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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

世界よ 滅びろ

世界よ 滅びろ




人が言葉に触れれば

それは音を立てて崩れ去るだろう

・・・人間というのは日常性の中に

埋没する為に存在しているというのか

人が音楽に触れれば

それはすぐに透明な瓦礫へと

形を変えてしまうだろう

今、世界が一つの騒乱である時

君は一体、何を思うだろうか?

一つのフルートの音が野を渡る時

この世界には

どんな風が吹くというのか?

・・・僕は人々に一度

僕手製の鏡を作って手渡してやりたいと思っている

正義面をし、あるいは愛を語る義人の振りをした人々に

その鏡を見せてやれば それが

実は醜悪な怪物だと分かるかもしれない

・・・もし、人々の目がまだ

『開いていれば』の話だが

今、僕は時の音を確かに聞いている

・・・自分の鼓動という無意味な振動が

僕にとっての魂のエイトビートを奏でる

・・・もちろん、こんな音楽には何の意味もないだろうが

少なくとも、僕にとっては一つの些細な室内楽

この世界のチェロとコントラバスで織られた壮大なオーケストラよりは

少しばかり価値のある代物なのだ

そして、その僕は今、ただ

暇を潰す為に、パソコンの電源を立ち上げる

その間も、僕の魂の時の音は

僕の鼓動に合わせて静かに鳴っている

・・・僕にはどんな『意味』もないので

僕にとって『僕』は一つの『音楽』というわけだ

・・・・・・世界よ 滅びろ

余すところなく まるっと全て


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君は孤独か?寂しいか?

 君は孤独か?寂しいか?


 
 例えば、今、色々な小説家が世の中にいるが、『思想』を持っている作家というのは幾人いるだろうか。あるいは、例えば、今の歌手の中で、『自己表現』を感じさせる歌手は何人いるだろうか。
 こんな事を言うのは他でもない。今、この時代が手先だけの、技術全盛の時代になっているという事を言いたい為だ。しかし、そんな事ばかり愚痴っていても仕方ないのだろう、と思う。しかし、今の僕にとって愚痴る事が唯一、僕の生の本質であるので、少しばかり愚痴らせてもらおう。
 君が聞いていなくても。

 『思想』というのはもう既に古びたものとして取り扱われている・・・・というより、それはこの世の中にはもうないものとして扱われている。何故か?・・・それは、現に存在しないからである。
 よく見るレビューに、「うまい」とか「へた」とか、「日本語としてどう」とか、「有名な〇〇は☓☓と言っていた」みたいなレビューがある。・・・もちろん、それは結構なレビューなのだが、余りに結構すぎるのではないか。人々は人々にとって、「うまい」「へた」みたいな共通の尺度を持っている。そして、その尺度であらゆるものを計って、そうして断罪し、あるいは称揚して、得意である。だが、人々の尺度を計る尺度はあるのだろうか。それとも、それは人間の手には届かない神の尺度だというのか。
 人はどんな暴虐をしても、許される。何故かといえば、もはや人間そのものが一つの基準だからである。これは真に、ニーチェの功績であろう。彼は世間から見ればただの狂人だったが。
 人間共通の尺度を人々が疑わないのは自明の事かもしれない。・・・人々は未だに、コペルニクス前の世界にいて、安定した大地の上で、安定した生活を繰り広げている。・・・いつの時代においても、それを中心として回っている、天動説的地球というものは存在している。そして、それがどんなに科学的装飾を装い、真理をうたおうと、無駄な事である。それら、安定した地盤というのは、結局、新たな人間の手によってぶっ飛ばされる為に存在する。・・・少なくとも、僕はそのように思っている。世界にはもちろん、安定した地盤というのは必要だが、それは安定を求めれば求めるほど、崩壊するたぐいのものである。・・・・今は、公務員が安定しているから、人気だという話を聞いた事がある。だが、先に言っておくなら、公務員以上に安定していないのは、その人の人生である。・・・つい今しがた、僕はネットで、「恋愛は金がどうか」みたいな事を識者が論争している、という記事を読んだ。そんな事に特に興味はわかないが、それに対する、ネットの論も含めて、僕は一つの問いを自分の中に感じる。そもそも、この社会が指定した恋愛というシステムを何故、僕達が無条件に肯定せざるをえないのか?。・・・現代では、もう言うまでもなく、家族、恋人、友人、そういったものが、社会システムに飲み込まれてしまっている。それは、かつては違ったのかもしれない、とも僕は思う。そうした、個人的な交友関係というのは、かつては社会と対立する存在、あるいは社会に対して独自性を持った領域だったのかもしれないが、今はそうではない。それは社会システムに完全に融合し、そして、個人的な、パーソナルな部分を完全に失いつつある。今、現実は劇場と化しているのであるから、恋愛も、また友人関係も一つの劇場である。そして、金はこの劇場で、特等席を取ったり、または自分がそのような俳優に化ける事のできる、その切符のようなものである。では、こうした、この社会が用意した劇場にうんざりした僕のような人間はどうすればいいのか。・・・多分、死ぬしかないのか?。・・・いや、死は向こう側からやってくるだろう。僕が死ぬにはまだ早い。僕は、アルチュール・ランボーのように颯爽とはしていないのだ。
 では、この世界で一体、どうすればいいのか?。
 そんな事は知らない。・・・知った事ではない。
 この劇場で踊るのも、いいだろう。それは、実にいい事かもしれない。体にも、健康にもいいかもしれない。健康。自分のための健康。だが、君の健康は結局、死のための健康だという事も僕は言っておきたい。健康マニアというのは、既に自己矛盾した言葉である。それは、川に流されながら、必死に泳いでいる姿にとてもよく似ている。・・・結局、僕達は流されるのだ。そう、流される事は、変わりはしない。先ほど、ハンナ・アーレントを読んでいたら、彼女が「不死」と「永遠」との違いについて語っていた。・・・なかなか、面白い論考だったが、僕なりにそれを簡単に言うと、次の一言につきる。「不死」は「永遠」に無限に近づこうとするが、しかし、それに到達する事は決してない。不死とは既に、生から逃避である。生からの逃避がそれこそ『永遠に』続くのは、地獄そのものではないか?。・・・しかし、人が今、望んでいるのはそのような事である。この大規模な資本主義が生んだ、我々の理想とは何か。・・・もう一度、考えてみるべきであろう。大層な正論を吐いている輩を集めてみて、本音を吐かされば、次の一言に集約されるのではないか。
 「自分だけが人と違ういい夢を見て、いい人生を送りたい。自分だけが」
 ルサンチマンが、正義に化けるとは、この市民社会の一般現象であり、そこには国境がない。彼らのルサンチマンが満たされる事はおそらく、永遠にない。彼らはそれこそ、「不死」を求める故に、永遠に人生に満足する事はできないのだ。人生に満足する事が許されるのは、人が、死という人生の裏側の、その半面を自己に引き受けた時のみである。・・・君は知っているだろうか?。人が最も高く跳躍する時、もっとも深く、沈み込むという事を?。・・・そして、この沈み込みこそ、『絶望』という言葉で呼ばれるものだ。この絶望は死を自分の中に引き受けた個体の事だ。・・・死から逃げ出した者には生もないのである。そんな事は、当たり前の事だ。
 君は寂しいか?。君は孤独か?。
 ・・・君がもし孤独なら、どうしてその孤独から逃げ出そうとするんだ?。

 ・・・今、僕は一人でこの文章を書いている。おそらく、僕のこの孤独は、この世界のどこにも昇華される事は決してないだろう。だが、とにかく、僕は書いた。・・・僕は人生を生きなかった。そして、その代わりに、この短い文章を書いた。
 君に聞こう。
 君は寂しいか?。君は今、孤独なのか?。
 もし、君が孤独なら、君は正しい位置にいる事になる。もし、そうでないなら、君は間違っている事になる。・・・それは間違いない。人々と一緒に歩む事こそが、常に人生最大の誤ちだからだ。もう一度聞こう。
 君は今、孤独だろうか?。

 ・・・もし、そうであるならば、例え、この世界が滅びたとしても、君の孤独は世界を越えて、残っている事だろう。・・なあに、この世界などは、一蹴りしてやれば、倒れてしまうハリボテにすぎないのだ。テレビを見てみたまえ。ネットで正論言っている連中を見てみたまえ。・・・どいつもこいつも、ハリボテにすぎないではないか。自分の薄っぺらさをごまかすために、あれこれの手管を使っている連中と、それに騙されている連中、そんな奴らばかりだ。
 もう一度聞こう。
 君は孤独か?。寂しいか?。

 もし、そうなら・・・・いや、それはもう言った。今、僕はこの文章を真顔で書いている。・・実に真剣な表情で。しかし、心の中では、これまでの人生になかったくらいに、大笑いしているのだよ。・・・本当に。おそらく、君にはもう僕の表情が読み取れるはずだが。
 ・・・多分、この文章には何の意味もない。多分、僕は・・・スーツ着て、会社説明会にでも出たほうがいいんだろうがね。まあ、いいさ。このコペルニクス以前の世界にはもううんざりだ。・・・・・僕は最後に、もう一度だけ聞いておこう。



 『君は孤独か?。寂しいか?』


時の旅行者



多分、君には僕は

止まっているように見えるだろう

多分、君には僕が

何もしていないように見えるだろう

活動し、外に出張っていると

あるいは胸にバッジをつけていたり、どこそこの社員証や

学生証を持っているとそれだけで

そこには何かがあるように見える

それはもちろん、確かに真実の一面ではある

そして、この今、僕は

ほとんど何もしていない

ただ、僕は職場と自宅を往復しているだけで

その他の事は何もしていない

多分、そのように見えるだろう

そして、その見えている事は真実だろう

・・・だが、君は忘れている

止まっている人間も

時間という名の空間を旅行している

旅行者だという事を

僕はいつも、時の中を旅行しているのだよ

言葉という名のタイムマシンを使って

それが『詩』というものの意味なのだ

僕はおそらく、君が決して見る事のできない

永遠の古代と無限の未来を見てきた

・・・それはそれは、楽しい旅だったよ

本当にね

・・・でも、今の僕はなんにもしていない

世間からはそのように見える

だが、世界というのは例えば

ここ何年かでどんな旅を繰り広げただろうか

例えば、今流行っている物事を君は

来年も覚え続けていられるだろうか?

・・・世界は時を細かに分割する事が大好きだ

だから、僕はそれに逆らって

時を縦に横に泳いで見せる

それが、僕が孤独を背負う

その目的なのだよ

そして、時の中で僕が死んだとしても

僕の遺体は誰にも発見する事はできないだろう

なぜなら、僕の遺体は時の中で

『永遠』の中に埋葬されるから

この『瞬間』だらけの時の中で

僕の遺体は体を失って、魂だけになり

そして、その時こそ、僕は時間の中を彷徨う

本物の永遠の旅行者になるだろう

・・・そんな気がするのさ、僕は

・・・ハハハ、今は僕は

ただのしがないフリーターだけどね

笑いたければ笑うがいいさ

でも、君は笑うだけじゃなく 笑われる存在だ

その事も合わせて君は知っておかなければならない

そして、君を笑うのは他人でもなく、君でもなく

君が捨て去ったこの『永遠』の時だ

そして、君が時に一杯復讐を食わされる時

その時、君は始めて

この世界の『時』に参加する事になる

だから、これまで君は時間の中にいなかった

・・・君は世界に騙されていたんだよ

佐村河内守の事など

あと、数年後には誰も忘れているさ

でも、君だって

すぐに忘れ去られる

君が笑ってきたものと同様に

君もすぐに消えるのさ

だから、時間は待ってくれない

時間は僕達を待ってくれない

だから、僕は死んだ後、

『時間』そのものになろうと思っているのさ

・・・今はただのしがないフリーターだけどね

ただ、「時間」を浪費しているだけの、さ


才能のない批評家から、才能ある新人作家への提言





 「あ、はじめまして。君が新人作家の○○かい。あ、どうも。いや、君の作品読んだよ。それでさ、感想だけど・・・・。面白かったよ。・・・・素晴らしかった。これは十年に一人の・・・・・・・・いや、ごめん。これはただのお世辞さ。お世辞はもう十分、他の人から聞いただろ?。君は、これまでに散々。だから、僕は正直な事を言おうと思って、君に面会しているわけさ。まあ、今、僕が君とこうして出会ったのはただの偶然だけど。 
 それで・・・・まず、僕が思ったのはね、君の作品がどうこうという前に、君が「文学」っていうものを信じてるんだな、って事だよ。いや、本当に、立派な事だよ。素晴らしい。・・・・・・文学?。文学だって?・・・・・・・・笑わせてくれるねえ。
 文学。それが、何だろう。そんなものがこの世界のどこにあるんだ・・・?。いや、違うな。悪かった。・・・確かに、君には「文学」の才能がある。新人賞を取ったんだろ?。・・・その年齢で。それで、評者に褒められた?新聞に載った?・・・・いや、悪かったよ。確かに、君には才能があるんだね。悪かった。僕と違って、君は「天才」かもしれない。君は将来、芥川賞を取るのかもしれないね。・・・え?。もう候補になってるって?。・・・・いやはや、それは参った。すごいな、君は、多分、21世紀の夏目漱石かもしれない。
 でも、一言だけ言っておくと、その夏目漱石とかいう作家がもし生きていたとしたら、間違いなく、芥川賞は取れなかったと思うな。・・・芥川は自分の弟子なのに・・・・おかしな、事だね。でも、僕は多分、そんな気がするんだよ。ねえ、君・・・・・聞いてくれ。いや、もう少し、君は現実を、この世界を見るべきだと、僕は思うんだよ。例えば君は、ドストエフスキーを文豪だと見ている。文豪ねえ・・・。そして、その文豪の書いたものをありがたがったり、また、テキスト論だのエクリチュールだの・・・・・・そんな事はどうでもいいんだよ。僕が才能ある若手作家たる君に一つだけ聞きたい事はさ、どうして君の中で『文学』なるものがそんなにも確定した形で、君の頭の中にあるかって事だ。確かに、文学には長い歴史があるさ。そして、それには教科書らしきものもあり、そして文芸雑誌なんていうものがあり、そして、純文学作家なんてものも沢山いるさ。でもさ・・・・それがいったい、何だ?。どうして、そんなもので、定規で線を引くようにして、「文学」を、「言葉で造られた芸術」というものを堅苦しく考えなくちゃいけないんだい?。・・・もちろん、枠組みがはみだす事は、苦しく辛い作業だ。だがね、僕はあえて聞くよ。・・・・どうして、君はそんなに安堵しているんだ?。どうして、君は「文学」なるものをぶち壊そうとしないんだ?。
 例えば、綿矢りさという作家がいるね。彼女はそれなりに良い作家だったと思うんだ。・・・最初の方はね。でも、技術が熟達するにつれ、物語はすべるように進んでいった。彼女の中で、社会に対する抵抗感や、反発心が消えたように、僕には感じるね。・・・別に僕は彼女の人格をくさしているわけじゃない。問題は「作家」としての彼女だ。どうしてなのかな・・・?。君に、聞こう。あるいは、他の作家でもいいさ。白岩玄とか、朝井リョウとか、そのほかの若手作家。彼らはどうしてすぐに、「お話」を書くんだろう。・・・彼らの作品というのは、僕には、とても安堵しているものにしか見えないんだよ。そこにあるのは文学に対する疑いでもなければ、社会に対する反発心でもなく、ただ与えられた物語を描く作家としての姿だ。与えられたって?・・・・誰に?・・・。多分、世界に、だよ。だから、僕は先に言っておいたじゃないか。定規で線を引くように、文学を考えるなって。文学はね、そして、この世界で生きるって事は、受験勉強とは違うんだよ。僕達のやる事は、(僕達が本当に生きようとして、の事だけど)あらかじめ決められた価値観の上で百点満点を出す事ではない。僕達のすべき事というのは、決まった基準の中で、高得点を叩き出す事ではない。どうしてかって?・・・・。じゃあ、僕は逆に聞くけど、何故君は文学なんていうものに関わっているんだ。何故、君は芸術なんていうものを志しているんだ?。作家になるため?、好きな事をしてお金を得るため?・・・・それなら、他にもっといいやり方があるさ。君はFXで金儲けをして、それから歌い手になってモテる事を目指せばいい。
 今の問題はそういう事ではない。問題は・・・いわば、その価値を決定する側にも、様々な事情や限界が存在するという事なんだよ。・・・ドストエフスキーが現れた時、彼はバルザック的世界観を粉々に破壊した。ベートーヴェンが現れた時、彼はそれまでの音楽よりも遥かに強い主観性で過去の音楽を粉々に叩き壊した。・・・こういう事がなぜなされたのか、こういう事が何故、可能だったのか。それは彼らが自分に忠実だったという事、そして何より、彼らが世界と闘う事を選んだからだよ。それが、芸術家というものだと、僕は思うんだがね。・・・例えば、最近、芥川賞を取った作品を読んでみよう。それらほとんどが、最初の二ページくらい読めば、その先は読まなくても良いものだ。なぜって?。・・・もう、聞かなくても、わかるだろう。君は、その本の最初の二ページを読んだ瞬間に、ある既視感にとらわれる。そして、それはその前に芥川賞を取った作品にそっくりかもしれない。そこには、正に「定規で線を引いたような」限界があるんだよ。この限界を突破しないで、どうしようっていうんだ?。
 ・・・僕は色々、言い過ぎたかもしれない。君のような、若き才能溢れる作家に、僕は色々と言い過ぎたのかもしれないね。僕は・・・・何の賞も取っていないのにね。・・・でも、僕が君に付け足しておきたい事はさ、今、人が君の作品を読んで、いいとか悪いとか、まるで〇〇のようだとか、ニュースで取り上げられたりとか、そういう事において、そうしたなかで、君の作品を深刻に受け止めている人間が何人いるかって事だ。・・・・・いや、それ以前に、あまり僕も言いたくない事を言ってしまうと、そもそも君自身が自分の作品を深刻に受け止めているのか、という事が僕には心配なんだ。なあ、君。・・・・君はもう、新人賞でもらった金で遊ぶ事を考えてるのかしれない。それはいいよ。思う存分、遊べばいい。だが、君が心血注いだ作品を、君自身が蔑ろにするような事があってはならないと僕は思うんだ。それは君の宝だから。・・・・でも、もしかすると、これも言いたくない事だけど・・・・・・君自身、それに心血を注いでいないのかもしれないね。君はその作品に、自分の魂を捧げたと言えるだろうか。そして、君はそれを言えない、そこまでの自信がないから、その変わりにインテリ的な饒舌やら、また戦術的な営業論、(何故、私の本が売れたか)でごまかそうとしているのかもしれない。そう考えると、僕は不安なんだよ。・・・大体、僕には専門用語を切ったり貼ったりして、ごたごた言っている連中の事がよくわからないしね。・・・でも、彼らの事なんて、どうでもいいではないか。どうして、君まで、彼らの仲間入りをしたがるんだい?。どうして?。君は、自分の作品に自分を捧げた、と心から言えるだろうか。もし、言えないなら・・・・・・残念だね。でも、それは普通の事だし、当然の事でもある。だが、君はデビューしてしまったので、そこはいくらでもごまかしが聞く立場なわけだ。君は作品の事も文学の事もほっぽりだして、その周辺で活動するようになる。そして、その内には「いかに、人生を良く生きるか」みたいな本を新書で出したりする。そして、人はそれを「はあ、偉い人は違うねえ」と思って読むのかもしれない。だけど、君が本当にすべき事はそういう事ではないんだ。まず、今の君がすべき事は、作品の中で生きる事だ。現実の自分を捨て、作品の中で、作家として呼吸する事だ。そして、そういう作品を生み出す事だ。夏目漱石を見たまえ。彼はそういう風に生きたではないか。
 僕が君に言いたい事は以上だ。好き放題言って、悪かったね。でも、君は僕と違って才能がある。だからこそ、君はもっと自分自身にならなければならない。・・・あるいは、才能なんてない方が伸びるのかもしれないね。・・・よく、わからないけど。でも、僕が思うに、世間というやつと互角のゲームをする事は、僕ら個人にはいつも許されていない。世間というものと個人がゲームをすると、いつも100対0くらいで負けちゃうものなんだよ。・・・あるいは、それは勝っているように見える時もある。でも、その時は大抵、世間の人間のおもちゃにされている時なんだ。・・・ほとんどの人間は物事を趣味的に見ている。浅く、薄く見ている。だけど、君の人生がそれに合わせて、浅く薄くなる必要はない。だから、それから身を守る為には、孤独が必要なんだ。君自身しか持てない、大切な孤独というものが。・・・・・・それでは、僕は去るよ。僕は、期待しているよ。君の新作に。君はこれから傑作を書く人間だ。だから、僕はしがない一読者の身分として、君の作品を待っている事にする。まあ、世の中に負けない事だよ。そして、世の中に闘いを挑むべきだね。僕達は。それが絶対に負ける闘いとわかっていても、それでも、それはやってみる価値があると思うんだよ。それでは、僕はもう去るよ。さよなら。・・・・新作、楽しみにしているよ。」


 そんな無法な言葉を浴びせかけられた才能ある新人作家は、頭を一つ振って立ち上がり、街のにぎやかな方へと歩いて行った。彼は、今突然浴びせかけられたそんなろくでない言葉を早く忘れたかったのだった。
  

独りじゃない

独りじゃない



僕達が存在しないのは

僕達が交換可能だから

僕達が存在するのは

僕達が一つの虚像だから

僕達は自分達を虚として演出する時のみ

この世界に存在する事を許される

もし、君が部屋で一人閉じこもり

自分の事について思いを馳せているのであれば それは即ち

世界にとって君は存在しないと同じ事

この世界を支配しているのは一握りの

自分が虚である事を心得た役者達と

彼らに心酔しきっている観客達

その二つの勢力なのだ

・・・さて、その世界で 君は

一体、どうすべきか

この役者と観客だけがいる虚像の世界で

『僕』は一体、どうすべきか

おそらく、答えはどこにもないのだが

僕は今、部屋で一人で本を読んでいる

そして、それは限りない過去との対話であり

世界にとっては存在していないが

僕にとってだけ存在している一つの時間

・・・僕は今、世界という名の「時」を切り離し

そして、もう一つの「僕」という名の時間の中に入っていく

そして、その中ではモンテーニュもパスカルも

僕と同じ永遠という時間軸を生きている存在として

認識される

なので、僕は孤独ではない

例え、この世界にほんの小さな蟻ほどの

存在としても認められていないにせよ

それでも、僕が永遠と対話している限りは

独りじゃない

『午前』へと続く午後




十月の午後は雨だった

それは全て雨に塗りつぶされていた

空は鼠色に塗りつぶされ、そして時々

燐光のようなものが宙を舞った

・・・その時、君は「あの時」の事を思い出していた

あの時、君は沈黙する事を知らなかったから

その饒舌で誰かを刺してしまったのだった

・・・今は八月の午後である

空は乾いていて

微風もある

だが、僕の心は雨に濡れて そして君は

墓場の下にも存在していなかった

そして、空はそれ自体一つの世界であるかのように

人間達が勝手に引いた国境線を嘲笑っていた

鳥達は自由に飛び そしてハンモックの上の少女が

お気に入りの漫画によだれを垂らしながら

気持ちよさそうに眠っていた

そうして、全ては『午前』へと変わった


思考の宇宙から逃げ出す為に  ~パスカル小論~






 パスカルを読んで、それが人生の役に立ったという事はおそらく、これまでに一度もなかったし、これからも永久にないであろう。なぜなら、パスカルとはこの世界とは違う座標軸に生きた一つの孤独であるからである。彼がもし「パンセ」を残さなかったら、彼の孤独は無限で完璧だった。だが、言葉は遺された。それによって、私達にはこの孤独の宇宙に入っていく通路が一つだけ残された。


 パスカルのパンセは名著だが、普通の人がこれを読んで、何かを得る事はできないだろう。パスカルというのむしろ、普通人を全て拒否しているような人間だからである。「全ての事は気晴らしに過ぎない」「人間というのは惨め以外のなにものでもない」ーーーこんな事を説く人間を、どうすればよいだろうか。・・・もしも、パスカルが現代に生きていて、そしてその絶望的な教義によって、一人のスターとなったら(そんな事はありえないが)、今、古典や名著を読む事を推奨している世の常識的な大人たちは必ずや、このパスカルなどという異人を牢屋につなぎ、鞭で打った事だろう。それは間違いない。歴史というのは常にそのように回転してきたし、それは今でも、少しも変わっていない。偉人が偉人であるのは、いつも彼らが死んでいて、僕達を脅かさないからだ。人が、教養などというものを祭り上げる事ができるのは、常にそれが死物であるからである。それが生きて、影響を振るっていると、我々はそれを殺して死物とするまでは容赦しない。・・・ニーチェが先日、ベストセラー的に売れた事があったが、そのニーチェは狂人であった。しかも彼は純然たる狂人だった。そして彼が狂人になったその理由は、彼があまりに周囲とは違う優れた頭脳を持っていたためだが、そんな事は今のニーチェ読者には関係のない事なのだ。運命が去ると、私達に都合の良い教義だけが残される。「明日も頑張ろう」「家族を大事にしよう」。・・・偉人達はみんな、そんな凡庸な言葉を吐く連中に、私達の手によって書き換えられる。ところで、彼らはそういう言葉を嫌った存在ではなかったのか。凡人と天才とはこのように、常に時間を挟んでも対立している。だが、凡人の『天才的』手腕とは、これを対立しているように見せない所にある。彼らは天才達を巧みに懐柔し、知らぬ間に自分達の凡庸な教義を伝える伝道者としてしまうのだ。その手腕には正に、天才的な所がある。


 私達がパスカルを読んで何を得る事ができるだろうか?。答え・・・何も。では、パスカルは読む価値がないだろうか?。答え・・・イエス。・・・先に言っておくと、この答えーーーこの常識人が出した答えは、紛れもなく正しい。それは正答であり、百点満点の答えである。だが、この問いに一つだけ疑問があるとすれば、「人は常に常識人にとどまっていられるだろうか?」という点にある。もし、自分が末期癌患者だとして、彼はそれ以前と同じように、正常な、常識人として生きる事ができるだろうか?。・・・クリスマスにはクリスマスケーキを買い、恋人にはいつものように笑ってプレゼントを送る事ができるだろうか?。・・・人が常識人でいられる、というのは、それほどどっしりした、堅固な事実ではない。今、人はいじめは良くないなどと言っているが、これからもいじめがなくなくる事をおそらく決してないだろう。何故かといえば、自分と戦う事のできない人間は常に、自分達の外側に明瞭な敵、異端者、愚か者等を規定していない限り、不安に陥り、自分のアイデンティティを喪失してしまうからだ。人は、自分達の外側に、自分達より絶対的に愚かな者を想定して、そうしてはじめて安心できるたぐいの生き物である。だから、この先も「いじめ」に類する事がそうそうなくなると思われない。「いじめ」が問題と思っている人々の大半は、自分達の「いじめ」は正義だと信じて疑っていない。だとすると、それを子供達が模倣するのも当然の事実だろう。だから、これからもおそらくはいじめはなくならないであろう。・・・スケープゴートがいた方が楽ではないか?。・・・これを回避する事ができるのは、自分自身のそうした弱い精神と対決するという行為においてのみである。それ以外の方法はない。他人の悪魔を潰すのは、まず自分の中の悪魔を潰してからだが、「正義」に取り付かれた人は、他人の悪魔しか見えない。そうして、彼らの相貌はますます悪魔そのものに似ていく。聖人のお面を被ったまま。

 
 話がずれた。・・・例えそうだとしても、パスカルにはたった一つ、効用がある。それは、絶望の深度の問題である。深い絶望に落とされた人間を救うのは何か。(絶望に落とされた事のない人間には、絶望以上の地獄が待っている事だろう。)・・・それは、自分よりも深い絶望を抱いている人間の存在である。絶望している人間に「元気になれよ」と励ますのはもちろん、逆効果でしかないが、それに対する唯一のクスリは、彼以上に絶望している存在を知る事である。・・・ところで、パスカルの絶望は深い。その絶望は余りに深すぎて、この地球全てを食い破り、そしてこの宇宙の闇と同化する所にまで行き着く。・・・僕が詩的に修飾しているのではない。パスカル自身が書いているのだ。「宇宙は空間によって私を包み込むが、考える事によって私は宇宙を包み込む。」ーーーこんな事は、くだらない事だろうか。パスカルという一人の男が、この宇宙よりも巨大な自意識を持って、世界を自身の絶望で包むという事は、くだらない事だろうか。・・・多分、そうなのだろう。くだらないのだろう。人は必ず、次のように言うに違いない。「そんな事より、外出て、ちょっと金使って遊んできたら」。あるいは、「さっさと、働け」と。だが、人はいつもそう常識人でいられるとは限らない。パスカルの絶望が世界を包むのは正にその時だ。彼の絶望と孤独は余りに深い。その為に、彼の自意識はこの宇宙を満たし、そしてこの宇宙すらも越えてしまう。・・・だが、これはあらゆる行動に何の意味も見出さなかった人間のみが成しうる技だ。・・・哲学者というのは「哲学」などというものをもてあそぶ存在ではなく、それは自身のあらゆる行動を犠牲にする事によってのみ、考えるという特権を得た存在である。それはいわば、猿からの脱却。ロダンの考える人ーーーーーだが、この時、行動とは何か。行動の意味する事とは何か。彼はあらゆる欲望や、行動を全て捨てさるので、丁度、悟りを得た仏のような存在となっていく。東洋の国においては、そうした「無行動的な行動」が唯一、西洋における思索、哲学の代用となっていたのだろう。そこでは、自身を一つの場所にとどめておく事こそが彼らの思惟であり、また行動であった。だが、生きるという事=思考ではない。ここには微妙な矛盾が得られる。だからこそ、彼らは揃いもそろって狂人への道を歩んだのだった。

 
 生きるという事は何か。考えるという事は何か。
 だが、考えるという事に何の意味も価値も認められていない現代において、こうしてパスカルのように考えるという事は何の意味があるのだろうか。あるいは、バスカルというのは偉大な存在なのだろうか。・・・おそらく、そうだろう。「考える事が偉大さをつくる」。だが、偉大であろうと、無用物には誰も何の興味はない。だが、この無用物は時の作用により、有用となるだろうか。だが、時はーーーーー。
 しかし、もうこれぐらいで止めておこう。かつてシオランが、「自分が本を読むのは、自分以上の孤独を発見する為だ」と言っていた。その存在こそは正にパスカルであり、またニーチェであった。彼らの狂気は、私達に正気を取り戻させるのだろうか?。それとも、私達の狂気は・・・・・・・・。
 ・・・いや、もうやめておこう。パスカルは最後にはキリスト教に服従する事を選んだが、彼の思惟が本当にそれに服従したかどうかは極めて怪しい。ニーチェは最初に、キリスト教を排撃していたために、彼自身、現代のキリストとなる他なかった。そうして、彼は自分が心の底から望んでいたであろう本物の狂人に、晴れてなる事ができた。・・・我々は馬鹿だろうか?。我々は賢いだろうか?。・・・しかし、賢者故の狂気は我々に何を教えるのだろうか。
 ・・・そして、今、書店の店頭に目を通すと、そこには「読んでおきたい世界の名著」が置いてある。そして、それは人々に大切な生きる「智慧」とやらを教えるのだろう。そしてその中にはきっと、あのパスカルもニーチェもいるに違いない。・・・だが、僕はその本に手を取らずに、ライトノベルのコーナーへと移動する。僕は、馬鹿かもしれないが、生きていたいのだ。あと少しの間は。

若い詩人の為の詩





マラルメの、あるいはランボーの孤独は

詩の中でのみ生き続けているのだろうか

美術史や、教科書の中の芸術から

はみ出した彼らの魂は

まだ

詩の中に生きているというのだろうか

もし、私達がそれを読む時

その存在を感じられないのなら

もう、それは死んでいる

つまり、それを蘇らせるのは私達

だから、私達は読書をする時

一介の遺跡発掘者とならなければならない

そして、それは

似非研究者のように

遺跡盗掘者であってはならない

そこに文字を読むのではなく

そこに人間を、魂を読む

そうでなければ文学には何の意味もない

世界は言葉ではないが

言葉で表す事はできる

この不可逆な関係を

私達は私達の中の『詩』によって辿らなければならない

そして、辿った先に一人の孤独な詩人がいるとすれば

君は全ての時空を超えた

一人の人間となる事ができる

君は詩という無用な物体に触れる事によって、今こそようやく

最初の、一人目の人間となったのだ

その時、君の目からは涙が溢れる

そして、その涙を見る者は

今、君の目の前に現れたもう一人の君ーーー即ち

一人の人間となった者に贈られる

神からの贈り物 つまり

『君』という詩人だ

その時、君ははじめて言葉によって

この世界を支配する事ができるだろう

一滴の血も流す事なく

全てと和解したままに

そして、その時、君はあの

過去の伝説の詩人達の仲間入りをする事となる

そこでは言葉だけが真実で そして魂だけが発語する

そんな空間なのだ

「さらば、世界」と呟いて

君は言葉の橋を渡りたまえ

・・・詩人達はどこにでもいる

君が求めれば、すぐそこに

そして、君は・・・・・・

最後に沈黙する

その言葉の豊穣を

自身の歓喜に変える為に

駅前




僕は自分の暗さを

その内面を

世界中のどんな幸福とも

取り替えたくはない

世界の中で上手く立ち回り

人々とメディアの間で一人の役者として

上手く演ずれば

世界中の富と名声が得られるのだろうが

今、僕は僕の孤独と

この世界を少しでも取り替えたくはない

僕にとってかけがえのない僕という名の孤独の地獄は

世界という名の幸福よりも

ずっと大切だから

そして、その世界の空に今

鳩達が舞い上がって散っていった

そして、それを見ているのはこの駅前の人通りの中で

ただ、僕一人だけだった


 批評 断章 1


 

 物語というのを現代で作るのは困難だ。だが、その困難さを感じていないような振りをしているシナリオライターは沢山いる。彼らは嘘を嘘と知っているのではなく、嘘こそが本当だと感じている人達だ。この現実というのは一つの嘘である。資本主義という脆弱だが、巨大なシナリオライターが書いた一つの拙劣なシナリオである。「ハルヒ、これは誰が書いたシナリオだ?」・・・。これはとあるライトノベル作家の書いた一文だが、僕達はまず、この一行を吐く事からはじめなければならないはずだ。


 綿矢りさとか、白岩玄とか、そういう若手作家達がいる。彼らは、最初、世界に対する不安を表現したある程度良い作品を書いてデビューしたのだが、すぐに「お話」の作り手の側に回ってしまうという印象を受ける。現代の若い作家の大半は、そのデビュー作では、社会に対する不安(反抗というほどではない)を露出しているのだが、それは技術の熟達と共に、すぐに消えてしまう。そして、作品そのものは滑らかでうまくなっていくのだが、その文体に引っかかりと抵抗がどんどんと消えていってしまう。物語はスムーズに流れる・・・だが、何が足りない。そんな印象を受ける。これは現在の世界全体の構造と、それに対する個人の心的な問題なので、簡単な事ではない。


 物語を作る。お話を作る。・・・それは今、誰でもできるし、みんながやっている事だ。しかし、それらは全ては嘘ではないか・・・という事からラスコーリニコフは歩き始めた。彼の作るドラマは全て、あらゆるドラマを拒否したからこそ起こるドラマであって、僕らのように既成品を模倣するドラマ作りではない。思えば、デカルトの哲学も、そうやって最初の一歩を踏み出したのだった。あらゆる事は嘘ではないか、嘘だとすると、何が真実なのか・・・。だが、僕達は嘘を嘘だと知りつつ、それと戯れ、遊んでいる内に、次第に自分達自体が嘘に作り替えられていく。これをどうにかする事は極めて難しい。


 小説家というのは、小説を書くものらしい。そして、小説とは僕達の架空の物語を書くものだ。だが、生活が最初から架空のものだとしたら、作家はこの架空の生活を描かなければならないのか。それとも、作家が掴まされた「生活」とやらは、既に誰かの手によって書かれた何かの模倣品ではないのか。今や、生活そのものが一つの下らない小説であるから、本来、小説家は途方にくれなければならないのだが、途方に暮れているように見える作家は、僕の目にはほとんど見当たらない。村上春樹に大切なポイントがあるとすれば、彼はこの日常の嘘くささを疑うところから、その主人公の「冒険」が始まったという事にある。吉本隆明はこれを正確に解剖している。


 神聖かまってちゃんというバンドがいる。現代で唯一の本物のアーティストだと僕は考えている。彼らの楽曲の中に出てくる「僕」「私」に類する存在は全て、あらゆる資格を剥奪された人間である。いや、それは人間外の生き物である。それは、ハイデガーも全然発見できなかった、人間ではない人間である。何故、そのような人間が生まれるかといえば、この社会が一つの高度なフィクションーーー物語となったからである。だから、この物語から外れた人間は人間ではない。だが、この人間ではない人間にも、叫びはある。意志はある。だから、彼らの楽曲は叫ぶのである。彼らの曲の意味はーーー僕に言わせれば、次のようなものだ。「僕は人間ではない。だが、だからこそ自分は世界に向かって叫ぶのだ。」・・・叫ぶ事だけが真実で、後は全て嘘だという認識がここにはある。神聖かまってちゃんが、大衆的エンターテイナーと、インテリ的擬似アーティストの間に囲まれて、唯一本物のアーティストである理由はそこにあるように、僕には思える。

私の「文学」との出会い





・・・聞いてください、私

言いたい事がないんです

最近では皆がもう

真剣に何か大切そうな事

国の事、経済の事、災害の事、

その他沢山の事について

真面目そうに語ります

でも、私には語りたい事がない・・・

例えば、親友のヨシコちゃんは

新しくできた彼氏がいかに素敵か

私に沢山教えてくれます

でも、私には語る事がない・・・

私には彼氏なんてわからないし

それに本当の事を言うと

「友達」の存在もわからないのです

何が大事で、何がそうじゃないのか

私には皆目見当がつかないのです・・・

それが、ほんとに本当です

だから、ある日、先生に

ふと聞いてしまった事があるんです

「でも、先生、私達

こんなしなびた生活の果てに何があるんでしょう?」って

年金を払って、お嫁さんになって

生涯安定した暮らしを送るその時の

切なさ、寂しさについて

・・・私は聞かれずとも分かるような、そんな

そんな気がするんです・・・

そしたら、先生はとてもお怒りなさって

「お前がそんな口答えをするとは思わなかった!」・・・ですって

私、口答えしたつもりはなかったし

まじめに聞いてみただけなんですけど・・・

その後、休み時間にヨシコちゃんとか他の友だちから

「あんた、思い切った事言うねえ」とか「やるじゃん」とか

「言い過ぎ」だとか、色々言われました・・・

でも、私が疑問に思ったのは私の素直な気持ちで

別に反抗したい気持ちがあったわけじゃないんです

・・・でも、そんな事、言っても伝わらないので

私はぐっとだまりました

そして、その帰り道、私は本屋によって

太宰治全集の十巻とカフカの短篇集を買って帰りました

・・・私はそれまで、まともに本なんか読んだ事はなかったのですが

何故か、その日はうんと難しい本を・・・そう、

何か哲学的な書物を読みたい気持ちになっていたのです

・・・こんな気持ち、他の友だちにも、例え、未来に彼氏ができたとしてもその彼氏にも

きっとわからないであろうこの気持ち

・・・その気持ちを理解してくれるのは誰か

私はそんな人を探すために

そっと書物の扉を開けました

・・・それが私の読書体験

つまり、それが私の

「文学」との出会いでした

お茶漬け

僕も何かの主人公のように

何もせずに周囲の美女達に惚れられて

取り合いっこされる

そんな風な奴になりたい


僕もテレビの中の芸能人のように

きらびやかな舞台でスポットライトを浴びて

皆から大喝采を受ける

そんな風になりたい


僕もあの有名な投資家のように

FXで一晩の内に

何億、何十億と儲けてみたいな

そうすれば、僕の人生安定だから


・・・それが僕の願いです

それが僕の願いなのです

どうです?つつましい願いでしょう?

でも、これが「夢を持て」と教えられた

僕らの世代のくだらない末路

・・・何だかそんな気もしちゃうわけです


ところで、今の『本当の』僕は

お茶漬け一杯の旨味を

しみじみと感じています

おしゃれ 





私が彼に幻滅したのは

デートの待ち合わせに

真っ赤なシャツを着てきたから

私が彼に恋をしたのは

初対面のスーツ姿がとても格好良かったから

そう・・・人は外見が全て

中身なんてどうでもいい

だから、私は今日も外見を磨くために

全身つぎはぎだらけの化粧とおしゃれをして

街へと繰り出す

・・・私の内面は多分、私が死ぬまで

誰も知る事はできない

だって、私自身

それに出会った事はないのですから
 

火曜日の五限に




過去に押し流されていく自分を

未来の自分がじっと見ている

時は待ってくれないが

誰かが時という流れの果てで

僕を待っている

何故か、そんな気がした

この流れを越えて、岸にたどり着けば

あの日、失くした『君』に会う事ができるだろうか

僕はふと、そんな事を思う

それは窓の外にランニングする下級生が見える

火曜の5限の歴史の授業

僕はふいにそんな事を思って

教科書の中の織田信長にそっと

髭を付け足してみたのだった

ただ、その髭だけが

時間の流れを越えて生き続けているとでもいうように

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