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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

 現代の芸術で一番問題になっているだろう事



 図書館に行って画集やら写真集やらを見てきた。最近の人では加山又造やヘルムート・ニュートンが素晴らしいと感じた。

 北斎の画集も見てきた。北斎を見ていると、全くもって無二の画家だと思った。北斎をじっと見てから、西欧の印象派の絵を見ると、印象派の面々はどうしてああも野暮ったく画面を雑にしてしまうのだろう、と思ってしまう。こういう感じ方は間違っているのだろうが、しかし北斎の完成された形式性というのはなかなか覆し難いように思える。「赤富士」なんていうのは、あまりにも完成されすぎて怖さすら感じる。ああいうものはもう完全にパターン化された、ハンコ的なものに一見見えるが、しかしその奥に北斎のたどってきた道を考えると、最後にあのシンプルさに行き着いた事に怖さすら感じる。

 ハンコ的な、パターン化された様式というのは僕達に安心感を与えるが、しかしそれはそれでつまらないものだ。演歌のつまらなさと、安心感は同じものを基盤としている。北斎は僕ははじめ、かなりパターン的な人だろうと思っていたが、よく見ると、物凄くリアルで立体的だ。奇妙に節くれだった力強い鳥や虎の絵と、綺麗に形式化された月や太陽が同じ画面に映しだされる。綺麗なものと醜いもの。あるいはパターン化された安心できるものと、そうでない力強いものを同時に合わせるという事。赤富士のような完成された絵に細部の描写はあるのかと言うと、おそらく存在する。しかし、今の僕の力はそれをはっきりと言い表す事はできない。

 偉大な画家の絵をじっと見ていると、結局の所、画家というのは自分が理想だと思ったものを好き勝手に書いているんだなあ、という気がする。もちろん、画家が解剖学を学んだり、デッサンに励むのは基礎技術として必要になるのだろう。しかし、その「基礎技術」は一体何の為にあるのだろうか。

 DTMとか作曲関係について調べていても感じるのだが、「〇〇というベースラインでノリをつくろう!」みたいな講座があって、それを読んでいても、全然ピンと来ない。プロの作曲家やらが何やらが色々な技術を僕達に教えてくれ、そういう講座もたくさんある。しかし、どうして、ベースでノリをつくらなければならないのだろうか? こんな質問を講座でしたら、多分、反抗的な生徒と見られて、「さっさと出てけ」と言われる事だろう。でも、僕はふざけているのではない。どうして、ベースラインでノリを作るのか? どうして、例えば、チョーキングなんて技術が必要なのだろうか? その根本的問いに誰も答えてくれないし、教えてくれる人もいない。それで、とりあえずはそういう技術通りに曲を作る事だけを覚える事になる。しかし、釈然とはしない。

 結局の所、本物のアーティストというのは、例えば、「ベースラインでノリをつくる」とか「チョーキング」という技術が『何を意味するか』について知っていなければならないのだと思う。それはつまり、悲しければ短調、明るければ長調みたいなごく基礎的な事から始まる。問題は表現者が自分の駆使している技術が、自分のどういう心情と感覚に対応しているかを知る事だ。でも、そういう事は誰も教えてくれない。そういう事が必要だとも誰も教えてくれない。なので、僕は自分で自分の文章を作るのにえらい時間がかかった。

 小説を書くにあたって、その方法論を知るのは簡単であるが、しかし、何故その方法論をあなたーーー小説家志望者は採用しなければならないのか?、と問う事に問題の発生がある。そういう面倒な問題を、本当の芸術家は皆たどってきたのだと僕は思っている。どうして? とそう学校で質問したら、だいたい、嫌な顔をされるだろうが、しかしそういう問いがなければ、自分というものに意味がなくなってしまう。その存在がなくなってしまう。例えば、今あなたが、「山田五郎」なる人物を主人公にするとしよう。そしてその人物は高校生かもしれず、サラリーマンかもしれず、あるいは自殺しかけているニートなのかもしれない。あるいは主人公はカルビナ・クリスティーナ(適当)であり、カルビナは十七世紀のイギリス王朝の、やんごとなき稀代の天才的政治才覚を持った王女かもしれない。しかし、そこで疑問なのは、何故、あなたの主人公は「山田五郎」であり、あるいは「カルビナ・クリスティーナ」であるのか? という事だ。作家志望のあなたと山田五郎、あるいはカルビナとの間にいかなる紐帯があるのだろう? いかなる必然性があって、あなたはあなたの主人公を生み出したのだろうか? あなたはまるで冷淡に、自分の作品の登場人物を扱う。まるで教科書を見ながら、小説を書いているようにあなたは登場人物を動かす。あなたはチェスの駒を扱うように人物を動かす。

 当然、それは音楽、絵画の分野においても同じ事だろう。自分の扱っている技術や物象と、表現者たる自分との間にいかなる紐帯もない。いかなる意味でも必然性もなければ切実さもない。ただセオリーだけがある。売れる事、有名になる事だけを考えている作者がいる。では、そんな作品を本当に人が必要としているのだろうか?

 そういう点が今の芸術における最大の問題だと思っている。この点をどう突破するのかは全く、それぞれのアーティスト個々の手に委ねられている。しかし、その答えが教科書には書いていない事だけは明白だろう。

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ある休日・中澤弘光展の印象





 そごうの美術館でやっている中澤弘光展に行って来た。僕は中澤弘光という画家を全然知らなかったし、そごうのデパートに行くのも書店に行くのが目当てだった。しかしエスカレーターに乗っていてふと、色彩鮮やかなポスターが目についた。僕はエスカレーターを降りて、そのポスターを手にとった。それが中澤弘光の絵画展のポスターだった。僕は何十秒かポスターをじっと眺めた後に、その展覧会に行く事にした。

 展覧会というのは、人が多くて流れの中に乗って見ていくと、どんなによい映画でも落ち着いてじっくり見れないので印象が薄くなってしまう。できれば静かに一人でじっくりとその作品と向かい合いたい。僕が行った中澤弘光展は人はそんなに多くなかったので、割合じっくりと見る事ができた。

 大体年代順に並んでおり、僕が感じたのは、中澤弘光が四十過ぎた辺りからの絵は神がかっているという事だ。中澤弘光という画家は展覧会を見る限り、女性の裸婦を書く事が非常に多い。しかし、その年齢辺りから女性の表情に、どこか遠い所を見るような恍惚とした表情が浮かぶようになった。今あやふやな記憶を手探りにこれを書いているので、あるいは年代はもしかしたら全然間違っているかもしれない。とにかくも、中澤の絵の女性は、みんなどこか遠くの異郷を見ているような目をしている。古代のアルカイック・スマイルの茫洋とした雰囲気を感じさせる。そういう所にこの画家の目指したものが感じられた。

 女性の絵が多かったが、僕の印象に残ったのは「夜明け」と「帰途」という二つの絵だ。(題名もうろ覚えだ) どちらも風景を扱っていて、前者は海の夜明け(あるいは日没?)の赤い太陽を眺める女性(少年?)の後ろ姿を描いている絵だ。少年らしき人物は砂浜に立ち、海の向こうの赤い太陽をじっと眺めている。雲がピンクがかり、少年はその夜明けになにものかの姿を読み込んでいる。

 もうひとつの「帰途」というのは、おそらく仏教系の人物なのか、二人の白装束をまとった人物が風で木立の揺れる夕暮れの中、家路を急いでいる姿である。この絵は田舎か、あるいはかなり昔の田舎道の夕暮れ時の、二人の人物の帰途を描いており、全体としては、僕達が少年、少女の頃に感じた街路での夕暮れの寂しさ、あるいは不気味さ、逢魔が時という言葉に見合うような、日本的な漠然とした寂しさと不気味さを表現しているように見えた。
 
 この二つの絵はどちらも、僕らの中の漠然とした「日本的感覚」を呼び起こすものではないかという気がする。あるいは誰しもが、それぞれの中に、少年少女の時にふと出会ったある風景や何かの印象、誰かの特徴的な一言、その口ぶりとか、茫洋としたなんという事もできない帰路での感覚、そういうものを抱いていると思われる。中澤の上記二つの絵は僕達の中のそういう内的な感覚を呼び起こすものであり、画家というものもはやはり、自分の内的感覚を便りに画を描いているという事が自分なりによくわかった。

 僕としては久しぶりに、非常に良い絵画体験をしたという気がした。以前に、中村正義の展覧会を見たが、その時はガラガラで人は少なかったので、僕はじっくりと中村正義の絵を見る事ができた。中村正義と中澤弘光はタイプは全然違うが、しかし画家というものは奇妙なものだと思う。そしてまた、彼らが絵の具とか、また外的な物象をいかに巧みに描こうと、結局は内的な、深い感覚がものを言うのだとも感じる。クロード・ロランなどはもっぱら自分の理想の風景を描いており、それは現実の風景を素材に扱ってはいるが、本当はどこか別の世界の、僕達の内的な感覚に訴えるまた違った風景なのだろう。

 帰りにそごうの高級雑貨屋なみたいな所を少し見て帰った。『センプレ』というショップが周りの店よりややデザインが優れているように感じた。周りのセレクトショップはだいたい、「おしゃれ」「かっこいい」「素敵」という範囲でくくられる高価なものを販売していたが、センプレというショップにはその中に若干の素朴さ、自然さや、ありきたりの日常性とつながる何かを残しているというように感じられた。その点だけが周りの店と少し違う。

 駅の方に向かう時に、当然そごうの一階も通るのだが、そこで売られていた夫人向けの高級バッグのデザインの下品さには、舌を巻いた。あんなものを高値で買うなら、百円ショップで良さそうなデザインのものを自分で選択して買ったほうがましだろう。あの手の商品はデザイン性というものがないのだろうか。

 そんな風に僕は一日の休日を使った。その後、ヨドバシカメラに寄った。ヨドバシから出た時に、ふと、タクシー乗り場越しに見える横浜駅が夕日を受けて、素晴らしく美しかった。しかし、その美しさに、多くの人は気づいていないようだった。人々はそれぞれの用事に忙しいようだった。僕もまた時計を見ながら、美しい風景を後ろに残して、自分の電車に乗るために、足を急がせた。


昔と今


 美輪明宏がインタビューで「明治時代は今と違ってよかった」みたいな事を言っている。このインタビューを一応信頼すると、当時の日本には今と違って美意識があったそうだ。

 こういう言い方というのは老人連の口から良く聞くが、僕は間違っていると思う。一部の文化人のみをあげてある時代を代表するのはどう考えても間違っている。その時代、文化人は当然ごく一部の少数の人で、その他の大半の人は無知な農民か何かであったのではないかと思う。そう考えると、今の日本人は昔とくらべて賢くなったとも言える。

 昔は良かった、というのは非常によく言われる事であるが、僕が好きなのはジム・ロジャーズの言葉だ。ジム・ロジャーズは「私は昔に黄金時代があったなどという事を信じてはいない」と言っていた。僕はこのジムの言葉が好きだ。現在というのは、決して良くない時代かもしれないが、そう悪い時代でもない。しかしもちろん、実は今が一番悪い時代かもしれない。しかし、例えそうだとしても、今が一番悪い時代だと考えれば、その事が自分が何もしなくてもいいという理屈として機能する事になってしまう。そうすると、何もかもを時代のせいにして自分は何もしなくても結構という事になる。だから、真っ当に自分の仕事をする人は今の時代をあるがままに受け入れる。そしてその時代を規定のもの、あるがままのものとして受け取って自らの仕事を始める。小林秀雄の言う通り、この人物には不足なものはない。彼はあるものからスタートを切るのである。

 とはいえ、「昔は良かった」という事を繰り返すエッセイストの山本夏彦には、僕はまた違った見方を抱いている。山本夏彦は戦前を持ちだしてやたら戦後の日本を批判しているが、山本夏彦は本当は戦前も戦後とそう変わらない時代だ、と薄々知っていたのではないか。山本夏彦は、現在の過ちを批判する為にわざと過去を持ち出してきているという感じがする。だから、彼の中で本当の意味では、過去は神格化されていないと思う。山本夏彦の批判が普通ではなく極めて鋭いのも、そういう所に原因があるように思っている。

 同じように、今の時代が昔より優れているとやたら主張する人も、昔を神格化するのと同じくらい馬鹿げている事だ。ドラッカーを読んでいると、ドラッカーはIT革命が何をもたらすかを誰よりも早く、正確に見抜いていた。しかし本人は相変わらず、タイプライターで原稿を作っていたらしい。しかしその事はドラッカーの過去礼賛にはつながらなかった。彼の頭は未来を飛んでいたのだ。

 今の時代は変化の時代である。今の時代を嘆くのは簡単だ。「文学は終わった」「音楽は終わった」 終わったと嘆く人間には何もできないだろう。デカルトの哲学にしろ、セルバンテスの「ドン・キホーテ」にしろ、それら全ては終わった所からはじまったのだと僕は理解している。変化というのはもう全てが終わったと人が考える点から始まる。

 おそらく、人類の歴史はまだまだ始まったばかりなのだろう。そして我々はおそらく永遠に、スタートラインに立つ事を要請されているのだろう。何かを成すとは、決められたゴールテープを切る事ではなく、自分の力でスタートラインにたどり着く事だ。スタートラインこそが我々の最初のゴールである。

 そしてその後の事は未来の人間が決めるであろう。そして未来の事などは我々の知った事ではない。我々は未来に配慮して生きなければならないが、未来を生きる権利は未来人にある。同様に、過去を生きる権利は過去人にある。そして今を生きる権利があるのは我々だけなのである。だから、我々は現代人として今を思い切り生きればそれで十分なのだ。僕はそう思う。

神聖かまってちゃん新アルバムの事など


 神聖かまってちゃん新アルバムの事など


 神聖かまってちゃんの新アルバムをずっと聴いている。僕が一番好きなのは「新宿駅」で、その次が「オルゴールの魔法」と「砲の上のあの娘」だ。このアルバムはの子の言うとおり、これまでのバンドミュージックから、打ち込み中心の楽曲になっている。その中でも一番、今までの神聖かまってちゃんらしいのは「新宿駅」ではないか、と思う。の子によるとこの曲は、パソコンではなく、いつものMTRで作ったらしい。だから、という事もあるだろう。なので、この曲をベストに押す事はの子からすれば、足をすくわれるような気持ちがするだろう。の子はとにかくも、新しい所へ行こうとしているからだ。

 僕という人間は神聖かまってちゃんというバンドにその存在を負っている。こう言うと大げさだが、事実そうなので仕方がない。元々、僕は古典作品志向であり、現代のサブカルチャーを軽視するタイプのいけすかないインテリもどきだった。その僕がこの最新の、奇妙なバンドに、他のどんなアーティストよりも影響を受け、微々ながらも自分の芸術活動、ないし芸術理論をスタートさせられたというのは本当に変な事だと思う。しかしこういう衝撃は自分の意志云々でどうにでもできる事ではない。僕自身としても避けようのない落雷に出会ったようなものである。そして、避けられないものにはおそらく、早めにぶつかっておいた方がいいのだ。避けて通っていたとしても、後で後悔するばかりである。人生というのは機能上、そういう風にできている。

 だが、そろそろ僕も神聖かまってちゃん離れしなければならないだろう、と僕は考えている。言ってみれば、子の親離れである。神聖かまってちゃんの哲学ははっきり言って、幼稚で単純なものである。そしてそれは「ぺんてる」における屈辱感の発露とか、あるいは「ちりとり」の、物凄く弱々しく切ない恋愛心の表現にあらわれている。例えば、この「ちりとり」という楽曲で歌われている恋愛の心というのは、それまでの通俗的なヒット曲と違う、物凄く切なく、実に弱々しいものである。それは世間の勝手に作り上げた、馬鹿馬鹿しい、社会システムと合致した恋愛遊戯とは違う、実に些末な、教室隅で行われるとんでもなく弱々しい恋愛心である。しかし、人々が己の心を粉飾している事に夢中になっている真っ最中に、この野蛮人は真実を叫んだのだった。そこに神聖かまってちゃんの意味があった。

 しかし、この新アルバムでは、そのメッセージ性は薄れている。そして代わりに、の子の、音楽プロデューサー的な豊富な音楽性みたいなものが前に出てきている。だから、より一般受けしやすくなったとも言える。しかし、音楽的に広がろうとしているので、別に通俗化して、堕落したわけでもない。この辺りの変化をどう捉えるかというのは実に微妙な所だが、僕自身はとにかく、神聖かまってちゃんの哲学から更に一歩進まなければならないと感じている。つまり、世界に対する抗言から、世界に対する落下、世界への帰還へと足を進め無くてはならない。

 親鸞は比叡山で籠った後に、非僧非俗と言って俗世間に戻ってきた。ブッダは自身がひきこもって得た真理を、大衆の中に帰ってきてそれを伝え始めた。ブッダもまた悩んだそうである。つまり、この真理を俗界にさらすに忍びない、と。しかし、神様がお告げにあらわれて、大衆に真理を伝えるように要請した。…ブッダもしぶしぶ、神の言う事に従ったんじゃないかと僕は思う。まあ、ブッダみたいな聖人の真理を云々するのはあれだが、結局の所、ひきこもりも最終的には、真理を持って俗世間に戻らなければならないという事なのだろう。俗世間は、そこに癒着し、同化する事を進めるが、たまには山の上にひきこもったり、六畳の部屋にこもってアニメばかり見る日々も必要なのだろう。そういう人間を世間は気持ち悪がるが、人々が自身を気持ち悪いと思わないのは単に多数決の論理が働いているからである。先日、覚せい剤でつかまった有名な歌手がいたが、結局、覚せい剤を打ちながら綺麗な愛人やら何やらと性行為をするというのは我々の価値観の成れの果てであり、また、我々の「理想」みたいなものではないか、という風に僕は考えた。結局、人は色々言っているが、拝金主義と快楽主義を取り除いたら、我々にはほとんど何にも残らないのである。アメリカのCEOはストックオプションやらで途方もない額の報酬を自分で自分に与えているらしい。アメリカの自由への渇望が、最後には金と快楽に行き着くというのはどういう事だろう。アメリカの建国の父がもし今生きていたら、何を望み、何を考えただろう。

 神聖かまってちゃんの哲学は誰がどう言おうと最初の一歩である。僕はそう思っている。世界に対して抗言する事、意味もわからず、わからないままでも、とにかく喚き叫ぶ事。確かに、こんな事は馬鹿げていると言えば馬鹿げている。しかし、孤独を恐れ、あるいは教養や知性なるもの、つまる所、人々の共同観念から離れる事を恐れているが故に僕達は何もできないでいた。それを最初に蹴破ったのは神聖かまってちゃんである。紛れも無く。しかし、そこから新たな哲学が展開されなければならない。そしてそれは僕の中にあるかもしれないが、どっちにしても、これを歩く道のりは言うまでもなく辛い。しかし、まあやらなければならないだろう。

 僕は全くの無名の存在だし、最後までそうかもしれないが、しかしそんな事は関係ない。一般人の薄っぺらい一般観念に適当に話を合わせるのは現実世界だけで十分だ。彼らの言う事など、何一つ信用ならないし根拠もなければ、全くどうでもいい事である。彼らは幸福なのだろうが、彼らは自分達の幸福を担保する為に、常に隣人の同意を必要とする。僕も生きているので、一応はそれに同意するが、しかしもうそんな事はどうでもいい。時代は彼らを置き去りにするだろう。そして、彼らは幸福のままに、そして、幸福の意味を知らずに世を去るだろう。

 だとしたら、僕はどうすればいいのか。今の僕は非常に辛い立場に置かれている。外面的には何一つ辛い要因は見当たらないのだが。しかし、こういうものを書く事に意味はあるのだろうか。まあ、でもーーーそれなりにやってみよう。考える事は好きなので。

 今日は空は曇っている。先日、こたつのヒーターを買って一人で取り付けた。木材に穴を開けて、なかなかに大変だった。しかし、こういう小さな事の積み重ねで人は生きていくのだろう。ほんの小さな事、くだらない事を一つ一つ拾い上げるようにして人は生きるべきなのかもしれない。…この文章はこれで終わる事にする。それでは、また。

登場人物と物語の二律背反

 登場人物と物語の二律背反


 僕のアドバイスなんて特に誰の参考にもらならないだろうが、『僕にとっては』参考になるので、少しアドバイスじみた事を書いておこうと思う。

 小説とプロットの関係について記すのは案外難しい。案外、というのはプロットが小説の軸になっていると考えている人にとっては楽であり、そうでない人にとっては難しい、という意味だ。
 僕は今小説を書き始めた人に対しては、プロットを綿密に立ててから書く事は絶対におすすめしない。それは多分、小説を書き始めた人間のする事ではない。(エンターテイメント系は別だと思う。僕が小説という場合は常に文学を想像している) では小説を書き始めた人間のする事は何だろう? それはちょっとした散文とか、詩とかを書いてみる事ではないか。あるいは、ちょっとした身近な風景や、人物のスケッチなど。まず、最初の人間が絶対にやってはいけない事は大作を志して書く事。何百枚もある綿密な小説を書こうとする事。これはやめておいた方がいいと思う。

 なぜ、そんな事を偉そうに言うかというと、それは僕がそれを散々やって、散々失敗してきたからだ。従って、別にやった所で、まあいいんだろうとも思う。でも、多分、ロクな事にならない。つまり、文学というものを志しているなら、どうしても小品から始めた方が良いのではないか。あるいは新人賞に送る場合でも、短いエッセイみたいなものを寄せ集めて小説と称して送っても全然構わないと思う。村上春樹の『風の歌を聴け』とか、高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』も、短い文章の寄せ集めと考えられる。とにかく、適当に短い文章を書いてそれをつなげて中編小説にして、新人賞に送っても全然構わないと思う。

 では、なぜ僕がこんな事を言うのかという、根本的な問題に写ろう。どうして僕がこんな事を言うかと言うと、そこにはそれなりの理屈がある。元々新人賞も取った事のない(かすった事もない)僕がこんな事を言うには、そういう理屈があり、その理屈だけにすがって今僕はこの文章を書いているのだ。

 プロットというのが、芸術としての文学において上手く左右しだすのは、その作家が大家になってからではないかと僕は思っている。あるいは、プロットが弱いと感じている作家ならば、過去の伝説や古典から、その形式だけを借りてくるのも大いに有効だろう。太宰治はそうやって成功したし、シェイクスピアなどは過去の作の改変者、編集者として超一流だった。

 プロットというものが正当に機能にするためには、一つの条件があると僕は思っている。それは、作者に何らかの巨大な思想があるという事だ。しかし、今の小説家は、思想なんて言葉を聞いただけでアレルギーを出して逃げ出すのではないかと思っている。綿矢りさや、白岩玄や金原ひとみにいかなる思想があるのか? 吉本ばななには、ものすごく微弱だが思想らしきものはある。村上春樹や村上龍にも思想はある。しかし、思想とプロットというものはいかなる関係があるのだろうか?

 思想がない、あるいは個人の内面に対する深い洞察もないパターンで作家が綿密にプロットを立ててから小説を書く場合を想定してみよう。まず、作家は最初に、登場人物を一ダースか二ダース用意して、綿密にそれらを走らせるレールを準備する。そして作品は、よーいドン!で、スタートする。登場人物は作者の手の上で踊り、色々な事を喋ったり行動したりする。しかし、あらかじめ準備済みのレールの上を人物が歩いて行って、それで何が楽しいのだろうか? 個人の人生においても、生まれてから死ぬまでの人生のコースが全て決められ、それを丁寧に歩いて行って何が楽しいのだろうか? 人間というのが真におもしろく、また滑稽で哀しいのはそれが自由な存在だからである。ドストエフスキーの登場人物は皆、自分が考えたり思ったりしている事と逆の事をしてしまう。しかも、彼らはその事をもしこちらが指摘すると、おそらく今度は彼らは、自分のしている事や考えたりしているその通りに行動するに違いない。ドストエフスキーの登場人物は天邪鬼である。ドストエフスキーの作品において、登場人物は真に生きている。彼らは、作家の手によって書かれた人物なのに、しかも、彼らは内面を持ち、自由を持っている。彼らは時に、作家の手を離れ、自己主張をしてみせる。彼らは独立して、紙の上で生きている。少なくとも、そう錯覚させるだけのものを持っている。しかし、僕達がプロットを綿密に立てて書き始めると、途端に登場人物はその自由を奪われ、ロボットじみた振る舞いを強いられる事になる。僕は例えば、西尾維新などは、確かに才能あふれる作家だろうが、しかし彼の登場人物は永遠に自由になる事を作者によって留められているのだと感じる。しかし、作家の筆は愉しげに運動している。しかし、登場人物はそれに対し、色あせている。一人の個人として独立して、自由ではない。

 つまり、ここには二律背反の関係があると考えればわかりやすい。登場人物に自由を与えれば、その運動は勝手気ままになり、物語の正道は定まらない。そして物語をきっちり決めると、登場人物は敷かれたレールをその通りに歩き出すので、まるでロボットのような人物になり、色あせて、精彩を欠いてしまう。確かにプロットはその通りに実行される。しかし、はっきり言って、読んでいてつまらない。

 思えば、僕はこの二律背反の中に閉じ込められて、この十年近く(長い!)をがんじがらめにされてきたようなものだった。僕は散々馬鹿みたいに失敗してきたので、今やってこの二律背反が飲み込めつつある。そしてその解決法を今探っているが、その解決は想像を絶するものになるかもしれない。

 例えば、ドストエフスキーやトルストイの小説には、登場人物の内面の自由と物語としての道が、両方確保されているように見える。しかし、そういう事が可能になるまで、どれほどの辛い作家道を歩んできたかと考えると、気が遠くなる。太宰治は「新ハムレット」とか「御伽草子」とかで、古典作品の骨組みを上手く利用して、彼の作品の物語性の弱さを克服している。太宰の作品は根本的に饒舌体であり、そこではその饒舌の主の自由の確保が何より重要な議題となっている。そして太宰は、それを物語の一貫として、ドストエフスキーやトルストイのように作品の中に組み込んで、壮大な作品として作り上げる事はできなかった。最後の作品『人間失格』は確かに傑作だが、これは太宰が自身の生涯を物語として利用している。また、彼は手記という方法で、根底的に一人称的のやり方を越えられなかった。ドストエフスキーが地下室の手記から罪と罰へのジャンプアップで、一人称から三人称へ移行した事を考えると、それは相当な違いである。(もちろん、単に三人称を採用すればいいとか、一人称は駄目とか、そういう問題ではない。言っているは根底的な方法の事である)

 登場人物の内面と、物語の構築。その二つは基本的に相反する。では、その二つをどうやって統合するか、という問題が作家には残る。しかし実際の所、そんな問題に行き着くことのできる作家はほんのごく少数なのだろうと思う。リルケがマルテの手記でとどまり、壮大な大傑作を書かなかったからと言ってリルケを批判するという事はありえない。まず、一人の登場人物ーーーつまり、主人公とか語り手の生き生きとした自由、この世界における全く自由な人物を生み出す、それだけでも一生をかけられる大事業みたいなものである。キルケゴールの「死に至る病」を一人称の小説として考える事は可能であろう。この時、キルケゴールは哲学的方法、思惟を通じて、一人の自由な人物(語り手)を創造する事に成功しているのである。

 では、実際に、ドストエフスキーとかトルストイとか、あるいは夏目漱石とかシェイクスピアみたいな、個人の自由と物語としての大枠が同時に成立する事はどうして可能なのだろうか? ここに、先に言った思想の問題が出てくる。あるいは、神の問題と言ってもいい。神というのは宗教的な話でなく、抽象的な話である。個人の内面を全て見渡し、そしてそれらがどのように運動していく事ができるのかを記述できる、心理的実体みたいなものを頭の中で思い浮かべると、それはもう「神」というポジションでしか表現できない事がわかるだろう。そしてその神というのは、対立する個人達を制御する「思想」というものとほぼ同じものである。

 ここからは極めて難しい問題に入る。例えば、夏目漱石がどうしてああいう物語を書いたのか。「それから」の主人公の代助は知識人であり、インテリとしての内面を持っている。彼は色々な事を侮蔑して、自分に満足して生きている。しかし、その人物も一歩を、人生の一歩を踏み出さねばならない。そしてそれは、「罪と罰」のラスコーリニコフのように、社会的には間違った行為である。しかし、にも関わらず、彼らは最初の一歩を踏み出さなくてはならないのだ。そしてこの最初の一歩から始めて、この人物は自分以外の他者に、他人の存在に出会う事になる。

 しかし、これ以上書くとなると、非常に面倒で広大な話になるので、ちょっとここらで止めておこうかと思う。…尻切れトンボで申し訳ないが。…一般に、人間というのは個々の内面を持った自由な存在であり、それを描くとすると、その外側の問題は次第にぼやけたものになる。これは量子論的文学論という過去の論考で言おうとした事だ。そこには量子論的な二律背反がある。人を描こうとすると、その内面の宇宙は自然に忘却される事になる。そして今の若手作家らが嬉々として、物語に取り組んでそれなりの結果を残しているようにみえるのは、彼らが作家として優れているからではない。そうではなく、我々の社会そのものが極めて表皮的なものなので、個人の実存とか内面とかを掘り下げずに、『リアリズム』の線に沿いながら、物語を構築する事が可能だからである。従って、そこには彼氏、彼女、友達、就活、結婚、妊娠の悩みなどが極めて薄っぺらい形で(それらの事象がそれ自体で薄っぺらいとは限っていないが、それらが薄っぺらく現れる事は可能である)現れる。そしてそれらはリアリズムであるという言い訳も成り立つので、そこに、大衆との一種の契約が成り立つ事になる。つまり、人々の薄っぺらい生活とそれを描いた薄っぺらい物語は、互いに妥協可能である。しかし、その表皮的な社会に疑いを抱いてみせたのが、少なくとも、村上春樹、村上龍の価値であった。従って、ここに本当の物語が生まれる動機、あるいはそのきっかけがある。しかし、両村上はドストエフスキーやトルストイに叶うとは言いがたいが。

 とりあえず、この論考はここで終わる事にしたいと思う。僕は今の若手作家らが考えているように、小説というものは安々と書けるものだと思っていない。それは結局、不器用な歩みであり、遠回りであり、うさぎではなく亀の一歩である。死の一歩手前で真理に辿り着いたとしても、非常に早い段階で偽の真理を掴むよりはマシだと僕は考えている。そして物語と個人の内面の結合はーーーおそらく、『歴史』が我々の意思とは関係なく(また、それを統合する形で)蠢き、運動するように、どこかある一点から見れば、可能なはずである。あるいはそういう視点がどこかにあるはずである。そしてそれを探す試みは僕は面白いものだと思っている。それでは、この論考はここで終わる事にしよう。

Bloga enneagramica について

昨日辺りからBloga enneagramicaをずっと読んでいる。この人の保守的な考えや尊王思想には正直あまりついていけないのだが、大いに勉強になる。それで読んでいるとこういう記事に出会った。 http://blog.livedoor.jp/h7bb6xg3/archives/51802013.html

「でも、自分に自信があるのは、このブログの読者から、自分の後継者が必ず出現して、そいつは世の中に一端の名を成してくれることである。自分は、絶対に、吉田松陰にとっての山県大弐、西村賢太にとっての藤澤清造のような存在になれると思っている。自分も、死んだあとには、ゴッホかキルケゴールのようなタイプの奇人天才の一角を占めることができると期待している。

自分は、絶対に何かしら永遠の一端に触れていることをやっている。時代が自分にそっぽを向いても、永遠は自分に遠からず微笑を投げかけてくれるはずである。いや、永遠は、私が現れてこれらの文章を世にもたらしてきたことで、これまで滅多に感じることのなかったほどの破格の愉快さと痛快さをあっぱれと大喜びしながら、呵呵と快晴の大哄笑を重ねてきていたかもしれないのだ。」

…何か僕が書きそうな文章でもある。僕も一応は「永遠」に触れているつもりではある。その見返りは僕達の死後に、僕らの見知らぬ誰かの身に降りかかるのだろうか?

そういう事はよく分からない。偉い人は皆死後により偉くなる。



ビジネスチャンスについて


 ビジネスチャンスというものはシンプルなものだと思う。例えば、大王製紙は少子高齢化を見込んで、オムツ用の新工場を創設した。一方で、代ゼミの閉鎖という話題もある。少子高齢化だから、受験生が減るというの眼に見えているのに、代ゼミはそれに対応できなかったのではないかと思う。ドラッカーのポスト資本主義社会を読んでいると、教育を生涯続けていく事が大切と書いてある。代ゼミは、持っている知識やノウハウを活かして、受験生以外の教育、年配の人達に対して知識を授けるという方向に向かえば生き残ったのではないか。もちろん、これは机上の空論で実際にどうなるかはやってみないとわからない。しかし少子高齢化という余りにも当たり前の現実に対して特に変化せず、過去の方法論を引きずるか、それともそれをチャンスと捉えるかで全然変わってくるのではないかと思う。

 よく考えれば当たり前の事、簡単な事が見過ごされている。そんな事からビジネスチャンスは始まるのではないか、とドラッカーを読んでいて感じました。

作家のツンデレ気質の事など




 経済とか政治とかについて色々と調べていると、僕みたいな芸術至上主義者には反省する所がある。芸術家(とそう呼ばせてもらう。)というのは、ある与えられた環境とか時代状況を、必然的で不動のものと考える癖みたいなものがある気がする。そして、そうやって、自分の闘う相手を的に固定して、自分は矢としてそいつに飛び込んでいく。そういう感覚というのがある。

 太宰治という作家を典型として、よく作家というのは自己卑下をするものだと思う。カフカが自分で見た自己像はおそらく、みすぼらしく痩せた何もない青年だったのだろうが、しかし、カフカの周囲の人はカフカを深く尊敬していたらしい。オーウェルが、自分の事を見下すように書いていても、その周囲の人は「あのイギリス人は実に勇敢な兵士だった」と証言したりしている。(うろ覚えだが)
 そういう風に、作家というのは自己卑下というのを一種の処世術のように身につけていたりする。この時、作家は嘘をついている、と言うと語弊がある。むしろ、そういう風に自分を扱う事によって何かを主張しようとしているのだと考える方が正しい。吉本隆明と田村隆一が対談をしていて、田村が「いや、俺はいつも逃げてばかりいるからねえ」みたいな事を言って、吉本が「いや、田村さんは闘っているんですよ。いつも、闘ってきたんですよ」みたいに言う場面があったが(これもうろ覚え)、実際、田村隆一は闘い続けた人だと思う。しかし、闘ってきたなんて言うとかっこ良すぎるので、酒飲みが寝そべっている様子を人には見せている方が本人も楽だし、嘘がない、という事がある。田村隆一のような人は、実際に適当な人だったのかもしれないが、適当さを外側に出していた方が気楽だったのだと思う。元野球選手の落合は「ツンデレ」で有名だが、イチローとか、ダルビッシュも、だいたい彼らはツンデレ気質だと思う。というのは、外側の、メディアやファンにいちいち本心を見せているとろくな事にならないし、野球に集中もできないので、それで外にはツン的な表情を見せるのだと思う。モウリーニョなどは明らかにそのタイプだ。そしてそれを見ている側は、そういう人を嫌いになる人と、その奥の「デレ」を感じ取る人と、二種類に別れる気がする。これは洋の東西を問わない。

 漠然とした話になったが、要はツンデレ礼賛、という事である。しかし、場合によっては、「デレ」を死ぬまで誰にも見せない場合もある。しかし僕の考えだとそういう人間もツンデレの範疇に入る。ツンだけ、デレだけの人間というのは、この現実社会では脆い生き物ではないかと思う。ヒットラーなどはツンだけだったと言う気がする。デレもあったかもしれないが、僕の言うデレとは、「魂の湿った部分」という事である。中年を越えた男性で良く、パサパサに乾いて、ただ怒声しかあげられない人物を見かける。(女性だとヒステリックな人)こういう人達にはデレの部分がないか、あるとしても、そのデレの部分もただの馴れ合いで、乾いてしまっている。リトル・トリーという小説にそういう話が出てくるが、日常生活で利得の事だけ考えていると、魂というものがほとんど存在しないような人間になってしまう。この手の人物ははっきり言って、人間というよりはどんどんと動物的なものに近づいていく。怒鳴る、怒る、自分の権利を主張する、要求する、イライラする。今の世の中には税金を払い、社会的身分がしっかりして、家庭もきちんとあるが、内面は小学生並み、という人がたくさんいる。そしてこういう人が、自分の子供に受験勉強を押し付けて、そして子供がぐれるようになる、というのは割りとあるパターンだと思う。

 魂などとというものが何の役に立つのか、という人はいるだろうが、しかし素晴らしい音楽が鳴っていても、それが響かない心に何の意味、どんな人生の価値があると言うのだろうか。他人の愛情も嫌悪も、何かの精神的な効果であり、一種の楽音である。それが理解できず、魂が閉却された状態で、秩序のみをまとって大人面した人間が余りにも多すぎる。権利や主張はあるが、心はない。そしてこういう人間に限って、「他人のため」「世の中のため」と言う。この「他人」とか「世の中」とは結局、そう言っている人間の事なのだ。さても、厄介なものだ。

 思わず愚痴ってしまったが、この文章はこのまま残しておく事にする。精神と社会的身分を同時に発展させ、同時に大人になるという事は、生きる上であまりにも大変な事のように思える。しかし、それを目指さなければ、何の為に生きているのかわからない。ただ、優しい天使であるだけでは、この世界では生きてはいけない。天使もまた身を守るために、心の武器ーーペルソナを持たなければならない。手ぶらの天使は犠牲になる運命にある。しかし、その美しさは心に残る。そういうものの美しさを言葉で保存するのも、あるいは、芸術家の運命の一つなのかもしれない。



メモ書き


 今、Bloga enneagramica http://blog.livedoor.jp/h7bb6xg3/ という人のブログを読んでいる。よく分からないが、物凄い博識でなおかつ独自の見識を持った凄い人のように見える。

 僕の考えには全くなじまない点も多々あるが、この方から学ぶ事も沢山ある。ちょっとメモ的に書いておく。

神聖かまってちゃん「新宿駅」を聞きつつ

 今、ドストエフスキー論を書いている。個人的に、これを自分の評論の集大成としたいと思っている。そう言うと大げさだが、ドストエフスキーという容器に自分の持っているものを全て詰め込んでいこうと思っている。

 クランチマガジンというサイトを僕はよく使わせてもらっているのだが、そこは小説投稿サイトなので、当然小説についての様々な物事が問題になる。僕は今、ドストエフスキーについて資料を借りたりして書いているのだが、結局、ドストエフスキーなどは、「文学」などというものとはほとんど何の関係もない存在なのではないか、という気がしてならない。彼の頭を悩ませているのは当時のロシア社会、近代から延長された理性の絶対化、その危険性、そしてキリスト的な愛、ヨーロッパを後進国ロシアがどう受容するか、隣人を愛せるか否か…などなど、とにかく人間的かつ、世界的な問題なのだが、その時に「これから文学をどう守っていくか?」みたいな今の文化人が言いそうな事は頭の片隅に全く入っていない。僕はそう思っている。

 トルストイにとって、そしてドストエフスキーにとって問題なのは文学ではなかった。彼らにとって大切なのは人としてどう生きるか、世界はどの方向に進むのか、人は他人を愛する事が可能なのかどうか?…などなどの極めて重大な思想的な問題であって、その過程でその他の、様々な歴史、哲学、宗教、科学などがその文学の内に織り込まれる事になる。

 僕は自分のしている事も、これからする事も、「文学」などととは何の関係もないだろう、という気がする。これから出版業がどうなるか、作家は食っていけるかどうか、などなど。それらは切実な問題なのだろうが、しかし、文学とはそもそも一体、何だろうか。人々の価値観とは何だろうか。世界の価値観とは何だろうか。それは本当に絶対的なものだろうか。何かを成し遂げる事により、人は他人から評価される事を欲する。あるいは売れる事を願う。しかし、それは何か。人々の価値観の中で生きるとは何か。自分の為に書くとは何か。自分の為に書くとは、エゴイスティックな行為か。では、トクヴィルなどが看破した「大衆の専制主義」とは何か。集団のエゴイズムはエゴイズムではないというのか。…それならば、僕は僕のエゴイズムを貫こうではないのか。世界は、集団のエゴイズムを「他人の為」という美名に変え、個人を支配していく。共同幻想に個人幻想を隷属化させる道を選んだ人々は、他人が自由を持つ事を許さない。彼らは誰よりも早く、自分達の自由を失う事から始めたので、他人が自立し、自由でいると、それを攻撃せずにはいられないのだ。そしてそんな人間は世界にゴマンといる。

 生きるという事は一体何だろうか。君が自分の顔を穴が開くまで、トイレの鏡で見つめたら、どうなるだろうか。

 僕もまたリア充に生まれれば、あるいはそう生きればよかったと思っている。しかしそういう道を歩くにはもう遅すぎる。おそらく、底辺ーーー心理的な、世界から外れた真の底辺しか味わえぬ喜びを僕はもうすでに知っているので、だから、もう人々の道には帰れないだろう。ドストエフスキーが牢獄で学んだ事は何か。ーーそれは罪人もまた自分と同じ人間だという事だ。ドストエフスキーが発見した「人間」はそれから長らく、人間の存在を定義づける大きな真理として機能したと思う。僕はーーードストエフスキーに習って言おう。真理がなければ、どんな財宝も綺麗な彼女もイケメンの彼氏もゴミにすぎないと。真理?…笑わせるな。生きて、適当に愉しめばいいんだよ? なるほど、それはそうかもしれない。しかし、その楽しむとは何か。その楽しみーーー笑顔はどこで消え失せるか。おそらく、人が心理の牢獄を、回避して生きる事は不可能なのだ。僕は一度、マルチ商法に引っかかりかけた事があるが、彼らは皆心底楽しそうな顔をしていた。そのサークルは皆、偽の幸福を装った顔をしていた。でも、僕の本能はそれが嘘だと叫び続けていた。僕の本能は、僕の理性よりも賢かったのだと思う。僕は結局、マルチ商法には引っかからなかった。僕は、幸福を一番恐れていたからだ。僕は自分が不幸だと、安堵できる性質なのかもしれない。

 言葉によって何かを語る事ーーーそんな事はもう不可能なのかもしれない。文学は音楽は、経済は、そして人間の生は全て、ガラス越しに、誰にもさわれない何かになってしまった。誰しもが受け身で、まるで、友達の遊んでいるゲームの主人公を操作するかのように、自分自身を生きている。他人となった自分を生きているこの世界で、自分自身であろうとする事ーーーそんな事に意味があるだろうか? …不幸は、意味深いものだ。それは僕達に何かを教えてくれる。おそらく、マルチ商法の偽の幸福さを破るには、それを法で罰するだけでは足りない。そうではない。結局の所、真の幸福がーーー不幸のその底にある事を発見することが肝要なのだ。ドストエフスキーは言った。「人がこんなにも不幸なのは、誰しもが自分は幸福だという事を知らないからだ」 これが逆説とか、機知に聞こえる人はおそらく、まだ人生を十分に生きていないのだ。僕にはそう思える。人生を突き抜けろ。人生を突き抜けてしまえば、この言葉が、実にストレートな意味を持っている事が判明するだろう。

 …という事で、この小文は終わりにしたい。僕のこれからする事は文学なるものとは一体、何の関係もない事となるだろう。しかし、それはそれゆえに何よりも、「文学」であり続けるだろう。…少なくとも、僕はそう願っている。

 …批判者達が何を言うかは大抵、僕には分かっている。彼らは僕に点数をつけるだろう。僕に簡単に「×」をつけるだろう。しかしながら、採点者達は知らないのだ。世界には、採点できない領域に踏み出す事にのみ、深い喜びと悲しみがあるという事を。そしてそれこそが世界の深淵である。そして深淵を避けては、人生というものは存在しない。おそらく、老子の言う道とはーーー世界の底に横たわっているものなのだ。僕はそう思っている。僕はそんな風に自分の事を考えている。それではまた。

D猫殿下論

                          はじめに


 殿下に関しては、ツイッターで若干のやりとりをさせてもらい、また大変褒めて頂いて嬉しかった。しかし、今から書く事はそれとは関係がない。僕は既に、神聖かまってちゃんと手回しオルガン弾き氏の、両方に大して自分なりの「論」を書いた。昔、吉本隆明が「文恩に対しては文恩で返す」という事を言っていたが、先に二つ書いた論評は僕からの一方的な恩返しである。だが、殿下に関してはまだきちんとは書いていなかったので、ここで書いておく事にしたい。
 元々、殿下については書きたかったのだが、音楽に関してはよくわからないので、書けなかった。なので、チラリと書いただけで終わった。僕は神聖かまってちゃんについても色々と書いているが、僕はもっぱら神聖かまってちゃんを思想的存在として扱っている。それは、歌詞という言葉の部分から、思想的な面を掘り出せるからであり、音楽について無知な僕はそういう方向を取るしかなかった。だから、ピアニストである殿下について論評するのは難しいし、おそらく見当外れの事も言うだろう。しかし多分、僕以外にこんな事に真剣に取り組みむ人はいないように思うので(例えば、植松伸夫の音楽が気になって、それに対するきちんとした音楽評論を探したが、ネットでは見つからなかった。どれも印象論とか短い断想に留まっている)、書く事にする。そして書いた結果はそれぞれの判断に委ねればよい。


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 芸術がどのような形式かという事は時代により、学者により、散々に言われてきたが、ある種類の芸術家らにとって、芸術とは極めて純真で、当たり前のものであった。それは1+1が2であるように、簡単な事実だった。しかし、簡単な事実が簡単に現れるとは限らない。こういう言い方は小林秀雄的だが、しかし真実である。
 殿下のクロノトリガーの二十分近いピアノ演奏をよく聞くと(https://www.youtube.com/watch?v=TotjJzocXvo)、殿下自体の演奏技術は凄まじいものの、そこで「歌われている事」は単純である事に気付く。例えば、上記の動画の十六分くらいから「風の憧憬」という曲を演奏しているが、この曲のメインメロディーはレミファミドラレ~から続くひとつなぎのフレーズである。殿下はこのフレーズを最大限に美しく見せる為に、彼女の持てる技術を最大限に動員している。殿下はこのメロディーを視聴者に強烈に印象づける為に、十六分~十七分三十秒くらいまでの間、出来る限り切なく、物悲しさもともなう美しい調子で弾いている。しかし、それは十七分四十秒辺りで一変して、極めて力強い調子になり、この時、メロディーのメインフレーズは一番強化された形で視聴者に伝えられる。この時、それまでの弱音が僕達の聴覚や感覚にとって踏み台となり、その後の力強い音により強く、心が反応する。だからこそ、僕らはこの演奏を聴いて感動する。要はこうして、殿下は視聴者の心を操っている、あるいは自分の心情を伝えている。
 他の例も上げるなら、二分三十秒以降は、ゲーム内の広場で流れる、明るく軽快な曲を弾いている。ここでは殿下は「風の憧憬」演奏時とは全く違い、出来る限り軽快で愉しげなフレーズになるように心がけている。だから、この曲の時は、かなり音を短く切って、軽快感を出している。しかし、曲調が一変すると、殿下の演奏スタイルも一変する。
 殿下の演奏ーーー特に、このクロノトリガーのピアノ演奏では、明らかに、極めて強固に強弱がつけられている。そしてそれは技術と呼んでもいいし、そうでないと言ってもいいのだが、それはかなり面倒な問題になる。これに関しては後述する。
 例えば、この殿下の演奏をニコニコで人気の「まらしぃ」とくらべてみれば、殿下との演奏の違いは明らかである。先に言っておくと、どちらが技術があるか、どちらがうまいか、という事は僕は興味が無いし、そんな事は芸術を図る物指しになりようがない。うまいかヘタかで言うなら、人間が絶対にできない演奏を機械はできるだろうし、だとすると機械の演奏が一番優れているという事になりかねない。技術というのは表現として存在する限りにおいて意味があるので、そうでなければ、それは単なる進化の袋小路的な、極めて神経的で誤った方向への進歩という事になるだろう。しかし、人がうまいかどうかをここまで病的に気にするには、それなりの歴史的理由がある。しかし、それはここで書くではない。
 「まらしぃ」の演奏を聞けば、殿下との違いは明らかである。それでは何が違うか。ーーーもちろん、技術の差ではない。その違いは演奏に対する「狙い」であり「意図」である。もっと言うと目的であり、目的が表現となり、音なって世界に響く。音楽がここまで尊ばれるのは、それが芸術の中で、もっとも精神現象を直接化した存在であるからだが(それを対象化すると哲学になる)、しかしそれが為に、音楽はその演奏者や制作者の心根を正直に反映する。考えてみれば、たかだか88個の鍵を押したり引いたりするだけで、その人が表現されるというのは奇妙な現象である。しかし、人間精神が物質的な、外部的なものに自分を仮託して自己を表現しようとする時、音楽は精神に最も準じた、一番正確な律格となりうる。音楽が僕達にとって言葉以上に魅力的なのは、それが言葉を使った芸術のように、迂回したものではないからだ。頭脳のフィルターを通してないからだ。それは、直接的である。だから、それは物質化した精神現象と言える。…もっとも、空気の振動は物質とは言えないかもしれないが。
 「まらしぃ」の演奏で狙いがつけられているのは、技術的な巧拙ではないかという気がする。全体的に速く弾かれていて、それが視聴者を惹きつけるのだろうが、平板な感じは否めない。流行っている曲を極めて速くピアノで弾いていて、そこには技術を見せつけるという意味があるようにしか聞こえない。そうでないかもしれないが、しかしどちらにしろ、平板ではある。だからその演奏は耳とか目とかの神経感覚には強く訴えかけるし、また馴染みの曲だという事も視聴者の興味を惹きつけるのに十分だ。しかし、その演奏で感動するかと言われたら、僕は感動できない。それはお前だけだ、と言われるかもしれないが面倒なのでここでは反論はしない。
 他の例をあげてみよう。押尾コータローという有名なギタリストがいる。高名なギタリストなので、おそらく一流の人だろうな、と漠然と僕は思っていたが、しかし動画を見て、印象が変わった。押尾コータローが坂本龍一の「戦場のメリークリスマス」を弾いている動画がある。この演奏に押尾コータローの技術が最大限にあらわれて、確かに美しいし素晴らしいが、しかしその演奏には何かしら、内的なものが欠けている。僕の印象では「戦メリ」はもっと内的な、暗いものも含んだ名曲である。坂本龍一がトリオで弾いているのと聴き比べると、その差は歴然としているように思う。坂本龍一がもう少し深い所で演奏しているのに対して、押尾コータローは「音楽」「ギター」あるいは「聴いていて美しい」というカテゴリーで弾いており、そこには「表現」の問題は強く現れていない。例えば他に、これもニコニコで人気の石川綾子というバイオリニストもいるが、この人の演奏スタイルも、僕にはその技術が彼女の魂の表現にはなっていないと感じる。「ザナルカンドにて」を演奏しており、確かに素晴らしいが、しかしそれは音楽というものに対する態度が殿下とは根本的に違うのが感じられる。石川綾子という人の技術は何となく、ポイントポイントに置きにいっているような印象がある。つまり、そこでも「音楽として美しく聴こえるにはどのように技術を行使すればいいか」が目的であり、「表現」は問題となっていない。同じ事で言えば、ボーカリストの西川貴教とか、あるいは水樹奈々なんかも同じだと感じる。彼らは確かに卓越した技術を持っているが、それと心は結びついていない。もっと言うと、自分の持っている技術と自分の存在が結びついていない。そしてそれが学校でアカデミックな訓練を受けたか、ボイストレーニングで得た技術なのかは、特に問わない。重要なのは、技術が何のためにあるか、という問題である。普通の人は技術が目的になって終わるが、しかし、先に進む人は技術を手段として行使する事が可能になる。
 殿下が、伊右衛門というお茶のCMの曲をピアノでどう演奏すればいいのかをレクチャーしている動画がある。これは大変に特徴的であり、面白い。殿下はそこで、あるメロディーやフレーズをどのように解釈するかについて、色々と語っているが、この時、D猫殿下というピアニストは明らかに一個の批評家である。創造の先端には批評がある、というのは間違いない事実であるが、その批評そのものの質というのが、常にアーティストには問われる。一般に考えられるほど、オリジナリティというのは神がかったものではない。ある作品に対してどう批評するかで、そのアーティストの心の形式が全て現れてしまう。元々、楽譜通りに弾くという事は不可能なのだ。そこには必ず解釈者の余地があるのであり、だから、そこに創造の余地もある。はっきり言ってしまうと、D猫殿下のクロノトリガーの曲の演奏は、クロノトリガーの曲そのものを越えてしまっている。少なくとも、僕はそう感じる。ここで起こっている事は何かというと、作曲者の光田氏と殿下の一種の対決、あるいは調和である。もちろん、僕もクロノトリガーの曲は大好きである。なので、別に曲を汚すつもりは毛頭ないが、しかし原理的に、批評家が批評対象を上回るという事はありうる。そして殿下の場合、明らかに演奏者の力が曲の力量を上回っている。

                  
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 ここまででも、僕は「表現」という言葉を何度か使った。そしてD猫殿下の演奏には強弱があり、そして「まらしぃ」の演奏にはそれが乏しいと書いた。だとすると、疑問がいくつか生まれる事になる。「表現」とはそれほど大切なものか? あるいは、強弱がついていれば、それは自動的に良い演奏となるのか? その点はどうなのか?
 この問いに、僕は簡潔に答えたい。というより、次のような考えを提出したい。つまりそれは「心が最大の技術である」という事だ。手回しオルガン弾き氏風に言うなら、心というのが、芸術作品において、微細なフォルムを生み出す為の最高の機関、あるいは理論である。人は変に思うかもしれないが、最高度の芸術作品において、その理論はその心情と一致する。また、その技術はその心そのもののあらわれである。これは当然、説明を要する。
 殿下がそのピアノ演奏において微妙な強弱をつける事により、視聴者の心を揺さぶるのは、それが技術だからではない。殿下が何故そうするかと言うと、それは彼女の中で、完全に心と技術が一致しているからである。例えば、ある強烈なメロディーの前で一瞬間を溜めたり、左手のリズム的な演奏で徐々にやってくる盛り上がりを演じる。しかし、それは先にあげた人達のように、技術としてそうしているのではなく、殿下の心がそうであるから、そう弾いているのだ。この時、技術と心とは一致している。僕達が彼女の演奏に心を揺さぶられるのは、ピアノ演奏という最も微細な、直接的な音楽現象に、彼女の心が透明に反映されているからである。そして、この時、技術はどこにあるのか。それはピアノという物、単なる物性、あるいは人間の偉大な発明品と、芸術家の心を直結させる橋として存在している。この時、もちろん、技術がなければ芸術にならない事はもちろんだが、心がなければ芸術にはならない。だから、芸術家にとって最大の才能はその心情にあると言っても良い。技術というのが目的になっている限りは、それは芸術家とは言えない。芸術家は自身の心と、外側の、言葉や絵の具や、メロディーやフレーズとを直接的につなげる、そのような存在である。そして、心と物との距離はこの世界において、最も遠い。だから、その間を埋めるべく、本物の芸術家は日夜修練するのだ。だから、それは常に自分本位的なものである。偉大な芸術家につきまとう、無意識的な尊大な雰囲気というのはその点に由来する。

 少し、見方を変えてみよう。例えば、パソコンに鍵盤をつないで演奏する時、その強弱はベロシティと呼ばれ、それは〇から127の段階で表される。(一番強いのが127) だから、細かい事を抜きにするなら、その状態でピアノを演奏する場合、その127段階のベロシティの強弱と、そしてキーである88個の鍵盤の数の組み合わせによって、どんなピアノ演奏も記録される事になる。(面倒なのでペダル等は抜く) だとすると、この電子的な情報の組み合わせを分析する事により、例えば、偉大なピアニスト達の演奏をコンピュータによって再現したり、また、自動で作り上げたりする事ができるか?という問いを設定する事が可能だ。つまり、そういう電子的な情報の側面から、芸術を完全に機械化し、そしてロボットが自動生成する、そういものに作り変えてしまう事ができるのか? これは意図的な問題設定なので、細かい所は抜きにしてもらいたい。以前に、「猿が適当にタイプライターを打ち続けたら、いつの日かトルストイの『戦争と平和』が偶然に生まれるか?」という問いがあった。僕の今の問いは、それと似たようなものである。
 つまり、ここでは芸術の論理的な面のみを注視しており、ここでは、僕が心と呼んでいたものは無視されている。この論理的、理論的な面をずっと進んでいくなら、芸術に遂に心は要らなくなってしまうのではないか? あるいは、心を持たない機械が自動で素晴らしい芸術をどんどん製造する日が来るのではないか? 心などは、所詮、芸術愛好家の戯言に過ぎないのではないか?
 言ってみるなら、マルクスの行き過ぎた理論からレーニン、そしてスターリンに至る悲劇は、こういう面に現れたと言える。つまり、彼らは現実から理論を抽象したが、それをまた現実に適用するという事をして、大失敗した。これから先もそういう失敗が起こらないとも限らない。現実ーーーつまり、例えば殿下の作品から殿下の音楽理論を今の僕のように抜き出す事は可能である。しかし、僕がその理論を適用して、ピアノ演奏しようとすると(訓練して)、それは殿下とは似ても似つかない、醜いイミテーションになってしまうだろう。ここでは何が問題か? どこから間違えたのか? ここでの問題は、殿下の理論は殿下の心そのものであるから、もし、僕が殿下の演奏をしようとしたら、僕自身が殿下自身にならなければならない、という事である。心というのを、現実、あるいは理論から逆算できると想定してみよう。ある種類のベロシティの強弱と88鍵の組み合わせの、一つの演奏情報があるとする。そこに、その機械的、自動的な演奏があるとすると、一つの問いが起こる。だとすると、それを統御する全体的な精神とは何なのか? それを統御する全体的な、統一的概念とは何か? すると、その統一的概念こそが、僕の言う「心」だという事がわかるだろう。もっと言うなら、僕の考えでは、この先、ロボットやコンピューターが偉大な芸術作品を作る事は可能である。それは可能だが、しかし、その場合、そのロボットなりコンピュータなりは、偉大な芸術作品を作る上で欠かせない、精緻な芸術理論を持っている事が要求される。そして、それは心の代わりになるような何かであり、そしてもし、そんなものをその機械が持っているとしたら、それは外見はどうあれ、それはもう「人間」になっているのだ。思考し、心を持っている機械を我々が生み出す可能性はある。しかし、その時、それはもう機械ではなく、変質した、あるいは進化した人間そのものである。そう考えない方が逆におかしい。僕達は片腕をなくした人間を「人間でない」と斥けたりはしない。だから、その時、人間の本質を抱いている機械はもう既に人間であると言える。だから、芸術作品を作るには、全体を統御する何らかの概念が必要であり、今、僕はそれを便宜上「心」と呼んでいるだけなのだ。
 しかし、今述べた事だけでは、徹底した自動機械論には反論できない。共産主義的に良い芸術を乱発できるという考えに反論するには、もうひとつの道具が必要だ。それを今述べる。
 理論から芸術を生み出す事はできる。そして、今のように、「うまい」と「へた」という言葉だけが価値基準になってしまっている、そういう世界の趨勢にはそれなりの根拠がある。この場合、あらゆる演奏、あらゆる楽譜、あらゆる音楽が既に試みられ、単に人は、ある決められた階段を昇る事だけが、何かに卓越していく事だと無意識的に考えられている。卓越していく、向上していく事には、「既に決められたものをなぞる」という発想が染み付いている。その最たるものが受験勉強だ。そこでは、優等生達は現実から理論を抽象し、そしてその理論からまた新たな現実(芸術作品など)を作り上げる。しかし、そういう過程でできるのは商品、製品だけだ。ーーいや、しかし製品すら、そのような方法では「量産」しか可能ではない。発明、発見、あるいは何かを創造する過程というのは、常に現実から未来へと至る一歩であるから、未知なものを含む。しかし優等生的なあらゆる精緻な理論は、この未知なものを見逃すか、目をつぶる事から始める。だから、彼らはこう言う「我々は天才ではないので、彼らのようには考えないようにしよう。我々は凡人なのでかくかくしかじかの方法でやろう」 しかし、僕は逆に考える。どんな愚鈍な凡人でも、その人間が何かを試行錯誤、工夫したり発明しようとしている限り、その人間には(一時的といえ)天才の影が射しているのだ。そう言えるのだ。
 何かを生み出すという事には、常に未知のものが潜在している。それは逆に言うと、そのアーティストなり、発明者なりが常に、未知なものを目指しているという証明であるとも言える。僕が言うのは、次のようなシンプルな事実だ。「現代において、モーツァルトのイミテーションを生み出す事はいくらでもできる。しかしどんな精緻な理論も、現代のモーツァルトを生み出す事はできない」 世の天才らは常に、今を基盤にして未来へと一歩踏み出す。そしてそこに彼らの悲劇の原因が在る。彼らは一歩を踏み出す事により、現在世界から疎外され『未来』へと入り込む。彼らーー特にアーティストのような独自の存在は今を蹴破り、未来へと、未来の見えない天国へと入り込む。しかし、それが天国なのは、それが今、ここで現実ではないからなのだ。現実に天国を作ろうとする試みは、常に現実に地獄を作り出すという結果に終始した。だから、芸術家はその作り出した芸術の中でこそ真に呼吸する事ができると言える。彼らは、「今」を前提として未来へ歩くが、どんな複雑で正確な理論も、未来を織り込む事は不可能である。何故か? もちろん、未来の傾向を予測する事は可能だろう。しかし、その瞬間に、未来へ歩く者は、「未来への傾向の予測」さえも自分の思念の内に取り込んで、それすら越えようとする。ここで葛藤が起こる。現在性とは常に与えられた世界の事である。それは今から過去に至る精密な理論である。精密な理論から、過去のものまねを引き出す事はできる。しかし、現在から未来へ歩む、その一歩は踏み出す事はできない。ーー現在の、技術全盛、そして方法論全盛の重大な欠陥はここにある。それは製品を量産する事はできる。そして、それはもちろん重要なものである。技術や方法論は。しかしながら、芸術は製品であるとは限らない。少なくとも、天才の作る芸術はそうではない。だから、天才とは常に理論外的なものであり、天邪鬼的な存在でありーー殿下の言葉で言うなら「変態」だと言う事になる。それは突飛な存在であり、階段を昇っていく事象ではない。うまいとかへたとか他人に言う事はできる。みんな、コメントでそう書いている。だが、僕は逆に問いたい。…では、その「うまい」とか「へた」とか言っているその基準そのものはなぜ、そう確固としたものとして誰にも信じられているのか? なぜ、その価値基準を何の疑問もなく、誰も彼もが受け入れているのか? 天才を人々が感嘆しているような顔をして、実は半ば以上拒否する理由もここにある。天才は現在の破壊者という側面がある。彼らは今の僕らの価値基準を破壊する。そして新たなものを生み出す。すると視聴者に二つの態度が生まれる。自分の価値基準が破壊された事に憤慨するもの、そしてその事に喜悦を漏らすもの。そして後者は現在から未来へと入っていき、前者は、現在から過去へと還っていくのだ。


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 D猫殿下のピアノ演奏について書くつもりが、妙な方向へと来てしまった。まあ、いつも通りの事と言えばいつも通りだ。色々書いたが、僕が殿下の演奏について言いたい事はそれが「魂の演奏」だという事。しかし、こんな言い方は陳腐であろう。だから、僕はそれを様々な方向から描き出そうとした。例えば、魂とか精神とか心とかに、現実には存在しないものでそれを根拠づけようとするのがいわゆる「スピリチュアル」と呼ばれるジャンルである。スピリチュアルは僕は嫌いではないが、しかし、彼らは精神を物質化している。僕の彼らに対する批判としては、彼らは精神を物質と対立する物として考え、そこに様々な根拠や理屈、またそういう世界観を提示するが、しかし結局、それらは精神を物質化する行為に過ぎないのである。彼らは彼らが対立するものと、敵対する事によってその世界観を作り上げているが、結局は、スピリチュアルはその敵たる唯物論とそっくりそのまま同じ方法論を採用しているのである。ここにスピリチュアルの欠陥がある。また、現行の「現実主義者」や「功利主義者」、「成功至上主義者」達も同じ事である。彼らは物や金が全てだと言うが、彼らはいつも物や金に過度の精神的属性を付与する事よって、その主張を成り立たせているという意味で、過度な精神論者と言う事もできる。
 殿下の演奏において、技術は完全に彼女の魂の征服下にある。従って、それがうまいかどうかという事自体は意味が無い。その他の人には、うまいかへたかという問いはそれなりに意味があるだろう。なぜなら、そういう風に考えて演奏している人が多いからだ。そして、それは現行の資本主義の唯物論的、そして拝金主義的な思想と一致している。そこではピアノ演奏の技術は外的なものである。例えば人は「ピアノが弾ければいいだろうな」とか「ピアノが弾ければかっこいいだろうな」となどと思う。しかし、一流のピアニストにとっては、ピアノは自分以上に自分である。ピアノは自分の肉体の一つ、というより、ピアノでしか自分を表現できないという倒錯した現象に入り込んでいく。少なくとも、その可能性がある。誰でも、自分の腕を上下させる事はできる。その時、自分の腕を上下させるのは、目の前の醤油ビンを取るためかもしれない。それは道具であり、それには目的、目標がある。当然、腕を上下させる事自体は目的ではない。筋力トレーニングにおいても、それはその筋力を強化し、そしてそれを何かに役立てるという目標がある。音楽というものをそれ自体、目的と考えると、そう考えた途端、その人間は音楽の支配下に置かれる事になる。この人間には次々と、こなさなければならないカリキュラムや課題が見つかり、そして永遠にそれをこなし続け、そして遂には自己表現にも自分自身にも達する事ができないのだ。
 芸術においては内容と形式が一致し、そして心とその表現先たる物質性とは完全に一致する。しかし、それが一致するのは最上の芸術家に限られる。先にあげた殿下の「CM伊右衛門の曲のピアノレクチャー」の動画では、殿下は曲をどう解釈すればいいのかをレクチャーしている。だが、それは殿下の言うように、そのレクチャーが絶対に正しいという事ではないだろう。しかし、そこに何らかの解釈、何らかの精神的な流れ、つながりを想定する事が、演奏としてのレベルを高める事に、究極的にはつながる。例えば、あるメロディーを弾く際に、その強弱を完全にコントロールする場合、それを「楽譜通り」弾くとしたら、楽譜に載っていない情報はその演奏から欠落してしまい、したがって平板となるか、雑然としたものになってしまう。しかし、そこに何らかの精神的な流れを想定する事が、手による強弱の微細なコントロールを助ける事になる。だから、この時、ピアノという物に対する働きかけに対する最大の武器は自分の思念、あるいは曲に対する解釈とか、イメージなのだ。しかし、もちろん、ピアニストは自分の手が自分の自在に動くように訓練されていなければならないだろう。しかし、それだけでは本物のピアニストにはなれない。
 以上のように最上の芸術家の場合、どのようなタイプの芸術家でも、形式と内容、あるいは魂と技術は完全に一致する。あるいは、その二つのものの齟齬を常に自分の身の内に感じ、それを一致させようとしているのが、最上の芸術家の目指している所だと言っても良いかもしれない。一流の詩人というのは、言葉が物である事を自分の身の内に感じて、例えば、その箇所を何度も推敲したりする。それはその言葉の物性が自分の精神にぴったり合っていないと感じられているから、それを合致させようとする努力なのであり、それは単に「作品を良く」したり、クオリティを上げたりする目的であるのではない。最上の芸術家は物の物性を感じるからこそ、自分の魂も一つの物のような確固とした実在として感じられる。そしてその両者の合一点が彼らの目指す所となる。だが、そうでないアーティストの場合は、技術を見せつける事や、あるいは誰かの賞賛や再生回数や、自分のキャリアなど、様々なイデーに捉えられてしまう。そこでは、作られたものが、自分との純粋な一対一の関係にならずに、外部に流れていく。だから、そういう作品が評価されようとされまいと、それは「評価」というものから身を守る事ができる独自な存在ではない。古典として残る作品にはどこかしら、他人の評価をはねつけるものがある。そしてそれがあるからこそ、人々に「私を理解するように」と、作品の方から要請する事ができるのだ。一流の芸術作品とは常に、自分と対話的である。そして殿下の場合もやはりそうだ。彼女はピアノを弾きながら、自分と対話しているのだ。自己充足的と言っても良い。そこでは、ピアノという「物」の響きと魂が交流する接点がある。そしてペソアの言うように、表現する事が大切なのであり、表現されたものは、もう既に死んでいるものと言う事もできる。そしてこの死んだーー作品としてパッケージ化されたものを、再び生き生きとした形で蘇らせるには、視聴者や読者の力を必要とする。この時、鑑賞者は、芸術家が置いていったもの、あるいは走り去ったその痕跡から、再びその生き生きとした躍動を自らの内で再生するのである。この時、鑑賞者は当然、一個の芸術家たらざるを得ない。
 とりあえず、以上で僕のD猫殿下論を終わりにしたい。ほとんど殿下とは関係のない所に筆が飛んでいったがーーーまあ、仕方ない。音楽について言葉で触れるというのは極めて難しいし、僕に分かっているのは、芸術が自己表現になっていなければ、それは一流とは呼べないという事だ。ソ連政権下でほとんどろくな芸術が現れなかったのは、芸術家がそれ以外のイデーによって抑圧されていたからだ。芸術家は二つの物を同時に自分の内に持つ事はできないし、持つとしたらそれを統一する「自己」という概念を持たなければならない。しかし、ソ連では自己よりも常に高い存在としてスターリンが存在していたので、芸術は「社会に奉仕するもの」というレッテルを貼られた中で、つねに自分以外のものに仕える奴隷的存在となった。高度資本主義が高まった我々の社会にスターリンはいない。しかし、その代わりに大衆の娯楽的感情があり、あらゆる芸術や作品は大衆の嗜好に自らを供するような、そのような姿勢を要請されている。そして、だからこそ、現在において最上の芸術家はそういうものに反発しようとする。神聖かまってちゃんにおいては「狂人」、D猫殿下においては「変態」、そして手回しオルガン弾き氏にとっては、社会から孤立した自分の像ーーーこういうものによって、それぞれのアーティストは自分自身を世界に汚染されないよう、防衛していると考えられる。自己とか、孤立とかいうもののその只中に芸術が存在するのであれば、芸術家が外部に向かってその内部世界を守ろうとするのは当然の事である。そして、これらの人々がそれぞれに、世界から身を守る為に、普通の人には不可思議な衣を羽織っているのは、実は重大で意味のある事である。
 それでは、僕のD猫殿下論はここで終わりにしたい。殿下のピアノ演奏は聴いて、すぐに、他の人達とは全く違う次元にあると直感した。そしてそれは才能とか努力とかいうものではない、もっと根底的な差異である。その直感から僕は出発したが、ここでは僕は音楽に対しての無知さをさらけ出す結果になったのではないかと危惧している。もっとも、抽象的な論に終始している場合は、それなりの正当性もあっただろうが。
 とにかく、ここで殿下に対する論は終わりにしたい。僕個人、これを書く事によって、殿下の動画から受けた恩恵に対する答えになっている、と信じたい。それでは、ここでひとまず筆を置く事にする。


お天気の日

私の心に

何が響くのか

言葉か それとも音楽か…

それとも 今消えていく

君の命か

今、ここにいる事

それをひしと我が身で感じられれば

僕はいつでも死んでもいい

でもそんな日は永久にやってこないだろう

…ところで、今日はあったかいお天気だ

8月を過ぎて9月入ってはじめての

世界をつんざくようなお天気だ

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