二つをわりと真面目に読んでいる。この二人が似ている点は特にないのだが、しかし、二人が総合的であるという点は全く一致している。そしてそれは、インターネットで様々な情報を横断領域的に得る事が可能になったという社会の基本的条件に一致した、新しい知のあり方である。この二者は、それぞれに、現代の雑多な情報を、彼らの個性に従ってきちんと把握し、そしてそれを一つの意見として考える事ができている。この二者は社会的に無名かもしれないが、こういう人達がおそらくは明日の知を作るのだろう。そしてそれはネット社会という、多様な知の世界においては、当然の事であるのだろう。また、それは明日の当然とならなければならない。


政治論争を見て


在特会の桜井誠という人と、橋下徹の論争みたいなのを今ネットで見たが、なかなかに面白かった。でも、この「面白かった」はそんなにいい意味ではない。

 こういう事について言及すると、頭に血をめぐらした誰彼がありがたい正論をコメントしてくれ、かなり面倒なので、簡単に言及しておく。現在では劇が現実となった。芝居が事実となった。役者こそが真実の人間であり、真実の人間は芝居の外にあっては存在しないものとみなされる。そういう現実を改めて確認した。これから、世界はこの滑稽な芝居を中心に進んでいくだろう。そして歴史を学ばない者は過去の歴史の悲劇を、その身をもって再現する事となるだろう。

 ニコニコのコメント欄には「橋本が逃げた」とか「逃げない」なんてコメントが見られた。ナチスが興隆した時、ドラッカーは、人はナチスを不合理ゆえに信じる、と看破した。我々は今藁をもすがる思いで生きている。従って、我々にはこの藁を、巨大で安心できる巨船のように見せてくれる魔術師を必要としている。僕の予想では、現行の「活躍」している人達であるかないにか関わらず、魔術師は必ず現れるだろう。そして歴史はまた元のように、この魔術師の嘘を暴く事だろう。その時、我々は自分達の裸身を見ざるを得ないだろう。

 これから、信じられないくらい馬鹿馬鹿しい事が真実となって大通りを闊歩するだろう。人々のこれまでの常識が拒否してきた事が、明日の常識となっている事だろう。過ちは、過ちであるという理由によって人々に愛される事だろう。悪は、悪であるという理由によって正義となるだろう。そしてそれは最新の社会システムを柔軟に活用するだろう。

 にも関わらず、自然はそこにあるだろう。「国破れて山河あり」 とはよく言ったものだ。国が破れても山河はあるだろう。人の耳目が過ちを真実だとしても、なお、人の存在はその真実を希求し続けるだろう。 人は、自らの脳天にピストルを打ち込む事によっても、結局は、真実というものに出会わなければならないのだ。いつかは必ず。

神の涙


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我々の音楽は

我々の魂の

ひとかけらなのだろうか?

インターネットの情報の洪水

その膨大さの中で僕らが途方に暮れても

誰も僕らを咎め立てはできないだろう

「新入社員」が大人になる過程で、精神を病んで

遂に首を吊ったとしても

それは僕の知った事ではない

僕もまた目の前の死のハードルを乗り越えてきたわけだし

気が狂いそうになった事もあったのだ

何故救えなかった、何故誰も手を差し伸べられなかったという人達は

彼ら自身が人を崖から突き落としている事を知らない

彼らが無垢な顔をしていられるのは

犯行の瞬間が社会システムによって巧妙に隠されているからだ

従って僕は自分が他人を奈落に突き落とした罪人であると

ここに告白する

もちろん、僕も他人に突き落とされてきたんだけど



そして、さて目を上げて青空を見ると

そこには古代から変わらぬ光が渦巻いている

もし、僕達人類が明日全滅するとしても

全てはきっと元のままだろう

しかし、一つだけ残念な事は

人類が消えた後、その事を悲しむ生命がいないという事だ

苦悩できる生物ーー人間ーーこんな面白いものを

神が放っておくわけがない

だから、おそらく太陽や地球と同じように

僕らの魂も自転しているのだろう

そしてその不在を嘆くのおそらく神ーー

神は、かつて僕らが神が死んだのを悲しんだ事を覚えていてくれて

そして今、その事を思い出して

それで神は僕達に涙を流してくれるのだ

ほら、今、月の横を通った一筋の流星

あれこそが「神の涙」だ

 自分に



 人間にとって人生とは過ぎ去るものらしい。若年も、老年もまた速やかに去る。だから、おそらくはいつか、人類もこの地上を去るだろう。しかし、その後に虚無が残るとは限らない。人が消えた後に虚無が残るとは、限られた人間主義のなせる思考の技だ。僕はそうは思わない。

 僕という人間が何の社会的地位もなく、金もなければ、友人も彼女もろくにおらずこの地球に存在しているのは何事だろうと自分でも思う。そういう事は全くどうにもならない事であって、また、どうにかするべき事でもないような気がする。他者を求める、とは僕の乏しい人生経験上、誤った欲望であるように僕には感じられる。他者というのは、むしろ僕達にとって、何かを共同で成し遂げる際に必要な伴侶ーーもっと言うと、道具みたいな存在ではないか。こう言うと、功利的に聞こえるかもしれないが、僕の言いたいのはそういう事ではない。

 人間に何らかの重荷とか、しなければならない事があるという事はいい事だと思っている。趣味であろうと仕事であろうと、プロだろうと素人であろうと関係なく、自分の人生を燃焼させる何かがあるのはいい事だと思う。そしてその過程で、誰か自分以外の他者に出会うという事はいい事だと思う。人生とは自転車を漕ぐみたいなもので、速度を一定に保っていないと倒れてしまう、とはアインシュタインが言っていたと思う。他者、他人というのも、それを求めると、お互いに掴みかかってそのまま沈んでいってしまうのではないか。そうではなく、他者というのは、三角形の頂点みたいなものを柱にして、そしてその点を元に、残りの二点が安定するーーそんなものではないかという気がする。

 他人というのを我々が求める。しかし、その他人もまた我々ーー他者を求めるのである。そこに互いに演技しあう要素が生まれる。化かし合いが始まる。双方が双方を、自分にとって都合の良い存在に変えようと躍起になる。しかし、そういう方針はあんまりうまくいかないのではないか。僕もまた普通に生きてみたかったものだと思う。しかしもし普通に生きたら、その途端に僕は全てにうんざりした事だろう。僕は友人を捨て、彼女を捨て、職を捨て、どこかの山に籠っただろう。そういう事というのは、他人に言ってわかるような事ではない。おそらく僕は一つの運命でありたいのだ。孤立と孤独を基点として、社会の共同観念と離れた一つの点、一人の人間でありたいのだ。おそらく僕は不幸のどん底にあって、妙に安堵するような、そんな人々の一人ではないかと思っている。もし君が不幸を嫌い、避けているとしたら、君はーーー不思議な事だがーーー人生の大切な滋味を一つ欠いているという事になる。君は一度不幸のどん底に落ちたまえ。そして、自分はどうやら人間ではないと、気づいて見たまえ。すると君は奇妙に安堵している自分に気付く事だろう。もしかしたら、君はこうさえ思うかもしれない。「ああ、どうして今まで自分は人生を無駄に費やしていんだろう。ここ、この場所こそが自分の場所ではないか」と。井戸の底から見える太陽の光はなんと美しい事だろう。人々にこの日の光は見えまい。しかし、君は見る。君は不幸という現象によって、それを見る事を強いられるのだ。真の希望の光を。

 しかし、そんな事ばかり言っていても仕方ないのだろう。人生にもし弁証法があるならーーーそんなものがあるなら、それは人々から解離した人間が、そこから離れ、懐疑論の森に迷い込む事によって得た、そうした真理を、人々の元に持って帰らなければならない、そういう方程式みたいなものなのだろう。孤立した真理は、やがて人口に膾炙しなければならない。人々に何かを伝えなければならない。カフカは自分の作品を燃やしてくれと頼んだが、その親友はカフカの言葉を裏切り、それを世界に明け渡した。僕はその親友が間違った事をしたとは思っていない。それに、もしそれがくだらぬ作品なら、人はそれを無視するだけだ。カフカは今や、人々の元にある。そしてそれこそが、カフカが終生努力して、そしてとうとう成し遂げられなかった偉大な人間的事実ではないのか。カフカと接した人は彼が紳士であり、立派な人であったと一様に報告しているが、しかし、同時に彼が人間に対してバリアーを貼った紳士だったという事も証言している。しかし、死後、カフカは人々の元に還った。それは世の研究者らが一生懸命に研究やら批評したからどうだという事よりも、単に人々が彼の作品を通して彼の孤独を理解したという事に起因する。だとすると、作家が生前成し遂げられなかった物語は彼の死後に完成したのだろうか?

 おそらくそうである、と僕は考える。人間の物語というのは死後にも続くらしい。あるいは偉大な人物は、その死後にもう一度転生するのかもしれない。シェイクスピアは、シェイクスピアの死後に、よりシェイクスピアらしく生きたとすら言えるかもしれない。そういう事はありうるだろう。だとすると、シェイクスピアという存在がかつて肉体を持って生きていたという事の方が今の我々には不思議に思える。小林秀雄の言うように、死ぬ前のモーツァルトは音楽の精霊のごとき存在だったのだろうか?

 こういう事に答えはない。ただ、僕はありきたりの人間として生きているというだけの事だ。しかし、ありきたりの人間の内部がありきたりであるとは限らない。それは悪い方向にありきたりでない事もあるし、良い方向にありきたりでない事もある。僕としては良い方向に自分が進んでいると信じたい。では、さてーーーやれやれ、これから僕は何をしようと言うのか。世の中の「ワナビ」なんて立ち位置は糞食らえである。僕は僕個人として生きる。そして僕の書く言葉も、僕が全くみすぼらしく、そして独自の存在であるように、やっぱりみすぼらしくて独自なものであろう。そうある事を僕は願っている。僕という人間はーーーいや、これ以上問うのはやめよう。思うに、人生とは問題を解決する場ではない。問題を提出する場である。そして解決された問題は、また新たな問いを世界に提出する事だろう。僕は問題を解きにかかる。しかし答えはいつも永遠の向こうで僕を嘲笑っている。僕も時々は手を休めて、その答えとやらを笑ってやる。爆笑してやる。お互いに、笑い合っている。まるで赤子のように。
 
 さて、この文章はこれで終わりだ。また僕は自分という現象に戻ろうと思う。僕は別に自分が好きだというわけではない。人からはいつもそう見えてきたらしいが。僕は単に、自分が他人にはなれないという事実を、人生を歩む上で経験したきたというだけだ。それ以上の事はない。そして、これ以上この文章で言う事はない。ーーーーーーーーーーーーやれやれ、全く。疲れたよ、もう。自分が自分である事に、さ。

新しい現実を描くために



 現行の小説を書く方法では人間を描くのはもう不可能だと感じている。それは未だに古典経済学、古典科学の方式を守ったまま、新しい現実を描こうとする研究者達がたくさんいるような状態に見える。小説というのは人間科学の一種であると僕は思っている。ドストエフスキーが独特な方法を発明したのは、彼が天才であるからないからとか、そういう事ではなく、人間そのものに一種の質的な転換、変化が起こった故だ。人間が観念化した、いや、人間の観念そのものが実在として物体化したからだ。そして、ここから現代小説が本当の意味で始まったのだと思う。

 小説というものが好きな人も嫌いな人も、その描く対象からは逃れられない。それを嫌う人はいる。しかし、それによって「真実を暴露される事は避けられない」。こういう事を徹底して描けるのが本物の小説だと思っている。しかし、今の我々の状態では、単に、大衆に対する娯楽提供以外の意味を持っていない。純文学作家と自称する人達は文学っぽさを出すために、現実の人間存在から逃げ出し、ありもしない風景を描く事に専念する。現実を見ないか、あるいは現実の表面しか見ないか、の二つの選択肢しか現状は用意されていない。

 自然主義的な方法論においては、人間の言動を描き出す事が、その人間の存在を描く事と同等とされた。しかし、あのラスコーリニコフは常に内語しているがために、その外的な存在と内的な存在とが全く分離してしまっている。ドストエフスキーの登場人物達の行動は、彼らの自然な欲望と一致していない場合が多い。もっと言うと、彼らは自分のしている行動と、自分の内的な存在とのギャップにいつも苦しんでいると言える。ドストエフスキーはそういう場を利用して、自分の劇を世界に開陳した。しかし、現代の作家で、人間をいかに描くかと苦心している人間は余りいないように見受けられる。彼らには人間も、そして自分自身もすでに既知である為に、その描き方、描写の仕方、そのプロットの作り方だけが問題となっている。しかしここには問題があると僕は思っている。

 言うまでもなく、今の読者は慧眼の集まりである。彼らはもはや知識人である。アニメ作品を見て、すぐに声優や作画や演出について云々する。彼らはすぐに作品の裏側を見る。小説も同じ事であって、彼らは皆、楽屋裏を知っている。しかし、あいも変わらず小説家は、楽屋裏を見られている事などは気にせず(というかすっとぼけて)、いつもの芝居を人々に見せて満足している。だから、そこでは作家と読者は対等、いや、もうすでに読者の方が賢く、えらくなっている。この辺りの消息は、ベストセラーであろうとなかろうと関係がない。作品そのもののフィクション性が読者の視点に対して全く防御できていない。賢い読者に対して、作品は穴だらけになり、何の秘密もなくなっている。秘密がないという事は価値がないという事だ。だから、この手の作品は次から次へと現れて、すぐに消えていく。

 もう少し言うと、今は読者の大半がクリエイターだと言ってもいい。彼らはディレッタントであり、何かを言う者達である。従って、そこでは、それぞれのクリエイターも、読者の波の中に埋没している。読者とクリエイターはもう見分けがつかない。一応、プロと素人、売れているか売れていないかで差を設けているが、こんなものは大した区分ではない。作るものと、鑑賞する者は見分けがつかない。それは一つの海の中に没した存在である。

 こういうことの何が問題だろうか。それはある個人の作った作品がごく少数の人の目に触れるだけで消えていくーーーそんな事が問題なのではない。それは些細な問題である。問題は作品そのものが、人間を描き得ていないという事にある。問題は、小説であれアニメであれゲームであれ、それらの登場人物達が我々現代の読者=クリエイターを少しも描き得ていないという事にある。我々はすでに観念的な人間である。我々は楽屋裏をのぞいてあれこれ言い、ネットでググってなんでも知っていると思い上がっている存在である。小説のあらゆる技法とあらゆる方法論を知悉し、出版業界のやり口も知っている人間である。作家の年収も知っていれば、作家らが苦心してつむぐ作品を午後の一時間の暇つぶしに使ってそれをそのままブックオフに売り飛ばす人間である。我々はあらゆる事を知っている。我々はあらゆる事を感じている。何もかもを検索して知る事ができる存在である。では、そういう、とらえどころのない人間を描くとはどういう事だろうか。一体?

 今は物語全盛の時代であり、どれこれもにしっかりしたプロットがある。何故、今物語性がこんなに氾濫しているかと言うと、人がそれを望むからだ。おもしろおかしい物語を、人々は自分達の価値観を肯定してくれる物語を欲するからだ。そして作家はそれに反応してそれを作り出す。しかし、にも関わらず、我々自体には物語は全く存在しない。かつて、生活苦に捉えられていた人間には悲劇があった。彼らには、様々な制約や困難が存在したが為に、それを切り抜け、新しい場所を開拓するという物語があった。しかし、今や、そういう物語ない。あるのは資本主義が作り出した物語だけである。例えば、「罪と罰」を思い起こしてみよう。ラスコーリニコフは老婆を殺害する事によって、自分の苦境を切り抜けようとする。老婆殺害で得た金で、自分と家族の身を救おうと思う。しかし、「罪と罰」を読んだ人間ならすぐに直感できるだろうが、そんな動機は嘘である。そんな事はラスコーリニコフ自身が一番信じていない。そんな事は彼にとって本当の問題ではない。だとしたら、本当の問題とは何だろう? 実を言うと、彼にとっての本当の問題とは「本当の問題が何かわからない」という事にあった。だから、彼は自分の動機を自分で否定する。何故、自分が老婆を殺したのだろうか? それには様々な意味がつけられる。しかし、意味自体を喪失している人間に意味をつけるのは愚かではないだろうか。

 秋葉原の連続殺傷事件が起こった時、マスコミは犯人が派遣社員であり、正社員になれず鬱々としていたとか何とか勝手なエピソードを作っていた。僕は秋葉原の事件のルポを読んだが、あの事件の最大の悲劇は、犯人自体がその動機について知らなかったという事だったと思う。(もちろん、七人もの人が死んだのが最大の悲劇ではあるが) あの加藤被告は、何度か自殺未遂をしていたらしいが、その自殺未遂もただの自殺未遂ではなく、非常に演劇的である。従って、ドストエフスキー的である。加藤被告は自分の自殺によって、自分の存在を「誰か」に見せつけたいと願っていた。ルポルタージュを読む限り、彼はマスコミが考えるような「非リア充」というわけでもなかったようだ。加藤被告はその生涯において、常に自分を誰かに見せつけようとしていた。自分のアイデンティティを取り戻そうと、意味も分からない暴走を繰り返し続けていた。もし、彼に彼が望む恋人、友人、社会的地位ができていたとしても、それは間違いなく何の問題の解決にもならなかっただろう。そういう外面的なものではあの人物は満足できなかったはずだ。にも、関わらず、彼が自分に足りないのは彼女、友人、社会的つながり、という外面的なものだと思っていた。そこに齟齬があった。そしてそこに悲劇が起こった。他人から見れば喜劇としか見えない悲劇が。

 今の小説家達の書いているのは、例えば、この加藤という人物の「派遣社員の悲哀」とか、「友達、彼女のいない寂しさ」とかそういう外面的なレベルのものである。人間の内部にある得体のしれないものについては、誰一人として見る事も触れる事もできていない。にも関わらず、我々はそれに突き動かされているのである。ここ十年くらいで、この国の風潮は左翼的な方向から右翼的な方向に変わった。…だとすると、それは何か外面的な事情、尖閣諸島やら何やらが関係しているのだろうが? 人は外面的、社会的な事を持ちだして全てを説明しようとするだろう。だが、僕はそうしたいと思わない。僕は全く無名であり、(笑)であったとしても、僕は芸術家であるからである。人間存在の奥にあるものを無視すれば、世界には塵一つ残らない。そういうものが芸術家というものだと思っている。

 人間の中にあるものを描くとは極めて難しい事だし、だからこそこれまでの小説家はそれに四苦八苦してきたのだった。自然主義的方法が生まれた時、描く作家と描かれる人間とは綺麗に分かれていたに違いない。しかし、誰も彼もが「描く立場」に変わった今、「描く人間を描く」とはどういう事かが問われる。もうかつての方法では人間を十全に描く事はできない。人間というのは観念化し、その内面と外部的な運動とが全く一致していない。人は有り余る知識を持っているが、しかし、現実の我々は社会のほんの背景、その小さな点にすぎない。我々はネットによって、全世界的な宇宙をその脳髄に持ち、そしてどんな事にも偉そうに言及できるし、現にしているが、しかし、会社に、学校に行けば、我々はシステムの中のほんの小さな一要因でしかないのである。しかも、それは社会に対してだけではなく、彼女、友人といった人間関係においてもそうだ。私にとって誰かは交換可能であるがゆえに、誰かにとっても私は交換可能である。そしてそこから起こる不安から私達は逃れようがない。にも関わらず、我々はそれを社会、経済的な不如意のせいにしようとする。思うに、我々はラスコーリニコフのように(あるいはあの加藤被告のように)何が原因でそれを望んでいるかを知らないのだ。我々は金を求める。異性を求める。しかし、それが何を基盤としているか、もっと言うと、『自分が本当に何を望んでいるのか』、それが全くと言っていいくらいわかっていないのだ。しかし、社会に流れる物語は外面的である。我々には娯楽はありあまるほどあるが、我々の奥深くは全く未探索なままに流れている。心理学がどう言おうと、全ての心理は心理学を飲み込んで、超越して前に進んでいくのだ。

 ドラッカーはおそらく、二十世紀の産業社会において、我々のアイデンティティと、会社での労働行為を深く結びつけようとした二十世紀における最も偉大な人物ではなかったかと思っている。ドラッカーは自己実現とか金稼ぎとかそんな事について語っていたのではない。ドラッカーは宗教から疎外された人間が何を範にして生きるべきかについて、社会、経済的な側面から迫っていった人だった。ドラッカーにはどこか、東洋の賢者のような風貌がある。ドラッカーがアメリカよりも日本で受けているというのは、別におかしな事ではないと思う。人間は社会に帰属しなければならないが、その際、社会は正しい方向に進まなくてはならない。そしてそれと共に、社会に帰属するとは今のように、金、物だけでもなく、我々の活動ゆえに我々に社会の方からアイデンティティが付与されるというそういう相互関係が明確にされなければならない。そういう事がドラッカーの目指した理想ではなかったかと思う。そしてそのためのマネジメントという概念だった。僕はドラッカーを二十世紀における最も偉大な思想家として尊敬している。

 しかし、ドラッカー的な解決法もまた二十一世紀には通用しないのではないかと思っている。従って、また新たなドラッカーが出現しなければならないだろう。また、キルケゴールやニーチェが自身の内面に立てこもって世界に向かって立ち向かったように、実存的な孤立、それによる対立、そういうものも必要になってくるだろう。我々は外に出ると外の風に吹かれるわけだが、しかし、自らの内面を、魂を守らなければならない。それは個人が守ったり、あるいは社会が、国家が守ったりしなければならないだろうが、しかし、まず組織というものはよほどの事でないと守ってくれないと考えた方が良いだろう。それに組織が我々を守ってくれるという時、その時は我々もまた、組織の為に懸命に自分をつくす存在である事が求められる。そこに的確な相互関係があればいいが、しかしそれより個人で防衛組織を築いた方がまずは健全ではないかと思う。世界は、常に個を世界に同化させる事を求める。その方が人々には楽だからだ。他人の自由を許容する事ほど、人間にとって辛く、面倒な事はない。しかし、個人として生きる上では、自己の内面を守らなければならないし、自分の内面を守っている他人を自分の中で許容しなければならないだろう。

 おそらく、これから、これまでになかったような形での小説の方法論というものが生まれなければならないだろう。そしてそれはアインシュタインの相対性理論のように、極めて厳密な意味での人間科学でなければならないだろう。人間が新しく存在し、常に新しい存在としてこの世にあるのなら、それを描く方法も新たでなければならないだろう。現代の観念化した人間にもドラマが、劇があるのかと言えば、それを生み出そうとするもの、あるいはドラマそのものが現代には不可能であると悟った人間だけが最初の一歩を踏み出し、そして未来の扉を開けるだろうとしか言う事はできない。「文学は終わった」と嘆く人々はおそらく、文学というものが終わって欲しいのであろう。彼らは自身の終わりに合わせて、世界も終わって欲しいのだ。しかしながら、世界はまだしばらく続くだろう。誰かが言っていたように、我々は常に中途の、過程的存在なのだ。…既存の小説方法では、我々は書く対象によって撹拌される。我々は観測する実体として、全く安定的な存在ではない。我々は観測しもするが、観測されもするのである。だから、作品は恒常的な安定性を持たない。安定しているかのようなとぼけた作家の顔があるばかりである。思えば、太宰治という、あの当時最も優れた小説家は極めて批評家的な小説家だった。彼は彼なりに、あの時代に適応したのである。太宰は元々メタ的な作家だが、それはメタが好きだったたからとか、そういう方向を作家が意図して選んだというよりは、文学というものが爛熟した時代にあっては、「文学を文学する事」が本物の文学だと太宰に信じられたからだった。小林秀雄と太宰治はおそらくあの頃の文学の双璧をなすだろうが、彼らか二人が小説家的批評家と批評家的小説家であった事は意味のある事だ。そして、今の時代に、どのような方法がスタンダードになるかは未知である。しかし大半の作家が採用している方法論がそうなる事はないという事ははっきりとしている。

 小説というのを一つの科学だとすると、それは人間の表面を描くか、その存在まで描くべきか、というその点で峻別されるだろう。そして人間の存在そのものが社会システムの中で見失わざるを得ない現在、人間の根底が何かという事を各自、生活によってか、作品によってかで、どちらにしても探求せざるを得ないだろう。そして探求しない人々は「それ」のいいなりになるだろう。そしてその探求から色々な事が始まるだろう。

 色々な事を書いたが、ひとまずこれで筆を置く。僕の言辞が挑発的だとしても、そんな事は多分、どうでもいいことなのだと僕は思っている。僕を否定する事も、僕を殺害する事もごく簡単だろうが、そんな事をしても人間存在の重たさは代わりはしない。そしていつの時代でも優れた作家はこれに肉迫しようとしてきたのである。今の時代の我々がそうしなくてよいなどという保証はない。我々は堆積した過去の上にいるのであり、過去の恩恵に最大に報いる事は現在を懸命に生きる事なのだ。どのような生き方であろうと。僕はそう思う。

 それではこの文章はここで終わる事にしよう。現在においても、人間存在の重たさと面倒さは変わっていないが、その力点、それがどこにあるかというその位置は変化している。そしてそれに対応するには、芸術という一種の科学は、それほど捨てたものではないと僕は思っている。僕はまたこの科学を追い続けていく事だろう。これからも。

 

 『文学』というものに存在する未来と、存在しない未来





 文学というものを物凄く狭めて考えると、これはどう考えても斜陽産業だと思う。余り先はないように見える。しかし、アニメやゲームのシナリオなんかも文学に含めるなら、文学はまだまだ延命できるし、たくさんの可能性と未来が眠っているだろう。それは丁度、クラシック音楽が斜陽だとしても、「音楽」にはまだまだ未来があるという事に類似している。

 文芸誌というのは作家志望者しか読まないのではないかと僕は思っているが、どうだろうか。小説の新人賞には千くらいの応募があるらしいが、その文芸誌そのものはどれくらい売れているのだろう。今の現状は、小説を読む人よりも、小説家になりたい人の方が多い、なんて事になっていないのだろうか。少なくとも、需要と供給のバランスが取れていない気がする。

 新人賞を取った作品が、新人賞を取りたい人にしか読まれていない。一応、一般の人も目を通すかもしれないが、あんまり面白いとも思わないので、そんなには読まない。読むのは物好きくらい。こんな事が今の文学の現状ではないかと思っている。試しに、手近の文學界二千十年6月号をめくってみる。するとそこで僕が面白いと感じたのは保坂和志のカフカ式練習帳だけだった。もっと厳密に言うと、そこで引用されているバタイユの三行くらいのカフカに関する文章だけがとても素晴らしいと感じた。こういう風に感じるのは間違っているだろうか。
 
 今、僕は手回しオルガン弾き氏のブログと、それから「ブロガ・エニアグラミカ」というブログの二つをわりに熱心に読んでいる。この二つのブログはとても面白いし、正直に言って今、プロとか、世に出ている人の中でこの二人の知見に叶うレベルの独創性を持っている人は滅多にいないと思っている。(いるとしたら、見田宗介くらいだろうか) しかし、この二人は多分、プロの書き手というわけではないし、商業誌に名前が出ているというわけではない。そういう現状というのは何だろうか。

 言いたい事は色々あるが、あんまり毒々しい事を言っても仕方ないので、これぐらいにしておこうと思っている。僕の考えでは、ある個人の作った作品の中の価値が、芸術というものの世界においては全てであり、それがプロが作ったか素人が作ったかどうかとは意味のない基準判定と思える。こういう事は当たり前の事だと思うが、僕みたいな「ワナビ」が一生懸命に小説を書いて新人賞に送っていると、そういう当たり前の事を見逃しがちになるので、自戒の意味も書いておいた。世界を変えるのは文壇なんていう得体のしれないものではなく、作品に内在する価値である。それが真実だと思う。そしてその価値を、世界に広める為に様々な機関は存在すべきだと思う。僕は作品至上主義者と言ってもいい。いかに売れるか、いかに売り出すかという営業ノウハウは、商品が本物でなければ、詐欺になってしまう技術ではないか。とはいえ、読者を意識したり、多くの人に読まれる為には、プロになったり、プロの物書きになる事が必要されるだろう。しかし、コミュニケートする前に我々は、我々が他者に伝えるべき価値を自らの中に持っているのかどうか、と自分に問う必要がある。適当に馴れ合って飲み屋でだべっても、それは本当の意味でのコミュニケーションではない。(それも悪い事ではないだろうが) まず、伝えるべき価値が存在してから、伝えるノウハウが存在する。そのどちらもが大事だが、今はやたら伝える事のノウハウばかりが先行している状況ではないかと思う。ブッダは自分の真理を人々に伝えるかどうかで思い悩んで、結局伝える事にした。ブッダは自分の中に大いなる価値を発見、あるいは作り上げたのだが、それを他者に伝えるに際してはかなり悩んだようだ。こういう悩みを持っている人は今どれぐらいいるだろうか。まあ、僕らがブッダではないにせよ。

 一応、自戒の為に以上のような文章を書いておいた。他人を傷つける意図はない。僕自身は自分の書いた文章にいくばくかは、人に伝えるべき価値があるのだと信じている。僕の書いたものの価値を人がどう受け取るかは人それぞれであると、ある程度言える所まで来たのではないかと思っている。実際に、僕は手回しオルガン弾き氏のブログと「ブロガ・エニアグラミカ」には影響を受けている。これらの文章、その意味がどうであるかという問題はおそらく未来に委ねられるだろう。しかしそれが未来に対して意味があるのは、それに価値があるからである。価値がなければ、いくら流通してもそれきりだ。

 この先も色々な事は続いてくだろう。言語芸術、小説という形式はそれまでの形式とは全く違う形でとうとうと流れ、生き続けていく事だろう。そしてある形式にしがみつく人々はその形式と共に過去に流れていくだろう。そして『文学』なるものは本質を維持し、その表面的な形を変えながら、これからも悠々と生き続けていくだろう。

日本的思想の未来

 
 

 柳田国男と折口信夫の二人を僕はとても尊敬しているのだが、しかし二人が掘り出した「日本像」「日本観」というのは、「日本らしい日本」というものと若干ずれているのではないかという気が僕はしている。じゃあ、それは何かと聞かれたら、僕はそれは日本以前の未開人の心性であり、歴史ではないかと思っている。

 今のナショナリストの議論を見ていると馬鹿馬鹿しいが、彼らは国家というものを、何千年も変わらないものとして過去と未来にずっと引き伸ばして考えている。しかし、毎日地面ばかり見ていた農民だった過去の日本人と、メディアで何でも知る事ができるようになった今の日本人が同じ日本人だと考えると、そのどこに統一性が見出させるか。国家という外郭をそもそも、国民が意識できるようになったのはそういう情報が簡単に手に入るようになったからではないかと僕は思うが、しかしどちらにせよ、こういう問題は地道な学問的探求を必要とする。そういう面倒な手続きを全部すっ飛ばして「日本は~」というのはよくわからない。しかし、ナショナリストがどうこう言っているその奥に本当の日本らしさがあって、これをどう取り扱い、どう考えるかというのは極めて難しい問題だ。しかし、どっちにしろ、表面的なグローバリズムやナショナリズムが行っている課題とは何の関係もない。

 ドラッカーが「日本画に見る日本」という短い文章を書いていて、このドラッカーの短章の方が、柳田、折口よりも「日本っぽい日本」については言い当てているのではないかと思う。ドラッカーがこんなにも深く日本の文化を日本人以上に理解しえたという事には驚嘆する他ないが、しかし、折口・柳田もそれぞれ重大な思想的課題を背負っていた。僕はこの両人は、日本という文化を理解しようとして過去に帰りすぎたがために、逆に、日本的というよりは日本以前の文化的地層を掘り出した、そういう一種の悲劇的な天才学者ではないかという風に思っている。

 その問題を自分なりにもう少し引き伸ばすと、僕の考えでは見田宗介と吉本隆明が出てくる。見田宗介の思想がどんな価値があるのかというのは、今はなかなか判断が難しいし、国際的にどうだという事になると更に難しい。しかし、見田宗介は現代の貴重な重大な思想家だ。…僕が言いたいのは吉本隆明が「アフリカ的段階」というわけのわからない事を言い出し、見田がメキシコの未開部族の哲学を描いたカスタネダの著作から影響を受けて思想的出発をした事にはそれなりの意味があるのではないか、という事だ。つまり、彼らは柳田・折口から一貫して、より未来に進むために、彼らの思想的課題はより過去へと、深い洞穴の方へと向いたという事だ。

 こういう事には系統性があると僕は思っていて、日本という国家がより未来へと進む為に大切なギアになるのではないか、と密かに思っている。しかし、こんな事を思っているのは日本では僕一人じゃないかと思っている。だから、一人で勝手にやっていくほかない。ドストエフスキーにおいても、漱石においても、自国と、西欧文化とをどう融合させるかという思想的課題に生きた人だった。しかし、そういう困難は一部の政治家・扇動家らは当然理解もしなかったし、見もしなかった。

 夏目漱石・和辻哲郎ーーー折口・柳田ーーー見田・吉本のような思想的系譜が未来に対してどのように作用するのか、どういう意味があるのかという事に僕はとても興味がある。だから、これは僕の中の思想的課題として解決して行きたいと思っている。この問題を解決するのは、一年、二年ではムリだろうから、また少しずつ勉強していこうと思っている。そしてこの事は今の騒然とした珍妙なグローバリズムともナショナリズムともほとんど関係がない。また勝手に一人でやるだけだ。

芸術を独自な領域とする為に

 

 
 芸術が独立した領域だという事はわりに当たり前の事だと思われるかもしれない。芸術作品は芸術的に見なければならない。当たり前すぎて誰しもが素通りする真理ではある。しかしだからこそ、奇橋な、一般常識と解離したような意見が世の中にそれなりに面白いものとして出回ったりもするのだ。僕は怪奇現象や霊現象、UFOなどより、人間という存在の方がはるかに奇妙で、異常で、面白くてへんてこな存在だと考えている。見た目の新奇さに飛びつく人達には当たり前の物事の下の新奇さには気付かない。そしてこちらの新奇さの方が言うまでもなく、深い。

 和辻哲郎が、本居宣長の「もののあはれ」の哲学の功績は、芸術を当時の儒教全盛の倫理性から解き放った事だと書いていた。僕はそれを読んでいて、すぐに、マルクス主義的芸術観と戦った小林秀雄の姿を思い出した。本居宣長も小林秀雄も、時代を経て、同じような事をしたと言えるだろう。つまり、芸術を倫理、道徳、社会的拘束から解き放って、再び芸術的領域へと返してやる事。二十一世紀の現在では、儒教もなければマルクス主義芸術観もほとんどない。問題はもう終わったかに見えるが、僕はそうは思わない。また、同じ闘争が繰り返される事だろう。必ずそうなる。

 結局の所、僕は芸術をそれ以外の要素に分解する、あるいはそれを独自の、自立した存在としてみなさない事に反対する。いや、反対したい。もちろん、芸術それ自体は現実的なものであるから、他の分野と同じように完全に純粋な、独自な体系とは言いがたいだろう。小林秀雄の言うように、世の中に完全に純粋なものなどあるわけがない。しかし、それがないからこそ、我々はそれを求める必要があるのだ。現実という拘束を破って理想に近づく道程に芸術というものの本道はあるし、他の各々の分野もそうだろう。例えば、経済学は今は、社会状況に自らの領域を撹拌される事にいかに対応しているか。経済学が経済工学のような形に変化している事は対応しているのではなく、単に知識の羅列に学問を還しただけではないかと僕は推測している。経済学が独自な領域として再び可能になる為には、現実に抗した、現実より一回り大きい論理を構築しなければならないだろう。だから、その時、そういう経済学を開拓する人間は保守的であると共に進歩的である。そして時代は常に、このように、古いものを維持しようとする事によって自らを新しくしてきた人々によって開拓されてきたのだ。

 作曲家佐村河内がゴーストライターを雇っていた件について今更調べてみたが、それに関して、「確かに佐村河内は悪いが、曲は素晴らしい」とか、あるいは「確かに佐村河内は悪い。そしてそれとは関係なく、曲そのものは最低である」とか言い切った批評家というのは僕の目には見当たらなかった。こういう事は、曲が良いか悪いか、はっきり言わなければならないと思うが、どうなのだろうか。僕が桐朋学園の生徒だったら、今から自分が作る音楽作品が、その周辺環境で評価される事がもう予想されるので、物凄く嫌な感じがしただろう。クラシックなんてそんなもの、と割り切るのは滅茶だし、桐朋学園の生徒の人達もクラシック音楽が好きでその道に入ったのではないかと思う。しかし、今やその道は濁っている。音楽そのものではなく、人はその周辺部で聞いてしまっている。これはクラシックが、その最初の形と離れてしまった事にも原因がある。結局、その道にいる人は、個々、各々、「クラシック音楽は現代に生き残れるか?」「音楽の本質とは何か?」と孤独に、自分自身に問いかけなければならないだろう。そしてその道は、玄人達が共通言語で話して、互いにわかったような顔をするコミュニティとは異質なものとなるだろう。結局、人は何かをするには孤独にならなければならないのだ。

 芸術の独自性という点は現代どこにあるだろうか。いつの時代でも、新しくでてきた領域に一つの活力が認められるのは、その領域が最初誰もいないので、濁っていないという点に原因が認められる。新しくでてきた領域というのつまり、玄人ぶった人間がいないので、素人ばかりとも言える。玄人達、プロと呼ばれる人は、いつの間にか自分達の閉鎖的な集団を作って、その価値を称揚しがちだが、はじまったばかりの領域にはそれはない。人が褒めるにせよ、けなすにせよ、それは率直なものだ。植松伸夫は最初、ゲーム音楽なんて皆から馬鹿にされていた、と言っていた。実際、僕らが子供の頃には「ゲーム脳」なんていうインチキ科学が口に上ったし、植松伸夫の言うとおりだったろう。しかし、新しいものは、大抵無名の素人集団からスタートを切る。新しいジョブズは、新しい盛田昭夫は今、ソニーの元にもアップルの元にもいないに違いない。あるいはいたとしても、会社内で異端児として存在している事だろう。

 芸術の独自な領域、独自な価値というのはどこにあるのか。人が音楽を聞く時、小説を読む時、人はその背後に何を見ているか、という事が常に問題である。作品は常に、それ自体が問題の解決であるとアンドレ・ジッドは言ったそうだ。だが、そう言い切るにはジッドの技量が、ジッドの芸術的才覚がいる。普通の作家らはそうは言えない。だから、彼らの多くは自作についてグチグチと語り、それを弁護したりする。「ここのドラムパートはずいぶんとこりましてね…」とか、「この小説の文体はずいぶんと苦労しました…」とか言うように。そう言うのはもちろん自由だが、しかし、そうする事によってそのクリエイターは自身の作品を侵害している事にならないだろうか。自分の作品は常に、自己からも独立した独自な様式であると、作者本人に信じられないとは不幸な事ではないか。そしてそれは読者や視聴者の側でもそうである。だから、作者側と読者側の互いが、作品を見ているようで、その周辺部に自然と助けを求めている事になる。売上部数や、人気があるかどうかなどはその最たるものだ。自分がある作品のファンだとして、その作品を褒めたいと思ったとしよう。そしてその際に売上や人気を一旦持ちだしたなら、売上高の一番多いもの、一番人気のあるものが一番いいものだという価値観を知らずに容認している事になる。こんなやり方ではうまくいくはずがない。

 例えば、D猫殿下のピアノやレッド・ツェッペリンの即興的演奏はそれ自体で、その演奏、その音楽そのものが一つの独立した領域だという事を示してる。いや、彼らは演奏中にはまさに音楽そのものと化している、と言ったほうがいいだろう。何故かそう言えるかというと、彼らは彼らの中に内在する生理的なリズムと、ピアノ、あるはギター、ドラムなどの外的な楽器の音とを完全に結びつける事ができているからだ。彼らはおそらく、演奏中、極めて無意識的だろう。そして、彼らが無意識的である事が可能なのは、彼らの技術が卓越しているがために、外的な物と内的な物を結びつける事ができるからだ。彼らは演奏が終わった時に始めて、自分が何を演奏したかという事を知るに違いない。彼らの演奏は彼らの深い内在性、その存在と直結しているがために、彼らは無意識にならざるを得ない。これは少しも不思議な事ではない。僕達が頭で、技術の卓越を意識している段階というのは、僕達の思惑とは違い、全然熟達の段階に達していないのだ。本当の意味で優れた芸術家というのは、作品そのものによって一種の沈黙に達する。彼らは演奏の時に、言葉では言い表せないものを体現している。そしてそれを頭脳で、表皮的にああだこうだと言っているのは、おそらくまだ未熟な芸術家という事なのだ。人は意識的な段階から無意識的な段階に至らなければならない。しかしそれは自分の技巧を徹底して意識したその末に現れる無意識であって、「よし、じゃあ無意識にやろう」なんて思ってできるものではない。

 芸術の独自な価値、という点から妙な所に話が来たが、上記の即興的な演奏家が僕達に示してる事実は何か。それは物凄く簡単な事である。つまり、彼らにあっては、ジッドの言うように「演奏が全ての問題の解決」であって、それ以上でもそれ以下でもないという事だ。彼らは身を持って、音楽というものがこの世界に存在している事を示した。自分の作った音楽が盲目をばねにして作ったかどうか、なんて事は音楽とは関係ない事だ。しかし、そう言い切るの実に、最上の音楽がこの世界に存在する事を証明する必要がいる。人は饒舌を垂れている場合ではなく、まずすべき事は一歩を、最初の一歩を踏み出す事だ。そして上記の演奏家らは、その一歩を示した。そしてここで問題は終わる。ーーーと、共に、それが何であるかという解析が始まる。そしてここに、芸術にとって真に重要で豊富な問題が現れる。重要なのはそういう事だ。まず、芸術を芸術的に理解する事。しかし、芸術的に理解する必要のない芸術みたいなものはこちらから拒否する事。そういう事が大切だ。

 大体、これが僕の芸術的観点による芸術擁護論だ。しかし書いたものを見直すと、僕は別段、奇妙な意見も何も言っておらず、常識的で当たり前の事しか言っていないような気がする。僕はかつての普通の意見を上塗りしているに過ぎないような気がする。しかし、今のように、混沌として、奇橋な事を言う人が多い世の中では当たり前の事を当たり前に書いておいてもいいのではないかと思う。おそらく、これから必ずや、本居宣長や小林秀雄がやったように、芸術の独自性をその他の領域から守ろうとする行為は必要になってくるだろう。人は全体性に個別性を隷属させる事が好きだ。政治や倫理の為に芸術があり、大衆の娯楽の為に芸術があり、あるいは芸術家自身の為に芸術がある。いずれも間違っている。芸術とはそれ自体、独立した領域として存在しうる何かだ。そして先の演奏家は、その一瞬の楽音でそれを示してくれ僕た。重要な事は常に古典的であり、またそれゆえに新しい。古典的なものを守ろうとする所に、新しさが現れるのだ。(カント然り) 僕はそういう事が大事だと思っている。僕は普通の事しか言っていない。そしてこれからも普通の事を言い続けるだろう。そして、結局「何が普通であったか」という事は、歴史と人がその判定をくだすだろう。今はただ歩いてくのみである。ピアノのキーを、ギターの弦をただ力強くかき鳴らす、そのように。

作家の使う光学についての試論




 未だに自然主義的小説観というのは幅を効かせているように思う。結局の所、新人賞を取った作品と、一次選考で落ちた作品の違いは「クオリティ」の違いであり、そこには多分、本質的な方法論の違いはないのだろう。

 クランチマガジンで松下隆一さんがシナリオ論を書いている。松下さんのシナリオ論は色々と思い当たる事があるが、全体的に考えると、「いかに人間を描くか」という事が問題になっているのだと思う。「シナリオはあらゆる階層の人間を描く世界でもある」と松下さんは書いている。ところが、僕にどうしても理解できないのは、人間そのものの実在である。今、描くべき人間というのはこの世界に一人でもいるのだろうか。もちろん、興味深い人物や、面白い、描くべき人物は世の中に沢山いるだろう。しかし、僕がそういう事で言いたい事は、そういう、人間に光を当てる作家らの光学というのは一体何に根拠を置いているのか、という点である。作家らはみんな同じような光学装置を使っており、その装置そのものを疑った人は実に少ない。だからこそ、クオリティの上・下のみが問題になる。人間という存在に光を当てる新たな方法を発明しないと、もう人間というものをきちんと記述できないのではないか。そういう事が今一番気になっている。

 現代人は生活の欠落した人種であり、かつてのような健康な生活・恋愛・悲哀は奪われてしまった。全てが演技じみており、演技を拒否すると孤独になってパソコンの青い光をじっと見ているしかなくなる。人はテレビを見て、ネットを見て、あれこれ詮索し、批評する。そこでは作者や作品よりも読者や視聴者が一歩先を行き、上回っているという光景が見られる。誰も、作品の中の人物を自分とは思わない。何故か。もうすでに読者らは批評家の座に座り、そして作者に、「美味い食事を持ってこい」と厳命しているからである。ニコニコ動画のコメントを見れば、もはや視聴者がクリエイターに威光をふるい、クリエイターを操作している様すら見て取れる。では、こういう批評家然とした人間を描くとは、どういう事なのか。もはや一個の自意識と化した、生活を失い、肉体を失った人々の肉体を描くとはいかなる事なのだろうか。

 今の芥川賞作家らの内、この問題に真剣に立ち向かった人は一人もいないのではないかと思う。そして一方ベストセラーを生み出す能力のある人は、この問題そのものをてんで問題にしていない。しかし、僕個人としてはこの問題を解決しない限り、一行も書く事はできない。かつての健康な人間像は失われた。バルザックやフローベールの方法論は人間が肉体を失った時に、無効となった。そしてその後、方法論の空白が残された。すると、この空白に何が入るのだろうか。

 そもそも巧みに描くとは何を意味するのだろうか。ある人の肉体のその運動、言動がその人の深い生活意欲そのものを映し出している。ある人のちょっとした動作や言葉がその人の「リアル」を感じさせる。この点を突き詰めれば、現代のトルストイになれるかもしれない。だがしかし、現代の人間のいかなる所に、リアルというものが外面的に現れているのだろうか? 先日、横浜駅近くのドン・キホーテの前を通ったが、そこのベンチに美男美女の高校生カップルが座っていた。二人とも美しかったので、僕はチラ見したわけだが、通り過ぎた後に妙な違和感がした。なんというか、ふたりとも垢ぬけすぎていて、まるで蝋人形みたいな美しさなのだ。人として彼らは呼吸しているのだろうか? 彼らは雑誌から切り抜いてきた存在であるように見えた。だとすると、人間の精神そのものが雑誌から切り抜いてきたようなものであることもありうるだろう。だとすると、この時、この人間とはどのような人間なのだろう。一体、こういう人間を作品の中に盛り込んで描くにはどういう方法があるのだろう?
 
 「こういう方法がある」とアドバイスしてくれる親切な人もいるかもしれないが、そのアドバイスを僕は受け付けるつもりはない。僕は今、迷いたいのだ。混乱し、苦悩し、悩みたいのだ。僕は足踏みしたいのだ。本質的な原理について思考したいのだ。そして何より、自分自身でありたいのだ。

 今、そういう事を僕は考えている。これはおそらく、自然科学において、新たな認識方法を発見するのと同じような努力なのかもしれない。まあ、僕がアインシュタインになれるかどうかはわからないが。

野垂れ死にの栄光




 僕は芸術理論みたいなものを書いているが、一体どこの誰が僕の芸術理論を参考にしたり、そこから何かを汲み取ってくれたりしてくれるのだろうかと自分でも妙に思う。僕の理屈を信用して、ベストセラーが生まれるはずもなく、新人賞を取って華々しくデビューする事もまずありえない。してみると、僕は一体何のためにこういうものを書いているのか。

 今村友紀氏がベストセラーの構造を勉強して、今村氏なりの小説論を作っている。新人賞を取りたい、あるいは売れるものを作りたいと思っている人は今村氏の小説論が大いに役立つ事だろう。僕の理論はおそらく、ごく少数の人にしか適用でないものだろうと思う。そしてその少数の人とは、自分の感覚に忠実であろうとする人だ。

 自分の感覚に忠実であれ、自分の感性に正直であれ。これだけ言うと、馬鹿馬鹿しい陳腐な言葉に聞こえるかもしれないが、しかしこれを守り続けるというのはほぼ不可能に近いほど難しい事だ。世の中の感性や理屈に従った方がよほど楽だし、成果もあがる。自分の感性に忠実で人があらねばならないのは、それが自分の人生だから、という以上に理由はない。自分でない人生を生きてでも、他者から評価されたいと望む人には、「自分の感性を捨てなさい」と教えるのが正しい教えという事になる。そして世間のノウハウ本はそれがどんな見かけを取っていようと、そう教えている。そういうものだ。

 では自分の感覚に忠実とはどういう事だろうか。それは、正しいとされている世の中の全てを斥けて、そこに自分の方法論を打ち立てる事だ。もちろん、世の中が正しいとしている事と自分の方法論とが一致する箇所はたくさんあるだろうし、その箇所まで削ってしまう必要はない。学ぶべきは学んで、そうでないものは捨て去る。よく考えれば、当たり前の事だ。しかし、何が当たり前で何が当たり前でないか。世間ではふと気付くと、僕には当然考えられないような意見が普通に出まわったりしている。僕達が今、かつての錬金術のような魔法を乞い願っていないと誰が断言できるだろうか。

 今は大衆が最強の時代である。大衆がいつの間にかインテリになった時代だ。最近、小林秀雄を読んでいて気づいたが、小林は知識人批判はライフワーク的にしているが、大衆批判は滅多にしていない。それは彼が大衆が好きだったからではなく、その頃、大衆は知識人ではなかったからだ。おそらくそうだと思う。今は大衆が王であり、彼らの評価基準が神の如き存在として協力な専制政治を敷いている。そしてその中枢に、天皇制のように儀式的、宗教的に存在しているのはテレビであり、テレビタレントであり、また最近ではネットから出てきたタレント的な人々だ。彼らは大衆との間に一種の黙契みたいなのを結んでいる。もちろん、これらタレント達がほとんど中身のない人間である事はよくある事だろうが、彼らが背後にどんな威光を背負っているかという事は無視できない面がある。テレビタレントというのは、おそらく常に無数の目と意識を背後に背負っているような感覚があるのだろう。彼らの内に、精神を病んだり薬漬けになったりする人が出てきたりしても、全くおかしな事ではない。

 今、本当の意味での優秀なアーティストは皆、この大衆の嗜好から身を守ろうと四苦八苦しているように見える。人々の固定的な価値観を容認してしまうと、その途端に自らが消えてしまうからだ。いずれにしろ、自分が存在しない人はどんな意味でもアーティストでもなんでもない。だから、優れたアーティストは自分の孤独を維持し、保守するのにかなりの力を使う。というより、その孤独の維持にかける行為そのものが芸術行為になっていると言えるかもしれない。今はそういう時代だと思う。四方八方から見えない圧力が押し寄せてきて、これを払っているだけで日が暮れる。しかし、これを払う事はどこかで切り上げて、自分の孤独の内部に、もっと持続し、発展する仕事の体系を作り上げなければならないだろう。そういう日が来るだろう。そういう事を僕は今考えている。

 世の中に妥協するのは簡単であるし、その方が楽に生きられる。しかしその「楽」は後で自らに必ず帰ってくるように思う。人生とは人生を作り上げる行為であろうが、最初から敷かれたレールを歩く方が楽だ。しかし、歩く事が道となれば、至る所が道となる。しかし、そういう人生では、道端で野垂れ死ぬのが落ちなのかもしれない。これは困った事だ。

 しかし、その野良犬のような野垂れ死には一種の栄光がある。この栄光は、見える者だけが見えるであろう。

小説をアップしました

失敗作なのでお勧めはできませんがURLを載せておきます。このブログには載せませんので。


https://i.crunchers.jp/data/work/6426

http://ncode.syosetu.com/n1852ci/

 物語はどこから始まるか


 本当の意味で小説に物語性があるのは何故かと言うと、何かを求め、あがく人間には必ず何がしかの物語が現れるから、であると思う。そしてこの意味での「物語」というのは今の作家らが楽しげに作っている物語性とは何の関わりもない話である。

 ドストエフスキーは「我々がこんなにも不幸なのは、自分達が幸福である事に気づいていないからだ」という旨の事を言っている。ここにすでに物語性がある。人が幸福に気付くには、一度、底の見えない孤独、不幸、絶望に陥らなければならない。そしてその暗黒の経験があるからこそ、人は自らの幸福に気づいたり、それを感じたりする事が可能になる。生まれつき、幸福な人は自分の事を幸福ともなんとも思わないだろう。生まれつき大金持ちの家に生まれて何もかもが召使がやってくれるとしたら、それを貧乏人は羨ましいと懷う。しかし、この金持ちの子供はそれが当たり前の事なので、それを幸せだとは思わない。それを幸せだと思うには、この子供は一度、不幸な境遇に陥る必要がある。

 人間、絶望や不幸に陥るのは誰だって嫌である。だから、多くの人はそれを避ける。なので、そこに現れる物語は薄いものになるか、あるいはほとんど物語が現れない。一方で、不幸に堕ちた人間がそこから這い上がれないパターンもある。(社会的に向上するという事が這い上がるという事ではない。言っているのはもっと精神的な事だ) その人は、不幸な境遇にすっかり慣れてしまって、例えば幸福な人をねたんだり攻撃する事に自分の人生を費やすか、あるいは単に暗く落ち込んで、それっきりの人となってしまう。ここでも、物語性はまだ現れない。物語が現れるには、弁証法的な進化が必要だ。僕はヘーゲル哲学というのは、青春の物語そのものだと理解している。というか、それ以外に考えようがない。

 だから、この幸→不幸→幸に物語性の本質がある。現代のように誰も彼もが不幸を避けたがっている世の中で、偽の物語ばかりがあり、本当の物語がほとんどないのは当然だと言える。自分が不幸だと認めるのは辛い。それは不幸のどん底、客観的な意味での不幸に陥る事よりもはるかに辛い事だ。人間というのはホームレスになっても、死の間際になっても希望を持ったり、誇りを持ったりする事はできるし、現に皆そうしている。しかし、自分が何者でない、あるいは何者でもなかった、という事に気付くのは地獄の底を通行するように辛い体験であり、そしてそういう体験を経ているかどうかは客観的な幸不幸とは、あまり関係がない。外面的には裕福で幸福そうに見えても、その人の底には地獄を飼っているということはありうる。人間の心理的な壁とか、心理的な物語というのは、社会の表皮を歩く外面的な物語よりもはるかに大きい。偉大な作家が、体験してもいない事をああまでも適切に、リアルに、深刻に描く事ができるのはそういう理由がある。僕は殺人者の告白談みたいなのをチラチラ読んだ事があるが、そのうちのどれ一つとして、ドストエフスキーの「罪と罰」に匹敵するものはないし、むしろ、殺人という異常な現実、その深刻さにかすりさえしていない。人は現実に殺人を犯した人間の告白した本としてそれを興味深く読むが、しかし、認識していない事は告白しえない。ドストエフスキーは体験はしなかったが、殺人について殺人者以上に深く認識していたので、ああいうものを書く事ができた。これは奇妙な話だが、しかし真実であり、人間の心理というのはおそらく、この宇宙よりもはるかに深く広いのだろう。

 従って、作家が本当の意味での物語を生み出すには、背後にそういう事情や背景があるのだと思う。ドストエフスキーの実生活とその作品はあまりにもかけ離れている。ある人間がある物語を生み出したという事は、それを体験したかどうかとは関わりがないが、しかし心理的に体験したかどうかという点については常に切実に問われている。今の作家らの物語が社会の表面を走るつるつるした物語に終始しているのは、彼らが現代人同様、自分の中に物語を持っていなからだ。端的に言うと、今これほど通俗的な作品が流行しているのは、僕達自身が通俗的であるからであり、僕達自身に物語が一切ないので、表面的な物語を作ったり、求めたりしているから、と言えるだろう。誕生日に彼氏とディズニーランドに行ったり、サプライズに何かの祝宴を開く、みたいなのは社会の動く方向性と一致した加工された物語である。人は物語を持っていないがために、それを人工的に加工しようとする。そしてそれを今の作家達がなぞる。するとリアリズム=物語という形が一応は通用しているように見える。しかし、本当の物語はそれらを拒否する事から始まる。そして本当の物語なるものが未来にどうなるかは未知である。

 新たな物語というのは懐疑論を経て真理に到達したカントやデカルトのような人間が生み出すのかもしれない。ドラッカーにも物語は存在して、それは処女作から三作目までを追っていけばわかる。それらがどんな物語かというのは個別の考察を必要とするが、現代にも物語は存在する事が可能だろう。そしてその物語は、現行の全ての物語を拒否する事から始まるだろう。

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