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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

「君」を捨てたまえ





無数の人間が小説を書き

無数の人間が詩を書いている

誰もが自分を知って欲しくて

誰もが自分自身を叫んでいる

でも、その自分というのは何だろうか

君はテレビの中の人間を見て

羨ましいと思った事はあるだろうか?

彼らがあれだけ人気があるのは

「自分」を失ったからなのだよ

誰よりも徹底的に自分を捨て去った者が

自己なきこの世界では誰よりも喝采を受ける

タモリを見たまえ 彼の全てを受け流すその態勢を

彼は個性などという奇妙なものをとっくの昔に捨ててしまったんだ

だから、彼の胸に流れる喜びも希望も悲しみも全ては

どこか別の惑星を流れる誰か別の人の感情のように

感じられているかもしれない

だが、君はどうだ

君は自分を捨て去る決心もつかず

世界に見捨てられても自分にしがみつく、というその決心もついてはいない

君は中途半端だね

僕はそう思うよ

ところで、君の小指についた君のピンクのマニキュア

僕はとても素敵だと思うね

君自身よりもずっとはるかに

それは素敵だと思うね

僕はそう思うよ

「君」なんてくだらないから

明日の燃えるゴミの日にでも

さっさと捨ててきてしまえ

君が昨日食べ残した

バターロールの残骸と一緒に


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天才について

凡人が努力して優等生になる。だが、優等生が努力して天才になるとは限らない。天才というのは、自分の中の凡庸性と対峙した存在だ。自分の凡庸さを絶えず切り払いながら進む存在だ。天才というのは、一度、この世界を捨てている。彼は自分を捨てた時に、同時に世界をも捨てている。そうでなければ、どうやって天才は世界を変える事ができるだろうか。世界を変える事ができるのは、世界を捨てた存在にほかならない。そしてこの天才がそうやって世界を捨てた様は、あるいは無秩序に飛び込む犯罪者に似ているかもしれない。だが、犯罪者がゼロからマイナスに下るのに対して、天才はゼロからプラスへの道をたどる。普通の人はゼロになるのを嫌うので、犯罪者にも天才にもなる事はない。

「日本ではどうしてザッカーバーグ(フェイスブックの創始者)のような創業者が生まれないのか」と以前にインテリ達が討論している番組があって、実に阿呆らしいなと思った。ザッカーバーグが日本に現れたとしても、君達はザッカーバーグをザッカーバーグと認めるその眼を持っていないだろうとも思うし、それにそんな討論をする事に何の意味があるのだろうか。今、日本に天才がいるとしたら、彼はもうすでに動き出し、自分を動かし、自分のすべき事をやり始めているだろう。既定の天才を元にして、「どうして今、世界にはモーツァルトがいないのだろう?」と嘆くのは簡単だ。だが、簡単でないのは君達がそもそも一度でもモーツァルトを真摯に聴いた事があるのか、という問題だ。おそらく君達は今モーツァルトが現れても、すぐにそのアーティストを排除するだろう。そして君達は現代のモーツァルトを排除した後にまた、「どうして世界にはモーツァルトはいないのだろう?」と嘆くだろう。繰り返し、繰り返し。

天才というのは、僕ら凡人にとっては厄介なものであると同時に魅力的なものである。僕達が現在から過去へと視線を向けている時には彼らは邪魔に見えるし、僕達が未来に眼を向けている時には彼らは魅力的に見える。何故かというと天才というのは未来を切り開く存在だからだ。未来を切り開くと言うと聞こえがいいが、それは過去の否定でもある。そして現在とは過去と未来との混合なので、ある者は天才を支持し、ある者は天才を否定する。だが、誰も時間の流れに抗する事はできないので、この天才は時間軸にそって自分の勝利を拡大していく事になる・

「涼宮ハルヒの消失」論

 「涼宮ハルヒ消失」論



                        一  「消失」の構造


 「涼宮ハルヒの消失」という作品は、ここ十年くらいの小説の中ではベストの出来ではないかと思う。僕は「涼宮ハルヒの憂鬱」を、「消失」を読む前に読んでいたが、それほどいいとも凄いとも思わなかった。だが、憂鬱と消失はぜんぜん違う。ここで作者は明らかに大きなジャンプアップをしている。それは村上春樹が「風の歌を聴け」から「羊をめぐる冒険」にジャンプアップするのに似ている。村上春樹の「羊をめぐる冒険」の主人公の「僕」が、当時の消費資本主義の享楽的な雰囲気、それだけでは自分には何かが足りないと考えて、そうして冒険を始める物語だ。そして主人公は冒険をして、そしてまた元の日常に帰ってくるわけだが、村上春樹作品の一番重要なポイントは、この主人公の「足りない」に象徴されると思う。村上龍作品においては、むしろこの「足りない」は村上春樹とは逆の表れ方をしていて、村上龍は現在のこの空虚な日常を疾走して描く。そしてその疾走のスピードを限界以上にまで上げる事によって、快楽そのもの、あるいはこの現代の享楽的な世界そのものの背後にある空虚を表出させる。村上龍は現代社会に対して、文体(そのスピード)で勝負を挑んでいるのに対して、村上春樹の作品では主人公が世界から外れた場所で、世界そのものをシニカルな目線で見ているという、その視座の定め方で勝負を抱いている。村上春樹作品は今、ノーベル賞だか何だかで色々言われているが、彼の作品が根本的に今の享楽的な世界に対して闘争を挑んだという事、そしてまた、彼が少なくとも彼独自の視点や、彼独特のオリジナリティを獲得しているという事、これは間違いなく確かな事であり、この事を回避しては褒めたり非難したりするのは間違いだと僕は思う。ただ、最近の両村上は時代と明らかにずれてきていると僕は思っているが、しかしそれはまた別の問題だ。

 涼宮ハルヒの消失は、まずSOS団という「日常」が存在する場所から始まる。このS0S団というのは、主人公の高校生キョンのクラスメイト「ハルヒ」が作った部員五人の謎のサークルであり、そしてこのサークル結成の動機は、ハルヒが今の世の中が退屈だから、もっと面白い事、もっと異常な事、変わった事を発見する為に作った、という事になっている。そして主人公のキョンは他の部員と共に、このハルヒのはた迷惑な行為、そのサークル活動に巻き込まれる事になる。そして、そういう、日常の凡庸性に対して非日常性を求める、というのが「消失」までのメインテーマになっている。これ自体は、それほど目立った事もない。消失まではあくまでも、できのいいライトノベルという評価で十分だろう。そこにはまだ非凡なものはないと言っても良い。僕はそう思っている。
 ところで、この部員五人のメンバーには、実は主人公以外のメンバーにそれぞれ特殊な能力が割り振られており、そしてその能力が作品を進行させる為の鍵となっている。かわいい女子生徒の「みくる」は実は未来人であり、タイムマシンで戻ってきてハルヒ達と一緒に高校生活をしている。男子生徒の「古泉」は実は超能力者であり、彼は実は「裏の世界」で使える超能力を持っている。そして文学少女の「長門」は実は宇宙人であり、これは色々な能力を行使できる。そして、これらの能力の中心には実は「ハルヒ」がいて、ハルヒが非日常的なものを求めるという所に、これら四人のメンバーの能力が発現したという事になっている。つまり、ハルヒ自体は平凡な女子高生なのだが、しかしハルヒには自分でも気づかない特殊な能力があり、それにより、この世界に様々な、その部員四人を含んだ超常現象、その能力などが発現されたという設定になっている。だから、ハルヒ自身は自分でも気づかない内に、世界に非日常性をばらまいていた事になるが、本人はそれに気づかずに、SOS団を結成して、「謎」を探したり究明しようとする。だから、そのハルヒの隠された能力と、ハルヒ自身がそれに気づいていないというその「ズレ」が作品の骨子となっている。そしてこのズレのさなかで、物語は進行する。

 しかし、ここまではあくまでも、「涼宮ハルヒの消失」の為の前置きとしての段階である。そしてこのSOS団に所属するキョンの平々凡々とした日常の描写から「消失」という作品は始まる。消失は最初の三十ページまではその平々凡々とした日常の描写になっている。キョンは普通の男子高校生であり、「やれやれ」などと言いながらハルヒの無鉄砲な言動に振り回される。彼は元々、そんな非日常性などに大した興味を抱いていなかったのだが、しかし、無理やりハルヒに振り回されている男子生徒、というポジションを取っている。とはいえ、このキョンにはちょっぴり非日常的なものへのあこがれもある。だが、彼は自分が平凡だという事、非日常性、大きな起伏の物語、そんなものを求めても自分が失望するだけだという事も悟っているので、彼はハルヒに振り回されながら、「やれやれ」と繰り返すだけだ。だが、この消失の三十ページ過ぎた辺りで、急に忽然とSOS団が消えてしまう。学校から急にSOS団が消え、キョンは一人だけ元の高校に取り残される。しかも、彼らSOS団ーーーハルヒ、みくる、長門、古泉の四人が学校から消えたという事を、キョン以外の生徒は誰も認識していない。だから、彼らが消えたという事を知っているのはキョンだけだ。平々凡々とした日常は、昨日までと同じように今日もまた続いてくのだが、しかしその中にSOS団の存在はない。しかしその事に気づいているのはキョンだけだ。だから、彼は居心地の悪い思い、自分だけが場違いな思いをしながら、SOS団を探すはめになる。そしてこの探索こそが、この作品の物語、この作品の「冒険」の部分となる。先の村上春樹の「羊をめぐる冒険」では、日常的な社会に倦怠する事が冒険の為の動機となっていた。彼は日常に満たされない思いを抱いて、その思いを具現化するかのように未知なものへの冒険を始めた。この辺りは「ハルヒ」がSOS団を作った動機に似ているだろう。だが、この「消失」の中で、その物語の構成は「羊をめぐる冒険」より更に一歩先に進んでいる。キョンがSOS団を捜索するのは、失われた『非日常性』を取り戻すためであり、日常性に倦怠した為ではない。彼はいつの間にか、SOS団という非日常の中に入り込んでいた。キョンはハルヒの無鉄砲な言動、そして彼女が気づかずに巻き起こす色々な珍騒動に「やれやれ」と言いながらつきしたがってきたはずだ。しかし今や、こつ然とその非日常性は消えてしまった。「羊」では、『日常→非日常→日常』の起伏が物語の根底となっていたが、この作品では『非日常→「非」非日常→非日常』が物語になる。つまり、そこでキョンが望むのはうしなわれた非日常性を取り戻す事であり、「羊」のように単なる日常性に復帰する事ではない。世界はハルヒのせいでもう十分に非日常化していた。というより、それは日常の中で、SOS団という非日常性が孤島のように存在していたと言ったほうがいいだろう。だが、今や急にその非日常性が失われてしまった。SOS団は消え、涼宮ハルヒは消えてしまった。世界は元に戻った。だからある意味、平々凡々とした生活を表面上は望み、そしてハルヒの無鉄砲に疲れていた、凡庸なキョンという青年からすれば、彼の理想通りの世界に戻ったと言えなくもない。今や嵐は消え去った。ハルヒは消え、SOS団は消えた。やれやれ、もう俺はあんなめんどくさい思いをしなくて済むじゃないか。だが、彼はその自分の思いが嘘である事を自分でも知っている。だから、彼は走りだす。ハルヒを、SOS団を探し出すために走りだす。

 「こういう喩えはどうだろう。
 とある所にとても不幸な人がいたとする。その人は主観的にも客観的にも実に見事なくらいの不幸な人で、悟りの奥義を極めた晩年のシッダルタ王子でさえ目を逸らしてしまうような本質的な不幸を体現している人間である。その彼(中略)が、いつものように不幸にさいなまれながらの眠りに就き、ふと翌朝目を覚ますと世の中が一変していたとしよう。そこはまさにユートピアと言っても言葉が足りないほどの素晴らしい世界で、(略)もはやどんな不幸も彼の身に降りかかる事はない。一夜にして彼は地獄から天国へと誰かに連れて行かれたのだった。
 (略)その場合、彼は喜ぶべきなのだろうか。世界が変化したことで、彼は不幸せではなくなった。しかしそれは彼の元いた世界とは微妙な異なる場所であり、何よりもこうなってしまった理由が最大の謎として残されるのだ。」
 
 ここでキョンという主人公は苦悩する。普通の小説の主人公というのも、大体は一応苦悩してみせるのだが、それは大抵作者が意図的にこねくりまわしたものであり、また浅い動機に起因する薄っぺらいものである。そしてそれに程度の浅い読者が共感する事でそうした作品は成り立っているが、ここでのキョンの苦悩はそうした作品の苦悩とは毛色が違っている。彼は今、幸せになれない事を嘆いているのではない。幸せは、平凡は今や彼の身に訪れた。だが、彼は幸福より不幸を望む。何故?。ハルヒが好きだから?。SOS団が好きだから?。それはもちろん、そうだからだろう。だが、よりもっと根本的な次元では、人は幸福よりも不幸を好む生き物だからである。こんな物言いは妙だと思われるかもしれない。だが、これまでの優れた物語が全て悲劇だった事を思い起こすのであれば、僕の言う事にも少しは信憑性が出てくるだろう。現代は平凡で、そしてそれ故幸福な世界である。だが、それに対してハルヒはSOS団を作った。何故?。退屈だから。それ以外に理由はない。そして今やSOS団は失われた。そして、キョンはそれを取り戻す為に走りだしている。何故か?。彼は幸福よりも、不幸を好むからだ。より正確に言えば、彼は一般的幸福よりも、不幸の独自性を尊ぶ。彼はSOS団を取り戻すために走りだす。彼はもちろん、そんな奇妙なサークルなどが、彼にとって何の役にも立たないくだらないものである事を承知である。だが、彼は承知の上でそれをやっているのだ。今の、幸福ばかり求めている一部の人種にはこの事は決して理解できないだろう。人は、幸福より不幸を求めなければならない、そんな「場所」というのがあるのだ。そしてその場所とは今この時である。世界はいつ間にか変質してしまった。キョン一人を残して。世界はいつの間にか、またあの平凡な日常に戻ってしまった。だが、その平凡はキョンにとっては「非ー平凡」である。彼一人にとっては。他の人間にとって日常であるところが、彼にとっては非日常である。キョンにとっての日常は他人にとって非日常である。物語の構造は村上春樹から一段と進んだ。これは、21世紀の僕らにやってきた新しい物語ではないだろうか。


                   二   優れたサブカルチャー作品の構造
 
 最終的にキョンはハルヒを見つけ、そしてこの、いつの間にかずれてしまった世界を修正する事に成功する。そこにはタイムトラベル的な、あるいはSF的なプロットの作り方が在るのだが、しかし、これは重要な事ではない。…今、僕はこの話から少し脱線して、最近の優れたサブカルチャー作品のプロットの作り方、というより世界観の作り方に触れてみよう。うまくいくかは分からないが、とにかくやってみよう。
 この涼宮ハルヒの消失では、主人公を残してその周囲の世界は全て変わってしまった。それはSOS団が消えただけなのだが、しかし誰もSOS団の事を覚えていない。だからそういう意味で、主人公以外の世界は誰かによって改変されたとして想定できる。だから、このキョンの孤立は、世界からの孤立である。戦うのは自分ーーー主人公であり、そして戦う相手は世界である。そしてこの世界観の作り方、つまり、主人公対世界という世界観の作り方は今の優れた(そうでないものもだが)サブカルチャー作品では大抵やっている事だ。例えば、シュタインズ・ゲートというゲーム・アニメ作品がある。この作品も、タイムトラベルの道具立てを使って、主人公を孤立させる。そして、周囲の世界は「正常」にも関わらず、主人公はその「正常」なはずの世界を元に戻すために必死に闘争する。だから、こうした闘争もやはり、世界対主人公という、大きなものと微小なものとの闘いである。

 他に例を上げてもいいのだが、あんまりあげても仕方ないだろう。ここでの重要なポイントは、主人公が世界と戦う事、そして世界は「正常」なのにも関わらず、主人公にとっては異常に感じられるという事にある。例えば魔法少女まどか☆マギカや、ペルソナ3、またはペルソナ4といった作品を思い起こしてみよう。そうした作品ではいずれも、それらの主人公の闘争、世界を元に戻す為の冒険はひと目を忍んだ所で行われている。そして、その闘争が行われている世界は相変わらず、日常的で平和的なのだ。そしてこれらの世界いずれでも、日常や平和の裏側で密かに危機が進んでいる。これらの作品がこういう物語上の枠組みを作るのは僕は偶然ではないと考える。例えば、もっと以前の作品であるならば、冒険や物語をサブカルチャーが作るに際しては、戦場や国家的危機などを物語の設定としてもってくれば良かった。戦争状態に生まれた主人公を想定すれば、簡単に危機が訪れ、そしてそこから闘争、涙、苦悩、愛などの物語に必要なテーマが自動的に生まれてくる。しかし、今や僕達は長い平和と倦怠の時を過ごした。そして、この高度で平和で倦怠している世界の裏では、その悪意が静かに澱のように溜まっていた。そしてそれが例えばオウムサリン事件のような形で突如として噴出したりしてきた。そして今はインターネット上では人間の悪意が一斉に噴き出している。人々はメディアを通じて名の売れている人間をいじめ倒す事をもはや自分達の日課とするにいたっている。このような世界そのものを、おそらくこれら上記のサブカルチャー作品は模倣しているのである。作品の中で戦場を設定にするのは、クリエイターの心象的に不自然に感じられるのだろう。だが、物語を発生させる為には、どうしても何らかの危機が必要だ。だから、この世界は二重にねじれる事になる。一つは日常の世界、そしてもう一つは非日常の世界。そしてこの世界を行き来できるのは主人公(達)だけと想定すると、ようやく現代の社会風俗にフィットした物語が生まれる事になる。おそらく今のクリエイターはここまで意識的に物語を作ってはいない。だが、彼らは現代社会自体をビビッドに感じているからこそ、このような物語の枠組みを生み出したのだ。
 
 また、もう一つだけポイントを言うなら、世界対主人公のような、極大のものと極小のものとの対決にする事が主人公の闘争に、その内在性により深みを与える。あるいは僕達はもう卑小な物語では満足できなくなったかもしれない。例えば、誰か親友を守るための、恋人を守るための、普通の物語には僕達は飽きてしまったのかもしれない。いや、それよりも大切な事はおそらく、僕ら個人の自意識に世界全体が刻印されているということだろう。僕らはメディアを使って世界全土の情報を吸収する事をもはや普通の事としている。今、一人一人の普通の人間の意識はインターネットの回線を通して、世界全土に広がっている。そしてこの個人が発する意見は常に、世界全体に対してのものなのである。こんな事はこれまでのどの時代にもなかったことだ。だから、僕達の自意識ーーーその意識の『肉体』は世界全土を覆っている事になる。だから、僕達のその意識の拡大された領域からすれば、普通の物語はあまりに卑小に見える。だから、普通の物語は差異とか違和を作り出すために極端な暴力性や性的な要素を持ち出したりするが、それは瞬間的な印象で読者をごまかすためのトリックに過ぎない。(ごまかされる者はたくさんいるが。)そして今、この肥大した個人の意識に照応するように、上記の物語の主人公達は世界そのものと闘争する。彼らの一つの判断は常に、世界全体の運命を決めかねない重大な一手なのだ。だから、上記のような作品群の設定はそのような僕達の意識の広がりに対して満足させる事のできる物語である、と言う事ができるだろう。
 だがそれ以上に更に大切なのはーーーその世界の広がりの中で主人公が孤立するという事である。人が、物語に共感する時は、一般的に言って、主人公の孤立に共感するのである。主人公の幸福で楽天的かつ、また世界に溶けている様などは基本的に物語にはそぐわない。主人公は常に何らかの形で孤立し、絶望に落とされ、闘争し、もがかなければならない。だが、このもがく対象は何かというのは問題だ。これもまた、過去の闘争相手はもう存在しないので(戦争は遠い昔になった。親と子の争いなども古いテーマだ。)、だから代わりに、メディアによって一体になった「世界」が現出してきた。これらの作品群で彼らが闘争するのは世界そのもの、あるいは世界を滅亡させようとするものである。そこでは、主人公たちの喜怒哀楽は全て、世界そのものの運命と直結する。そして、それに対して共感する読者というのはつまり、彼らの意識そのものも既にメディアによって「世界化」されていたものなのだ。だからこそ、上記の作品群はそれぞれサブカルチャー作品の中での優れた作品として今大衆にも受けるし、また彼らの心を深くえぐる事が可能なのだ。


                          三   結

 「消失」に戻ろう。消失という作品にも「羊」と同じように出口はこしらえられている。主人公キョンは、最終的にはSOS団を発見し、そしてまた世界を、SOS団がいた元の世界に戻す事に成功する。そしてこの冒険がこの消失の物語である。
 実を言うと、「消失」という作品について僕が言いたい事は、もうほとんど残ってはいない。この作品のラストの方で、キョンは再び、自己問答を繰り返すのだが、それは彼が「幸福を望むのか、あるいは不幸を望むのか」の二択を自分自身につきつける場面となっている。その場面はこんな風になっている。

 「ーーーそんな非日常な学園生活(SOS団での生活ーーヤマダ)を、お前は楽しいと思わなかったのか?」

 そして答えはイエス、である。キョンは自分が本心ではSOS団を取り戻したいと思っていた事を自分に再確認させ、そして世界をまた元に戻す。キョンにとっての、一般的な意味での幸福は不幸であり、また一般的な意味での不幸は幸福である。世界はいつの間にか逆転している。思えば人は、あまりに幸福を、平凡を望み過ぎたのではなかったのか。人はあまりにも、このシステムの中で一つの線路に乗る事を自分達に許し過ぎていたのではないか?。生まれた時から家族に守られ、学校に守られ、会社に守られ、そして目指すべきは「待遇の良い会社」に入り、老後を家族と共に「幸福に暮らす事」である。私達は天才ではなく凡人だから、あくまでもこの世界の意向に沿って幸せになりましょう。私達は天才ではないから、危険を冒したり、何か難しい事を考えたり、何かに挑戦する必要はない。リスクを負いたくはない…。年金が払われ、保険が設定され、社会システムは整備され、雨の下には必ず屋根がある。世界とはいつの間にか整備された一つの自動運転機械となっていた。自分の足で歩くよりも、この世界の整備されたマシーンに乗っていった方が楽である。その方が遠くまで行けるし…。だが、そうだろうか?。何故、キョンは、SOS団などという奇妙な人々と一緒にいる事を望んだのか?。おそらく僕は誇張しすぎているだろうが、しかし、キョンの自分への問いと、それに対する自分への回答は、世界のこのような状況を背景としている。もし、不幸こそが自分の望む事であれば、どうしてそれを望んでいけない理由があるだろう?。世界が平凡の別名ならば、愚かになる事、失敗する事も厭わずに、何か凡庸でないものを目指して何が悪いのだろうか?。
 そしてキョンは世界を元に戻し、そしてまた彼は元の世界に戻ってくる。世界は平静であり、そしてそこにはいつもと変わらないSOS団がある。そして、このキョンの冒険を知っているのは、この世界改変の事件そのものと密接な関わりを持つある人物だけだ。その人物がこの世界改変を起こしたのだが、しかし、それ以外の人間は誰もこの事を知りはしない。キョンは異界から帰ってきた。だが、その異界とは僕達にとっての「日常」、あるいは「普通の世界」なのだ。おそらく、僕らの日常はいつの間にか、異界になっていたのだろうーー。そしてキョンの物語はここで終わる。この物語は村上春樹の「羊をめぐる冒険」以来の重要な物語であり、21世紀の日本に住む僕達にとっては必要な物語だ。物語の構造は村上春樹以来、一段進行し、そしてそこで、日常と非日常の意味は改変された。まるで、この世界そのものの意味が、作品の中ではあべこべになっているように。世界はいつの間にか変質しており、そしてその事をこの作品は的確にとらえている。僕はおそらく、この作品の意義を必要以上に強調しているだろうが、しかしそれも批評の一種だと思っている。僕がこの作品に対して言いたい事はこれで終える。それでは。


パスカルのように

現在、世界ではナショナリズムが高揚し始めている。これは日本だけのことではなくて、世界全体の傾向と言えると思う。これを単純に解析するなら、人々は余りに長い間、平和と倦怠の世界にいたので、今、彼らは暴力と血を求めているのだと言える。そして流される血は自分のものより他人のものの方がいいので、彼らは実に様々な理屈をでっち上げて、そうして暴力をふるおうとする。常識人が急に見せるあの狂気、顔を真っ赤にして一つのイデーを叫ぶあの狂気とは何なのか、と僕はいぶかる。だが、その常識人には彼ら自身の普段の生活と自分の主張との間には何らの矛盾を感じてはいない。それは何故かというと、常識というのはなんでも飲み込む自分勝手な理屈だからだ。自分勝手な理屈も多数派になると正義に成り、大義名分を背負う。いつの時代にもそうだった。

ではこういう世界に対して、個人はどう対処すればいいかと考えると、僕にはその答えが分からない。例えば、この腐った世界は僕に次のように迫る。
「お前にこのピストルを渡すから、この眼の前の糞野郎を撃ち殺せ。もし撃ち殺せないなら、お前をそのピストルで撃ち殺す」
これが今の正義派達の最終的にやりたいことである。彼らが今一番望んでいる事は、こういう事を一人一人の個人につきつけることである。ではさて、僕はどちらを選べばいいか。自分が殺される方か、それとも目の前の糞じゃない人間を殺す方か。実はこれはどっちを選んでも最悪の結末である。どっちを選んでも最悪だが、世界はそこにあたかも「僕」という人間が主体的に決断させたかのような見かけを装わせる。だからこれは本当に最悪の事だ。

なので、僕はこの世界に対してどう抵抗すればいいのか分からない。僕にとって今、この世界に対する抵抗は、この世界について思考するという事である。パスカルの考えたように、「宇宙は私を物理的に包み込むが、私は考える事によって宇宙を包む」。僕もパスカルのように考えたいものだ。そうすれば、僕の思考はこの世界を包み込むだろう。この世界全体に溶けている常識的狂人達やら何やらを全て包み込みながら。

外科医より君へ

 外科医より君へ




「多分、君は僕の事を知っているだろうし、僕も君を知っているだろう。君の周囲で一番暗い顔をしているのが僕だし、僕の周囲で一番悲しい顔をしているのが君だ。僕達は互いを知っている。でも、一度も話した事はない。
 今日は胸襟を開いて語り合おうか。僕は知っているんだ。君は、僕の言葉を魔術にでもかかるようにして『聞かざるをえない』という事が。僕は君の事をよく知っている。君は孤独だ。君はとても孤独な存在だ。だが、君はある点から、皆のように孤独をごまかす事に疲れてしまった。君は皆の元に飲みに行くのもいつからかやめてしまった。君はもうどうしてか、君の友人と語り合うのを好まなくなったし、それに君は君の恋人とももう別れてしまった。何故かというと、君にはその人達が、君自身の存在とはまるで関係のない事について話したり喋ったりしているように感じられたからだ。君は恋人と抱き合っていても、そこに君の存在はなかった。君はいつの間にか、一人で寂しがる方が寂しさを紛らわせようとするより楽だという事に気づいた。だから今君は、部屋で一人パソコンに向かって、この僕の言葉を聞いている。 
 そうだろう?。 
 君は僕に対しては、何一つ隠す事はない。君は僕には何一つ嘘をつく必要はない。君が今必要なのは、真実だ。君は病人が特効薬を求めるようにして真実をもとめている。だが、そんな君に真実を処方してくれる医者はこの世のどこにもいない。君はそういえば、読書家だったね。君はブッダにも手を出した。聖書にも、論語に手を出した。ドストエフスキーと夏目漱石を同時進行で読んだ事もある。そして君は現代人の御多分にもれず、ビジネス本や啓発本をやたらに読み散らした。それでも君は君自身の魂を救う事はできなかった。君の後ろには沢山の読みかけの書物があるが、それは君にとってただの塵に過ぎなかった。そして今君は、僕のこの言葉を聞いている。そうだろう?。
 思えば、君は色々な事に手を出したね。多分、君は何かを求めていたんだろう。あの日、君は急に思い立って小説を書き始めたが、それは一週間と続かなかった。君は健康食品に手を出し、女にもてる為の服装を雑誌を見ながら思案したり、大学で皆との差をつけるために奇抜な服装をしていった事もある。君は友人との待ち合わせにはいつも、友人に白い目で見られないように二十分前には待ち合わせ場所につくようにしていた。だけど君は友人達が来ると、いつも、さも「今さっき丁度ついたところ」という振りをしていた。そうだね。それは間違いないだろう?。
 君はバンドを組もうとした時もある。君はビートルズやクイーンに憧れて、ジョン・レノンモデルのギターをローンで買うか真剣に悩んだ事がある。でもその構想はすぐに流れてしまった。君はFコードも弾けないまま、音楽をやめた。いや、君はFをぎりぎり弾けただろうか?。あるいは君はスポーツジムに通っていた時もある。あれは三ヶ月続いた。君にしてはよくもったほうだ。それに君は写真を取る事を思いついて、デジカメを買った事もある。君がアマゾンで購入し、そして今タンスの肥やしになっているあれだ。それに君は運転免許を取って、女の子を車に乗せてドライブしようとした事もある。でも、君の車にはどんな女の子も乗りはしなかった。君が教官の偉そうな態度に憤慨して、講習を受けるのを拒否したからだ。それから君は車の事は考えていない。
 もちろん、君は株に手を出した事があり、FXで五万円ほど損した事もある。あの時、君は熱くなってすぐにその倍額つぎ込もうとしたが、しかし、心ある先輩が君を止めた事によって、五万円の損で済んだ。もっとも、その後、君は強がっていたがね。「あの時、続けていれば多分勝てた」。君の言葉には「多分」がとても多いね。君はいつも、満たされない気持ちでいて、そして突発的に何かを思いついて色々してきたが、しかしそれが長く続いた事がない。それが君だ。
 そして気づけば、君はもう三十才を越えている。あるいは君は今年で三十だったかな。もう二十代のようにはしゃぎまわってもいられない。君は何かをしなければならない。だが、君は何をすればいいのかわからない。君には知識があるし、頭も悪くない。職場では邪魔者じゃないし、どちらかといえば切れ者のほうだ。仕事はそこそこできるし、できない奴には腹が立つ。でも、君はそれだけだ。君はもう三十だ。君は今、焦っている。そして自分を振り返って、君は少しだけぞっとする。君は眠る前には、天井のシミだけは見ないようにする。あれを見ると、何かしら子供の頃の悪い記憶が蘇ってくる気がするからだ。だから君はかすかに明かりをつけたまま眠る。そして翌朝が来る。全ては何も変わっていない。そして君だけが少しずつ年を取っている。少しずつ、少しずつ。君は急に結婚を考える。結婚相手もいないのに。結婚して、綺麗な奥さんがいれば、君は幸せになれるような気がする。でも、夫として、父としての君自身を想像する事はできない。君はただ、結婚というものをなんとなく考えてみたに過ぎない。今の境遇を救う何か、救世主的な、突発的な事態として。君は、たった五日間で書き上げた原稿用紙五十枚強の小説を新人賞に送った事があったね。あれは壊滅的にひどい出来だった。出した後に、君はひどく後悔したほどだ。でも、その事を君はあっさりと忘れてしまった。
 君の三十年近くの人生というのは確かこういうものだったね。僕が君の代わりにざっと振り返ってみたよ。ハハハ、どうだい。君は自分で自分を振り返ってどう思うんだい?。惨めだと思うかい?。いや、そうは思わないかな。君はどうやら、最近怒りっぽくなったようだね。昔、君は軽蔑してたものだよ。自分のツイッターにグチグチと、まるで自分自身の人生とは関係のない政治事や時事ニュースについてがみがみと書き立てている愚か者達を。君は、どうしてあんな事をわざわざネット上に書くのか、不思議だった。君は駅前で声張り上げて、ビラを配っている右翼だの左翼だの、あるいは宗教団体やらに軽蔑的な目線を送りつつ、その横を通ったものだった。でも、今君はその満たされない思いから、自分の叫びを制御しきれなくなり始めている。君はこの前、自分にはまるで関係のないAKBの悪口をぐじぐじと書いたね。君はそれを長々と書いた。じゃあ、今僕は聞くけど、君はそれを書いて少しはスッキリしたかね?。ハハハ、どうだ。君は自分がそんな事を書いて、本当にすっきりとしたのかい?。…本当の事を言おう。君はあれを書いた後、以前よりももっと惨めな気持ちになった。自分のみすぼらしさが明らかになった。君は、画面の奥の華やかな人達をモデルにして、そしてその姿と自分とを比べて、そうして三十越してもまだ何者でもない自分を疎ましく思った。そうだろう?。でも、君はその自分の感情からも逃げ出した。全く、君はいつも逃げ出してばかりだね。君はこれまでずっとそうやって、自分から逃げ出してきた。自分から逃げ、他人からも逃げ、そうして今世界からも逃げ出そうとしている。君の顔は次第に険しく、鋭くなりはじめ、その言葉はギスギスとし始めてきた。君は満たされいない思いのまま二十代を終え、そしてその気持ちを三十代に持ち越した。そしてその解決法は未だに、全然見つかっていない。君は、もう気づいているだろう?。僕は親切心から君に先に言っておくけど、君がこれからまた、これまでの君と同様に、突発的に君を救ってくれるはずのの何かに手を出したり、またそれによって自分を救おうとしてもそれは無駄な事だ。何かをするっていうのは地味な手作業の連続で、君のように飽きっぽい人間には無理な事なんだ。そして君は自分ができないのを『才能』のせいにする。全く、いい気なもんだ。君は全部から逃げ出して、そしてその挙句、『才能』などという言葉の内に逃げ出す。全く、君はどこまで逃げたら気が済むんだろう?。僕には君の姿がよく見えるよ。君が墓に入ってもまだぐじぐじと言い訳して、そうして今度は自分の白骨から逃げ出そうとする、その姿をね。なあ、君。それが今の君、そして将来の君だよ。君はそんな君の姿を見てどう思うかな?。ネットで『底辺、底辺』と書き散らして他人をいくら蔑んでも、君は君から逃げる事はできない。君はそろそろ、もうそろそろ、その事を知るべきだろう。君はもう三十だ。今だったらまだやり直せるかもしれない。
 さて、僕はこんなくだらないおしゃべりはもうやめるかな。君は僕のこの言葉を読んで不快になったかな?。もし不快になったのなら、多分、僕の言葉が当たってたんだろう?。なあ、君はどう思う?。君自身の事について。君はたまには手の平でも眺めて、そうして自分に思いを馳せるべきだ。君は孤独だが、それから逃げ出す事は許されない。君はどうしてこれまで、こんなに自分を蔑ろにしてきたんだろう?。どうだろうね。
 さて、では僕はそろそろ行こうか?。僕?。僕はまあ、通りすがりの『勝ち組』の一人でね。僕は年収千二百万円の外科医でね。外科医はイケメンでなくてもモテる、って話があるけど、あれは本当でね。僕は二つ年下の妻がいるけど、七つ下の看護婦と不倫している。この看護婦は目がくりっとしててね、可愛いんだぜ。ま、あれは整形だけどね。その辺り、僕も医者だから見たら分かるさ。さて、と。
 さて、この僕の自己紹介が本当か嘘かはもう君にも分かっているだろう。まあ、君は画面の前でせいぜい一人でオナニーするこったな。悔しいか?。悔しかったら……その原因は君の外部にあるのではなく、自分の中にある事を知る事だ。まず、君のやらなければいけない事はそれだ。そして、全てはそれからだ。まずはそれだけ。まずはじめにやるべき事はそれだけ。何かに救いを求める事じゃない。救いがない事を自覚する事。自分の存在を直感する。まずは、それなんだ。僕達が本当にすべき、最初の事は。
 ところで、僕は一度もメスを握った事がなくてね。白衣も着た事はない。でも、一度もメスを握った事もなく、一度も白衣を着た事がない年収千二百万円の外科医もこの世のどこかにいるかもしれない。君はどう思う?。
 これは、宿題さ。来週までのね。
 それでは、さよなら。また君と会える日が来るといいね。その時には君が見違えている事を、僕は切に熱望するよ。まあ、多分、変わんないだろうけどさ。多分、ね。
 それでは、また。」

小説家志望の為の小説論


 小説志望者の為の小説論

                             一


 その昔、小林秀雄が当時の新人小説家達に向かって次のように罵倒していた。「諸君はどういう事を思って小説などというものをこねくり回しているのだ。私は知っている。私の評論は難しい。だが、バルザックの小説は私の評論より百倍難しいのだ」。大体、以上のような事を言っていた。今の小説家(プロでも素人でも)がこの小林の評論を読んではっとして襟を正す、という事は多分全然ないのだろう。だが、依然として小林秀雄が言った問題は続いていると僕は考えている。「どいつもこいつも通俗小説しか書いてねえじゃねえか」とも小林秀雄は言っていた。それは今でもそうであり、芥川賞を取った作品も直木賞を取った作品も、また今ある小説の大半が通俗小説だと言う事は可能だろう。彼らは人生を知り、そして「小説の書き方」を知っている。だが、彼らは人間を知らず、自分を知らない。バルザックの目に映ったのは当時のフランスの現状だろうし、ドストエフスキーがその言葉の世界で闘争したのは当時の社会現実だった。闘争?。だが、闘争という言葉は今の小説とは全然程遠いように思える。例えば、最近の綿矢りさに世界とのどのような闘争が見られるだろうか。僕は中村航という作家の「ぐるぐるまわるすべり台」という作品が好きだったが、彼はやがて通常の通俗的な物語を描くようになった。多分、彼は作家としての腕は伸びていると思っているのだろうが、僕はそれとは逆の事を考えている。クオリティや技術などというものは今は大抵、枠にとらえられた考え方である。ドストエフスキーの作品の進歩はその思想の進歩と共にあった。それは彼の、深い社会洞察と自己洞察の賜物だった。だが、僕達は当時のロシアの現実を忘れてドストエフスキーの作品を楽しむ。そして書く段になると、その外面的なプロットやら「文体」やらを真似るが、そうやってできた作品はドストエフスキーとは似ても似つかない。ただ単に主人公に人を殺させて、そしてその主人公を懊悩させて最後に警察署に出頭させたとしても、それは「罪と罰」とは全然似ていない。もしそういう事がしたければ、僕らは「何故、ラスコーリニコフは人を殺さざるを得なかったか?」という問いを発しなければならない。そしてこの問いの答えは容易には見つかりそうにないし、これに対する確定した答えを見出した人間は未だいないと言ってもいいのかもしれない。小説の問題の根というのはどこでも極めて深いものだが、これを浅い所で切り取るのも、深くまで沈潜するのも人の勝手である。そして当然浅い所にとどまるほうが断然楽だ。

 
                             二


 小説というものは一般に登場人物がいて、そして物語があると考えられている。人はまずプロットから書くかもしれない。あるいは登場人物を想像する事から始めるかもしれない。そして書き始めの人間は、小説などというものは自由自在に書く事ができるような気がする。なぜなら小説は言葉でできているし、音楽のような専門的知識もいらない(ように見える)し、それにその言葉は僕らが普段使っている言葉であるから、既知のものに感じるだからだ。こうしてこの人物は小説を書き始めるが、しかし、事はそうはうまくいかない。…あるいは、事はうまくいくのかもしれないが、うまくいった所で同じ事だと思っている。僕が面白くない、というよりほとんど全く読む事ができない小説というのは登場人物がぺらぺらした紙のような人物で、そしてそこに一切の内面が存在しない小説である。だが、そういう小説でもヒット作とかベストセラーになる事は可能なので、話はややこしくなる。登場人物がぺらぺらなのに何故ベストセラーになるかというと、その紙のような登場人物の作者の動かし方が巧いから、だと言えるかもしれない。そしてこの事実はおそらく、僕ら自身が薄っぺらい人物だという事と対応している。こんな事を言うと怒られるかもしれないが、しかし、人間の内面の複雑さというのは、一つの穴のようなものである。ある人の言葉の響きが二重の響きを持つのは、その人間の内面と外面が分裂しているからといえる。ところで、ドストエフスキーとシェイクスピアは両者異なったやり方で登場人物を二重の、矛盾した存在にした。彼らの登場人物はそれぞれ、外面と内面に完全に分裂していて、それは普通の人間にはありえない事だが、しかし普通の人間の「奥底」にあるものである。そして彼ら二人の天才作家は、人間の自然さをも蹴りだして人間の真実を追求する事に腐心した。その結果があのような登場人物のスタイルになったのだと僕は理解している。ドストエフスキーは自分を写実派だと言っていた。この言葉の意味がわかる人はそれほど多くはないだろう。
 
 では逆に芥川賞系の、純文学はどうかというと、これによく見られるのは作者と主人公の情念が同一化しているという事にある。これは吉本隆明が指摘していたと思う。例えば、ある女主人公が旦那の不倫に悩み、復讐する、という作品があるとしよう。するとこの場合、この書き手が優れた書き手でないと、この女主人公と作者の感じ方、考え方が同一のものになってしまう。こういう作品では、主人公が痛みを感じる場面で作者も痛みを感じ、そして主人公が喜ぶ場面で作者も喜ぶ。それは全ての小説がそうではないか、と言われるかもしれないが、そうではない。例えば太宰治の「人間失格」という作品を見てみればいい。ここでは、作者=葉蔵、と考える事も可能だし、またそう思わせる事が作者の目的のようにも見える。だが、この作品の最後ではこの主人公の葉蔵を知るバーのマダムが次のように言う。

 「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」

 この最後の一言は印象的である。いわばこの最後の一言で作者は葉蔵を救っているのだが、しかしそれは単に作者が救いたいからそう書いたのではない。この最後の台詞は、作品内で語られた葉蔵の自己認識とは真反対の言葉である。この言葉は葉蔵自身の自分に対する見方とは全く逆の言葉である。しかも、バーのマダムは葉蔵をよく知っている人物であり、彼に迷惑をかけられた人物でもある。この時、実は作者は知っていたのだった。つまり葉蔵は自分で自分を見る時、そこに堕落した人物を見ていたのだが、その自分が堕落していると感じているその視線を見るもう一つの視線(マダム)は、葉蔵の事を「神様みたいないい子」だと認識しているという事を。ここでは自己認識に対してもう一つ、他者認識がかぶさってきて複雑な色合いを持っている。こういう事を作者が書けたのは彼が自己を客観視していたからだった。「自己の客観視など自分もできている!」という声もあるかもしれない。だが、僕が言いたいのは、自己の客観視とは他人の視線を気にしているという事ではない。それは自分で自分を見るのとはもう一つ違った視線が、自分の視線と並列に存在しているという事を知る事なのだ。あなたは自分を認識しはするだろう。そしてあなたは他人を認識するだろう。だが、あなたはあなたを認識する他人を認識はしないだろうし、あなた自身を認識しているその自分を認識する他人を想像する事ができないだろう。太宰治のような優れた作家にとってはある意味では、他人も自分と同一の次元にいたと考える事ができる。彼が自分の事ばかり書き、私小説の延長のような作家に思われていたとしても、彼はその自己をいつも二重に客観化していたのだった。彼は自分をまずフィクション化してから、自分を書き始めたのだ。だが、今小説家志望者が自分を書くと、そのまま書いてしまうだろう。というより、今の賞を取った作家なども、その大半がそのように書いているように僕には思われる。そこで実際と変わっているのは単に、年齢、性別、地位などの外面的な装飾のみで、その内面性に変更なはい。ところでバルザックは人間を自由奔放に書いてしかもなお自分を失わなかった。では、彼はどのような人物だったのか?。この問いはおそらく、極めて難解で深いものであり、そしてこの問いは小説というのは自由に自分の手の平で登場人物を転がす遊戯だと考えている人間の思考からは一番遠いものなのだ。僕はそう思う。


                              三

 エンターテイメント系の小説と純文学系の小説について簡単に触れてみたが、この二つの問題を今自分なりにまとめてみよう。僕はこの二つの小説の系列で起こっている事は結局同じ事だと思っている。そして、どちらの系統にせよ、優れた書き手だけがその系統とは独立している。優れた書き手はその系統の色を帯びながら、しかしなおかつ独立している。しかし、僕はこの二つで起こっている事が何なのかについて書いてみよう。優れた書き手についてはまた別の機会に個別に書いた方が良いだろう。
 この二つをまとめると僕は言ったが、結局、この二つで起こっている事は僕には同一の現象のように見える。そしてそれは二つの事実に分裂する。つまり①登場人物が薄っぺらでその関係だけが複雑なエンターテイメント小説、②作者と主人公が内面的に合致してしまっている単次元的な純文学小説。そしてこの二つの事実は一つの真理に還元する事ができそうだ。それはつまり、作者が自分の感情や情念を客観視できていない、という事である。普通、良い小説では登場人物が生き生きとして、それらは皆固有の内面を持っているように見えるが、彼らに自由な言動や行動を許すには、作者は一つの視線であり、一つの理性であらなければならない。登場人物達が自由にその内面を発露させる為には、その間は作者自身は自分の内面を封じなければならないが、これは簡単なようでいて簡単ではない。小説の登場人物が自由に自分を発現できるのは、いわば作者が自分自身を虚無として、そしてそこにイタコ的に他人の姿を降臨させるからだとも言える。この時、作者は自分を空にしなければならない。そして、この時、作者自身は無に近い存在なのだが、しかしその無は様々な登場人物という有を包含できる無なのだ。普通の小説では登場人物が沢山出てきても、それらは単一の内面と単一の言動しか行わない。この人物が「そこの醤油とって」と言ったら、それは文字通り「醤油をとってほしい」という意味であり、それ以上ではない。主人公が恋人を失って涙を流すとする。するとこの涙は一次元的なものであり、複雑な主人公の内面を経てきたものではない。ドストエフスキーの作品では、登場人物達は全て二重に存在していて、彼らは外面的なものと内面的なものを取り違え、矛盾し、過ちを犯すのだが、それ故に彼らは生きている。彼らは、僕らの世界の現実の人物よりも遥かに生き生きと自分を生き抜いているのだ。だが、作者の感情=主人公の感情のような純文学作品ではもうむしろ、登場人物は存在しない。それは事実上、よくできたエッセイであり、それ以上ではない。太宰の作品もまるでエッセイのように見える小説があるが、彼の場合、むしろエッセイさえも小説だったという方が的確だろう。彼の自身のフィクション化はそこまで進んでいた。これは厄介な問題だ。
 現行の小説は実に多岐に渡っている。それらは無数の分野があり、無数の書き手があり、そして無数の技巧があるだろう。だが、その本質を、作者の内心の深さとその客観化という事実に還元して考えれば、それは単一の事象として考える事が可能だろう。今の小説の様々な色合いというのはどれも、あくまでもバラエティーの違いであり、扇形に広がっているその横軸の違いであって、その縦軸ーーー深さの問題ではない。深さというのは、我々がもう一つの内面を有するという事であり、いわば、この現実に生活している自分とは違うもう一人の自分を持つという事なのだ。そうでなければ自分を客観化できないし、自分が客観化出来なければ他人が客観化できるわけがない。客観とは他人を外面的に描く事ではなく、他者の内面と自分の内面を並置して考える事である。そしてこの事は難しい。誰だって我が身は可愛いし、他人の内面を自分のそれとは同一に考えたくないからだ。しかし、この事を考えられなければ(少なくとも感じなければ)、僕らが本当に優れた小説を書ける日は永遠にやってこないだろう。今、人々の耳目を騒がしている小説というのは大抵薄っぺらだが、それは僕達自身が薄っぺらだからそれで満足するという事情があると僕は考えている。人は褒めたりけなしたりするが、その実、そんなものに大した興味はないのだ。だから一ヶ月もすればすぐその事を忘れる。そして自分の人生も、世界にとってはそのように興味のないものとして忘れ去られていくとどうして言えないわけがあるだろう?。小説の問題は現実の問題とつながり、そして自分自身の内面と外面の問題につながる。それは僕にとっては当たり前だが、しかし世間では「努力」や「才能」などのいい加減な用語がうろついている。だが、小説において一番重要なのは、自己認識と他者認識が同一になる点を発見する事である。そしてその点が発見できれば、その点から逆に登場人物を自由に生み出す事ができ、なおかつその登場人物は薄っぺらでもなく、作者とイコールでもないだろう。僕が重要だと思うのはそういうことだ。そしてそれには人間的努力を要する。重要なのは小手先の技術ではなく、人としてのあり方であり、また自己認識、自己意識、あるいは自己否定と他者肯定(あるいはその逆)なのだ。少なくとも、僕はそう考えている。
 今の小説というの多岐に渡り、その振り幅は怖ろしく広いので、自分なりに小説というものをまとめる為に以上のような文を書いた。もしこれが僕以外の誰かに役に立てば幸いである。

世界雑感3

                               3

 少し視点を変えてみよう。例えば、こういう問いがあるとする。「どうして僕達はこうも惨めなのだろう?」「どうしてこうも僕達は不幸なのだろう?」。
 僕らは歴史的に見れば、おそらくもっとも恵まれた時代に生きているに違いない。僕達は夏場でも冬場でも常に温度調節された空間にいて、しかも自分の食べたいものなら大体食べれるし、それに自分の欲しい趣味のものを望むがままに買う事ができる。「いや、自分は金がないからそうはできない!。困っているんだ!」と言う人がいるかもしれないが、しかし、その人は本当にその物を欲しているのだろうか?、というのが僕の最近の疑問だ。「三十万円以下のギターはゴミ」みたいな意見がネット上では訳知り顔で語られたりするが、ではその人間がその高価なギターで人を感動させた事があるのかどうかは不明だ。そもそもその人は音楽の目的を何だと思ってるのだろう?。自分自身に内的なものが欠けている所に、外的なものへの希求が現れる。重要なのは自分の技術であり、演奏力、いやそれ以上に重要なのは音楽によって伝える何かなのだが、しかしそういう内的なものは全然わからないので、思考は物へと流れる。くだらない人間も金ピカの服を身に着けていれば、さぞ立派に見えるだろう。しかし、それを『立派』と見るのはこの世のくだらない人間に限るのだ。
 例えば、そのように僕達が様々なものを渇望して、そしてそれが手に入らない故に失望や絶望に陥るとしても、それは僕達の内部にあるものが原因ではない。僕達はおそらく知らなければならない。自分達の欲望が外部から形作られているという事を。そして、訳知り顔の人間は自分を知る事がもっとも少なく、そして自分の外部を知る事がもっとも多い。彼らは存在しない自己を形作ろうと他を求めるが、しかしその他は所詮「他」でしかない。だから彼らは結局、より深い絶望に落ちていく。 
 例えば、タレントの結婚ーーー離婚などは、最初、恋愛やら結婚やらに勝手な希望と夢を詰め込んで結婚したものの、実際は夢の通りではないので離婚していくというパターンがあるように見られる。しかしそれはタレントにも限っていず、僕ら自身がそうだろう。就職や結婚に過剰な夢を詰め込むと、必ずその現実とのギャップに裏切られる事になる。そしてこの裏切られた人間というのは大体において、その事自体から学ぼうとせず、また別の夢を見ようとする。だがその夢はその人が作り出したイマジネーションではなく、ただ単に世界が、その目的のために用意しておいた一つの夢に過ぎない。そしてこうして時は流れていく。この人物は人生の中で次第に自分が、世界という名の一種の詐欺師に騙されていたという事に気付くだろう。夢を見ていたのは君ではなく、君の外部にあるものだった。君は、結婚したら幸せになれると思っていた。勉強すれば人生がうまくいくと思っていた。だが、実際はそうではなかった。もちろん、君は自分が幸せだと、あるいは自分は「勝ち組だ」と自分と他人に言い聞かせるように叫び続ける事はできる。そして事実そうしている人間はたくさんいる。だが、この現実とは常に小心翼翼たるものであり、地続きの地味な作業の連続にほかならない。人生のどこにも華やかなものは存在せず、それがあるのは画面の中だけだ。だが、画面の中を見るのに馴れた人間は画面外にもそれを見ようとする。だが、そんなものは存在しないのでこの人間は地面へと落下していく。君は、人生というものを履き違えたのだ。人生というのはどうあがいてもくだらない、小さな事の連続なのだ。いきなり大きな華やかなものに飛びつく事はできない。だが、それがそう見えるようにする装置は無数にある。だから、君はその装置が作った世界を現実だと思い込んでしまったのだ。だが、もう時は流れた。君はもうやり直す事はできない。君は世界に恨みつらみを述べながら死んでいく。だが、それもいいだろう。もし、君が今、世界に騙されていたという事に気付くことができたとしたら、君はそれだけでも幸せな人間だ。何せ、自分が騙されている事に気づかず死んでいく人間がこの世界にはわんさかいるからだ。だから、君は知らなければならない。この世界に呪詛する事ができるというのも、君が今になってようやく世界から勝ち取った一つの権利だという事を。君は、幸せだ。僕の言い方は皮肉めいているだろうか?。
 この世界は僕達に夢を見せるための様々な装置を開発した。様々なメディアを通じて。僕らが皆、こんなにも不幸なのはおそらく、僕らには幸福のモデルが余りにも確定した姿でそこに見えるからだ。だから、僕達はその一般モデル目指して走って行くが、当然、その過程で挫折せざるを得ない。僕達は世界が作ったシステムーーーその幻想の只中にあって、そこから逃れられないでいる。僕は言おう。例えば、今、目の前の君はーーー僕の文章を読んで、次のように思うかもしれない。「ふうん。なかなか面白い分析じゃないか」。あるいは「何言ってるか、わかんねえよ。死ね」。だが、そのどちらも似たような態度だと僕は思う。僕は君が僕に対して肯定的であるか、否定的であるか、そんな事を問題にしているのではない。僕が今問題にしているのは、今、君が肯定するとか否定するとかいうその判断基準そのものが世界から押し着せられた借り物の判断基準に過ぎないという事を言いたいのだ。おそらく、この画面の前の君は僕より遥かに賢いだろう。君は僕より遥かに知識があるだろう。だが、その全ては借り物の、誰か他人の脳髄であり、君自身が考えた事ではないだろう。君はインターネットを見て、興味あるものを発見し、それをしゃぶりつくすかもしれない。そして君は僕に向かって、「今、これがおもしろい。これやらなきゃ人生損だ」と言うかもしれない。「〇〇しなきゃ、人生は損だ」という言い草はよくあるものだが、そもそもその人生は君のものではない。他人の人生を浪費しようと貯蓄しようと同じ事だ。君はジャニーズを食い入るように見たその後に、「どうして自分の周囲にはジャニーズみたいにかっこいい男子がいないのだろう?」と訝るかもしれない。だが、ジャニーズは画面の中の存在である。君は君の視点が既に一つのカメラになっている事にどうして気付く事ができなのだろう?。僕はその事を不思議に思う。恋愛上手だか何だか知らないが、「男を上手に取り扱う方法」をしたり顔で語る女が出てくる。もてたり、金持ちになるための方法論をひっさげた男が出てくる。そして、その全てはこの世界によって方法論化されたものをなぞっているに過ぎない。誕生日に彼女(彼氏)をAというレストランに連れて行くか、Bというレストランに連れて行くのかが真剣に討論される。そしてそれはまるでこの世の一番大切な問題であるように語られる。結構な事だと思う。それがおそらく、この世界の終局の問題に違いない。人間というのはこのような崇高な問題を討論するまでに素晴らしい存在になったのだ。立派な事だ。だから、この様を今の小説というのは模倣する。模倣した小説はどうなるか。その小説の中でその男女は、現実の男女のように味気なく空虚だが、その事だけは作者は知らない。そしてその登場人物達はまるで、皆取替え可能な人物のように僕には見える。彼氏Aと元彼Bを交換しても何ら問題はない。そんな事に葛藤は起こるはずはないのに、一応小説の形にしなければならないので主人公は葛藤してみせたりする。素晴らしいなと僕は思う。これらの登場人物は皆、記号的である。内容はないが、その関係だけは複雑だ。今、やたらと孤独が「ぼっち」と言って否定され、人間関係を結ぶ事が重要視されるのもそのためだろう。つまり、内容などというものは空なので、あとに残るのはその関係性だけなのだ。思えば、構造主義哲学もそのようなスタイルになっている。中身はない。関係だけがある。だから全ては数学的ーーー。あらゆる事はそれぞれを模倣するのかもしれない。そして世界は、世界自身が作った映像を模倣するのかもしれない。そして僕達は何かによって模倣された存在なのかもしれない。だが、僕達はまるで自分がオリジナルであるかのような表情を浮かべている。そして、自分達がオリジナルだと信じこまされる事も世界のプログラムの内に入っている。僕は街の真ん中でふとこの世界全部を見渡し、いつの間にこの世界がこんな風になったかを訝る。だが、間違っているのは僕の方なのだ。僕はその事を知っている。だから、僕は暗い顔で街を横断する。あるいは世界を横断する。あるいは宇宙を横断する。
 だから、君が僕に語りかけても、僕はそこにはいない。…おそらく、ある日君が鏡をのぞき込むと、そこに自分自身がいない事を発見するだろう。君は白髪になり、そうして顔に入った皺を見て、その皺と白髪の中に、君という存在が作り出したものが一ミリたりとも混入していない事に気付くだろう。多分、君は生まれた時から君ではなかったのだ。そして君は君でなくなるために、その生涯を走り抜けたのだ。君は本当によくやったし、努力した。結婚もし、育児もした。しかし、君はいつしか、自分の妻に対しても自分の子供に対しても、マニュアルを見ないと接する事ができないようになっていた。そしていつの間にか君はマニュアルそのものになっていのだ。君はすぐに怒り、怒鳴り、正論を吐くが、そこに君の存在はなかった。君は誰だったのだ?。僕は問う。君は誰だ?。
 …とはいえ、僕にはやる事がないので今日も番茶をすする。君がこの小文を読んでどう思うかは君の自由だ。君はおそらく、この文章を読むと(君のようなタイプは決してこのような文章を読みはしないだろうが)、次のように思うだろう。「くだらない事書きやがって。俺は俺なんだ」。そして君はスーツを着て、またいつもの会社に出勤するだろう。そしてその後姿を僕は見守るだろう。そして僕は君の背中に、何か得体のしれない不吉なものを見つけるだろう。おそらくそれは、僕にしか見えない、君がいつの日にか捨ててしまった君という存在そのものなのだ。君の存在は君に復讐するだろう。それは時間と共に復讐するだろう。そして、その行為は、この世界のどんなマニュアルを集めても、妨害できないものなのだ。結局、人は自分からは逃げられない。どこへ行こうと、自分自身からは逃れられない。だから今日、君は鏡をのぞいて自分の不在を発見するだろう。そして、その事に気づいた時、君はーーー。
 さて、僕はここでこの文章を終えよう。実は僕には行く所があってね。これから彼女を都内の高級レストランに連れて行かなくてはならないんだ。そこは半年先の予約が埋まっているような店でね。実は僕はその経営者と知り合いなので、それでそこをよく使わせてもらっているのだよ。多分、君のような貧乏人には無理な事だろうがね。ハハハ。僕はね、現実生活を楽しんでいるんだよ。やっぱりね、これは真実だけど、金と女がない人生はクソみたいな人生だしね。皆、ごまかしているけどさ、ハハハ。それでは、また。君が僕をどこかで見かけたら、話しかけてくれてもいいよ。僕は気さくに応じるだろう。だって、それは僕じゃないのだから。自分じゃないものなんて、僕にはどうだっていいんだから。それではまた。僕はこれから出かけるんでね。僕の彼女はとても可愛いんだよ。そして、僕の事をとても愛してくれている。とてもね。それでは、君。また。ハハハ。

世界雑感2

                               2

 例えば、2chの書き込みを見ると、そこにはいつもの2ch的なだらだらとした書き込みがある。そしてこれらの人は、大抵、自分の事を大した聖人だとは思っていないが、しかし、誰かから攻撃されると途端に激高するタイプの人であるように見える。しかし、彼らは誰かを攻撃したい衝動に駆られているので、彼らの言葉はその中間をうだうだと、まるで永遠にだらだらと蛇行していく川のように流れていく。彼らの愚痴は、無名の人々の手を渡り、そしてどこまでも続いていく。彼らは利口そうに見えるし、あるいは愚かであるようにも見える。彼らは知ったような口を聞いているが、実際、その事について深く問われると途端に顔を真っ赤にしてこちらを攻撃してくるようにも見える。
 まあ、そんな事はいい。
 今、経済的成功と幸福が何故このように同一視されるか、という点について考えてみよう。そして先ほどの紳士には少しばかり黙っていてもらおう。彼らはいつでも口やかましい存在だが、今だけは静かにしていてもらおう。
 今、何故そのような幻想が僕達の内に流れているかといえばーーー流れていると仮定しての話だがーーー、それはこの世界の体制と僕らの意識の流れが同致しているから、と言えるだろう。世界は資本主義を基本として動いているので、この世界では五千円のものより、一万円のものの方が価値があるというのが基本である。それは僕らの中の基本中の基本である。そして、それはこの世界の市場では当たり前の事実として動いている。しかし、実際本当にそうかどうかはわからない。例えば、養殖のエビよりも天然のエビの方が高い、とする。そして例えばテレビのリポーターなどは、この「一匹五千円」の天然エビを食べて、「うわー。おいしい。やっぱり養殖とは違いますね」などと言う。しかし実際、天然の方が養殖よりおいしいかは僕は不明だと思う。それは自分の舌で判断すべき事であって、この場合の値段はあくまでも、天然の希少性についてつけられものであり、その味についてつけられたものではない。もちろん僕は経済に関しては無知もいいところなので、あくまでも自分の理屈を自分なりに推し進めているだけの事だ。ではさて、この時、僕らが養殖よりも天然の方がうまいと感じている、そう感じさせているものは何か、といえば、それは僕達の幻想である。それ以外にない。もちろん天然のほうが養殖よりはるかにうまい場合もあるし、自分の舌の感覚のみを本当に信じられる人も、ごく少数いるだろうが、それはあくまでも少数である。
 タモリがよく「人間というのは全員変態だ」「人は舌じゃなくて頭で物を食っている」みたいな事を言っているが、テレビを見ている人はぼうっと見ているので、この意味を具体的に真剣に考えた人は少ないだろう。テレビというのは僕らの意識の浅瀬以外を通りはしない。タモリが言おうとしているのはおそらく、人間というのは「観念的動物だ」という事だろう。そしてこの事は色々な事に応用がきくし、またこの問題は色々に発展できる。
 例えば、唯物論者とか、金とか物が全ての人物がいるとする。ここに守銭奴がいるとして、あるいはここに快楽追求者がいるとする。すると彼らはこう言う。「金が全て」。「女(男)が全て」。だが、彼らが金とか、女、とかいう名で呼んでいるものは具体的なものでなく、むしろ、そう名づけている彼らの観念の方である。あるいは言い方が悪ければ、僕が物が全てだと言ったとしても、僕がその物に何らかの観念を付与しなければ、結局、その物には何の意味もない。今、経済的成功と幸福がほぼイコールであるその理由は、僕は、現在には過去からの係累で宗教というものが霧散してしまったので、その代替物としての宗教が現れたのだと思っている。豪華な生活、派手な生活、そんなものよりも遥かに楽しいのは「豪華な生活に憧れる事」である。人間にとって常に至上なのは観念であり、物ではない。そして物は観念を象徴するものとして世界を巡る。人は物が全て、と言う事はできても、その人がその自分の観念から逃れる事はできはしない。物が全て、というのは観念である。だから、観念がなければ、物には何の意味もない。そしてイマジネーションの意味さえ理解すれば、僕らには現実ーー物の現実ーーは変化可能なもの見えてくる。それは例えば、今のように、二次元美少女と三次元美少女の区別のなさに現れていると言えるかもしれない。更に言えば、現実の「彼女」というものも、この世界で十分にフィクション化されているので、二次元の彼女と代わりはない。…多分、こう言えば、「俺の彼女はお前のようなキモオタの二次元美少女とは違うわい!」という反論が跳ね返ってくるかもしれない。でも、僕はもうそんな事も信じていない。大体、今人が「彼女」とか「彼氏」とかいう名で呼び、そして人がそこに期待しているものは、そういう「彼女」「彼氏」から人間の生々しさを抜き去った一つの像である。これらの人は、人間としての生々しい憎悪や感情や、生き生きとした心理を抜き去られていて、そしてそれはまるでアイドルのように世界によって凍結化されている一つの像である。そして、世界をフィクションにしてくれる為の構造や遊び場は、この世の中にいくらでもある。誕生日にディズニーランドに行き、あるいは有名なデートスポットや高いレストランに行ったりする。そうした全ては、僕らが僕ら自身を一つの映像の中に閉じ込めておくための、そのための楽しい遊び場であり、またそのような構造である。この時、人はその存在を剥奪され(またその事を望み)、そして「彼氏」「彼女」などの一形態に落ち着いていく。つまり、夢見るのは勝手であり、そして他人を自分の見た夢の通りに作り変えるのも勝手である。だから、ニコニコ生放送のアイドル扱いの人のように、そこでは他人の視線によって、その視線そのものによって作り替えられた自分を披露する事が一つの価値となる。そこには視線が生まれ、幻想が生まれ、そしてそれゆえに金や物も発生する。なぜならその場合、まず誰よりもその人間が最初に自分を物象化する事を選んだからだ。ここでは、視線によって人間が物象化されている現象が見られるが、しかし、今やこうした我々の世界はもう既に何十年と続いたものであり、だからこそ人はそもそも、『物象化されていない自分』というものを知りはしない。だから僕達にとっての課題は『どのようにして自分をもっと物象化していくか?』という事であり、それ以外ではない。僕らは自分の生の肉声を知りはしないし、そもそも自分の存在すら知りはしない。子供の頃から他人の視線にさらされ、外部にも内部にも自分の存在が存在しない状態でスタートした僕らは、もう『いかにしてカメラの前で素敵に踊るか?』という課題しか残っていないのである。そして、この課題は当然、今のビジネスモデルだのスキルだのライフプランだのの、僕には馬鹿馬鹿しいと思える幾多の単語に集中していく。そこでは、ビジネスにおける具体的かつ、職人的、あるいは地道な、何かを作り上げる労力と苦労よりも、カメラの前でいかに踊るのか、という事が一つの方法論として提示されている。そして全ては嘘であるこの世界では、一番うまい嘘をついたものが常にナンバーワンなのだ。そして人は虎視眈々とそのナンバーワンになる座を狙っている。真にこの世界はおめでたく、素晴らしいものだと心から僕は思う。ところで、僕はそういう世界を目の前にして、一人お湯を沸かして番茶でもすする他法はない。それ意外に僕などにはやる事はない。
 
 

世界雑感1

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 今の世の中というの基本的に消費資本主義であり、また大衆社会である。それはまた二十世紀の科学の発展を受けて、唯物論的でもある。今の世界は大衆ーー一般性ーー科学ーー経済ーーメディアーーなどのラインで一括りに考えれば、ある程度その像がぼんやりと見えてくるだろう。
 ところで、今はビジネス書などが大流行であるし、また最近ではビジネス書の代わりにナショナリズムの、声高な書物が本屋の店頭に並ぶようになった。テレビで受けるのは「毒舌」芸人であり、また流行るのは進撃の巨人などのように、血、暴力が散見される作品であったりする。
 先日、ラスト・オブ・アスというゲームをプレイしたが、そのストーリーには驚かされた。そのストーリーの残虐さ、しかもそれが作品の構成上どうしても必要な描写でもないにも関わらず、その残虐な行為をする主人公に感情移入させようとするクリエイターの姿勢に僕は驚かされた。僕は別に残虐な事を作品に入れ込むのが悪いと言っているわけではない。僕はそんな道徳家ではない。問題は、その残虐さが作品の構成上必須なものとして使われているかどうかであり、ただ単に残虐さを見せる事などには意味はない。だが、このラスト・オブ・アスのシナリオライターは正に、僕が意味がないと思っている事に意味があると考えている。そして、こういう作品が大ヒットしているというのも、おそらく現代の病根を象徴しているのだろう。人は今、銃を持って誰かを撃ってみたい衝動に駆られているかもしれない。そして人は当然、撃たれる側ではなく、撃つ側に回りたいのだ。だから、犯罪者に対する誹謗というのは、僕らにはもってこいのメディア的暴力性である。僕達は自分達の暴力をコントロールできなくなってきている。とはいえ、犯罪に手を染めるほど愚かではないので、僕らはその中間的な、「犯罪者に対する暴力」という、大義名分のある暴力の態勢を創りだそうとしている。これは真に結構な事かもしれない。ただし、それが真に結構なのは自分の頭がピストルで撃ち抜かれるまでの、その間だけの事である。おそらく今人は、一つのイデーと化しているので、自分の脳天の存在を忘れているのだろう。それを思い出させるのは何なのか。それはまだ、僕達にも解らない。それは時間の作用かもしれず、他人の暴力かもしれず、ある心に響いた芸術作品かもしれない。しかし、そこにそのような存在があるという事を近い将来僕達は思い出さなくてはならないだろう。
 話を変えよう。
 今、ビジネス書が沢山書店に並んでいると言ったが、それは事実であり、また現在、実に多数の人が経済的な成功=幸福と考えているように思う。もちろん、そうでない人間もいるだろうが、しかしそのような人間が非常に多い気がする。「だったら君は」と僕は別の誰かに言われるかもしれない。「君は年収一千万より年収二百万の方が幸福だというのか」僕はその声にこのように答える。
 「そんな事は別に思っていません。ただ、金の価値が幸福の価値と同一だとは決まって…」
 「君は金がない。だから、私の事を妬んでいるんだろう?。そうだろう?」
 と、その人物は口早に言う。僕は苦笑いしながら
 「いや、僕はあくまでも論理的に…」
 「何が『論理的』だ。そういう事は立派な人間になってから言う事だ。君は自分が無だという事を分かっていない。私はこの社会でしかるべき立場を持つしかるべき人間だが君はクズだ。カスなんだ。だから何も言う事はできない。君などのような雑魚には…」
 そう言うと、この中年の立派な人物は去ってしまう。僕はこの人物を見送りながら、一体、彼が何に対して怒っているのかを訝る。彼が僕に対して怒っているのではない事は確かにしても、しかしそれにしても、彼は一体、何に対してあのように怒っているのだろうか?。…そういう事も次には考えてみよう。

 クリシュナ寺院への道  (スティーブ・ジョブズ、スタンフォード大学スピーチの感想)



 昨日、「stay foolish」という短文を書いた。僕は最後の行を書く時に、「ええと、stay foolishってどんな綴りだっけな」と思い、ジョブズのスピーチをネットで検索した。そして綴りを確認すると共に、少しだけそのスピーチを読んだ。僕にはジョブズのスピーチの内容は何というか、もう既に自分のなかにあったものを別の誰かがその人の言葉に翻訳しなおしたんだ、というそんな感覚を受けた。ジョブズの言わんとしている事は僕の言わんとしている所である。あるいは僕はまだ未熟なので、僕の歩いている道の一番先にジョブズが立っていて、彼は「ここまで来てみな」と言っているのかもしれない。「Stay Hungry. Stay Foolish」。この言葉の言おうとしている事は、英語ができない人間でも、前後の文脈をたどれば容易に理解できるだろう。僕がこの言葉を検索すると、英語の専門家がこの言葉をどう訳すかについて色々とごちゃごちゃと書いていたが、それは僕にはくだらないものに見えた。ジョブズの言わんとしている事を理解するのに必要な知識は、語学力よりも人間力である。その日その日を懸命に生き、世界の既成概念の中に埋もれるのをよしとせず、何かをしようしている人間ならジョブズの言う事はすぐにピンと来るだろう。理解するのは人である。言葉ではない。いくら語学力があっても、常に最も大切な問題においては人としてどうか、という事が問われている。そして、人としての問題を回避する時にのみ、小さな小手先の問題が噴出する。まあ、英語ができるのは良い事だろうが。

 ジョブズの言っている事というのは極めて単純な事であり、そこには難解なものは何もない。その日その日を懸命に生きる事。死を、自分の生を推進させるための道具として役立てる事。世界の既成概念に埋もれず、自分の道を歩む事。どれもこれも言い古された、くだらない概念かもしれない。例えば、電車の専門学校の広告にも『常識を捨てろ』などと書いている。だが、その専門学校は常識を捨てないだろう。そしてジョブズは常識を捨てるだろう。彼は自分の道を歩むだろう。違いは、ただそれだけなのだ。そして、どちらも『常識を捨てろ』と言っている。言葉は、何も語らない。
 
 「Stay Hungry. Stay Foolish.」この言葉はメディアによって世界中に拡散され、そして各々がこの言葉に違う意味を与えただろう。だが、結局、ジョブズの語ろうとした事は単一の価値であったろう。「Stay Hungry. Stay Foolish.」。そして、その言葉が何を意味したかは、これからのそれぞれの人間の歩みによって論証されるだろう。思うに今、やがて新しいジョブズになるべき人物はやせ細った体で空腹を満たすためにクリシュナ寺院への道のりを歩いている。そんな気がする。

Stay Foolish

 



 僕は最近、文学批評みたいな文章を書いているが、これは純粋に自分が面白いからやっているのであって、それ以上の意味はない。僕は勝手にやっているので、どのようなグループにもどの大学にも属していない。
 僕は最近の文学批評というか、評論というか、哲学というものが皆目わからない。それらを本屋で手にとってぱらぱら読んでも、その続きを読む気にはなれない。具体的に言うなら、柄谷行人以降、と言えばいいだろうか。吉本隆明や江藤淳には批評の芯がまだ残っているが、それ以降はそういうものは感じられない。僕が読んでいる批評というのは、小林秀雄ただ一人である。…まあ、他の批評家のものも読まない事はないが、しかし、僕の批評の読書というのは、ただ小林秀雄を何度もしつこく繰り返して読むというただけそれだけの作業である。ところで、小林秀雄の作品は、そういう僕の読み方に答えてくれるので、これは全然飽きないどころか、むしろどんどんと楽しくなっていく作業である。僕は同じように太宰治も読んでいるが、これも年を経るにつれてこれまで見えてこなかったのが見えてきて、楽しい。
 今は娯楽ーーパンとサーカスの時代であるので、皆、本を一度読んだら放り出してしまうような感じがある。よくテレビなどで、「月に三十冊読みます」などと言う「本好き」が出てくるが、こんな人間が本当に本を読んでいると思ったら大間違いだ。僕はゲーテが八十近くになって次のような事を言っていたのを思い出す。「自分は本を読み、理解する事を長年やり続けてきたが、未だにそれがどういう事かははっきりとはわかっていない」。これはうろ覚えの引用だが、確かこんな事を言っていたと思う。ゲーテが八十近くになってもまだわからないと言っている事を、平気でわかったような顔をしている人間が世の中には沢山いる。真に、凡人と天才との違いは大変なものである。多分、凡人の方が天才よりもはるかに利口で賢いのだろう。

 現代の哲学とか批評というものが僕には皆目わからない、と僕は先に言った。この事について、もう少し考えてみよう。…今は知的な時代であり、利口な人間、頭の良い人間は腐るほどいる。だが、僕はそういう人間を尊重してはいない。彼らは哲学者でもなく、批評家でもないと僕は思っている。例えば、僕が思う哲学者とは、「自分の頭で物事を考える存在」の事だ。では、現代に哲学者はいるのか。僕が思うに、今、哲学について注釈したり解釈したりする人間はゴマンといる。そしてそういう人間が大学の哲学科で教鞭を取ったりしているのだろう。だが、そういう人間は哲学者ではない。彼らは確かに、哲学についてよく知っているかもしれない。哲学についてよく研究しているかもしれない。だが、彼らがいつ、自分の頭で、この世界全体を把握しようと試みたのか?。いつ、彼らがアカデミックな装いを捨てて、自分の脳髄でこの世界そのものと対決したのか?。おそらくその姿はニーチェを思えば足りるであろう。あるいは、パスカル。パスカルにおいては、彼の思考が彼の肉体を粉砕してぐちゃぐちゃにしてしまう所まで進んでしまった。しかし、それこそが彼の栄光である。彼の悲劇は彼がどこまでも哲学者であった事に由来する。一流の哲学者にはその思考故の悲劇が訪れるが、それ以外の者には悲劇は訪れない。彼らは哲学を飯の種にして、そうして今日も肥大した腹を満たすだろう。そして、そういう彼らにはニーチェもパスカルも自分が料理すべき材料にしか見えないだろう。そして、世間の人間は『哲学に詳しい人間』と『哲学者』をほぼイコールとして考える。そして、こういう思考方法の中に今のアカデミックな研究者の大半は生息している。
 まあ、実際そんな事はどうでもいい。もし、僕にどこかの大学から教鞭を取って欲しいというオファーが来れば、僕は即刻この文章をゴミ箱に放り投げて、その大学を礼賛する文章を書くに違いない。そういう意味でも、まあこれらの事は実にどうでもいい事である。僕は別にこれらの人に恨みがあるわけではない。ただ僕は現在、彼らを切り刻む第二の小林秀雄が存在しない事を嘆いているだけだ。雑草は人の手によって刈り取られなければならない。…僕はひどい事を言っているだろうか?。 
 批評に関して言うならば、僕は今の批評家の知的な手つきが理解できない。彼らにとって、知的なものは目的であるが、小林秀雄にとってそれは道具に過ぎない。小林秀雄にとっては、自分の心を解析するために論理という道具があるのだが、今の批評家らにとっては論理こそが目的となっている。そしてそれは、人間不在の構造主義と相性がいいのかもしれない。何らかの概念的なものを適当なカタカナ語で放り出しておいて、そしてそれを適当につなげて、そしてそいつを批評と呼ぶ。僕にはさっぱりその意味が解らないが、特に解りたいとも思わない。僕は小林秀雄やシェストフの不器用な手つきが好きだ。そして、今の批評家は澄ました顔をしているが、彼らはいつも、自分達が批判、批難される事を恐れているように見える。彼らが知的な道具立てでああも自分をガードするのはそのためであろう。論理というのはそんなものの為にあるのではない。
 結構、好き勝手な事を書いた。これは誰かを攻撃する為というより、自分の場所を定める為に書いたものだと言えると思う。今までよくわからなかったのだが、長年の間、僕は今の知的なものを理解する必要みたいなものがあるような気がしていた。だが、今の僕は特にその必要はないと考えている。時々、ちらりと除いて、どの程度か判断すれば十分だ。とはいえ、今の批評家の中から、第二の小林秀雄が出てくる可能性もあり、そう考えると油断はできない。そしてもしそういう人物が出てくれば、僕らはその者から徹底的に学ばなければならないだろう。「優れた一人の批評家は劣った批評家千人よりも重要な価値を持っている。」なぜなら、すぐれた批評家の自意識の中にはこの世界のありとあらゆるものが包含されているからであり、そしてまた部分を全て足したとしても決して、全体には到達しないからだ。部分は部分を知るだけだが、全体を知る事は決してできはしない。だが、全体は部分の全てを知り、なおかつ部分そのものでもない。…今の知的な批評家等とは、あたかも全体を知っているかのような顔をしているが、実はそうではない。なぜなら、現在、全ての個々人があらゆるメディアを通じて『全体』をもう既に知ってしまっているからである。僕達は新聞を読み、ネットを見て、全体を知っていると錯覚しているが、しかしそれはもう万人がそうなのである。そして今捉えるべきはこの万人が知っているという現象自体についてである。僕らは時代の変化にともなって、コペルニクス的転回を行われなければならない所まで追い込まれている。だが、現在の知的そうな顔をした人々はそういう事は全く分かっていない。彼らはそれが分からず、前時代の方法を引きずっているために、過度で知的な、そうして重箱の隅をつつくような神経質的方法で他との差異を作り、そしてその自尊心を保とうとしている。しかしそんな事は無駄である。そしてそれが無駄だという事はもう既に歴史の中で繰り返し証明されてきたのだ。だから、彼らは過渡に知的でスタイリッシュなポーズを取ったまま、歴史の波に埋もれて消えていく。歴史と、世界と戦わなかった者が、歴史や世界の方に復讐される。それは当たり前の事である。歴史と戦ったものに歴史は微笑みかける。例えば、今の批評家は小林秀雄を『近代的な』とか『戦前の昭和の特徴を引きずった』などと評するかもしれない。では、僕は逆に君達に聞こう。君達は現代的か、君達は21世紀的か、と。例えば、AKBについて論ずれば、それは現代的なのだろうか?。君達は自分が何者であるかも知りはしない。君達が知っているのは参考書と教科書と教授の採点法だけである。君達にとって知的なものは目的であるが、それゆえに君達は知的なものと並列に並び、そして『君』という差異、その独自性を作れない。今、世の中で喝采を受けているものの大半はその独自性のなさと、そしてそれを補う神経的な努力ゆえである。それはあるいは官能的なものかもしれず、あるいは神経的であり、あるいは狭隘な、異様に偏向したタイプの趣味的なものかもしれない。暴力といい血といい、性といい、知識といい、全てが趣味的な次元で受け止められているものであり、そしてその中には本質的なものが極めて少ない。僕らの耳目を騒がさせるものは無数にあるが、僕らの核心をつくものは非常に稀だ。あるいは僕らそのものに核が存在しない、それくらい僕達は空虚な存在になりはてているかのもしれない。現在の知的な場面というのはそんな僕らをそのまま反映している。そして彼らの自慢げな顔つきと同じ顔が僕らの顔にも浮かんでいる。くだらない物言いかもしれないが、『スターバックスでMacで作業している』かのようなファッション感である。(スタバにもMacにももちろん何の罪もないが。)現在の知的そうに見えるものには、基本的に何も存在しないと僕は考えている。そして僕はインテリでもなければ、馬鹿でもない。あるいは僕は馬鹿かもしれないが、しかし、そんな事はどっちでもいい。少なくとも僕は自分の頭で考えている。そして、僕は論理そのものを目的とはしていない。僕は拙く、愚かであろうが、自分の愚かさの独自性は信奉している。そしてこういう方法論も全て小林秀雄から学んだもので、今のインテリもどきから学んだものではない。僕は独自の存在であるが、同時に、愚かでもある。僕はまずその事を否定せずに、受け入れなければならない。知的な人間というのは皆、自分の姿を隠そうとしている。彼らは知的な言葉かアカデミックなものの陰に隠れようとしている。自分の姿がさらされれば、すぐに批判され、傷つくと思っているからだ。しかしだから、彼らには決して『最後の言葉』を言う事がでかきない。僕が聞きたいのは自分に対する、そして世界に対する僕ら自身の意思表明であり、その認識である。その注釈や解釈ではなく、主観を通して眺められたものにたいする認識なのだ。しかし、今そういうものは出揃っていない。人はあまりにも賢く、利口である。よって、世界は空虚である。空虚そのものだ。
 僕はこれからもっと愚かになりたいと思う。確か、スティーブ・ジョブズも言っていた。「stay foolish」と。

「迷う」という事

 「迷う」という事


 僕らの考えによると、小説というものには登場人物がいて、そしてそれが愛しあったり、憎みあったり、まあ色々するという事になっている。そして、そこにはプロットがあり、登場人物があり、または世界観などがある。だとすれば、僕ら小説を書く人間というのはこの箱庭で遊んでいる子供のような存在だろうか?。僕達は小説という枠組みの中で遊ぶ子供に過ぎないのだろうか?。そして、その中で巧い、優れた作品が賞を取り、そして劣った作品が文学賞の予選で落ちるというのだろうか?。どうだろうか?。問題は、クオリティであると?。その質の程度で決まると?。
 こう言うと、こいつは何を言っているのか、と思われるのかもしれない。まず僕達が小説を書くときには、パソコンがあり、そしてそれぞれにお気に入りのワープロソフトがあり、そしてまたそこから、過去の様々な作品とか今流行っている作品をモデルにして書き始める事になる。そしてそこでは、僕達はもう既に、『小説』というある前提を飲み込んだ状態でスタートしている。だから、僕達の問題は単に、その作品の巧拙の問題だけになっている。だが、僕は最近、そういう事をもう信じてはいない。小説というものはそういうものではないし、もっとそれとは違う、全然奇妙なものだと思っている。もし、小説というものが、最初から、その作家がある前提を飲み込んだ状態でスタートを切っているとするなら、その事は読者にも伝わるだろう。そして、実は一番の問題は、この読者と作者が見えない所で手を結んでいるある状態ーーーこの『前提』にあるのだ。僕はこの前提というのが今、一番問題だと思う。孫悟空はどこまでも筋斗雲を走らせてもお釈迦様の手の平の上を逃れられなかった。その事に孫悟空は気付く事ができたが、僕達は気付く事ができないでいる。例えば、西尾維新のような作家は、自由自在にこの手の平の上を走り回るが、しかし彼の作家としての魂がこの手の平の上から抜け出る事はおそらく不可能なのだ。彼のように、頭脳の優れ、あるいは努力し、そして文才があったとしても、それはこの前提そのものを破壊し、この檻から抜けるという事とはまったく違う事である。そして、おそらくこの檻から抜け出るのに必要なものは文学修行とか、『小説の書き方』とかそういうものとは全く違う何かだ。それは僕なりに言えば「思想」という事になるかもしれない。しかし、例えば、それを「哲学」と言いかえれば、人の頭にはすぐに哲学の教科書とか、哲学の歴史が浮かぶかもしれない。現代人は何にでも先回りしてその答えを見出す事になれている。なんでもググれば答えは出てくるし、何にでも参考書や解説書がある。だが、僕が言うのはそういうガイド自体を破壊しなければならない、という事である。だが、そんな事を僕が言うと、人は「ガイドを破壊する為のガイド」を探してくるかもしれない。人間というの真に困った奇妙なものだ。僕が言いたいのはそういう事ではないが。

 僕は芥川賞や直木賞を取った作品を大抵、そんなに良いとは思っていない。何故かというと、そこには登場人物に必然性がないからだ。例えば、A子というキャラクターがいて、これがB男という人間を好きになる。だが、このA子はC子ともD子とも取替え可能である。この人物にはA子という独自のパーソナリティがあるかどうか、疑わしい。例えば、勝間和代みたいなエリートっぽい人を想像してみよう。勝間和代のような一生懸命な人は、この世界が彼女に着せる衣装を必死に着こなそうと頑張っている。仕事のできる女、仕事をしつつプライベートも捨てない女、素敵な中年女性。彼女はそのような衣装を必死に着こなそうと頑張っている。だが、結局の所、それはただの衣装にすぎないのだ。それは彼女自身ではなく、衣装にすぎない。衣装というものがどれだけ豪奢で美しかろうと、それは裸身の痛ましい美しさにはかなわない。人は今、自分の裸身を見る事を恐れるので、このような衣装を身にまとう。そしてそれは小説の中でもそうで、今ほとんどの小説の中の登場人物はみんな、人物というよりは衣装そのものである。人ではなく、人の影である。こういう言い方はよくないかもしれないが、しかし僕はそう言わざるを得ない。例えば、その逆を考えてみるなら、「罪と罰」のラスコーリニコフである。ラスコーリニコフは独自の存在である。それは全く、独自の存在である。しかし、作者がこの人物を生み出すには彼は四十何年、死ぬより苦しい思いをしなければならなかった。彼が「地下室の手記」でこのような人物を生み出すまでには、実に長い月日がかかった。そして、それより更に重要なのは、ラスコーリニコフはその独自性を手に入れるために、ほとんどその性格そのものを紛失してしまったという事だ。彼が例えば誰かを好きになっても、その「好き」という観念はすぐに彼の理性によって粉々に破壊され、そしてそれは別のなにものかになってしまう。彼は真っ先に自分を否定した存在であるので、誰も彼の存在をきちんとは捉えられない。だから、ラスコーリニコフの行動は全て、彼自身の存在とは真っ向から矛盾しているように見える。しかし、これは間違った事ではない。なぜなら、先に言ったように、先に世界の方でこっちに何かの衣装を着せようとするなら、その衣装をはねのける事だけが唯一、彼の独自性、彼のパーソナリティとなるからである。あらゆる性格、あらゆる行動が嘘であるなら、それを否定するのが唯一、この世界に残されたただ一つの独自な行動である。彼は彼になりたければ、彼に付随するあらゆるものを真っ先に否定しなければならない。この問題を今の時代に当てはめると、例えば、恋愛、友情、就職、結婚、親孝行。何から何まで、この世界によって準備され、用意された衣装であるように見える。例えば、もしあなたが土用の丑にうなぎを食べたくなっても、あなたはそれがあなた自身の欲望か、それとも世界があなたに用意してくれた欲望なのか、そのどちらかをきちんと区別する事はできないだろう。バレンタインデーにチョコをもらえないかとそわそわしている男子(昔の僕だ)は、その欲望がチョコレート会社と資本主義が作った欲望でないと誰が言えるのか。世界は今、衣装に満ちている。だから、この世界には服ばかりあって、人は一人もいないのかもしれない。そして世の中の小説もそれを模倣する。だから、そういうものを読んでいると、僕はなんとなく浮かない感じがするのだ。そんなものはこの世界にいくらでも転がっている。そして、そんなものはもう目にしたくない、と思う。
 例えば、シュタインズ・ゲートとか、魔法少女まどか☆マギカとか、あるいはペルソナ4とか、またはダンガンロンパなどのサブカルチャーの優れた作品が、今の文化的状況の中でも優れた作品だと言えるのは、これらの登場人物ーーー特に主人公には、何らかの必然性があるからだ。これらの主人公は大体において、変容した世界を救おうと一人奮闘する。そして、この世界の方は大体において、いつも通りの日常が続く事がおおい。つまり、これらの主人公や登場人物達は、日常的な世界の中で、しかし密かに変質している世界の中で、世界を元に戻そうとしてもがき苦しむ。そしてこのもがき苦しむ事に主人公の必然性というか、その孤立、孤独、奮闘があらわれ、そしてそれに視聴者や読者は涙せざるを得ないのだ。そしてこの涙は、例えば、意図的に作られた通俗的な物語ーーー恋人の片方が病気で亡くなるなどーーーとは違うタイプのものだ。この涙は主人公の奮闘に与えられたものなのだが、しかし、この奮闘を作り出したのは、作者の手腕である。そしてもっと言うなら、日常はそのままでありながら、しかしどこかがおかしい、どこかが変質している、そういう事を作品に反映させるのも作者の技術の一つだ。この事は現実においては、オウムサリン事件のような形ですでに現れていた。この世界は一応は平和で常識的だが、しかし、その中では見えない憎悪や悪意がそこここに隠れているのである。そして、これらサブカルチャーの優れた作り手は、その現在を作品に反映させたと言えるだろう。
 僕の現代のフィクションと現実に対する概観は大体、そんなものである。僕は思うのだが、もうすでにこの世界の現実は、世界そのものによって十分フィクション化されてしまっている。それはもう既に徹底的に映像化され、そしてその生々しさをとっく失っているのだ。そして僕ら、それを描こうとする者が遅ればせながら筆を持ってこの世界に辿り着いたとしても、既にそれは『描かれた世界』である。描いたのは世界のシステムである。あるいは世界そのものが既に自らを映像化していた。僕らが、古臭い手法でこの世界の人物を描こうとしても、実はそれは人間を剥奪された人間なのだ。それは衣装であり、人ではない。だとしたら、『人』はどこにいるのか?。あるいは、どこにもいないのか?。こういう問いが、今、真に物を作ろうとする人間に世界の方から要求されている問いだと言える。そしてこの問いにどう答えるかは人様々だが、しかしこの問いを回避する事は僕には不可能な事に思える。僕達はただ面白おかしいフィクションを作るだけでは物足りない。何せ、世界の方がすでにおもしろおかしいフィクションそのものなのだから。だから、人間の独自性を求めるものは全て、意識の路頭に迷わざるを得ない。そしてこの路頭こそが、僕らの最初の1ページであろう。まず、迷う事から。まず、問いから僕達ははじめなければならない。しかし、僕達は誰も彼もが「答え」から始めているのではないか。全ての物事に解説書がついている、その為に。僕は今そんな事を考えている。そして今、僕は迷う事には迷っていない。
 迷え。

 アンチ礼賛



 
 僕は普段、インターネット上に小説を書いて発表などしたりしている。僕はまだ無名の書き手にすぎず、その書いたものにはほとんど反響などは来ないのだが、先日、僕の小説を読んでくれたらしい人物から、長文のメールが届いた。そのメールは僕に対して非常に攻撃的なものだったが、しかしこれはなかなかに特徴的で興味ある文章だと僕は思ったので、その全文を以下に掲げようと思う。興味のある人はぜひとも読んでいただきたい。ちなみに、僕は『ヤマダヒフミ』というペンネームで活動している。もしあなたが興味があれば、僕のその他の作品についても読んでみて欲しい。



 『2014/5/13  件名  感想   送信者   手羽先


 はじめまして。私は『小説家を目指して』の投稿サイトを利用している手羽先というものです。私の事に関しては、『小説家を目指して』の私のアカウントをのぞいていただければ分かると思います。私は普段、歴史小説などを独自の観点から書いているものです。独自の観点と言っても、それは何も、今の研究家らの視野を損ねるものでありませんが…。まあ、その事は別にいいでしょう。私はあなたの作品を読んで、言葉にならないくらいの憤りを感じたので、このようなメールをお送りする次第であります。ちなみに、私は妻子ある身で、このようなメールに長時間使う事はできないので、誤字脱字などもあるかもしれません。その点は、どうぞご容赦願います。
 さて、私はあなたのは『廃人Yの日記』という作品を上記のサイトで読み、我慢できないくらいの怒りを感じました。…私が思うに、あなたはおそらく、二十代中盤くらいのまだ若い年齢なのでしょう。そして、それゆえに、あのような作品を書いた。そういう青春の時期というものが、人にいかに愚かな事をさせるのかは、私のように馬齢を重ねた人間にはよく分かります。それ故、私はあなたに警告、いや、訓戒せざるを得ないのです。あなたのあのような退廃的な作品こそが、この日本、そしてこの社会を悪くしているその原因の一つであると。あなたの作品は、あなた自身の赤裸々な過去の告白のようです。そして、あなたはあの作品で、あなたが今はただのニートであり、親に寄生している存在である事を明かしています。(そう言えば、そこにあなたの年齢も記されていましたね。確か、二十五才だ。)そして、あなたは他にも、あなた自身がいかにつまらない人間なのか、そういう事を切々と書いていました。私には全く、そのような軟弱な精神が理解できませんが、あなたはどうしてあのようにてひどい文章を書いたのでしょうか?私には理解できかねます。私には断固、全く理解できませんね。つまらない、というよりそれ以前だ。大体、あなたの文章は「てにをは」もできていないし、それに三点リーダーの使い方も間違っています。これは作品にとって決定的なマイナスポイントではないものの、小説を書くものにとっては最低限守らなければならぬ礼節のようなものです。あれでは、あなたがあの作品を新人賞に応募した所で、下読みに大笑いにされて、そしてそれっきり没になるだけでしょう。失礼ながら、あなたは本当に大学を出たのでしょうか?。あなたはあの『日記』の中で、あなたの大学時代のエピソードも書いておられましたが、しかし、あれは捏造ではないでしょうか?。あなたは余りにも知的レベルが低い。それに品性も著しく劣っている。それはあなたのあの作品に如実にあらわれていました。そして、何よりひどいのは、ああいうろくでもないものを世の中に堂々と出す、その根性です。あなたのような若者がいるという事を考えると、この国の未来は暗いのだ、と私は考えざるを得ないのです。もっと勉強して下さい。もっと本を読み、考えてください。といっても、あなたのお好きな『太宰治』などというくだらん作家はよすべきです。私は彼を、亡国の原因の一つだと思っています。現代の若者が軟弱になったのには、彼の責任もあるでしょう。私には、あのような恥ずべき作家が国民的人気を誇るという事が全く理解できません。もちろん、あのようなタイプの根暗で軟弱な作家を、あなたのような若い時分の人間が好きになってはまりこむ、そういう事は十分考えられます。ですが、そのようなものを大人になってまで読むというのは、軟弱で弱々しい事に他なりません。私はあのような作家がこの国を害するその原因になっていると思うのです。私は、この国を案じている。そしてあなたのような若者がいると思うと、真に暗澹たる気持ちになります。
 書いている内に本当に腹が立ってきましたが、あなたの作品は本当に品がないですね。ひどいものです。日本語もひどい。あなたはどうせ、今ネットで言う所の『Fラン大学出身』の、まともに日本語も読めない人間でしょう。例えば今、今村友紀という作家がいますね。彼はおそらくあなたと同世代ですが、彼は東京大学の医学部を出てから、文学を志し、そして新人賞も取りました。あなたとは正しく、雲泥の違いです。そうでしょう?。あなたは無名で、ろくでもない日本語しか使えない愚か者であるにも関わらず、その作品の中では随分と威張っておられる。…全く、恥ずかしい限りです。同じ日本人として。あなたはあの作品の中で、芥川賞と直木賞受賞作品をおもいきりけなしておられましたね?。…全く、ひどい話ですね。あなたには呆れるばかりです。あなたご自身はただの無名のニートにすぎないのに、今をときめく芥川賞、そして直木賞作家をこきおろしておられる。あなたには文才はありません。私がここで今、断言しておきましょう。あなたには一切の才能、文才がありません。あなたは自分が賞を取れなくて、しかもFラン大卒のクズなのに関わらず、そのひねこびた自尊心を満足させるために、世の中の偉い人に噛み付いているクズに過ぎないのです。どうですか?。何か、反論がありますか?。私の言っている事は間違っていますか?。あなたは、本当にクズですね。こうして書いている内に、私は本当に腹に据えかねる思いがしてきました。このまま書き続けるのは不快なので、あと少しだけ、あなたへアドバイスしてこのメールを終える事にします。よく、お聞きなさい。
 まず、最初にあなたは働きなさい。まず、あなたはニートをやめて、働きなさい。あなたはあなたがニートである限り、どんな人もこきおろす権利がありません。そして、もっと勉強しなさい。それはあなたの好きな太宰治などという軟弱な作家ではなく、谷崎潤一郎や川端康成のような、きちんとした正統の日本的作家を読むべきです。あなたのような人間が文学を語る権利は一切ありません。あなたには文才がないし、文章も滅茶苦茶です。まず、三点リーダーの使い方、あるいは正しい、きちんとした日本語の使い方から学ぶべきです。そしてあなたには今の芥川賞や直木賞を取った作家を笑う権利は一切ありません。悔しければ、新人賞の一つでも取ってから文句を言うべきです。あなたはご自身が何も達成されていないのに、もう他人をあざ笑う事を自分の本懐としておられる。あなたは、最低の人間です。まず、働け。全てはそれからです。自分自身がきちんとしていない人間に、文才も何もないです。では、これでこのメールを終える事にします。私はいろいろとひどい事を言ったかもしれませんが、それは全てあなたの事を思っての事です。老婆心からです。それでは、あなたがいつか立派な作家になる事を心から願っています。それでは、あなたの事を新聞紙面で見かけるその日まで。五月十八日。手羽先。』


 僕はこの長文のメールを、目を点にして最初から最後まで読んだ。そして読み終えると、僕は再び最初に戻ってまたそれを読み出した。僕は計三度このメールを読んだ。そして、次のような返信をした。

 『長文の感想メールありがとうございました。手羽先さんの言葉は一つ一つ、心に染み入るものでした。手羽先さんの言っている事は全く正しいし、僕もそう思います。でも、人間には「運命」というものが存在し、それはどうにもならないものだ、という事を手羽先さんは忘れておられると思います。そして、手羽先さんが嫌っておられる太宰治という作家は正に、そういう運命を背負っていた人だと思います。確かに、彼は僕同様ろくでないクズだったかもしれませんが、しかし、彼は一人の人間であろうとその生涯を貫いた人でした。人間というのは、正しさという一般性だけで生きていけるものではありません。他人からどのように見えても、その人にはもがき苦しんでいる何かが、その人の中にあるという事は十分考えられるのです。そして、よくよく考えれば全ての人がそうではないでしょうか。僕は確かに、手羽先さんの言うとおりクズの中のクズですが、しかし、僕はクズから脱却する事より、自分がクズであると世界に向かっておおっぴらに宣言する事を好みました。それが僕の世界に対する精一杯の誠意でした。その誠意が手羽先さんにも感じられたら良かった、と思います。僕もいつか、手羽先さんのお眼鏡にかなう作品を書ければいいと思います。なんにせよ、長文の感想メールありがとうございました。
 ところで、僕は今まで自分の作品に自信がなかったのですが、この手羽先さんのメールをいただいて、始めて自分の作るものに自信が持てるようになりました。僕の書いたものにはどこからも、全くといっていいほどに反響がなかったのですが、これほどの批判的な長文メールをもらうという事は、他人の憎悪を掻き立てる『文才』というものが、少なくとも僕の中にはあるのだな、という事が自分でもよく分かりました。いずれにしろ、僕にこのような自信をもたらしてくれた手羽先さんに僕は深く感謝します。色々とありがとうございました。』


 その後、手羽先さんからの返信は来ていない。

クリエイターとその消費者


 僕は小説等を書いて、それをこうしてネット上に発表しているので、ごくまれに感想をもらったりする。そしてそういう感想の中には「日本語がおかしい」とか「三点リーダーの使い方が云々」といった感想があったりする。そしてこういう感想はネット上でもよく見かけたりする。アニメの感想であれば、「声優の演技が云々」「作画がどうのこうの」といったのに該当するかもしれない。音楽なら、音質がどうの。それがピアノのならば、調律がどうの。
 こういうのは玄人感想とでもいえばいいのだろうか。僕はこういう感想は基本的に意味がないと思っている。もし、こういう感想を誰かに送るにしても、それは基本的にその作品の本質・内容とは関係のないアドバイス・忠告として送るべきだろう。そして、それ以上の意味はない。
 こうした感想を述べる人が多いその理由は簡単である。彼らは物事に対する通暁した姿勢を見せたいが、実際、その事に対する本質的な評価ができないために、そういう『玄人的なテンプレート』の感想に頼るのである。現在、読者や視聴者というのは一種の王様であり、クリエイターよりもむしろ高い位置を保っている。彼らは要求する、彼らは突っぱねる、彼らは好きになる。だが、その間も、この王と奴隷の関係に変わりはしない。そして王たるもの、時々、奴隷に鞭をくれてやる必要があるだろう。だがこの王は作品を評価する本質的な方法論を持っていないために、「日本語が云々」といった決まりきった文句を垂れるしかないのだ。
 今、物を作っている人はこういう評言にめげずに作品を作って欲しいと思う。彼らは色々な事を言うが、それはあなたの作品に対して不満を抱いているのではなく、彼ら自身に不満を抱いているからそういう事を言うのであって、そしてその不満が外面上あなたの作品への文句となって現れているに過ぎない。もちろん、作品が悪ければ悪いといい、良ければ良いという。だが、それは基本的に「日本語が~」とか「誤字脱字が~」とか「音質が~」とかいう評言とは違う種類のものだ。だが、感想というのは一見簡単なようで難しい。それは、読者がある作品を「好き」「凄い」と言う時、その「好き」「凄い」というその言葉につまった意味作用は非常に複雑なのだが、これを批評的に、論理的に言葉にするというのは実はとても大変な事だ。批評家というのがこの世に生息できるのは、ひとえにそうした感動を論理化する力があるからだと僕は思っている。だから、批評というのは自らの心を論理化する力の事であって、自分の不満を、言葉にのせて託すものではない。僕はそう思っている。
 今、物を作っている人は、目の肥えた消費者や視聴者の見えない重力にさらされている事を常に感じているだろう。しかし、その重力を常に感じ、むしろそれをバネにする事を心がけたほうがいいかもしれない。これは自分自身に向けた言葉であると共に、目の前の『あなた』に向けた言葉でもある。これでとりあえず、この小文は終える事とする。
 

 『創造を運命づけられている人、あるいはただたんに何か言うべきことのある人は、自分の能力や気質、あるいは限界について四六時中、問うような真似はしない。彼は突っ走る。                          
                                          シオラン』            

本屋内うろうろ雑感    百田尚樹・池井戸潤~パスカル~太宰治





さっき近くの本屋をうろうろして、文庫本やら単行本やらをひっかりかえしたり、めくったりしてきた。そうして色々な本の断片を見てきたのだが、そうしたものは僕には何というか、割と一元的なものに見えた。例えば、朝吹真理子という作家の『きことわ』という
芥川賞作品。もし、僕ら無名の書き手がこういう作品を褒め称え、そしてこういう作品を作りたいと考えてたら、それは何というか、寂しい気持ちもする。まあ、僕はただの無名の書き手にすぎないのだが。

それに反して、極めて面白い作家が一人いた。この作家の名前を君は絶対に一度も聞いたことがないだろうが、それは『太宰治』という作家である。これは最近出てきた新人作家らしいが、非常に面白い。・・・とはいえ、この作家もその初期の頃には、中期のように目立った作品は作っていない。太宰治という作家が開花したのは『晩年』の更にその後、彼が饒舌な語り口を手に入れてからだろう。

すっとぼけるのはやめてまじめに話すと、太宰治の作品が、その本屋の棚に並んでいた他の作品群よりも圧倒的に面白いのには、一つの特徴的な理由がある。(シェイクスピアや漱石などはのぞく。)それは、彼の言葉が全て、自意識というフィルターをくぐってきているからだ。つまり、これは言葉の芸術であり、小説とは言葉の芸術である。こんな事は当たり前だと思われているかもしれないが、実は違う。今書かれている小説というのはその大半が、言葉だけで成立していない。それは常に、現実からの補助と支援を受けていなければ成り立たないタイプのもので、だから、そういう作品はなかなか古典になれない。でも、それが必ずしも悪い事とも言えないし、それはそれでいいとも言える。例えば、百田尚樹とか池井戸潤とか、そういうヒットメーカーがいる。こういう作家らがヒットメーカーになるのは僕は当然だと思うし、また同時に彼らが古典にはなれないという事もはっきりしている。彼らの作品は良いものだが、しかし、作品の深さという事では良いとはいえない。だが、彼らがヒットメーカーになるにも理由があり、それは何故かといえば彼らの作品を読むのは健全な常識人、健全な社会人、健全な生活者であり、僕のようなパスカル的憂鬱を偏愛している人間ではないからである。

生活者というのは、いちいち個人の実存的な深さとか、ドストエフスキー的な心理の深さとか、何というか、そんなものは全然求めていないものだ。彼らがそういうものを求めざるを得なくなるのは、例えば、病気で入院した時とか、恋人や友人を急になくした時とか、そんな時に限られるかもしれない。だが基本的にそういう健全な生活者というのは、この社会という広い土台の上で暮らしていて、そしてこの土台の下には恐ろしい人間心理が眠っているとは考えない。彼らは、考えないからこそ健全な生活者なのであり、考えないからこそ、急にドストエフスキーやトルストイを耽読したりしないのである。そして、そういう彼らが手に取る本はパスカルでもマルクスでもなく、池井戸潤であり、あるいは百田尚樹である。これは馬鹿にしているのではなく、ごく当然の事であり、当たり前の事なのだ。パスカルやらヘーゲルやらドストエフスキーやら小林秀雄やら、そういう彼らというのはこの世界の土台が抜けて、そして個人の資質、その存在そのものが問題になる時に始めて効いてくる一種の薬(あるいは毒)であり、この土台が抜けさえしなければ、そんなものは基本的には必要ないのだ。僕らは僕ら個人の存在そのものが問われる段階にならないと、それに関する知識とか洞察は必要ないと思っている。これはごくごく当たり前の事である。そして、その代わりとして手に取られるのが百田尚樹であり池井戸潤である。この彼らの作品というのは基本的に、ツルツルとよく滑る文体でできており、その意味は非常に明確である。ドストエフスキーのように、一人の人間の言葉が何重にも矛盾をはらむ、という事はなく、それらの言葉は単一の意味を指し示す。そして、それらはこの社会の土台を前提とした物語であり、そこには悲しみも喜びも、成功も挫折もあるが、しかしそれらは全てのこの世界の土台がしっかりとしている事を前提として、右に動いたり左に動いたりする物語なのである。そして、こういう人達が例えば、パスカルのような根暗な人物を嫌うのは当然だし、また軽蔑するのも当然と言える。パスカルというのは、まるでブラックホールのように重たい一つの心理的状態であり、彼はこの世界の土台を全部ひっくり返してもまだ飽きたらず、この宇宙全体を自分の心理と思考一つでひっくり返そうとする『思考の化け物』のような男である。しかし、このパスカルが死んでから何百年経っても、未だその生々しさを失わないのは、ひとえにこの彼の暗さと重さのためである。彼にとって具体的、具象的なものは何一つ意味がないために、僕達は時と場所を越えて、彼の心理と思考という極度に抽象的なあるものに出会う事ができるのである。もし、彼が当時のフランスのぶどう酒やら地方の風俗やらについておもしろおかしく書く作者だったとしたら、今こんな風にして読まれるという事は決してありえないだろう。

だから、池井戸潤とか百田尚樹がこの社会で受けるのはこういう、極めて健全な理由があると言える。ニーチェというのは病人であり、病人の哲学なのだが、それを健常者の為の哲学に焼き直して販売するーーーそして、それがうけるという事も、まあ、僕らにしてみたら当然だと言えるかもしれない。しかし、それこそニーチェにしたらうんざりする事態ではあるだろうが。それでは、純文学はどうかというと、これは『きことわ』などを見ればわかるが、大体最初の二ページくらい読んで、なんとなくもう読みたくなくなる感じがある。芥川賞作家にひどい言い方をしているが、しかし、この作品とその前の前くらいに芥川賞を取った作品(何かは知らない)を比べても、それは対して違わないのではないか、という感じがしている。こんな事言うと、僕はただ色々な作品をこきおろしているだけにしか見えないかもしれないが、例えばいとうせいこうの『想像ラジオ』などは僕がいとうせいこうについて抱いていたイメージよりもは遥かに良い作品だったので驚いた。個人的にはこの作品に芥川賞をあげた方が良かったと思う。その理由は、あの作品にはかすかな自意識、言葉の揺れが見えたからだ。そして、そういう事を考えると、僕は再び太宰治を取り上げざるを得なくなる。太宰が未だに面白いのは、その自意識がもう世界を二周くらいしているからであり、それが言葉単体で成り立っている世界だからだ。太宰の作品を読んだ人は作品の印象から太宰治の実像をイメージするかもしれないが、実はそれは嘘である。そして、それが嘘だという事も太宰は作品の中で言っている(短編『恥』)。だから、太宰治について僕らが抱くイメージは、実はその本人ではなく、作品から後付でイメージする、その僕らの脳髄の中にある太宰像だと言える。これは太宰の死後にも続く、太宰の巧妙な自己戦略だった。だから、僕らが太宰を未だに愛するのは、彼そのものではなく、僕達が彼の作品から想像する彼のイメージに対してだと言った方が適切だ。そして、それは作家にとっては実は栄光である。ここでは、太宰という肉体は先に自らを犠牲にし、そして作品の中で転生している様が見て取れる。そして、そういう事さえも彼は自分自身で書いている(短編『鴎』)。だから、太宰というのは正しく、彼が愛した聖書にあるように『身と霊魂をゲヘナに滅し得る者』だったからこそ、彼は作品の中で転生し、そして現代も我々に読まれていると言える。・・・古典作家になるのも、真に大変なものである。世の中は天才だの文才だの言うが、その実大切なのは、身と霊魂をゲヘナにて滅する、その覚悟である。そしてこの覚悟は真似ようもない。問題はスキルでも技術でも努力でも才能でもない。そして、そういうものは後から後天的に学習するものである。そして重要なのはこの思想だが、これを先天的と言うのも少し違う。これは何というか、『運命』としか言えないものだ。そして批評の言葉というものは、この二字の前では立ち止まる他ないのだ。

本屋雑感から意外な所まで来てしまった。そして結局は太宰論に終始してしまった。そんな事は書くつもりではなかったのだが。しかし、とりあえず、僕の本屋に並んでいる書物に対する見方はそんなものだ。その内に新人作家の中から太宰並みの作家が出るかもしれない。もしそうなったら僕は沈黙して、そしてその本に真剣に取り組まなければならないだろう。だが今の所、そういう作家はまだ出ていないように見える。もちろん、僕が見逃している可能性は高いだろうが。

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