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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

小説を書く事の困難   ~小説家志望から天才小説家への忠言~   

小説というのは、音楽とか数学とか、あるいは絵画とは違い、一見誰でも簡単に書けそうなものに見える。何故かと言えば、言葉というのは僕達が普段から普通に使っているからだ。・・・数学や音楽には専門用語があるし、絵画はある程度の訓練がないとできない、と想像できる。だが、小説はお話さえ思いつけば、誰でも書けるような気がする。・・・最初は誰でも、そんな気がする。だが、実際やってみると、そうは上手くいかない。・・・というより、それが上手くいったところで、それが何だというのか。僕達は脳髄でこねくりまわした作品を、至るところで見る事ができる。(例えば西尾維新。)だが、そういう作品とは一体、何だろう。至る所に作者が顔を出す。彼はこの作品の世界で万能の創造者であり、ありとあらゆるものを扱う事ができる。深刻な物語があろう、軽薄な、笑える物語があろう。友情が、恋愛が、その中にはあるだろう。だが、そういう中に抵抗あるなにものか、その確かな重み、リアルな実感・・・そういうものが宿る事はない。例えば、僕が次のように考える。「そうだ。中学生を題材にした恋愛青春小説を書こう!」・・・そうして、僕の机の上には「青春小説の書き方」という本があって、僕はそのとおりに書き始める。・・・そして、僕は考える。これで、賞を取れば・・・・・・しめしめ、と。

そんなものに何の意味があるのか。

僕もずっと勘違いしていたし、多分今も勘違いし続けているのだろうが・・・・しかし、今、僕は感じるのだ。小説を書く難しさ、という事を。そして、それはお話をひねり出す辛さでもなく、生活を言葉に翻訳する際のの苦労でもない。純文学らしい作品を生み出す為の努力でも断じてない。小説というものの難解さは、結局、小説の中の現実とこの社会の現実との間に巨大な、ほとんど越えがたい溝があるという事である。そして、それはその溝がなければ、嘘である。今の世の中の小説はいうまでもなく、この溝がほとんど存在しない。だから、人生の延長線上に小説があると考えられている。だから、新聞記事のような小説があり、小説のような新聞記事がある。・・・バレンタインに素敵な彼氏にチョコを贈るのは小説か、現実か。それは現実だが、しかしそれは社会によってフィクション化された現実である。だから僕はこれを通俗的な小説の一種と捉える。そして小説家達はこの現実を翻訳して小説を書く。つまり、それは最初からフィクション化された現実を改めて、言葉に焼きなおすという意味だ。生活は言葉になり、そして、映像になる。そして、その切れ目は存在しない。溝などない。

僕は我が身を振り返り、自分の生活を再考し、そしてそこに小説として書くべき稀有な事実が一つたりともない事を発見し、茫然とする。そして、それと同様の事だがーーー僕はお話を作ろうとして、キーボードに手を置き、そしてその嘘くささにこれまた呆然とする。・・・自分が嘘だと感じていて、どうやって人を騙せるだろうか。

かつて、希望という言葉が流行った。(今も流行っているかもしれない。)今の僕は希望という言葉を聞いただけで、薄ら寒い感情に襲われるが、しかし、僕はかつて希望を信じていたのだ。だから、かつての僕をだますための、「希望ある作品」を立派に書き上げれば、かつての愚かな僕をだます事は簡単だろう。だが、その愚かな僕も成長するーーー。そして、その僕は希望というのが、この社会が自分達の便宜の為にこしらえた一種の幻想であるという事を発見するだろう。夢、希望というのはこの社会システムが、僕ら卑小な個人の為に用意した、社会適合プログラムのようなものだ。世界は個人に対して常にこう言っている。「考えるな。努力しろ。」「希望を持て。だが、その希望が何であるかを問うてはならない。」・・・社会は我々にこう言う。・・・世界にとって無意味な希望というのは存在しない。あるのは、世界の歩く方向と同一の希望だけだ。希望というものを我々が感じている時、そこには常に他者の視線がある。僕が人々に推奨する希望というのは「根っからの絶望を持つ事」だ。・・・いや、そんな事を言うのも間違っている。多分、希望など、どうでもいい。必要なのは勇気だ。恥を耐えしのぐ勇気だ。人と違う事をするには常に勇気がいる。

まあ、そんな事はどうでもいい。小説の話に戻ろう。とにかく、今ーーー僕らが小説に書くべき事など、多分、何一つ無い。他人は交換可能であり、僕も交換可能である。何だって?。自分の恋愛小説は泣けるだって?。・・・じゃあ、君はその恋愛小説なるものをどんな気分で書いたのだ。・・・君は、その小説をもしや、他人ごとのように書いてはいないだろうな?。・・・僕は言うが、結局、君は君の小説の登場人物達に対して冷淡なのだ。親身にもなっていないし、彼らを独立した人間にする事にも気を配っていない。そして、それは読者もそうだ。・・・確かに、君の小説に人々は涙を流すだろう。君の小説はベストセラーになるだろう。間違いなく。だが、そんな涙なども一週間で忘れるたぐいのものだ。そして、君も印税をもらったら、その小説の事など綺麗さっぱり忘れるだろう。・・・君の小説は確かに傑作だった。だが、ただそれだけの事だ。今、人はあらゆるものを興味本位で見ている。キチガイが出てくれば「キチガイ」。人殺しが出てくれば「人殺し」。・・・なんだっていいのだ。画面の中でタレントが死んで見せれば、人々は一応ショックは受けてくれるかもしれない。しかし、そのショックが続くのはせいぜい一時間じゃそこらじゃないのか。・・・ニコニコ生放送を見て見たまえ。もうどんな奇矯な事をしても、誰もびくとも驚きもせず、薄ら笑いでコメントを打っている。・・・人々は趣味的であり、享楽的であり、そして薄情なのだ。そしてクリエイターの方もやはり、薄ら笑い浮かべて、そういう彼らの嗜好にあう作品を送り続けているに過ぎない。誰も、自分の作品を心の底から愛してはいない。・・・いや、愛する必要などはないが、少なくとも、作品が作者の存在を超える必要はある。そうでなければ、全てのフィクションとは結局、上等のビール以上の意味を持たないからだ。だが、人が今望んでいる事は何だ?。それは自分達の怠惰な感覚を刺激してくれる事だ。その生活の無聊を慰めてくれる事だ。そして、クリエイターと名乗る輩は、人々のそういう好奇心(都合の良い言葉だ)の奴隷であるに過ぎない。・・・だから、世界にはこんなにもお話が溢れ、そして、僕達はこんなにも卑小なのだ。

小説を書く・・・。大いに書けばいい。クオリティの高い作品、プロになれる作品、金を取れる作品・・・実に結構。君は天才だ。間違いない。君は(西尾維新的に)思うだろう。「俺(私)はあらゆるタイプの作品をひねり出す事ができる。俺は天才だ!」。・・・もちろん、そうさ。君が天才であるのは間違いない。・・・ところで、少しは僕の事も話させてくれ。僕の感じている小説を書く事の困難というのは、君が言っている事とは全く違う事なのだ。多分、それは全く次元の異なる事だ。・・・どっちが次元が低いのかは知らないがね。

・・・それはつまり、こういう事だ。「もし、全ての物語が嘘だとしたら、僕は一体、どんな物語を書けばいいんだろうか」という事だ。・・・僕はこの問いに頭を悩ましている。そしてそれは誰にとっても無益な問いだ。とりわけ、僕にとってはね。だがしかし、僕はもううんざりなんだよ。人々の充足した物語に。希望など知った事ではないが、絶望やら狂気やら自殺やら・・・それはそれで、人々は薄ら笑いで、娯楽だと思って楽しむだろう。僕はね、この傍観者共に決闘を挑みたいのだよ。どうかして、この殿様共を土俵に引きずり下ろしてやりたいのだよ。高笑いして2chに書き込んでいるか、常識の範囲内にとどまり、非常識を笑っている連中をね。

その為なら・・・・・いや、そんな事はもうどうでもいい。実はそういう事の答えは、僕の中では出ている。出ているが、今はそれは君に言う事はできない。何故なら、答えはそれによって『解答する』のが目的ではない。道は概念としてあるのではなく、歩む為にある。僕はこれからその答えを実行しなければならない。そして、実行するにあたってはその答えについては沈黙しなければならない。・・・だから、僕はこの文をここで終える。・・・君には耳うるさかった事だろうがね。・・・だが、君が安易に考えている事が君を絞め殺さないとも限らないだろう?。

では、また。僕はここからまた沈黙する事にする。・・・多分、僕がここでこんなにも饒舌なのは、僕が日常生活であまりにも抑制されているからだ。多分、君は僕に会えば、僕が寡黙なのに驚くかもしれない。だが、ニーチェだって寡黙だったのではないか?。・・・それでは。では、僕はこれから沈黙する。君が、自分を疑うようになって、小説なんか放り出したいと思った時には教えてくれ。その時が君の小説の書き時だから。・・・その時には、この僕も些細ながらも、ほんの助力にはなるだろう。ほんの、小さな力だろうけれどね。

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饒舌な沈黙




所詮、全ては趣味に過ぎないから

何を言っても、『好き』と『嫌い』で判断できる

所詮、全ては趣味に過ぎないから

売れようが売れまいが僕達は人々の監視下にある

そして、この鳥かごを出る事は

決して、できない

『カイジ』にこんな話がある

カイジの事を思って涙を流している二人の戦友

だが、彼らはその後、すぐにカイジの事を裏切る

その時、カイジは気付くのだ

彼らの涙が結局、映画館で

俳優達の演技に流す涙のように

客体的で身を入れたものではなかった、という事を

・・・だから、僕は今

どんな賞賛も、どんな批判にも一様に疑いを抱いている

所詮、全ては画面の前の殿様達を喜ばせる為の

その為の座敷芸に過ぎない

だから、僕はこの座敷とこのスクリーンを

爆破してみたい衝動に駆られる

・・・だが、それをすると人々はそれを見て

また、それを新たな余興と捉えるに違いない

・・・いつの間にか、世界は一つの劇場になっていた

だから、僕は今、何もやる事がなく

ただ、沈黙する

そして、今、その沈黙の言語を書きつける

僕は僕自身が存在しない理由を それをこうやってここに

書きつける

僕は人々をいつか

画面の奥から引っ張りだしてみたい

君達が座っている椅子も動くのだという事を

君達の常識など所詮は天動説上の地球に過ぎないという事を

いつの日にか証明してみたい

・・・だが、その日までは僕は

このように沈黙していよう

・・・このように饒舌な沈黙で

時の間を埋めつつも


太宰治『人間失格』論






 太宰治の「人間失格」は大変に有名な作品で、多くの人が読んだ。そこで、その多くの人は、それぞれにどのような感想を抱いただろうか。
 太宰治というのは、遠目から見ればわかりやすい作家かもしれないが、実は彼は二重に三重に自分の策を巡らしているので、実は厄介な作家である。批評家、傍観者たちが掴んだと思ったその視点は、実はすでに太宰に先取りされ、しかも、その視点が何であるか、既に徹底的に解剖を受けた後、という事は珍しくはない。・・・太宰というのはそういう意味で、非常に厄介な作家である。
 最近、自分の書いた物をちょっと読み返し、太宰に似ているな、と思ってしまった。・・・別に、僕が太宰ほどの作家だと主張したいわけではない。そうではなく、自意識のあり方、そして、その裏返し方が、なんとなく太宰に似ているな、と感じたのだ。僕が太宰のような華麗な死を迎えられるかどうかは知らないが。
 人間失格のラストはこのようになっている。


(バーのマダムが、ひどい人生を生きた葉蔵に対して感想を言う)


「あのひとのお父さんが悪いのですよ」
 何気なさそうに、そう言った。
「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」



 このラストを読んで、人はどう思っただろうか。・・・僕は自分が最初に『人間失格』を読んだ時、自分がどう思ったのか覚えていない。その時の僕にはただ、作品の暗い性格がはっきりと感じられただけだった。・・ここでの、マダムの言葉は、太宰文学を解く上では極めて重要なものだ。太宰作品には、必ずといっていいほどに、こういう『オチ』がついていた。そして、この『オチ』は一筋縄ではいかない。僕はそれを今、自分なりに解析してみよう。
 多くの人が、太宰を、暗い、陰湿な所のある作家だと見ている。そして、またそういう視点に嵌り込むか、それとも拒否するのか、それが一つの分水嶺になっていると考えられている。・・・例えば、三島由紀夫が筋トレして、太陽を満身に浴びて、そして太宰を一蹴するなら、それは結構な事である。石原慎太郎が、その偉そうな態度で太宰を蹴り飛ばすなら(それができるなら)、それもまた結構である。だが、太宰というのは、それだけでは終わらない何かである。・・・我々が考えてみなければならないのは、今、目の前にいる『太宰』という作家は病人そのものではなく、(そう見えたとしても)病人を描いた存在だという事である。・・・病人は病人を描く事はできない。彼には、自分の病理を認識できる常識的な視点がないからだ。そして、常識人にも病人を描く事はできない。彼らには、病人の心理が理解できないからだ。では、病人を描く事のできる人間とは何かーーー。それこそが、正に『作家』である。それこそが、太宰その人である。彼はもちろん、病的な一面を持っていたのかもしれないが、それより遥かに大切な事は、彼がそれを描いた人である、という事である。・・・太宰は知っていたのだ。自分の病理、自分のへどもどした、気弱い本性が世間でどの程度の価値を持ち、そして、『どうすれば』健康になれるのか・・・そんな事は彼にはわかっていた。だが、彼は、自分が健康に生きることよりも、自分の病理を大切に思っていた。・・・ここには一つの意識的決断がある。精神病患者というの決まって、無意識的なものである。そして、無意識的なものは、病人の意識の管理下から外れて、幻聴や幻視として見えてしまうのであろう。だが、太宰は意識する病人である。彼は自分が病気だという事を知って、しかも、そこに留まろうとする病人である。だとすると、もう病は癒えたのではないか。それが無意識に宿る病だとしたらならば、それが意識下で管理される限りにおいて、その病はもうすでに癒えたと言えるのではないか?。・・・そして、こういう病人の確信は、僕達に一つの問いをもたらす。「病にかかっているのは、君達の方ではないか?」「君達の健康と常識が病でないと何故言える?」。
 実際、面会に言った事のある吉本隆明の話によると、太宰というのは『全てがひっくり返った人間』だという印象を受けたらしい。・・・それはそうだろう、と僕などは思う。「家庭の幸福は諸悪の基」「子よりも親が大事」。・・・こういう晩年のテーゼは、彼がもはや回復不能ほどに、世界に対して裏返ってしまった様を見せている。彼はもはや、自分の作った劇場で踊る一人の役者だった。・・・太宰は、自分が病気だという事を知っていた。だが、彼は病気の故に死んだのではない。彼が死んだのは自分の病気との格闘の果てである。そして、その格闘自体が我々には作品として残っている。世の中には自伝という言葉があるが、この言葉の複雑さを僕は今、痛感している。自分を書く・・・。だが、書かれた自分とは自分ではない。・・・もっと簡単に言うなら、自分を書くというのは非常に簡単で、楽な事に見える。だが、世紀の大きな体験をした人が、世紀に残る自伝を書いた、という話をあまり聞かない。・・・彼には文才がなかったのだろうか?。・・・そうではない。彼は、彼自身を知らなかったのだ。・・・目の見えない者に、青空の美しさはわからないだろう。そして、作家というのはこの目を磨かなくてはならない。そして、この目が開きさえすれば、なんでもない小石や水たまりにも、この世界を越える美しさが透けて見える事だろう。・・・僕が好きな太宰の小品に「鴎」という作品がある。太宰はこの作品の中で、戦争という大きな現実と、散歩に出かけた時に見かけた「水たまり」という小さなものを対比して見せる。水たまりには秋の空が写り、美しい。彼はそれを思う時、始めて自分の芸術に一つの自信を持てるような気がする。・・・世界は戦争で渦巻いている。日本は勝たなければならない。兵士達はこの国の為に命を捨てて戦っている。国民が、国自体が一致して、一つの「美しい」闘争を演じている。では、自分の小さなくだらない芸術などは何だろうかーーー。自分が今まで、育ててあげてきた芸術というものに対する観念やその哲学、そういうものは、戦争という巨大な現実とくらべると、いかにみすぼらしいだろうか。だがーーーーーー。
 ここで、思いは途切れ、太宰は一つの現実に帰ってくる。それは自分という卑小な現実である。彼は自分の身の回りを見渡す。そして、自分自身を見る。戦地では、命をかけて戦っているのに、自分はーーー。彼には、戦地から小説が送られてくる。それは「兵隊さん」の一人が書いたもので、出版社に紹介して欲しいとの事だ。彼はそれを読む。だが、「くやしいことには、よくないのだ」。と、彼は断言する。ここでは、彼は一国民としては戦争を肯定しているものの、しかし芸術家としてはそれに反抗している、という様がよく見て取れる。・・・世のイデオロギストや、ネットで様々なイデーを流布している者共にはこの葛藤はおそらく、永遠に理解できないだろう。・・・物には本物と偽物があり、そして、どのような動機や道徳があろうとも、その分野における本質や真理というのは、それに付随するあらゆる余計な物よりは優先される。イデオロギスト達は常に、自分達に賛同してくれるものならなんでも歓迎し、そして、自分達を否定する者はなんでも退けようとする。・・・それは、普通の人間も同じ事で、たとえ、嘘だとしても、自分を褒めてくれる者には好意を抱くし、たとえ自分の事を真に思って批判してくれていても、その批判に腹は立つものだ。だが、物事には常に、その先がある。自分を褒める者にも嘘があり、また、自分を批判する人間の言葉の中にも真実がある。・・・こういうものを選別し、そして少しずつ、これを理解し身に付けるのが、本当の意味での『道』なのだが、脳の沸騰した連中にはこの道は永遠に見えてこない。そして、当然、芸術にも一つの道はある。・・・そして、それは戦争という巨大な現実からすれば、あまりに卑小で小さな、巨人に踏みつけられる一輪の花のように弱い存在に過ぎないのだ。しかし、巨人に踏みつけられようと、一輪の花の美しさは変わりはしない。
 太宰文学に見られる弱さ、卑小さ、そのおどおどした調子、人間恐怖、また、その形式とは常にこのようなものであって、単にそれが性格的なものであるなら、彼は精神病院に入って、それで終わった事だろう。・・・また、話が少し変わるが、僕は一度、『神聖かまってちゃん』というバンドの『の子』という人物を非常に間近で見た事がある。(彼は僕の理解する限り、非常に太宰治的なアーティストだ。)僕は彼のファンだったので、彼を間近で見ただけでなく、ちょっと話しかけもしたのだが、その時、僕はその『の子』という
人間の、非常な『太宰治らしさ』を感じた。・・・それは、言ってみれば、こういう事だ。の子、とか、太宰のようなタイプのアーティストは元々、精神的に弱々しい、どちらかというといじめられっこ気質の、人にでかい声で号令をかけたり、怒ったりする事のできない人間である。彼らは周囲に非常な迷惑を掛けるのだが、しかしそれは、迷惑を掛ける事をなんとも思っていなからではなく、むしろ、彼らの人間恐怖の形式そのものが、その自分の中に抑えこまれていたものが反発となって世界に飛び出る、その結果としてである。そして、彼らは、世界に対して常に恐怖しているのだが、しかし、その恐怖は世界に対して『見返してやりたい』のような反発心を伴っている。そして、この反発心が非常な苦痛を彼らにもたらすのだが、しかし同時に、この反発こそが、彼らの芸術として結晶化する。神聖かまってちゃんというバンドも、キチガイだと一般に思われたり、言われたりしているのだが、ここでは僕は太宰に向けたのと同じ言葉を繰り返せば、事足りる。神聖かまってちゃん、あるいは『の子』はキチガイではなく、それを演じた存在である。狂気そのものには狂気を描き出せない。狂気を作品に結晶化できるのは、正気を持った狂人だけだ。そして、この正気を持った狂人こそが、「の子」という、太宰に酷似したアーティストの本質である。
 さて、話を太宰に戻そう。「人間失格」のラストは、先に記した通りのようになっている。そこでは、バーのマダムが主人公の葉蔵を「神様みたいないい子」だと述べる所で終わっている。これは、一体、どういう事だろうか。
 この「人間失格」という作品では、葉蔵の人生が「自伝的」に述べられている。・・・それは後ろ暗い人生であり、悲しく辛い人生であり、そして、ろくでもない人生である。人は、この書を読み、そこに戦慄したり、感動したり、あるいは反発を覚え、怒りのあまりこの本をブックオフに売っぱらったかもしれない。それはいい。だが、大切なのはここからだ。太宰はこの一人の狂人に対して、語り手である所の作家と、そしてバーのマダムという二重の視線を当てて見せている。そして、それにより、この作品は成立している。繰り返していうが、狂人は自分の狂気を描き出せないものだ。描くにはどうしても他人の視線がいる。
 そして、この視線は極めて対照的である。作家の方はこれを、常識的な視点で、『狂人』だと考える。だがここにもう一つの、マダムの視点があり、そしてそのマダムは次のように言うのである。

 「いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」

 ・・・これはどういう事だろうか。マダムは諧謔を言っているのだろうか。・・・葉蔵は自身を廃人と考え、そして作家もまた、これを狂人と捉えている。そして・・・もっと言うならば、世の良識的な人物ならば、このような人物を狂人として捉えるに違いない。そしてそれはあたかも、世の良識的な人物が太宰治という名を聞いただけでも、サブイボができ、そして、汚いものをあちらへと追い払うような仕草を見せるがごとくである。だが、常識的な人物でもあるはずのマダムはそれとは逆の事を言う。それは、何故だろうか。
 ・・・ここには太宰治自身の深い自己認識がある。この問題は非常に根深いので、多くの人が見過ごしているように僕は思う。つまり、繰り返しになるが、太宰は自分が狂人だという事を知っていた狂人だったという事だ。だとしたら、その狂人は狂人ではなく、『作家』である。そういう自己認識を持てるのは作家だけである。
 太宰自身、自分はろくでもない人物だという認識を持ち、そう自認する事が彼の芸術の本性だった。だが、事はそれだけにとどまらず、彼は、世間の、良識的な人物、常識的で、それこそ『石原慎太郎的な』人達が、太宰のように繊細な感受性を持っていない粗暴な人物であるという事を知っていた。だが、彼は直接的に、この粗暴さを否定したり、批判したりはしない。それでは、彼の繊細な感受性、その鋭敏さは、粗暴な精神の持ち主と同レベルにまで堕してしまう。だから、ここで太宰は複雑な光学を使う。つまり、葉蔵という一人の狂人は狂人であるにも関わらず、『神様みたいないい子だった』、とマダムに言わせるのだ。・・・では、どこがいい子なのか。彼があのような、暗黒に陥ったのは元は、彼が『神様みたいないい子だった』からではないか。・・・自分の罪をしかと感じる罪人というのは、実はそれだけで自分を裁いているのである。・・・僕は犯罪者の手記というのを少しばかり読んだ事があるが、それらに真の悔恨、反省を感じた事はなかった。どこか、それは嘘くさく、薄っぺらい匂いがするものばかりだった。・・・この葉蔵は自分の罪を自覚している。罪を、心の底から反省している。と、すれば、それは『神様みたいないい子だった』のではないか。・・・この点において、太宰がキリストに大きな関心を示していたその理由もはっきりとしてくる。キリスト教における、罪、そして罪に対する救済の概念。・・・我々の地上的な罪は、天井の悔恨、反省と釣り合っているだろうか?・・・・・然り。だが、それはその通りだとしても、そうだと言い切ってしまう事はできない。なぜなら、そう結論した途端、その人間は反省し、苦悩する事をやめてしまうから。だから、我々は地上にいる限り、苦悩し続けなければならない。そして、苦悩するその姿こそが天井の『神様みたいな』本当の、自分の姿、そのもう一つの姿を『あちらの世界』に生み出す事になるのだ。
 ・・・葉蔵という一人の人物は、自分で自分を見れば、廃人であり、狂人である。だが、それが複雑な感受性、内面の豊富さを持っているためにその罪の意識に倒れた罪人である、という事を世間は知りはしない。世間にとって狂人は狂人であり、罪人は罪人でしかない。だから、世間の良識的な人物は、太宰という作家を毛嫌いする。世間の良識的な人物は、もし、太宰が優れた作家でないとすれば、彼を全面的に否定したに違いない。だが、彼は『作家』であった。だから、彼には見えていた。葉蔵という人物がたとえろくでもない人物であるにせよ、そこに一つの重大な根拠があるという事が。・・・彼が罪を犯し、他人に迷惑をかけ続けたのは、彼が精神的に、内面的に豊富だからである。彼は、太宰その人と同じように、他人の痛みがありありと自分の痛みのように感じられる存在だった。だからこそ、彼は自分に閉じこもろうとした。そして、愛そうとして誤って傷つけ、そしてまたその傷を自分の痛みとして感じたのだ。だが、世界はその事を知りはしない。世界においては、罪人は罪人、狂人は狂人である。・・・だから、この中身を見せる事ができるのは、おそらく、文学というもの以外にはありえないであろう。だから、太宰はこの狂人の内部を思いきり、切り開いてみせた。・・・だが、この暴露には最後の結びが必要である。そこで、太宰は最後にまた、常識人の目を借りる。・・・この作品は狂人の自己暴露でありながら、わざと、第三者が公開したという体裁を取っている。それが何故なのかと言えば、これが文学作品だからである。・・・これは、入院患者が書いた手記ではなく、そう見せかけた文学作品だからである。だから、文学作品である以上、常識的な点からスタートを切り、そして狂人の奥深くへと突き進んだ挙句、最後にまた元の常識的な点に戻らなければならない。それによって、始めて、作品が世界に対して対等に向き合えるものとして成立する事ができる。太宰はその事を知っていたので、だから、最後には元に戻ってきたのだ。そしてマダムは言う。「神様みたいないい子でした」。・・・では、何故、葉蔵は「いい子」だったのか?。・・・今なら、その答えが言えるだろう。葉蔵は自分から見れば、狂人であり、また罪人であった。・・・それは間違いない。それは他人から見ても(作家の目から見ても)そうだろう。だが彼はそう感じる事ができる存在である故に、「神様みたいないい子」であるのだ。・・・世間には、自分が振り回した腕が他人にどんな傷を与えているのか、理解しもせぬし、理解する気もない人間がごまんといる。そして、こういう無頓着な人間は、太宰のような後ろ暗い、じめじめした人物を嫌い、拒絶するだろう。だが、内面の豊富性というのは、それがたとえ、我々を病院送りにする原因だとしても、たとえそうだとしてもそれは一つの宝である。それは我々にとって重要な、感受性というものである。・・・では、天才と狂人を分けるその分け目とは何だろうか。もしかすると、狂人というのは、他人よりも感受性が優れているがゆえに狂人になったかもしれないのだ。そして、世の常識人は痛みを理解する事も、喜びを知る事も浅いからこそ、常識人であるかもしれないのだ。・・・太宰はもちろん、前者の存在であった。だが、彼が単なる病人でなかった所以は、彼が人生と苦闘する事を止めなかったからである。先に言うと、僕の大嫌いな文学研究は、作家を精神病理に片付けるたぐいの研究である。もちろん、それには真実の半面はあるのだろうが、半面だけの真実などは嘘よりもよっぽどたちが悪い。太宰が精神病であり、そして、それ故にああいう作品を生み出した。・・・よろしい。では、どうして精神病患者は太宰に成り得ないのか?。・・・僕は、先に言った神聖かまってちゃんの「の子」という人物を間近に見た時にも、そういう事を感じた。つまり、その「の子」という人物は本来、二十歳以上には生きれないような精神の持ち主であり、早々に自殺するか発狂するか、そのどちらかになるのが必定、そう思える人物だった。だが、病理との闘いが、彼を一人のアーティストにした。そういうものが、作品を生み出す原動力となったのだ。だとすると、この時、その病はこのアーティストにとっては味方なのか、敵なのか?。・・・多分、どちらを言っても正解であろう。僕が最後に言いたい事は、人間というのが自分自身と格闘する時、その時始めて、そこに神々しい天才性が現れるという事である。そして、この天才性は精神病理学という遠心分離器にかけた所で決して、分離できない、分析できないなにものかなのだ。そして、太宰自身、そういう生(様々な非難はあるだろうが)を生きた。そして、その事は、『人間失格』という作品にもこうして、はっきりと現れているのである。
 天才というのは常に、自分自身と格闘する事を義務付けられている。そして、太宰にとって、それは常に、自分の劣等感、人間恐怖、世界嫌悪、そのようなものと対峙する事として現れていた。・・・戦争は巨大な現実である。それはしかも、大きな題目を掲げた、大義ある現実である。・・・だとすれば、どうして彼はそれに服従しなかったのか。回りの他人は皆、何の恥じらいもなく、『愛国』を大声で叫んでいるのに、どうして自分は言えないのか。・・・ここでの問題はもちろん、反戦とか非戦とか、そういう事ではない。そうではなく、個人としての恥じらい、羞恥心、感受性、そういうものを大切に思うという作家の良心が、この世界のありように必然的に反発している、その様なのだ。どうしてだろうか・・・・・・。太宰はその問いを胸に秘めたまま死んだように思われる。そして、彼自身、自分の恥じらいや感受性を最後まで捨てきる事はできなかった。・・・作中の人物が廃人になったとしても、その廃人を「神様みたいないい子」と言う人物は必要である。・・・そう。この人物は絶対に必要である!。この人物がいなければ、この廃人が何であるか、その正体が明かされないではないか?。・・・そして、太宰はそういう一つの作品ーーー『人間失格』という一つの問いを僕達に与えて、水の中に消えていった。そして、その問いに対して、今僕は精一杯の解答を与えたつもりだ。後はどう考えるかは読者の勝手という事になる。
 これで僕の太宰論を終える事にする。太宰治はこれまで、僕にとって一つの中心的課題だったが、これを書いた事ですっきりする部分もあるような気がする。・・・とにかく、僕はここでこの文を終える。だが、太宰治が何であるかはもちろん、読者の数だけ存在する。そして、僕の書いた事などは、その中の小さな一つの理解に過ぎない。・・・世に絶対的な理解などというものはない。あるのは、真実に対する適切な光線の当て方、それによる真実の開示、そしてその描写法、それだけである。・・・それでは、僕はここでこの文を終える事にする。また、太宰について書く事がその内にあるかもしれない。その時まで、では。

「才能」と「努力」

 

 現在、我々は我々の幸福を追い求める事を自分の理想としているように思える。だが、その幸福が何であるか、と考えてみる人間は少ない。我々は幸福について考える前に、既にそれを「想定」している。では、それをこの世界が、私達個人の為に、先に巧みに配置しておいた、とは何故考える事ができないのだろうか。
 僕は2chのコピペで見た事があるが、それはどうしても将来有望の東大生と結婚したい女がいて、そして、その執念の結果、その東大生と結婚するのに成功した、という話である。
 世の女性はそういうものを読んで、羨ましいと思うだろうか。あるいは嫉妬を憎悪に変えて(現在、この行為は非常によく見られる)この女を『節操が無い』と批判するだろうか。・・・あるいは、僕ら男性は、こういうものを読んで、どういう顔をすれば良いだろうか。『学歴が全てではない』とでも、つぶやけばいいのだろうか。
 ・・・我々の社会が理想を失って久しい。・・・考えても見れば、我々には常に、雲の上の世界が必要なのである。我々が手に届かないか、あるいは、『努力』すれば、その頂上に登れるかのような・・・。我々の世界にとって、時間は私達の中を流れ去っていく。そして、人間の本能はこの時の流れとは逆に、何らかの光輝、頂点を目指そうとする。何故だろうか?・・・。我々は時の中で、失われていく瑣末な個体である事を本能的に察知しているので、だから、それに逆らい、何らかの旗を、自分が生きた証である旗をこの世界に立てたいのだ。・・・そうではないだろうか?。
 ・・・あるいは、違うかもしれない。・・・今は、傍観者の時代である。傍観者・・・。これは、おそらく現在の一つのキーワードだろう。誰も彼もが、皆、傍観者だ。そして、画面の奥を食い入るように見て、そして様々な判定をするのだが、自身が判定されるのは絶対に嫌う。それは自分がする事ではない・・・・・。今の時代は、「公人」なるものと「私人」なるものの区分けがあり、そして「公人」は人一倍、その言動に注意を払わねばならないそうな。・・・では、そう言う君は誰なのか。教えてくれ。君は誰なのだ。君は人間なのか。自分の実態をさらけ出す事だけは絶対によしとせず、そして、「公人」をあらゆる角度から批判できる、君とは誰なのだ。・・・僕は画面の前の君に聞いているのだ。君の言葉に向かって語りかけているのではない。君は、言葉か。それとも、人間か。・・・君はいつの間に、イデオロギーの塊になったのだ?。どうして君は、鏡を見る事をしなくなったのだ?。
 僕は常識人という奴が嫌いである。・・・だが、常識を守る人は好きである。・・・だが、今のこの一行ですら、もう既に「常識」という言葉に対する曖昧な考え方が透けて見える。常識は変化する。それは時代によって、集団によって変わるが、僕達はそれを武器として使う事もできるし、遵守すべき盟約として考える事もできる。・・・だが、常識人というのは常に、常識を振りかざす人でもある。何故、常識は振りかざされなければならないのだろうか。・・・まるで、彼らは失われた自己を取り戻す、その復讐の為に、常識という刃を用いているかのようだ。・・・現在、起こっているバカバカしい議論やヒステリーというのはその大部分が、失われた自分というものを嘆く、その呪詛だと考える事ができる。自分と戦う事ができない弱い精神は、他人に向かって吠える事を好むである。・・・僕は太宰治という作家が好きだが、例えば、彼の『生まれてすみません』というのは実に弱々しい、ひ弱な人間の、自分への逃げ口上だろうか。あるいは、太宰というのは、反発するにせよ、愛好するにせよ、そのイメージの通りの、弱くうじうじした存在だろうか。では、大音量で口角泡を飛ばしているヒットラーは男気溢れる、勇敢な男だろうか。
 ・・・それに対しては、太宰自身が書いている。我々の弱さ、はにかみ、羞恥というものを太宰は大切に思っていた。これは言葉の撞着かもしれないが、彼は弱さというものを自身の強みだと感じていた。弱さの方が、強いものよりも大切である。・・・これは矛盾した思想。まちがった思想だろうか?。
 僕の考えを言おう。・・・人間というのもともと、弱い生物である。単純な強さならば、他にももっと優れている動物はいる。・・・だが、人間が、この種がこのように発展したその理由は、人間が弱さを自覚したからである。弱さの自覚は、強者を凌ぐ。・・・これは単純な話だが、しかし、この世界においては、そうシンプルには現れない。・・・弱さの自覚が、思考を生み、工夫を生む。生まれつきの才能に恵まれ、それにかまけている人間は、自身の才能の無さを自覚した人間に勝つ事はできない。・・・能力とは常に、才能を上回るものである。だから、僕は思うのだが、この世界で通俗的に蔓延している「才能」とか、「努力」とかいう概念は全てウソである。・・・あるいはそれは本当かもしれないが、しかし、それは自身の才能のなさを自覚したり、自身の「努力」そのものについて思考した経験のある人間にとっては、全てウソに聞こえる。・・・人々には、常に二つのストーリーが用意されてきた。一つは「才能」。そしてもう一つは「努力」。前者はヒットラーの優生学に通じるものがあり、後者はスターリンのルイセンコ学説に通じるものがある。そして、そのどちらのストーリーも、我々に対して認可していない一事がある。それは思考する事、そして自由の存在である。優生学は我々に、我々自身が生まれつき、優等か、あるいは劣等かを教える。そして、その第二の論としては、「我々は優性なのだから何をしてもいい」「我々は劣等なのだから、何をされても仕方ない」という、そのような考え方が起こる。ここからは、何が起こっても不思議ではない、地獄の世界である。だが、この地獄の世界の悪魔達は皆、自分達を天使だと思い込んでいるのだ。では、その羽を折るのは誰だろうか。ーーー彼らはいつか、自身の背中に羽など生えていなかった事に気付くのだろうか。・・・多分、そうだろう。我々の背中に羽などは生えていない。我々が自身を失う時は、いつも、不思議にやすらいだ表情を見せているものだ。そして、それを罰するのは・・・・・・おそらく、我々の理性、そして、人間性であろう。我々は自身の手を血に染めながらも、ずっと自分を天使だと思い込む事ができるだろうか。・・・そういうわけにはいかないだろう。バブルはいつか崩壊するのだが、これに酔う人間は、それがずっと続くとかんがえる。だが、彼らは刻一刻と、その崩壊そのものを造り上げているのだ。まるで、トランプタワーをひとつずつ積み重ねていくように。
 もう一つのストーリーとして「努力」というものがある。・・・現代の我々には、こちらの方が馴染みがあるかもしれない。「努力」すれば、受験戦争に勝ち抜く事ができ、TOEICで良い点が取れ、そして、良い会社に入り、そして、その枠組の中で上昇していける。・・・これは最近まで(あるいは今でも)、この社会が僕達に用意していてくれた一つのストーリーである。このストーリーというのは単純で、努力なるものの量のみが問題になり、そして、いかに努力すべきか、あるいは努力とは何なのか、という問いは忘れられている。そして、社会の中で、こういう問いを教師やら、自分の上司に発すると、煙たがられ、「とっとと自分の業務(勉強)にもどれ」と言われるのが普通である。・・・この社会ではどうやら、物事を考えようとする人間は少数らしい。・・・とはいえ、僕も、上司の立場にいたら、煙たがって、同じ事を言うに違いないが。・・・「考える」のは家に帰ってからである。
 スターリンの作り上げた世界においては、「努力」というのはおそらく、都合の良い物語だったに違いない。人民は努力せよ。そして、この社会に服従せよ。そうすれば、それ相応の恩恵が得られるであろう。・・・そうだ。ここでは、個人は単に努力する存在であり、そして、社会制度は神であった。そして、そのスターリンは正に、神そのものであった。・・・社会主義者達がかつて夢見たのは、近代的、あるいはそれを越えるような、未来の神々しい、完全な社会制度ではなかったのか。・・・しかし、それがどうして、あんな風に、古代の邪教やカルト集団を思わせるようなシステムになったのか。・・・繰り返し言うなら、我々に神の羽は生えていない。ナチスは、特定の人間に神の羽を与えたが(与える振りをした)、スターリニズムは、個人や人間には羽を与えなかった。だが、その代わり、それが羽を与えたその先は、社会システムそのものだった。・・・そして、完璧なシステムや、完璧な社会制度などは存在しないから、これもやがては崩壊する危機に立たされる。・・・システムがいかに完璧に見えようと、それを支えるのは不完全な人間である。しかも、それは自身が不完全であるという認識をする事は禁止された人間である。だから、世界は完璧な見かけを保ったままに、崩れていく。・・・そう、全ては完璧であるゆえに壊れるのだ。朝令暮改は許さぬという徹底した心性が、とある絶対的な法規を生むかもしれない。だが、その法規が最後まで守られたとしても、守る人間はその重みにたえかね、そして人は去り、法のみが残る。・・・我々はいつの間にか、システムの為に存在する卑小な個人へと変貌している。
 「努力」と「才能」。どちらを取るか、という問題は未だに、人の口の端に昇る。・・・しかし、実際はどちらを取るという事もない。・・・大体、こういう事を議論している連中というのは、自分で何一つ、本気でやろうとした事のない人間である。自分で考え、何かをしようとすると、そこには様々な問題や解決が現れ、そして、それは非常に他人には伝えにくいものである。・・・あるいは伝えるにせよ、労力が必要であり、しかもそれは、その人間独自の道、その人間独自のやり方なので、その方法が他人にあてはまるとは限らない・・・。現に何かをした人というのは、その事を知っている。だから、真のプロフェッショナルになればなるほど、簡単なノウハウ論などを語りたくなくなってくる。「これは自分のやった方法だが、しかし、それが君に当てはまるとは限らない。」・・・何かを自分で成し遂げた人間の語り口の前には、必ずこのような前口上がついている。何かをするというのは基本的に面倒で難しいのだが、それを単純化しようとする「努力」の中に、「努力」と「才能」の議論が現れる。努力は確定した一つの道を教え、才能は、僕らに道を走らなくていい理由を教えてくれる。だが、道とは切り開くものである。・・・だが、こう言うと、愚か者は、『答えになってない』と言うに違いない。では、僕は重ねて言おう。何故、君は他人から答えを与えてもらう事をそこまで期待しているのか。君は魂の底まで、学校教育に馴らさてしまったのか、と。答えは自分で見つけるものだ、と言えば、学生時代の僕ならば、不満に思うだろう。だが、それが真実である事は時間が教えてくれた。我々にとって、答えがないというのが人生の恩寵であるのか、それとも人生の責苦であるのか、それを決めるの自体も我々自身である。・・・我々は学生の頃から、答えの決まった問いに馴れてきた。・・だから、様々なものに答えがあるような気がしているが、そんなものがあるかどうかはわからないのだ。だが、このわからないという状態を維持する事、その状態に耐える事・・・。これほど辛い事は、人生において他にはないのだ。だから、その「わからない」という状態から抜け出す(というより、ごまかす)為に、我々は様々な方法で擬似的な答えを自分達で提案してみせている。・・・本屋に行けば、そういう本が並んでいる。では・・・例えば、ニーチェやパスカルや、あるいは孔子やブッダは僕達に生きる為の答えを教えてくれるだろうか?。・・・もちろん、教えてくれない。教えてくれると思っているのは、それらの著者を斜め読みしている人間だけである。哲学も芸術も、我々に答えなどは教えてくれないのである。そして、それに擬似的な答えを教えてくれるのは、ノウハウ本の方である。では、そうした古典は我々にとってどのような意味があるのだろうか?。・・・それは我々にとって、問いを教えてくれる。何故なのか?、と問う事の重要さを教える。そして、道を歩く方法を教えてもらったとしても、歩くのは自分である。そして、歩く以上はこそれに伴う困難も喜悦も待ち受けているであろう。だが、いつも他人に手を取ってもらわないと歩き出せない人間には、他人並みの悲喜こもごもしか現れないのだ。
 努力と才能、その両方を否定する事にしか『道』は現れない。そして、この道がもっとも重要なものだと僕は思っているが、それは見えないゆえに存在しないと人々に思われている。・・・しかし、事は逆であり、存在しないからこそ、そこには自由に道を敷ける余地が残っているのだ。我々は常に、可能性を求めて、様々な場所へと飛び立つのだが、最上の可能性は無である。我々は自分が何者でもないという事をもっとも深く悟るときに、はじめて、自分が何者かになれるその機縁を有す事になるのだ。「才能」と「努力」・・・。この使い古された言葉は、これからもこの世界で、形を変えては輪廻のように回っていく事だろう。なぜなら、それが常に歴史的に決まってきた、安堵の一つの形式である。そして、安堵そのものにうんざりする事から、我々の道は始まるだろう。だが、道は存在しない故に始める事ができる。そして、そこには「努力」も「才能」も、その影も形もない。そこにいるのは、一人の個人であり、世界と立ち向かう個人である。
 我々が生きるとはエスカレーターに乗る事ではない。泥沼を歩く事だ。・・・もちろん、エスカレーターやエレベーターは便利なものであり、それは物質だけでなく、システムとしても各所に配備されている。しかし、我々が自由を望むならば、我々は自分の足で歩むことを学ばなければならないだろう。そして、自分の足で歩む者が常に、一番遠くまで歩む事ができた。そして、それは歴史的に見ても、そうなのだと言える。
 そして、まだこの世界には歩むべき『泥沼』が残っているのだ。システムの影に隠れて。ひっそりと。

 未知の声   (2chのとあるコピペの感想)

 

 今さっき、2chまとめサイトで「フリーターの末路wwww」というコピペを見た。そこには、フリーターがいかに悲惨な人生を送るかが、短く『リアルな』調子で書かれている。それに対してついているコメントは、様々な方法でーーー自分はその悲惨には当てはまらないと主張していた。
 誰も、フリーターとして生涯を送り、そして惨めな末路を送りたくはないのだろう。・・・結構だ。だが、会社員として生きる事が悲惨であるかないか、というのはまた別の問題になる。だが、人はそうは考えはしない。我々にとっての思考は、自分が悲惨になりたくないという感情と、そして、『悲惨』に分類されている他者とを軽蔑的に見下す、というその二つの事実で完結している。
 誰しもが、自分は惨めではない、または、惨めにはなりたくはない、と主張している。あるいは主張しようとしている。パスカルなら、次のように言うだろうか。『だから、君達は惨めなのだ』と。
 人間というのは根底から惨めである。王であろうと、王女であろうと、乞食であろうと、惨めである事に代わりはない。こういう確信を僕は持っているが、人はそうではない。だから、他人には僕は惨めに見える。そして、その他人の視線を使えば、僕には人々は惨めでないように見える。だが、それは、収入が保証されているから、とか、フリーターではないとか、正社員だから、とかいう事ではない。人々が惨めでないように見えるのは、『正社員』とか、そういう区切りをなんとなく自分達で作って、そして、これまたなんとなく、その円の内部を『正常』と呼び、そしてその外部を『異常』と呼んでいるからなのだ。現代はやたら、年収やら収入やらについてごちゃごちゃ言うが、実際は、心理的な問題が全てと言ってもいい。我々は千円のステーキより、三千円のステーキを食べなければならない。なぜなら、その方が、『良い』のだから・・・。こんな価値観は当たり前になっているが、こうした事がどこから由来し、どういう風に私達の肉体を支配しているのか、私達はほとんど感知していない。・・・人々は饒舌に語るが、その口は、不安に取り付かれた口だ。人々は言い知れぬ不安に駆られているから、自分の身を守るために、様々な言辞を弄する。そして、その言葉によって、人々の不安は更に増大する。・・・こうして、心理は事実へと変化していく。・・・こうした事が株式市場まで及べば(実際及んでいる)、唯物論を決定的に支配しているのは、人間の心理である、という事になるだろう。・・・我々の物、物性は、我々の半端な心理的混乱から起こっているが、この混乱に目をつむっているから、常に現実的混乱はその形を変えて、世界に吹き荒れる事になる。
 『正社員』は良く、『フリーター』はダメ、という区切り。・・・多分、そういう区切りをつけたければ、もっと無数につける事ができる。『年収五千万以下は非人間』・・・とか。また、そういう無数の区切りを人々はこれからもつけつづけるだろう。何故、そういう区切りを我々はつけたがるか。・・・その答えは簡単で、自己肯定したいからである。自分は『正常』の範囲にとどまっているから、大丈夫なのだ、と自分に言い聞かせたいからである。そして、その為には、『異常』な他人が必要になる。だから、我々はこうした線を区切る。そして、この区切った線の外側はもはや、人外の領域である。・・・誰もが正常であろうと願望している。・・・驚くべき事に、まったく狂気しか持たない冷酷な殺人者、無差別殺人の犯人ですらも、心の中では自分を正当化している。自分は正しい、だから、殺した・・・。人は自分を異常とは思えない性質の生き物なのかもしれない。自分は異常ではない、と考えたがるのは、人間の本能かもしれない。・・・そして、その背後にあるのは我々の不安である。そして、この不安の正体はどこにあるか?。・・・今は、誰もがゼロサムゲーム、椅子取りゲームをしているような世の中である。誰もが、創造の事になども思いも至らない。外国人が流入すると聞けば、すぐに労働が奪われると叫ぶ。関税がなくなれば、外国の粗悪な商品が流れ込むと怯える。・・・どうして、そんなに怯えるのか。自分達が物を作って、世界に売り込むのに、関税がなくなれば便利だ、と何故言わないのか。・・・我々は今、根本的に怯え、恐怖しているのだ。では何に?。何に怯えている?。
 その答えは、それぞれの個人にあるのかもしれないが、大雑把に言えば、歴史の流れにあるのだと思う。・・・要するに、我々はここ数十年で、先進国日本という国を作り上げ、そうして、いつの間にか、我々は攻めではなく、『守り』に入った。我々の今、願望する事は何かを作り出す事ではなく、誰からも奪われまいとする事だ。何かをしたい、という欲求よりも、何もしたくない、という欲求の方が強い。・・・あるいは、これは全世界的な現象なのかもしれない。僕達は、自分達に飽満しているが、その結果が不安と憎悪へと転化する。僕らは何かを作り上げたので、それを取り去られる事を恐れて、闘争を始める。そういう時代なのかもしれない。
 フリーターが惨めであり、会社員が惨めでないという価値観。・・・こういうものを見て、会社員の人間はほっと安堵するだろう。そして、フリーターは、『そんな事はない!』と主張するかもしれない。そしてニートは『働いたら負け』と今も独語しているかもしれない。そして、王族に位置するどなたかは、そういう下々を見て、うすにんまりとしているかもしれない。・・・世の中には実に様々な表情があるものだ。だが、その背後に位置する不安はおそらく、同種のものである。・・・さきほどは、中途半端に歴史の事など持ちだしたが、これを哲学的に考える事もできる。・・・つまり、我々は自分達の存在について思いを寄せる時、すぐに不安に陥るのだ、と。・・・王族であろうと、タンスに小指をぶつければ痛い。そして、内臓をえぐられれば、痛烈な痛みが押し寄せる。・・・こんな事は当たり前である。・・・我々は我々の身分を保証しようと躍起になっている。そして、躍起になればなるほど、僕らの身体性、その存在が、まるで痛みのように疼いて、僕達を不安に陥れる。僕らの身体はいつでも言っている。『お前は意識の上では神のつもりかもしれないが、ただの人間に過ぎない』と。・・・僕は、正論ばかり吐く人間が嫌いだが、彼らというのはまるで、人間ではないかのように語る。彼らは概念、イデーと同化した存在だ。考えるとは何か・・・それは、自分の存在に思いを致す、という事だ。では、自分の存在とは何か。それは、自分のみすぼらしい手、足、そしてその顔、そしてそのみすぼらしい脳髄、それらの事である。そして、我々が我々のみすぼらしさに気付くというのは、人間という種だけに許された特権である。人間が真に偉大であるのは、常に、自らのみすぼらしさを発見した時だったのだろう。・・・僕はそう信じて疑わない。
 ・・・人々が自分達は悲惨ではない、と必死に主張するなら、僕は、逆の事を主張してみよう。つまり、僕は自分の悲惨さに絶対の自信を持っているのだと。僕は、どこかで野良犬のように死ぬだろう。だが、それが病院で計器に囲まれて死ぬのとはどう違うのか。・・・人間というの不思議な生物だ。現在では、死を覆い隠し、人の存在を、その肉の臭いを、そうした生臭さを全て覆い隠そうとしているが、それは僕達に影のようについてきて離れないものだ。だから、その影に僕達は怯えて不安だ。だから、僕達は叫ぶ。「自分は正常だ!」「自分は間違ってない!」「自分はレールを外れていない!」。・・・おそらく、僕という人間は心底、みすぼらしく、そして悲惨な人間である。だが、僕も人々に習って、自分自身を主張しよう。『僕は悲惨だ。だが、それゆえに、僕は『僕』なのだ!』と。
 ・・・・僕が言いたい事は以上である。正常でない事にも一種の誇りはあるのだよ、ワトソン君。そう・・・・・・・たまには、聴きたまえ、異常者の声を。
 何か、未知の声が聞こえてくるかもしれないから。

物語の不在から始まる物語




 小林秀雄を読み返していて、色々と思う事、考える事があった。・・・それは結局、自分自身に関する事だが、自分の過去の誤ちについてでもある。・・・それは、今の時代で最も重要な事は、すぐに正解に飛びつく事が一番の間違いだという事である。こんな事を君はパラドックスだと思うだろうか。だが、人生というものが、パラドックスでないなら、それは何か。・・・僕達の生は矛盾に満ちているが、その矛盾は紙面の上では一応、整合性が取れているように見える。何故、そうなるかといえば、僕達の認識能力が低い為に、常に、僕達は現実を歪めずにはいられないからだ。・・・だからこそ、現実主義者と名のついた連中は常に、現実を矮小化する連中なのだ。この世には平凡もあるが、奇跡もあり、また天才もいるし、凡人もいる。世界は統計ではできていない。この世界をそのまま見るという事は、人間には常に重荷であり続けた。だからこそ、僕達は『そのまま物事を見る』という事を、常に、『自分達の平たい視線で見えるものだけを見る』という意味に、ずっと取り違えてきたのだ。・・・それは、当然、僕達凡人の自己防衛策であると共に、僕達の限界線でもある。

 文学に話を移そう。小林秀雄の新人Xへ、という文章を読んでいて、色々と思う事があった。・・・例えば、今、誰でもいいが、文学というものに思いをいたしながら、小説を作っている人がどれくらいいるだろうか。・・・あるいは次のように問うてもいいかもしれない。確かに、それは『文学的』な作品には違いないが、ちっとも面白くない作品というものがある。こういう作品を書いている『芥川賞的』作家、というものは、どんな事を考えて、小説を書いているのか、と。
 読者から見れば、せいぜい、面白い作品があればいいので、作家が苦しもうとどうだろうと、基本的に知った事ではない。読者や視聴者というものが、作品を見る目というのは常に、暇つぶし的なところがある。そして、現代のような社会では、鑑賞者というのは皆、上品な椅子に座って、そして目の前に次々に出てくる作品に対して『ふうむ、八十点』とか、『これは〇点』とか言っているようなものである。・・・だが、こういう光景は虚しくはないだろうか。・・・もし、虚しくないならな、それは実に結構な事である。しかし、ランキング形式の中に全てがあるなら、AKBは我々の生んだもっとも優れたアーティストではないのか。『いや、そんな事はない』・・・と言う人に対しても、僕は懐疑を抱いている。よくある議論の中に、『芸術は社会の為にあらねばならない』とか、『芸術も人々の役に立たなければならない』というものがある。・・・だとすると、一番売れて、一番、我々の耳目に影響を与えているAKBはやっぱり、一番の優れたアーティストだという事にならないか。・・・はっきり言って、その答えは正解である。・・・もちろん、それには留保がつく。それは人々の、低いレベルの一般的感受性を基準とするなら、それが正しい、という事である。・・・結局、我々は成長しなければならないのだ。鑑賞者としても。・・・まず、作品にケチをつける前に、自分にケチをつけるべきである。我々は成長し、学び、考えなければならない。だが、考え、学ぶ事を怠った人間が、この世界では常にでかい口を叩いている。それは何故かといえば、彼らは多数派だからである。彼らは多数派であるから、その次元の感受性に沿った作品を作る事をクリエイターに要求する。そして、そういう作品で世界は埋め尽くされるが、それは瞬間的に享受され、消費され、そして明滅する。そして、本当の意味で良い作品が、我々の感受性の練磨と世代交代の中で、残っていく。

 ・・・今、小説というものを考える時(そこにはアニメやゲームのシナリオも含んでいる)、そこには製作者や読者の、どんな態度が見られるだろうか。・・・例えば、野球を頑張る少年の話があり、また、妹が義理の兄に擦り寄ってくる話があったり、リアルな女性の悩みや、リアルな就職活動を描いた話があり・・・・だが、僕が疑問に思うのは、『リアル』とは何事か、という事である。僕は、自分を振り返り、自分に、自伝にできる要素が・・・いや、自伝というほどでなくても、僕という人間からはあらゆる物語が取り去られている事を感じる。僕にはどんな意味でも物語がない。これは、描く価値のない平凡な人物である。・・・だが、世界に小説は山とありふれている。・・・おそらく、彼らは、自分自身に一切の物語がない事に目をそむける事から、無限の物語を書く事を自分に許したのである。今、世界にはそのような小説が溢れている。そして、自分自身のみすぼらしさ、その物語のなさ、と、小説の中の空想的な波瀾万丈との偏差は拡大する一方である。我々はせいぜい、仕事場と自宅を往復したり、学校と自宅を往復したりする毎日の中で、そうした合間に、様々な異常や殺戮やSF的な作品を楽しんだりする。・・・この差は増大する一方である。現代社会の主要な特徴は、自分というものを一切、忘却するという事にある。
 だが、あるいはそれこそ、『リアル』な、日常を描いた作品というのもあるだろう。・・・だが、その日常とは何か。友人と馬鹿騒ぎして、飲んで愚痴を言う事か、『モトカノ』から急に電話がかかってきた事だろうか。・・・それらには、どんな深遠な意味があるだろうか。・・・別に嫌味を言うつもりではないが、しかし、我々の生活がどうあがいても、何の物語もない世界である事だけは、確かなように思える。
 そして、この物語の本質的な空虚に、様々な空想的物語が流入しているのが、現在の、小説やシナリオの現状であると僕は思う。つまり、人はある作品を目の前にする時、(それが古典であろうと何であろうと)既に一つの前提を有している。それはつまり、その目の前の作品が、自分の人生観とか、自分の存在に変化を与える一つの雷鳴である事は決してない、という前提である。何故かといえば、我々はもう全ての物を趣味的に見る事に馴れているからである。・・・だからこうまでも、「クオリティ」がどうの、「うまいかへたか」という事が問題になるのだ。つまり、我々は決定的に自分を忘れている。自分という存在と芸術作品との間には、永遠に消えない溝があり、そして、その溝が消える事は決してないのだ。・・・これは作品を作る側でもそうであり、作品を作って、せいぜい人々を楽しませる事ができれば十分だと、作り手側の人間も考えている。そこにあるのは、我々のみすぼらしさという空虚に流入した、享楽的な空間である。
 我々はこの享楽的な空間に生きている。・・・では、それの何がまずいというのか。こういう空間は、芸術にとって、正当な位置ではないのか。・・・つまり、あらゆるフィクションは娯楽にすぎず、芸術とは、所詮、絵空事に過ぎない。・・・そのような価値観は肯定さるべきなのではないか。
 もちろん、それでも構わないが、では、その娯楽を楽しむ人々の存在とは何か、という問いを僕は提起したい。・・・芸術を趣味的に鑑賞し、そして、自分は仕事場と自宅の往復であり、そして、家族がいて、子供がいる。そして、日曜には趣味のサーフィンを楽しむ・・・結構な事である。では、人生とは何か。全ては、我々の耳目を楽しませる為の、娯楽にすぎないというのか。・・・だとすると、君とは一体、何か。君とは・・・何だ?。今は誰もが、自分の為に何かをしてくれる事を願望している時代だ。だが、君とは何だ?。・・・君のあらゆる欲望を充足させる事は誰にもできない。・・・だが、君の欲望とはそもそも、一体、何だ?。・・・土用の丑の日にうなぎが食いたくなったのは、君の欲望か。それとも、この世界が望んだ事なのか。・・・君はいつの間にか、主体性を失っている事に気付くだろう。君は、何になりたいのだ。皆がやっている事を自分も一つ残らずやる事か。世界中の人から、賞賛される事か。じゃあ、その賞賛される君とは何か。そんな賞賛に値するのか、君は。
 だが、この「君」ーーー「自分」という存在を忘却する事に、現代の文化は成立している。自分という空無に目をそむける事に、この世界はあらゆるエネルギーを使っている。自分とは何か・・・。そんな問いは忘れておきたい。だから、僕達は自分達の醜貌(あえてそう言う)を忘れて、画面の中の美貌を見て、そうして「○」とか「×」とか言っているのだ。君の顔は何だ・・・。だが、誰からもそう言われたくない。だから、僕達はこれを忘れた。そして、忘れる所に、あらゆるメディアと、それが作った物語が成立している。だから、この世界というのは、二つの構成要素で成立している。それは、自分自身という無と、そして世界という空虚がつくりあげた架空の物語ーーーその二つである。
 ここまで書けば、僕は自分の中の毒を十分吐いた事になるのだが、ここで、全く異端の中の異端、神聖かまってちゃんというバンドがどのような、全く次元の違う物語を作ったのか、それを書いておこう。・・・実際、この問いに答える事ができるのは神聖かまってちゃんしかいない。・・・このバンドには「ロックンロールは鳴り止まないっ」という曲がある。その歌詞。




最近の曲なんかもうクソみたいな曲だらけさ!
なんて事を君は言う、いつの時代でも

だから
僕は今すぐ、今すぐ、今すぐ叫ぶよ
君に今すぐ、今、僕のギター鳴らしてやる



ここで、始めて、一筋の物語が生まれる事になる。・・・僕は大げさに言っているのではない。ここでは、これまでにない、新しい場面が生まれているのだ。・・・これまで、全てのクリエイターは、『鑑賞者』としての座に収まった人々に対して、自分達の作った物語をおずおずと差し出してきた。・・・それが否定されるにせよ、肯定されるにせよ、この鑑賞者としての人々の座は絶対であり、それは揺らぐ事のないものだった。人々は趣味者として、あらゆる作品を鑑賞し、そして、○とか×とかを出す、神のような存在だった。・・・あらゆる芸術に前提があった。人々はそれを自由に嗜好する事ができた。・・・だが、ここで神聖かまってちゃんの『の子』というキチガイがギター一本を手に、立ち上がったのである。つまり、彼は言う。「最近の曲はクソみたいな曲だらけだと君は言う いつの時代でも だから、僕は・・・」。この、『だから』に注目していただきたい。ここで、この愚かな少年はたった一人で、世界に立ち向かっている。世界とはいつの間にか、自己を忘却した、人々の無数の光る目となっていた。世界とは常に、人々の鑑賞、その無数の視線と、それを受ける演劇者・・・そのような二点によって成立していた。世界とはもう既に、テレビ化していた。つまり、見る無数の視線と、見られる一人の演技者との。・・・そして、この演技者がどんなに優雅で格好良く、そして可愛くて素敵に見えても、それが人々の無数の視線の奴隷である事は避けようがない事実なのである。そして、この無数の視線に逆らう事は、世界からの放逐を意味した。・・・人々は自分達の醜貌を忘れたが、その醜貌を指摘するのは、この世界では禁忌だったのである。・・・人々は無名であり、平凡であり、また多数派だったが、それゆえに人々は絶対的な存在だった。自己を忘れた人々は一つの目となっていたので、見られる者は人々の『目』に叶うように演技しなければならなかった。だが、この『ロックンロールは鳴り止まないっ』という曲で、この作曲者の少年は、世界に挑みかかる。・・・正に、ギターと、そして音楽だけを武器に。「最近の曲はクソみたい曲だらけさと君は言う だから、僕は今すぐ叫ぶよ!」・・・。ここで、始めて、物語が、趣味的な次元を超えた事が明かされるのだ。・・・そう、問題は『クオリティ』を上げる事にあるのでも、技術を上げる事にあるのでもなかった。問題は・・・人々につかみかかる事だった。人々に、闘争を挑む事。そして、孤立する事である。・・・こんな闘争は、これまで、誰もが恐れてきた事だった。・・・例えば、デカルトの闘争を考えてみよう。彼が『我思う故に我あり』と言った時、彼は一人だった。その時、世界は消えていた。・・・では、消された世界の方はこのデカルトに挑みかかっただろうか?。・・・そうかもしれない。だが、この時、デカルトは単なる学者や哲学者のたぐいではなく、思考のみを武器に世界に挑みかかった闘争者だったのである。そう・・・そういう事だ。我々の世界においてはどうか。誰が、こんな冒険を果たしたか。世界に物語は溢れている。だが、自分に物語が存在しない事を認識して、そして、そうした世界に挑みかかかる物語がこれまで、世界の一体どこにあったのか。・・・神聖かまってちゃんとは、正に、この曲で、そうした事を果たしたのだ。僕が、神聖かまってちゃんというバンドを利用して言及したい事は、そうした事である。
 ・・・以上が、大体、僕の言いたい事である。・・・また、これこそが、僕のやりたい事である。先に言っておくと、世界に闘争を挑む事は当然、世界から疎外される事を含むので、まっとうな人間はこれを避ける。ここからは正に、『キチガイ』の歩く道である。だが、我々の歩く道、その先がどうなっているか、誰が知ろう?・・・。世界には人々に向けた安堵した物語が溢れているが、僕にはそれでは物足りない。もう、『クオリティの高い』作品は十分だ。なぜなら、それは『クオリティ』の意味について一度も自己言及した事がない作品だからである。僕達が歩く道は、天国ではないのだ。・・・我々が本当に歩まなければならない道は、最初から整備された道ではない。・・・天国を歩む事から始めれば、我々は地獄へと堕ちる事になろう。そして、それが地獄である事を意識的に拒否すればするほど、その地獄は深淵となり、そして我々は深く落ちていく事になる。今、僕達はそこに真っ先に落ちている最中だ。・・・あらゆる物語が剥がれ落ちるだろう。・・・この現実という物語の不在によって。・・・だが、その場合にも一匙の物語は存在する。・・・いや、それは存在すると言うより、作り出す、というべきだろう。ドストエフスキーを見よ。・・・徹底的に思索的で、どんな物語も存在しない、全てを拒否したラスコーリニコフという青年にもまた、別種の物語がやってくる。・・・あらゆる物語を拒否したこの人間にやってくる物語が悲劇か喜劇か、誰が知る事ができるだろうか。・・・だが、確かなのは、この全てを拒否した青年にやってくる物語とは、全ての物語を拒否したがゆえにやってくる物語であるという事だ。・・・今の我々はもちろん、『罪と罰』を過去の名作として読むに違いない。・・・つまり、我々はそれを過去の物語の『一つ』として読む。だからこそ、小説志望者は次のように考える。『自分もこんな物語を書けばいいのだな』・・・と。だが、僕は繰り返して言おう。ラスコーリニコフに物語はなかった。彼にはあらゆる物語が消失していた。だからこそ、彼には前代未聞の物語が訪れた。僕達がそこから学ぶ事は、その物語の筋ではない。・・・そうではなく、虚無にも一つの物語が訪れる、という人生の真実である。そして、それを現代において、神聖かまってちゃんはやった。そう、僕ははっきりと断言できる。クオリティの高い作品は他にいくらでもある。だが、僕達が自分達の醜貌を見過ごす事は、僕達がもし真のアーティストになりたいのであるなら、許された事ではない。僕達はまず、自分の無を見つめる事からはじめなければならないが、しかし、これは多分、死ぬよりもずっと辛いことなのだ。・・・だからこそ、おそらく、この点で『才能』というものは選別されるのだろう。文章がうまいとか、歌がうまいとか、そんな事はどうでもいいのだ。そして、ここで始めて厳粛な『才能』の意味が現れる。まず、我々は我々を求めねばならないのだ。この世界の潮流に真っ向から反して。
 ・・・そして、それが現代の芸術の最大の問題である、と僕は思う。だから今、世界に芸術は存在しない。・・・だが、芸術の形式は存在する。芸術の雑誌は、芸術の教師は、芸術に関するサイトはあるが、しかし、芸術は存在しない。だから我々は・・・しかし、これ以上は口をつぐもう。ここから先は、各々の実践に関わっている。そして、その中には僕も入っている。そして、僕自身が自分が言った事を実践できるかどうかはまだ未知である。だが、今僕は、少なくとも、その課題については示し得たのではないか、と思っている。そして、今の僕にとっては、課題を示す事こそが答えなのだ。問題は虚無なのであり、有ではない。一番遠回りした者が一番遠くまで行く事ができる。一番沈み込んだ者が、一番高い所に到達できる。だが、人はすぐに伸び上がろうとするので、自分よりもほんの少し上の点でとどまってしまうのだ。
 虚無を有する事によって、この宇宙よりも大きな世界を持つ事ができる。・・・それは既に、パスカルが証明した事だ。では、僕はここでこのペンを置く事にする。僕は虚無を有するすぐれた実践家が、いつの時代にも現れる事を信じている。・・・もちろん、僕自身その中に含めて。

無意味に捧ぐ一杯の文章


 我々の世界に哲学が絶えて久しい。・・・言うまでもないが、哲学研究者とは哲学者とは全く違う種類の生き物だ。女好きと女は全然違う、と糸井重里が上手い事言っていたが、その通り。今は、哲学者は一人もいないが、哲学研究者は大学にごろごろ転がっている。何故、そうなるかと言えば、哲学者たる者は、せいぜい乞食のような風貌で、街頭をうろつくか、それとも自宅でひっくり返って寝転がっているか、それくらいしかやる事がないからだ。・・・哲学とは正に、そんなものだが、それに目をつけた弟子や研究者達は、彼らを祭りあげて、そして、その弟子達はきっと御殿を作るに違いない。マルクスを神に祭り上げたスターリンは王の地位にいたが、マルクスそのものは極貧生活に甘んじていた。だが、偉大なのはどちらか・・・こんな問いは、おそらく、放つまでもないだろう。君はどちらが優れているのか、すぐに分かるだろう。・・・だが、人がどちらを『望む』かといえば、話は違ってくる。・・・私の考えでは、偉大さというのはいつも惨めなものなのだ。
 惨めであれ。


 神聖かまってちゃんというバンドが僕は好きで、おそらく、このバンドに一番高い価値を与えているのは僕ではないか、というぐらいに僕は神聖かまってちゃんを高く評価している。その理由については、もう散々書いたので、あまりくどくどは書かないが、神聖かまってちゃんは幾多の欠点にも関わらず、一つの哲学を有しているという点に、重要な点があるのだ。・・・僕は神聖かまってちゃんを始めて聴いた時に、僕は一つの解放を感じた。つまり、我々の頭上を覆っている暗い雲が取り払われるのを、身近に感じたのだった。それは、どういう事か。・・・僕達が何をするにしても、あらゆる物事に、『教科書』『参考書』が先行している。我々は何かを始める前に、すでにその道の達人らしき人物がいたり、玄人達の評論が待っている事を予期して、そして、しり込みする。・・・要するに、恥ずかしい思いをしたくない為に、私達はいつも『それっぽい』作品を作ったり、『それらしい』事をする事に、自分のエネルギーを費やし、そしてそうやって、自分自身の生涯をも消費してしまうのである。神聖かまってちゃんが僕に与えた解放は、正に、それに対する反抗、そして、自由、という事だった。そして、この自由という問題は、自分のみすぼらしさ、くだらなさを素直に認めるという事と直結している。・・・自分というもののくだらなさ、卑小さを、自己認識する事ができないなら、芸術などはすぐに捨ててしまったほうがいい。どんな有名でも、どんなに歌がうまくても、自己の卑小さを認識できていない芸術は、芸術の名に値しない。それは、衣装だけ豪奢な、芸術とは違う何か別の物だ。・・・例えば、そういうバンドを、プロでも素人で見受ける事ができる。表面だけ、格好いい、「ザ・バンド」的な。・・・理解力が乏しい、ティーンエイジャーの少年少女はそれに惹きつけられるかもしれないが、そんな事はどうでもいい。・・・この世界は厳粛である。・・・我々に必要なのは、この世界の厳粛さに抵抗できるだけの芸術である。・・・もちろん、暇つぶしや享楽的な作品も、必要なのだが、我々が常に真に欲しているのは、この現実と抵抗できるだけの芸術作品である。・・・当然、そういう作品には現実の難解さを含む、複雑なものになるかもしれない。・・・そこには、現実の濁ったものに対応する、濁った感情も入っているかもしれない。・・・大衆的娯楽作品というものは、私見によると、常に、この世界の上澄みをすくったような作品が多い。・・・あるいは、偽悪的な、それこそ『通』に受けるものもあるが、それらはどちらも、一つの面の裏表に過ぎない。例えば、シェイクスピアの作品を読めば、そこには人間の美も醜も、悪も善も全てが入っている。そして、全てが入っているにも関わらず、シェイクスピアはそれを一つの芸術作品へと結晶させている。・・・こういうのは、いわば、現実というものを全て自分の手の平にすくいあげ、そして作品に昇華させているようなものだ。シェイクスピアの手から逃れる現実は一滴もない。彼は、全てを自分の作品に盛り、そして、それを一つの作品に結晶化させている。・・・その手腕は正に、この現実という複雑かつ、茫漠とした素材を織り上げ、一つの結晶へと織り上げる神匠のようだ。・・・彼はそのように世界を結晶化した。我々は、その作品を固唾を呑んで見守るしかない。彼の作品は、そういうレベルまで達している。
 もちろん、神聖かまってちゃんはそういうレベルにまでは達してはいない。彼らのしている事は、あくまでも、この世界への絶えざる反抗であり、この世界そのものの昇華ではない。シェイクスピアというのは、我々にとって宇宙の果ての住人であり、その力の奥深さは到底、想像できないものだ。・・・だが、神聖かまってちゃんでも、我々にとっては十分である。この、小手先だけの技術全盛の時代に、誰が『表現』という事を考えているだろうか。・・・例えば、僕にはさっぱりわからないインテリ連中・・・例えば、浅田彰や、柄谷行人や、東浩紀など。彼らは一体、何だろうか。僕は自分が東大を出ていないからという理由で、彼らを恐れるだろうか。・・・どうでもいい事だ。僕には、僕という一人の人間が対応している。その、一つの像が。それが不正確でも構わない。重要なのは、それが僕がとらえた僕自身であるという事に尽きる。小林秀雄はかつて書いていた。「自分は貧乏で自意識を持っている。そして、それだけで自身の真実の心を語るのに不足はないのだ」と。・・・不足ばっかり言っている人間には小林秀雄に勝つ事はできないし、また、党派性やアカデミックなものの陰に隠れている人間が、小林に勝てないのは当然の事なのだ。・・・人々はいつの時代でも、孤独な個人を党派性によって否定するという事をしてきた。(今もそれをしている真っ最中だ。)だが、本当に強いのは、裸の個人である事、そしてそれを恐れずに真っ先に認識した人間である。・・・党派性は流れ去るが、個人は残るだろう。これは僕の勝手な考えだが、スターリンが去っても、ドストエフスキーは残った。ドストエフスキーは、近代と現代を架橋する一つの橋である。だが、スターリンとは我々の病理の具現化である。・・・もちろん、それには病理としての大きな意味はあるのだが。だが、残るのはドストエフスキーという卑小な個人である。残ったのはドストエフスキーという一人の病人が残した作品である。残ったのは、システムではない。・・・人間を忘れたシステムというのはありえない。・・・だが、我々の人間性の複雑さにうんざりした人間達が、人間性を否定するシステムを作り上げる、という事は歴史上にずっと起こってきた。たが、その時に反抗を起こすのは、我々の中の人間性である。・・・今の世の中では、全てが他人ごとになっている。自分の身を守るために、命をかけて戦え。・・・戦うのは自分でなく、他人である。そして、その他人とは、『自分』の中で非人間化された、ロボットのようなイデーの兵士である。概念そのものが人間なのではないが、そう想定する事は可能である。そして、その想定は常に、人間に内在する、人間性の深さ故に、破れる事になるだろう。・・・・あくまで、それは『最終的な』話なのだが。
 少し書くつもりが、随分と好き勝手な事を書いてしまった。・・・元々、僕は何か書きたい事があったのではない。そうではなく、『何かを書きたいと思ったから』書き始めたのだ。これはシオランの言葉だが、正確な言葉だ。・・・つまり、書く内容はなんでもいいのだが、何かを書きたいと僕は感じたために書き始めたのだ。・・・こういう、物の書き方というのを考えてみると、言葉は概念や意味という重荷を捨てて、そして、一つの旋律へと、音楽へと昇華したがっているのかもしれない、とも思う。とにかく、僕は書いた・・・。僕にとって、人々は不動だが、人々にとって、僕は得体のしれない存在であろう。だが、僕にとって、僕が得体が知れなくなったのは、元々、人々が何を目的に動いているかを知らないように見えたからである。人々は常に、自己認識を怠り、他者認識から始めるために、ついに自分に対する消えない不満を抱いたまま、この世界を去る事になる。では、この僕は、その逆になるだろうか?。・・・つまり、僕は自分に対する満足と引き換えに、世界に対する永遠に消えない遺恨を残してこの世から去るだろうか?。・・・答えはイエス。だが、僕にはまだ、やる事がある。時はまだ止まってはいないのだ。今、世界は可変の速度を急激にする事によって、その時を止めようとしている。システムの流動性は無限の光速に近づき、それゆえに個人の時間は完全に消失しようとしている。だから、僕は自分の脳髄の時をとどめ、そして、そこに一種の、時の流れる空間を作ろう。そして、それが僕がこれから作るあらゆる創作物のその源泉となるはずだ。そして、願わくば、その源泉がしばらくの間、枯れない事を。
 今はーーーー21世紀だ。以前に、太宰治が、二十世紀にも芸術の天才がいるのかどうかと問うていたが、21世紀ともなれば・・・・・・いや、しかし、僕は口をつぐもう。僕はここで、キーボードを叩く手を緩める事にする。元々、この文章に意味はなかった。僕がこの文を書き始めたのは、バイトの疲れ故、そしてコンビニで買ったチューハイの六%アルコール故である。だから、この文章は最初の無意味に、ここで再び戻った事になるだろう。・・・・それでは、また。

 無意味に、乾杯。
 

君へ




我々が何を思い、何を望んでいるのか

世界が一体、時速何ミリメートルで動いているのか

それとも、それは全然動いていないのか

・・・そのような事は

教科書には書いていない

・・・誰にもゴールがあって、目的もあるのだが

その意味について問う人はごく少ない

だから、役に立つという言葉は漠然と

千円の肉より三千円の肉を食う方がいいというような

わかりやすい価値観を与えられている

だが、君には脂身の少ない

鳥のささみの方がいいかもしれないな

・・・多分、医者はそんな風に言うだろう

だが、君は首を横に振って

そして、いつかやってくるはずの輝かしい未来へとまた

その想念を伸ばすのだ

・・・僕は言おう

君が望んでいるものはどうあがいても

君が絶対に手に入れる事のできないものだ

なぜなら、君は不可能を望む事によって

歩き出そうとしない自分を慰め続けているのだから

他人を憎んでみたまえ・・・すぐに、その他人は

君の人生の目的となるだろう

だから、僕は聞こう

君は君の存在を忘却して

そして、自分以外の物に熱中する人生で

それで、満足なのか?・・・と

だが、君にはおそらく、「満足」の意味が

もう満足にはわからないだろう

だから、君は今日もネットに愚痴を書き込むのだ

そして、忘れ去られた君は君の後ろで

君を絞め殺す準備をしている

君はやがて、自分に殺されるだろう

君が他人を殺そうとした、その故に

僕達が作った幻像と自己の関係に関する、支離滅裂な散文


 我々が生きているという事実は、我々の問いと答えを常に内包しているのだが、我々は常に、その答えも問いも、自分の外側に探しに行って、平気である。おそらく、余人には、自己自身にとどまるという事は極めて難しいのだろう。・・・自己の問題を忘れて、世界を救おうと努力する事ほど滑稽な事ではないが、今、その滑稽はこの世では美談として通用する。この世界とは、そのようなものである。

 まず、僕達の問題が僕達の中にある、とはどういう事か。そして、僕達の答えが僕達の中にある、とはどういう事か・・・。例えば、本屋には次のような本が置いてある。「あなたの人生を豊かにする○○の言葉」・・・というような本が。僕はこういう本を目にすると、要するに、「絶対当たる競馬予想ブック」みたいなものと同じ臭いしか感じ取る事ができない。・・・普段は何も考えず、平凡に生き、そして週末だけにふいと本を買って少し読み、それで人生が豊かになるなら、まあ、儲けものだろう。だが、儲けるとは何か、豊かになるとは何か、そういう事を人は追い詰めて考えないので、全ては曖昧なままに流れている。少し前にニーチェがベストセラーになった事があったが、その様子をもし、天国の(あるいは地獄の)ニーチェが見ていたとしたら、おそらく、かんかんに怒って、この地上界に降り立って、そしてそのニーチェ本を全て焼き払った事だろう。・・・あるいは別の言い方をするのなら、ぼろきれまとったイエス・キリストは、大御殿に住むキリスト教の法王だか何だかを見て、いかに思うだろうか。・・・こんな喜劇は正に輪廻のように、この地上界では起こっているわけだが、では、我々の幸福や不幸とは何だろうか。・・・あるいは「人生が豊かになる」とは何だろうか。

 ・・・どこから切っても言いのだが、例えば、『恋愛』というものについて考えてみたい。・・・恋愛というのは、現在、かなり特異な地位を占めている。それが成就すれば、「リア充」「勝ち組」・・・のような、称号すら得られるそうな。・・・おそらく、過去の歴史において、これほどまでに恋愛が称揚された時代はなかったであろう。そして、恋愛というのは、我々の間に、かなり奇妙な存在として、現れている。僕達はそれを否定するにせよ、それを褒めるにせよ、それを避けて通る事はできない。あるいは、そのような社会的枠組みがすでにできあがってしまっているのだ。
 ・・・現代の所、『恋愛』というものを上手く書いている作家は、例えば、村上春樹だろう。そして、それを吉本隆明が上手い事、解説していた。この辺りの事を、問題の糸口に使わせてもらいたい。・・・おそらく、『問題の解決』はどこにも見当たらないだろうが。
 例えば、現代の恋愛事情の中で、僕がある女と付き合うとする。そして、その女も僕の事を好きになって、付き合うとする。・・・きっかけはなんでもいい。バイトが一緒とか、職場が一緒とか、学校のサークルで会った、とか。それは何でもいい。それで、僕とその女は付き合う。さて、ここで、どんな問題が起こるか。
 まず、我々の社会では個人が、交換可能な世界である。・・・単純に考えて、人口が多い事、平和で温和な社会が持続し、そして全てが平準化した事が考えられる。そして、このような社会では、人間は一つの歯車であると同時に、またそれは交換可能な歯車である。・・・僕のシフトが開けば、それを別の誰かが埋める。・・・事はそれで終わりである。
 では、『内面的』とされる、我々の人間関係ではどうだろうか。
 パスカルが上手い事を言っている。「私とは何だろうか?」。・・・パスカルはそれに一つの適切な答えを与える。「・・・例えば、誰かが窓の外を見ていて、そこを通りかかる人を見ようとしている。そして、そこにたまたま私が通りかかるとする。この時、その人は、私を見ようとしただろうか。・・・答えは、否」
 パスカルの答えは実に適切であり、時を越えても、平気で通用する真理である。これを現代にあてはめると、次のようになる。・・・私は、目の前の女を愛している。だが、それは『彼女自身』を愛している事になるだろうか?。・・・答えは、否。


 恋愛好きの、現代の我々にとって、必要なのは『誰か』のぬくもりであって、決して、『その人』そのものではない。この微妙な自己認識のズレ・・・この点を、吉本隆明は、村上春樹の小説の中に適切に読み取っていたのだが、これこそが我々が抱える根底的な問題である。そして、この点は他の様々な点に、流用する事ができる。・・・例えば、職業。我々の中で、自分の職業と、自分のアイデンティティが一致している人間が、一体、何人くらいいるだろうか?。・・・人が待遇についてのみ、云々しているのは実に『素敵な』事である。・・・現代では、自分のしている仕事と、自分自身の存在の乖離が決定的となり、そして、その溝はもはや定式化してしまった。だから、現代、問題になるのは、ただ、その待遇や給料の問題だけになっている。・・・つまり、『仕事はなんでもよい。待遇を良くしたまえ』というのが、人々の今の本音なのだろう。・・・おそらくは。だから、全ては賃仕事であると同時に、労働時間によって給料が決まる、そのような時間仕事になっていく。・・・ここでも、問題は、我々の存在と、我々の職業との間に、何らの接点がない、という点にある。我々は、ロボットではないが、しかし、世界は我々にロボットである事を強いる。だからこそ、我々は我々の精神もロボット的に改造したほうが、生きるのが楽になる、というものである。


 こうした問題をもう少し、引き伸ばしてみよう。・・・例えば、品行方正だと見られていた会社員や教師が、とんでもなく凶悪な事件を起こすという事件が、ニュースで報道されたりする。あるいはまた、職場では「大人しく無口な人物」が、ある日、何かをきっかけに、これまた凶悪な事件を平気で引き起こす。・・・こうした事はもう普通になってしまったが、こうした事もまた、我々の本性や性格、我々個人の存在と社会的な我々の姿が決定的に乖離している為に、起こる現象の一つだと言える。つまり、我々は普段から、社会的衣装で自分を着飾る事に慣れてしまっている為に、その下の本性についてはもう、誰も問う事ができないでいる。家族があり、会社がある。職場があり、学校があり、友人があり、また、恋人がいる。だがしかし、それらの人間関係の内に、自分個人の特異な存在はどこにも存在できる余地がないために、この抑圧された卑小な『自己』は、どこかにはけ口を求めて、そして、犯罪に走ってしまったりするのであろう。・・・以前に、SMAPの草彅剛が、夜中に公園で裸で暴れて、捕まった事があった。この事件のニュースをはじめて知った時、僕はどちらかというと、安堵に似たような気持ちを味わった。・・・もちろん、深夜に公園で裸で暴れる事は社会的には良くない事だろうが、あまりにも、社会化された存在であるSMAPのメンバーがそのような事件を起こしたという事に、何というか・・・・・・確かな、真実を、僕は感じた。・・・もちろん、こういう感じ方は僕の憶測で、何の根拠もない。だが、SMAPのような『スター』的な存在の事を、少しは自分と同じ人間としての延長線として考えてみるがいい。彼らは常に、この世界によって非人間的な像、一種の仮構され、人工化された像を背負わされている。そして、その像の重みは我々には想像もつかない重みであろう。もちろん、彼らはそれによる恩恵も受けているし、また、彼ら自身がそういう職業を選択しているのだから、別に彼らに同情しなければならないいわれはない。しかし、彼らがこの世界で負っている役割というものを、まっとうな神経で(画面越しでなく、同じ人間として)考えてみるなら、彼らの背負うその幻像の重さに、僕は思わずぞっとする。そして、それはこの社会が生んだ一つの怪物でもある。そして、草彅剛のような人物が、その無意識の内のストレスに耐えかねて、そのような小さな事件を起こしたとしても、それはありうる事であるし、また、その程度なら、同情に値するかもしれない・・・。


 もちろん、我々はタレントや芸能人のように、巨大な像を負っている存在ではない。だが、確かに、我々は社会によってある種の幻像を強要されている存在ではあるのだ。例えば、(これもタレントの範疇に入るが)『勝間和代』みたいなキャラクターを考えてみよう。勝間和代自身が自分をどう考えているのかは知らないが、こういう人物というのは、僕から見れば、いわば『アニメ化』されたような人物である。そして、その人物自身が一生懸命、その加工されたキャラクター像を追いかけている、という点に、滑稽だが、また同時に、現在的な問題がある。仕事ができる、努力している、人生安泰であり、働きつつも子育てをする立派なキャリアウーマン・・・・、それらの幻像を追いかける事は、さぞ疲れる事だろう。だが、神なき今、我々は何かのモデルを必要とする。自分をそこに重ねあわせて、安堵できる何かを、我々は常に必要としている。だから、そういう大衆意志がメディアを通じて、様々なキャラクターを生み出す。・・・あるいは、我々が文句なく馬鹿にできる存在を。・・・少し前に『お馬鹿キャラ』などというものが流行ったが、もちろん、馬鹿なのはそういうキャラクターを心底馬鹿にしている我々である。相手の手の平に乗っているくせに、全てが自分のものであるかのような顔をしている、我々の方である。馬鹿なのは。


 少し話がずれた。まあいい。とにかく、問題というのは、そういう点にある。つまり、自分という存在と、与えられた自分という像の乖離に。そして、この行方は、まだ、誰にも分かってはいない。・・・恋愛に話を戻すなら、僕という存在が、例え、別の誰かと付き合い、愛撫しあったとしても、そこにいるのは僕ではなく、また、その当の相手ではない・・・。我々は常に、この世界をドッペルゲンガー的に生きているのであって、それは我々にもどうしようもない問題なのである。・・・相手にとって、僕は他の誰かと交換可能であり、そして、僕にとっても、相手は他の誰かと交換可能である。・・・だから、職業の場合と同じように、容姿や社会的地位や、または収入のみが問題になってくる。・・・こうすると、全ては一つの点に収斂されてきて、また、ここで、更なる、自己自身との乖離が始まる事になる。なぜなら、収入や社会的地位というのは、僕という人間から切ったり離したりできるものだからである。・・・こうして、今や世界は自分というかけがえのない存在から離れて、誰もが資本主義の作った幻を追っていくランナーへと変貌していく。彼らの願いは、自分と決定的に別れを告げる事であり、そして、遂に手に入れる事はできない幻像へと変化する事。・・・言ってみれば、その願いは「アニメ化」する事であり、「アニメキャラ」の一人なる事である。そして、その時、我々に与えられた『自意識』は遂に消え去る事になり、そうして人類は一つの頂点へと辿り着く事なろう。つまり、そこで、我々は我々の魂を捨て去る事に成功するのだ。何故か?・・・。自意識などが無駄である以上、我々はアニメの中の作品のキャラクターのように、振り子状に、考える事なく、動くようになるだろう。・・・まるでパブロフの犬のように。そこで、我々は我々の願いが成就されるのを知る事になる。我々は気づけば、誰しもが『お姫様』であるか、『王子様』であるのだ。そこでは、どのような欲望の成就も可能だが、しかし、そこでは自己認識だけは断じて許されていない。・・・そこで、我々は始めて、真の幸福を手に入れるのだが、しかし、その幸福を認識する術を、その瞬間に失うのだ。僕はーーーーーふいに、パスカルを思うのだが、彼の孤独は、多分、この宇宙に穴を開けたのだろう、と思う。僕も人並みにーーーー幸せになりたいと思っている。良い会社に入り、綺麗な相手と結婚して、良い家庭生活を送りたいものである。しかし、それ以上に、僕には孤独の必然が、パスカル的思考がやってきて道を塞いでしまった。だから、今、世界は僕には、穴ぼこに見えるのだが、しかし、世界から見れば、穴が空いているのは僕という存在だろう。僕という存在は世界にとっては病でしかないのだが、しかし、少なくとも、この病は自己を認識する事は知っていた。


 ・・・あまり、くどくどと言う事は止めよう。そして、その代わり、こうは言う事ができる。真に己を求める事、自己を求める事は、間違いなく、不幸への道である。そして、勝間和代的に、他人から与えられた像を追っかける事は、我々の幸福への道である、と。だが、この幸福がどのような滑稽を経て、そして悲劇へと転化するかは、今はまだ、誰にも理解できはしまい。・・・そして、この世で最大の悲劇とは、悲劇を認識する者が一人もいないという事以外にはない。世界は、今、滑稽な喜劇で埋め尽くされている。そして、誰もがこの滑稽な喜劇の一員になる事を願望している。だから、世界には悲劇のかけらもない。世界は笑いで満ち、そして励ましや希望で溢れている。だからこそ、この世界そのものこそが悲劇なのだ。・・・そして、この世界そのものが悲劇である事を認識するのには、大勢の人々は必要ない。それは、たった一人の人間の脳髄で足りるのだ。そう、ちょうど、パスカルその人のような。・・・そして、認識する事が力であるという事を我々が知る時、ようやく、我々の喜劇をそれにより救済されるのかもしれない。だが、そのような時はこれから先もずっと、来ないであろう。・・・だがしかし、私は認識する。私自身の悲劇を。そして、それはこの世界の喜劇からはじき出されたものの悲劇なのだ。そして、こんな文章に何の意味がないにせよ・・・・・とにかく、この今、私は存在しているのだ。存在していない私という存在を感じる事によって。そう、それを感じる痛みによって。世界は麻酔をかけられている為に、痛みを感じない。だが、私は痛みを感じる。そして、その痛みだけがーーーー私に私自身の存在を触知させてくれるなにものかなのだ。私は今生きている。誰がなんと言おうと。だが、同時に私はみすぼらしく、世界の外にいる存在だ。・・・さて、私のこの文章もここで終わりにしよう。私には元々、語りたい事があったのではない。私に元々あったのは、『何かを語りたいという意志』なのだ。だから、この文章は未完成のままに閉じる。だが、私にとっては、未完成こそが完成である。私の生は持続していく。・・・そして、その先、私が何を見るのか、この世界は毛ほども知る事はできまい。そして、それは私にも知る事ができない。未来は私の中にあって、また、その外にある。だが、この世界がゆりかごの中にある時、未来は常に、その判断の手から逃れていく。そして、この今、私にとっては、この文章を書く事が私にとっての未来である。・・・なぜなら、私は肉体にすぎないのだから。私の精神は私を抜いて、どこまでも歩いていくだろう。・・・そして、それはアニメキャラクターのようには行くまい。私は孤独な存在だからこそ、一つの必然である。私はその事に確信を持って、今、ペンを置く。
 それでは、また。また、どこかで会う事があれば。



 (言葉が途切れても、想いは続く。)

花のように『無意味』に





詩とは多分、

音楽に憧れた言葉の

最後の飛行の姿

あの鳥のように飛べたら、と願う

言葉の最後の願望

言葉によって人は人になる

そして、言葉によって人は獣にもなる

今、世界に溢れている言葉の多くは

確かな意味を孕んでいる

だが、それによってそれは固有の

脆弱さをさらけ出す

君達の『意味』など

この一筋の旋律に比べれば

笑うべきものなのだ・・・

そんな風に一本のフルートは

言葉をあざ笑うのかもしれない

まるで、風が、人が身につけている

分厚いコートをあざ笑うように

だが、今、その時に

言葉が一つの目に見えない階段を昇り そして

そこで始めて一つの『無意味』となる時

世界で始めて言葉に沈黙が訪れる時

おそらく、その時に言葉は

一輪の花となる

・・・だから、君達は花に意味を見つけるのをやめたまえ

「花の美しさなどない

美しい花がある」

とかつての詩人は言った

僕達は一本の花に意味を見つけ、そして、それを美と

いつしか、勘違いするようになった

ググっても出てこない 教科書にも書いてない

そんな答えは今、君の目の前にあるのに

どうして、君はまた

参考書に逃げこむのか

・・・その時、僕の作った詩は

一筋の何の意味もない光芒を放ちながら

一つの無意味を達成する

・・・多分、僕は詩人として

そんな達成を望んでいるのだ

・・・つまり、世界から見れば、僕は何の意味もない存在として そして

何の意味もない詩を書こうと試みているのだ

まるで世界の陰でひっそりと咲いている

一輪の花のように



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