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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

意識の高い『女子』



そうです 私は妥協しません

私はイケメンでお金を持っていて

若くて、良い大学を出ていて

将来有望な男性と結婚します



そうです 私は妥協しません

だから、そこらの男には興味がありません

しがないサラリーマン 稼ぎのないフリーター

愚かなニート 全部、どうでもいい

私は本音を言います

私は妥協しません



・・・ですから、私は妥協しません

・・・え?・・・私の年?・・・私は今、

七十五歳ですけれど でもまだ

妥協する気はありません

私は墓場に行くまで

素敵な男性を見つけるまでは

決して妥協するつもりはありません

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詩人女子




私の中に言葉がやってくると

私はつい沈黙してしまいます

・・・私、詩人なんです

馬鹿馬鹿しい事に



私だってジャニーズが好きです

特に、亀梨君が好きです

真面目そうだし、格好いい

それで友達と亀梨君の話をします でも彼女は

二宮君の方が格好いいって



でも、そんな時、ふいに

私の中に言葉がやってきて

それは流星のように

私の心を刺し貫きます

すると、その時、私の中の

詩人としてのもう一人の私が顔を上げ

私に話しかけます

「早く、私を出して! ここから!」って

その時、私は皆と

楽しくおしゃべりしている最中なのに

つい、黙りこんでしまうのです

だから、皆急に黙った私を見て

「どうしたの?」

って聞きます

・・・私、恥ずかしくて言えません

今、書きたい詩ができたなんて



・・・なので、私は家に帰って

ノートに向かって一人、詩をしたためます

外は、四年ぶりの大雪が降っています

なのに私のペンはぐいぐいと進みます

それはまだ十六の小娘がやる事ではないと

私は知っています

でも、私の中のもう一人の

詩人としての私は私にいつも指図するのです

「私を書いて! 私という言葉を書いて!」と



・・・それで、書き終わると

私はふうーとため息をつきます

その時、世界の色は

私が詩を書く前とほんの少しだけ

異なって見えます

それは何故か青みがかった色調

いつか、あのピカソも

こんな風に世界を眺めたのでしょうか



詩を書き終えると 私は

コーヒーを飲むためにリビングに降ります

それから、私の大好きな弟をちょっとからかって

それから、お母さんにうんと甘えます

年不相応に

あと、お父さんには

テストの点を知られないよう要注意

そんな私・・・そんな普通の私

でも、言葉は非凡

そんな気が今の私には・・・するのです

もし、この先、私の気が狂う事があっても

私は少しも驚かないでしょう

だって、元々、狂気なき世界には

何の価値もないのですから

ですから、私の中の詩人の私は

あんなにも私に叫びかけるのです

今日も
 
明日も



・・・リビングでは母と弟が一緒に

NHKのドキュメンタリーを見ています

・・・何を見ているのでしょう?

私、気になるから

それを見に行きます

そして二人の間に割って入って

三人仲良くテレビを見ようと思います

この世界を一瞬で捨て去る

そんな少年の『詩』を

書いたその後に



・・・そうです、私は幸せです

詩人としての私を除いては

凝視

 


自分が死ぬ時に

天井が見えるのか

それとも、誰かの悲しそうな顔が見えるのか

あるいは窓の外の樹が見えるのか

そんな事は分かりはしない

それは、自分が生まれた時に

何が見えたのかわからないのと同じ事

今、僕は自分の見ているものがわからない

今ちょうど、君が目の前にいて

僕は君を凝視しているというのに

笑い=光

怒っている時は

笑うがいい

泣きたい時には

笑うがいい

そして、笑いたい時には

人は沈黙すべきだ

君の刹那の怒りで

全てが壊れてしまう

そんな瞬間もあるだろう

その時、君は微笑みたまえ

まるで古代のアルカイックスマイルのように

銀河の中の恒星のように

煌々と

テレビを見ていて思ったりした事

 



 最近、テレビを見ていて妙な気持ちになった。画面の中では、「芸能人のとある一日」みたいなのが流れていて、(芸能人って金を持っているのだな)などと思いながら見ていたが、それを見ていて、不思議な気持ちになった。・・・要するに、そこで演じられている劇は、仕事と遊びの往復であり、あわただしく仕事をして、そしてあわただしく金を使い、誰かと遊ぶ姿である。そうして一日が終わり・・・という事はそのようにして、僕達の人生も終わっていくのだろう。

 現代というのは平和の世界である。・・・一応は。そこでは資本主義的精神と一致する形で、テレビというメディアが現れてきた。そして、生活もテレビ的になってきた。バレンタインデー。クリスマス。これほど、テレビ的な日常は考えられないだろう。テレビというものは未だに、広告塔としてはそれなりの力を持っている。これから、僕達はテレビを一切みないように(おそらくは)なるのだろうが、しかし、生活そのものがテレビ的に演じられるものになったという事実を変更する事はない。

 「詩神は詩人と共に歩むとも、詩人を導きはしない」と、かつての大詩人ゲーテは言った。これは意味深長な言葉であるが、しかし、詩人を導くものーーーあるいは、我々の人生を導くなにものかというものはどこかにあるのだろうか。夢とか希望とかいう言葉があるが、いずれも嘘の言葉である。夢や希望に意味があるのは、それに幻滅する事においてである。幻滅しない夢や希望に意味はない。人は幻滅を体感して、始めて、自分の足で歩き出す事を覚える。また、そこで多くの人が引き返す為に、その幻滅の先を続ける人以外は(結果的に)淘汰されるという現実もある。だが、それは自然から、見た視点である。我々はただ前進するのみだ。

 資本主義的精神がテレビを生み、そして我々のテレビ的生活を生んだ。そこで、僕達の人生は一つの芝居になる。これにはシェイクスピアの言葉を待つまでもない。あらゆることが演劇的で、そして我々の最後の理想は遂に、画面の中のお姫様か王子様になる事である。そして、その為の様々な願望を叶えさせくれるための道具が、世界には用意されている。つまり、二次元、アニメ・・・そんなものにのめり込むとか、逆に、リア充的なもの・・・。彼女、彼氏、友人間のその互いの、演出、その演劇性である。片方は二次元的であり、もう片方は三次元なのだが、実は本質は同じで、我々は全てのものを演劇化しようとしているに過ぎない。今では、夫婦も友人も恋人も何もかもが演劇的な、表面的なものになっている。そして、その煩雑さを嫌うものが、もう一つの造られた演劇にのめり込むのだ。この二つは多分、同じ事を意味している。しかし、それは表面上では対立しているように見える。対立している彼らは、僕から見れば、その心底では、一つの協定を結んでいる。彼らが目指す価値観は実は同じものだ。

 では、どうすればいいのか。
 
 そこに答えはない。ーーーしかし、答えはない、と言う事も実は僕には禁じられている。自分の中にあるのはただ、全体的な倦怠感と嫌悪感だけだ。それ以外のものは自分の中にはいない。暗い、と僕はおそらく言われるだろうが、今明るい人々が次第に暗くなっていのはほぼ間違いない。そして、人々が暗くなった時に、僕は明るくなってやろうと考えている。それは、僕の勝手な考えにすぎないが。
 問題はーーー答えがないという答えをいかに掴むか、にあるように見える。二十年前くらいにかろうじて、文学が成立していた時ーーーつまり、両村上や高橋源一郎などが存在してた時には、彼らはこのテレビ的なるものの空虚、人々がはしゃぎまわるその裏側を描いてみせたのだった。ここでは、才能とか、文学がどうとかという言葉にも何の意味もない。重要なのは世界に対する違和感を抱く事、ただそれだけである。そして、それを「才能」と呼びたければ、勝手にすれば良いだろう。
 問題は違和感を抱く事ーーーだが、その違和感とは何か。生理的なものか。理性的なものか。そして、その違和感が僕達をどこに連れて行くのか・・・。太宰治によると、アンドレ・ジッドは「芸術は拘束より生まれ、闘争に生き、自由に死ぬのであります」と言ったそうだ。違和感とは拘束からの脱出だろうか。だとすれば、我々の死は自由だろうか。・・・しかし、自由を希求しない芸術家(偽物は除く)はこの世のどこにもいないだろう。我々の違和感は、我々を自由へと導くのだろうか。・・・だがしかし、死と引き換えに自由をつかむ事は誰にもできないのかもしれない。たった一人で、世界を屠り尽くしたアルチュール・ランボーという馬鹿者詩人の末路を見れば良い。彼は外的にはただの生意気な小僧だったが、内面的には世界を喰らい尽くした少年だった。少年の肉は、その罰を受けた。この時、芸術は、彼の肉体と引き換えに供出された一瞬の美の閃光だったというのか。
 とりあえず、ここでキーボードを打つ手を休める事にする。おそらく、「書く」という事に終点はないのだろう。だが、しかし・・・・・・・いや、だが、しかし、と書くのもここでやめる事にしよう。だがしかし・・・・・・その言葉の続きが自分のペンによって書かれるのか、それとも自分の肉によって書かれるのか、その先は誰にもわからないように、世界というものはできあがっている。僕としてはできれば、前者によって書く事を望んでいる。できれば。

 それでは。少しの間。アディオス。

詩人と大食漢




生まれる事のできなかった命や

存在するはずだった天才達

今はもう消えた遺跡に腰掛けていた

二千年前の妖精や

また、

人間には決して発見する事のできないもう一つの宇宙や

空間や時間とはまるで関係のないもう一つの途方もない物指しや

織田信長が側近にふと漏らした愚痴の事など

そんな事共がこの冬の夜には

詩人の頭の中を明るく照らします

・・・もちろん、僕は詩人ではありません

僕はただの大食漢です

さっき、うどんを三人分食べたもので

自己解剖の文学  ~太宰治と小林秀雄に関して~

  



 太宰治というのは真に奇妙な作家であるし、それが奇妙であるという事がその本質だと言っても良い。そして、その本質を見抜いていたのはただ一人、折口信夫だけだった、という事は僕は後から知った。折口の「水中の友」という小文が、太宰特集の雑誌に載っていて、それ一つ読んで、自分は満足したのだった。他にも現行の色々な作家が様々に太宰について語っていたが、折口のせいぜい原稿用紙五枚とか、それくらいのページの中に、太宰に対する一つの鋭い観点のその全てが盛り込まれていた。だから、今から言う事は折口の蛇足であるし、折口に比べれば下らない評論であるに決まっている。僕個人としては、吉本隆明や奥野健男の太宰論は折口の短い太宰論に全然かなわないと思っている。折口信夫という人には、小林秀雄的な側面が多分にあり、彼から国文学の教養と愛着を抜けば、小林そっくりになるとさえ、僕は考えている。

 太宰治に『恥』という短編がある。これは別にどうという事もない、というか、それほど有名な短編ではないと思う。だが、この作品をまず取り上げてみよう。この作品は、一種のネタばらしをする小説である。そして、ネタばらしというのは太宰の本質であるのだがが、まずこの作品を見てみる。
 この小説の主人公はとある若い女性で、この女はある作家の大ファンである。この若い女は、その作家にファンレターを送っていたのだが、ある日、この小説家の所に直接尋ねていく事にする。そして、その際に、この女は、この作家が普段から、自分の生活を卑しく、貧しいものに描写しているので、その「卑しく、貧しい」作家に恥をかかせない為に、自分もわざとひどい服装や身なりをして出かけていく。そしてこの女は自分の毛布を贈り物として持って行ったりするのだが、実際、この作家の家を訪ねていてくと、その家は大きくなくとも、案外小奇麗である。そして、実際、その家にあがりこみ、その作家と対面すると、その作家は少しも卑しくなく、貧しくもなく、むしろ堂々たる風采の男子であり、また奥さんもきちんとした人である。要するにその作家は秩序だった、整然たる家庭を築いていた。その作家は、その作品で自身を描写しているように、禿げてもおらず、歯も欠けていない。そこで、この女読者は、裏切られたような気持ちになり、恥をかいた、という、そういう作品である。
 これだけ読めば、ふーん、そういう作品なのか、と思うかもしれない。だが、問題はこれからである。この作家というのはつまり、太宰である。そうでないと言われるかもしれないが、そうだと勝手に決めつける。そして太宰自身、いつも自分の弱さをわざとさらけ出してきた作家である。自身、いつも弱々しく、情けないものだという描写をしてきた。だが、その作家が、「それは実は嘘なのだ」という短編を書いて、世に出した。これは、どういう事か。
 作家というのは嘘つきである。それは間違いない。だが、太宰のような巧妙な嘘つきに人々は騙される。だが、それに太宰自身も晩年は騙されていった。彼にとってのフィクションが現実となり、現実がフィクションとなった。・・・作家にとって、作品とは一種の仮面である。仮面をかぶる時には、その裏には素顔があり、仮面とは違う表情をたたえている。だが、この仮面を素顔と取り違えるとどうなるか。・・・だが、そう焦る事はやめよう。もう少し、元に戻って考えてみよう。 
 太宰の嘘ーーーそれは何か。それは作家特有のものである、「自分を弱く見せる」という技である。ニーチェはこれとは逆の手法で、自分の弱みを一切見せる事を嫌った。彼はどこまでも強情な男だった。・・・おそらく、ニーチェの作品を読んだ人は、現実にニーチェに出逢えば、彼は声のでかい、うるさい自信家、そして堂々たる体躯の持ち主と想像するだろう。だが、ニーチェ自身、病弱な男であった。そして、ここからは僕の勝手な想像だがーーー現実でのニーチェはあんな風に凶暴そうな男ではなく、むしろ、礼儀正しい普通の人物であったのではないか。そして太宰治が、弱い人物であったというのも怪しいところだ。ひたすら強さを見せようとした三島由紀夫ーーーそこに三島由紀夫の悲劇はあったのだが、次第に彼は彼の喜劇に陥っていったのではないか。自身、自分を悲劇だと見る喜劇へと。自分を悲劇だと思い込むのは、精神異常者に見るごとく、大抵喜劇的である。自身をあざ笑う事ができるような人間に、悲劇は訪れる。笑いは、強さである。太宰の笑いは、晩年に途絶えた。斜陽、人間失格。ーーーだが、そう急ぐまい。
 太宰の悲劇と、喜劇とは何か。彼もまた、最後には自分を悲劇の人間だと心得たのか。晩年の太宰の生真面目さ、そしてその「小説的な小説」はどこに問題があったのか。僕はーーー太宰は根本的に、短編作家であったように思う。そして、その小説は極めて批評的なものだった。そしてこれが、おそらく、彼が二十世紀的な作家であったという事の所以だ。現在はとにかく、批評的な世界である。僕達の視線はどれもこれも批評的である。だから、太宰もまた一人の批評家なのだが、彼は同時に作家であらねばならない。・・・その為に、彼はどうしたか。太宰は、批評という視点によって自己を徹底的に分解した。その分解は過去に類例のないもので、それが正に、彼のルソー的な自己解剖、自己暴露を許す事になった。そして、そこに読者は、一つの「誠実」を見出す事になる。一人の人間をあますところなく、どこまでも分解する事ができるのは、作家だけだ。作家以外に、これができる者はいない。だから、太宰の性格が現実的にはわるかろうとなんだろうとーーーとにもかくにも、彼は誰よりも「作家」であった。彼自身、その事を強く意識していた。吉本隆明が確か、「芸術とは太宰にとって倫理だった」と語っていた。では、僕は同じ事を別の言葉で言おう。「太宰にとって芸術とは彼の宗教だった」。そして、絶対的な答えを出してくれる宗教というものは、一つの袋小路でもある。それは絶対的に高められ、聖化された一つの価値なのだが、同時に現実から孤立した一つの洞穴でもある。彼はここで孤立した。彼の生活は現実と切り離されていった。・・・ここの事情は小林秀雄と全く同じである。小林が社会をえぐる視点は鋭いが、それはあくまでも「芸術的」なのである。彼は、もはや芸術の神なのか?・・・答えはイエスだ。だが、それゆえにこの神は現実に殺される。何故なら、芸術というのは時代の波間に浮かぶ、一つの空白、エアポケットのようなものだからである。だからこそ、小林は社会に取り残された。いや、その事を自身に許した。小林秀雄が戦後、社会の時流に対してそっぽを向いた点で、太宰は自死したのである。そして中原中也に病死が訪れたのは幸いだった。だが、とにもかくにも三者三様の道を選んだ。それは正に、その当時の芸術というものの運命を語っていた。社会は彼らに勝利したか。ーーー然り。だが、社会が彼らに勝てたのは、この三者がその前にすでに芸術という領域において、勝利を収めていたからなのだ。
 話を元に戻そう。
 太宰の自己解剖は徹底を極めている。太宰は読者に全てをさらけ出す。そして、読者もそれを受け入れる。そこには、両者が手を出し、魂と魂でしっかりとつながれた絆があるーーーように見える。だが、ここに一つの嘘があるのだ。それこそが、作家の嘘なのだが、太宰は、その自己解剖の力によって、この嘘さえも暴こうとした。・・・つまり、こういう事だ。「自分はいつも真実を書こうと心がけている。だが、現実に書いているのは嘘ばかり。自分は、その事も、君達に伝えておこうと思う」。つまり、それが先に上げた『恥』の短編の意味だ。太宰の真実暴露、真実への希求は自身の存在を嘘だと言い切る所まで進んでいった。そうでなければ、あんな作品を書く理由はない。彼は、大雑把に言って、自身を他者に託したかったのだ。自身を、魂の底から打ち明ける読者が欲しかった。それで、そのような読者を自身の中に造り上げた。そして、彼はこの心の中の理想の読者に向かってひたすら語りかけた。「ねえ、君、聞いてくれ・・・」。太宰の話は続く。だが、そこに本物の、現実の読者はいなかった。・・・この理想の読者というのは、実は存在しないのである。そんな理想的な、自分が魂の内から語りかける事のできる読者など、世界のどこにもいない。だが、太宰はそれを造った。彼は作品を作る過程でそれを造ったのだ。その結果、どうなったか?・・・。読者は様々な思いをこの作家に投影する事が可能になった。太宰の読者は、自分の欲望や理想を様々に太宰に投げつけて満足する事ができるのだが、それは何故かといえば、先に太宰が全てを包含した読者を自身の内に想定していたからである。「ねえ、君ーーー」と、彼は語りかける。だが、この「君」とは何か。誰か。それは僕なのか。あなたなのか。太宰愛読者の、あなたや僕なのか。・・・違う。それは、無限遠点の向こうにある、理想的な一点である。そして、その点に向かう過程で、あなたや僕が、自分を投影できる一つのラインが描かれるのだ。太宰の、その作品の内側では。
 太宰とは正にそういう作家だった、と僕は思う。彼はあらゆる作品をバラバラに切り裂かずにはおられない性格だった。この点も、実に小林秀雄に似ている。だが、バラバラに切り裂くという行為が小説になる事を発見したのが太宰であり、また同じ事を裏側から批評にしたのが、小林秀雄だった。小林秀雄の批評が次第に、小説的になっていった事はおそらく、誰もが認める事だろう。小林の「当麻」という作品の自分自身のフィクション化を思えば、それは間違いないだろう。小林秀雄はもはや、何かを思ったり、考えたりしているのではない。彼は、何かについて思いを巡らしている自分を思うためだけに、何かを思っているのだ。当麻ーーー能など、彼にとってどうでもよかったのかもしれない。能のある場面が彼に響く、そして星が輝き、月は照りーーーそして、全ては残響として、小林の体内に響く。すると、その響きは音となり、歌となる。小林はここで小説家になる。彼は歌う。彼は自身を、自分自身を歌う。だが、彼はまたそこから、元の「思い」に戻っていく。何故なら、彼は批評家だからである。これが小林秀雄の節度だった。ここに太宰的な問題がないと誰が言えるだろうか。
 太宰も小林も、その生涯を自己解剖に託した人だった。何故、太宰も小林も、自己解剖の内にしか、文学を発見できなかったのだろうか。それには時代的な問題もあるだろう。・・・例えば、私小説というのは自らをフィクション化していく一つの物語であり、物語を作る為に自分を物語たらしめるという倒錯的な方法論である。だから、これは通常言われているような、『自分を描く行為』ではない。そもそも、自分を描くとは何か。自分の今日した事を時系列順に書いてみると、その空虚さにぞっとするだろう。では、自分を描ける作家とは何かーーー。それは、物語を先に作っておいた作家である。その物語の中に自ら入り込んでいった作家である。
 こうした自己解剖型の、おそらくはジッドやヴァレリーのような、近代文学の最後に位置するような、爛熟型の作家、批評家がこの国でもでてきたのは、当然、そうした歴史の波があったからだろう。小林や太宰の前には漱石や鴎外などがいた。漱石や鴎外は何もない土壌に対して、一から文学を作る努力をした人達だが、小林や太宰の前には、文学はすでに成立済みのものとして現れていた。よって、彼らは、これを粉々に切り裂き、そしてばらばらにしてしまう、それを粉砕する事を自分達の義務とした。・・・逆に言うなら、そこには破壊できるだけのなにものかが、それこそ『日本近代文学』が存在したのである。それ以前には、破壊すべきものすらこの国には見当たらなかったのに。
 だが、そうした作家や批評家が時代によって、打ち倒されたという事を私達は考えなければならない。彼らは時流の波に抵抗しようとはしなかった。戦争という巨大な現実に対して、彼らはどう反応すればよいか、事実、分からなかったように僕には思える。彼らは、芸術というのは、戦争という巨大な現実とは別個に存在しているように感じられたのかもしれない。死地においても、一輪の花を必死に握りしめているーーーそんな心境だったのかもしれない。芸術とは何か、文学とは何か、その問題は、時代と社会の現実の変遷との関係において、今もまだ続いている。そして、これを見ずに、「芸術は永遠なり」とか、「クラシック音楽と近代文学があれば十分」「芸術的天才は過去の中にだけある」と、考えている人間は、みんな馬鹿馬鹿しい思考にとらわれているように僕には思える。作家はーーー例えば、太宰治のようにーーー、時代との闘争に負けるかもしれない。そこでは社会に一度打ち勝ったとしても、やがてその社会に復讐されるかもしれない。だが、芸術作品が優れた芸術作品たりえるのは、常にその時代との闘争によってのみである。先にはっきりした事を言ってしまえば、「文学」などという確固とした、塔のようにそびえるものはどこにも存在しない。僕達には巌のように固定的に見える夏目漱石は何よりも流動的で闘争的な存在である。人々が文学について語る時、その時、人々の元に文学はない。そして、自身が文学になろうとする時、その化身たろうとする時、悲劇が起こる。ここに、太宰と小林の問題がある。
 だが、僕は他人にあまりに多くのものを求めすぎているのかもしれない。・・・おそらくは、そうだろう。太宰も小林も偉大な人である。そこでは、芸術という形式が極限まで煮詰められている。はっきり言うと、太宰以降に太宰を越えた作家は一人もいなかったし、小林以降に小林を越えた批評家もいなかった。それは才能云々の問題ではなく、結局、文学とか、批評とかいう、そういう物の見方が、彼らが造り上げたものの延長線上にあるからである。そこではもう十分すぎるほどの自己解剖が行われていた。これ以上、書く事があろうかーーー。あるいは、文学などというものは存在するのだろうか。
 それらの問いに対する答えは、僕達の世代が満身の力で答え無くてはならないのだろう。そして、その時の、一番厄介な問題点は先人に対する過剰なへりくだりである。大学の研究者にある如く、過去の賢者にへりくだる事によって、自分の地位を高めようとしてはいけない。むしろ、僕達は自分達の卑小さをはっきりと認める事からはじめなければならない。その情けなさ、その弱さについて。そして、それこそが正に過去に、太宰治や小林秀雄のような人が始めにやった事のように思われる。


雪の中で思ったこと

雪の中で思ったこと



私達の生活はいつからか映像化され

その細部の細部まで

いつの間にか、演劇的なものになっている

私達は日夜、自分と他人に

「そのような見かけ」を与える為に奮闘し

そうして、毎日拙劣な演技をしている

旦那に対する演技 恋人に対する演技 友人に対する演技

同僚に対する演技 ライバルに対する演技

様々な演技があるが、演技は演技である事に関わりはない

そして様々な欲望という名の「本音」は

ネットなどで、ルサンチマン的に吐き出されるのみ

・・・私は今、空虚を思う

この雪が降っている一つの演劇的現実の中で

私はこの雪そっくりの真っ白な

一つの空虚を自分の中に感じる

しかし、それを感じる事が

空虚をただ一人感じる事が

私にとっての「充実」なのだろうか

・・・答えは出ないままに

やがて雪は音もなく

止んだ


どうして





『時』が『時間』になるまで

僕達は一体、いくら待てばいいのか

僕の言葉を解釈したとして

その解釈にも言葉そのものにも

多分、何一つ確かな意味は含まれていないのだろう

もし、今、世界が存在していなければ

この僕はここに存在しているはずだ

もし、人々が何かであるのなら

僕とは多分、亡霊であるにすぎない

『時』が『時間』になるまで

一体、どれだけ待てば良いのか

今、川の上を一人の老婆が

小舟に乗ってゆっくりと流れていく

その老婆が身につけていたピンクの下着は

僕が三年前に駅で嘔吐した時に見たそれと

全く同じものだった

『死』が訪れる前に

僕は死ぬだろう

その時、君は僕の目を覗きこんで

次のように言うだろう

「どうして、あなたはそんなに生きたいの?」

昨日見た雪の事など




昨日の二月八日に

関東では大雪が降りました

そのせいで、僕のバイトは休みになったのですが

店長が僕に連絡くれなかったんで

僕は雪の中を歩いて

店まで行きました

店に行ったら店長がいて

「今日はもう休みだ 帰りなさい」と言いました

それで、僕は大人しく帰りました

耳にヘッドフォンを付けて

そこから大音量で

バッハのミサなどを流しながら



       ※

それが昨日あった出来事の全てでした

多分、そうした事はこの

偉大なる人類の歴史にとっては

どうでもいい事なのだと

思います

僕は今、みなさんが大事そうに喋っている事

それらが多分、人々にとっても僕にとっても

とても大切だという事

その事を心から認めます

でも、その

昨日にあった事

僕の身に昨日にあった事

二千十四年の二月八日に

二十代後半のフリーターの身に起こった実に些細なくだらない

どうでもいい事

・・・僕はそれを信じたいのです

多分、この世が潰れたって

昨日、僕が見た雪の白さは

この目の内に残り続けるだろうって事

どうしてだかわからないけれど

僕はそんなくだらない事を

この世界の重大事と取り替えて

それで、今こうやって生きているんです

もちろん、本当に全てが

実にくだらない事なんですが

それでも、僕はそういうものを

信じています

小学校上がりたての子供でも

そういう僕を知ったら

つい、大爆笑してしまう

それぐらい僕は馬鹿なんですが

それでも、僕はそういう事を何故か

信じてしまうんです

・・・多分、僕が馬鹿だから

それが理由なんだと思います

そして、今、これを書いている時に

雪は

さらさらと水に溶けていっています

陽を受けて


詩に何を書こうか




久しぶりに田村隆一詩集を開いて

そこにある言葉を一つ一つ拾ってみる

「文学」なんて名がついて

「詩」というジャンルに分類されて

まるでそんな事を笑うかのように

ただの酒飲み老人の日記であるかのように

そこには沢山の詩が綴られている

おそらく、詩とは本来

このようなものであるべきなのだろう だが

僕達には描くべき生活がなく しかも

社会システムによって生産された喜びしか味わえないとすれば

一体、何を詩に書けばいいのか

答えーーーー「何もない事

書くべき事など何一つないという事

それと今気付いた

左の手の平にできていた『イボ』について」

芸術作品の擬人化




ピアノを聴いていても

音が聴こえない

彼らはいつも

手ばかりを見ているから

中世の名画を見ても

色彩が見えていない

彼らはその画家の

エピソードばかり読んでいるから

小説家の楽屋話や

芸術家につきものの愛人の話など

あるいは〇〇賞が取れたかどうか

誰々に褒められたとか、そうでないとか

そんな事ばかりが言われ

そうして作品はいつも

多勢に囲まれていながらも

一人ぼっちだ

それでもその作品はやがて

彼自身を理解できる誰かを見つけに

どこかへと歩いて行くだろう

作品自ら足を生やして

真の鑑賞者に出会う為に

詩を書く動機



今日のニュースでは

メロスが徒歩だった事が証明され

著名な作曲家がゴーストライターを使っていた事 そして

フィギュアスケートで我が国がトップに躍り出た事などが

分かりました



今日のテレビでは

お笑い芸人が意外な事実を告白したり

ニュースキャスターが外国の事件を深刻そうに説明したり また

とあるタレントが渋谷のレストランを紹介など

したりしていました



今日のインターネットでは

我が国と敵対しているとされる国に対する批判や

アニメを切り貼りした動画が一杯投稿されたり

様々な罵詈雑言が沢山書かれたり

しました



で、今日の僕ですが

何にもしませんでした

今日の僕はただ

それらのニュースをパソコンの画面上で

見つめているだけでした

本当にただ、それだけの事でした

・・・それで僕は今

自分の中に言い様のない空虚を感じたので

それでこの詩を

書く事にしたんです

『私』と『あなた』




私が死ぬ時

あなたは側にいない

あなたが死ぬ時

私は側にいない


あなたが一人の時

私は大勢の仲間と

実に楽しそうにしているかもしれない

そして私が一人の時

あなたは別の誰かと

実に嬉しそうに

仲睦まじくしているかもしれない


それなのに、私達は

この詩という場所で

今日も語り合う

人間という無名性を振り捨て

『私』と『あなた』という

神から与えられた

もう一つの名の下で

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