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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

音楽の歩む先


 



 昨日図書館に行った時に、ピアノ関連の本も少し読んできた。青柳いづみこという人のグールド評論がなかなかに面白かった。また、僕は音楽というものを適当に捉えていた事がよくわかった。

 僕は今も音楽はよくわかっていない。マイルス・デイビスが何故凄いのか。マイルス・デイビスの発言集みたいなツイッターのボットが面白くて、一時期フォローしていたが、僕は言葉の面からはマイルスの凄さはわかっていると思う。でも、音楽的にどう凄いのか、というとイマイチよくわかっていない。僕が好きなアーティストはビートルズ→レッドツェッペリン→神聖かまってちゃんの順に変わっていったので、いずれもロックバンドだ。ジャズとかクラシックを聞こうと思った事は何度もあるが、自分の感性を一度、外さないと聴けないような感じがして、それらをどうしても快く聴く事ができなかった。

 こういう点から、僕は多分、音楽素人なのだと思う。ただ、今でも、ロックとジャズとクラシックを並列に扱える音楽理論というのはほとんど存在していない。そういうものが今の時代にこそ切実に必要とされていると思うが、しかし、大抵、それらは別個の現象である。特に、クラシックとロックを並列に論じるのは難しい。

 青柳いづみこのピアノ本を読んでいて思ったのはピアニストは本質的に詩人的であるという事である。ピアニストは、ピアノという物性に己の魂を傾けなければならない。そこで色々とストイックな姿勢が出てくる。もちろん、自由で適当な所もたくさんあるが、一流のピアニストが「表現」に関してこだわらなければ、どこでこだわるというのか。

 僕の漠然とした感覚では、アルゲリッチみたいな人はかなり現代的な人ではないかと思う。それは、ピアノが力強く主観的だからだ。主観性というのは時代が下るにつれて強くなると僕は考えている。音楽の場合、あるいは絵画の場合、文学でもそうだと考えられる。例えば、バッハに比べると、ベートーヴェンは主観的で情熱的である。しかし、ベートーヴェンはまだ形式と、その主観性が微妙な釣り合いで保たれている。ベートーヴェンはモーツァルト、バッハと並ぶ、偉大な総合性の最後の人だと思う。そして、それ以降は、内容が形式を上回る。あるいは形式はひたすら微文化されて、現代音楽の、奇妙な努力を促す事になった。音楽は精緻になったが、それ以降は細分化され、わかりやすいモチーフとか、主観と客観性との総合的なバランスを失ってしまった。それに対して、ロック・ミュージックは失われていた音楽のモチーフを取り返したと言えるのではないか。ロックは、ポップミュージックと同じように、そのモチーフは固定的で、わかりやすい。まだ、微文化されていないが、しかし、シャウトとか歪んだギター音とか、強烈なドラムやベースでその主観性をも発揮させている。つまり、微文化されていた音楽そのものを、新しい技術、そしてその運用によって解消したと考えられる。

 以上、勝手な事を述べているが、この説に僕は全く自信がない。僕は音楽素人であるので、今言った事もすぐくつがえす可能性がある。

 例えば、今ベートーヴェンが生きていたら、シンセサイザーを使ったかどうか?、という問いはクラシック関係者からすれば馬鹿馬鹿しいかもしれないが、僕は意味がある問いだと思う。ある芸術家が自分を表現しようとする場合、様々なものにとらわれる必要はない。しかし、芸術家は常に、あるものの「物性」を頼りにするので、自分から拘束されにいかなければならない。その際、ベートーヴェンのような総合的なアーティストが生きていたら、シンセサイザーを使っていたかどうか?。あるいは、今、僕達がクラシックを、コンサートで荘厳な感じで聴いたり、家でゆったりとCDで聴く、みたいな視聴態度自体も最近出来たものではないかと思う。ゲーテがベートーヴェンを聴いた時、ゲーテは内心でベートーヴェンを認めつつ、しかしその余りに情熱的、ロマン的な態度、方向性に困惑し、怒りすら抱いたのだった。小林秀雄はこれを、「若き日のゲーテが再び戻ってきたのを目の当たりにした」という方向で読み解いている。つまり、ゲーテが一度は捨てたロマン主義が、他人の手で再び戻ってきたわけだ。ゲーテは老年期にはクラシックな方向に向かっており、総合的に自分を完成させようとしていた。それを、ベートーヴェンが一閃し、なぎはらったのだ。若者の(そんなに若くなかったが)無鉄砲な情熱、巨大な情熱の柱の音楽。「こんなに大きな音を出したら建物が壊れてしまう」とゲーテは愚痴った。しかし、彼の内心では渦巻くものがあった。ゲーテほどの、何でも取り込む精神さえが、拒否するような、強い主観性をベートーヴェンの音楽は持っていた。思うに、哲学であろうと芸術であろうと、それそのものが進歩するには、若者の無鉄砲さがかなり関係している。そこでは、過去よりもより主観的になった哲学や、芸術が現れやすい。何故、そうなるかと言うと、観念においても技術、物の段階においても、過去の哲学や芸術、あるいは道具が積み上がった事により、主観性はより、客観性として表現しやすくなっているからである。つまり、あるものを築き上げた後に、その上に新たなアーティストが出てくる。その時、その新たなアーティストは過去のアーティストが、掘り出しきれなかった自己の深い内面を、新しい道具や観念を用いて、より強烈に表現する。これは、音楽で言うなら、様々に現れた新しい楽器や技法と対応するだろうが、観念の次元においてもそうだと言える。評論家のコリン・ウィルソンは、東西から縦横無尽に、哲学者や芸術家らの引用を繰り返して、「アウトサイダー」という作品を作ったが、そういう世界全体性そのものが、百年前には不可能だったのである。そういう、世界中の作品からの引用というもの自体が過去にはできなかった。そして、そういう観念の「世界性」もグローバル化した社会、あるいは近代的な図書館や資料のようなものが出揃って、そしてそれを無名の若者が活用できるという状況があって始めて出てきたのだ。だから、いま、インターネットで世界中の情報を自由に扱えるという事は、これから新たなタイプの天才を生む、その基盤となるだろう。観念というのも、また一つの道具であり、それは世界の進歩により更新される。

           
                              ※

 青柳いづみこのグールド評論の本に面白い事が書いてあった。グールドは対して練習しなくても完璧に演奏できてしまう天才だったそうだが、何故かと言うと、グールドに言わせれば「一日の中で音楽に触れていない時間は一時間ほどもない」からだそうだ。通常、ピアノについて言われるのは一日何時間も練習し、そして三日さぼれば、それを取り戻すのにはもうかなりの時間がかかるし、聴衆にもその三日間がわかってしまう。そういう精妙なものだという事がピアノについては言われているが、それはグールドには当てはまらない。普通はそれをグールドは「天才だから」と言う理由で片付けるが、天才もまた凡人と似たような身体と頭脳の構造をしている以上、そこには神秘的ではなく、合理的なものがあるはずだ。そう考える方が、おそらくは普通だろう。

 僕が考えるに、グールドは自身が言ったように、普段から頭の中でピアノを弾いていたのだと思う。例えば、普通の人はピアノを弾いている時だけ、音楽に触れている。かなり優れたピアニストでも、頭の中にはピアノはない。でも、おそらくグールドの頭の中にはピアノがあり、場合によって他の楽器も彼の中に詰め込まれていたのかもしれない。それは例えば、モーツァルトなどもそうだったろう。小林秀雄のモーツァルトの評論を読んでいる時にそう感じた。モーツァルトはいつも身近なナプキンやらハンカチやらを手でもてあそぶのが好きだったらしいが、その時、モーツァルトにとってそのナプキンは変形したピアノでありバイオリンであった、という方が至当だろう。(当時、ピアノとバイオリンがあったかはしらないが。いずれにしてもこれは比喩である) モーツァルトの頭の中では音楽はギンギンと鳴っていた。従って、彼はその生を二重化していた。例えば、優れた作家なども、世界を二重に見ていると考えて良い。哲学者が、プラトン以降、事物と真理を二つに分割する(実存主義なども結局同じだ)のも、同じような事情がある。彼らは実人生から離れたもうひとつの時間、あるいは世界観を有しており、それが、数学であるか哲学であるか、音楽であるか、いずれの場合も考えられるが、その時、その人間は常に、生を二重に生きているのである。グールドは頭の中で散々ピアノを弾いていたので、実際にピアノに触る時は、自らの理論を実験で確かめる科学者のような感触があったのではないか。もちろん、以上は全て推測であるが、しかし、机に向かってノートを取っている時だけが学んでいる時間とは限らない。例えば、ある種の人は、夢から目覚めてふと、学問的真理を発見するが、それは普通の人には、抽象的で外的な学問が、その人の中では無意識と意識、いずれともつながった、その人の存在と渾然一体となった何かとなっているので、その学者は自然の風景とか夢とか、あるいはちょっとした誰かの言葉とか、その学問とは一見関係ないようなものからもインスピレーションを受ける事ができるのである。インスピレーションというのは不可思議なものではなく、元々、意識的、外的なものを、自分の無意識的レベルと同化するまでに修練した人に与えられる褒美のようなものである。この時、この人は何を見て、何を聴いても、例えば、グールドなら「音楽をしている」事になる。この時、グールドは遊んでいるように見えて、常にもうひとつの音楽という生を携えながら生きているのだ。

 こういう事に科学的根拠がつけばいいのだが、そういう事はまだよくわかっていない。例えば、ピアノをひいた時にだけ反応する神経組織や、脳のある部位があるとしよう。普通の人がピアノに触っても、これは鈍く反応するだけである。ところが、プロのピアニストがピアノに触ると、これが非常に強く反応する。しかし、グールドの場合は、ピアノに触れていなくても、この神経組織が極めて強く、たびたび反応する。そういう事があるのではないか。もちろん、これは全て推測だし、僕は脳科学に関しては全く知らない。しかし、こういう事を誰かが科学的に実証してくれればいいと思う。


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 音楽がこれからどうなるか、という事はよくわかっていない。しかし、いずれにしろ、ロックやジャズ、クラシックという垣根は壊れていくのは間違いないだろう。クラシックというのがいまではかなり固定的で伝統的な領域に見えるのは、それを聖化している人達がいるからというだけではない。音楽そのものに、その鑑賞者にその敷居をまたがせる何かがあるからだ、と言える。例えば、僕はバルザックの小説をすんなりとは読めない。なぜなら、当時のフランスの風俗を僕は知らないし、それ以上に、その描写法が余りにも一般化されているからである。逆に、ドストエフスキーは現代的観点からも普通に読む事ができる。ドストエフスキーの小説の主人公は、ここでは詳しくは言えないが、極めて現代的な人物であり、また現代的な劇がそこでは転回される。そこにはバルザックとドストエフスキーの間には見えない垣根があり、読者はそれを無意識的に乗り越えなければならない。音楽にも同じような事があると思う。僕達の普通の耳の環境そのものが刻々と変わっている。ipodで街で何百曲も携えて、街でなんでも聴く事ができるようになった、あるいはYOUTUBEで世界中のどんなマイナーなアーティストの曲も聴けるようになったという事は、僕達の耳の、基本的環境、その一般水準を更新する原理となる。以前に、ipadなんかが出てきても大切なものは変わらない、と豪語した人文系の人間がいたと思う。文系の人間は技術によって世界は変わらないとか、芸術は変わらないとか得てして言いたがる。しかし、それは変わるのである。もっと言うなら、芸術は新しい技術とか、一般的な聴覚環境に抵抗して自らの芸術を作らなければならない。理系を標榜する人達は新しい技術が出てきただけで意味があるかのような顔をし、文系を標榜する人達は技術では自分達のしている事は変わらない、という顔をする。しかしそれは両方間違っている。技術はゲームにおけるハードウェアみたいなものである。グラフィックや音楽が新しくなるという事は基本的に素晴らしいが、だがそれ故に、傑作が生まれるとは限らない。人を感動させたり、良いものを作るという本質そのものは時代によっては変わらないが、しかし、変わらない本質を作る為にアーティストは時代に応じて変わらなければならないのである。これは単純な事だ。自分が変わるからこそ、本質を維持する事ができるのだ。今、時代は乱気流の時代であるので、これをどうと捉えるかは個々のアーティストの責任となる。しかし、いつの時代でもそうだったように、今の時代の複雑さを自分の腹に収めた優れたアーティストがこれから出てくるだろう。いや、もう既にその兆候は見えている。

 これから音楽がどういう方向を辿るかは分からないが、神聖かまってちゃんなどを見るに、やはり、これまで以上に主体的、主観的なものとして現れる事が予測される。何故かと言うと、そうでなければ時代そのものに抵抗できないからだ。ある時代の芸術的水準というものは、過去の新しいものや、天才的なものを容易に取り込んで成立する。例えば、モーツァルトやバッハが一度BGM化してしまうと、もうそれを改めて聴く事は難しいし、それが何故そんなに素晴らしいのか、と思考する為には、もう一度自分の耳を澄まさなければならない。現代の音楽が取り組まなければならない問題は、ありとあらゆる音楽がBGM化し、環境に溶け込んでしまった後に、それでも、主体的な、芸術としての音楽は成り立つのか、という事だと思う。あらゆる音楽が既に耳慣れている時に、自分の主体性をどう打ち出すのか。そしてこの主体性とは、当然ただ喚いたり叫んだりして得られるものではない。(喚く事、叫ぶ事ももちろん音楽になるが) この主体性とは、あらゆる物事が客観化した現象を前提としている主体性なので、その時代のありとあらゆる音楽、その聴覚水準を含む。理論上はそうである。思えば、フルトヴェングラーやグールドら二十世紀のクラシックの優れた音楽家らが、オリジナルな楽曲ではなく、バッハやベートーヴェンの現代化という過程において現れた点には何か示唆的なものがあるように思える。オリジナルなものはあるのか、あるいはそれは現代では存在できないのか。クラシック音楽やロック・ミュージックはどうなるのか、それは個々のアーティストが自分の足で確かめなければならないだろうが、しかし一番大切なのは自分の精神現象を音という空気の振動で伝える事である。人は色々な事を言うが、音楽という根本を考えると、大切なのはそれだけだ。そして細かな技術論を携える人は、この事を見ていない場合がほとんどだ。

 音楽についての評論はとりあえずこれで終わりにしたい。僕はなんでもかんでも、思想的か文学的に捉えているし、音楽を音楽として理解できていないと思う。そのあたりもこれから治せていければいいと思っている。それでは。

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 物語が始まり、そして終わる事

 物語が始まり、そして終わる事
 

 
 図書館に行って色々と調べ物をしてきた。心理学関係の本を読んで、おおよそ自分の存在がどこから来たのか、わかったような気がした。

 心理学に「愛着理論」というものがある。これは母親との愛情によってできた場所をベースとして、そこを基点に少しずつ、自分の居場所を広げていくというものである。そして、この乳児、幼児期にできたこの基地はまた、全てのものに対する基本になっている。つまり、それは世界に対する信頼、不信頼を決定する。

 世界に対する不信頼を持った者には帰るべき場所がない。もし、生きる事に格差というものがあるなら、それは金銭や社会的地位の有無ではない。そんな事は、世界に対する信ーー不信の問題に比べれば些細なものである。(生存に差支えのない限りは) それ以上に、その時期に母親から愛情を与えられず、世界に対する信頼、他者への信頼を持てないという事はその人間の生涯に影響を及ぼす。赤ん坊は基本的に無力の存在だ。だから、自分の面倒を見てくれる存在が必要だ。そこでは、「原的存在」のようなのもが常に露わになっていると考えられる。しかし、その原的存在に、ひどい扱いをされたらどうなるか。この人物は後年、この愛情を取り戻そうとする。そして、そのために、他者に対して攻撃的、あるいは支配的になる事も考えられる。その際、遺伝的要因と、生育的要因がどれくらい関わりあっているのかは、まだよくわかっていないと思う。最高の教育、養育を与えても、最悪の人間はついに最悪で在り続ける、という事はありうる。もちろん、その逆も。

 幼児期に母から愛情を与えられず、基地を持てなかった人間はおそらく、他人に比べて、自分の内部に常に欠損したものを感じるだろう。何かが欠けている。何かが足りない。愛着理論における基地を持っている他の人間全てが妬ましい。ここから、他者へ依存しようとする傾向も始まる。あるいは他者を拒絶するか、他者に攻撃的か、あるいは他者への感情の配慮が完全に欠けているか、などの派生も考えられるだろう。しかし、奇妙な問題は他にもある。この基地のない人間が、人類にとって必ずしもマイナスになるとは限らない事だ。つまり、この人間は基地を持たないが故に、自分で、何らかの行動とか芸術作品によって新たな、自分流の基地を作ろうとする。そして、それが人類全体に良い影響を及ぼすものとなる。つまる所、この人物は、普通の人が持っているものを持っていないために、それを埋めるために、非凡な天才となる。この天才は普通の人より劣った存在であるために、それを埋めるために懸命に努力し、そして何事かを作り上げた存在だと考えられる。つまり、ここでは欠乏は最後には豊満に勝利する。しかし、いつもそうというわけにはいかない。ここから、世界にたいする憎悪を積み上げて、犯罪、あるいは独裁者に至るものもいるであろう。しかし、こう考えると、常に問題は「愛」であると言っても良いだろう。そして「愛」という言葉がこんなにも陳腐になっているのは、元々、僕達に根底的に「愛」が欠けているからではないか、という気がする。リア充、非リア充という言葉があるが、リアルにおいて、誰も彼もが自分の欠損を埋めようとしているのは代わりはしない。結局の所、現代は何か本質的なものをどこに取り落としたがために、それを埋めようと、様々なものを生み出した時代と言えるかもしれない。人は背後のものを見ず、目の前のものだけを見る。しかし、どんなハーレムも、幼児期の母の愛一つには決して叶わないのだ。

 以上の事は僕の漠然とした感想で、特に科学的根拠はない。しかし、自分自身を振り返ってみると、何かしら満たされない思い、人間不信、世界に対する懐疑というものがどこから生まれたのか?ーーーそれに対しては、乳児、あるいは幼児期の母親との接触の不足に帰すと、すんなりするような気がする。そこで、何か他の人と決定的な違いが生まれてしまったような気がしている。もちろん、それが正しいかどうかはわからない。しかし世の中には余りにも「○○は甘え」という意見、つまり正常人の意見が幅を効かせすぎている。彼らは自分達には欠乏がないか、欠乏がないと信じている為に、そういう意見を言う。しかし、彼らが最近になってそういう意見を盛んに出して、自分達の場所を必死に守ろうとしている事に、既に時代の兆候が見える。本当に正常な人はいちいち、自分の正常さを立証するために、他人の異常さを四六時中気にしたりはしない。自分が正常である事、自分が正しい事を証明する為に、ネットで、異論をいちいちしらみつぶしにしていく、というの余りまともな事ではないように思える。しかし、今、全体がそういう方向へ移動している。自国を褒めるのに、非難する他国を必要とする。これはどういう事だろう。そんなに素晴らしい国なら、何故、堂々と寛容になれないのだろうか。

 自分自身がどこから来たのか、というのがわかる、というのは意味がある事だ。カフカは手紙では、恋人を拘束したいという願望が見え隠れしている。カフカのようなタイプが自分の運命と終始戦って、そして最後に敗北したというのはどういう事だろう? しかし、その敗北には当然意味があった。人間心理というのは複雑だが、しかし、それを知るには欠乏が必要なのかもしれない。心身の安全、普通である事。もしかしたら、非凡な人が目指すのは、平凡であるという事なのかもしれない。だから、ここにおいて青い鳥の童話が思い起こされる。また同時にドストエフスキーが語った「人が不幸なのは自分が幸福だという事を知らないから」という真理も思い出される。自分は挫折したと思っている人はドストエフスキーの言葉をあざ笑うだろう。「俺の不幸はそんな簡単なものじゃねえ」 しかし、ドストエフスキーは一度死刑になった人物である。彼は不幸のその極限を越えて、死、実存が明らかになる所まで進まざるを得なかった。暗闇は光を照らす背景であるが、人は暗闇を持たない為に、(あるいはそれを拒否している為に)光がない、光が足りないといつもわめいている。駅のポスターに「社会を明るくする運動」みたいな事が書いてある。僕の考えでは、そのポスターは間違っている。今、社会が暗いのは人々が仮そめの明るさだけで世界を着飾ったからなのだ。地獄の淵から戻ってきた人間は、この世界は全て明るく見えるだろう。どんな偽善もなく、「生きているだけで幸せだ」と言い切る事ができるだろう。しかし、地獄の淵から戻るのにどんな歩みが必要なのかは考えるに恐ろしい。普通は、この道の途中で倒れてしまうだろう。

 自分という存在が何かを知るのに生涯を費やしても食いはない。そういう存在は確かにあるからだ。逆に、自分から逃げ続けると、最後まで不満感と諦念が残るだろう。他人というのは自分を映す鏡だとすると、まず、自分を信頼しなければならないのだが、しかし、信頼とは何だろう。愛着理論の基地を奪われた人間にどんな信頼があるというのか。まず、奪われる事から物語は始まり、そして元の場所に帰る所で物語は終わる。だが、その元の場所は最初とは違う場所に、冒険者には見える事だろう。これから、僕達には物語が必要となるだろう。そしてそれは作られた、方法論としての物語ではなく、自分達が現にそれを歩く、そういう物語なのだ。

 そういう物語が今、必要だろう。

作家桐野龍一氏の元婚約者Kさんへの単独インタビュー





 我が国を代表する著名な作家、桐野龍一氏が亡くなって二十年が経った。桐野氏は幻想的な作風と、孤独や寂寥をテーマとした小説を多く残し、その作品は世界中で親しまれて読まれている。桐野氏の作品は彼の死後、彼の友人が編纂し、自費出版したのが桐野氏の作品が世で評価されるきっかけとなった。
 本号では、特別に桐野氏の元婚約者のインタビューを掲載する。元婚約者Kさんは、桐野氏との数年の交際を経た後に、桐野氏と婚約破棄するに至った。そしてその後、桐野氏との交際は途絶えた。しかし桐野氏はその後もK氏の事が忘れられなかった事が、日記等の解読によって判明している。ちなみに桐野氏は、Kさんと別れてから一年後に病死した。また、Kさんはその四年後に、大手食品会社に務めるY氏と結婚、今は三人の子を持つ母親である。

 
 ーーーこのたびはインタビューをお受けいただいてありがとうございます。よろしくお願いします。


 「よろしくお願いします」


 ーーーまず、単刀直入にお聞きしますが、このたび、これまで沈黙を守ってこられたKさんがインタビューをお受けになった、その心境の変化というのはどのようなものだったのでしょうか?

 
 「心境の変化、ですか。…桐野が亡くなってからもう二十年も経ったという事もあって、私もそろそろ彼の事を話してもいいのではないか、と思ったという事です。一番はそれです。それともう一つはメディアを通じて、桐野に対する誤った印象が広がっているのを少しでも改善したいと思ったためです」


 ーーー誤った印象とは具体的に、どのようなものでしょうか?


 「それはもちろん、はっきりしています。メディア上においては桐野は、とんでもない聖人だったように書かれるか、それとも逆に、実に冷酷で極悪にところもあったなどと、白黒どちらかはっきりするように書かれています。もちろん、その方が一般受けするのかもしれませんが。私の知る限り、桐野は普通の人と同じように、些細な事に苦しんだり、いらいらして八つ当たりしたりもする、普通の人間でした。彼は普通の人間として生きていたのであって、今の研究者達が持ち上げたり、貶めたりしているようなそんな人ではありませんでした。彼は普通の人で、変なところ、間違ったところも概してありましたが、しかし優しいところ、強いところもたくさん持ち合わせている人でした。でも、確かに、彼の中には、人とは違う部分もありました。桐野はいつも、自分と闘っているような人でした。普通の人にとってなんでもないような事、気にも留めないような事を気にして、それで一人苦悩して、苦しんでしまうのです。そしてその苦しみとの葛藤がそのまま、作品の中に反映されたのだと思います」


 ーーー確かに、桐野氏は世界的な作家なので、それに見合ったイメージがメディアを中心に構築されてしまっているような印象がありますね。もっとも有名な作品は、「非存在を目指して」ですが、それらの作品、あるいは執筆に関して桐野氏があなたに何か言った事はありましたか?。


 「桐野は小説を書く事が好きでした。多分、毎日書いていたと思います。でも、私にはそれほど見せたりはしてくれませんでした。でも、時々、自信作ーーー自分で『よし!』と思ったものは私にメールで送ったりしてきました。私はそれに対して肯定的な感想を送りましたが、否定的な事は一切言いませんでした。もし私が、文学に詳しく、彼に色々アドバイスするタイプの女性だったら、あんな風に何年も付き合う事はできなかったと思います。彼は一人で色々とやりたい方でしたので」

 
 ーーーKさんは桐野氏の作品についてどう思っていましたか?


 「正直に言って、彼の作品についてはよく分かりませんでした。今もよく分かりません。桐野が今、世界的な作家だという事も、私の中では全然ピンと来ていません。でも、彼は終始苦しんでいましたので、その吐き出し口として、小説が役に立っているなら、それで良いと思っていました。とにかく、桐野には優しくて感じやすい所があって、私達は誰も責めていないのに、桐野はいつも、自分は何か欠けている存在だと自分の事を思っていたようです。だから、私はそんな彼の肩の力を抜くように、抜いてあげるようにといつも気をつけていました。でも、それも焼け石に水でした」


 ーーー桐野氏は一体、何にそんなに苦しんでいたんでしょう?


 「わかりません。それが桐野の最大の謎だと思います。…でも、多分、彼は自分自身である事に悩んでいたんだと思います。彼はよく言っていました。『生きていく事は嘘をつく事、インチキをする事だ。この世界で何者かであるという事は常に、他人をだまして蹴飛ばして、そして自分の席を確保する、そういう行為だ。でも、僕にはそんな事は耐えられない。他人の幸福を蹴り飛ばしてまで自分が幸せになりたいとは思わない』 彼はよくそう言っていました。そして、私に対しても『僕はお前と結婚したいのだけど、それができない。お前の事は愛している。心から。でも、お前は僕の事を愛していないーーーいいや、違うな。僕がお前の事を愛していないんだ。でも、愛するというのはなんて辛いんだろう!』 桐野は気持ちが激した時には、そんな事を言いました。でも普段はおとなしくて優しい人でした」


 ーーーなるほど。桐野氏は複雑な内面を持っていたんですね。でも、Kさんと桐野氏は、××年に一度婚約をして、その三ヶ月後に婚約破棄されていますが。


 「ええ。あの時は私はーーー嬉しく思いました。いつも煮え切らない桐野にしては、思い切ったものだと。桐野は私と婚約する、と言いました。『結婚して幸せになろう』とも言ってくれました。親に挨拶する、とも言ってくれました。私はその言葉を信じました。私はあの時は心底、嬉しい気持ちでいました。まるで天国にいるかのような嬉しさでした。でも、それは結局、あの人の本心ではなかったんです。そうです。ーーーいいえ、あるいは、彼は私と結婚して、そして平穏な家庭を作る事を望んでいたのかもしれません。でも、桐野の中には、それを拒む何かがあって、結局、桐野はそれを越えられなかったのだと、そう思います。桐野は私と婚約した後に、どんどんと暗くなっていきました。彼は深く懊悩し、そして私がメールを送っても、返事をくれなかったりしました。そしてある時、急に、婚約破棄を切りだされたのです」


 ーーー急にそんな事をされてショックではありませんでしたか?


 「もちろん、ショックでした。でも、それと同時に、とても安堵して、納得する所もありました。『ああ、あの人にはやっぱり無理だったんだ』って。もちろん、それは悪い意味ではありません、桐野はいつも、自分と葛藤して、闘っている人だったので、彼はそのもう一人の自分を乗り越えようとして、そして、結局は乗り越えられなかったんだと。あの人のお父さんは厳格な人でした。そしてお母さんは、物静かで気弱い人でした。桐野は、自分の家族に自分は深く傷つけられていたと考えていたようです。だから、自分が家族を作る事は、また、自分のような子供を生んでしまうのではないかと、その事を恐れていたようです。そういう事を何度か言っていました」


 ーーー桐野氏とお父さんとの確執は今では有名になっています。その事はどう思われますか?


 「確執はあったと思います。でも、桐野のお父さんも、一度会った事がありますが、全然悪い人だとは思いませんでした。でも、少し厳格すぎる所はあると感じましたが。桐野と、お父さんとはまるで逆のタイプの人でした。桐野は繊細で詩人気質で、お父さんは逆に頑健で、生活に向かっていくタイプでした。二人の溝は最後まで埋まらなかったと思います」


 ーーーKさんは桐野氏が亡くなったのを、後で知人から知らされたそうですが、その時、どうお感じになりましたか?


 「どうっ、て?…。(しばし絶句) しばらく何も考えられませんでした。でも、桐野にとって生きる事はあまりにも辛くて苦痛な事だったので、やっとこの世界という束縛から解き放たれたのかな、と後になってそう思いました。彼が亡くなった直後はしばらくショックで、何も手に付かないような状況でした」


 ーーーですが、桐野氏とは婚約破棄して、もう絶縁状態になった後だったのでは?


 「確かにそうですが、彼の事は私の心に残っていました。私は最初、桐野は普通の人だと言いましたが、それは嘘かもしれません。あの人は繊細で優しすぎる所があって、それから身分の違いとか、社会的なポジションの違いとか、そういうものを憎んでいました。だから誰に対しても優しく丁寧でした。桐野が話していたことですが、高校生の時に、彼は剣道部でした。その時、その高校の剣道部では、一年生が拭き掃除をする事に決まっていたんですが、上級生になっても彼は、いつも一年生に混じってそれをやっていたそうです。最初は皆に止められたけど、その内、誰もなんとも言わなくなったそうです。桐野はそういう人でした」


 ーーーなるほど。別れた後も、二人は互いに相手の事が心に残っていたんですね。しかし、Kさんは四年後に、Y氏と結婚されました。


 「ええ。これは偽善と思われるなら、それでもいいですけど、しかし人はいつまでも悲しみの中にはいられないものですし、継続して生きていかなくてならないのだと思います。Yと出会ったのは私の出張先の事でしたが、彼もまた優しい人でした。そして、Yと会った時、ふと、私は桐野が生前に言っていた事を思い出したのです。『僕は多分、あと何年かしか生きられないだろうけど、君はまだその先も生き残るだろう。君はその時、自分を綺麗な、何かしら、「一人の人間を愛した女」みたいな、そんな世間のイメージにとらわれてはいけないと思う。君はそういう方向に行くタイプだからね。君は僕が消えた後、幸せにならなければならない。幸せになる事も、一部の人にとっては試練だ。特に、君や僕のようなタイプにはね。もちろん、すぐに幸せになろうとする不幸な人々もたくさんいるけれど』 私はその言葉を聞いた時は(交際中だったので)、すぐに彼の言葉を打ち消す事を言いました。『あと何年しか生きられないなんて、そんな事は言わないで欲しい。そんな事はあるわけがない』ーーーでも、あの時、桐野は自分の運命についてよくわかっていたんでしょうね。それで、私にあんな事を言ったのでしょう。私はYと出会った時にその言葉を思い出しました。だから、その後、私はYとの結婚を決断しました。幸せになるという事はよくわからない、人生の試練のようなもの。ーーー確かに、私は悲しみの中にいるのが好きな女でしたから」


 ーーーなるほど。よくわかりました。今日聞いたお話で、桐野龍一氏の事が、以前よりも大変はっきり見えるようになった気がします。では、最後に、桐野氏の作品の愛読者に何かメッセージのようなものはおありでしょうか?


 「そう言われましても…。実は私達、実際の桐野を知っている人達は、今、桐野の作品がこうして広く読まれている事にとても困惑しているんです。とても。最近でも、私は書店で桐野の書いた作品を手にとってみた事がありますが、そこに書かれた作品とかそれに捧げられた賛辞などは、私の知っている桐野とはどうしても結びつきませんでした。そこに書かれたものは、誰か別の違う人へ向けられたもの、あるいは誰か別の人が書いたもののような気がしてならないのです。世界中に沢山愛読者がいる事は知っていますが、しかし私はその方達に何も言ってあげる事はできません。何故って、私には、桐野の作品がどれほど人類史上高い価値を持っているとか宣伝されても、現実の彼との思い出の方が大切だからです。私にとってはーーーあくまで私にとっては、彼の作品全部を合わせたよりも、彼との思い出、現実の桐野龍一という人物の方がはるかに大切なんです。桐野はある時、夏場に公園に二人で遊びに行きました所、こう言っていました。 『なあ、K。この世界には本当に色々な人がいるね。この世界にはさ、色々苦しんだり、悩んだり、辛い思いをしたりしている人達がいる。…僕達は今こうして二人で、幸福そうにしているけれど。でもね、そういう僕達っていうのは、まるでテーブルから汚いものでも払いのけるかのように、苦しんだり辛かったりしている人達の事を除け者にして生きている。そうやって払いのける事で、自分達の幸福を維持しようとしている。でも、そういう事はいつまでも続かないんじゃないかな? ほら、あそこで子供が逆上がりをしている。あれは、どういう事だろうね? 一体? 誰かが逆上がりの方法を教えてやるべきなのか、それともあの子が一人でそれを学ぶべきなのか? 僕の親父なら『こうやるんだ。そうすればできる』『どうしてできないんだ!』って怒鳴りつけるだろう。でもね、本当にそうだろうか。あの子は今、一人で練習している。何かを得ようとしている。でも、そういう自然な成長とか、何かを求める心のあり方というのを、人はあんまり見ようとはしない。でも、僕はそういう事が大切だと思うんだよ。生きる事は条件で決まるんじゃなく、何かのハードルがあって、それを乗り越える事に意味がある。でも、僕の親父だったら、子供の僕をだっこしてハードルをまたいで、「さあ、ほら、できたぞ」って言う。でも、やっぱり人生は自分の足で歩かなきゃいけない。そうじゃないのかな」 あの人はよくそんな事を言っていました。あの人には色々な事が見えていました。他人の苦しみを自分のように感じる能力がありました。私は桐野の作品についてはよく分かりません。ただ私の心には現実の桐野の姿がはっきりと残っているだけです。大切な思い出として。彼の事に関しては、それだけです。それ以上、私に言える事はありません」


 ーーーどうも、長時間のインタビューありがとうございました。今日はここでおしまいにしたいと思います。貴重なお話、大変ありがとうございました。これで読者の方も桐野氏がどんな方なのか、その理解が深まったと思います。ありがとうございました。


 「ありがとうございました。」

 物語はどこにあるか




 色々と考えている事があるのだが、雑然としてまとまらない。とにかく今は文学・哲学・芸術以外の事を軽く勉強している。そこで何が起こっているのか、いや、そもそも自分が何故こんな人間なのか、という事が少しずつ納得されつつある。

 黒子のバスケ脅迫犯の最終意見陳述を最近読み、非常なショックを受けた。これは是非、読んで欲しい文章だと思う。精神科医、犯罪心理学者、テレビに出ている知った顔の識者、「キモイ」と「死ね」しか言えないネット論者のレベルをこの渡辺被告は軽く上回っている。この人物の自己認識と社会認識は僕に色々な事を考えさせた。また、自分自身もっと勉強する必要を感じた。発達心理学的な問題もある。乳幼児期に母親との接触がうまくいっていない時、世界に対する否認的な姿勢が決まる。では、その否認的な姿勢は人生でいかに解消されていくかーーーここには一つの運命があると言っても良いと思う。渡辺被告は犯罪という間違った方向に解決しようとした。それを世の中の人は責める。普通一般の人は世界に対する否認感がないので、渡辺被告の気持ちはわからないし、「死ね」「死刑にしろ」「キモイ」と言っていられる。しかしながら、個人の運命とはなんだろうか。生まれてから母親の愛情を一切受けず、ただしつけのみを与えられたとしたら、自分が今とは違うどんな人物になったかなど、誰にも想像できないだろう。もちろん、犯罪は犯罪であり、裁かれなければならない。しかし、犯罪者が犯罪者だから、この人物を理解してはいけないという理由はない。それに社会そのものが「犯罪者」になれば、世界に安心して生きている無気力な個人は、集団内部では正義であり、普通であるが、システムの外から見ると、極悪人となる。アーレントが悪を平凡だと指摘した背景にはそういものがあると思う。犯罪者、異常者を自分達のテーブルから取りのけていたら、全ての問題が解決するかは謎である。いつの間にか、自分達自身が犯罪者になっていないとも限らない。そしてそんな歴史は過去にさんざんあった。そして歴史は反復される。

 世界に対する否認感という意味では、僕もそういうものがある。では世界に対する肯定感があればそれでいいのか。もちろん、それは「基本的」にはいいだろう。しかしそれはあくまでも基本的な話であり、もし、世界が間違っていたら、どうなのか。あるいは、世界に対する肯定感、他人に対する無条件的な信頼に対し、悪人や犯罪者はそこに漬け込んで、様々な悪を犯す。世間に悪い目で見られたくない、これ以上誰も傷つけたくない、というような、基本的には善の意志が、様々な犯罪を助長してしまう。ナチスが興隆した時、ミュンヘン会談でフランスとイギリスはナチスに譲歩した。そしてそれは「これ以上戦争したくない」という平和主義に由来したものだった。ナチスはそこに漬け込んだ。ここでは平和を望む意志が事なかれ主義となり、結果、より平和をかき乱す結果となった。世界に対する信頼だけがあるならば、世界はそれに漬け込んでこちらにやってくる。しかし、世界に対する懐疑と否定だけがあると、その人間は世界から取り残され、孤独になり、狂気か自殺かの道へと追い込まれてしまう。
 
 では、どうすればいいのか。
 
 つまり、このどうすればいいのか、をどうにかしていくのが、人生の課題ではないかと思う。騙されまいとする意志は、誰にも騙されずに済むかもしれないが、あらゆる人間との意思疎通を切断する事になる。逆に、あらゆる人間を信頼する事は、詐欺師に自分を明け渡す可能性を生む。そして後者の可能性を、犯罪者達は逃しはしない。

 だから、その運動ーーー世界から離れてまた世界に帰っていく、あるいは世界を信頼する事から始まり、世界に裏切られる事、そうした事が、おそらく、「物語」というものの真髄に当たるのだろうと思う。僕は今のベストセラー本に物語があるとは思っていない。また、今の人々の傍観者的態度に物語があるとも思っていない。頭に血の上った人々の捏造した物語も偽物だと考えている。しかし、それらの外部に物語がある。我々がいかに言い訳しようと、自然は外部から我々を抑え、苦しめる。そしてそれとの葛藤が本物の物語である。だから、本質的に物語を作る人間はこの世界の外部に出なければならない。外部へ。
 
 僕は今そう考えている。また色々と勉強したい。

秋葉原事件・加藤被告について調べた感想

 秋葉原事件・加藤被告について調べた感想



 犯罪者について少しばかり調べていた。特に秋葉原の事件について。中島岳志の本を図書館で早読みした。

 実際の所、犯罪者そのものは結構退屈な人間である事が多いと思う。凶悪な犯罪者、習慣的な犯罪者が実際、器質的に粗暴であり、それが高じて犯罪に至るケースもある。そういう人物はもちろん、家庭や社会環境も良くなかったのだろうが、しかし、環境に関係なく、「生まれながらの犯罪気質」のような人間もいるだろう。だが、そういう「生まれつき」のケースは稀だと思う。その人間の遺伝的素質と環境的な要因とは相互に絡み合って、普通はどちらとは決めきれないと思う。

 中島岳志の本を読んでいると、加藤被告とその弟が、母親から異様な教育を受けた事がある。(父親ももちろん大いに関係がある。)二人は母親から異常なしつけを受けており、それは愛情を与えず、秩序(=しつけ)だけを与えるというもので、他にも殺人を犯した犯人がこの手の教育を受けていたのを読んだ覚えがある。加藤被告がどのようなしつけを受けたかを読んでいるとぞっとするが、もし自分がそういう「しつけ」を受けたら、その後、自分がどんな人物になったかなどまるで予測できない。僕らは普通に生きており、普通に働いたり、普通に友達とか恋人がいたりするーーーというような平常、普通の状態がいかに恵まれた存在であるかという事が、逆説的に理解される。

 しかし、僕個人としては加藤被告のような内在性はある程度は理解できる。僕は犯罪者気質の人間ではないと思うが、しかし、あの人物がどういう暗愚を抱えていたのか、想像できる点がある。それは普通の人には当たり前のように持っているものを持っていない、という感覚であろう。僕自身そういう感覚はあるが、僕はそれを色々、知識だの理性だのによって対象化して何とかこらえている。しかし、加藤被告は、自分の情念がどこから由来するのかわからなかったし、今もわかっていないのではないかと思う。だから、他人に対して過剰な期待を寄せる。彼女がいれば勝ち組だとシンプルに考える。自殺するにも、人を殺すにもいつも人の目線を気にして、その目線に見せつけるような行為を選ぶ。逮捕後に本を二冊出しているが、それも自分を開示したいという欲求の現れと見える。しかしながら、何故、自分を開示したいのか。確かに社会はたてまえの世界だが、ではネットの世界は本音なのか。ツイッターや掲示板で「死ね」「死ね」とつぶやいている人達がいる。彼らはなんでも誹謗中傷する。しかしながら、それは本音ではない。もっと言うと、心ではない。心というのは、本音でもなくたてまえでもなく、その奥にある複雑精妙な何かであり、これを外に出すには、例えば小林秀雄のような精妙な言語行使能力がいる。そしてこれを獲得するのは並大抵な事ではない。

 自分の情念や感情、意志がどこから由来しているのかがわからなければ、それは暴走するに至る。しかし、加藤被告が「神扱い」されるという事は、同じように、自らの鬱屈の正体をつかめない人々がこの世界には沢山いるという事だ。彼らは日常生活ではおとなしく、控えめだったりするが、ネットの世界では極めて攻撃的だったりする。しかし、自分の感情や無意識というのは、かなりの部分、自分でどうにもならない幼児期や幼少期に形成される部分があるのではないか。元々、人は自分がどの家庭に生まれるか、あるいはどの「遺伝子」として生まれるか、という事を決定できない。だから人の中にあるものの大部分は、自分で決めたものではないもので決められている。もちろん、生まれてからずっと、父母の愛情を注がれ、そして社会に綺麗に適応し、幸福に人生を送れる人もいる。それに反して、生まれてからひどい目にあい続け、犯罪に至るものもいる。この格差はひどいではないか!…とは僕は思わない。結局の所、生きるという事は、自分でないものを「自分化」していく過程なのだ。自分の底にあるわけのわからないものを、なんとか理性や知性の力を使って抑えたりなだめすかしながら、それを次第に、何か決定的で、あるいは人類に昇華できるような何かに作り上げていく、そういう過程なのだ。僕などはそう思っている。従って、僕の考えでは抵抗のない不幸も幸福も、神から見れば同じように存在している。そして抵抗する者は犯罪者でもなく、単なる生活人でもなく、別の何かになろうとして跳躍する。そういう人生を送る。

                              ※

 僕自身の事を書こう。僕は子供の頃から、わりと人が読まない小難しい本を読んでいるような奴だったので、周囲の人間は僕に対して不気味がっていた。面と向かってそう言われた事もある。それに反して、受験勉強に身を入れていれば、変な目では見られない。受験は社会が認可した学びであるからだ。そして一方、僕の読書は僕の勝手なものだ。

 多分、人からは馬鹿だと思われるだろうが、僕は読書なるものに精を出していてよかったと思っている。一般に思われているほどに、読書は役に立たないし、芸術なども、良く考えればくだらないものであると言える。そもそも、人生が充実していれば、そんなものに手を出さなくてもいいのだ。だから、最初から飢餓感のある僕のような人間は、その飢えを読書とか独学とかで満たそうとしてきた。僕は失望したり絶望したりする度に「勉強しよう」と勝手に思ったものだ。そしてそれは受験勉強とか資格の勉強とは全然関係ないものである。しかし人は、失望したり、絶望したりしたとしても、そこまで危険な場所に落ち込まない。あるいは落ち込む時は、それを対自化する事になれていないので、急に身体的な変調とか、うつ病として現れたする。しかし、それを理性化するというのは、病んだ精神を回復する一つの道だろう。もちろん、うまくいかない事も多々あるだろうが。
 要は、僕のやってきた事は現実逃避である。僕は現実逃避をいいものだと思っている。そして逃避するなら、徹底的にすべきだと思っている。そしてそれは最後に、現実に帰らなければならないだろう。加藤被告の場合は、現実の欠損を現実の関係で埋めようとした。しかし、そんな自分の理想にあった他人などいるはずがないし、それは元々、ブラックホールの穴を埋めようとするむなしい努力に似ている。加藤被告がどれほどリア充になったとしても、ちょっとした事で彼は激怒し、失望し、そして坂を転がるように転落していったに違いない。
 
 人間というのは奇妙なもので、クラスメイトが読書をする僕を、奇異な目で眺めていた理由も今ならよく分かる。僕は常に、普通の人は皆、当たり前のような大切な何かを持っているのに、自分はそれを持っていないと感じていた。そう感じ続けてきた。そしてその感覚はずっと続いてきた。それは今も変わらないが、今ではその理由が分かっているので、それほど気にしないでいられる。

 また、それと同時に、世の中にこうも薄っぺらい言葉と世論が氾濫する理由も得心できる。かつて僕は薄っぺらい言葉を吐く人を徹底的に軽蔑してきたし、通俗的なベストセラーをくだらないと思ってきた。それは確かに、作品レベルではそうである。作品だけを見るなら、僕の軽蔑は間違っていない。しかし、現実の普通の読者をその計算の内に入れるなら、僕のかつての見方は浅はかである。なぜなら、彼らが薄っぺらい議論や書物や映像で満足する事ができるのは、彼らが人として充足しているから、と考えられる。つまり彼らにすれば芸術というのは、飽満した腹が、ちょっとつまんでみる豪奢なおやつみたいなもので、だからその味をちょっぴり知ればもう満足なのである。一方で僕という存在は、腹ペコペコの人物なので、芸術というものを徹底的にむさぼり食うまで、飽き足りる事はない。ここには違いがある。どちらが良いという事はないが、しかしここに違いがある。書店に棚上げされている本が薄っぺらいのは人々が哲学を必要していないからであり、僕が面倒で重たい哲学を必要とするのは、僕が飢餓状態にあるからである。しかし、その飢餓が、そして飽満がどこに向かうのか、それはまたあらためて考えてみなくてはならないだろう。
 
 ここにきて、これまで僕のしてきた事と、それに対して人が考えることがまるで逆立しているその理由もはっきりとしてくる。僕が「小説を書いている」と言うと人は決まって、「直木賞か芥川賞を狙っているの?」という質問をしてきた。僕にとって賞は飾りだが、人にとって賞は、小説を書く醍醐味、あるいは作者としての最高の名誉であると考えられている。あるいはそれが本質と言ってもよい。この時、人は、小説というフィクションも結局は現実に資するためのものだと考えられており、僕は逆に、現実はフィクションに資するためのものだと考えられている。この時、後者においては芸術至上主義が現れ、前者においては、社会主義的な、プロパガンダ的、あるいはパンとサーカス的芸術観が現れる事になる。どちらかいいか悪いかという事はここでは言わない。しかし、こういう逆立した構造が現れるのは、人々が現実的に充足した存在であり、そして僕が現実的に乾いた存在であるからである。そして人は、充足していない人間というのを想像する事ができない。だから、僕が小説を書くという事はあくまでも、「現実の為の夢」なのであり、文学や哲学に、現実から一歩引いたそれ固有の世界が存在するとは中々理解できないのだ。そして、現実から逃避する事もできなかった場合、その乾きは反動として、現実に復讐する場合もあろう。秋葉原事件とはそういうものとして見る事もできる。

  
                             ※

 実存、という言葉があるが、これを今の観点にあてはまめると、普通の人は、自分の中に実存が内在しているので、特にそんなものを意識して考えたり、取り出したりする必要はない。しかし、実存の欠けている存在はそれを考えたり、認識する事によってそれを補おうとする。おそらくここには欠乏が充足を越える弁証法があるだろうが、それについてはここではくどくど言わない。

 犯罪者を調べていると、人間というのは色々なのだと思う。多様性という言葉ですらくくれない。犯罪者が実際にろくでもない、粗暴なクズであれば、話は楽だろう。そして実際に、そういう人物はいる。母親も父親も普通の人なのに、まるで悪魔に魅入られたような人間というのもいる。しかし、犯罪者の中にはそういう人間は稀で、大抵の犯罪者も何らかの意味で我々と同じ人間である。しかしこの事を意識するのは辛いので、僕達の健全な意識はそれを拒む。しかし、一般市民としてはそれは当然の心理的防衛なのだと思う。

 色々と書いたが、今自分のしていることから、個人の実存ーー社会の経済・政治状況、のようなものの関連を調べる必要があり、その過程で上記のような事を考えた。そして犯罪行為というのは、個人の内在性と、社会の一般的状況の矛盾として現れる場合がある。ドストエフスキーの「罪と罰」では殺人事件が取り上げられているが、実はそこでは重要なのは殺人そのものではない。そうではなく、一番大切なのは、「何かを変えようとして二人まで殺したが、何も変わらなかった」という事実なのであり、またそういう意識なのだ。こうして考えると、結局、人間というのは心理的な生き物なのだと思う。ちょっとした温かい言葉を掛けるかそうでないかで、あらゆる事ががらりと変わってしまう。そして今、僕が言いたいはCMにあるような偽善的な愛についての教説ではない。「子供を抱きしめましょう」と言われて、そのまま機械的に抱きしめても、その「ロボット性」はそのまま子供に伝わるのである。だから、子供を抱きしめるのは問題の解決ではない。問題の解決は「心から」子供を抱きしめる事だろうが、心が何かというのを現代人は見失っている。

 長くなったので、この文章はここで終わりにしたい。上記で調べたり考えたりした事はまた何かの形で作品に結晶化したいと思っている。それでは。

B.C.6954年

明晰な過去の雫

その「本体」の姿

夜の帳 風の声

コンプ済みのカードデッキと君の笑顔

歌われる事のない歌とはためく事のない旗

そして、愛する事のない人類と愛される事を知らない人々

そして、その中で溶けていく棒付きアイス

「全部が全部インターネットで起こっている事なら

君の眼は魚眼だね」と

誰かが言いました

…そう、それは風の声 だから

君の耳元で僕は囁きたい

「僕は古代から続くやんごとなきシッダルタ王子の末裔だ」と

そして今は実は

B.C.6954年だという事を

空間に対して勝利する事・時間を生み出す事

 



 「意志選択」についてドラッカーが書いていた。僕自身、過去にどんな意志選択をしてきたかと言うと、「愚かである事」という選択しかしてこなかった。僕は、賢くなる方法と愚かになる方法の二つの道があると、常に愚かになる方法ばかり選んできた。僕の過去はずっと、そういうものだった。

 タレントの武井壮がインタビューで、「自分のことを考えていると、自分の欲しいものは手に入らなかったが、他人の事を考えるようになって欲しいものが手に入るようになった」と語っていた。僕は武井壮が語っている事は真実だと思う。しかし、ここで一つの疑問が起こる。だとしたら、「欲しいものを手に入れるためには、他人の事を考えればいいんだ!」と、武井壮のインタビューを読んだ今の若者が考えて、そして「他人のため」に何かを実行しだしたとしたら、それは果たして正しいだろうか?。僕はその事が疑問だ。

 今は脳髄皮質に偏った時代であるので、ノウハウ全盛、方法論全盛である。良い小説を書くためにはかくかくしかじかの方法があると人は言う。そしてそれは試験に合格するために、合格メソッドを作る受験生みたいなものである。そして、そういうものは一般に頭の良さであり、賢さである。僕もその事は分かっている。しかし僕はいつも、その逆の愚かさ、馬鹿馬鹿しい道を選んできた。どうしてそうなのかは分からない。でも、唯一僕の中ではっきりしているのは、「そうじゃないと自分の中でしっくりこなかったから」という事である。人は色々な事を言う。「文章を書いているならライターを目指せば」とか、「そういうのを人に見せて、商売につなげないと」とか。でも、僕はそういう意見を全部保留してきた。何故かと言うと、結局、自分が納得できなければ、他人に見せて褒められても意味がないからだ。そういう自分の感情を体験してきたからだ。これは自分勝手な考えなのだが、ゆくゆくは僕も武井壮のように、自分のしている事が他人のためになれば良い、とは思う。
 
 方法論、確定されたノウハウへの僕の疑問はそこにある。そこでは、すでに答えがあり、その答えに早く飛びついたものが勝ちである。新卒でホワイト企業に入れば、人生勝ち組だそうだ。しかし、それは自分が選んだ答えなのか。自分のダイモン(ドラッカーもこの比喩を使っていたーー自分の神霊という意味だ)と対話して、「よし」とされた答えなのか。思えば僕は自分のダイモンとずっと対話してきたのだ。慧眼な人から見れば、そんな自己問答に十年以上の時を費やすのは馬鹿馬鹿しい事であろう。しかし、僕は自分のダイモンが最終的に正しい、という事に対して、僕自身の道を譲らなければならなかった。例えば、ある確定された真理があるとしよう。それは例えば、デカルトの「我思う故に我あり」のようなはっきりしたものかもしれない。しかし、この時、人は結果だけ見る。哲学史では、デカルトの業績だけが伝えられる。しかし、何より大切なのは、デカルトは懐疑論の、迷いの森の中に入っていったという事だ。デカルトは非常に長い時を迷いの中で過ごし、そして最後に真理を発掘した。現代人はこの懐疑を、迷いの森をショートカットして、結論だけに早く辿り着こうとする。そしてその為の道具が、書店に並ぶ様々なノウハウ本、そして、イデオロギー本である。しかし、僕の考えでは、真理に意味があるのは、それが正しいからではない。それだけではない。真理に意味があるのは、まず、それを求めるものが迷うからである。迷わなければ、真理に意味はない。答えだけでは足りない。過程を、僕達は生み出さなくてはならない。そしてそれが作られた過程であってはならない。だから、何かを求める者というのは、普通の人から見ると、阿呆のような運動をしている。何かを求める者は、もう全ての答えがはっきり出ているのに、それを全部捨てて、わざわざ迷いの森に入っていく。人々はこいつを馬鹿だと思うだろう。そしてそう思うのは正しい。だが、人の一生を俯瞰してみると、そこに一筋の物語がある方がいいのではないか。確定された真理に、ショートカットして辿り着き倦怠するよりも、自分自身の道を開拓した方がいいのではないか。

 人間に過程があるというのは不思議な事だ。現代人にとって、そして現代にとって一番理解できない難題は「時間が存在しない」という事である。そこでは、全ての知識や方法論が定まっているために、人の人生に過程的なものが欠けている。人は時間の中を生き、常に時間を気にしているが、しかし、そこに内的な、成長していく物語としての時間は存在しない。僕はこれを「第二の時」と呼んでいるが、人は結局、この「第二の時」を人生の中で生み出さなくてはならないのではないか。そして、そのためには、賢さよりも愚かさを選択するという道の選択の仕方はそれほど悪いものではないのではないか。

 生きるという事は本来時間的なものだ。成長していく物語だ。にも関わらず、世界は利便性により、徹底的に空間化されている。あらゆる真理と答えが、時間を置かずに明らかになる。個々の時間は細切れになり、娯楽と、享楽的なものが、全ての時間を寸断する。これからの現代人の人生のそのほとんどは、細切れされた時間の寄せ集めとなるだろう。そしてそれゆえに、そこには物語が欠けている。しかし、物語はもしそれが存在しなければ、作らなくてはならないものだ。賢くなるためには、まず愚かにならなくてはならない。愚から始めよ。これは、現代人にとっては馬鹿馬鹿しい事だ。僕は時々、自分でも呆然とする。「どうして自分はこんなに馬鹿なのだろう?」と。でも、仕方ないのだ。運命が僕にそう宣告したからには。仕方ない。

 時間を作り出す、という事は、世界の利便性が僕達に宣告した罰であるとかんがえる事もできる。一部の空想論者や。イデオロギストが考えるように、理想の社会が来たら、それで全ての問題が解決するという事はない。人は平等にも自由にもそう簡単には耐えられない。だから、平等を要求する振りして、優越を要求するという劇が演じられる事になる。生きるという事は本来、過程的なものだが、現在というグローバル空間はこの時間性を失っている。だとしたら、この時間を作らねばならない。だとしたら、賢からではなく、愚から始めるべしーーー。それが僕の愚かな、人生に対する方法論である。

 そして、各々の方法論の正しさは、いずれこの世界が決定するであろう。その時までは、ただ走って行くのみだ。



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ただ老いて死ぬ事





私の人生が終わっていく時

私は私が得る事のできなかった様々の事を思い出すだろう

それはあるいは夏の微風や、春の穏やかな午後

精悍な顔した少女の後ろ髪や冬の枯葉の匂いや

病床にいる私自身に注がれる生命の滴

今、私は静かに老いて死んでいこうとする

老いて死ぬという事がこの二十一世紀にあっても

何千年と変わらないようなシンプルな事実だという事は一体、どういう事か

ありとあらゆるテクノロジー・技術・戦争・経済・政治・様々なイデオロギーなど

これまで人間が積み上げてきた全てのもの、そして私の生涯をかけた努力それら全てを足しても

それは私が今死ぬという事実を覆してあまりあるものではない

だから、今、私は普通に死んでいく

古代人がただ野垂れ死ぬのと全く同じ死に方で

そして、この近未来的社会は私の死を様々なイメージと概念で覆い隠してしまうだろうが

しかし、今、私はみすぼらしく、切なく、一人孤独に死んでいくのだ

だから、私は今、現代人が馬鹿にする、昔ながらの宗教を信じながら死んでいこう

そう、私が死んだら、私の魂は天上へと昇る

私が生前に成したその努力に比例して

私はそう信じながら、一人ただ愚かに死んでいく

誰にも看取られる事なく、一人で

そして、それこそが

私の終生の願いであった

世界に抵抗する方法

 


 この先、どんな奇妙奇天烈な論理や世論、あるいは世間の動向が起ころうと、僕はもうそれほどには驚かないだろう。なぜなら、それはもう既に起こっているからだ。

 僕が十代の頃は、社会は全体的に左翼的雰囲気に満ちていた。(今も残っている。)それは偽善的な雰囲気を含むものであり、主に豊満した市民社会の論理だった。人々はまるで、汚いものを自分達の外側に巧妙にとりのける事が可能であるかのように考えていた。つまり、自分達は健全たる市民であり、一般人であり、貧しい者、報われなかった者、何か欠損のある者や、若くして死んだもの。つまり、そういう不幸、あるいは自分達の秩序の外にある者には目をかけて、時に慈善的行為に出なければならないが、しかしいくら慈善をしたところで、それは市民たる我々とは根本的に異なった人々なのである。テレビの中の犯罪者、被害者、あるいは遠い外国の戦争などは全て、自分達の市民社会の秩序の外側の出来事であって、それは自分達とは違う次元に存在する何かである。世界には全体的にそんな雰囲気が満ちていた。その頃、不況だったとはいえ、まだ人はそう考える余裕があった。

 しかし、今や、問題は変わってきた。社会は激変し、非正規労働者も増え、世論も変わってきた。全体的な傾向はいつの間にか右寄りになってきた。そしてそれよりはるかに重大な事が、人々がこれまで秩序の外側のものと位置づけていたなにものか、混沌とか報われぬ思いとか、死や病、実存といった様々なものが、自分達と関係のないものではなく、自分達がそれそのものではないのか、という疑いが起こってきた。これまで、人々は自分達は秩序に守られていると考えてきた。人々は家族や社会、法や国家は、適正に努力し、市民たる義務を守りさえすれば、そうした様々な秩序は自分達を守ってくれると素朴に信じていた。しかしながら、そうではないという事が今、はっきりしつつある。それは経済的な事に起因しているのかもしれない。よくはわからない。しかし、人は今、人生というものがもはやどうにもならない実態、うまくいかない事であり、そうして安定というのものは不可能ではないか、という疑念に取り付かれつつある。そしてこうした人々は自分達がうまくいかないというその原因を外部に求めようとした。つまり、自分達がなにものでもないのは、誰か自分以外の他人が悪いというわけだ。そこで、排外主義が頭をもたげてくる事になる。そして今や、人々の怒声はインターネットを通じてこの空間に響いている。

 僕は今二十八才だが、この年になるまでに、既に世界には様々な事が起こっている。そして一番重大な事は、何か決定的な、個別的な事件ーー秋葉原事件とか、オウムサリン事件とか、そういう事件が起こったという事ではなく、人々の変化そのものだ。人々の世論や態度はまるで、空の色が変わるように変わってきている。そして僕が一番驚くのは、その世界の空の色が変化したことにたいして、疑問や驚きを感じる人が驚くほど少ない、という事にある。テレビを見ていると、「ゆとり世代の新入社員が使えなくて~」と、一般の人が当たり前の調子で言っていた。しかし、ゆとり世代という言葉は最近生まれたものである。しかも、それは実態のよく分からない言葉である。ゆとり世代がゆとり教育によって愚かになったかどうかなど、そんな事は簡単にわかる事ではない。しかしいつの間にか、その言葉が当たり前のものになっている。世界の空気はいつの間にか変わっている。にも関わらず、昨日と今日は変わっていないのだ。そこでは、人々は相変わらず変わらないものとしてそこにあり続ける。僕個人としてはこういう事態に一番驚愕を覚えている。だから、これから先、どんな奇橋な事が起ころうと僕は驚かないし、世の中の人々が全会一致で虐殺を始めようと、集団リンチをしてそれを「正義」と名付けようと、それはまさに起こりうるとしか思えない。いや、そういう事は起こりうるし、これから現に起こるだろう。そして僕はそれをただ眺めるか、あるいはそれから逃げ出すかするだろう。僕は臆病者と罵られ、十字架にかけられるかもしれない。しかしそんな時でも、世界はーーー昨日と今日では何一つ変化は起こっていない。人々は常にいつも正しいのである。

 こういう見方は悲劇的かもしれない。しかし、歴史は繰り返す。歴史は、ドラッカーの言うように、高次になりながら繰り返す。何故そうなのかは分からない。それはおそらく、僕達個人の意志や集団的精神というのが、常に、経済的・社会的要因と葛藤しているからかもしれない。そしてこのふたつは相補的である。ナチス・ドイツの興隆には、人々の絶望故の奇跡を求める願いがあったとドラッカーは結論している。そしてこの時に、例えば、ナチスが興隆する頃に二十歳前後である青年を想定すると、彼が生まれた時にその国が絶望的状況であるという事は彼の責任ではないのである。社会や世界がある状況である、という事は、その個人の責任では全然ない。しかし、世界がそうであるから、また別のアクションを起こすという事は、そこにその人の意志と感情が盛り込まれる事になる。この問題は徹底して考えてみる必要がある。

 ある環境とか、経済的状況とかは僕達の個別性とは全く関係ない所から与えられる。僕達はそれを選べない。おそらくは、アメリカの同時多発テロを起こした人々というのも、自分達に与えられた不幸、低い経済的環境というものに対する個人として憤懣のようなものを燃やしていた事だろう。そしてそうした人々は、それの原因である所のアメリカという国に照準を絞った。こうした考えが正しいかどうかは問題ではない。問題は、社会や経済的な、巨大な背景が人間にのしかかる時、それを個人がどう受け止めるのか、という問題である。問題はマッチョな、頭に血が上った人間が怒鳴り散らすような事ではない。そういう人間は自分を「強い」と錯覚しているが、そうではない。「強さ」とはそういうものではない。そして、ここで始めて、我々が社会に不要だと考えていた、十九世紀的な一連の悲劇的な芸術家や哲学者らの存在が浮かび上がる事になる。

 キルケゴールやドストエフスキーのような存在ーーー彼らがいかに偉大であろうと、人は「そんな物」と見る。つまる所、彼らは確かに偉大かもしれないが、しかしそれは僕達の生を高めたり、あるいは喜ばせたり、あるいは人生の転機なるもののきっかけになるかもしれないが、しかし結局はフィクションであり、それは展覧会で見る絵と同じで、外部的なものであると。芸術や哲学とはそのようなのものであると。しかし僕の考えは違う。僕が考えるのは、彼らはまさに、我々に降りかかる、経済的・社会的要因に個人として抵抗した人間なのではないか、という事である。例えば、ドラッカーは芸術家や哲学者ではない。彼は主に、経済や社会を分析する事を自分の使命としたが、しかし、ドラッカーは経済や社会に打ち勝つ為に、個別的なドラッカーという存在を利用するよりも、外部そのものを分析する事を選んだ、という方がより正しいだろう。この時、ドラッカーは社会と経済を分析する事により、それらを越え出て行く。しかし、ドストエフスキーやキルケゴールのような実存主義的な人々はどうだろうか。彼らは自分の心中をのぞきこむ。そして、外部、社会的、経済的要因に抵抗する事ができるだけの、自分の像を発掘する。パスカルの言葉が深い深淵性を持っているのは、彼が思慮深い男だったからではない。そうではなく、彼は様々な事物、外部的環境から、自己という自分にとって重要なものを守ろうとして、自分というものを掘り起こし、そして自分の内部の階梯を下っていく事ができたからなのだ。この時、自分というのは全体に抗するものとしてある。つまり、普通の精神的、一般的な普通の人は、ある世界的要因があると、それごと流されてしまう。それは「弱さ」と言ってもいいが、しかしキルケゴールに比べれば「弱い」というのはあまりに酷だろう。しかし、全体がある方向に寄っていると、人々はそれと一緒に流される。彼らが金持ちであるか貧乏であるか、そんな事はどうでもいい。これは世界精神的な現象である。(社会主義がインテリの宗教となり、ファシズムが大衆の宗教となった事を思えば足るだろう。)世界が右に流れれば、その濁流に人は巻き込まれてしまう。そして悪い事には、その流れを加速させさえする。そして、これは実は良い流れの時も、悪い流れの時も同じである。そしてこういう時、その見分け方は、例えば、メディアで話された言葉が何の疑いもなく、人々の口から出ている、という現象を見ればわかる。テレビで話された言葉がそのまま自分の言葉になる。2chの思考がそのまま自分の思考になる。世界と自分は一体化している。そこに溝はない。そして、人はこう思う。「自分達が悪いのではない。悪いのは別の誰かだ」。この言葉は僕達が自分の運命や自分の出生を自分で決定できない事のその象徴的な言葉である。自分の運命は外部によって決められる。だから、悪いのは別の誰かである。しかし、この「だから」の矢印は実は全く逆に向ける事もできる。「自分は非常に悪い環境に生まれた。だったら、自分がこれを良いものに変えてやろう」。この二つの論理の方向性はどちらも正しい。どちらの「だから」も正しい。だから、正しいか否かはどうでもいいし、そんな事は問題ではない。問題は個人が世界に対して、抵抗するか否か、というそれだけである。純粋にそれだけである。そして、過去の実存主義的な天才というのは、そういう行為をなしたのであり、単に彼らが一時代を築いたかどうかという事ではない。彼らは少なくとも、自分を発掘し、そしてそれを世界から守ろうとした。そして彼らのような人々は、世界に同化することよりはむしろ発狂する事を選んだ。発狂する事は、異常者のする事だと人は考える。僕は必ずしもそうだとは思わない。気が狂うという事は弱さが原因ではなく、むしろ、強さが原因かもしれない。そして集団で気が狂ってしまえば、それは常に、正常として世界に判定されるのだ。

 大体、以上のような事を僕は考えた。考える事が僕の仕事であるーーと言えば、格好つけているが、それ以外にやる事はないのだ。僕はこれから世界にどのような変化が起ころうと、それほど驚かないだろう。僕もまたドラッカーのように、「自分は世界を規定するつもりはない。だが、自分は世界を理解しようとする」と言いたい。ドラッカーは、芸術や哲学のような実存主義的なものをむしろ、個々人に内在する背景的なものと考えるが、僕は逆にドラッカーが主題とする問題を背景的なものと考える。個人に照明を当てると世界はその背景となるが、世界に照明を当てると、個人は世界に溶け込んだその構成要素となる。しかしドラッカーがやろうとする事を個人的に裏側からやってみたいと思っている。まだ色々と考え無くてはならない事があるし、まだ学ばなければならない事がたくさんある。これからも僕はそれをやり続けるだろう。それでは、この稿はここで終わる事にする。それでは、また。

老脚本家への別れ




貧しさと富裕の中にあっても自己は変わらないが

状況により支配された自己は

状況へと一体化した己として

自分を主張する

自分とは何か?、と問うても

人々は自分が溶けた環境を指さし

それが自分だ、と言う

孤独というのに価値があるのは

それが世界から自分をもぎ離すからだ

どんな風に自分を主張するのも結構な事だが

自分を認識するという事は無限の苦痛を伴う苦行である

世界とは単に一体化した人々であると考える事もできる

にも関わらず、人々もまた何かを目的として動いている

冷酷非道の極悪人というのはおそらく

映像と書物と僕達の肥大した観念の中にしかなく

おそらく最大の極悪人とはお人好しであり

自分自身に従う事しかできなかった人達だ

人間がどのような運命を甘受しようと

僕には僕の課題と責任がある

人々に見えているものが見えない時、人は僕を馬鹿にしたように笑う

しかしながら、人々が何から生まれ、どこにつながっているかをこの手で計量してしまえば

世界は一つの劇場と化してしまう

そして、それこそがシェイクスピアがした事だ

僕は今、自分を含めた人々の運命を発見したい

そして、そこでは悪も善も

人間の行為という形で 劇の上の

登場人物として現れる事になるだろう

そして、この劇が去れば
 
世界は再び平穏に戻る

この世界を描いた一人の

老脚本家がもう死んでしまったからだ

そしてその老いさらばえた肉体の上にも 静かに

秋の枯葉は振りかかる

彼に対して、誰も「さよなら」の言葉を送らなくとも

何十億年と降り積もったこの世界の日々と自然は 彼に

最後で最大の敬礼をするだろう

一瞬の秋の風、その香りという

バランスの取れた最大の調和の形式

自然に吹きすさぶ一陣の瞑目として

芸術と政治が最後に目指す場所

 



 最近ちょっとビジネスづいてきているので、その事を書こうかと思う。

 ビジネスに関しては僕は客観的には興味を持っていたが、自分でやろうと思った事はない。精一杯金を稼ごうと思った事もない。僕はこれまで僕の事に忙しかったーーーと言えば格好良いが、まあ、ぼんやりと生きてきた。

 経営者のインタビューや自伝を見ると、結局、良い経営者は、金が一番ではない、と考えている事がわかる。だが、世間の人はそうは見ない。世間にとっては、偽の芸術作品が本物と混ざり合って市場に流通するのと同じく、経営者なんてのはみんな金が目当てなんだろう、ぐらいに考えている。投資家のバフェットを読み、ソロスを読み、ジム・ロジャーズの本を読んで、そしてそこに小手先の投資理論しか見つけられない。あるいは、具体的にどう稼げばいいのか、というノウハウだけを吸収しようとする。これは哀しい事だが、今はみんな哀しい存在なので、別にこういう人物が哀しいとは誰も考えたりはしない。

 ドラッカーの書いたものを読んでいると、彼にはむしろ、東洋的、あるいは中国古典的な倫理性を感じる。老子とか孔子とか、全体的にそういう哲学、あるいは「道」のようなものを、その著作の奥底に感じる。それは例えば、これからの知識労働者は、単なる労働者として金で釣るのではなく、パートナーとして遇さなければならない、という記述などがそうだ。こういう所からは、なんというかわりと古代的な「道」とか、あるいは「徳」みたいな概念を想起させる。ドラッカーはヨーロッパの人で、もちろんその伝統は引き継いでいるが、しかし半分くらいアジア的な所もある気がする。これは漠然とした印象だが。あまり、ヨーロッパ特有の、論理的に細かく、高度に体系的な感じはしない。むしろ、最初に人間とか社会に対する漠然たる哲学があり、そしてそれが細かな知見として言葉になって流れるが、しかしそれは極めて厳密な論理体系を目指している、という事もない。彼が常に考えているのは、おそらく、現実そのものに対する有効性だ。ドラッカーは目の前の現実をおろそかにはしたりはしない。

 経営者というのは色々なパターンがあるだろうが、金目当てだとそう大した所まで行かないだろうとは予測できる。金は手段であって、目的ではない。こういう事を僕は、芸術に関して、そんな事ばっかり書いてきたが、こういう公式をビジネスに当てはめても特に問題ないように思える。松下幸之助みたいな人が、徹底した現実意識から始めて、最後にかなり奇妙な東洋的哲学者みたいなポジションに至ったのにも、そういう理由があるように思える。つまり、物とか現実とかを支配する為に、その奥に精神とか哲学とかを見ないといけない。だが、そのあいだの相関関係ももちろん、重要なものである。芸術家は一般に理想主義的なので、自分達のしている事を大衆の中に根付かせる努力には乏しい事が多い。彼らは自分勝手に突き進み、そしてそれは人々には理解できないものである事が多いが、だいたい、そういう人には、熱心な弟子とかシンパみたいな人が現れて、こういう人物が大衆との間のとりもち役をする。この時、こういう弟子がいない状態、宙に浮いた状態でも、芸術家、あるいは数学者みたいな人は孤独に威張っていられるが、政治家とか経営者はそうはいかない。いかにそれが素晴らしい製品でも、それが売れずに企業が倒れてしまっては駄目である。しかし、ただ売れればいいのか、というのも問題だ。一時的に売れたとしても、結局、会社にも個人にも継続性が求められる。人というのは移り気なもので、その移り気を永続的なものとみなす事に、多くの失敗の源がある。例えば、ナショナリストは国家を昔から変わらないものとみなし、一部のフェミニストは女性ははるか昔から虐げられてきたと主張する。しかし、それは現在を過去と未来に無限に引き伸ばしているだけであり、過去の歴史を振り返れば、実際には様々な断絶がある事がわかる。企業が自分達の製品を売って、それが何故売れたのか?、つまる所、表面的な物事でなく、その奥にある核心をつかみだすことができなければ、おそらく生き残る事はできないだろう。だから、金を直接の目標とする事は、金を得る為には何をしてもいいという論理に陥るか、あるいは一度、まとまった金を手に入れればそれで満足して成長が止まるか、そんな結末しか見えない。前進するとはどういう事だろうか。哲学、とか、道、とか言うと、人は抽象的とか、あるいは現実離れしている、あるいは偽善的であると感じる。しかし、本当はそうではない。前進する時は、目の前のものを見ずに、その奥のものを意識する方が便利である。哲学、とか、道、とかそういう事を優れた経営者とか、あるいはスポーツの監督などが言う時、彼らは現実の奥に、現実そのものを支配するか、あるいは現実において何をすべきかを理解させてくる、『遠点』のようなものとして見ているのである。遠くの点が基準になるからこそ、近くの歩みが可能になる。

 しかし、余り遠くばかり見ていては駄目なので、そのバランスも大切になる。ジム・ロジャーズは一度破産した事があると言っていたが、その際、彼が立てた理論そのものは正しかった。しかし、現実の運動が彼の理論より余りに遅すぎて、それに焦って彼は一度破産した。ジム・ロジャーズは慧眼な人なので、いわばこの時彼は、遠くの物事が見えすぎていたと言う事ができる。だから、経営者や政治家みたいな人は、哲学という抽象的なものと、現実、あるいは金、物のような近くのものとのバランスある距離をそれぞれに発見しなくてはならない。そしてそれは、彼ら現実に関わる人の強みでもあり、また弱みでもある。なぜなら、空想的な芸術家というのは、現実に一切妥協する事なく、自分の世界をどこまでも突っ走れるが(例えばニーチェ)、しかしその反動として、現実から一切無視されたりする。政治家や経営者は現実から無視されるわけにはいかないので、従って、彼らは空想家に比べれば常に妥協的である。特に、政治家というのはどんなに偉大な政治家でも極めて妥協的なものである。チャーチルは本心ならば、ソ連と手を組みたくはなかっただろう。しかし、チャーチルが自分の理想だけを信じていたら、ナチスに打ち勝つ事はできなかっただろう。しかし、言うまでもなく、政治や経営は実際に現実をその場で変革してしまう力を持っている。しかし、それらはそれゆえに、現実から拘束されるという特徴を持つ。

 僕は全身芸術野郎なので、ビジネスや政治について考える時も、芸術がその基準となる。しかしながら、この場合、政治も芸術も、裏と表で同じ場所を目指していると言っても良い。芸術や哲学などは、まずフィクションの領域に働きかける事から始め、そして、政治や経済は現実に働きかける事から始める。しかし、フィクションはやがて現実に還元され、そして現実はやがて、「経営哲学」のような形でフィクションに還元される。それらは最終的には同じような場所にたどり着く。何故かというと、人間というのは肉体的であるとともに、精神的な存在であるからである。それらが裏と表で最後に似たような場所を目指すというのは結局、人間の本質をどちらからたどっても同じ場所に行き着く、というその証左であるように思える。

 ドラッカーも書いているが、目的をどこに設定するか、というのは極めて難しい。芸術の場合だと、その芸術が何を意図するか、という事である。僕の場合は芸術の意図は「表現」だと今は簡単に言えるが、それまでは芸術が結局、どこを目指すのかはよくわからなかった。例えば、芸術は「美」を意図する、と考える事ができる。「表現」と「美」とでは、同じように見えるかもしれないが、実はぜんぜん違う。小林秀雄は「美しい花がある。花の美しさなどというものはない。」と簡潔に言ったが、この時、僕には、小林は、芸術が美を目的する事は間違いだと言ったのだ、と受け取れた。つまり、美とは芸術の結果であり、目的ではない。例えば、詩が詩っぽいものを目指すのは間違いであり、それは何より、言語による内的表現であらなければならない。これは僕の結論だが、しかし、「現代詩手帖」を見れば、そこにあるのは「詩を目指す詩」で溢れている。そこでは、詩という形式から詩そのものが逸脱する事を恐れている様がよく見て取れる。しかし、僕は詩とはそういうものではないと考えている。

 ビジネスにおいて目的を設定するという場合、当然のように、「利益」「利潤」みたいな事が想定される。あるいは、想定されている。しかし、実際に、利益や利潤を目的として、自分が起業するとするしたら、どこから手をつければいいだろうか。そこには自分の興味関心とか、自分の個性とか存在とかが一切反映されていない。無味乾燥なものである。だから、そういうものを考えると「FXで一発あてる」くらいしか思いつかない。しかし、投資というものも、結局は現実と結びついたなにかであるから、そこには現実を統一する観念、あるいは哲学を必要とする。だから、会社は利潤や利益を追求すると漠然と考える事ができるが、しかしそういう考えで、経営というのは根底的に不可能なのではないか、と僕は思う。あるいは可能かもしれないが、それはそんなに長くは続かないだろう。そういうものを目的にすると、消費者を多少損させるか一時的にだましても利益があがればいいと考えることになるが、そういうものはいずれ見破られる。そこで、重要になるのが、社会に対する貢献、あるいは全体に対する奉仕的精神、という事になるだろう。こういう言葉は最初、偽善的に現れるが、しかし、金、物、などの唯物的なものの脆弱性を知った後では、極めて重要で、現実的なものとして最後には現れる事になる。ここにはビジネス的な弁証法があると考えられる。

 とりあえず、無知ながらも、ビジネスについて以上のように考えてみた。僕がビジネスを始める気はないし、一般企業に就職してのしあがる可能性すらないが、しかし考える事は好きなので、考えてみた。この考えはもっと深めたいが、しかし僕とって大切なのは、総合性と多様性なので、先には全然違う分野について考えるかもしれない。しかし、僕の基本はあくまでも芸術である。とりあえず、この文章はここで終わる事にした。それでは。

ドラッカーの中途感想②

 ドラッカーの中途感想②



 引き続き、ドラッカーを読んでいる。あまりに面白いので、ブックオフで五冊ほど買ってきた。新品で買うよりはかなり出費が抑えられた。ありがとう、ブックオフ。

 ドラッカーを読んでいると、色々と刺激される事がある。というより、ありすぎて、どうまとめればいいのかわからない。ドラッカーを本格的に読む前は、マネジメントとは単に、経営管理術の一つなのだろうと思っていたが、ドラッカーの思考の中ではマネジメントというのはもっと、物体的な発明品として考えられてるのではないか、という気がする。それは物であり、新たな「エジソンの電球」である。これからは、ある種の概念自体がインターネットを通じて、「物」とした流通する、そういう時代が来るかもしれない。

 ドラッカーの著作においては、これからは知識労働が主になると考えられている。これは当然の事だが、ドラッカーはその先に踏み込む。知識というのは極めて流動性が高いもので、そこでは、あらゆる人間が互いに競争的になるとともに、あらゆる人間に成功と失敗の可能性が訪れる、とドラッカーは予測している。
 
 僕がこの知見からすぐに想起したのは、現代に発生した様々な偏向的なイデオロギーである。これら全体主義的雰囲気を伴う様々なイデオロギーというのは、結局、このように知識労働が前提となり、諸個人に無再現の自由が付与された事にたいするカウンター的な意味合いがあるのではないか。個々人がその知識と能力如何によって成功も失敗も可能だという事は、そこで生きる事、そこで何らかの成功をしたり失敗したりする事が全て個人の責任としなってのしかかってくる、という事である。自由というのは責任を生む。しかしながら、今の僕達にその責任は重い。そこで、安定志向の人々が出てくるか、あるいは極端なイデオロギーによって、自身の(失敗の)責任を誰か他人に肩代わりしてもらおうとする方式が発生する。無再現の自由に多くの人は堪えられないので、彼らは何らかのお守りを必要とする。

 そしてそのお守りが、今高揚している排外主義である。彼らは自分達の責任を自分達の外側に押し付ける。彼らは自由を捨て去る事を望む。自分達がうまくいかなかったのは全て他人のせいである。だから、彼らはそういう他人を無理矢理にも発見する。あるいは、それをメディアの力によって作り上げる。

 その一方で、安定と安心を望む人達がいる。彼らは社会の規範をなんなく受け入れ、その敷かれたレールに乗る事によって、僕達が社会の外側に追放したカオス、「物自体」、様々な計算不可能な混沌的エネルギー等を見ないようにする。この時、この社会は硬直的なものである。人はブラック企業とか、ホワイト企業とか言う。そしてその待遇を熱心に見るが、しかしその企業が何を意図し、社会に何を提供し、またその企業が人材として、能力として、何を必要としているかは考えない。人々に必要なのは社会でも現実でも、人でもない。こうした人達が必要としているのは、安定してお祈りすることのできる、一並びの確定された教条であり、またそのような条文である。彼らは、自分達が生涯安定できると確信できる為の何かを欲しているが、安定の為に必要なものが何か、自分が何故安定する事が可能なのか、とは決して考えない。だから、会社が待遇を良くしなかったり、政府が補助金を出さないから世の中が悪いままだと考える。彼らに自然は、現実は見えない。

 ドラッカーの知見からそのまま僕の思考を伸ばしていくと…上記のような事が思い浮かぶ。しかし、以上の考えもほんの一部ではある。例えば、日本の会社で働いていると、そこに全く、独創性など要求されていない事がわかる。もちろん、芸術家的な独創性は必要ないが、しかし、上司に何か提案すれば、嫌な顔をされるに決まっている。部下は、言われた通りに働いていればいい。そんな空気がどこにもつきまとっている。もちろん、そういう空気というのは、トップの人間が絶対的に正しい真理を保有している神のごとき存在であるならば、そうする事は正しい。しかし、そんな神のような人間は存在しない。どこにも存在しない。人は間違えるし、人は不完全な生き物である。そして優れた経営者というのは、そんな風に自分を神のように考えたりしない。彼らはむしろ、他人の自由を自分の内で許容する道を選ぶだろう。

 また、他にも言える事がある。現代社会では、経済的成功と幸福とが同一視されている向きがある。また、性のヒエラルキーが発生している事も事実だろう。しかし、ドラッカーは経済的成功と幸福が同一だとする考えには触れていない。それは無視されている。人が、ドラッカーを何か、救世主的に読むとしても、それは間違っている。彼は来るべき時代を予測し、それを理解し、人はどうあるべきかを問うが、しかしそれは、僕達の卑小な幸福意識とは関係のないものである。もっと言うなら、個人としての幸福を経済的成功とイコールとして考えるなら、経済の『意味』は一切問われない。つまるところ、インターネットで大金持ちになろうが、製造業で、あるいは石油を売りさばいて大金持ちになろうが、大金持ちは大金持ちであり、それは素晴らしい事だというのが一般的な考え方だ。その時、その大金持ちは変わらず大金持ちである。しかし、それが何であるのか、という事は一切問われない。石油を売るという事、あるいは今、製造業で大儲けするというのが、この浮動する現実において何を意味するのか、という事は一切問われない。金持ちは金持ちで結構じゃないか、というわけだ。しかし、ドラッカーに興味のあるのは、現実である。現実だけと言っても良い。彼は製造業が、石油が、インターネットが現代において何を意味するのか、そしてどのような可能性があるのかを思考する。その時、その人が金持ちかどうかは知った事ではないのである。

 だから、ドラッカーを自己啓発本のように読むのは間違いだと思う。…にもかかわらず、それはまさに現代の教科書となりうる。特に、経済・政治的領域における教科書としてはこれ以上のものは考えられないだろう。しかしながら、彼の書物が教科書として妥当だとしても、それは現実に開かれた教科書である。それは、現実に目を向け、分析し、そして考える事を要求する。既存の教科書はそんな事を要求しない。既存の教科書は現実に背を向け、教科書の何行目を覚えろと要求する。そして教科書と現実との齟齬が次第に拡大しているとしても、そんなものは意味が無いかのような顔をする。これは大学などの様々な分野でも言える事だと思う。つまり、ある分野が現実に対して開かれる事をやめると、いつもそれはドグマ的な、教条的なものになる。そしてこれだけ現実が巨大に変化している場合、人はそれから目を背けようとする。人は現実に蓋をして、そして自分達に都合のよい論理だけを求める。そして、まさに現在、そういう傾向があらわれている。おそらく、これから何らかの形でまた、過去の全体主義が持ち上がるだろう、と僕は予測している。そしてその芽はすでに現れている。そしてその分析もまた、ドラッカーはその処女作で済ませている。

 とりあえず、ドラッカーを読んで以上の感想・あるいは想像を持った。またドラッカーについては書こうと思う。

 ドラッカーの中途感想




 ドラッカーは日本ではマネジメントの父という事になっており、ビジネスマンなどがよく読んでいるという印象がある。しかしながら、僕がドラッカーを読む限り、ドラッカーは通常考えられているよりもずっと巨大な人物に見える。ドラッカーの知は、軽々と世界を飛び越えるのだが、しかし、それは彼の資質によって、社会・政治・経済などの分野に限定されている。

 元々ドラッカーが核に持っているものは、ヨーロッパの基本的な良点である「自由と平等」などの、オーソドックスかつ古典的なものであるように思う。処女作『「経済人」の終わり』ではその事が何度も強調されている。そしてこの場合の自由や平等という概念は個人にとっては、どのようなポジションに当たるだろうか?。
 
 芸術家というのは自分勝手なもので、大抵は回りの事など考えないものである。それは芸術家が自分勝手でわがままだという事ではなく、芸術家などというのは、自分の力によって世界を動かせるような錯覚を持って事を始める、という事を意味する。例えば、ゴッホが当時の社会性や全体的な政治的意図を真剣に考えるという事はあっただろうか?ーーーしかし、彼にとっては、社会全体の動向よりも、例えば、目の前の貧しい鉱夫に何もかも尽くしてやるとか、あるいは目の前の誰彼に熱烈に恋するとか、あるいは目の前の画布にただただ己を描きつけていくとか、そういうことのほうが全体的な理想や、自由、平等よりは大切であったろう。しかし、この時、ゴッホはミクロな視点から、社会に絶望し、あるいは困窮しながらも、ドラッカーが全体として唱えている自由や平等に近づこうとしていた、と言えるかもしれない。ゴッホにとって芸術作品は、彼という異質な人物と、そして違和感の塊のような世界全体との、その中間的ーーあるいは調和的なものであった、と考える事が可能だ。

 ニーチェが「天才と理想国家は矛盾する」、と書いていた。この事はよく考えれば奇妙な事である。ドストエフスキーはこの哲学を、「地下室の手記」によって表したが、天才というのは常に現状に不満な生き物なので、彼が天国で生まれたとしたら、その人物は必ずやその天国に不満を持って、地獄なりどこなりへと、勝手に旅を始めてしまう、そういう存在である。天才というのは、そういう風に己の力を試さずにはいられない、風変わりな連中である。しかしながら、凡庸な人物もまた、天才と似た素質がある。僕達は今や、貧しい国では、決して手に入らないような豊かさを手にしているが、日々、その事に感謝する者はまずいない。僕達は今ある状態を当たり前のものとして受け取り、そしてなおかつ、その先に自己実現とかスキルアップとか、勝手な事を言っている。この時、僕ら普通の人間というのも、常に(良い意味でも悪い意味でも)、現状に満足できない存在である事を示している。

 見田宗介や吉本隆明のような人物は「理想的な社会」をそれぞれに構想している。だが、その「理想社会」が仮に実現したとしても、その社会が「あまりに理想すぎる」という事により、それに不満を持つ人物が現れるという事は間違いない。そして、それに不満を持つ人物というのは、その社会を発展させるか、貶めるか、悪魔か天使かのような、特異な存在として、その社会に降り立つ事になるだろう。

 ドラッカーが全体性として述べている、巨視的な視点は極めて偉大なものだ。そしてこの事は、僕などがずっと考えてきた、文学や芸術とはどのような関わりを持つのだろうか?。
 
 ドラッカーの巨大な視点ーーー例えば、処女作では、実存主義者としてのドストエフスキーやキェルケゴールなどがちらちらと出てきたりしてくる。言ってみると、ドストエフスキーやキェルケゴールは、僕にとっては「こちらがわ」の存在である。しかし、彼らは政治や社会の巨大な現状とはどのような関わりがあるか?。それを僕なりに簡単に言うと、上記の実存主義者達は社会の全体制に対して、徹底的に、内在的に、しかも自己として抵抗する。そして、社会に対する「調和としての」反抗の形式が、彼らの作品として残る。彼らは、社会と自分の間にいつも隙間や溝を感じており、そしてそれを和解させる手段が、それらの違和感の吐露ーーーつまり、それらの作品であると考える事ができる。そして、これはドラッカー的な視点から見ると、全く逆に見えてくる。つまり、ドストエフスキーやキェルケゴールを生み出した、二十世紀的(あるいは十九世紀末的)現象を政治的、経済的に分解していくと、そこに個人としての、「実存主義」の発露を予感、予知する事ができる。つまり、唯物論の徹底的な広がり、資本主義と社会主義、両端からの人間の物質化というマクロな視点から逆さに見てみると、『おそらく、個人は何らかの形で実存主義的なものにいきつかなくてはならないだろう』と予言、予知する事ができる。そしてこの場合、社会、政治、経済現象は原因であり、それら天才的な芸術家とか哲学者とは結果である。だがしかし、この原因と結果の間に、人間の意志・情熱・苦悩・成長などが満載されている。そしてこの場合、ドラッカーはこの苦悩や情熱、個人の発展史などを知ってはいるが、それに言及している暇はないので、省くのである。

 ドラッカーの巨視的な視点からすると、個人の実存主義抵抗や天才性の発露は、問題の解決とはなりえない。それはドラッカーのハンナ・アレントに対する評価から見ても、はっきりしている。ハンナ・アレントは問題を解決しない。彼女はそれを、思想的に、いや、あまりに思想的に解釈してしまう。そしてドラッカーは彼女の偉大さを認めつつも、しかし、それでは問題は解決できない事を知っている。政治現象、経済現象はあくまでも、政治的、経済的に扱わなくてはならない。しかしながら、例え、全ての問題が解決がなされたとしても、まだその先に問題を見つけたがる天才達はいる、という事もドラッカーは知っている。しかし、彼は自分の領分を知っているので、その事については言及したりはしない。彼が天才を見るのは、それらの人々が社会に及ぼした影響なのであり、彼ら個人の直接的な運命なのではない。他方、僕達がある芸術作品とかある哲学を読む時、そこには何らかの個人の超人的な意志力や、運命のようなものを見る。そして、それは個人の自由を意味している。しかしながら、ドラッカーの世界においては、それら個人の運命はそれぞれの自由に委ねられていて、基本的には言及されない。彼がしている事は、問題の提起と社会の動向の探査であり、それを我々がどう捉えるかは、我々個人の全くの自由なのだ。ドラッカーは僕達に、正確な病名と、それに対する対処法すら教えてくれる。しかし、その実践に伴う苦労は、僕達が自分で知らねばならないのだ。もっと言うと、いかにドラッカーが偉大であっても、彼を教条主義的に扱ってはならない。なぜなら、彼は常に本質的な事しか言わないからだ。そして、その本質を知りさえすれば、ドラッカーの直接的な教えに反しても、(おそらく)ドラッカーは怒りはしないだろう。彼はなんと言っても偉大だからだ。

 ドラッカーについては読み始めだが、とりあえず以上のような感想を持った。ドラッカーという著作家は、社会生態学者として極めて偉大である。引き続き、この人物の著作を読んでいこうと思う。

経済・歴史・政治などのマクロなものと、芸術というミクロなもの

ちょっとメモ風に書こうと思う。

さっき、ケチな僕にしては珍しく一万円近くも出して、経済学系の書物をいくつか物色して買ってきた。(一つだけ芥川也寸志の音楽本もあるが。)僕は今、自分のやっている事の成り行きから、政治・経済・歴史のようなマクロな問題について理解する必要があると感じている。

とはいえ、僕は芸術野郎なので、常に個人というミクロな視点を忘れたくはない。そこで、問題に成るのはマクロな視点とミクロな視点の接合点である。この領域について言及している人間はそれほど多くないような気がする。

例えば、「ゆとり世代」という言葉はいつの間にかこの社会に流布し、そして人が普通に使うようになっている。「中国産」という言葉もネガティブなイメージの言葉として今は語られる。人はその因果関係を簡単に考えるだろう。つまり、ゆとり教育が若者を愚かにしたから「ゆとり世代」という言葉がはやり、中国が適当なものづくりをしているから「中国産」は駄目だ、という風に。(中国が大雑把な国民性である事は確かにあるだろうが。)しかし、僕は全体として、その事に対して疑問を抱いている。

ドラッカーはその処女作で、ナチスドイツについて解剖している。そして、彼はその本質をつかみ出しているのだが、しかし、そのつかみ出す内容は、ナチスに礼賛する人、あるいは反対する人とも違う、もっと奥深いものである。ハンナ・アーレントなども思想的に、そういうものをのつかみ出している。が、僕がなんなとなく思うのは、僕達がある因果関係を元に言表したり、行動したりするその外部に、経済とか社会などの大きな要因があり、それが個人に様々な慨嘆や悪意や賞賛を起こさせているのではないか、というそういう直感だ。

つまり、ミクロな視点から見れば「〇〇がむかついたから腹がたった。だから、殴った」みたいな、単純な論理になるのだが、しかしその外部の社会的要因に対して僕達が何らの抵抗も持てないからこそ行う行動、あるい非行動というものがあり、僕達を支配している大部分のものはそういう外部性にあるのではないか。そしてそれを知るためにはどうしても、政治や経済、歴史を学ぶ必要があると感じている。

芸術家というのは一般に、直感的に社会の欺瞞に気付いてこれに抵抗したりするのだが、しかし、それは意識的、あるいは論理的に探求されたものではなく、あくまでも感覚的、あるいは無意識的なものである。社会が個人になんらかの事を、外側から矯正する時、芸術家の自由を求める魂はそれに反発する。全体主義が支配する世界において、まともな芸術作品が出てきにくいのは、結局、自分の外部に勝手に立てられたドグマを意識しながら作るものなど、大したものができない、という事である。アニメサイコパス風に言うなら「シビラの顔をうかがいながらやる芸術活動などろくなものではない」。何らかの権力組織が全体の為に全てを統制すると、それは必然的に個人の自由を奪う事になる。そしてその結果、結局は全体の生産性が低くなってしまう。しかしながら、もちろん、無際限の自由も危険である。法律は必要だが、それが全体主義に陥ると本末転倒となる。


僕がいまやりたい事は、つまり、これまで感覚的、無意識的にやっていた事にはっきりとした論理性、形を与えることである。その為に、歴史家、経済学者、その他の人達の手を借りたいと思っている。

そして、その先に僕は再び、個人に帰るだろう。

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