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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

知者は心ある道を行く





人々は人生という「道」を

何かを手に入れるための

「通路」としてしか見ていない

人々にとって人生とは結局、

何かの為の通過点に過ぎず

手に入れられるものだけが全てだと

信じている

合格の為の受験勉強

就職の為の就職活動

彼らに結果の為の過程は意味なく

そしてその結果も結局は

社会が僕達の為に用意してくれたなにものかに過ぎない


「知者は心ある道を行く」と

カスタネダの師ドン・ファンは語った

そこでは人生とは通路ではなく

一つの道である

知者も自分が人々同様死ぬ事を知っているが

彼らは自分自身の道を歩む

彼らの道行きというものは

その瞬間瞬間が結果であり過程でもあるから

だから、彼らは正に人生を生きている


僕達が今している事は

やがて来るはずの何かの為に絶えず自分自身を延期させ

それを待ち受ける事

しかし、人生とは本当にそのようなものか

絶えず、心の道を歩む事

それが本当の人生ではないのか

もし、そうでないなら人生とは単に「通路」に過ぎない

そして通路の人生はただエスカレーターに乗る行為のように

目的地に着く為の手段に過ぎない


我々の人生は手段ではないのに

いつの間にかそれは手段になっていた

僕は自分がどれほど愚かでくだらなくとも

自分だけの道を歩きたい

そして、歩く事に意味があるのは

世界から一人離れ、この世界の外を

旅するからなのだ

古代メキシコの呪術師の行う

終わりなき「旅」のように

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病み上がりの長文

 




 夏風邪を引いて4日くらい寝込んでいた。実は今も寝込んでいるのだが、文章を書けるぐらいには回復した。

 その関係で、仕事を休む事になり、職場の人に迷惑をかける事になったのだが、「迷惑をかける」とはなにか、という問いが頭をよぎる。もし、僕が逆の立場なら僕は「迷惑をかけられた」と思うのだろうか。人が寝込んで、倒れている姿を想像して。

 見田宗介の「社会学入門」に次のようなエピソードが書いてある。

 見田はインドやラテンアメリカのような、比較的ゆったりした時間の流れる穏やかな国に旅した時に、以下のような事を体験したのだという。ある朝、見田の元に新聞の売り子の子供がやってきて「日本の事が出ているよ」と言う。そこには日本の記事が出ていて、それは埼玉のアゲオという駅で、通勤時間に電車が一時間くらい遅れたので暴動が起き、駅長室の窓を叩き割ったという報道だった。世界にはすいぶん気狂いじみた国がある、という扱い方だった。

 見田は朝の通勤時間のサラリーマンの気苦労に共感しつつも、自分はその狂気の国に帰るのだ、と思った、と書いている。

 狂気の国、というの妙な言葉である。しかし集団が奇妙に発酵し、狂熱化すると、自分達の内部では当たり前の事が他者から見ると狂気そのものだったりする。僕は今、自分が寝床でじっと寝ていた事を含めてーーそう思うのだが、おそらく、もう色々な事を変えなくてはならないだろう。この世界も、僕自身も。しかし、この日本という国はおそらくさほど良い方向へ向かっているわけではないだろう。彼らは今、叩き割る駅長室の窓探しに必死だ。そして、全ての駅長室の窓を叩き割る事が彼らの宿願なのだ。

 パスカルのような思想家は理性から信仰に、ニーチェは頭脳から狂気へと至った。彼らはなんと孤独だったろう。それら比べて、メキシコの呪術師ドン・ファンの思想はなんと足に地がついている事だろうか。『心の道を歩め』。では、心の道とはなにか。

 少し前のこの国のブームは『癒やし』だったが、今はそれが攻撃性へと転化している。以前には夢や情熱が過大に語られたが、今は他者排除、異国排除の方向へと向かっている。誰しもが何かに怒りを抱き、それを発散させたがっているが、それが何かは誰にもわかっていない。一方では、社会が僕達にちらつかせる『幸福への階段』という方法論もある。そのはしごを一段ずつ登れば幸福だと。こういうものは、これからも形を変えて残り続けていく事だろうが、しかしそれはドンファンの言う所の『心ある道』とは全く違う道だろう。
 
 近代から現代に至るまで、世界は色々な秩序を構築してきた。特に日本のような国は、秩序大好きに見える。よく言われる事だが、日本の電車は時刻ぴったりに来る。海外だとよく遅れる。これは消費者目線だともちろん圧倒的に日本の方が良いだろう。しかしそれが、その電車の操縦者の一人一人に無意識的なプレッシャーを与えている事は間違いないだろう。そして事はそれだけではない。電車は遅れない。遅刻も許されない。すべては正確な時の中にある、という事は僕達に絶えず、切り刻むようなストレスを与え続ける。とはいえ、「遅刻してもいいじゃないか」などという理屈は「大人」には通用しないので、それは言う事ができない。人はストレスを抱える。そして駅長室の窓を割る。

 しかし、問題はそれだけではない。問題はその我々の無機質的な時間の細切れ性、正確性が、一体、何の為にあるのか?、という事だ。我々のしている事は今、一体、何なのか?。例えば、僕が運良く大卒でトヨタに入社できたとしよう。親は喜び、赤飯を炊く。やれやれ、これで天下のトヨタだ。僕は安心して毎日を過ごす事ができる。
 
 僕は遅刻もせずに、エリートサラリーマンとして一歩ずつ社会的地位を上昇していく。そしてその歩いていく過程は大したものである。しかし、問題はその過程の「意味」である。僕は僕が何をしているかしらない。極端な話、僕が作った車が、ロシアの金持ち専用の車だろうが、カンボジアの子供を運ぶ車だろうが、日本の車好きの買うもののための車なのか、そんな事には興味はないのだ。いや、そもそも、今の国内市場で車、そのほかのすべての多数のジャンルにおいて、それが車というだけではもう魅力がない。走るだけでは駄目なのだ。ベンツを買うのは乗り心地がいいからだろうか?。いや、違う。例え、実際ベンツの乗り心地がいいにしても、そこには微妙に違う何かが含まれている。人はそれをベンツだと思うから買うのであり、それがインプレッサでないと知っているから買うのだ。そこにはベンツを買うという満足感の為に買う、というかなり倒錯的なーーーあるいは現代的には当然の欲求が見える。そしてこれは他の分野についても考える事ができるだろう。食品にしろ、そこに付加価値がないと意味が無い。食品は、「安価でそこそこうまい」と「高価で物凄く価値がある」の二つのものに分裂しているように見える。つまり、このような高度な社会では人は、もはやただたんに車を操縦したり、飯を食ったりしない。彼らは常に、物に幻想を二重にまとわせる事によって、自らの身を証明しようとしているように見える。そしてこの幻想を具現化してくれるのが、我々の現代社会だというわけだ。

 
 一つ、嫌な仮定をしよう。あるエリートサラリーマンの父親がいて、彼は仕事一本の人間である。彼は仕事が好きであり、全身仕事まみれで、家庭を省みる事はない。彼は子供・妻に大して、感受性を開く事も、愛情を与える事もなくただ仕事に打ち込んでいる。彼の通っている会社は一流企業で、例えば、大会社で、世界的に有名なRPGを排出しているとあるゲーム会社だという事にしよう。彼は身を粉にして、その仕事に取り組む。
 ある時、大きくなった子供の一人は父親に聞く。「お父さん、どうして僕達をほったらかしてまで、そんなに仕事に自分を捧げたの?」
 「それはね」
 と、父親は言う。
 「それはその仕事が世界中の人達を幸せにできる大切なプロジェクトだったからだよ。悪かったな、坊主」
 だが、もちろん、ゲーム会社がどんなに大きくなっても、それは子供に与える娯楽製品を作る会社である。では、この子供を見ずに仕事に生きた人間ーーーその仕事の帰結であるゲーム作品をこの子供が手にとり、「これを作るために僕は放っておかれたのか、じゃあ、しかたないな」とその子供は満足できるのだろうか?。
 
 
 こういうことを書いて、僕は何を言おうとしているのか。
 おそらく、それはーー僕達の複雑に入り組んだ現代社会の出口に待っているその答えは、人がその「過程の塔」を見上げている時のように、壮大で偉大なものではない、という事だ。僕達の結論は僕達の欲望の充足だ。だとすると、課金ガチャに何十万をつぎ込む事は、なんという素晴らしい事か?。結果として、課金ガチャに金を放り込む事を褒めるのはためらわれるが、しかし、そういう大きな会社を誰かが「成した」事に対しては賞賛は常に送られてきた。「プロジェクトX」的な番組はそういう過程を取り上げる。ああいう番組は物事の外枠をなぞるが、高度な専門性と哲学性にはまず突っ込まない。だからああいうもの、あるいはテレビというものは根本的に大衆向きのものである。

 
 現代社会は実に複雑で多種多様な難解さに満ちているように見えるが、しかしそれは結局は大衆のーーーシンプルな欲望へと帰っていくる。美女を抱いている筋肉むきむきのアスリート、みたいな。そういう像のために、そしてその像のために、この世界のバベルの塔は組み上げられているが、しかし、こういう事はどういう事なのだろうかと、僕はしばし呆然とする。そして自分の卑小さを思う。


 高度資本主義はおそらく、初期から中期にかけては我々の生活の底辺を上げる事に利したのではないか、と思う。そして今やその時代は終わったので、何らかの幻想やイメージが商品には付加価値としては必要になってきている。どんなに自分のしている事が、大切な事なのか、と言い張っても、人間そのものが幸福という幻想を追う一個の生体になりさがっている以上、我々のしている事はすべて、ある種の欲望のイメージの成就の為に使われているにすぎないのかもしれない。

 
 さて、色々な事を病み上がりに書いたが、僕もその先の結論は特に見えていない。おそらく結論はないのだろうが。それに、僕は不平不満を言い過ぎているのだろう。ウェルベック風に。僕達は色々な事が便利で豊かになったからこそ、そこから生まれる欠陥に目に行く。しかしその下の利点にはなかなか気づきにくい。僕は日本を離れると、心底日本が懐かしくなる事だろう。そして人間というのが、どこへいこうとたいして違いのないこせこせした集団だという事を知る事になるだろう。

 
 それではこの文章はここで終わろう。不完全燃焼になったが。おそらく、今、思想は転回しなければならないだろう。つまり、それは規律や秩序に何かをはめこむ作業ではなく、カオスや混沌と戯れ、遊ぶ事により、秩序を創造する事。不合理を楽しむ事。不条理と戦う事により、条理を明確にする事。会社が存在しなくても自分は存在する事。日本が消えてもまだ自分は存在し、人生は続くという事。そして人が生き残っている限り、まだ何かは続くという事。

 すべてを失うという事は終わりではない。それはまだ始まりなのだ。 

草鞋を履いて



イメージとしての我々は

今、貨幣以上の

激しいインフレを示しているように思われる

我々が掲げる幸福のイメージは高く、それ故に

我々は常に激しい飢渇感に襲われている


広告代理店が掲げる無数の

乱立するイメージの群れ、あるいはネットで掲げる

自分達を正当化してくれるイメージ そのどちらもが

僕達の実像と乖離して

天まで飛んで行くかのようだ


人は

自分が自分である事を嫌う時

一足飛びに神になろうとする

そして、世界が勝手に作り上げたイメージと自分とを一体化し

そうした神になろうとする


しかし、人間は神ではないので

その人物はいずれ、地面に引き下ろされざるを得ない

今、僕が考える物語の骨子は

そのようなものだ


イメージの乱立する群の中で

君はふいに思う

「自分は幸福なのか?」と

だが、その時、君の「幸福」に

人々が先見的に投げ入れておいた一つのイメージを 君は

発見する事ができない

だから、君は幸福になれないまま

永遠にそれを追い続ける現代的な動物の一人となる


世界にはまた「不幸」のイメージもあり

例えば、〇〇の為に、自分を損なう事は

美しい「不幸」のイメージとして表象されている

例えば、九回ツーアウトでヘッドスライディングする八番バッター

あるいは

大義名分の為に死んでいった兵士達

しかし、それが何であるのか

僕は見ないといけないと思う

先見的なものをただ受け入れる事は

いかなる意味でも哲学とは言えないから


…僕が今、寂しさを感じているのは

世界が落下するスピードを一人

感じているからだろうか

人々の破滅をかけたゲームを 僕は

傍観者の立場から見守っているに過ぎないというのか


…多分、世界が壊れてもなお

人間はそこに立っているだろう

そして、その人間はおそらく一人

農作業から自分の歩みを始めるだろう

MBAの取得を試みる事なく

そして、そんな風にまた新たな世界は

開拓されていく事だろう


そして、全ての人々の足音は過去の

「清い」過去の歴史として封印され そうして僕達はまた

新しい一歩を踏み出すだろう

これまでの全ての人の血が染み込んだ

一足のわらじを履いて


 大切なものはそれじゃない



 「大切なものはそれじゃない」と思う事がある。何かを読んだり書いたりしている時。あるいは、自分自身と問答を交わしている時。ネットにはびこる多くの言葉。意見。思想。それらの全ては、一体どれくらいの寿命を持っているだろうか。自分の言葉が、三年後にどうなっていると予測されるだろうか。あるいは自分の好きな異性でも自分の愛好するイデオロギーでも何でもいいが、今、自分が執着しているものは五年後にはどうなっているだろうか。そんな事を思うと、僕は茫洋とした気持ちになる。佐村河内は一体、何ヶ月前の事だろう?。ツイッターが、ニコニコ動画が佐村河内で埋まり、次は野々村議員か。さて。しかし、僕達も佐村河内と一緒に流れていっているではないだろうか。僕はそう感じる。

 今の世の中を見る限り、沈黙するのが一番まっとうな方法ではないか、と思われる事がある。こう騒がしい時代には、沈黙した方がいい。そんな気もする。でも、僕はこのようにして語る。それは、何故だろうか?。自分の言葉が、せめて十年でも持つと思っているのか?。お前は。

 まあ、そんな事はどうでもいい事だが。今、僕はある小説を書いている。この小説の発展形も思い描いている。しかし、僕は一体、それを誰に向けて書いているのだろう?。その昔、ゲーテはファウストに封印を施してから死んだ。死後、その封印は解かれ、僕達はそれを読む事ができるようになったが、しかし、本当は未だにその封印は解かれていないのではないか?。…真にファウストを読む人間は未だにこの世界に出現していないのではないか?。



 …それでは、これから、ちょっと寝ます。体力を回復いたしますので。

量子論的文学論

長いんでリンク貼っときます。

https://i.crunchers.jp/data/work/5800

二つの時

二つの時



私達が時に対して過ぎ去るのか それとも

時に対して私達が過ぎ去るのか

歴史が不壊の塔のようにそびえ立っている時

私達はそれに対して侵入する

こそ泥のようなものなのか

例え、あなたが何者でも

例え、あなたが乞食でも王でも

あなたの中の時の流れは一定だ

なのに、あなたはあなたの奥深くを流れる

無意識の時の流れを一度も

深く感じた事はない

私達に許された時は腕時計の時、そしてタイムカードの時

そうして区切られ、外在化された時だけが

私達の時なのだと、私達は思っている しかし 僕は

僕の心の奥深くを流れる

時という名の川を自ら感じる

そしてこの川に沿って

僕は自らの為す事を成していく

僕は人々の中を流れる時という名の川を

おそれもなく、じゃぶじゃぶと音を立てて

その浅瀬を渡っていく

今、世界がひとつの時であるこの時、

僕はひとつの反ー時なので

従って、僕には空間性すら欠片も持っていない

だから、僕の時は

無時間性の中に延長され

そしてその後も休む事のない汽車のように

一歩ずつその手探りの闇の中を進んでいく

そうして、僕の時は作られていく

多分、世界には五次元目の場所があり

そしておそらく僕は そこでのみ

安堵し、安心する事ができるのだ

パスカルが考えたように 僕達は

目が三つない事を嘆いたりしない

だが、僕は逆に

自分の中に時が二つをある事を

自分に向かって祝福しよう

思考の外側を歩いて行く

その見えない透明な

自分自身の足跡を祝して



汝の道を行け。人々の語るに任せよ


 色々とくだらないなあ、と思う事は沢山あるし、今僕たちが乗っている船は、正に転覆中なのではないかと思う事がある。太宰治がそんな心象を「鴎」という作品に書いていた。僕達は沈没し、落下している最中だからこそ、こんなに声を荒らげて、自分達は素晴らしい!、愛されている!と怒鳴るのかもしれない。


 今、少し、政治や経済について調べている。ジム・ロジャーズやジョージ・ソロスの本が少しばかり家にある。それから、バーナード・クリックの政治入門。その辺りからそろそろと調べている。後はナチスと、それからソ連の事も少しばかり調べたい。僕が今想起しているのはシェイクスピアだ。シェイクスピアの作品を読んで感じるのは、彼がいかに、『偽善としての悪』に敏感だったのか、という事。それから、作品の世界全体を覆うダイナミックさ、大きさ。おそらく、シェイクスピアの頃に、大衆をだます、偽善的な君主が現れてきたのではないかと思うが、実情はよくわからない。だが例えそうだとしても、シェイクスピアは悪しきものすらを自分の善のために巧妙に使っている。作家というのは究極的にはそういうものだと思うし、そうならなければならないと思う。作家は自分の敵を知らなくてはならない。そしてこれは他の分野についても同じ事だ。敵を無知に止めようとするのは、最悪の業だ。人は敵を見下すから、敗北するのだ。謙虚というのは強さに、自惚れは弱さにつながる。こんな事は言わなくても分かっている事ではないか。

 
 これから戦争というものが入ってきた中編小説を書こうかと考えている。しかし、こういうのはうまくいくかどうか、わからない。人はどう考えているか知らないが、小説というものは素材の大きさに対して、書き手の『消化能力』が対応していなければならない。だから、消化能力を越す素材は作家はまずは避けるべきだと思う。僕が今、小説志望者に勝手にアドバイスするとしたら、ショートショートとか、あるいは詩とか、なんでもいいから、小さな事から始める事を進める。例えば、自分の友人のスケッチをしてみようではないか。その友人のちょっとした仕草が、その友人全体を表すような一点を見つけたまえ。…こういうのは古風な、フローベール風の訓練だが、そんなに無駄ではない。それから、芸術を作る上では、絶対に、現代、今生きている自分を忘れない、という事。これも大切な事だ。過去の芸術家がいかに優れていようと、僕達は今の時代から逃れられないのだ。今のアーティストはみんなクソ、とは言わずに、この雑多なアーティストの群れから本物を見つけるように努力すべきだ。僕はそう思う。いつの時代でも、真摯に努力している人はいるものだ。


 そんな説教くさい話はどうでもいいのだが…(今のは忘れてくれたまえ)、結局の所、今、僕らがやっている事は全て、高度資本主義の成れの果てだという気もする。僕達は勝手気ままな事を言い、勝手気ままに生き、そしてその勝手気ままさに復讐されて人生を終える。ツイッターや掲示板に次々に噴出する憎悪はどう理解すればいいだろう?。どうして誰も彼もがこんなに幸福になりたがっているのだろう?。どうしてAmazonの本のランキングはあんなにノウハウ本ばっかりなのだろう?。ああいうものを全て実行したら、本当に幸福になれるのだろうか?。恋愛といい、金といい、自分探しといい…なんだか、お釈迦様の手の上を筋斗雲で飛んでいるような気もする。どこまでいっても、僕達は『何か』から逃れられないのだ。


 2chのコピペで見たが、ある所に、どうしても将来有望の東大生と結婚したい女がいて、その女は東大の門近くをずっとうろうろして物色し、そして最後にはとうとう将来有望の東大生と結婚したそうな。…パチパチ、めでたし、めでたし。
 

 僕はこの話をあほらしいと思うが、人によっては、羨ましい、とか、よくやったとか、そういう意見もある事だろう。しかし、東大生という外面しか見ていない人間が、自身と、その東大生の内面に裏切られる事は確実だと僕には思える。言っておくが、内面というのは、捨てても戻ってくるものだ。例えば、君は『外見が全てだ』と毎日念じて見たまえ。即ち、その念じる行為は君の内面そのものではないか。東大生も屁をこくし、愚痴も言うだろう。そして、『東大生が愚痴を言うのはねえ~』みたいに言う事は、滅茶苦茶な理屈だろう。だが、今は滅茶苦茶な理屈が通る世の中だ。公人は何をしても叩かれるが、私人は何をしても許されるというのか。人は今、自分の心情を整理するよりも、自分のでたらめな心情に合わせて他人を整理する方が簡単だと、考えている。…この世の中は、一体どうなるだろうか。しかし、確実に言える事は、人は絶対的にその責任を取らない、という事だ。人は自分の言説の責任を取らない。絶対に。

 だとすると、戦時中の自分の発言に対して、小林秀雄や高村光太郎は責任を取ったのだろうか?

 取った。僕はそう思う。

 さて、では、僕はどうすればいいだろうか。絞首刑にならないように、今から伏線を張っとけばいいだろうか。それとも、僕もみんなと一緒で、世界最後の日の馬鹿騒ぎに参入すればいいだろうか?。




 「汝の道を行け。人々の語るに任せよ」


 これ以外に、自分につける言葉はない。

男と女

 色々と疲れたのでちょっと息抜きの文章を書こう。

 さっきまで群像の評論賞に送ろうと思って、文学論を作っていた。『量子論的文学論』というのだが、書いている途中で滅茶苦茶になってしまったのだが、無理やりまとめた。クオリティは滅茶苦茶だが、これはこのまま送ろうかと思っている。思えば、僕の好きな小林秀雄も、初期はかなり滅茶苦茶である。横光利一論とか、ボードレール論とかは、もう作者自身が何を言いたいかわかっていないという感じである。僕も多分、今、そういう感じなのだが、ほっとけば勝手にこの先、まとまってくるんじゃないかと思っている。しかし、その為にはもっと、文学以外の事を勉強しなくてはならない。分析という事を考えると、どうしても理系の知識とか教養が必要になってくる、という事に僕は今更気付き始めた。僕は学生時は、数学赤点スレスレ人間である。まあ、今からでもやれば、概念くらいは分かるだろう。別に数学者を目指すわけではない。

 ネットを見ていると、色々と言いたい事が出てくる。僕の好きなピアニストのD猫殿下が僕の文章をツイッターで上げて、褒めてくれていた。これはとても嬉しかった。また、手回しオルガン弾き氏の短編小説を読んでいて、正に自分自身の似像を発見した。勝手な言い分だが、これら二人は僕の言いたい事を全部言う前から分かってくれているんだろうな、という気がする。結局の所、今の時代に生きて、そして芸術が好きで、そういうものについて真剣に考えたり、実践したりすると、みんな同じようなポジションに移行するのだろうか。よく分からないが、そういう事を少し思った。オルガン弾き氏の小説の中の、まわりが就職活動を何の疑いもなくしている中で、一人ぽつんと取り残され、そして孤独に思索している主人公、その姿を見ているとーーーそれは正に『僕』だという感じがする。これはもう一人の『僕』なのだ、と。そして多分、こういう精神のあり方というのは結構普遍的なものなのだろう。こういうのは、『青春』という言葉が似合うように思う。青春というのは人が考えているように、お花畑で恋人と戯れる時間ではない。ただ、それはひたすら孤独で、辛い時の別名なのだ。ランボーはこれを『地獄の季節』と読んだ。

 話を変えよう。

 ここ最近、少しばかり、女性の作者の、一人称的なスタイルの作品を読んだりしていた。良い物もあり、そうでないものもあったが、実を言うと、男の僕からすると、良いものでも良くないものでも、あまり、諸手を上げて賛成できないという感じが自分の中にある。それは何故かと言うと、結局、男というのは、女性にある種のパターン的な形象でいてほしいからだ。そういう欲求があるからだ。極端に言うと、女性に強い自意識があって、こっちを攻撃してほしくないという本能みたいなものが男にはある。だが、芸術を作るとは結局、自意識の問題だから、女性の自意識の問題は必ず出てくる。
 
 だが、それよりもっと大切な事は女性というのは、自分が女性であるというアイデンティティと、自分が自分であるというアイデンティティが多くの場合おいて一致している、という事にあると思う。つまり、僕が女性なら、女性である事と、自分である事はイコールなのだ。これは女性というものの本質的な点なのかもしれない。じゃあ、男はどうなのかというと、男は自分は男だとあんまり意識したり、考えたりせずに、単に『自分』だと思っている気がする。性の意識と自分であるという意識はあまりイコールになっていない。

 こういう事を言うと、また世の中の『先生方』がやってきて、説教をしてくるだろうから、もう少し話を奥に押しやろう。上記の点で僕は女性と男性の違いを述べてみたが、しかし、もっと重大な事は、本当の意味で優れた芸術作品は、男性とか女性とか、関係なくなる、という事である。もっと言うなら、芸術とはそういう場所まで行かなければならない。僕は以前に驚いた事が一つあるのだが、それはアンネの日記を読んでいた時だった。僕はたかだか、十代半ばの普通のユダヤ人の女の子があのような知性を持っている事に驚いのだが、しかしもっと驚いたのは、アンネの言っている事が、同時代のエーリッヒ・ケストナーの終戦日記に書かれていたのと酷似している点があった事だった。ケストナーは当時は、もう老大家みたいな大作家だったはずである。かたや、名前の売れた老大家であり、かたや、単なるユダヤ人のちっちゃな女の子。だが、その二人は、知性というたった一つの道筋を通って、戦争、あるいはナチスに対する冷徹な視線(そしてその背後にあたたかみのある)というものを自分の中に持つに至った。この二人は、性別も生まれた環境もろくに違うのに、それらを越えて、一つの知性、そしてその場所に達したのだ。僕はふたりの著書を読んでそう感じたし、そういう自分の実感には確かなものがあると思っている。僕はアンネがあの年で死んだ事を本当に残念に思う。彼女が生きていれば、多分偉大な作家なれた事だろう。そして今、アンネ・フランクに偽善的な衣をかけている人々をもあざ笑うほどの強烈な知性を、成熟した彼女はきっと見せてくれたに違いない。僕はそう思っている。いつの時代でも、どんな教義も、そして下の者達によってドグマ化され、博物館入りにされ、そしてお題目とされてきた。天才とは自由な精神だが、それを凡庸な文句に変えるのは常に凡人の仕事である。天才というのはいつの時代でも、単なる厄介者なのだ。

 さて、以上の事を言って、僕は何が言いたいか。ーーー世の中には、不当な差別を受けたことに対する声高な主張はあるが、しかし、『不当な優遇』に対する声高な主張は聞いたことがない。差別を撤廃するなら、僕はぜひとも、不当な差別だけではなく、『不当な優遇』も一緒に撤廃してもらいたいと思う。でも、絶対、人はそんな事はしないだろう。僕はその事を知っている。だから、僕は黙る。だけど、それを言い出した人を僕は一人だけ知っている。それは投資家のウォーレン・バフェットで、彼は金持ちへの優遇をやめるべきだ、と訴えた。彼は世界でもトップの金持ちである。

 しかし、こういう事を突き詰めると、またこうるさい連中が集まって、そして僕は絞首刑送りという話になってしまう。…いや、間違いなく、早晩そうなるだろう。集団的自衛権とか何とか、色々あるが、僕は太宰治の言葉を思い出す。こうるさい時代が終わって、また別のこうるさい時代が来たーーー。全くもって、人間というのはやかましいものである。ネット上は、特に。では、僕はこれで沈黙しよう。アディオス。



 …ちなみに、僕はみなさんのおっしゃる説には全面的に賛成です。僕は時代が右に行けば右に、そして左に行けば左に行く、そういう日和見主義者です。だから、僕を絞首刑に送らないでください。…そこのところ、よろしく。

服と裸

発狂した人々は

いつも正義面するものだ

自分の中に悪を感じていない者は

たやすく「正義」という名の悪に

落ち込んでしまう

見よ、彼らの陽気な事

彼らの浮かれた、はしゃいだ騒ぎの全てを

人は今、現実を忘れ

狂熱の中に全てを隠そうとしている

…「潮が引けば、誰が裸だったか分かる」と

ウォーレン・バフェットは言ったそうだが

多分、この潮が引けば、人々は

『自分が裸だった』事に気が付くだろう

そして、その時、僕は

一人、服を着て立っているだろう

…昔はよく笑われたものだ

「どうしてお前は海に浸かりに行くのに

そんなに重たそうな服を着ているのか」と

舟橋聖一青年文学賞のことなど

 今日、舟橋聖一青年文学賞に応募してきた。丁度五十枚くらいの作品で、「佐藤佐知との邂逅」という平凡な題名だ。この作品は最近僕が書いているものの延長線にあるもので、賞に送るから力を入れたという事もない。そもそも、応募する前に、このまま賞に送るよりも、ネットで公開して広く読んでもらったほうがいいのではないか、と迷ったくらいだ。このような賞を、もし仮に幸運にも取る事ができたとしても、この作品を読むのはおそらく少数の『文学玄人』に限られるだろう。それならば、ネットで、誰か見知らぬ第三者の目に触れる事を期待して、載せておいた方がいいのではないか。…結局の所、書き手の期待ーーー特に、自分でも書ききったと思えるものを発表する時の期待というのは、人の目に触れる事を切望している。そしてそれは人に感動を与えたいとか、人から褒められたい、という欲求とも少しばかり違う。結局、自分の書いたものを他人に見せるという行為は、最終的に、この人類の歴史に自分という足あとをつけたいから、ではないのかという気がする。…やや、大げさだろうが。だが、もしそうでないなら、書くという事は一体なんだろうか。シオランが全く正当に言っている通り、僕達は刻々と腐敗していく『腐敗性物質』である。だが、それ故に、僕達は言葉という無機質な道具を使って、この腐敗に勝利したいと考えているのだ。そしてそれは人の目に触れる事により、そして時間をさかのぼって読まれていく事により、その非ー腐敗性が高まっていく。…もちろん、書き手の誰も彼もがそんな幸運に浴するわけではないが。


 今、書くという事を考える時に、単に書くだけではもう駄目だろう。みんなが書いている。みんなが自分の意見を発し、みんなが自分の作品を発表している。知的なものを少数のエリートが独占している時代は終わったのだ。だから僕達は、何かを書くに際して『人々がみんな書いている』というその事実に反抗し、突っぱねるようなものを書かなくてはならない。そうでないと、差異化は計れない。そういうメタ性が今、何かを書くーーーそしてそれを残したい、という欲求を叶えるためにはどうしても必要な事であるように思う。


                              ※

 先日、職場の新入社員の女の子に『〇〇さんって夢があるんですか?』と質問された。僕はただの二十代後半のフリーターなので、彼女は僕に、空いている時間で何かしていないのか、というその事を含めて質問したのだろう。僕はちょっと考えてから、「いや、別に何もしてないよ」みたいな事をごにょごにょと言って逃げた。「文学をやってるんです。作家になりたいんですよ」とは僕は言わなかった。要は嘘をついたのだ。


 その子は入ってきたばかりのなかなか可愛らしい子だったので、「夢?。ありますよ」と堂々と宣言した方が男らしくてよかっただろうと僕も思う。でも、そう言うと、面倒くさい事になると経験上知っていたので、僕は逃げた。「文学をやっています」と言うと大抵は「え、じゃあ、芥川賞とか直木賞とか狙ってるんですか?」とか「私、東野圭吾が好きなんですよねー」みたいな話になり、そこで僕が「いや、芸術っいうのはそういうものじゃなくて」云々と、気持ち悪い芸術論をぶった所で、不興を買うだけだという事が見えている。そんな事を言うのは日常生活では無駄であり、愚かな事であるし、またそんな時間もなかった。なので僕は「夢はないんですよね」と言った。それに多分、僕のやっている事は夢ではない。現実だ。僕は芸術の価値とは現実のものだと思っている。そしてそれを人が称揚して、そして賞を取るようになった所で、それはある種の物質が物質として認められただけの事だ。元々、その価値は存在していたのだ。そしてそれは毎日毎日、田畑を耕すような努力の果てに生まれたもので、一発当てるとか当てないとかそういうものとは根源的に違う性質のものだ。もちろん、文章を書き始めて短期間で、非常に優れた作品を生む作家もいる。そういう作家は例外なのか?。…そうではない。その手の書き手は、ただペンやキーボードを使わずに、日常生活で、観念の修練を積んでいたのだ。心のペンで書いていたのだ。そしてそれが、今や出口を見つけて、外側に溢れだしたのだ。だから僕は才能云々というのを信じていない。才能というものが真にあるのは指向性という事だが、これを話すと、またちょっと面倒な事になる。


 大体、僕は以上のような事を普段からぐたぐだと考えているので、こういう事を日常生活で話すと、あれだな……という事になり、黙っている。結局、書くとは日常で抑圧された言葉を吐き出す事に違いない。人は誰しもが抑圧されている。そしてその言語は吐き出されなければならない。しかしここには、教養という媒介項が必ず必要になる。そうでなければ、今の頭に血の昇った人々のように、単なるわめきや叫びになってしまう。彼らがどんなにインテリ面しても、その文章の表情を見れば彼らに教養が欠けている事がすぐにわかる。彼らは教養が何かという事を知らない。それは身につけなければならないものだが、しかし、それは目的ではなく、道具に過ぎないのだ。学問は、私達を知る為にある。学問の為に私達が存在するのではない。


 …しかし、こんな事ばかり考えているからこそ、僕は不幸で孤独なのだろうと思う。人間関係というのは、よくわからないものだ。多分、僕達が他人を理解するという事は決してないのかもしれない。しかし、「誰しもが他人を理解する事はできない」という事を僕達の共同理解とする事はできる。そんな風に考えるしかないのではないか。


 人と人とが関係するという事は結局、互いに張っている薄膜のようなバリアーを通して、互いを見る行為だ。そしてそのバリアーは時に破れるかのように見える。例えば、酔っ払って意気投合したり、また肉体関係を持ったり。そういう時、互いにそのバリアーは外れているかに見える。…しかしそのバリアーは気づけば僕達の体にぴったりと張り付く、元のバリアーに戻っている。僕達は他人に理解されたいと切望する。だが、自分を捨てる事はできない。僕達はそのジレンマの中にいる。そしてこのジレンマを意識する人は少数のようだ。

 
 コミュニケーションというのはよくわからないものだ。そもそも、現代人に相手に伝えるなにものかがあるのかどうかが疑わしい。僕達は相手に伝える自分を、いくらかでも持っているだろうか?。…だから、世間で言われているコミュ力とは、単に世の中の共同幻想にだらっと自分を溶かせていく、そういう力以外のなにものでもない。空気を読め、とは僕もよく怒られてきたが、しかしその結果、空気そのものみたいな人間が多産されてきたのではないか。だから、世界はこんなにも希薄なのではないか。


 しかし、これ以上ごしゃごしゃ言うのはやめよう。こんな事を言っているから、僕はいつまでもこんななのだろう。…ちなみに、本当の僕は二十代後半のフリーターではなく、東大の医学部に所属する二十歳の超絶イケメンです。モデルとかもやってます。…多分。



 ………。

芸術とは『趣味的』なものか

 



 芸術とは趣味的なものではない、と僕は考えている。それは趣味的なものではない。ではそれは何だ?、と言われたら、芸術とは『表現だ』と答えるだろう。そして、僕が趣味的と呼んでいる事は、芸術を趣味とする事を意味してはいない。僕が趣味的、と呼んでいるのはいわば、芸術を何らかの形式、ないしファッション的感覚で捉えるという事にある。

 
 よくそういう作品を見かけるし、また自分でもそういう間違いをさんざん犯してきたのだがーーー結局、何かを念頭に置きながら、作品を作る事なんてできはしない。何らかの、既にある規定の価値観や形式を頭の中に思い浮かべてつくり上げる作品というのは必ずや、その形にとらわれ、足をすくわれて、その価値を減殺されている。そしてそれは必ず、読者に伝わる。芸術というものについてそれを自分が作り上げた後に、「ふうむ、自分の作ったものはなかなか悪くないな」という感想を持った時は危機感を持った方が良いと思う。人が何かを作った後にそう感じる時、そういう時というのは、その人の中に既に規定の価値観があって、そしてそれに『合わせる』ように作られたというパターンが多いからだ。本当に良い作品というのは、限界がない。それは、その作り手に取って、『出しきった』『表出しきった』という感覚を与える。いわば、その作品とその作者の全存在が釣り合うようになる。しかし、何らかの形式を思い浮かべていると、芸術本来の自由の生き生きした形式が失われてしまう。ペソアの言うように、表現『されたもの』よりも、表現『する』事が大切なのだ。大切なのは言いたい事を言う事であり、例え未完成であろうと、あるいはたった一行であろうと、真実の言葉を吐く事だ。だが、今の世の中では誰しもが、わかったような顔つきをしたいがために、『芸術っぽい』作品を量産してしまう。そしてそれが一番、芸術から遠ざかる事だ。


 結構、偉そうな事を言っているが、これは自分が散々やってきた事なので、それに対する自戒の念も入っている。芸術とは創造の自由であり、完成された作品を作る為に、自らを曲げる事ではない。それは教科書の文にアンダーラインを引く事ではない。こんな事はこれまで、あらゆる文明、あらゆる時代において、そしてあらゆる創始者によって何万回と言われた事ではあるだろう。教義を絶対化するな、教えを固定化するな、常に自由であれ、束縛されるな。だが、常にその時代と歴史は新しい形で、束縛と制約の形式を生み続けてきた。だから、それに抵抗する自由も常に、その時代に合わせた新しいものではなくてはならない。


 僕は大学の文学研究みたいなものを基本的に信用していない。彼らがどんな事をしているのか深くは知らないが、以前に大学の芸術系の学科に身を置いていたので、なんとなく想像できる。どこにおいてもそうだが、その事をまっとうにしている人間は常に少数だ。文学研究においては、おそらくはカフカやプルーストなどを研究しているのだろうが、例えば、僕が『神聖かまってちゃん』を学問したいと言い出せば、そこでは笑われるのだろうか?。…多分、笑われるのだろう。つまり、そんなものは教養や知性ではなく、大学でやる事ではない、と。だが、元々、カフカはその当時、ただのみすぼらしい事務員にすぎなかったのではないか。僕達が教養や知性と呼んでいるのは、今や、ただの古い知識の蓄積になった。そこではカフカは死んでいる。ひどい事を言うなら、カフカが死ぬのは研究者達の手によってである。もし、真の研究者たりえたければ、どうしてもその研究者は詩人であるという事を兼任しなければならないだろう。だが、自分の中に詩人を感じている研究者がどれくらいいるのか。結局の所、芸術というのはどうあがいても芸術である。その昔、マルクス主義系統の人々が芸術を社会的に評価しようとしたが、全て無駄な試みであった。結局の所、芸術を理解するには芸術的観点を持たなければならない。こんな事はごく当然の事だが、人は常にこの事を忘れようとする。彼らはすぐに、場外から石をぶつけたり槍を投げたりして、そして芸術家を攻撃して勝ったつもりでいる。多数派の人間は常に強大な権力を持っているので、そうする事は簡単だ。多数派がこぞって、例えば村上春樹を攻撃して、彼をひっくり返すくらいは簡単な事だろう。だが、それは結局、場外からの反則技に過ぎない。そんなものは芸術とは根本的に関わりはない。しかし人はすぐにその事を忘れる。


 芸術というのは趣味的なものではない、と僕は最初に書いたが、今ここで実例を上げてみよう。太宰治のエッセイに丁度良い例がある。

 
「先日、或る中年のまじめな男が、私に自作の俳句を見せて、その中に「月清し、いたづら者の鏡かな」というのがあって、それには「法の心を」という前書が附いていた。実に、どうにも名句である。私は一語の感想も、さしはさむ事が出来なかった。立派な句には、ただ、恐れ入るばかりである。」


 ここだけ取り出すと、太宰はこの「月清し~」を褒めているように見えるが、実際はそうではなく、太宰はこういう『名句』に対して皮肉を言っているのだ。この手の俳句ーーーいや、これよりももっとひどいものは、例えばおーいお茶のペットボトルに載っている俳句を見れば、割に見つかったりする。この手の俳句ーー俳句でなくともなんでもよいがーーを見て僕が思うのは、作者がこういうものを頭でこねくり回している図だ。この類のものは全て、作者が頭の中で何らかの形で『芸術らしきもの』を想定し、そしてそれに見合うような作品を作ろうと必死に形をこねくり回している。芸術というのは、そういう、鋳型に流し込む方式で作るものではない。僕はそういう事を最近になってようやく理解した。それは神聖かまってちゃんを発見したためだが、手回しオルガン弾き氏も、ブログの中で芸術の即興性の大切さについて語っている。僕が思うに、オルガン氏が彼の言葉で言おうとしている事と、僕が『即興性』とか『自由』とか言う言葉で言おうとしている事は、本質的に同じものだ。…芸術とは何らかの形で、自由の形式である。それは、形式性を想定して作られるものではない。そしてそれは読者に伝わる。読者は、巧にできた作品を見て、あるいはある程度は満足するかもしれないが、しかしそこには何かしら、騙された感覚というものがある。表面だけではぐらかされた何かがある。だが、優れた芸術表現は、一目にはその粗や間違い、下手くそさや、あるいは生理的嫌悪みたいなものが波だったとしても、最後にはその作品の持っている力には服さずにいられない。何故そうなるかと言えば、それは、その作品の内部では、その芸術家は自由だからである。当たり前の事だが、芸術家が楽しみ、あるいは嫌悪を感じているにしても、自分に正直でないとしたら、それは僕達の心にもそのまま伝わる。だが、粉飾した精神は粉飾された精神によってのみ共感できる、という古来からの論理により、この世の中には偽物があいも変わらず、昔と同じようにはびこる事になる。しかし、この偽物への闘いは現代の芸術を作る上では欠かせない動機となってきた。

 
 最近、やっとわかってきたことだが、世間というのは常に、偽物と本物とが同じ価値で流通する。世の中にとっては偽物と本物は同じように価値があり、同じように意味がある。なぜなら、ある種のメディアに載った出来事が常に、僕達の中の深部に直撃する必要はないからである。時には偽善が必要であり、また時には、僕達が暴力性を発揮できる「生贄」が必要である。また時には、僕達の自己欺瞞を許してくれる、そういう甘い論者が必要である。だが、その中には、本物も混じっている。今さっき、セックスピストルズのフロントマンのジョニーロットンの名言集を見てきたが、ロットンにはきちんとした伝統的な文学的教養みたいなものがある。今、人が教養だと思っているのは知識であり、教養ではない。人は教養がなければ、精神の翼で世界を羽ばたく事はできない。そして知識だけで構成された翼は所詮、偽の人工の翼でしかない。そんな翼はすぐに風雨によって壊れてしまうだろう。シェイクスピアのその翼は、この世界よりもはるかに大きい。彼はあの時代において誰よりも巨大な羽で、一人、彼自身が作った宇宙の中を自由に泳いだのだった。


 かなり錯綜した芸術論になったが、こんな所で終わる事にしよう。こういう芸術論は不興を買うかもしれないが、最近、ぬるま湯モードになっていた自分をもう一度叩き上げる為に必要だったので書いた。こういうものを読んで不快に思う人はいるだろう。だが、僕が思うのは、そういう人は、その前に自分が自分の心を粉飾していないかどうかを疑うべきだ。僕は散々自分の心を粉飾して生きてきた。そしておそらくはこれからも粉飾し続けるであろう。生きるとはつまりそういう事であり、人は生きているというその事実だけで、多分、何らかの『罪』に加担している。だが、その罪もいいではないか、そういう罪も含めて笑ってやろうーーーそんなユーモアというものが、芸術というものの核には存在している。僕はそのユーモアを信頼している。そして自分の粉飾された人生を信用してはいない。人は作品の上でのみ自由になれるのであり、現実において自由になれるのではない。少なくとも、芸術家とはそうであらねばならない。

 
 では、この文章はここで止める事にしよう。僕はもう芸術を趣味的に見る事はしたくはない。僕の心に響かなければ、そして僕が自分の心を確かに量るその術を持っていさえすれば、他人が称揚する作品も、僕はそれをただちに退ける。そうでなければ嘘をつく事になる。芸術とはおそらく、現実から疎外された人間にとっての最後の救世主であろう。もちろん、芸術は現実には僕を救いはしないが、それは雲の上の、フィクションという世界で僕達を救う。そして、それは現実に不老不死になるより、もっと素敵な事である。僕はそう思う。僕はそんな風に考えている。ーーーこういう事については、また書こうと思う。あるいはーーー書かないかもしれない。とにかく、この文章はここで終わる事にする。それでは、また。


 

金融庁

金融庁



多分、もう全て知っていると思うので

それで、僕は

しゃべりません

語る事は一切、ありません だから

僕のかわりに「饒舌」が

僕について精一杯

語ってくれるでしょう

あなた方の存在全てを

差し置いて



……「ええ、そうです

あなた方は今生きていません

ええ、それは間違いないです 先ほど

『神』に問い合わせた所、そんな答えが帰ってきました

『神』ももう止めるって言ってましたよ

人間に対する支援」



……しょうもない、日本の金融庁じゃなかろうに

 イメージの世界の中で



 言葉というものはどのように使われているだろうか。例えば、「ゆとり世代」という言葉が生まれ、人々の口に昇る。すると、本当に「ゆとり世代」なるものが存在しているかのような気がしてくる。団塊の世代、とかゆとり世代、など。こういう言葉は便利なので、人々の需要と供給のバランスを取る為に生まれてくる。

 
 言葉というのはある種の像であり、定義でもある。そしてそういう像や定義が生まれると、次第にそれらの像や定義は現実となり、行動し、言葉を発するようになる。…例えば、僕が『ゆとり世代』だったとしよう。僕は元々、そんなゆとり教育だの何だのは気にしていなかったのが、しかし誰かが発した「ゆとり世代」という言葉が一般化されるにつれ、本当にそんな気がしてくる。そして、いつしか、自分を肯定するにせよ、否定するにせよ、『自分はゆとり世代だ』という認識がついてまわる事になる。僕はこうして本当に『ゆとり世代』の一人となってしまう。こうしてゆとり世代は現実化した。もちろん、『ゆとり世代』を声高に否定している立派な方々は、その現実は『ゆとり教育の結果』である、という事を信じて疑わないだろう。だが、因果というのは、それだけのものではない。定義や言葉もまた、現代では、現実の物事を成り立たせる強力な原因となっているのだ。僕はそう思う。今、自分達の気に入らない国を攻撃する、というのがネット上で流行っている。しかし、これも、自分達が攻撃しているからこそ、対象そのものが『悪』へと変貌していく(互いから見て互いにそうなっていく)という過程をすっかり忘れている議論のようだ。僕は人間というのを全く信用していない。パブロフの犬という実験があるが、この犬と僕達は一体、どう違うだろうか。…このプロパガンダ手法をヒットラーもスターリンも巧に利用した。僕達が犬でないという理由はどこにあるだろうか。社会は僕達を実験器にかける。僕達はたちまち、一つの、社会が要請する存在へと変貌していく。ネット上で、陰謀論などにはまりこんでいる人を見かけると、結局、彼らの意志や精神が現実によって、正に金テコでねじ曲げられるかのように強力にねじ曲げられている事がよく分かる。例えば、彼らは誰かから何らかの損害を受ける。そうすると、彼らはすぐにその損害の裏に、見えない悪、見えない因果論を導入する。彼らは運命に対して無抵抗で、ただ運命に鞭打たれているにすぎないが、しかし、自分が鞭打たれてるのは、自分が悪いのではなく、別の見えない誰かのせいだと考える。だから彼らはずっと正しい存在でありながら、ずっと無力の存在でもある。おそらく、僕らの精神の力ーーその本源は苦痛にある。運命に傷つけられた自らの肉体を、その正視に堪えない肉体を、満身の力で直視する事にある。そして、それを素直に認める事にある。つまり、世界とは理不尽であり、己とはくだらぬ、この世界に鞭打たれるだけのつまらないガラクタであるという事を率直に認めるという事だ。パスカルは正にそういう人物ではなかったのか、と僕は思う。鞭打たれる事、そしてそれに抵抗する事ーーーだが、個人とは常に無力だ。シオランの言う通り、全ての偉大なる思想とは、巨人に踏みつけられた天使のうめき声だ。だが、うめき声を上げるにも力がいる。言い訳していたら、呻く事すらできないのだ。

 
 かなりペシミスティックになったが、現代の、思想と観念によって強力に歪んだこの世界は今そんな風になっていると思う。事実と現実とか人は言うが、人は自分達がそれをどれほど自分勝手に歪めてきたかに気づいていない。…あるいは気付かない振りをしている。しかし、現実と事実とかいうものは、それを歪めずに触れるものではない。だからこそ、真の歴史家は常に慎重な歩みで歴史に触れる。そして本物の歴史家は時には、自分の虚偽さえもあばきだしたりする。真の歴史家の自意識は、今やそのようなレベルにまで達している。思うに無自覚とは、精神の怠惰であり、精神の無力そのものだ。

 芸術を作るという過程では、自覚という事が何よりも重要になる。それは自分の使命の自覚、などというめんどうくさい事ではない。それは自分を素直に見つめる事だ。人はみんな感情に飲まれて、その時その時をただ生きているだけだ。感情を描く事ができるのは、感情を脱した目を持つ人間だけだ。…その内部にあっては、それそのものは描く事はできない。これは哲学の基本だと思う。芸術家は自分を見なければならない。もしあなたが、真の青春小説を書きたければ、あなたは絶対に青春を卒業していなければならない。サリンジャーは青春を脱していたからこそ、あのような作品を書く事ができたのだ。

 現代とは錯雑した時代で、多分、これから何らかの形で戦争、ないし何かの闘争が起こるだろうと僕は予測している。すると、その闘争という現実と僕の精神の機構はおそらく、何らかの駆け引きを演じなければならないだろう。太宰治が、当時の戦争との間に見せた精神的駆け引きーーーこういうものから、僕は沢山学ぶことができる。そして、僕は何らかの形で世界に抵抗し続けるだろう。…おそらくは、自分の無力と情けなさを世界におおっぴらに開示する事によって。

 今は、頭に血が昇ったイデオロギー連中が闊歩している世の中なので、まっとうな人はみんな端の方で沈黙しているのかもしれない。そういう事が正しいのかもしれない、と僕も思う。しかし、僕はこれからも考え続けるし、何かを発語し続けるだろう。そういう事をやっていきたい。

 ではさて、筆を置こう。世界とはいつの間にか、一つのイメージにまぎれた破片のようになってしまっていた。そしてこの破片に対して何ができるのかは、これからの僕らの歩みにかかっているだろう。新しい歴史の一ページ…だが、そんなものはおそらくどこにもなく、単に似たような人間の愚かさが繰り返されているだけなのだろう。だが、しかし、芸術家はこの愚かさから、様々なものを組み上げ、それは確かなものとして世界に提示しなければならない。

 シェイクスピア、あるいはラファエロがそうしたように。僕はそう思う。

文学ーー小説における文体の問題





 「文学者たる事の困難には依然として何も変わりはないが、文学志望者たる困難は全く無くなったと言っていい。」(小林秀雄 『言語の問題』)


 ちょっと気になってたので調べたのだが、群像の新人賞の56回の応募数は小説が1851で、評論が153となっている。人は今、小説の方を評論より圧倒的に『簡単だ』と感じている事が、この数を見ていると、よく分かる。
 でも、そうだろうか。僕は最近、その事を疑っている。まあ、散々、駄作以前のくだらないものを製造してきた僕が言う事でもないだろうが。…だが、現代において優れた作家は常に批評家的資質を持っていた。太宰治は極めて批評家的な作家である。『女の決闘』などは批評が小説になっていると言ってもいい。夏目漱石はまず、自分の小説を書く前に、『文学論』を記した。


 小説というものを人がこうまで安々と書くのは何故か、というと、それはもう小林秀雄が言っている事だが、要するにその世界全体に対する視点が最初から定まっているからである。今、小説家志望者の多くは文体を問題にしないし、問題にするにしても、頭で知的にこねくりまわすだけの問題となっている。小説において大切なのは、物の見方、その視点ではなく、キャラクターとか、世界観とか、プロットなどのありかただけである。つまりそこには自然主義的小説観が小説志望者の協同的無意識のように作用している。人は小説を書く。あるいは読む。しかしそこには、何かしらの固定された一つの視点がある。動かない、と考えられている無意識的な場所がある。そしてそれがあるがゆえに、小説家や小説家志望者達はやすやすと小説を書くのであり、読者はそれをやすやすと読むのだ。だがそこには何かしら退屈なものがある。


 綿矢りさみたいな作家が、すぐにその文体を失って、いわゆる『普通の小説』を書くようになる、とはどういう事だろうか。僕は最近の村上春樹などもそういう風になってきている気がする。『1Q84』なども、過去の作から比べれば、文体的には劣っていると思う。だが、作家らはその事には気づいていないように見える。彼らはむしろ、自分の世界に対する視野が増大したように感じられているかもしれない。だが、それはある安易な場所に腰をおろしたにすぎないのではないか。僕はその事を疑っている。
 

 文体の問題に関してはかなり面倒くさいので、ここで本格的に論じる事はやらない。だが、例えば、先日買ってきたローラン・ビネの『HHhH』などは、かなり凝った作りになっている。それはドイツナチスに関する歴史的な物語なのだが、彼はその歴史をそのまま叙述したりはしない。ビネは、ナチスにまつわる歴史的事実を小説に書くにあたって、その嘘くささ、つまりフィクションを自分が作り上げる際の嘘くささを自分でも感じていて、それを盛んに壊そうとする。ビネは作者を何度も登場させ、そしてこの歴史的事実ーーーその物語を作る、自分自身についても描写する。そして、小説の中のこの部分は事実の通りであり、資料に則って書いたとか、今の所は思わず創作してしまった、などと読者に報告する。何故、彼がそんな事を書くのか。普通に見たら、これは明らかに蛇足だが、しかし、彼はここでは単純なフィクションの約束事を破ろうとしてもがいている。彼は語る事、小説を書く事の嘘くささを自分でも感じていて、その『嘘くささ』自体を小説の中に盛り込む事により、その嘘くささを乗り越えようとする、そういう、いわば積極的な策に出ている。こういう努力は無駄ではないし、むしろ、現代という時代を考えると、非常に正当なやり方であるように僕には思える。


 もう一つ上げるなら、ミシェル・ウェルベックの『素粒子』だろうか。ウェルベックは別に文体に対して深く考えるタイプではないと思うし、基本的には率直に書いている。しかし、ウェルベックの書いているものは、ビネほどではないが、やはり、作者が全面に出過ぎている。彼は単に登場人物達のドラマをそのまま書いたりはしない。彼は事あるごとに作品の中に顔を突っ込み、そして登場人物の言動を彼なりに意味づけてみせる。…ここでも問題になっている事は、ウェルベックが単に、物語や登場人物の動作を書くだけでは、足りないと考えている事だ。単なる『小説』では物足りない。そう思うからこそ、作者は前に出てきて、様々に意味付けなければならない。そうでなければ、意味がない。価値がない。


 今の小説において、そういう事を感じている作家は稀だと思う。…つまり、『文体』を持っている作家は稀だという事だ。そして、文体を修辞的にこねくり回す事は自分の文体を持つという事とは全く違う。僕はそう思う。文体、というのは結局、作者の世界に対する視点を表してるのだと思う。今、小説というのは余りにポピュラーになり、『小説の書き方』も書店で安売りしている。だが、「文学者たる事の困難には依然として何も変わりはない」。現在、小説を書くーーーしかも、優れた作品を書く、という事は一言で言うと、一般に流布されている『小説の書き方』を乗り越える、という事になるのではないか。そして当然、この問題は困難なものである。だが、この困難は人があまりにも容易に見える問題に決別するからこそ現れる困難であり、今、真に文学者たりえたければ、この困難な道を行く他はないと思う。


 文学における文体の問題ーーーとりあえず僕はそんな風に考えた。文体の問題は文学、あるいはその他様々な芸術に通ずる問題なので引き続き考えていきたい。

 

 物語に深みを出すには




 通俗的な作品というのは、これまでもヒットしてきたし、これからもヒットし続けるだろう。シェイクスピアにも通俗的な要素はあるが、しかしシェイクスピアの作品はただの通俗的な作品とは違う。

 物語性、というものを考えると、そこに作者の自意識の広さ、というものを想定する事ができるだろう。通俗的な作品においては、善は最終的に悪に勝つのだが、しかし問題はその善と悪の設定の仕方である。これは当たり前の事だが、自分を相対化し、他人と自分を同列に考えたり、感じたりする、そういう訓練を経ていない人が優れた文学作品を書く事はこれまでにもなかったし、これからもないだろう。作品の物語性において、登場人物に深みを与える事が可能になるのは、作者が他人というものを自分と同じ程度で容認するからである。

 例えば、悪党がいるとしよう。そして、こちらには正義派がいて、そして最後には正義派は悪党に勝つ。だが、薄っぺらい作品では、悪党の自己主張が弱い。それは単なる、ぺらぺらの紙のような人物である。そしてそれはフィクションだけでなく、現実でも同じであり、たいてい戦争になれば、まず兵士は敵を人間だと思わないように教育される。ナチスはユダヤ人を人とは思わなかった。太平洋戦争時の日本も同じだったと思う。そしてこの構造は、通俗的な薄っぺらい作品と全く同じ構造を有する。

 良い作品ーーー例えば、『ジョジョの奇妙な冒険』というのは王道のエンターテイメントだが、それは通俗的なだけの作品ではない。なぜなら、悪がきちんと、それなりの自己主張を持っているからだ。福本伸行のカイジなども、同じように、悪の側にも正義がかいま見える。そして、だからこそ、それを乗り越える正義ーーこちら側の選択にも大きな意味が出てくる。そうする事により、作品に深みが出てくる。シェイクスピアやドストエフスキーにおいて、悪の主張はあまりに深く、読んでいる僕達は思わずそれに飲み込まれてしまう。しかし、最後に僕達は何らかの形で、この冒険ーーーそして物語の出口を見つける事になる。

 従って、物語、あるいは何らかのストーリー性のあるものを作る上で作品に深みを与えるのは単に、作者の自己意識の深さである。作者は人生において、何かを学ばなくてはならない。自分以外の全員が馬鹿だという考えを捨て去らなければならない。だが、ネット上には相変わらず、そんな声が溢れている。彼らが『才能』という言葉に逃げこむのは、ある意味当然だろう。彼らと、何かをする者(別にしないといけないという事もないが)の差というのは、生まれつきの才能などよりも、もっと深いものに原因がある。それは人間的な深みの差であり、従って、努力や才能などのぺらぺらした差よりももっと人間的で、そして深刻なものだ。しかし人はそうは考えはない。そう考えると人はあまりに自分を強く否定されていると思うからであり、従って、いつの時代にも才能や努力という言葉が空回りし続けることになる。

 プロットの外面的な作り方(主人公を必ず辛い目に会わせる、など)は後でいくらでも学べるだろう。しかし、物語を造る上で根本的に大切なのは、この人間的深みの問題だ。自己を相対化する視点を持ち、時には、自分の反対者、敵対者に共感する事だ。ところで今、世の中はこの共感力を失いつつある。

 だが、フィクションを作る人間に大切なのはこの想像力だ。そこには当然、自分を否定する痛みがある。だが、その痛みを引き受けて、物語創作者はより高みに昇る事ができるのだ。

 物語を作る問題について、とりあえず以上のように考えてみた。この問題はもっと進めて考えてみたい。

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