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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

 小休憩





 七面倒な文学理論の文章を昨日からずっと書いていて、ちょっと疲れたので、楽な事を書く事にしよう。


 最近は文学理論みたいな事をずっと書いていて、別にそんなに書きたいわけではないが、そのイメージが後から後から湧いてきてしようがないので、書いて吐き出す事にしている。…さっき、僕はローラン・ビネの「HHhH」という作品を買ってきて少し読んでいるのだが、ビネのやろうとしている事は、僕としては実によく分かる。彼が小説を作る上で感じている事は「普通にフィクションを作る嘘くささ」である。僕も全く同じ事を感じていて、今、真面目に小説を書こうとする人間はこの課題から避けられないと僕は考えている。思えば、ミシェルウェルベックもまた、このビネの小説ほどではないが、明らかに作者が表面に出過ぎている。こういう、作者がやたらに登場するのは、単なるメタとか何とか、そういう表面的な技法の問題ではなく(形だけなら誰でも真似られる)、もっと根底的な、彼らの存在に関わるような一種の解決法なのだが、こういうものが現代に何故出てきたのか、解きほぐすのは難しい。今、僕はこういう事をすっきりさせるための文学理論を作っている所だ。

 
 別にそれは大層なものではないが…。しかし、僕という人間は全身芸術野郎というか、もう芸術的観点以外にはこの世界を見られなくなっているような気がする。…不思議なものだ。十代の頃には思いも寄らなかった問題が僕の頭の中では次々に噴出している。僕という人間の劇は全て、僕の脳の中でのみ起こっている。そして外面的には、僕という人間は存在すらしていない。それは、ひとかけらも存在していない。


 現代の優れたアーティストに目を向ける事はとても大切な事だろう。僕は昔、古典となったアーティストだけを尊重して、今に近いアーティストは馬鹿にしていた。要は、「最近の曲なんてクソみたいな曲ばっかり」の心象だ。だが、それは間違っていた。…僕は間違っていたわけだが、しかし、それは雑多な、現在の作品の群れの、その印象から身を守る為には必要な事だった。仕方ない。人は少しずつ成長していくものだから。今僕は、小林秀雄と神聖かまってちゃんを同列に、しかも全く同じ尺度で論じる事ができる。これは僕にとっては、僕の人生で得た、希少な物指しである。そしてこんな物指し一つを拾い上げる為にまっとうな人生を棒に振ったとは全く馬鹿な話だろう。…だが、全ての劇は僕の脳の中で進行する。僕はおそらくは、進歩している。しかし、他人から見れば僕はずっと退歩し続けている存在なのだ。

 
 馬鹿な事を言うのはやめて、読書の一つでもしよう。ビネの小説の続きを読もう。もっともっと僕は孤独にならなければならないだろう。僕が求めているものは将来、手に入るだろう。おそらく、僕の死後に。…でも、そんな事が何だろう?。今、自分が生きているという事に自信が持てれば、それでいいのだ。世の中のはしゃいでいる連中をよく観察してみたまえ。彼らの物欲しそうな表情、怯えた表情、自信なさげな顔、取り繕った表情、その仮面、エリート、才能、金、様々に多面的な仮面をつけても、彼らは自分に自信を持っていない。そう、だから、僕は幸福なのだろう。…こんな幸福がこの世の中にあるとは、奇妙な事だが。


 僕は僕を笑う。君は、君を笑え。笑いは、力だ。それでは。

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サリンジャーとドストエフスキー   (現代小説と近代小説の断絶について)

 サリンジャードストエフスキー   (現代小説と近代小説の断絶について)





 芸術というものにはある種の断層のようなものがある。そう思うのは、ミシェル・フーコーの『言葉と物』を僕が読んだからではなく、小説を読んでいて、そう感じる所があるからだ。

 バフチンは正しくも、「ドストエフスキーの小説の主人公は、それまでに作者がやっていた事をしている」と述べていた。これはまさしく大切な事であり、僕はバフチン、あるいはフーコーの構造主義には重要な意味があると考えている。

 僕の実感だと、例えば、フローベールとかモーパッサンは普通に読めない。読んでいて何となく退屈だなあ、と感じてしまう。バルザックも優れた作家だが、どちらかというと古いなあ、と感じる。またユーゴーなどもそうで、僕はユーゴーを一冊もまともに読んではいない。

 多分、近代と現代の境目に位置するのはドストエフスキーであり、彼は最初で最後の、空前の大作家であったと僕は考えている。それ以前に彼に比肩できるのはシェイクスピアだ。僕はとりあえずの所、そう考えている。…では例えば、夏目漱石は近代作家か、現代作家かと言われると、僕はぎりぎり近代作家ではないか、と思っている。その辺りの事を少しばかり説明してみよう。


 僕が漱石を近代作家だと思うのは、漱石の「それから」の主人公、その悲劇というのは、主人公の自意識、知性によって起こるものではあっても、その悲劇は、自意識、あるいはその知性に取り込まれたものではない、と考えているからだ。これは説明を要するだろう。例えば、ドストエフスキーの罪と罰の極めて特徴的な点というのは、そこで起こるあらゆる物事が、全て、ラスコーリニコフの自意識を通して始めて意味あるものになる、という事にある。例えば、作者が机の上のコイン一つ取り上げるにしても、それはラスコーリニコフの自意識により、変容したコインなのだ。この辺りは画家でいうなら、印象派と写実派との違いとして比喩できるだろう。印象派にあたっては、全ての物事は画家の視点により変更を帯びている。それらの絵は、画家の視点によって改変されるが故に意味を帯びるのであり、そこで主になっているのは自然ではなく、画家の視点の方である。だから、ある意味、印象派の画家達は、自然を描いたのではなく、彼らの視点そのもの、それを描こうとしたのだと言える。これはドストエフスキーも同じで、ドストエフスキーにおいて重要なのは、まず何よりも主人公の自意識であり、そしてそれゆえに世界には何らかの意味が賦与される事になるのだ。従って、ここではモーパッサンやフローベールのような、世界を神の視点から見る、という写実的な方法論は取られていない。全てはラスコーリニコフの意識の中で起こる。しかし、その意識は外部から、反応を与えられる。…ではその外部とは何か?。もう何もかもを自意識の内に取り込んだドストエフスキー作品において、主人公の自意識の『外部』とは何に相当するのか?。これはドストエフスキーにおいても、極めて重要な謎として残った。そしてドストエフスキーはそれを作品の形として解消し、それに対する答えを与えた。この『外部』というのは極めて重要な問題を僕達に与えるが、それについては今は述べない。今はもう少し自意識の問題に触れよう。


 例えば、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」は明らかに現代小説だ。何故そうなのかと言うと、そこで起こる事は全て、ホールデン君の自意識の中でのみ意味を持つからだ。…実質、この世界はホールデン君には、大して意味のあるものではない。ホールデン君にとって、この世界は彼の意識が嫌厭する上でのみ意味を持つ何かなのだ。ホールデン君は世界を嫌う。世界を蹴り飛ばす。彼はふいに、どこかこことは違うどこかに行きたいと願う。だが、それが嘘だという事を彼は知っている。…この辺りは、罪と罰にやや似ている。ラスコーリニコフは人を殺した。それは彼にとって一つの旅だった。…ひどい旅だが。彼は自意識が、彼に見せる夢を破る為に斧を振り上げた。だが、夢は破れなかった。彼は未だに彼のままだった。人を殺しても、ラスコーリニコフはラスコーリニコフのままだった。彼は絶望した。だが、彼には自殺はできなかった。人には、自殺する事すら許さない悲しみというものがある。そしてラスコーリニコフはそれを自分の心中に感じた。何と、やりきれない事だろう。殺人者もまた、一人の人間であるとは。彼の心を悲しみがよぎったが、彼はそれをどうにもする事ができなかった。勝利したのは、ラスコーリニコフの意識、その頭脳ではなく、彼の無意識ーーー彼の夢だった。彼は以前、夢の中にとどまっていたのだ。人を二人殺してにも関わらず。


 同じように、ホールデンは急に西部へ逃げ出す事を企てる。…でも、それが嘘だという事は、彼自身分かっている。この辺りはラスコーリニコフと同じである。全く。両者とも、自分の自意識、その精神、知性に疲れて、そこから逃げ出すことを企てるのだが、しかしその行為が嘘っぱちだという事も知っている。しかし、それが嘘だと知っても、彼らはそう考える事をやめられない。何故だろうか?。それは人は、「どこにも行く所がなくても、どこかに行かなくてはならない」からだ。人はどこかへ行かなくてはならない。人生とは旅である。だが、どこに行くのも嘘だと彼らは知っている。彼らは平凡人のように、夢にたぶらかされてはいない。彼らは夢が嘘だと知っている。しかし、彼らは嘘だと知っても、それをやらざるを得ない、あるいはそれをやろうとする。…ラスコーリニコフは二人の人間を斧で殺す。ホールデンは西部へ行く事を企てる。だが、ホールデンはその途中で、それを妹のフィービーに止められてしまう。フィービーは、自分も一緒に西部に行く、と言い張る。ホールデンはそれを止める。彼は結局、それが馬鹿げた嘘だと知っていたのだ。だから、ホールデンは妹を制止する。こうして、ホールデンは再び、彼自身が嫌っていた世界に戻ってくる事になる。ここでは、ラスコーリニコフとホールデンとのはっきりした違いが見られる。ラスコーリニコフはある線を越境したが、ホールデンはその手前で引き返してきた。…では、この違いは何だろうか?。それはおそらく、作者自身の悲劇に由来する。ドストエフスキーは越境した悲劇を、そしてサリンジャーは越境しない悲劇を持った。しかし、二人とも自己に誠実な作家であった事は間違いない。この二人の違いについては、「運命」という言葉で決着しておくしかないだろう。とりあえず、今の所はそうしておく。


 …二人の作品の劇は、このような構造を持っていた。二人の作品の主人公はそれぞれ、ニーチェの言う所の自由精神を抱いている。そしてそれが自意識と手を取り合っている。バルザック達にとって、劇、あるいは物語の構造とは、この社会における卑小な一個人における劇だった。その劇とはどのようなものだったか。それはいわば、マクロな社会という構造の中での、卑小な個人に目を向けたものだった。その劇の中で個人はもちろん、様々に考え、行動し、恋愛し、結婚したり、あるいは人を殺したり、犯罪をしたり、まあ色々な事をする。だが、それらはあくまで、卑小な個人にとどまる。では、ドストエフスキーの作品はどうだろうか。もちろん、ラスコーリニコフもこの社会に比べたら卑小な個人である。いや、だが、本当にそうだろうかーーー。ラスコーリニコフは、この社会の全ての構造、機能をその脳髄に宿した上で、それから運動するのである。だから、バフチンの語った事は正しい。ラスコーリニコフは、それまでの作者がしていた事をしていたのである。この世界を全部眺め、そしてそれを神の視点から描く事ができるというのは、それまで、作家の仕事だった。それは作家の特権だった。だが、今やそれは主人公の機能として内蔵される。では、この時、この作者ーーードストエフスキーはいかなる機能を有しているか?。この問題はあまりに難しすぎるので、次の機会に譲りたい。…とにかく大切な事は、ここでは、ラスコーリニコフがこれまでの作者の特権を抱いているという事である。彼は全世界を包含した所からスタートする。つまり、これまでの全ての作品が決着する所、終わる所ーーー個人が社会に融和する所、そのラストの点からラスコーリニコフは歩き出すのだ。そして、この歩みは重い。なにせ、ラスコーリニコフは全世界を引きずって歩いているのだから。

 
 そしてこの事は僕達読者に否応なく、共感を呼び起こす。今人はバルザックよりも、ドストエフスキーの方を熱心に、あるいは共感を持って読むだろう。何故そんな事が起こるのかというと、上記のような作品の構造にその理由がある。それはサリンジャーでも同じである。主人公は意識の中に世界を取り込んでいる。そして、それが何故そうなるのかと言うと、一言で言うなら、時代が変わったからだ。世界がそうなったからだ。その大きな理由はもちろん、メディアの発達によって、僕達一人一人が全世界で起こっている事を知る事ができるようになった、という事にある。ドストエフスキーの出現には、新聞の発達と大きな関わりがあるだろう。個人が全てを知る事ができるというのはメディアのおかげである。そして、その根っこにあるのは、この大衆消費社会、その大きなメカニズムである。つまり、世界は日に日にますます大きな、巨大なメカニズムの機械に化け、そして個人はますます卑小に、小さくなりつつある。この時、個人の存在は社会の大きさに比べて、極小にまで小さくなっていく。だがそれに反比例して、個人の意識は、テレビ、ネットなどの拡大により、より巨大に、そしてより世界的になっていく。そしてこの逆説、矛盾は僕達にどこかで断絶を強いるに違いない。つまり、僕達は「存在」としては卑小なのだが、「意識」としては極大なのだ。そしてその矛盾は、今の、口だけ大きく、本人は何もする気がないネット民の姿などにも象徴されている。彼らは知っているのだ。意識としては彼らは神にも等しいにも関わらず、現実には彼らは無だという事を。彼らはおそらく、現実の自分の姿を知られるのを恥と感じるだろう。彼らは自分達が存在しないと思い込んでいる。だからいつも、彼らは言葉だけなのだ。

 
 …だが、悲劇はそれを許しはしない。ラスコーリニコフには肉体がある。そして、この肉体には悲しみがある。肉体とは何だろうか。存在とは何だろうか。それは自意識に取り残された形骸である。だが、この存在は、この意識に訴えかける。この卑小な存在はやがて、それ自身を主張し始める。ラスコーリニコフは人を殺した。そして、その罪悪感にさいなまれはしなかった。彼はあらかじめ、ありとあらゆる事をその精緻な脳髄により計算してから始めていた。だから、彼は罪悪感からは免責されていた。…されていたはずだった。だが、彼は彼の肉体を、彼の存在を忘れていた。だから、彼は全てを忘れていたのに、しかし、忘れる事を、その肉体は許しはしなかった。彼の脳の中で、意識の中で、殺人は正当だった。正義だった。どこにも盲点はなかった。…しかし、彼の意識の外側に、彼が置き去りにしていた肉体が、その存在があった。そしてその存在こそが「人間」と呼ばれるものだった。この「人間」は彼の意識に反発した。…だから、彼は自分の罪を誰かに語らなければならなかった。ラスコーリニコフは自分自身に堪えられなかった。だからこそ、彼はその罪をソーニャに語ったのだ。


 ドストエフスキーの重要な作品はこのように、いわば意識と存在との矛盾、その相克に支配している。彼ら登場人物達はみんな、本当に望んでいるのとは逆な事をしてしまう。彼らは存在を置き去りにして、意識だけで走り出す。だがやがて、存在はこの意識に追いついて、様々な罰を下す。そしてこの意識と存在との差こそが、ドストエフスキーの物語の道程である。…ある点から、物語とはこのように全て、主人公、あるい登場人物達の内部、その頭脳と存在との中で行われるものへと移行した。そしてこの点が、彼が現代作家の始まり、あるいは真の意味でのポストモダンである所以だと思う。彼は小説というものを、全て登場人物の内部の中での劇とした。従って、ドストエフスキーの作品において登場人物達が反発したり同和したりする様は通常の物語とは全く違う意味を持っている。彼らは単に人を好きになったり、嫌いになったりはしない。その「好き」「嫌い」は常に二重化されている。僕は最近思うのだが、単なる「恋愛小説」とか、お話としての単なる小説などというものは存在しない。人間そのものが極めて難解で複雑であり、そして二重であり、矛盾しているにも関わらず、単に「好き」「嫌い」で成立する劇というのは、何か重大な欠落がある。…僕は最近そのように感じている。


 以上が、ドストエフスキー作品の劇の構造だ。そして、それが破綻する以前でとどまったのが、あるいはチェホフであり、サリンジャーであると言えるのではないか。チェホフの「退屈な話」というのは、外面の見かけとは違い、青春小説の傑作だと僕は思っている。だが、チェホフもサリンジャーと同じく、ドストエフスキーのような長大な劇の前でとどまり、引き返してくる。そういう違いがあるのではないか、と思う。カフカはタイプは違うが、彼もまた引き返してくる。彼らが留まっている壁とはなにか。あるいは彼らはどういうラインを越えたのか、それはまた別の機会に考えたい。

 
 以上のような事は現代で小説を書く上で重要な要素になってくるのではないか、と思っている。小説を書くのに理論が関係ないというのは、僕は全然嘘だと思っている。小説家が数学をする必要は特にないが、何らかの意味で現実を論理的に考えざるを得ないのは確かだ。それをこうして言葉に表す必要はないだろうが、しかし、考える事はどっちにしても必要であるように思える。とりあえず、この論考はこれで終わりにしたい。現代小説においては、以上のような事が大切であるように、僕は考えている。それでは、また。

 

素顔を人に




人から愛されたいと思うと

愛される為に演技をする事になる

そして、この演技に疲れて、仮面を取り外してしまうと

この人間はすぐに世界から嫌われ、孤独になってしまう

…多分、素顔というのは誰にも見られる事のない表情で

たった一人自分自身と向き合い、鏡の中の自分と対面する事により

生まれる表情なのだ

だから、人に素顔を見せる時、それはもう素顔ではなくなってしまう

だが、僕は不遜にも考えてしまう

自分の素顔をいつか、人に見てもらいたい、と

そんな不可能な願いを

 声優ラジオの印象   ~芸術の「逸脱」と「復帰」~




 友人が声優オタクなので、その関連で声優ラジオを少し聞くようになった。その過程で、僕が好きになった声優は、小林ゆうと杉田智和、の二人だった。

 手回しオルガン弾きさんが、ゴダールや北野武の映画では監督が俳優の演技を殺そうとしている、そしてそれにより、彼ら映画監督は何らかの「真実」に達しようとしている、と言う論考を書いていた。これは紛れも無く卓見だと思う。そして、この思想ーー哲学を声優ラジオに持ち込む事も可能だろう。

 僕が杉田智和とか小林ゆうが好きなのは、二人が台本から離れて、どこかへ行ってしまうからだ。普通の声優のラジオを見ていると、なんとなく、台本どおりだな、という感じがする。緊張感がない、と言うと、言い過ぎかもしれないが、わりと普通だなあ、と思って聞くのをやめる事が多い。杉田智和と小林ゆうの二人は、台本通りではないので、緊張感がある。…とはいえ、台本を完全に無視するわけではなく、最終的には台本に戻ってくる。杉田智和というのははっちゃっけているようで、実は頭脳的な人であり(視聴者も気づいているだろうが)、彼は場合によってボケにも突っ込みに回れる。だが、彼のやろうとしている事は台本を崩す事、それにより、ある種の面白さに到達する事だ。だがしかし、台本という規定の路線を完全に逸脱しても、それは「芸」にならないので、杉田智和はきちんと元の路線に着地する。…個人的な印象だが、今の声優はみんなうまいし、ふるまい方を何もかも知っている、という感じがする。十七、十八の新人声優が出てくるが、素人っぽさがなく、演技にしろ、ラジオにしろ、みんな物凄くうまい。でもそれとともに、何か物足りなさを感じる。みんな、あまりに優等生すぎるのではないかという気もする。

 音楽、あるいは文学とか、色々な事に、この「規定を破る」、「そしてまた規定に戻る」という哲学は適用できる。神聖かまってちゃんの音楽はぶっ壊れ、破れているように見えるが、音楽的にはポップ、あるいはロックの路線に留まっている。神聖かまってちゃんを「キチガイ」だと嫌っている人は多いだろうが、しかし彼らの音楽を聞くと、彼ーーの子の音楽的才能はある程度認めざるを得ないのではないか、と思う。文学と映画などでも、優等生的ではなく、破れているものと、またそれを元に戻すーーーそのバランスを保っている作品に僕は魅力を感じる。二十世紀に入って、作家達はさかんにメタ的な視点や、小説家そのものを小説にするーーという技法をやってきた。こういう技法が大切なのは、それらの技法そのものに意味があるのではなく、それが逸脱と正常との微妙なバランスを狙っているという事に意味があるのだ。だが、往々にして、天才的な芸術家というのは「逸脱」に傾きすぎる嫌いがある。ある意味で、精神を病んだ人間というのは、「規定の路線に戻る事を知らない天才」とも言えるかもしれない。…しかし、芸術家の内部にあって、狂気は精妙にコントロールされなければならない。優れた芸術家たちも人間なので、時々、あるいはしょっちゅうこの狂気のコントロールを失う事もあるだろうが、しかしそれは最終的に理性の手によって抑えられなければならない。そうする事によって、作品は作品たりうる。要は、ボケと突っ込みを自分の中に同時に持つという事だ。そしてその自分の中のやり取りこがきちんとできるという事が、優れた作品に共通する性格だとも言える。

 …そういうわけで、僕の好きな声優は杉田智和と小林ゆうである。本当は悠木碧なども、その下に結構な狂気を持っていると思うが、それはラジオではきちんと出されていないーーつまり、規定の路線をなぞっているように思う。僕としては時々はっちゃけて欲しい気もする。
 
 以上、声優ラジオの僕なりの感想でした。


小説における不確定性原理  ~ドストエフスキーの解決法~

 小説における不確定性原理  ~ドストエフスキーの解決法~
 


 小説を書いていて今、一番難しいと思っている事が一つある。それは、個人の自意識を追うと、関係という客観性が疎かになり、そして関係という客観性を追うと、個人の自意識がなおざりになる、という事実である。これは純文学とエンターテイメントの差と考えてもらえれば、わかりやすいだろう。ある主人公の心の中を解剖しようとすると、必然的にその人間の周囲との関係に対する描写は精彩を欠く。そしてその逆もそうだ。例えば、ワンピースのような漫画はある意味、天才的な作品といってもいいが、そこでは個人の内的意識はそこまで掘り下げられていない。それは手塚治虫もそうだと思う。手塚治虫の話には深刻な人間像は出てくるが、それはしかし、自分自身との葛藤、内的矛盾を含んだものではない。手塚治虫のストーリーに出てくる登場人物達は、悩むにしても一元的に悩んでいるのであって、例えば、小林秀雄の自意識の問題のように、深く自らのように沈み込んでいくたぐいのものではない。

 この二つの事が双方向に引っ張られていて、僕はこの分裂をどう処理すればいいのか、よく分からない。これは量子論における、位置と運動の不確定性の原理と本質的に同じものだと思う。…ところで、これを自分なりに解決した人は、僕が知っている限り、二人いる。一人はシェイクスピアであり、もう一人はドストエフスキーだ。

 この二人の文豪はそれぞれ独自の方法でこれを解決した。一見して、すぐに分かる事は、シェイクスピアにしろ、ドストエフスキーにしろ、二人の作品はそれぞれ、普通の意味でのリアリズムと全くかけ離れているという事だ。二人は、シェイクスピア空間、あるいはドストエフスキー空間、とでも名付けなければならないような、そういう場所をそれぞれに作品の中に設定した。そしてそこでは、心理、あるいは人間の自意識は極限まで拡大されている。二人が描く人間とはもはや人間ではない。それはドストエフスキーの言う言葉を借りれば、「人間の中の人間」なのである。彼らの描く人物は一つのイデーであり、意識、であり、また精神である。普通、魂は肉体の奥に隠れている。そして肉体こそが魂の象徴、あるいは表現だと自然主義派は考えた。だが、ドストエフスキーやシェイクスピアは、この肉体の奥の魂ーーあるいは自意識を引っ張りだして、そして彼らはそれにふさわしい肉体をつけてやった。つまり、彼らの作品における登場人物達は全て、彼ら文豪たちがまるで神であるかのように作り上げた、そういう人物であると言える。ここでは、現実は単なる素材でしかない。彼らは現実の奥にあるものを引っ張りだして、そしてそれを新たな現実へと仮構した。

 こうして考えると、彼らがこの矛盾ーーー自意識と関係との矛盾をどう解決したか、見えてきそうだ。彼らにおける、『関係』とは通常、僕らが目にするエンターテイメント小説における関係とは全く違う。それは心理同士、あるいは意識同士の相克であり、あるいは敵対であり、あるいは同和である。…カラマーゾフの兄弟で印象的な場面に、アリョーシャが、イワンに忠告する場面が在る。イワンは終始、結局の所、自分が父親を殺害したのではないかと頭を悩ませているのだが、それに対してアリョーシャは、「兄さんが殺したんじゃありません」と力強く言う。

 ここの場面ではおそらく、アリョーシャはイワンにとっての天使である。そしてスメルジャコフはイワンにとっての悪魔である。二人は全く逆の事実をイワンにささやきかける。だが、忘れてはならないのは、ここでのこの三者の人間関係は正に、良心の葛藤ーーー天使ーーー悪魔、というような過大な言葉にふさわしいものであり、ただの人間関係ではないという事だ。ここでの三者は全く、普通の人間ではない。大体、アリョーシャがイワンに語る言葉は、現実にはありえないだろう。アリョーシャの語る言葉は深い。だが、それは普通の意味で深いのではなく、それはまさしく、アリョーシャがイワンの「内なる人物」ーーーもっと言うなら、アリョーシャは存在の次元のイワンに向かって語りかけている。イワンはインテリゲンチャであり、自分の意識の葛藤に悩んでいる。彼の足はロシアの大地を遊離している。彼の意識は、その魂を遊離している。だが、アリョーシャは、何人にも惑わされず、イワンの魂に向かって語りかける。…一方の、スメルジャコフが語りかけるのは、イワンのよく悩む意識に対してである。ここでは、意識と、存在の次元ーーー魂が別々のものとして現れてくる。…僕は先に、通常の、人と人とが関係する問題では自意識が疎かになる、と言った。これをもう少し考えるなら、普通の人と人との関係では、存在、あるいは魂の次元はほとんど表面化しないとも言える。それは僕らの生活を振り返れば明らかだ。しかし、それが明らかになるのは、結局、自分自身との問答の時のみだ。その時にのみ、その人間に対して、その魂は開眼される。…だからこそ、ドストエフスキーは地下室の手記から始めたのだ。あの作品は正に、自己との対話でそのほとんどが占められている。だから、もっと言うなら、ドストエフスキーの罪と罰の以降の作品、そこに現れる登場人物達の劇とは全て、自己問答が拡大したものとも言えるだろう。イワンの喋る相手はアリョーシャであり、またスメルジャコフなのだが、しかしアリョーシャもスメルジャコフも、イワンの自意識が生んだ産物なのだ。イワンの自意識のある面が強調され、片方がスメルジャコフになり、そしてもう片方がアリョーシャになったのだ。だから、ドストエフスキー作品の劇とは全て、自己問答との拡大化とも言えるだろう。おそらくはこうして、ドストエフスキーは、自己と他者との矛盾、その不確定性を乗り越えたのだ。僕はそう思う。

 これは断片なので、この論考はこれぐらいにとどめておきたい。また書きたい事があれば僕は書くだろう。それでは。

空は何故青いのか?  (ゲーテと現代科学)




 僕の持っている本の中で一番高い本はゲーテの色彩論だ。これは定価二万五千円と書いてあるから、相当なものだ。金のない僕からしたら、更に相当なものだ。
 
 ゲーテというのは僕の知る限り、もっとも難解な著者だ。例えば、サルトルとかハイデガーとか、そういうのはわかりにくいが、しかしゲーテのわかりにくさはもっと根本的なもので、ゲーテがファウストで何を言おうとしたのかは未だに僕達にもはっきりとわかっていないと思う。ニーチェが、ゲーテはあまりに大きすぎたので、ほとんどドイツに影響を与える事はなかった、という事を書いていたのものうなずける。ゲーテは思うに、あまりに難解なのだ。

 ゲーテの色彩論のわかりにくさは、それがニュートンを攻撃している事からも分かるように、僕らの知っている普通の科学の延長線で書かれていないからだ。それはむしろ、反科学である。今は科学全盛の時代なので、更にゲーテはわかりにくくなっている。以下、簡単に色彩論に対する感想を述べてみる事にしよう。何か手がかりが得られるかもしれないから。

 
                              ※

 
 空は何故青いのか?、という問いに対して、どう答えればいいだろうか。現代人なら、科学的に、空気の分子は青い光を吸収し…云々と答えて、それで満足するだろうし、そう書けば、おそらくテストでは満点を貰える事だろう。

 だが、僕はそれに疑問を持っている。

 疑問を持っている、というのは別にそこに神秘的な何かがあるという事ではない。人がそのように科学的に答える時、そこには認識する主体の問題は忘れられている。つまるところ、僕が「青」を「赤」だと認識する生物だとしたら、この問いは「何故、空は赤いのか?」に変換されるだろう。…そもそも、空は青いのだろうか?。もし、空が青いとすれば、それは客観と主観の整合物ではないか、という気がする。もし僕ら全員が色盲だったら、空は青くはないだろう。しかし、確かに、科学的な連鎖反応は変わりはしない。だから、空は何故青いのか?、という問いに、科学的に答えるだけの問いは僕なら「△」をつける。科学が答える事ができるのは「いかに」であって、「何故」ではない。そして、「何故」という問いはあまりにも色々な事を含んでいる。ニュートンとかガリレオ以前の人は、その「何故」に答えようとした。だからこそ、宗教と科学とが混合した哲学的な見方がでてきた。そこに神の問題がでてきた。現代人はそれを古臭い誤謬と無意識の内に考えているが、僕はそうは思わない。ある意味で、ニュートンやガリレオは総合性を放棄したのだ。つまり、芸術的、人文的なものと理化学的なものを、古代の人は総合的に答えようとして「神」という答えを出してきたのだとも言える。「神」というのは、「何故?」の問いに答えようとするものだ。確かに、その答えは間違っているだろう。だが、ニュートンた以降の近代科学は、「いかに?」であり、「何故?」の問いは未だ忘れられたままなのだ。

 僕は「可能性の地獄」という文章で、現代人の交換可能性と、それ故の空虚さを指摘した。それと上記の問題はつながっている。つまり、「いかに」というメカニカルな論は色々な所にはびこっているが、「何故?」という問いに対する答えは曖昧で、棚上げされたままである。そしてその差ーーー空隙が、おそらくは僕達の空虚を形成している。

 ゲーテはニュートンの光学を激しく攻撃したが、ゲーテにとって自然とはあくまで、人間の目を通して観察されるものだった。ニュートン以降、自然は数学的、機械的に分解されたものとなったが、ゲーテはあくまで、自身の芸術的理念と自然の幾何学性とを融合しようとした。従って、ゲーテは「いかに?」の問いにおいて、ニュートンにはるかに遅れを取ったが、しかし彼は「何故?」の問いに答えようとしていた、と言えるかもしれない。空は何故青く見えるのか?。この問いは無限に深く、澄んでいる。僕はこういう問いにまだ答えを出せる身分ではない。しかし科学的な答えを出してそれが全てだとは思っていない。現代人は科学を当たり前の事として考えているが、科学の出す結論と、僕達の実際の感覚や認識はあまりにも差がありすぎる。この差はどこで埋まるのだろうか。テストの回答と現実での僕らの感覚は、全く違う何かであるが、これらはどこかで総合されなければならないのではないか。そしてゲーテはそういう難しい問いに取り組んだのではないか。

 以上は現代の科学に対するちょっとした問いだが、こういう問題はこの先じっくりと考えていきたいと思っている。この問題は正直、あまりに難解で巨大すぎるので、少しずつ考え行ければいいと思っている。それでは、また。

消灯

 十代の頃は、きちんとした大人になるにはそれなりの見識とか、社会性を身につけないとダメなんだろうな、とぼんやりと考えていたが、自分が大人になると、それが間違いだという事が分かる。

 大人になる上で必要な事はたった一つしかない。それは『義務への服従』だ。そして、それを覚えさえすれば、人はハッピーになれる。おそらく高級車にも乗れるし、穏やかで美しい妻や、言われた事を真に受ける反抗心のない子供や、住宅街に瀟洒な一軒家を持つ事ができるようになる。

 だが、その為に人は『主体性』を捨てなければならない。主体性ーーーだが、そんなものはあるのだろうか?。それは若年期の『中二病』に過ぎない。それは、単に青年の妄想に過ぎない。…こうして、人は幸福への道を歩む。幸福とは諦める事だ。僕達は敗北を認めさえすれば、スマートな道を歩く事ができる。人が不幸に陥るのは何かと戦おうとするからだ。諦められないからだ。才能云々の問題ではない。生きるとは、諦めるか、諦めないかを選択する事だ。そしてほとんどの人間は前者を選択する。なぜなら、人々にとっては自由より、幸福の方が重たいからだ。自由には、必ず不幸と悲しみがつきまとう。過去の天才たちは皆、自らの不幸を代価にして自由を得てきた。だが、それほどまでに、彼らに尊く見えた自由とは一体、何だろう。

 純粋な自由などない。どこにも。ーーーもちろんだ。だが、人はそれを求める事ができる。こうして悲劇の旅は始まる。だが、やがて人は気付くだろう。茨の道で、一人朽ち果てる、その事がいかにその身に凄まじい快楽と、痛ましい喜びを与えるか、という事を。

 芸術とは我が身を滅ぼす行為である。芸術とは、自分を決定的に壊滅させる、そのような人間的営為だ。芸術は自分を、そしてあるがままの人間を否定する。そして、否定した後に、再びそれはもう一度僕達の手に戻ってくる。そしてそれは、今度は僕達を祝福する。芸術は人間を一度否定し、それから肯定する。だが、この一度目の否定で倒れない人間がどれくらいいるだろうか?。芸術とは厳しいものだ、と僕はそう思ってる。おそらくそれは、人間などよりはるかに厳しい。僕は殺人者の書いたものでも、それが良いものなら良いと言わなければならないし、余命一年の病人が書いたものでも、それがダメならダメと言わなければならない。それを冷酷非情と人は取るだろう。だが、ここでの冷酷非情というのは、自然が僕達に死を宣告する、その非情さより、はるかに温情のこもったものなのだ。嘘をついて、ごまかして、それで一体どうなるのだろう。僕が言わなかった真実を、自然は僕達に直に突きつける。その時に人はおそらくは、僕が『実は優しかった』事を知るだろう。

 人間というのは倒錯的な生き物だが、これを倒錯していると思わない精神がまさしく倒錯している。生きる事は単純な事だ。これとこれとあれをやってーーーそう思うと、生はとたんに難解になる。おそらく、僕は生きる事、そして自分自身をあまりに難解に考えすぎているのだろう。だが、これは僕の人生に対する、僕の戦術の一つなのだ。僕はこの戦術によって生き抜く。つまるところ、僕の頭がこの生より難解ならば、生きる事はそれよりは楽になるだろう、というそういう方針なのだ。いわば、百八十キロのボールを打つ訓練をしてから、百五十キロの球を試合で打つ、そんな事に似ているのかもしれない。

 もし、君がこの人生を生き抜きたければ、君はやがて、自分の死の存在に突き当たる事になる。そして、君はそれを延期するのか、延長しようとするのか、それともそれを我が身に引き受け、そしてそれをバネに空に飛び出すのか、その二つの選択肢を強いられる事になるだろう。前者は逃避であり、後者は挑戦だ。そして当然、後者には苦痛がある。だが、君はやがて知るだろう。苦痛こそが人生を美味しくする適量の『塩』だという事が。君は砂糖の甘みを知るために、まず地下に潜らなければならない。全てはそこから始まる。

 生きる事に対する問いは、ついに生きる事それ自身に収斂していくのか。禅の創始者もそうしたのではないか?。…それでは、僕はもう眠ろう。今日の仕事はいつもより、早起きしなければならないのだ。さて、では眠ろう。それでは、

 電気を消そう。

 パチッ。

傲慢になってーーー

傲慢になってーーー


今さっき、そんなに売れていない芸人のブログを読んでいた。それを読んでいて感じたのは、その芸人の妙なプライドのようなものだった。そのプライドが、重たい衣装のようにして、この人物を開放する事を拒んでいる。だが、この人物にはその衣装は、多分、子供の宝物のように大切なものなのだ。

 僕もそういう時期があった。今、僕にはある種のプライドがあるが、それは人としてのものではない。人としては僕はもう終わっている。だが、人として終わる所から芸術、ないしに芸、あるいはあらゆる行為、物事は始まるのだ。…この事に例外はないように、僕には思える。

 成功したい、幸福になりたい。そう思う事はおそらく結構な事だろう。そしてこの人間はこう考える。「自分はまだこんなのだが…しかし、いずれ成功すれば…」。もうちょっと、想像力を働かせるべきではないか、と僕は思う。成功した所で、こけて膝をすりむけば痛いし、それに他人の自分に向けられる悪意も好意も、自分の手ではなんともできない。世の中には金ではどうにもならない事がたくさんあり、そしてそれは金でなんとかなるものより、はるかに大きく、重いのだ。

 僕の考えでは、タモリと明石家さんまには、ある種の芸に対するスタンスがある。彼らは何かしらのプライドを捨てているように、僕には見える。彼らとプライベートで会ったら、彼らはなんというか、テレビの上での彼らとそんなに違わないのではないのか、という気がする。今の多くの芸人がこの二人にかなわないのは、芸云々というより、自分に対する態度、人生、あるいは世界に対するスタンスが決定的に違うのではないか、と思う。自分を捨てた所に、色々な可能性が生まれる。自分を捨て去った、その空虚に色々な『有』が生まれる。だが、人は無になる事を拒む。自尊心。プライド。そういうものを捨てれば、自分というのが全部なくなってしまうと思っている。これは物凄く簡単な事だ。自分はどこどこの大学だ、自分はどこどこの会社につとめている、重役とかそうでないとか、昔賞を取ったとか、あるいは女とか男とか、マイノリティとかマジョリティとか、左翼だとか右翼だとか。そういうものを全部捨てても、その先に自分というのはある。そしてそこからのみ、様々なものは生まれる。僕はそう思っている。

 お前は一体、何様のつもりでそんな偉そうな事を言ってるんだ?。お前は何一つ成功した事もないのにーーーと、もし今、僕が誰かに言われれば、僕はこう返す。

 「だから先に言っておいたはずだ。僕は何者でもないって。僕は人間ではないと。だから、僕には様々な事が語る事ができる。」

 こういう風に言う事は僕の傲慢のなせる業かもしれない。だが、傲慢とはなんだろう?。他人の傲慢に対してへりくだる事を謙虚というのなら、僕は謙虚からは程遠いだろう。今の世の中の人々はメディアを通じて文句を言う事に馴れている。彼らはあらゆる事を従わせようとする。彼らは他人の傲慢には敏感だが、しかし彼ら自身の傲慢さには一切気付かない。彼らが、鏡を見る日はこの先来ないのだろう。

 だから、少しばかり傲慢になっても良いのではないか。 

神聖かまってちゃん「フロントメモリー」




神聖かまってちゃん「フロントメモリー」を僕は長らくディスってきた。理由はボーカルが川本真琴だからで、それ以外の理由はない。僕は川本真琴が嫌いではない…というか、ほとんど知らない。

でも、僕が神聖かまってちゃんが好きなのは、明らかにそこに何か逸脱したもの、過剰なものを感じたからだ。その叫びは「音楽」ではない。今の大半の楽曲はどれも巧みでポップだが、芸術とは言えない。それが何故かというと、それらに結局『作者』が存在しないからだ。現代において、世界に抵抗するか、世界から外れるかのどちらかの道を辿らずに芸術を作る事は不可能に思える。つまり、現代は芸術家に『作者』たる事を要求する。何故かというと世界は人間に満ちあふれているので、独自性を持つには、別種の、珍妙な、『作者』という生き物に化けなければならないからだ。

…しかし、今この曲を聞き直して、やはりの子の音楽的才能は凄いものだな、と思った。一つ、特徴的な点を上げるなら、最後の川本真琴のシャウト。。あの部分は素晴らしい。多分、普段の川本真琴なら、絶対にあのラストのようなわめきたてるシャウトはしないだろう。だが、の子はそれを『音楽』にする方法を知っている。だから、そう要求するように、川本真琴に歌唱指導したのだろうと思う。

昨日、アマゾンで曲を購入したので、これからはウォークマンで普通に聞こうと思う。

いきものとしての芸術

いきものとしての芸術



 芸術とは何か、こんな事は単純な問いだし、それに答える事は必要で大切な事だ。だが、実際のクリエイターは絶えず、その定義を越えていくだろうし、また、越えなければならない。

 デュシャンが便器にサインをして、それが展覧会に出品された。『そんなもののどこが芸術なのだろう?』、もしこの問いを一般の人が発するなら、それは正しい。だが、それまでにそんな事をした芸術家はいなかった。だからこそ、デュシャンはそれをやった。僕は彼の事を全く知らないが、彼は大衆に対して挑戦的な人だったのだろう。例えば、新しい電子楽器やノイズなどを音楽に含める事、神聖かまってちゃんのように、音楽をただの叫びに変えてしまう事。こういう事の連鎖によって、芸術の領域は拡張されていく。従って、ここで芸術とは〇〇である、という定義が絶えず破られていく事になる。

 芸術に対する僕の考え方はシンプルだ。それは個人と時代との闘争にある。個人は時代を越えようとする。時代は個人を自己に従属させようとする。これは、一つの重力となっている。そしてこの重力そのものとなった人はすぐに他人に「お前には才能がない」と言う。こういう人は、誰かが思い切って何かをしようとするとすぐに、「おい、そんなの無理だから、やめとけ」と言う。僕は言っておくが、才能がないのは君なのだ。他人に才能がない、他人に何もするな、と言っているのは、その人物にまさしく才能がないからだ。そしてここで言う所の才能とは単に「やる気」の事である。それも瞬間的なやる気ではなく、持続的なやる気の事である。十年、二十年かけて世界に抵抗し、世界を破ろうとする、そのような「やる気」の事である。

 ある時代には必ず、ある種の社会的水準のようなものがある。そしてそれは人間の意識の内に、静かに沈潜している。人々が一般に「自分」だと思っているものはまず間違いなく、「自分」ではない。…例えば、人が「うまい」とか「へた」とか言う時、そういう時には無意識の内に、ある種の社会的水準を自分の内の基準としている。自分の基準で他人を評価するのは極めて難しい。従って人は、世界が用意した価値基準を自分のものだと考える。(実はそこから始めるしかないのだが。)だからこそ、人はその基準を越える事ができない。簡単に言うなら、人にとっては社会と自分とが完全にイコールでつながっているので、それからその身をもぎはなす事ができない。彼は独立できない。従って、また「うまい」とか「へた」とかぐだぐだと言うしかなくなる。

 芸術の価値とは何だろうか。それは絶えざる硬化に対して抵抗する事。生き生きとした、生動したものを追い求める事。そして、それを表現する事。そうではないだろうか。僕達はいつの間にか、芸術を檻の中に監禁して、それをただ鑑賞するだけのものに貶めてしまった。しかし、真の芸術家はこいつを、この美しい小鳥をこの檻から出してやる。グールドはバッハを再び世界に解き放った。そして神聖かまってちゃんはもう一度、ロックを叫びに還した。言い方を変えれば、彼らは、単に過去を新たに注釈しなおしただけだとも言える。だが、それこそが芸術がその時代に合わせて新しくなる秘訣なのだ。彼らは過去へと還り、過去へと注釈をつける。だが、それは単に自分の知識を示すためではない。人々が忘れていたもの、人々がそれを物質レベルに貶めていたもの、そんな風に死んでいた『芸術』をもう一度、再び、力強く蘇らせるためなのだ。大学の哲学科に哲学が存在するなどと思ったら大間違いだ。現在、真の哲学者が現れるとしたら、それは硬化した学問としての哲学から、再び哲学を解き放たなくてはならないだろう。教養や知性とは、本来生き生きとした流動的なものなのだ。それは生きているのだ。それは、今人々が考えているように、ほこりに塗れた書物に代表されるような、そのような死物ではない。そうではない。それは生きている。いや、それは僕達の手によって再び生かされなければならない何かなのだ。

 僕は、芸術というものをそう考えている。僕はディレッタントである。素人であり、芸術に関する事で金をもうけた事は一度もない。(いや、一度だけあった、それは何かの祭りの時に、ふざけて書いたピカチュウの絵をおじさんが五百円で買ってくれたのだった。なんであんな絵を買ってくれたのかは今も謎だ。)…とにかく、僕は正に何もない人間である。だが、自分には何事かをやれる気がしている。結局、芸術というのは個人の胸の内にあるのであって、どこか外部の機関や組織や、また〇〇賞の中にあるのではない。今の世の中の馬鹿馬鹿しい風潮と一緒に歩いてたら、奈落に落ちる事は確かだろう。僕はこんな話を聞いた事がある。あるバンドマンがいて、そのバンドマンは親に音楽活動している事をずっと反対されていた。だが、そのバンドがテレビに出演してから、親の態度は手のひらを返すように急変した。…結局、他人の目などはそのようなものであり、要はガラス球をクリスタルと取り違えるような目玉しか持っていない。僕としてはガラス球とクリスタルを取り違えたくはない。…しかし、ガラスがクリスタルより美しく輝く時もあるだろう。その時は僕はクリスタルよりもそのガラス球を褒め称えなければならない。自分の基準を持つとはそういう事ではないだろうか。

 では、これで筆を置こう。また、きちんとした芸術論が書ければいいと思っている。それでは、また。

「お前達のロックンロールはいつになったら爆発させるんだ?」

 「お前達のロックンロールはいつになったら爆発させるんだ?」




 手回しオルガン弾き氏のジョン・コルトレーン批評があまりに素晴らしいので、それに習って僕も神聖かまってちゃんを批評してみよう。(オルガン弾き コルトレーン でググれば出てくると思う)

 オルガン師匠(そう呼ぼう)はこう書いている。「Coltraneはある時期から『音楽』でない『音楽』に踏み込み始める」。

 おそらくあるゆる哲学、芸術、政治、経済におけるパラダイムの変換とは常にこのようなものなのだ。そこでは、それまでの規定の路線を、そのアーティスト(並びにそれらの政治家等)は越えてしまう。そして、その人物はそこに、その線を越えたなにものかを作ってしまう。

 その音楽はかつての定義から言うと音楽ではないのだが、しかし、聴いているとそれは、過去の音楽よりもより『音楽らしい』という事を納得させられてしまうものである。僕らの意識が反発しても、僕らの耳は意識以上に正直である。そしてそれはColtrane自体の、自己認識が僕らの意識よりも正しかったという証拠であろう。こうして天才は、一歩線を越え、新たな場所へと入っていく。これが天才の冒険であり、旅である。時間を、あるいは観念、概念を巡る旅。天才が今に満足するという事はありえない。彼は『現在』を否定して『未来』へと入っていく。

 神聖かまってちゃんのYOUTUBEのレビューに『歌唱力が壊滅的にダメ』というレビューがあった。こういうレビューを引き伸ばすと、神聖かまってちゃんの音楽はそもそも音楽ではない、という事になるだろう。だが、音楽とは何だろうか。おそらくバッハから見ればベートーヴェンは音楽ではなく、ベートーヴェンから見れば、ビートルズは音楽ではない。そしてビートルズから見れば、レッド・ツェッペリンはあまりにうるさすぎる騒音なのかもしれない。それは例えば、アインシュタインから見れば量子論が『科学』ではなかったのと同じようなものである。

 思うに、時代の変化とは常に一線を越える形で現れる。そしてそれこそがパラダイムの転換と呼ばれているものだ。そしてこのパラダイムの変化が起こった時、僕達に認識の危機が訪れる。天動説か、地動説か、僕らはどちらかを取らなければならない。そしてある者は過去に固執し、そしてある者は未来へと掛ける。そして時は流れ、その優勢は自然に、流れるように決まっていく事になる。

 神聖かまってちゃんが破壊したのは、何より、音楽の形式性だった。だが、それは既にロックにより破られていたものだった。セックス・ピストルズ、ビートルズ。だが、神聖かまってちゃんはそれをもう一度壊した。それはどのように壊したのだろうか?。それは僕は次のような言葉で言う事ができると思う。つまり、「言いたい事があるなら、人は絶対に何があっても言わなければならない。それが例え、その事により、過去から連綿と続いてきた形式を破壊する事になっても」。

 神聖かまってちゃんの音楽は一見、音楽として成立していないかに見える。ボーカルはあまりにも素人臭く、そして音全体は常にノイズ混じりに聞こえる。音質も良くない。だが、そんな事よりも、彼は何かを叫ぼうとしている。彼は音楽という道具を使って、何かを言おうとしている。そこには『表現』の問題がある。

 西野カナや平井堅の曲に、彼らの主体性はどれくらい刻印されているだろうか?。うまいとかへたとか言うが、今人はどれくらい、世界に対して叫びたい、世界に叩きつけたい、そんな自分を持っているのだろうか?。思えば、芸術というのはいつの間にか、展覧会と博物館と文芸誌の中に収蔵された死物となってしまっていた。それを、誰を解き放つのか。神聖かまってちゃんは僕達にこう言った事がある。「お前達の中にあるロックンロールの衝動は、いつになったら爆発させるんだ?」。いつなのだろうか?。それは一体、いつなのだろうか?。人が玄人顔して、知ったかぶりで様々な言辞を弄している時、こうして一人の野蛮児が誕生した。彼は音楽をもう一度、叫びへと還した。僕達が原始において、自分達の中に宿していたその凶暴な叫びへと。神聖かまってちゃんの音楽は確かに、『音楽』ではないかもしれない。だが、そうだとしたら、音楽とは何の為にあるのだろうか?。音楽とは、それ自体が目的ではないのだ。音楽とは人間表現の一形式に過ぎない。大切なのは音楽ではなく、人だ。人の叫びだ。言いたいことの一つ、叫びたいことの一つも君にあるだろう?。何故、君はそれを言わないのだろうか?。…あの日、神聖かまってちゃんは僕にそうささやきかけたのだった。「何をお前はまごまごとしている。言いたい事があるなら、思い切り言えよ。お前の武器を使ってさ。例え、世界から捨てられようと、言いたい事は言わなきゃダメだ。なぜならそれが『ロック』だから」。そうして、あの日以来、僕の脳は完全に壊れてしまった。言いたいことは言わねばならない。例え、あらゆる形式を廃棄しようと。

 僕の拙い神聖かまってちゃん論はこれぐらいにしよう。彼はともかくも言いたい事は言った。神聖かまってちゃんは色々な批判を受け、そしてその批判も神聖かまってちゃんの予測通りではあるだろう。神聖かまってちゃんを批判するのは概ね正しいというか、僕も見ていてとても賞賛できない箇所がたくさんある事は、認めざるを得ない。だがしかし、彼らが放った叫びの意味は、おそらく誰にも容易に批判できないような何かなのだ。思えば、僕らはあまりに『芸術』なるものを高貴な、あるいはスタイリッシュなものに祭りあげていた。DTM関係を回れば、どれもこれも『いい感じ』のスタイリッシュな曲ばかりだ。今の若者はおしゃれで賢く知的で、そして何事も巧みなのだろう。だが、そこに叫びはない。従って、それは野蛮児の一叫喚に敗北してしまう。それがどんなに見た目が美しく整えられていたとしても、人間表現の形式として、その中身を問われる段階になると、その中には何もない事が露呈されてしまう。叫ぶ事、そして叫びを客体化する事を神聖かまってちゃんは僕達に教えてくれた。そしてそれが、神聖かまってちゃんが、ろくでもない連中であるにせよ、どうしても評価せずにおられない、大切な部分であるように僕には思われる。
 

求めよ、さらば与えられん




 サッカーを見終わったので、何か書いてみよう。

 最近はエッセイばかり書いている気がする。仮構された小説を書くのが嫌になってきたのかもしれない。自分の中のフィクションの構造に破れ目がでてきたのかもしれない。…要するに、「ダメ」になってきたのかもしれない。

 最近、自分の精神はダメになってきたと感じる時がある。昔はもう少し緊張感があったような気がする。だが、それとは違い、脳のニューロンがつながってきているような感覚もある。僕は大して本も読んでいないし、知識もそんなにない。でも、散らばっている点と点を線で結び合わせるのは得意な方だと思う。手回しオルガン弾きさんも書いていた通りに、創造と模倣にそれほど違いはない。僕がそれに付け足すとするなら、創造とは編集能力である。シェイクスピアは偉大な編集者だった。僕は今のMAD動画なども、その質によっては十分芸術作品になると思っていると考えている。MADだから悪いというわけではない。

                             ※

 例えば、自分とは何だろうかーーと少し考えてみよう。
 
 これは何気ない問いだ。例えば、「あなた」とは何だろうか。僕はあなたに問うが、あなたは理解されたがっている。他人から構われたがり、そして誰か違う他人に賞賛を、その価値を見つけてもらおうと必死になっている。だが、そのあなたは、賞賛に値される「価値」を本当に持っているのだろうか?。今のあなたはまるで、商品はろくでもないボロなのに、それを顧客に売りつけようとする、必死な営業マンのようだ。あなたはまず、自分を相対的に見なければならない。まず、あなたは自分という名の金鉱を掘らなければならない。全てはそこから始まる。小林秀雄が言ったように、才能とは湧くものであり、消耗品ではない。あなたは、小説を書いて新人賞に送っている。だがそれはあなたを消耗させるだけの事だ。あなたは他人に認められる為に躍起になっているが、まずは認められる為のあなた自身を最初にこしらえる、それが順番としては先ではないのだろうか。

 僕はそう思う。

 だが、そういう僕の「アドバイス」をあなたは絶対に聞き入れようとしない。あなたは僕に向かってこう言う。「でも、ほら綿矢りさはあの年でデビューしたじゃない!。私だって…私だって…」。
 
 落ち着きたまえ。綿矢りさぐらいが、何だ。君はよく、目を開くべきだ。君の人生は一回限りだ。君はいずれ死ぬ。君が戦わなければならない相手は何だろうか?。それは、君自身の人生であり、君という名の現実だ。せいぜい頑張って小説を書いて新人賞を取った所で、それは大抵それ一回限りで終わる。それは一発屋のお笑い芸人のようだ。この芸人は人を笑わせているようで、実は笑われている。君のすべき事は…まず、この世界に打ち勝つ事だ。自分自身に打ち勝つ事だ。そのような作品を書く事だ。君のその叫びが、君のその死後も残る、そのようなものを書くべきだ。君がそういう言語体系を作り上げた時に、始めて君の人生は君のその作品によって聖化される。君の人生が美しく輝くのは、賞によってではない。作品によってだ。だとするなら、その作品を君は作り上げなければならない。そして、その為には、君は遠回りしなければならない。

 どんな遠回り?。君は聞く。どんな遠回り?。

 はて、どんなだろう。それは僕には言う事はできない。ただ言える事はーーー夏目漱石はふらふらと学問の世界を歩いて、四十にしてようやく自分の小説を書き始めた。ドストエフスキーが自分の真の課題を発見するのにも、四十年以上かかった。その間、彼らはさぼっていたわけではない。彼らは遠回りをした。彼らは不器用だった。だから人よりも、ずっとずっと遠回りをした。そしてその遠回りは、やがて来るべき日ーーー彼らがやがて輝かしい作品を作るその日の為に、準備された何かだった。彼らは準備しようとしてそうしたのではない。彼らは常に、何かを求めていたのだ。そして人生がもう終わるではないかという頃に、ようやく、それを手に入れた。彼らはこうして『偉大』となった。

 君は小説を書いている。だから、他人の小説を読む。新人賞を取った作品を読む。芥川賞を、直木賞を取った作品を読む。そうして、次第に君は文学玄人になっていく。君は文学ならもう何でもお手のものだと思う。だが、ここに落とし穴がある。全ての良い作品とは現実に対して開かれているのであって、文学に対して開かれているのではない。君は賞の事を考え、そしてデビューする事を考え、そしてそれによりどんどんと君の思考は閉じていく。君はどんどんと躍起になり、そして周囲の物事が見えなくなる。私は、自分は努力しているのに!。だが、その努力とは何だろう。誰に認めてもらう為の努力だろう?。君はいつの間に君を見失ってしまったのだろう。かつては、君にも言いたい事の一つ二つはなかったのだろうか。世の中に大して叫びたい事があったのではないか?。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を見たまえ。あれは僕達が置き去りにした、少年の叫びそのものだ。しかし、叫びだけでは、あのような作品は作れない。作者のサリンジャーがあれを書いた時、彼はもうすっかり大人になっていた。彼があの傑作を書いた時、彼は大人の世界を知りつつも、子供の清い心を抱いているそういう人間だった。そういう二つの異なったものを自己の内に抱いてたからこそ、ああいう作品が書けたのだ。あの人は。

 それに翻って、君はどうだろう。君は確かに、僕より文学に詳しい。作家の名前は沢山知っている。文壇の裏事情も知っている。だが、君は自分の心を知らない。自分の感じていることの『意味』を知らない。君は親戚の子供がしょぼくれている時、その子供がどんな気持ちでいるのかも考えてみようとしない。君は「まあそんなものだ」と思ってる。だから、君の書くものにリアリティは生まれない。リアリティとは何だろうか。それは他人の感情、心理を言葉の内で再現するという行為だ。そしてその為に必要なのは文学などという一般的な存在ではなく、他人の心を推し量る正確な心の秤だ。自身の心で他人の心を推し量ることのできる、そのような器だ。君は文章をひねり、プロットをひねり、登場人物をひねった。だが、君は君自身を見つめた事はなかった。君は君を否定し、それを相対化し、あるいは自分を笑い、けなし、蹴飛ばしたり慰めたり、そんな事を真剣にやって来なかった。全ての優れた文学には、自分自身と徹底的に向き合った作者の素顔がある。自分自身とただひたすらに誠実な対話を重ねた作家の確かな表情がある。だが、君にはそれは縁遠い。だから、君の書く作品にはリアリティは生まれない。新人賞などどうでもいい。問題は『君』だ。そして、『世界』だ。その他はあとまわしだ。その後には、賞でも人気でも、君の思うままに自由に選べばいい。

 ただ、僕も君の言いたい事はわかっている。…よく、わかっているさ。世界はインチキに満ちているので、君もそのインチキに一枚噛みたいわけだ。そうだろう?。違うだろうか?。世の中を見れば、ゴミみたいな作品が喝采を受けたり、人気になったりする。君はこう思う。「自分でもあれぐらいだったら…」。

 でも、そんな事はどうでもいい。君はまだ巣から離れられない雛だ。君はまだよちよち歩きだ。君のすべき事は飛ぶ事だ。自分の羽で。そしてその為には、まず手製の羽を織らなくてはならない。それは雄大な道だ。遠く、長い道だ。しかし、一番遠回りするのが、一番愉しい道だと、君は人生を歩いている内に知るだろう。そしておそらくは、僕に少しぐらいの感謝の念を覚えるだろう。では、最後に君に僕の知っている内でとっておきの言葉を送ろう。それでは、この言葉で、惜別の辞としたい。それでは、また。


 
 求めよ、さらば与えられん。


ある日のエッセイ 1



 小説を書く気が置きないので、エッセイ風にだらだらと書いてみよう。

 …しかし、僕は思うのだが、こういう風にネット上で自分の考えている事を喚き散らすというのは、これまでの時代にはなかった事だし、これはかなり不思議な事に思う。

 僕は職場では特に面白みのない人物であり、普通に仕事をしているだけの、凡庸の代名詞みたいな人物である。あるいは人から見たら、嫌いだという人も、好ましいと思っている人もいるだろう。だが、どっちにせよ、僕は職場でこのような芸術論など交わした事は一度もない。僕が小説や批評を書いているという事を言った事もない。前の職場では言った事はあるが、そんな事、現実で言っても何の得にもならないとわかったので、それ以来そういう事は一切言わなくなった。

 従って、僕は仕事場ではただ単なるロボット、あるいは性能の悪いロボットみたいなものだ。そこでの人間関係ーーー友達とか恋人とか、そういうものも全くない。こう言うと、「こいつは非リア充の典型で、クソみたいに孤独な奴だ」と思われるかもしれないが、そう思う人は正確に僕という人間をついている。だが、リア充というのはそれはそれで寂しいものではあるのだが。

 僕もまた、社会の正規ルートを歩めばよかった、といつも自分で感じている。それは本当にいつも感じている。しかし、それと同時に、そういう正規ルートがあほらしいな、という気持ちもある。今、自分はどちらが正しいと思っているのか。しかし、文学など、元々、正規ルートではない道のような気がする。この人生の正規ルートを進む時の、その欠点というのは、そこから脱落する事が恐ろしい、その恐怖を常に感じていなければならない、という事にある。僕は神聖かまってちゃんの「ぺんてる」という曲が好きだが、あれは正規ルートから外れた人間の曲だ。

 『考えて生きてくような価値なんてどこにあるんだと僕は思うのです』

 正規ルートに進む事、あるいは小説を書いて、華やかにデビューする事。だが、芸術にとって今一番大切な事はなんだろう。神聖かまってちゃんの捨て身の叫びは僕の魂を思い切り揺さぶった。多分、今、芸術に一番必要で、大切な事は、芸術家が腹を括る事だ。そして大切なのはただ、それだけだ。それは例えば、嘉村礒多と葛西善蔵みたいな、物凄くくだらない事に必死にしがみつく姿勢に代表されるのかもしれない。思えば、漱石だって不倫だの三角関係だの、はっきり言えば、人間的にくだらない、些末な問題を取り扱っていた。しかし漱石が偉大なのは、卑小なものに偉大なものを詰め込み表現する、その技術が素晴らしいからである。そしてその技術は、彼の世界認識、社会評論、芸術論、哲学等と深く関係している。この問題はかなり根深い。

 先ほど、DTM(パソコンで音楽を作る事)系のサイトを見ていて、「数々の賞を総なめにした新人デビュー」みたいな記事があり、その記事からその新人の曲を聴いてきた。その新人の作る曲は何というか、どこかで聴いたような曲調で、そして全体的にスタイリッシュでおしゃれな感じである。そしてその新人の写真もあったが、その新人さんは化粧をして、かなり綺麗な、できあがった感じの女の子だった。でも、そこに僕が深く心を動かされたかというと、そうではない。

 中原中也の写真を見ればわかるが、彼の目は澄んでいる。彼の目は、もう何か見てはいけないものを見てしまった、そのような深い悲しみに満ちている。詩人のリルケの写真も額部が突き出て、この人間が思索者として尋常でない、何か異常なものを抱えている事が分かる。これは偏見だが、天才というのは大抵、目が澄んでいる。そしてこの天才は常に、何かこの世界全体を深い所から見つめている、そのような印象を僕達に与える。

 天才というのは常に、僕達に何かしら奇形の印象を与える。そして僕らは彼らに出会うと、まず最初に反感を覚える。神聖かまってちゃんを最初見た時もそうだった。何故そうなるかと言うと、彼らは過去を否定し、未来へと進むからなのだが、実際の僕達はいつも、過去と未来とを同時に包含している『現在』的な存在である。だから、天才に出会うと、いつも自分の半身を否定されたような気分に陥る。だがそれは時間の作用により、解消されていく。だからこそ、ニーチェのように、はるか未来の先まで勝手に歩いて行った人間も、時代が追い付くに連れて評価されるようになる。時代は天才の味方である。なぜなら天才は未来へ行くから。だが、僕達は現在にとどまったり、あるいは過去に戻ったり、未来に先走ったりする。色々である。だが、その色々は時代によって強制的に切ったり貼ったりされる。その流れは無理やり整えられる。こうして個人はそれぞれ、様々な阿鼻叫喚をあげながら、様々な方向へと押し流されていく。あるものは未来へ、あるものは過去へと。とめどなく。

 さて、またとりとめのない話になってしまったが、どう締めくれればいいだろうか。特に締めくくる必要もないのだろうが。…でも例えば、大森靖子みたいな優れたアーティストと神聖かまってちゃんとどちらがいいかというと、神聖かまってちゃんの方がいいアーティストということになるのではないか、と僕などは思っている。それは何故かというと、神聖かまってちゃんーーの子は、人間を捨てているのに大して、大森靖子は女性である事を捨てているから、だ。その捨てるものの量に差がある。従って、芸術的力量にも差がある。大森靖子のファンにぶっ殺されない内にフォローしておくと、僕は大森靖子は間違いなく優れたアーティストだと確信している。ただ、今は比較の為にちょっと持ち出してきただけだ。大森靖子ファンの人がこれを読んで気分を害されたら、もうしわけないと思う。すいません。

 …最後は謝罪で締める事になった。どうも、すいませんでした。

幸福と成功を越えるために

 芸術とは徹頭徹尾、理論的なものだと最近は思うようになった。それは科学の一種であり、そう考えると先人が『写実』の言葉にそのような意味を持たせていた事にも納得できる。

 今、音楽でも小説でもいいが、多くの事が、巧みであり、そしてそれらは全てその様式に沿っているのだが、だが同時になんとなく浮かないというか、何か足りないという感じを受ける。どうして僕らがそんな感覚を受けるかというと、結局、多くの事は様式美ーーーというか、常に芸術の限界線として引かれている線を越えないようにできているからだ。それらの作品はこの線を越えたりはしない。なぜなら、それを越えた途端にそれは「こんなもの芸術ではない!」と、人が言う事がすぐに予測されるからだ。そしてこのピラミッド型の図式では、とりわけ巧く、「センス」がある人間がプロになったり、デビューしたりして、そこまでいかない人はアマチュアにとどまる。確かに、そういう図式も世の中には存在するのかもしれない。

                             ※

 世の中では相変わらず、「努力」とか「才能」とかいった事が問題にされ、そしてそれは議論の対象になっている。そしてその議論の果てには常に、何らの結論も出ない。全ては曖昧でぼやけたままである。それは元々、努力とか才能とかいう言葉の定義自体が曖昧でぼやけているので、その結論も曖昧である。なので、その議論は常に堂々巡りだ。僕などはこの堂々巡りは、人間生誕の時からずっと繰り返されてきたのではないか、と訝っている。そして、本当に何かをしようとする人間はこの議論に参入したりしない。彼はただ自分のすべき事をする。人が見ていようが見ていまいが。

 人がこんなにまで、努力や才能を気にするのは、結局の所、何かを為す事の報酬として「成功」あるいは「幸福」しか考えられないからではないか、と思う。つまり、彼らは結局、作品の内容、ある物事の本質、それ自体の持つ快さ、素晴らしさを常に過小評価し、そして彼らは、それらの物事がその製作者に与える成果のみを過大評価しているように見える。現代人の宗教は「幸福」と「成功」の二つであると僕は思っている。これはどんなに唯物論的に現れようと、それらは結局、観念的なものである。そして最近では、この宗教が、どうやらあんまりうまくいかないという事が人々にわかりはじめたので、それらは「他者排除」という新たな宗教に変わってきたように思う。僕はどっちも現代の宗教なのだと思っている。別に「宗教」が悪いわけではないが。

 成功したり、幸福になったりする事にこれほどの大きな価値が認められた事はかつてなかったのではないか、という気がする。だから売れるのは「幸福になる為の本」であり、あるいは「成功する為の本」である。つまり、人は幸福になるプロセスや、成功するプロセスよりも、その先の結果のみを追い求めているように見える。従ってここに、倒錯的な『成功法』が生まれる事になる。

 つまり、それは『与沢翼』、あるいは『勝間和代』的方法論とでもいうべきものだ。それはどういうものかと言うと、まず、メディアを使い、『成功者』の像を作り上げる。そして、それが実際成功者かどうかはどうでもいい、という事にこの方法のミソがある。つまり、まず成功している、うまくいっている、という幻想をメディアを通じて作り上げ、そしてその後に、『では、いかに私のように成功できるのか?』という方法論を大衆に『教授』してやるのである。そうすると、プロセスに興味なく、ただ成功する事しか求めていない人はこれに飛びつく事になる。従って、現代では成功とは幻想である。あるいは、まず『成功している』というイメージを作り上げる事が成功の秘訣となる。…まあ、その後、その嘘っぱちがバレてひどい目にあっても、それは自業自得というものだが。

 だから今は、多くの人が物事の内容は気にしていない、という事がはっきりしているように見える。プロセスは省かれ、そしてその成功、あるいは幸福の幻想だけが一人歩きしている。今、売れる作品とは面白い作品ではなく、「面白いと思われている作品」である。これは東方プロジェクトのZUN氏が言っていた言葉だと思う。ZUN氏の指摘は正しい。だから、逆に言うと、とにもかくにも「面白いと思われている」という幻想を先に作れば、それで経済的に勝ちなのだ、と言えるかもしれない。従って、ここでは常に、幻想形体が実物を追い越す姿が見て取れる。人が実物に気付くのは後である。それは、幻想の随分後なのだ。

                             ※

 成功と幸福とは現代の巨大な宗教であり、そしてその二つは常に、画面の奥にあるのか、それとも未来の先にあるかで、そしてその二つにはいつも僕達の手は届きそうにない。僕達はいつも画面のこっちがわにいて、そして画面の奥の幸福や成功を追い求め、渇望しているが、それが与えられる事はない。そして、それが与えられたとしても、この人間はそれに満足する事はない。この人間が収入一億もらうようになったら、必ず収入二億を欲し、三億になれば四億を求める。野球選手の年俸の駆け引きなどを見ても、そういう図が見られる。そういう事が悪いというのではない。間違っているのは、そこに幸福を求める事だ。幸福や成功というのはまず間違いなく、自分の頭の中にだけある。従って、人間は現実のどこをさまよい歩いても生涯、幸福になる事もできず、成功したと感じる事もできないだろう。それは見えない蝶を追っているようなものだ。それが、自分達が作り出した幻想だと気付かない間は、この人間はそれをずっと追い求め、そしてこの地上をさまよい続けなければならないだろう。

 人間というのは二十歳ぐらいまでの間は、将来、自分には素敵な男性(女性)が現れるのだろうと期待したり、また将来自分の夢は叶うなのだろう、と思っている。だが、二十代半ばくらいから、この人間は、やがてその首根っこを社会システムに抑えられ、そしてこの社会に嫌々ながらも服従しなければならない事を知る。自分は主役ではない、という事を僕達は生きている過程で知らなければならない。自分達は脇役、あるいはそれすらも叶わない背景の色彩の一つに過ぎない。だが、画面の奥では主役達がきらびやかな顔つきを見せている。どうして、自分はーーー。あるいは、僕達が幸福になれないのは異民族のせいかもしれず、あるいは自分を執拗に追い掛け回している謎のXなる人物のせいかもしれない。こうして僕らは少しずつ、自分達の精神病理の世界の中に入っていく。

 僕としてはこの今の現状に大してどうこう言う事もできない。僕もまた、人並みに成功したいし、幸福にもなりたいのだが、しかし僕はまた、別の事を言おう。僕は芸術志望なので、芸術に関して言うならーーー芸術の価値は、それが僕達に与えてくれるものよりも常に大きい。ある作品を作る事が僕に富と名声をもたらす、という事はありうる。だが、その作品が、僕にもたらしてくれる富や名声以上の価値を持っていないなら、そんな作品は作る必要がない。(そしてその程度の作品が世の中で喝采を受ける事例は頻繁にある。)芸術作品の内部の世界は、僕らが歩めば歩むほどに、広く大きくなっていくようになっている。ゲーテがシェイクスピアについて、『彼にとってはこの世界すらあまりに小さすぎたのだ!』と絶叫していたが、正にゲーテの言うとおりだと思う。ゲーテすらが嫉妬したシェイクスピアの才能ーーーそれはこの世界よりも大きい。彼は言葉、あるいは劇によって、彼の精神世界を表現するしかなかったが、そこに表現されたものは、この世界全体よりもはるかに大きいのだ。『太陽が照れば塵も輝く』、という言葉がある。これは塵のような些末なものも、太陽という偉大なものがあれば輝く事ができるという意味だが、現実というのは我々にとって塵である。そして太陽とは精神である。人々が今追い求め、渇望しているのは、せいぜい、これらの塵の中の『上等なもの』をかき集める事だけだ。我々は太陽にならなければならないだろう。君はーーー疑問に思った事はなかっただろうか?。極めて優れた芸術家が、僕達にはごく普通に見えるような事柄から、偉大な芸術作品を創りだしてきた事を。例えば、詩人が描く「運命の女性」は僕らかしたら、わりと普通の女性であろう。そして画家が傑作を生んだその実際の風景は、僕らの凡眼にはただの風景としか見えない。…こうした事が起こるのは何故か。それは、簡単な事である。その理由はその画家、あるいはその詩人の内部に、太陽とでも呼ぶべき精神事象があり、そしてそれによって外部が照らされ、そしてその現実がその精神の光を受けて光ったからこそ、それらの些末な現実はその芸術家の手により美しいものとなったのだ。だから、人は、画家が描いた風景を見て、「ああ、これがゴッホの描いた風景か。へえ~」と言うが、偉大なのはゴッホの精神であり、その精神があれば、凡庸な風景もまた偉大な風景となるのだ。…だとすると、幸福とは何だろうか。それは、僕らが偉大でありさえすれば、平凡、凡俗すら天上のそれに変化する、そのようなものではないか。僕らが持たねばならぬのは他人からの借り物の幸福ではなく、全てを照らす自身の精神の光ではないのか。

 …とはいえ、偉大な芸術家はほとんど例外なく不幸だった。彼らが外面的に幸福に見えたとしても、彼らは間違いなく不幸だったと言っていいだろう。だとすると、幸福というのは生きている僕達には永遠に訪れないものかもしれない。それはあるいは、僕らの死の先にある、架空の何かなのかもしれない。しかしいずれにしろ、偉大な人物というの常に、幸福よりも自由を求めてきた。そして自由を求める過程で、彼らは規定の『線』を越え、そして不幸に陥った。この時、彼らは僕らの持つ、「幸福と成功」の宗教を既に越えていたように思う。僕らは「幸福と成功」を追い求め、それを目標としているが、僕達が越えなければならないのは、正にこの宗教そのものではないか、と僕などは思っている。もちろん、誰しもが幸福になり、また成功したいだろう。だが、それが本当に全てなのかと言うと、そうではない。そこには、それに至る過程があり、そして実はこの結果よりも、この過程の方が大事なのだ。従って、豊かなものは全て過程にあり、幸福とは一つの結論に過ぎない。過程のない結論は無意味だ。カンニングした試験結果に意味はないが、しかし試験結果などはカンニングしても高得点が出てしまう。問題はカンニングしようがない一つの過程を作り出す事。幸福と成功の宗教を越える事だ。そしてその為に、『一旦』、不幸になる事もそう悪い事ではないだろう。…僕らが幸福と成功を追い求めている内は、僕らは幸福と成功の幻想を作り出す、社会システムの奴隷となり続ける事だろう。だから、これから逃れなければならない。これに真っ向から歯向かう何かを作らなければならない。そしてそれを作り出した後に、その人間が『幸福』を選ぶとも、『不幸』を選ぶともそれはその人間の勝手である。いずれにしろ、社会の規範に首根っこを抑えられている作品に僕は価値を見出す事はできない。価値とは差異化であるなら、その差異はこの社会システムそのものを越える事によって生み出されなければならないだろう。そして幸福も成功も、システムの奥にあるもので、自分達の内にはない。

 不幸とは自分の内にあり、幸福は自分の外側にある。従って僕達はまず、不幸から出発しなければならない。そして幸福は永遠に僕らの外部にとどまるだろうが、しかし、この幾何的な差に、僕達の旅ーーーつまり、『人生』がある。そしてこれこそが人生の最も豊かな方程式ーーー。つまり、幸福を常に延期し、絶えず努力を怠らず歩いて行く事。この事が人生おける『幸福』なのだと、僕はそう思っている。少なくとも、僕としてそうしたいと考えている。

僕が『小説』を書くきっかけになった、とても小さな出来事

 



 僕の実家の近くに、一軒の八百屋があった。その八百屋は『杉本青果店』というごくありきたりの名前だった。その八百屋では、おそらくは杉本夫妻であろう中年二人の男女がただ淡々と働いて、野菜を売っていた。僕は登校の際にいつも、その前を通りかかったものだ。僕が小学生の時も、中学生の時も、そして高校生の時も。僕が年を重ね、大人に近づいている間もその八百屋の夫妻はずっと、時が止まったかのようにそこで野菜を売り続けていた。二人は来る日も来る日も、そのみすぼらしい店の先で野菜を売り続けていた。野菜は大抵かごに盛られていて、そしてそれは驚くほどの安値だった。そして僕はその八百屋にはほとんど何の興味も覚えず、またその二人の色黒の、労働者の化身みたいなその夫妻に特に注目する事もなく、ただ登校路としてその前を通り続けていた。そうやって時は流れた。僕はちっちゃな小学生から高校生になり、そしてその夫妻には皺が増えた。時が僕らに与えた作用は、ただそれぐらいのものだった。

 高校生になったある日、僕はふと、その二人を見て、軽蔑に近い感情を覚えた。その理由はよく覚えていないが、ほんの気まぐれだったのだろう。僕はその二人を見て、「ああ、この人達はこうやって人生を終えていくんだな」と思った。「この人達は、この八百屋以外の、それ以外の広い世界を知らないんだ」と、僕はそう思った。僕はその頃、文学に手を出していたので、どうやらこの世界には、自分が生きている世界とは違う世界がどこかにあるんだという事を認識し始めていた。…八百屋の夫妻は、そんな僕に目もくれず、たださっさと手を動かしていた。そしてそれは彼らの中で何十年という時を紡いできた、そのような伝統的な作業なのだった。

 更に時は流れた。僕は大学生になっていた。僕は上京し、そして都内の芸術系の大学に通っていた。僕は小説を書き始めていた。それらの小説はどれも、今から振り返るとごく下らないものに見える。どれこれも通俗的だし、あまりに凡庸でつまらないものだった。しかし、僕はその頃、得意で、他人の迷惑も顧みずに、その小説を嬉々として他人に見せたりしていた。すると他人は気まずそうに、「まあ、悪くないんじゃないか」というような事を言った。…それでも、僕は気を腐らせずに、書いた。書きまくった。僕は二十歳前後で自分が小説家になれるような気がしていた。そんな風な事を、誰しもそのぐらいの年頃には考えるものだ。だが、それは決まってうまくいかない。僕はその時期を、そういう凡庸な大学生として過ごした。恋愛もし、飲み会などで騒いだりもしたが、全ては実に馬鹿馬鹿しい出来事だった。そうやって僕の若年は過ぎ去った。

 もちろん、僕は小説家になれなかった。僕は大学卒業後、普通のサラリーマンにさえなれなかった。僕は未来というものを漠然と「どうにかなるのだ」と考えていた。小説家になれる、というのもその未来の一つだ。だが現実は違った。気づけば僕は小説家になれず、新卒で就職する事もできず、ただのニートになっていた。そして僕は自堕落のままに、そのまま二年間もニートをし続けた。その間、僕はほとんど何もしていなかった。ただかろうじて少しだけ、何か書いたり読んだりはしていた。後は建設的な事は何もしていなかった。一切。

 二年が過ぎて、僕は二十四になっていた。何かを決断しなければならない年だ。親も、もう来年からは金を送らないと僕に最後通告を出していた。…僕はしぶしぶ、仕事を始めた。といってもそれは正社員ではなくアルバイトで、近所のコンビニの夜勤だった。コンビニの夜勤は楽で、しかも廃棄弁当ももらえるので割は良かった。朝勤の高校生と文学の事について話して、仲良くなったりもした。でも、事態は別に大して変わったわけではなかった。僕の小説は相変わらず、子供の書く「お話」を超えたものではなかった。

 そんなある日、僕は帰省した。お盆だったと思う。親がたまには帰ってこいとしつこく言うので、仕方なく僕は帰省する事にした。実家に帰るのは大学生以来だった。僕は自分が二十六歳にもなって、何者でもないという事に恥じ入るようになっていた。二十歳の頃には、何もかもがうまくいくと思っていた。その頃僕は、早々に小説家としてデビューするつもりでいた。しかし現実は甘くなく、僕は同級生達よりも劣るただのコンビニ夜勤者に過ぎなかった。プライドの高い僕には、その事は恥ずかしい事に思えた。だから、実家に帰るのも嫌だったのだ。そこで昔の友人達と会うのも嫌だったし、親と顔を合わせるの嫌だった。しかし僕はもう新幹線に乗ってしまったのだった。だから、その屈辱に一人で耐えるしかなかった。

 家の最寄り駅から、僕はわざと徒歩で帰る事にした。駅から実家までは歩いて三十分ほどあるが、僕はその少し遠い道のりを、わざと噛みしめるようにゆっくりと歩いた。…町の風景は、大学生の時に帰った頃とほとんど変わっていなかった。ただ一つ、二つ、畑が潰され駐車場になっていたぐらいのものだった。

 そして、その道程でふと僕は、あのすっかり忘れていた八百屋を発見したのだった。…僕はそれに、本当に何気なく気づいたのだった。『杉本青果店』。その薄汚い看板、そして店頭のざるに盛られた野菜。そして、そこで働く杉本夫妻。全ては何一つ変わっていなかった。二人はそこで相変わらず野菜を並べたり、ダンボールを畳んだりしていた。

 その二人の姿を見た時に、ふいに僕の中を電流のようなものが走った。陳腐な表現だが、それ以外に言いようがない。その時、僕はその人達がその場所を何十年間と守り抜いてきた事を知ったのだった。高校生の頃、僕は心の中でこの二人を軽蔑した。「この人達はこんな所でこんな風に人生を終えるのだろう」ーーー。だが今、現実はどうだろうか。僕には何一つ守るべきものはなく、コンビニで自堕落に働いては遊ぶだけ。だがこの二人は少なくとも、この小さな八百屋を何十年と守り通してきたのだ。絶えず働き、手を動かし、足を動かして。彼らはその時、もう既に何かを成し遂げていたのだ。未来を空想ばかりしている僕とは違って。僕は「杉本青果店」の前を、屈辱に満ちた思いを抱きながら通り過ぎた。二人は僕を見なかった。僕もまたそちらを見なかった。

 帰省を終え、元のアパートに戻ってくると僕は、これまで自分の書いた小説のデータ、そしてその原稿用紙などを全て一斉に捨て去り始めた。その決意は、新幹線でアパートに戻ってくる時に固められたものだった。僕は、アパートに帰るなり窓を開けて空気を入れ替え、そして原稿用紙や、コピー用紙に書かれた汚い乱雑な文字達を片っ端からゴミ袋に入れはじめた。それは丁度ゴミ袋二つ分くらいあった。僕はそれを縛って閉じ、そして即効でゴミ捨て場に捨てに行った。そして戻ってくると僕はパソコンの、『小説・倉庫』のフォルダを削除した。削除には一分も掛からなかった。全く、テクノロジーというのはありがたいものだった。

 そして、その時、僕は決意していた。これまで書いていた小説はどれもいい気なものであり、単に文学青年の遊戯に過ぎなかった。そして、これから書くものは、これまでとは違う、一つの確かな生の実感にしよう、と。もちろん、そんな事が実際にできるかどうかはわからなかった。それでも、もう自分で自分を変えなければならない場所まで僕が来ているのは明白だった。僕の頭の中には、あの杉本青果店の二人がちらついていた。あの二人は確かにこじんまりとしているかもしれないが、しかし、彼らは彼らの確かな生を生きている。だから僕もまた、自分の生を生きなければならない。そしてその為には僕はまず、確かな生の実感のある小説を書かなければならない。これまでのようにうわついた登場人物やプロットをひねくり回した、玄人ぶった作品など二度と書かない事だ。下手くそでもなんでもいいから、自分の腹に入っている真実だけを書く事だ。自分をごまかさない事だ。とにかく、全てはそれからだ。僕はその時、そう思った。僕はその時、そう思ったのだった。

 それから、僕はどうなったろう。あれから二年経ったが、今も大して状況は変わっていない。僕は相変わらず、フリーターのままで、今は牛丼チェーン店の夜勤をしている。僕は二十八になり、三十歳もすぐそこだ。…だが、僕の書くものにはこれまでとは違う変化が兆してきた。…だが、その変化を僕は大げさに言う事はやめよう。まだ、全ては始まったばかりなのだ。もう僕は自分をごまかしてはならない。上を見上げて、それっぽい、玄人臭い、あるいはどこかの誰かの作品と似たスタイルの、そんな作品を書く事はもう僕には許されていないのだ。まず、僕がしなくてはならない事は一人の登場人物を作る事だ。自分の生命と人生を託し、僕を引っ張って歩んでくれる、そのような主人公を作り上げる事だ。世界を自分の自意識の中に引きずり込んで歩き出す、あのラスコーリニコフのような主人公を。

 だが、僕はふいに思い出したりもする。杉本青果店のあの二人は今もあそこでああしているのだろうか、と。一人の人間、あるいは二人の人間が人生を生きるという事はどういう事だろうか。人は華やかな外面ばかり気にして、夢を見て生きている。かつては僕もそうであり、だからこそ、そうなれなかった自分に絶えざる不満を抱いてきた。だが、生きるという事はそういう事ではないーー。そういう事をあの二人は教えてくれた。しかし、彼らは何も語らなかったのだ。語らず、そこに存在し続けたからこそ、二人の存在は僕に衝撃を与えた。今の人々はあんまりにもしゃべりすぎる。僕も含めてーーー。

 さて、僕はもうここで沈黙しなくてはならない。僕は今、新人賞に出す原稿の推敲中なのだ。この作品が賞を取るかどうかは分からないが、ようやく、僕の主人公も少しずつ様になってきた。それは確かな足取りで地面を歩けるようになってきた。僕はそんな気がする。だから、あるいは今度こそーーー。
 
 いや、そんな風に考える事は僕はやめよう。今はまだ始まったばかりなのだ。そう、全ては今スタートを切った所だ。おそらく、人生とは地味で、そしてぬるぬるした泥の道を少しずつ歩いて行く事なのだ。それまでの僕はただ、自動車に乗ってさっさとゴールに行こうと焦っていただけだ。そんな風にうまくいっているように見える人間も、僕の周りにはたしかにいた。だが、僕はこれからは一歩ずつ歩いて行こう。少しずつ、少しずつ、だ。

 …そうやって、僕は本当の意味で『小説』を書くようになったのだった。そして、その結末がどうなるのか、それはまだ誰にも分かっていない。まだ、全て始まったばかりなのだ。僕は焦りを捨てて、一歩ずつ歩むようになった。空飛ぶ鷲を目指すのではなく、地を這う蛇になる事だ。草原を這う、なまめかしく美しい蛇になるのだ。そうやってほんのすこしずつ、ゴールににじり寄っていくのだ。そう、生きる事とはそういう事だ。

 そう、今もあのみすぼらしい青果店を守り続けている二人のように。

 

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